他人の問題意識にフリーライドしない
私の勤務先はデザイン・工学部で「デザイン思考」みたいな考え方を学びます。そして学部生が授業の一環で「あなたのニーズとか今抱えてる問題を教えてくれ」のようなメールを送ってきます。対応できる部分はしますが、正直なところ困惑もしています。下記はそのようなことに対する私の意見です。デザイン思考に対する意見ではなく、どう課題を見つけるかということに対する意見です。
私はコンサルのようなポジションの取り方には相容れないと感じるのですが、それは「自分の問題意識を持つ」という難しい部分から目をそらして、他人の問題・問題意識にフリーライドしているからです。「私はこれに興味がある」「これが問題だと思う」と宣言するのはとても難しいことです。自分の問題意識に向き合って、それを口に出すのって恥ずかしいし勇気がいることなんですよね。「そんなことに興味があるの」と他人に批評されたり、問題意識が小さい人間だと思われるのは恥ずかしいんです。いい年齢の私もそのように感じます。だから今なら「AI に興味があるんです」とでも言っておくと楽です。勝手に社会的意義があることをやってると思ってもらえます。周りの年齢を重ねた大人を見て下さい。今まで何もそんなことをやってこなかったのに、「教育に興味がある」「人材育成に興味がある」「SDGs に興味がある」と言い出す人も多いです。それは世の中に共有された、他人に否定されづらい社会課題だからです。
自分のニーズを満たすよりも、他人のニーズを満たす方がお金が儲かるという側面もあります。これは頭のいい人ほど陥りやすい状況だと思いますが、他人が求めることを解いてあげるというポジションを取った方が心穏やかに生きられます。自分の凡庸さ、至らなさに向き合わなくても済みますし、自分の価値感を守る必要がないからです。とはいえ東大生の半分がコンサルになりたい、と考えてる社会は斜陽(ダサいおさむ)です。
実際の仕事ではこの軸の 0 か 100 かにはならないし、現実には誰もやりたくない仕事についている人も多いと思います。そういう意味で私自身、大学の研究職は恵まれている方だと思います。大学の授業、大学運営、研究室の資金調達などは組織やチームのニーズを満たす仕事で、仕事時間の 80 %は自分以外のためだと思いますが、それでも 20 %くらいは自分の興味に基づいた仕事をしていると思います。恵まれていると思います。大半の人が世の中のために 100 %の仕事時間を使っているという現実があり、だからこそ世の中が機能しています。
最近は実学に寄せていく大学教育の流れもあります。しかしながら、好む好まざるに関わらず、いずれ多くの人は社会で誰かのために仕事をするのだから、大学のトレーニングはそれとは違う価値観を提供したらいいし、そうしなければいけないと思うのです。全くリスクもない大学の授業で「他人のニーズを理解したい」というようなことに時間をかけていては、簡単に取って代わられる人材しか育たないと思います。学生のうちくらいは「自分が」「自分が」と自己中心的になって欲しいんです。人のために何かをするのが簡単なことだとは思いませんが、人のために何かをするというのは説明責任においては「易き」です。そのような「易き」に流れない頑固さを持って欲しい。若いときくらいの特権です。
そして大学教員は「自分の興味に基づいた仕事」をさせてもらっている立場だからこそ、そういった価値観を学生に伝える責任があると考えています。税金や社会リソースを配分されて、自分の興味に寄せて仕事をさせてもらってる大学教員が「マーケットのニーズを理解しよう」といったような、企業で働いている人と同じことしか言えないなら、私は職務怠慢だとすら思います。「マーケットのニーズを理解しよう」というような考え方に疑問があると私が考えているわけではなく、リソースを付けてもらってるのに価値観の差別化もできずに同じことを言ってたらいかんでしょう、という主張です。恵まれているからこその責任があると思います。
好き嫌いの問題ですが、私は拙くても自分の言葉で自分の興味・関心・問題意識を述べる人と仕事がしたいです。「お前の問題を教えてくれ」「あなたのお困りごとは何ですか」など言い方はいろいろありますが、そのような質問は非常に重い質問です。その重みをわかっていない人に、その答えが共有されることはありません。そして、私は他人の問題を解けるほど賢くはありませんが、「この人には問題を共有するに足る」と思われるようでありたい。逆説的ですが、そうなるためには他人ばかり見てたらいけないのではないでしょうか。
そういう意味で、このアカウントのトピックに戻るのですが、私は博士課程は「自分の問題を見つけて、それに取り組む」というのにふさわしい時期だと思います。卒業後には自分の能力を社会や人のために活かす機会に溢れています。ですから、博士課程の数年間くらいは、自己中心的に自分の問いについて考えてもいいですよ。数年くらいそんな時間を過ごしただけで社会に戻れなくなるほど、社会の懐は狭くないはずです。私はそういうことを大学生に伝えたいと思っています。



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