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「上の人間のやることってな、どーも胸糞悪くて仕方ねえ」
居酒屋として開放された、宿屋の一階。その隅で、ジェリオは頬杖を突いたまま『アグネイヤ』に関する報告書に目を通していた。アルメニア第二皇女にして皇太子。真っ先に受け取ったのはその情報だった。だから、
『おいおい、いくらなんでも王宮にもぐりこんでの殺しは無理だぜ?』
彼は即座に断ったのである。
この時代。後に知られているほど王宮の中も治安がよいとはいえなかった。日々、貴族同士の殺し合いが行われており、暗殺なども日常茶飯事である。宮廷内に手引きするものがあれば驚くほど簡単に忍び込むこともでき、目的を果たした後は。
自分も殺される。
その可能性が高いのだ。ゆえに、ジェリオは邸内での殺害を嫌った。
それよりも何よりも。気に入らないのは。
『それに、こいつ女だろ? 俺は、女子供は殺さない主義なんだ』
この仕事――殺人請負、殺し屋、暗殺者。そう呼ばれる仕事に手を染めてから、自慢ではないがただの一度も婦女子を殺したことはなかった。自分よりも弱いもの、力の劣るもの。そんなものに対して刃を向けるほどやわではない。仲間のうちでは、金になりさえすれば、どんな殺しでもやるものもいたが。あいにく彼にはかたくなに守る信条があったのだ。
それをあえて曲げてまで、アグネイヤの暗殺を引き受けたのは。
『彼女は、エルディン・ロウを殺した』
依頼者の、その一言であった。
エルディン・ロウ。言わずと知れた、大陸中にその名を馳せた暗殺集団である。そのうちの一人でも返り討ちにしたものはいないとすら言われている。それを、まだ十五の少女があっさりと成し遂げたのだ。それを知った瞬間、ジェリオの血が騒いだ。
『やる。引き受ける。その代わり、情報は全部よこせよ?』
報酬として提示された額は、生涯遊んで暮らせるほどの金額であった。それに加えて、依頼人は彼に許せる範囲内の情報を与えた。アグネイヤの容姿、特徴。隠れ家となりうる場所。逃走方法。そして、剣の腕。
対峙してよくわかった。依頼人の情報は、はったりではない。
女と侮ったのが間違っていた。剣を交わしたときのあの気迫。あれは、女ではない。子供でもない。魔物だ。伝説に聞く、血を求めるバケモノだ。美しい女性の姿を借り、男性の生き血を求める吸血鬼だ。
夕べは、幸い彼女が泥酔しているのをよいことに殺す前に体を奪おうと思ったのだが。
(ゲロかよ)
ジェリオは、知らず頭を抱えた。強烈なにおいが、まだ鼻の奥に残っているようだ。
(ありゃ、萎えるぜ。本気で)
高まっていた欲望は、一瞬で失せた。嘔吐を続けるアグネイヤの背をさすり、落ち着いたころあいを見計らって、体を拭いて着替えさせ。寝台に寝かせた。いったい何をやっているのだろうと自分で自分を情けなく思いながら。介抱を続けるジェリオに、アグネイヤは微かな笑みを向けた。
『ありがとう』
そう、唇が動いたのかもしれない。彼女は、しっかりとジェリオの手を握ったまま。眠りに落ちた。
それから、半日が過ぎようとしている。
「おー、ジェリオ。夕べはどうだった? お楽しみか?」
扉が勢いよく開き、オルセとその腰巾着が入店した。ジェリオはさりげなく書類を折りたたむと、懐にしまう。そのまま何食わぬ顔で、昔の仲間を見上げた。
「お嬢ちゃんはお疲れで、まだお休みか? 相変わらずだな」
オルセはジェリオの前に腰を下ろし、店主に向かって注文を叫ぶ。
「お前が戻ってきてくれて、ありがたいよ。いい仕事があるんだ。組まねえか?」
そんなことだろうと思った。ジェリオはあっさりとそれを断り、席を立つ。そんなちゃちな仕事。もう引き受けることもない。自分は、手に入れたのだ。立派な金づるを。
冷たいと彼をなじるオルセの声を背に受けながら。ジェリオは階段を上った。
この上には、彼の未来を左右する、黄金の卵が眠っているのだ。
アルメニア皇太子という名の、黄金の卵が。
◆
あれは、いつのことだったろうか。
まだ彼女が幼い頃。まだ、正式にアグネイヤを名乗っていなかった頃のことだ。
幼い双子は、ともにアグネイヤであり、また、アグネイヤではなかった。
それぞれに、与えられた幼名を呼び、呼ばれながら。過酷なる未来に立ち向かうべく、あらゆる試練を共に越えていこうと誓い合っていたのだ。
――遠乗りに、行きたい。
言い出したのは、片翼のほうだったのか。自分であったのかは覚えていない。
ただ、ふたりで授業を抜けることは憚られるからどちらかが残ろうと言い出したのは自分だった。片翼はそれを快諾し、じゃあ、賭けをしましょうということになって。剣の模擬稽古を始めたのである。無論、勝ったほうが遠乗りに出る権利を得る。ふたりはムキになって、剣を打ち合わせた。結果、かろうじて勝利を得たのがアグネイヤのほうであった。
――ごめんね。
常は片翼のほうが強いはずなのに。なぜかこういうときだけ、勝ってしまう自分が情けなくも恥ずかしかった。あなたは、賭けの対象ができると強くなる――賭博師の才があるのだと、片翼は笑っていた。
アグネイヤは片翼の馬を駆り、草原へとひとり出向いた。
片翼は、おとなしく彼女の分まで授業を受けることになった。そのときの科目は、確か古典ではなかったか。幾度も聞かされた、大陸の歴史。帝王学を学ぶものにとって、必須の項目。より皇帝に相応しいといわれている片翼のほうが、その授業を受けるに値すると彼女は漠然と考えていたのだが。
遠乗りから戻った彼女を待っていたのは、恐ろしい事件であった。
――どちらにいらしていたのです。
烈火のごとく怒る女官長と、その背後に無言で佇む母。母は声こそ荒げなかったが、噂に聞くフィラティノアの白銀の貴婦人の如く凍てつく瞳を娘に向けて。
――姫が、刺客に討たれました。
淡々と事実だけを告げた。
それは、日常起こり得る悲劇であった。彼女も片翼も、その覚悟は常にしていた。隣国フィラティノアは、妃として貰い受ける皇女のほかに、アルメニア正妃の子がいては困るのだ。ゆえに、常に双子を狙っている。花嫁となるべきひとりを生かし、次期皇帝となるべき今ひとりの命を奪うために。そして、――刺客は過たず片翼を狙った。
――そんな。
蒼白となった彼女は、片翼の寝室へと向かった。天蓋のしたに眠る片翼の顔は、彼女より更に蒼白で。その魂は既にここにないと、そう確信させる何かがあった。彼女はよろめきながら片翼の元に近づき、側にいなかった己の愚を嘆いた。
――馬鹿ね。
そんな声を聞いたのは、気の迷いだったのか。びくりと顔を上げれば、生気を失った古代紫の瞳が、こちらを見つめていた。
――あなたのせいじゃ、ないもの。
それは、必死に搾り出した声なのだろう。
彼女はこみ上げてくる涙を堪えて、力なく差し伸べられた片翼の手をしっかりと握り締めた。
(強くなりたい)
それだけが、その日彼女の心に焼きついた思いだった。
◆
夢を見ていたのかもしれない。だが、どんな夢を見ていたのか――思い出すことができなかった。
ただ、とても悲しくて。開こうとした瞼が、濡れていたから。いい夢ではなかったろう。
昔の、夢だったのだろう。
アグネイヤは、ゆっくりとこうべをめぐらせた。薄汚れた天井、シミのついた壁。破れかけた窓。ぼろ布のような帳。そして、誰かの体臭がしみ込んだ布団。微かに異臭がするのは、夕べの彼女の吐瀉物がまだどこかに付着しているせいだろう。彼女は二日酔いに痛む頭を支えるようにして、ゆっくりと半身を起こした。
窓越しに、日差しがまぶしい。彼女は目を細め、己の姿を見下ろした。
いつの間にか、服が着せられている。誰かの、それも男性の古着だ。袖も胴回りもだぶだぶで、その分楽ではあったがどうも落ち着かない。落ち着かないのは、下着をつけていないせいもあって。
アグネイヤは、夕べの行為を思い出した。
確か、犯されてはいないと思ったが。
ジェリオ、という名の刺客。彼の愛撫を思い出すと体の奥が疼いた。ぞくっと肩を震わせ、彼女は己を抱きしめる。あのような思いは初めてだった。恐怖と快楽に彩られた時間。
(冗談じゃない)
彼女は辺りを見回し、愛剣を探した。それは、枕元においてあり彼女はほっと胸をなでおろしながら手に取った。これさえあれば。誰も自分を傷つけられない。
あの、ケダモノのような刺客でさえ。
「おっと。起きてたのか」
乱暴に扉を足で開けた青年は、残念そうに舌を打つ。おおかた、まだ眠っているようならよからぬことをしようと思っていたのだろう。そんな下心が見え見えな表情である。アグネイヤは短剣をいつでも抜けるように。逆手に構えていた。
「そう怖い顔すんなって、皇女さん。夕べのゲロでそんな気は吹っ飛んじまったよ。思いっきり萎えさせてくれたよな」
「!」
言葉にアグネイヤは赤面した。そうだ。あのあと、彼にすべての後始末をさせてしまったのだ。
「ほんと、すげーゲロ。俺までもらいそうになっちまってさ。勘弁してくれっていいたいね」
まだ、鼻に匂いがついている、と。ジェリオは軽く咳き込みながらいやみを言った。
アグネイヤは、はじめこそ黙ってその言葉を受け入れていたものの。あまりにもしつこく彼が繰り返すのでついに堪忍袋の緒が切れた。手近にあった枕を引っつかみ、彼に投げつける。彼はそれを器用によけて、さらには続けて飛んできた水差しもよけた。がちゃんと陶器の割れる音が室内に響く。アグネイヤは、掛け布の端を力一杯つかんで彼を怒鳴りつけた。
「ゲロゲロうるさい! カエルか、お前は!」
「さんざん世話んなっといて、なんつー言い草だ? これだから、まったくお貴族様ってぇな。いい性格してるよな」
呆れた、といわんばかりの表情をつくってジェリオは肩をすくめる。そのまま、ゆっくりとアグネイヤに近づいてきた。彼女は心持ち身をそらす。彼が動けばすぐにでも応戦できるように、鞘に手をかけた。
それでも。
今、ここで襲われれば、確実に彼女の純潔は奪われるだろう。
アグネイヤには、もう彼を御す力は残されていなかった。
「そう、構えんなよ。皇女様。別に、とって食おうとはおもわねえ。ゲロられたから、やる気もおきねーしな」
台詞に、アグネイヤはまた肩を怒らせた。この男、どこまでおちょくれば気が済むのだ。過ぎたことをネチネチと、と彼女が鋭くにらみつけると。
「にらんだ顔も魅力的よ。皇女さん。ゲロさえ吐かなければね」
「ジェリオ!」
ばん、と寝台を両手でたたく。すると、ジェリオは面白そうに口元をゆがめた。
「おや、俺の名前。知ってたのか。光栄だよ、皇女さん。ほんじゃ、話が早いわ」
彼は寝台の傍らに立ち止まり、身をかがめてアグネイヤの顔を覗き込んだ。
「取引しねえか? 俺と。悪い話じゃないと思うけどな」
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