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感情が発達した人類種はどんな精神で、どんな社会を創るか?

これは「ホモ・サピエンスとは?
知的生命体とは?社会とは?」の続きだ。
https://note.com/urosetouya/n/n6aaa22027ab4

個体の性質

高度な感情とは

前回、ホモ・サピエンスについて
語ったから、次は感情が
発達した人類種について語る。
感情が発達し、感情が主体的な人類種だ。

もっとも、ホモサピが実際にそうだから、
ホモサピよりも感情が
発達した人類種について語る事になる。

知性が発達してるとは、
どういう事なのかはわかりやすいが、
感情が発達してるとは
どういう事なのかはわかりにくい。

現代人は、「あいつは頭いい」
「あいつは頭悪い」と、
知能こそが人間的価値だと重視しているが、
「あいつは感情が発達していて、
抽象的な感情を有する」だとか
「あいつは社会性と共感性が発達している」
などと、感情に注目する事は少ない。

感情が発達した人というのは、
端的に言うなら感情豊かな女性だが、
高度な感情の定義とそれが
どう結びつくかはおいおい説明する。

この節(章の下位分類)ではまず、
高度な感情について解説しよう。
小難しい話になるが、概要だけ覚えれば、
この記事の話を理解できる為、
全てを理解しようと気張る必要はなく、
流し読めばいい。

感情とは、抽象的な感覚かつ
快不快が強い物だ。快不快が弱いなら
それは単なる認識で、知性の対象であるし、
具体的ならそれは本能だ。

感情の中でも最も原始的な物は快感に喜び、
不快に不機嫌になる物で、
赤子を思い出せばわかりやすい。
その感情は、非常に抽象的だ。

電子遊戯ゲーム失敗ミスして、
電子遊戯ゲーム機を投げるみたいな、
瞬間的な不快を起こした事象を起こした物に
苛立つ事も単純な感情だが、
これも非常に抽象的。

つまり、抽象的である事だけでは
高度な感情と言えなく、
高度な感情は些か複雑だ。

結論から言うと、高度な感情とは、
より異なり、より抽象的で、
より多くの条件を満たした時に
必ず起こる様な物だ。

より異なるというのは、
より抽象化しないと同じにならないという事。

いくつかの感情を比較して、語ろう。
自分の赤子と他人の赤子を可愛いと思う事、
自分の赤子と猫を可愛いと思う事、
自分の赤子と老人を可愛いと思う事。

まず、自分の赤子と他人の赤子をどちらも
可愛いと感じるのは、その2つが同じ、
「種」かつ「成長段階」だから。
同じ「人間」かつ「赤子」だから。

次に、自分の赤子と猫を
どちらも可愛いと感じるのは、
その2つが同じ、
「網」かつ「顔」だから。
同じ、「哺乳網(類)」かつ
「目が大きく鼻が小さく丸い顔」だから。

「人間」と「赤子」は具体的で、
人間と赤子は抽象化の軸が近い。

「哺乳網」と
「目が大きく鼻が小さく丸い顔」
は先の2つより抽象的で、
抽象化の軸もより異なる。

「赤子」という条件よりも、
「目が大きく鼻が小さく丸い顔」の方が
当てはまる物は多いし、
「人間」は「哺乳網」に属する。

「人間」と「赤子」は関連性が深く、
「人間」について語る時に、
「人間の赤子」は想起されやすいが、
「哺乳網」について語る時に、
「目が大きく鼻が小さく丸い顔の哺乳網」を
想起する事は少ない。

少し強引だが、「人間と言えば赤子」と
「哺乳網と言えば、目が大きく鼻が...」は
どちらの方が違和感が大きいか?
後者だろう?

抽象化の軸がより異なるというのは
そういう事だ。

だから、自分の赤子と他人の赤子を
どちらも可愛いと感じる事よりも
人間の赤子と猫を
どちらも可愛いと感じる事の方が
高度と言える。

そして、赤子と老人は、
同じ「種」かつ「挙動」。
同じ「人間」かつ「弱々しい挙動」。
「哺乳網」に比べると
「人間」は具体的だが、
「挙動」は「特定の顔の形」や
「成長段階」に比べれば、
かなり抽象的であるし、
人間と挙動の関連性は低い。

弱々しい挙動なら、光が弱々しくて、
点いたり消えたりする懐中電灯だって、
そうなのだから。

だから、自分の赤子と他人の赤子を
どちらも可愛いと感じる事よりも、
人間の赤子と猫を
どちらも可愛いと感じる事よりも、
人間の赤子と老人を
どちらも可愛いと感じる方が高度な感情だ。

実際、爺さん婆さんのヨボヨボさに
可愛さを感じる女はいれど、
男は中々そう感じない。

高度な感情は抽象的な共通性で生じるが、
不快な現象全てに不機嫌になる様な、
むやみやたらな抽象化の同一視ではなく、
複数の異なる抽象的な条件,共通性を
満たした物に対して起こる。

具体的な条件で絞り込むのではなく、
複数の条件で、より異なる条件で
絞り込むのが高度な感情だ。

その複数の条件が、似ていて、
片方の条件に当てはまれば、
もう片方も高確率で
当てはまる様な場合は
高度な感情にならない。

高度な感情を引き起こす複数の条件は
互いの相関が弱く、低度な感情だと強いのだ。

また、具体的な感覚は本能だと言ったが、
抽象的でも、低度な感情は本能だ。
本能と感情は連続的であり、
感情の高度さを極限まで下げると、
食欲などの本能に行きつく。

そして、ある対象に対して、
全く異なる複数の軸で抽象化し、
複数の条件を満たしているかを
確認するという処理には、
ある程度の知性を必要とする。
チンパンジーは老人や
マカロンを可愛いとは思わない。

また、十分な知能があるからと言って、
高度な感情があるとは限らない。
数学者はマカロンを見て、
「可愛いー」などと言ったりしないし、
それが「可愛い」という感情を刺激する物だと
理解するのに女よりも苦労する。

高度な感情を感じ取る認知機能とは、
単なる知性ではなく、特化した機能であり、
ある高度な感情を刺激する物を
そうだと認知する能力は知性その物ではない。

感情が発達しているとは

前節で、高度な感情について語ったが、
感情が発達した人格とは、単に高度な感情を
有しているというだけの意味ではない。
だから、この節では、
感情が発達した人格の要素を他にも語る。

まず、異性の感情を有している方が
感情が発達してる。

感情が発達している人とは、
ある1つの物事に、
よりたくさんの感情を感じ、
ある1つの判断を、たくさんの快の感情と
たくさんの不快の感情を比較してする。

たくさん感じた上で判断するから
より合理的な行動ができる。
感情が発達する生物学的目的はそれだ。

異性の感情という対立する感情を
有する事で、 精神はより複雑に現象する。

感情が多い事も重要だが、
対立する感情がないと、
感情の意義の1つである比較が
できないから発達していると言えない。

「辛いからしない」よりも
「辛い、でも頑張ると決めたからする」と
思う方が感情が発達しているし、
「辛い、でも頑張ると決めたからする。
だけど、辛いという現実は確かにあるから、
無理をせずに適度な休憩をする」
の方が更に感情が発達しているし、
対立する感情によって、
好き嫌いや動機付けなどで、
「でも」を繰り返す方が高度な心の働きだ。

「男なのに可愛い男の娘」だとか
「好きなのにツンツンするツンデレ」だとか、
高度な感情は「でも」や「なのに」など
対立する感情の両立によく現れる。

高度な感情を持つ事で、
感情の種類や感情の適用範囲を増やせば、
より感情が発達していると言えるが、
異性の感情を持つ事でも感情の種類は増え、
これも、より感情が発達していると言える。

また、感情は高度さとは別の軸で、
2種類に分けられて、
それは自己的感情と社会的感情。
自分や自分に起きた事への感情と、
他者や他者に起きた事への感情。

男性的感情とは自己的感情で、
女性的感情は社会的感情だが、
社会的感情は自己的感情という我欲エゴ
抑制し、制御する役割があり、
自己的感情は、社会的感情を
抑制する役割がある。

社会的感情が相対的に弱い故に、
我欲エゴで他者を害する個体も、
自己的感情が弱い故に、
はっきりと自分の意思を通せず、
他者に利用され続け、
不健全な博愛や奉仕に陥る個体も、
感情が発達しているとは言えない。

だから、男性的感情と女性的感情の
両方を持ってる個体が、
感情が発達していると言える。

感情が発達した人とは、感情豊かな女性だ。
感情豊かで面白い女性は、
茶目っ気があったり、負けたら悔しがったり、
男性的な感情を有し、両性の感情を有する。

マカロンを可愛いと感じたり、
男性には理解できない様な、
女性社会の、陰湿な感情に依る行為や、
倒錯恋愛気質メンヘラな恋愛感情などの、
女性的な高度な感情を持っているだけの女性は、
いかに高度な感情を持っていようと、
感情豊かとは呼ばない。

感情豊かとは異性の感情を有している事に
加えて高度な感情を有している事を言うのだ。
感情豊かというのは概ね、
感情が発達している事と同義である。

また、自己的感情は対象の範囲が狭く、
社会的感情は対象の範囲が広い為、
社会的感情の方が高度化しやすい。

自分の赤子だけを可愛いと思う人より、
他人の赤子や猫や老人やマカロンを
可愛いと思う人の方が、
可愛いという感情の反応が多くなる様に、
感情が高度化すると、肥大化する。

感情はどれだけ起こるかでその量を語れ、
社会的感情で外部に多く反応する個体は、
感情のうち社会的感情が多いと言える。

そして、動物は最初、自己的感情があり、
自己的感情を高度化する形で、
社会的感情が生まれた。

だから、感情が高度な個体は
社会的感情が主体となり、
自己的感情はあくまでサブになる。

感情が発達した個体は女性的感情を主とし、
男性的感情はサブとしてある。

そして、次の、感情が発達した人格の要素は、
正の感情が主で、負の感情は
補助程度にある事が挙げられる。
つまり、肯定受容的ポジティブ

加速機アクセルの何倍も強い減速機ブレーキはいらなく、
せいぜい、速度を落とす事で
運動変向カーブができればよく、
減速機ブレーキ加速機アクセルより弱くていい。

車は止まるが、
人は死ぬまで止まる必要がない。
生き方を変える事は運動変向カーブで、
止まる事は生きる事をやめる事だから。

感情豊かで面白い女性はで
病み気質な女性を指した言葉ではないだろう?

否定拒絶的ネガティブな事は生物学的に不合理で、
それは「発達している」とは言えない。

また、理性がないと、
感情によって不合理な行動を取るから、
感情が発達した精神の条件には、
感情を制御する為の理性や
知的誠実さなどの感情を
持ってる事も挙げられる。

感情豊かな女性は欺瞞的でなく、
特定の政治,社会の思想で狂う事はなく、
良識的で共感性が高い。

考えが違くても、
「うん。そっか。確かにそうだよね。
でも、」と良識さや共感性を持って、
相手に接する事ができるのが、
感情豊かな女性であり、
その様な良識さや中立さは理性であり、
何かに狂う事はない。

綺麗事や感情理性浸食状態ヒステリックな事を言って、
理性が足りてない人と言うのは性格が悪く、
理性的であろうとする感情が足りていない、
欺瞞的であってもいいと思う醜い感情を持つ。

また、理性の欠如で狂った人は、
自分の思想を押し付けて、激情的になって、
騒ぐ物で、穏やかさに欠けるが、
それは自己的感情の強さ、
社会的感情の弱さに起因し、
感情が発達していない事がわかる。

女性至上主義者ツイフェミにしろ、左翼などの
狂った人は性格が悪くて、精神的に醜悪で、
他者や社会の為よりも、
自分の為を思っている事は明白だろう?

理性とは、単に知性主体な事を
指すのではなく、
理性的であろうとする社会的感情も
指していて、感情が低度な場合は
後者が欠落している。

肯定受容的ポジティブだとか、理性があるだとか、
感情が発達してる精神という
単純な条件について話をしてるのに、
雑多に条件を付け加えて、
単なる優れた精神について
語ってる様に見えるだろうが、
ここで言う、感情が発達した精神とは、
感情の主体性や感情の高度さが
生物学的な合理性に与している事を
条件にしていて、感情自体が高度で、
感情が主体であっても、それが生物学的に、
不合理に働くだけの劣った個体は
感情が発達しているとは言わない。

「発達している」とは生物学的に、
合理的に変化した様や、
他よりも生物学的合理性で
優れている事を指す。

具体的には

(「広さ」「広い」「狭い」という用語を
使う為、先にその意味を説明しておく。

「Aの広さ」とは、A軸と、
A軸のそれぞれの値での存在量や存在確率や
そうである確率の軸の、範囲無限の定積分。
「手洗いをすると風邪にかからない」や
「手洗いすると風邪になっても軽症」は
どちらも本当は「手洗いすると、
症状の重さをx軸、起こりうる可能性を
y軸とした時の範囲無限の定積分の値が減る」
を言おうとしてて、上手く言えないから、
「起こりうる可能性」か「症状の程度」だけを言及してるに過ぎない。

だが、「手洗いをすると風邪の症状が
狭くなる」と言う事で、どちらも言及でき、
「広さ」や「広い」「狭い」はその様な
意味で使われる。

また、「AとBの広さ」と言った時は、
A軸とB軸と存在量や存在確率の軸からなる、
2重定積分という意味)

前節で語った、感情が発達した個体は、
具体的にどうであるかを語る。

端的に言うなら、感情が発達した個体とは、
感情豊かで男性の感情も持っている女文化人オタク
感情の営みは人間関係と文化だから、
感情が発達してるなら文化人オタクになる。

だから、感情が発達した人類種についての
解説は、感情豊かな女文化人オタク
想像して
聞けば実感的にわかる筈。

まず、社会性から語ろう。
感情が発達している個体は
社会的感情が発達し、
自己的感情よりも社会的感情が強い。
社会的感情は社会性に直結する。

とても親しく感じる人数はとても少なく、
親しく感じる人数は少なく、
少し親しく感じる人数は多いが、
人数と親密性における広さは
ダンバー数の本質だ。

それをダンバー値と呼ぶとして、
これこそが社会性であり、
チンパンジーより感情が発達したホモサピは
ダンバー値がチンパンジーより高く、
感情豊かで博愛的で、人間関係や人の
理解力に長けた女性は、一般的なホモサピより
ダンバー値が高いだろう。

感情の発達度と女性脳の度合いは
相関度が高いから、感情が発達した個体は、
女性脳の本質である共感性も高くなるし、
善性も感情の1種なので、
善性も発達している。

そして、両性の感情を有するから、
男とも女とも親しくなれるだろうし、
肯定受容的ポジティブである事も社会性の高さに繋がり、
その精神健康の高さは他人を気遣う余力になって、
自身が所属する共同体全体の精神健康を
維持する様に努める事ができる。
これは、人間としては、最大限の社会性だ。

人数と親密性における広さ、
ダンバー値は人間関係の総量とも言え、
社会性はそれを維持する能力と言える。

社会性が低い場合、
一時的に人間関係の総量が増大したとしても、
維持が困難になって、減少する。

人間関係の総量を維持する物は
社会的行動の量と質の積。

社会性が高い場合は、質が高いから、
社会的行動が少なくても、
より大きな人間関係の総量を維持できる

社会性とはより幅広く、
たくさんの人に好かれる様を指し、
博愛さに由来する面が大きい。

人間関係を構築する難易度は、
人間の相性によるが、相性と親密性の広さが、
社会性の高い人は大きい。

自分と人格が真逆で、
共通点が少ない相手にも、
話しかけられる事が社会性で、
それがないと博愛は成り立たない。

また、数は少ないが、高度な感情を有し、
それが自己的感情である場合、
それは、目的意識や自己尊厳意識プライドの強さ、
生きる意味やどう生きるべきかの
意識が強まる。これは大抵、男性で、
武士道などがそうだ。

国の為だとか、主君の為に命を捧げたり、
責任を取って自死する高潔さは、
高度な自己的感情。

高度な感情とは、赤子に感じる筈の
可愛いという感情を猫に向ける様な
倒錯した物であり、本能を超克する物だ。
だから、武士道や命をかける行いは
高度な感情と言える。

発達した感情は、
形式的な行為の増加に繋がり、
それは社会的行動でも見られ、
感情が発達した個体において、
怒りや嫉妬や悔しさなどの、
不快な、否定拒絶的ネガティブな感情や、
利己他害的な自己的感情は、
お遊びとして発露され、
実際的に発露される事は少ない。

感情が発達した個体においては、ふざけて、
遊びで、許されるとわかってて、
「ばーか」と言い、言われた側は、
本気で怒ったり、悔しいと感じてる訳では
ないものの、相手に向かって、
怒りや悔しさの感情表現をする。

この様な、形式的な、感情だけの交流が、
感情が発達した個体においては多い。
感情が発達した個体は社会的感情が強く、
自己的感情が弱いが、
単なる善人でしかないのは、
社会的感情しかないのは、
感情が発達した個体とは言わない。

真面目で優しく、丁寧で穏やかで、
ただただ女性的で、正直つまらない女性を
感情豊かとは言わなく、からかったり、
ふざけたり、悔しがったり、自慢したり、
そういう男性的な自己的感情も
有する女性を感情豊かと、
感情が発達していると言う。

正の感情がメインな事を、肯定受容的ポジティブな事を、
感情が発達した精神の条件に挙げたが、
それは、負の感情の欠如ではない。

感情が多様である事で、
ある事からより多くの事を感じる事で、
より良い判断を下せる事を、
感情が発達していると言い、
負の感情もある程度の強さで
存在しなくてはいけない。

だから、感情が発達した個体は、
利己他害な自己的感情や負の感情を持ち、
それを表現する事もある。
ただし、それは遊びの範囲内や
許される範囲内、人生や生活などの重要な
部分に大きな影響を及ぼさない範囲だ。

正の感情が主と言っても、
彼女らも泣いたり悩んだりする事はあり、
ただ、いつもは明るく、肯定受容的ポジティブで、
通常の環境下では、
「負の感情に囚われて鬱屈とし、
人間関係や生活に影響を及ぼす事」はない。

次に、文化面の話をする。
人間関係と文化という2つの感情の営みで、
前者しか関心がないホモサピは多いが、
これは感情が未発達であるからで、
より高度な感情の営みである文化を、
彼女らは積極的に行う筈だ。

両性の感情を有するから、
彼女らは男が見る様な漫画,映像物語アニメ
かっこいい歌も好み、男の文化人オタク
見る作品や行う電子遊戯ゲームに大きな差はない。

文化が発展すると、より高度な感情を
表現した作品が増えるが、
高度な感情はある種の抽象性が高まる為、
性別性は薄れ、より普遍的になる。

感情は自己的感情か社会的感情のどちらかで、
自己的感情は男性的で、
社会的感情は女性的であり、
性別的でない感情がなく、
感情とは性別的である為、
文化において性別の境界が薄いと言っても、
それは両性的や中性的と言うべきで、
無性的ではない。

映像物語アニメも漫画も機械歌唱ボカロ電子遊戯ゲームも、
鑑賞者やする人の性別を
大きく限定したりはせず、
BLや恋愛系の物語、性的半仮想人アイドル
性欲的エロ漫画などの単純で本能的な、
より文化的ではない作品だけが、
鑑賞者の性別を限定する。

そして、文化という両性的もしくは
中性的な営みを好む文化人オタク
両性的あるいは中性的で、
文化人オタクにおいては性差が小さい。

文化は、鑑賞する者と行う者と
創造する者の3つに分かれ、
より後者程、人口比は少なくなり、
感情が発達している程より後者を好むが、
彼女らに創作者は多くなく、
鑑賞する者と行う者が多くなるだろう。

「文化は女性的」という記事で詳しく
書いているが、行う者や特に創造する者は
男性的でもあり、創造する者の多くは男性。

漫画家にしろ、絵師にしろ、
創作者は大抵、男。創作というのは
したくてしていても、ある程度は辛く、
努力的で、男性的感情である目的意識が
ないと、それを生活のメイン
する程には至らないからだ。

女性vtuberなんかは、
感情が発達しているが、歌に力を入れたり、
電子遊戯ゲーム実況をしたりと、
行う者としての性質が強く、
ゆるく絵を描いたり、ある程度、
創作者としての側面が見えるが、
仕事になる次元レベルで絵を描いたりはしてなく、
仕事になる次元レベルなのは歌唱だ。
歌は歌えど作詞作曲をする事もほぼない。

感情が発達した個体は女文化人オタクであり、
彼女らは歌うのが好きだったり、
絵を描くのが上手かったりするが、
作品をコツコツ創って、投稿する者は少ない。
あくまで鑑賞者、せいぜいが行う者だ。

次に思想。
彼女らは感情主体であり、それは感情的という
言い方もできるが、理性があるから、
感情論に強く偏ったり、狂気的な政治,社会の
思想に取り憑かれる事はなく、
人間関係と文化を楽しむ事が本懐である為、
政治,社会にそもそも関心がない。

特に、社会性を大事にするのだから、
何を言っても誰かしらが怒る様な
政治,社会の思想界隈を避け、
言及するにしても、
中立さを強く意識するだろう。

高度な感情は最低限の知能を
必要とするから人並み以上の知能はあり、
政治,社会の思想の認識で
大きな誤りを犯す事はないだろうし、
別の話に飛ぶが、人並み以上の知能と
発達した社会的感情で人間として
そこそこ有能だから人に頼られやすい。

以上は、女を想定して書いたが、
別に、男でも感情が発達してる事はありえる。

だが、基本的に女の方が
感情は発達してるし、感情が発達してて、
感情が主体である事は女性性だから、
感情が発達した男は、
単に女っぽい男というだけで、
感情が発達した女とあまり変わらないし、
感情が発達した男については
語る必要があまりない。

感情が発達した男というか、
感情が発達した人間は両性の感情を有し、
高度な感情はある意味で抽象的で
性別の境界性が薄れる事を考えれば、
感情が発達した「男と女」は似通る。

また、感情が低度な人から見た、
感情が高度な人についても語ると、
感情が低度な人は、
彼女らの快不快を理解しにくい。

腹さえ膨れれば幸せだった、
感情が低度な昔の人は現代人の悩みを、
どうでもいい些細な事だと思うだろうし、
電子遊戯ゲームをしたり、漫画を読んでも、
腹は膨れないのに、何故そんな事を
するのかと不思議に思うだろう。

男にとって、感情が発達した女性の
する事は無意味でよくわからなく思い、
特定の異性に求愛する訳でもなく、
ただ買い物しに行くだけなのに
化粧をする意味は理解できないし、
マカロンを可愛いと言う理由がわからない。

女性配信者の多くは運系遊戯ゲーをするが、
男性配信者は運系遊戯ゲーをしない。
1/2を10回,連続で当てる電子遊戯ゲーム
喜々として配信してる女性はたくさんいるが、
男性配信者には少ないし、マンカラやUNOや
ババ抜きなどの運が強く絡む遊戯ゲーム
友人と楽しくできるのは女性に多い。
そして、それを楽しめない様な男性にとって、
それはとても無意味に感じる。

感情が高度になると、
より多くを感じ取れるから、
感情が低度な人にとって、
つまらない物にも面白味を見出せるのだ。
感情が低度であるというのは
目の悪さに似ている。

錐体を持たず、視界が白黒な人は、
花の美しさを理解できない。

身体的な特徴や発達

前回の記事で語った様に、
ホモサピの感情や社会性の発達は、
自己家畜化と幼形成熟ネテオニーで起こった。

だから、感情が発達した人類種は、
自己家畜化と幼形成熟ネテオニーがより強まる。

そして、詳しくは「防衛礼儀」という節で
語るが、ホモサピの中でも、
東アジアや日本では自己家畜化と
幼形成熟ネテオニーが強く起こっている。

だから、感情が発達した人類種の
身体的特徴を考えるのならば、
日本人と白人あたりを比較すればいい。

まず、日本人は白人よりも子供っぽい。
日本人女性が子供っぽいと言うのは
よく言われるが、日本人男性も子供っぽい。

画像

高身長で筋骨隆々で、
ゴツゴツした顔と身体を持つ白人男性と、
でかい胸とでかい尻と横幅の広い骨盤を
持つ白人女性を見れば、白人は日本人よりも、
第二次性徴が強く起こっている事がわかる。

第二次性徴は成長の1種であり、
性別性であり、それが強く
起こっているという事は、より大人らしく、
より性差が大きいという事だ。

だから、感情が発達した人類種は
日本人より更に、
男女の身長と筋骨格が似かよって、
少年少女特有の華奢さを持ち、
骨格の未発達さで子供らしい顔に、
つまり、可愛いらしい顔になる。

第二次性徴による身長の
増大である成長急激化スパート
呼ばれる現象が起こらない時、
身長の性差は1cm程で、誤差程度であり、
身長の性差は主に成長急激化スパートで生じる。

成長急激化スパートが起こる前の身長は
139cmで、成長スパートで男は31cm、
女は19cm、伸びる。

仮に、彼らは第二次性徴が弱くなっていて、
成長急激化スパートが半分しか起こらないとしたら、
男は154.5cm、
女は148.5cmになる。
この場合の身長の性比は1.040で、
ホモサピの身長の性比は1.083だ。

また、幼形成熟ネテオニーでは、第二次性徴が
弱くなる事で身長の性差が減るが、
自己家畜化では、雄が雌化する事で
身長の性差が減少する為、
成長急激化スパートの伸びる長さの違いは、
男が女に寄る事が予想される。

先の例では男は15.5cm、女は9.5cm、
身長急激化スパートで伸びたが、
その比が半分になるとしたら、
男は12.5cm、女は9.5cm、
身長急激化スパートで伸び、最終的な身長は、
男151.5cm、女148.5cmとなる。
この場合の身長の性比は1.02で、
気に留めない程度の事となり、
個人差の方が大きくなるだろう。

身長の性差は、内向的な人の方が、
外向的な人よりも
身長が低いという事実くらい、
「そう言われればそうだが、
別にどうでもいい」程度の事になる。

第二次性徴が弱くなる事で、他には、
雄の声変わりや、腋毛や髭などの発生、
筋肉の増加は微小になり、
雌の骨盤の広がりや皮下脂肪の増量、
臀部と胸部の脂肪量の増大なども微小になる。

生物だから生殖能力自体は獲得するだろうが、
生殖能力はタナー段階の初期に獲得する為、
途中で停止するだろう。

また、自己家畜化では体毛が減るので、
体毛はかなり減ると思われる。

そして、第二次性徴が弱まるなら、
第二次性徴による精神面の変化が
起こらない事と予想される。

この時、気になるのが、
第二次性徴による精神面の変化がないと、
精神的に未熟で問題のある個体に
なるのではないかという事。

精神面の変化と言うのは、
「成長であり、1度そうなれば、
死ぬか老いるまで変わらない物」
と一時的な物の2つがある。

一時的な物だと、反抗心が生まれたり、
精神的に不安定になったりで、
一時的でない物だと、親への依存心の低下、
自我や自意識の増大、人格本質アイデンティティの確立。

まず、社会性が高い人と言うのは、
特定の人に依存する事が少なく、
広い関係を持ちやすい。

親への依存心の低下が
反抗となって現れる事はあるが、
反抗が全くない人の多くは別に、
親に依存せず、大人になれているし、
親への感情は児童の頃から
変わらなかったとしても自立に問題はない。

社会性が高い人は
人に甘え、要求するよりも、
人を気遣う事が多いのだから、
その面においては最初から、
ホモサピより大人らしく、
第二次性徴で親への依頼心が低下しなくとも、
その前から十分、依頼心は低いだろう。

次に自我の増大とそれによって、
自分が何者なのか知りたい、
何になるべきか決めたいという
人格本質アイデンティティの確立を求める様になるのが
ホモサピであるが、第二次性徴が弱まって、
これが起こらなかったとしても、
特に問題はないだろう。

外向的で、自己的感情が弱く、
悩みをあまり持たない人は、
人格本質アイデンティティの確立を求めたり、
自分はどう生きるべきか、
生きる意味は何かなど考える事をしないが、
それで問題ない。

即物的で、生活主義的な合理性から労働をし、
生活をすれば、生きる上で何も問題はない。

むしろ、生きる意味だとか働く意味だとかの、
高度な自己的感情を求めると、
精神的健康を損ないやすいし、
生きる意味や働く意味を追い求めると、
より個人的なこだわりが強まるから、
協調性や社会性が低くなる。

もっとも、人格本質アイデンティティの確立を求めたり、
高度な意味を問う必要はないが、
それを彼らがしないとは限らない。

社会的感情に比べ、
自己的感情が弱いと言ったが、
感情主体で感情が高度なのだから、
ホモサピよりは、高度な自己的感情を
持ちやすい筈だ。

人格本質アイデンティティの確立を求めたり、
生きる意味などの高度な意味を求めたり、
夢や理想を持ったりするのは
高度な自己的感情であり、
感情の発達に深く関係している。

人格本質アイデンティティの確立を求める人は、
近現代で生まれ、それ以前の時代なら、
農家として生まれる大半の人は、
どう生きてどう死ぬかが明確であり、
人格本質アイデンティティの確立やら、夢やら、
生きる意味なんて事を考える必要はなかったし、
昔の人は抽象的な事を考えにくく、
即物的で現実的で生活主義者である。

近現代になって、人の感情が発達して、
人格本質アイデンティティの確立を求めたり、
夢を持ったりする様になった事を考えれば、
むしろ、感情が発達した人類種は
ホモサピよりも、人格本質アイデンティティの確立を求めたり、
夢を持つのかもしれない。

感情が発達した人類種は文化的で、
ホモサピより創作者が多く、
自己表現する面が強く、
自己を意識する側面もある筈だ。

だが、理性の強さや人間関係を
大事にする性質から言って、
人格本質アイデンティティの確立や個人的な目的が故に、
人間関係や生活を
蔑ろにしてしまう事はないだろう。

人格本質アイデンティティの確立とは、
自己実現などの個人的な目標だけではなく、
社会における役割として、
人間関係で自己を規定する物もあるが、
社会性が高い彼らは、多くの人と繋がれるし、
適材適所に収まって、
その社会での役割に徹するのは容易だ。

まとめ
・抽象的である事だけでは
高度な感情と言えない

・高度な感情とは、より異なり、
より抽象的で、より多くの条件を
満たした時に必ず起こる様な物。
より異なるというのは、
より抽象化しないと同じにならないという事

・低度な感情は本能

・異性の感情という対立する感情を有する方が
感情が発達している

・感情の意義はたくさんの快と不快を
感じ取って比較する事にあり、
対立する感情が重要

・自己的感情は自分や自分に
起きた事への感情で男性的

・社会的感情は他者や他者に
起きた事への感情で女性的

・自己的感情と社会的感情は
互いを抑制し合い、その強度の比が
大きく偏っていると、不健全な状態になる

・自己的感情は対象の範囲が狭く、
社会的感情は対象の範囲が広い為、
社会的感情の方が高度化しやすい。
感情が高度化すると、肥大化する為、
感情が高度ならば、社会的感情が主となる

・社会的感情は自己的感情を
高度化した物だから、感情が高度ならば 、
社会的感情が主となる

・感情が発達した個体は正の感情が主で、
負の感情は補助程度

・感情が発達している事の条件に、
理性や感情を制御する感情を
持っている事がある

・感情が発達した精神とは、
感情の主体性や感情の高度さが
生物学的な合理性に与している事を
条件にしていて、感情自体が高度で、
感情が主体であっても、それが生物学的に、
不合理に働くだけの劣った個体は
感情が発達しているとは言わない

・感情が発達した個体は、感情豊かな女文化人オタク

・人数と親密性の2軸における広さを
ダンバー値、人間関係の総量と呼ぶ。
人間関係の総量をどれだけ増やし、
維持できるかが社会性。

社会性が低い場合、一時的に人間関係の総量が
増大したとしても、
維持が困難になって、減少する。

人間関係の総量を維持する物は
社会的行動の量と質の積。

社会性が高い場合は、質が高いから、
社会的行動が少なくても、
より大きな人間関係の総量を維持できる

・高度な自己的感情は、目的意識、
自己尊厳意識プライド、生きる意味などの意識

・発達した感情は、
形式的な行為の増加に繋がる

・負の感情が欠如している場合は、
高度な感情と言わない

・高度な感情は性別の境界性が薄く、
文化もそう

・文化は鑑賞する者、行う者と創造する者の
3つに分かれ、より後者程、
人口比は少なくなり、
感情が発達している程より後者を好む

・行う者や創造する者は努力的な側面があり、
生活のメインとするには、
目的意識が必要な為、男に多く、
単なる感情が発達した個体には少ない

・感情が発達した男と女は似通る

・感情が発達した人類種は
自己家畜化と幼形成熟ネテオニーが強まる

・感情が発達した人類種の見た目は
少年少女と言った感じで、
身体的な性差が小さくなる

社会能力と社会状態

高度な社会

社会とは、社会的文化を
有する群れの事だから、
社会の性質は社会的文化に強く影響を受ける。

社会的文化の中でも、社会形式が重要で、
その社会の、人間関係に関する制度などの
社会の仕組みや構造その物が社会形式。

社会的文化は、その社会で構成員が
共通して行う行為かつ、
その社会に属しているから、
その社会からの影響で、行う事を指し、
社会的文化である社会形式は
その条件に縛られる。

制度,規則,宗教,常識などの人工的な、
その社会特有の形式によってではなく、
構成員の性質で、例えば、
男女の人格の違いが原因で、
自然と政治家に男性が多くなったとしても、
それは社会的文化や社会形式とは呼ばない。

この、社会的文化に無関係な
その社会の性質を社会状態と呼ぶ。
社会状態は自然環境や、
構成員の性質に依って決まり、
構成員の性質の中でも、
社会状態に影響を及ぼす物を社会能力と呼ぶ。

この章では、感情が発達した人類種の
社会能力によって、
どんな社会状態になるのかを語る。

まず、最初に挙げる社会能力は、
社会を創り、維持する能力である社会性だ。
社会性は大体、社会的感情に等しい。

そもそも、社会(群れ)とは何の為にあるのか?
人が2人いて、それぞれが単独に労働した時、それぞれ1の成果を、
合計2の成果を得られるとしよう。

だが、協力する事で、
合計3の成果を得られるという場合は多く、
協力の上手さによっては、
その成果は3ではなく4かもしれない。

協力した時の成果は、
協力による労働の複雑化と
それによる労力の使用法の最適化で、
個々でやった場合の成果の総和を超える。

この成果の増加が社会の存在意義であり、
社会の本質は協力。協力が社会なのだ。
また、成果と快は等しい。

協力した時の成果は、
構成員が個々に働いた時に比べ、
協力による労働の複雑化と
それによる労力の使用法の
最適化で増加するが、
労力の使用法の最適化とは、
労力の振り分け方とも言え、
その1つに特化がある。

道具を作る労働だけをして、
技術を蓄積する人がいれば、
その人が所属する社会は、
より良質な道具が得られるが、
1つの村で、道具だけを作る人がいれば、
道具の数は過剰になってしまうから、
道具を作る労働だけする人は、
村だけで完結する社会では存在しえない。

だが、複数の村で市場が生まれれば、
複数の村を統合した社会が形成され、
より大人数の協力が行われれば、
道具だけを作る人が存在しえる。
その様な人が存在する事は、
その複数の村全体の社会で得だ。

社会がより大規模になればなる程、
より細かな特化が可能になり、
社会ではなく、個々の個人だった時との、
快の総量の比は増大する。

社会の大規模化の果てには
生活には全く役に立たなそうな、
音楽の専門家すら存在しえる様になるし、
学術や文化といった役に立たない事は
大規模な社会でしか発展しない。

そもそも、村というのは、
子育てをする者、狩りをする者、
農耕をする者などと役割分担する事で、
獲得する資源の量を、
快の総量を増大させる為にある。

文明を持つ以前のホモサピは最小でも
50人で群れないと生存できなかった。
1人で労働し、その成果を
そのまま享受するのでは、
生存に必要な快の量に届かないのだ。

協力による快の増大比は概ね、
人数が多い方が大きいが、
人数だけで決まる訳じゃない。

どれだけ構成員が協力するかも大事で、
あまり協力しないのであれば、
社会というより複数の個人に近いのだから、
社会である事での快の増大比も小さくなる。

社会とは、社会的文化と社会的状態であり、
構成員がどれだけ協力しているかとは、
構成員がどれだけ社会的に振舞っているか、
社会的文化と社会的状態から
構成員がどれだけ影響を受けているかだ。

影響を全く受けていないのであれば、
そもそも、その社会の構成員とは言わなく、
社会的文化と社会的状態がないという事で、
社会ではなく複数の個人に過ぎず、
その社会の構成員がより、社会的文化と
社会的な状態に影響を受けている方が、
社会の社会性が高い、社会的な社会と言える。

この、社会の社会性を個人の社会性と
区別して社会性²と呼ぶ。

社会性²を決める要因は
構成員の社会性と環境。

環境は資源的な豊かさと
社会形式の「合理性と束縛度合い」からなる。

昔に比べ、今の社会は社会性²が低く、
人々は個人主義だが、
それは社会の資源的な豊かさが増大したのと、
法治主義で、法律が自由主義的なのが
関係している。構成員の人格が、
社会性が変化した訳ではない。

個人の自由が制限された全体主義的な国や、
法治が弱く、治安の悪い国の方が
社会性²は高く、構成員の同質性、
構成員の社会から受ける影響は大きく、
貧しい国や時代、前時代的な社会形式の方が、
社会性²が高い。

そして、社会が存在する事での快の増大、
協力によって、どれだけ快を増大できるかには
最適という名の上限があり、どれだけ合理的で
無駄がない協力をできるかで、
どれだけ最適に近付けるかが決まる。

どれだけ合理的で無駄がない協力をできるか、
どれだけ快の増大の上限に
近付けるかを決めるのは、構成員の社会性だ。逆に言うと、社会性の定義が
それだとも言える。

整理すると、人口や社会性²の増加による、
社会である事での快の増大比の増大とは、
最適という名の上限その物が
増大する事を指し、その上限にどれだけ
近付けるかという最適度は
構成員の社会性で決まるという事だ。

社会とは協力その物であり、
社会である事での快の増大は、
協力による快の増大だが、社会が存在する事で
構成員に起こるのは、快の増大だけでなく、
争いなどの不快の増大も起こる。

社会が存在する事に
依る快の増大を社会性合理、
社会が存在する事に依る不快の増大を
社会性不合理と呼ぶ。

社会は大人数の方が、
社会の複雑さが上昇して、
非社会の同じ人数の個人と比べた時の、
快の増大比はより大きくなるから、
社会は基本的に構成員が多い方が望ましいが、
社会性合理を増大させる源である社会の
複雑性は、争いなどの社会性不合理に
繋がるし、協力の最適度は下がる。

また、社会性合理に最適度がある様に、
社会性不合理にも上限と最適度があり、
社会性合理と社会性不合理の上限は
社会性²と人口の積で決まり、
社会性合理の最適度は、社会性と正の相関、
人口と負の相関を持ち、
社会的不合理の最適度は、社会性と負の相関、
人口と正の相関を持つ。

社会性²と人口の積というのは
社会の規模、社会の大きさや量その物で、
社会が存在する事で生じる快や不快は
社会の大きさに応じて、
大きくなるという当然の話。

具体的に考えてみよう。
社会性合理だけで考える時、
群れの人数を増やした方が得な時と
言うのは以下の様な状況だ。

「5人の時は最適な協力をする事で、
各々でした時の快の総和に比べて、
1.5倍までの成果の増加が
見込まれるとして、最適な協力は
不可能だから実際には、
1.5倍の90%、1.35倍の成果になる。

25人の時は最適な協力をする事で、
各々でした時の快の総和に比べて、
3倍までの成果の増加が見込まれ、
ただし、社会が複雑化する事で、
協力がより難しくなって、
協力の最適度は減少して、実際には、
3倍の75%、2.25倍の成果になる」

最適度は減ったが、快の増加比は増えた。
だから、この例だと、社会の人数を
増やした事は正解だった。

だが、群れの人数を増やす事が損な時もある。
最適度が減少し過ぎて、人数を増やしたのに、
社会性合理が前よりも少なくなるだとか、
社会性合理が増えたとしても、その差益が、
争いなどの社会的不合理の増加で
打ち消されるだけでは足りないなど。

人数が多過ぎる群れは
同質である事が困難になって、内で争い、
争いに労力が割かれたり、
労働の量が減ったり、
身体という資源が減ったり、社会が分裂する。

y軸を1人あたりの、
社会性合理と社会性不合理の絶対値、
x軸を人口と社会性²の積とした時、
社会性合理も社会性不合理も、
xに対して正の相関を持ち、単調増加する。

人口と社会性²の積は、
社会性合理と社会性不合理の増大比の
上限値を示し、上限値が上がる事で、
その2つは増加する。

xが増加した時、
最初は社会性合理が急激に上昇し、
社会性不合理は緩やかに上昇し、
社会性不合理の曲線は、
社会性合理の曲線より下にあるだろう。

だが、xが大きくなると、
社会性合理の最適度が人口と負の相関を
持つ為に、増加が緩慢になって、
社会性不合理の最適度は人口と正の相関を
持つ為に、増加が急激になり、
ある時点で社会性合理を
社会性不合理が追い抜く。

画像

社会性不合理が、社会性合理を上回ると、
その社会では、構成員が社会的である事が、
社会行動を取る事が、損になる為、
構成員の社会的行動は減少し、
個人主義化して、社会性²が減少する。

争いが多かったり、
大人数で協力しようとすると、
上手くいかずに、労働の成果が減る時、
人は、争いや非効率さを
避ける為に人を避け、
親密で信用できる人とだけ
関わろうとする為、
人間関係の規模は小さくなり、
労働は少人数で行う事で、
より適切な役割分担をしようとする。

社会性²がある程度,減れば、
その社会を構成するいくつかの
下位社会が独立し、
上位社会の人口が減る事で、
人口と社会性²の積は減少し、
社会性合理が社会性不合理を
上回る状態に戻る。

社会は社会性合理が社会性不合理を
上回る状態で安定する恒常性があるのだ。
もっとも、今の話は下位社会との競争を
無視した物だ。

例え、社会性合理が社会性不合理を
上回っていても、下位社会の
社会性合理/社会性不合理という比が
上位社会より遥かに大きい場合は、
下位社会が独立する。

下位社会の独立は離散的な現象ではなく、
連続的であり、独立性として語れる。
下位社会の人口と社会性²の積は、
上位社会からの独立性と正の相関があり、
下位社会の人口と社会性²の積は、
上位社会の人口と社会性²の積に
負の相関を持つ。

下位社会と上位社会は社会性²を獲得し、
社会を維持する為に、
構成員の社会行動を取り合っていて、
下位社会での社会行動がなくなれば、
下位社会は消滅し、
構成員は直接的に上位社会に属し、
上位社会での社会行動がなくなれば、
上位社会が消えて、
下位社会が上位社会になる。

そして、構成員の
「下位社会での社会行動量」/
「上位社会での社会行動量」
という比には法則性がある。

上位社会での社会行動量をa、
下位社会での社会行動量をbとし、
f₁(x)とf_2(x)を、ある社会行動量で
どれだけの社会性合理と社会性不合理の和
(絶対値で考えるなら、
社会性合理-|社会性不合理|という差)
になるかという関数とする。

f₁(x)は上位社会について、
f₂(x)は下位社会について示す。
この時、f₁(0)~f₁(a)の定積分と、
f₂(0)~f₂(b)の定積分の和をcとする。
この時、a,bはこのcが
最も大きくなる値をしていて、
a+bという総社会行動量は、cとの比率や、
他の広義生態の快を比較した時に、
最大になる値だ。

画像

簡単に考えるなら、
社会性合理と社会性不合理の和を
人口で割った値の、
上位社会と下位社会の比が、
それぞれの社会の社会性²に相関し、
社会性²は独立性や、
その逆である支配性に相関する。

独立を独立性と連続的に語ったが、
社会性²と人口の積をどちらが
上回っているかは、
独立や支配の良い基準だろう。

先のxy平面図グラフで示した様に、
社会性合理/社会性不合理という比は
人口と社会性²の積が高い上位社会の方が、
小さくなるが、人は上位社会だけでなく、
下位社会でも社会的行動をする。

社会行動量と、
社会性合理と社会性不合理の和は
正の相関を持っているが、上限があり、
社会的行動が増えれば増える程、
社会性(不)合理の増加は緩やかになる。
その為、上位社会と下位社会の両方で
社会的行動をする方が合理的だ。

下位社会の独立が起こるのは
以下の様な状況。1人あたりの、
社会性合理と社会性不合理の和の、
上位社会と下位社会での比が下位社会に偏り、
構成員が下位社会で社会的行動を
多くする様になり、
下位社会の社会性²は増し、
上位社会の社会性²は減る。

人口と社会性²の積の比が、
臨界点を迎えた時、下位社会は独立して、
上位社会は人口を失う代わりに
社会性²は上がる。

内部の社会性²が高い下位社会が、
上位社会での社会性²が低い社会が、
独立するのだから、
上位社会の残りは濃縮されるのだ。

だが、下位社会の独立による人口減少で、
社会性²と人口の積が減少したり、
新たな社会形式、新たな統合の方法への
変化を迫られる中で、混乱が生じ、
争いが生じて、社会性不合理は上昇し、
社会性²は低下する。

つまり、下位社会の独立で、
上位社会は一時的に弱体化するし、
長期的に見ても軽く弱体化する。

下位社会は上位社会に負けているから
下位社会なのであり、
下位社会が独立して、上位社会が弱まり、
それによって、また下位社会が
独立するという循環が起こる場合がある。

それは再帰激化スパイラルな事が多く、
進行すればする程,止まりにくくなり、
上位社会はそのまま崩壊してしまう。

独立性は連続的だから、消滅はしなく、
あくまで極端な低さになるだけだが、
単一の集団とは、一般的に思われない状態だ。

例えるなら、国際社会では、
国家同士で網目状に関係がある物の、
単一の権力に支配されていなく、
単一の集団とは呼べない状態。

単一の集団と呼ばれる社会は、
集団的社会と呼ばれ、
単一の集団と呼べない社会は、
隣人的社会と呼ばれる。

集団的社会は単一の社会形式や
社会的文化で統一されているが、
隣人的社会の場合、
ある地域の隣の地域は
社会的文化が似ているし、
隣の地域と隣の隣の地域も
社会的文化が似ていて、
連続的に遠くまで社会的文化が
繋がっているが、端ともう端の
社会的文化は全くの別物だ。

全球化主義グローバリズムという言葉があるが、
ホモサピという種は広い目で見れば、
誕生した瞬間からホモサピという社会に
全員が属していた。

そして、時代が進み、文明が進歩し、
遠距離への干渉が容易になる事で、
ホモサピという社会は社会性²が増していき、
その存在を意識する様になる事で、
国際社会という言葉が生まれたのだ。

ずいぶんと長い前置きだったが、
社会性が高い構成員による社会を、
感情が発達した人類種の社会を考える。

彼らは高度な社会性,共感性から
多くの人同士が親しい仲になり、
全員が人を気遣って、
所属する共同体の精神衛生に気を配るだろう。

感情が発達した人において、
男と女の精神は似通っているのだから、
男女の交流は増え、
異性の友人の割合が高まるだろうし、
異性の理解度が高い筈で、
それも多くの人同士が親しくなる事に役立つ。

高度な社会性とは、他者と親しくなり、
他者と理解し合い、
それに依る協力する事の上手さだ。
協力する事の上手さは、人間関係の総量や
社会行動の総量として現れる。

社会全体における、人間関係や
社会行動の総量とは、社会性²であり、
彼らは社会性が高い故に社会性²が高いから、社会性合理と社会性不合理の上限が高い。

そして、感情が発達した人類種の社会は、
社会性不合理の増加がより緩慢で、
社会性合理の増加がより急激だ。

社会性不合理の最適度は
社会性と負の相関を持ち、
争い,加害,社会衝突トラブルなどは、
社会性の不足で起こる。

社会性が高くて、人を気遣う事ができ、
人々が互いの精神衛生を気にしていれば、
不満が貯まって、争いを起こす人は出ない。

社会性合理の最適度は
社会性と正の相関を持ち、
社会が存在する事での得益メリット
群れて、親しくなる事での得益メリット
社会性が高い構成員の社会の方が大きい。

感情とは別だが、その理性や、
高度な感情の下地となった、
そこそこに高い知能も社会性として機能し、
相互理解の不足や
それによる疑心暗鬼で起こる、
収奪の目的や加害の意思が原因ではない様な、
全体で見れば損でしかない社会衝突トラブル
喧嘩は少なくなる。

社会性,共感性,善性,理性により、
他者を理解し、配慮しようという気持ちや
自分の主観を押し付けない理性があり、
真面目過ぎてうるさい人だとか、
いちいち口出しや
指図をする人はいないだろうし、
加害や収奪を目的にしてないが
人間関係において有害な個体、
加害や収奪を目的にしてない場合での
人間関係における有害性も
大きく減少するだろう。

社会的で外向的なら、
自己中心的な視野狭窄に陥らず、
それが故の社会衝突トラブルは起きない。

相手の不満が理解できれば社会衝突トラブルは起きない。

自己的感情よりも社会的感情が強く、
怒りや嫉妬などの自己本位な感情より
他者の感情を優先する社会性があれば、
社会衝突トラブルは起きない。

人口と社会性²の積の増加に対し、
社会性不合理の増加が緩慢な彼らの社会は、
より昔の時代に、より大きな社会を、
より社会性²の高い社会を創れる。

社会性が低い構成員による社会は早期に、
社会性合理を社会性不合理が上回るから、
社会が大きくならない。

チンパンジーの群れの人数が、
ホモサピの群れの人数よりも
小さいのはその為だ。

社会性とは、複数の個体を
1つの生物の様に連携させ、
1つの機構にする能力であり、
社会が存在する事での快の増大を
より増大させ、社会が存在する事での
不快の増大をより減少させ、
より大規模な社会に発展させる能力。

微視的に見るなら、社会性は概ね、
より大きな人間関係の総量を維持する能力、
より少ない社会的行動の量で、
より大きな人間関係の総量を
維持する様な社会的行動の質、ダンバー値だ。


社会的文化の蓄積や発展は、
より大規模な社会で、
より社会性²と人口の積が大きな社会で
早く進み、ローマ帝国などの
広大な地域を支配した大国では、
目覚ましい文化,学術,技術などがあって、
大国が崩壊すると、その多くが失われる。

人口と社会性²の積は文明の発展速度と、
社会的文化の発展速度と、正の相関を持ち、
早期に広大な地域を統一する国家が生まれ、
社会が崩壊しにくい社会性を持つ彼らは、
ホモサピよりも早く、
文明を発展させる事ができるだろう。

ホモサピがダンバー数を超える群れを
創った事は、知的生命体としての、
ホモサピとしての本質で、
文明の発展や高度な技術も、
群れの大きさに由来する。

知的生命体としての程度は、
人口と社会性²の積として測れ、
知的生命体の生み出す文明の発展速度は、
人口と社会性²の積を要因とする。

感情が発達した人類種の、
人口と社会性²の積の大きさは、
ホモサピの上位種である事を示す物だ。

まとめ
・社会的文化に無関係な、
その社会の性質を社会状態と呼ぶ

・社会状態はその社会の構成員の性質と
自然環境に依って決まり、
構成員の性質の中でも、
社会状態に影響を及ぼす物を社会能力と呼ぶ

・社会的文化と社会的状態から構成員が
どれだけ影響を受けているかを
社会性²と呼び、社会は規模と社会性²からなる

・社会性²は構成員の社会性と環境から決まる

・社会性²の要因である環境は、
資源的な貧しさと社会形式の
「合理性と束縛度合い」に比例する

・社会が存在する事による、
構成員の快の増大や発生を社会性合理と呼び、
その逆を社会性不合理と呼ぶ。

構成員の快の増大や発生とは、
構成員の精神が持つ個々の感覚を指し、
構成員の精神全体の快不快の総和ではない。
社会性合理と社会性不合理は同時に存在する

・社会性合理と社会性不合理の
上限(絶対値)は、社会性²と人口の積に対し、
正の相関を持つ

・社会性合理の上限値に
どれだけ近くかを最適度と呼び、
最適度は社会の人口と負の相関を持ち、
構成員の社会性と正の相関を持つ

・社会性不合理の上限値に
どれだけ近いかの最適度は
社会の人口と正の相関を持ち、
構成員の社会性と負の相関を持つ

・社会性不合理が社会性合理を上回った時、
構成員の社会性が低下して、
社会性²が低下したり、社会が分裂する

・社会性²は社会性合理と社会性不合理の和と
正の相関を持つ

・下位社会の人口と社会性²の積は、
上位社会からの独立性と正の相関があり、
上位社会の人口と社会性²の積と
負の相関を持つ

・社会的行動と、社会性合理と
社会性不合理の和は正の相関を持っているが、上限があり、社会的行動が増えれば増える程、
社会性合理の増加は緩やかになる。

その為、人は、上位社会と下位社会の両方で社会的行動をする

・構成員の下位社会での社会行動量と
上位社会での社会行動量の比は
下位社会の社会性²や下位社会の
上位社会への独立性に相関する

・下位社会行動量をa、
上位社会行動量をbとし、f₁(x)とf₂(x)を、
ある社会行動量でどれだけの社会性合理と
社会性不合理の和になるかという関数とする。

f₁(x)は上位社会について、
f₂(x)は下位社会について示す。

この時、f₁(0)~f₁(a)の定積分と、
f₂(1)~f₂(b)の定積分の和をcとする。
この時、a,bはこのcが最も大きくなる値を
している。a+bという総社会行動量は
cとの比や、他の広義生態の快を
比較した時に、最適になる値

・社会性合理と社会性不合理の和の、
上位社会と下位社会での比が下位社会に偏り、
構成員が下位社会で社会的行動を
多くする様になり、
下位社会の社会性²は増し、
上位社会の社会性²は減る。
人口と社会性²の積の比が、
臨界点を迎えた時、下位社会は独立する

・下位社会が独立すると、
上位社会は人口を失う代わりに
社会性²は上がる。上位社会での社会性²が
低い集団が独立するのだから、
上位社会の残りは濃縮される

・下位社会での独立によって、
社会性²と人口の積が減少したり、
新たな社会形式、新たな統合の方法への
変化を迫られる中で、混乱が生じ、
社会性不合理は上昇する。

だから、下位社会が独立して、
上位社会が弱まり、それによって、
また下位社会が、独立するという循環が
起こる場合がある。

それは再帰激化スパイラルな事が多く、
進行すればする程,止まりにくくなり、
上位社会はそのまま崩壊してしまう

・単一の集団と呼ばれる社会は、
集団的社会と呼ばれ、
単一の集団と呼べない社会は、
隣人的社会と呼ばれる

非言語意思疎通コミュニケーション

次に挙げる社会能力は非言語意思疎通コミュニケーションだ。
社会能力とは、社会状態を決める様な
構成員の性質。社会状態は社会的文化以外を
原因とする社会の性質。

この章は、感情が発達した人類種の社会能力と
それに依って決まる社会状態の解説で、
前節は社会性という社会能力を語った。

この節では非言語意思疎通コミュニケーション能力を語る。

非言語意思疎通コミュニケーションは感情や意思を、
表情,声色,身振り手振りボディーランゲージ,視線衝突アイコンタクトなどの
非言語形式で表現したり、
人が感情や意思を表現した非言語形式から
感情や意思を読み取る能力だ。

感情が発達している女性の方が、
非言語意思疎通コミュニケーションは発達していて、
これは言語を持たない赤子の鳴き声や
表情や声色からその欲求を
知る為に発達している。

非言語意思疎通コミュニケーションは、直感的であり、
感情的であり、感情が発達しているならば、
非言語意思疎通コミュニケーションも発達している筈だ。

そもそも、女性が感情主体なのは、
知性がなく、感情しかない子供との
意思疎通コミュニケーションの為だろう。

感情は直感的であり、
女性脳とは無意識的で、直感的で、
言語化が難しく、男性脳とは意識的で
言語化が簡単という特徴がある。

故に、女性脳が強まると、
言語化が難しい心理が多くなり、
意思疎通コミュニケーションは非言語的になる。

ホモサピは感情が発達していて、
非言語意思疎通コミュニケーション能力が発達しているから、
他の霊長類にはない表情筋を
いくつか持っていて、他の霊長類よりも
表情筋がより複雑に発達し、
より細かく表情を作れる。

感情が発達した人類種は更に
表情筋が発達するだろう。

男でもアスペでも、感情を表情で
表現する能力は女と大きな差はなく、
違いは表情を読み取る能力だ。
感情が発達した人類種は
ここが大きく発達する。

そうなれば、意思疎通コミュニケーションに使われる形式での、
言語の比重は軽くなって、
非言語意思疎通コミュニケーションに重きが置かれる筈だ。

つまり、遠回しな言い方をしながら、
その意味を表情で補足する事になる。

これは日本人でよく見られてて、
よく、「白人に比べて日本人は
はっきりと意思を伝えず、
YESかNOか言わない」と言われるが、
感情が発達した人類種では、
その傾向はより強まる筈で、
「空気」を察する事がより重要になる。

表情で曖昧な言語を補足するが、
表情が主であるというだけで、
実際には声色や目つき、視線衝突アイコンタクト
身振り手振りボディーランゲージなどの様々な
非言語意思疎通コミュニケーションの形式で
自然と表現する筈だし、
非言語意思疎通コミュニケーションとはまた別だが、
背景や文脈から相手の心理や欲求を
読み取る能力も使うだろう。

遠回しな言い方の1つには、
背景や文脈、関連情報の提示があり、
示唆が多用されるだろう。

話しずらい事を話したい時は、
本題をいきなり言うのではなく、
本題に関係ある事を言って、
相手から話してくれる様に促したり、
何かを疑っている時は、それと関係する事を
それとなく話す事で相手を揺さぶるなど。

言語での意味を曖昧にし、実際の意味を
非言語意思疎通コミュニケーションで察させるというのは
高度な感情表現で、
男性や特にアスペなんかは理解できないし、
それは学習でどうにかなる物でもない。
 

また、非言語意思疎通コミュニケーション
重きを置く者の言語の特徴は他にもある。

女性脳とは直感的であり、
無意識的で非言語的な物だが、
音象徴オノマトペと片仮名で表される外来語もそうだ。

「期待感」よりも「ワクワク」という
言葉の方が想起しやすいし、
「需要」よりも「ニーズ」という
言葉の方が想起しやすい。

熟語よりも片仮名の外来語の方が
想起しやすいのは、
熟語というのは音読みの組み合わせだが、
音読みの種類は少なく、
熟語の発音はありきたりだからだ。

音象徴オノマトペが想起しやすいのは
意味と発音が関連しているからだ。 

話を戻そう。日本人は「良いか悪いか」や
「はいかいいえ」をはっきり言わないが、
それは、非言語意思疎通コミュニケーション
発達段階としては途中だ。

0の形式で、+1やー1を空気で伝えるのは
今の日本人や日本人男でもやっているが、
更に感情が発達すれば、
±1の形式で∓1を伝える様になる。

そして、後者の方がより、
形式的な意味と実際の意味が乖離していて、
より高度な意思疎通コミュニケーションと言える。

+1は肯定,加益(奉仕),快、
ー1は否定,加害,不快だ。

漫画や映像物語アニメの描写で、
女性同士が口喧嘩をする時に、
お互い笑顔で、皮肉を言い合ったり、
女性が笑顔で人に怒ったりするのが
+1の形式でー1を伝えるという事。

ホモサピは日本人や女性だろうと、
現実でこれをする人は中々いないが、
感情が発達した人類種においては、
この様な意思疎通コミュニケーションは一般的になる筈だ。

ー1を言いながら+1を伝える事は
その逆に比べると、まだ行われやすく、
愛情を込めて「バカ」という事は、
今の日本人女性も一部はしているし、
映像物語アニメや漫画の矛盾性愛ツンデレなど、
その最たる物だ。
日本人女性の喘ぎ声の1つとして、
「(い)や」があるのも、同じ。

加害を遊びで、形式的にするのは、
よく見られていて、猫やライオンの
子ども同士のじゃれ合いがそうだし、
加害の形式化、加害の形式で親密さを
築くのは動物ですら行われる。

親が子を叱るのも加害の形式化だし、
勝負が遊びとして行われるのも、
心配して怒るのも、
ー1の形式で+1を伝えていたり、
ー1の形式からー1らしさが、
加害の形式から加害性が失われている。

加害というのは、動物において、
より本質的な行為だから、
よくする事だからこそ、
形式化などの発展が見られ、
加益というのは動物において、
限定的で特殊だからこそ、
形式化などの発展が起こりにくい。

加害行為は生物に対する行為で
最も一般的な為、加害の内容がなくても、
加害行為の形式を表現する事ができる。

意思疎通コミュニケーションにおいて、ほぼ全ての形式は非言語だが、
非言語意思疎通コミュニケーションは本来、無意識に行われて、
意識的にするのは難しいが、
形式的な意味と実際の意味を逆にし、
内容と異なる形式を表現するというのは、
非言語意思疎通コミュニケーション
意識的に行っているという事だ。
(正確に言うなら、意識的な精神の動作で、
無意識的な精神の動作を
誘発させているだけで、
最終的には無意識的な精神の動作で
非言語意思疎通コミュニケーションの表現が行われる)

感情がそこそこ発達した個体は、
無意識で非言語意思疎通コミュニケーションをできるが、
更に感情が発達した個体は有意識で、
非言語意思疎通コミュニケーションをできる。

ー1の形式で+1を伝えるというのは、
加害の形式で加益の内容を伝えるというのは、
加害の心理がないにも関わらず、
加害の形式を表現するという事で、
それは加害の形式を、
意識的に行なわなければならない。

加益の内容は、メインの形式ではないサブの形式で、
非言語意思疎通コミュニケーションなどで、
本心から行うから無意識的に行えて、
それは容易だ。

+1の形式でー1を伝えるというのは、
加益の形式で加害の内容を伝えるというのは、
加益の内容がないにも関わらず、
加益の形式を表現するという事で、
それは加益の形式を、
意識的に行なわなければならない。

そして、加害は生物に対する行為として
一般的だから、
その形式を意識的に行う事が容易で、
加益は生物に対する行為として特殊だから、
その形式を意識的に行う事が難しい。

実際に加益の内容を加益の形式で
伝えるなら、加益の形式は無意識的に
行えるから容易。

怒ってる振りよりも、
上機嫌な振りの方が難しい。

意思疎通コミュニケーションは主たる形式とサブの形式で行われ、
加益の形式で加害の内容を伝えるとは、
主たる形式で加益の内容を、
サブの形式で加害の内容を表現するという意味。

サブの形式は主に非言語意思疎通コミュニケーションだが、
メインの形式にも非言語意思疎通コミュニケーションはあるし、
それぞれの形式の数は、1つとは限らない。

笑顔で、言語で表面的に肯定しながら、
言語で遠回しに怒りを示唆する時、
笑顔は非言語意思疎通コミュニケーションだが、
メインの、実際に伝える内容とは
異なる意味の形式だ。

男女の社会的位置

意識的な非言語意思疎通コミュニケーションは、
形式的な意味と実際の意味を
乖離させる事以外の使い道があり、
それは騙せるという事。

実際の心理とは異なる内容を
言語などの主たる形式で表現し、
非言語意思疎通コミュニケーションなどの
サブの形式で実際の心理を表現する時、
読み取るだけなら、感情が未発達でもでき、
それを表現する方が難しい。

だが、主たる形式もサブの形式も
実際の心理と異なる場合は
それを察知する事が困難だ。

それはつまり、実際の心理とは
異なる意味を表現する為に、
意識的に非言語意思疎通コミュニケーションをしたのか、
実際の心理を表現する為に、自然と無意識的に
非言語意思疎通コミュニケーションしたのかを
見抜く必要があり、
意識的にやるからこそのぎこちなさ、
不自然さを見抜く必要がある。

特に、+1の形式で-1を伝える時に、
意識的に非言語意思疎通コミュニケーションをする必要がある為、
それができる個体は、
非言語意思疎通コミュニケーションの嘘が可能だ。

笑顔で、優しい声色で怒れる人は、
好意の感情を偽装する事ができ、
異性をたぶらかせれる。

ー1の感情は男でも、非言語的に、
意識的に表現する事が可能だが、
加益・加害とは別の軸、
快・不快はどちらも加害に比べて、
意識的に表現するのが難しい。

泣き真似や不機嫌な振り、
ご機嫌な振りはどれも難しく、
怒ってる振りだけが簡単だ。

言語で嘘をつくのは簡単だが、
感情が未発達の場合、
表情,声色,視線などのサブの形式、
非言語意思疎通コミュニケーションで本心を
無意識に伝えてしまったり、
なんとか非言語意思疎通コミュニケーションでも
嘘を表現しようとしても、
非言語意思疎通コミュニケーションを意識的に行えないから、
不自然でぎこちない物になって、
何かしらの本心を誤魔化そうとしている事が
バレてしまう。

言語の嘘は、言語が意識的だから、
感情が発達してない個体でも
嘘かどうかを検証できるが、
非言語意思疎通コミュニケーションの嘘は、
泣き真似などは、感情が発達していないと
嘘かどうかわからない。

感情がそこそこ発達した個体は、
声色や表情などの非言語意思疎通コミュニケーション
どんな内容が表現されているかはわかるが、
それが嘘なのか、
意識的に行われた物なのかはわからない。

感情が発達した個体なら、
嘘の非言語意思疎通コミュニケーションを嘘だと見抜ける。

つまり、感情が発達した人類種は、
ホモサピの女性でもしない様な、
+1の形式でー1の内容を伝える事と
嘘の非言語意思疎通コミュニケーションという
高度な意思疎通コミュニケーションをするかもしれないが、
それは感情が発達した人類種の女性のみで、
男性は騙されるだけかもしれない。

仮に、男でも意識的な
非言語意思疎通コミュニケーションができたとして、
非言語意思疎通コミュニケーションで嘘をつき合い、
嘘を見抜き合うという競争で、
女性に負ける筈だ。

意識的な非言語意思疎通コミュニケーションをしたり、
それが意識的だと見抜くのは、
できるかできないかじゃなく、
上手いかどうかなのだから。

感情が発達した人類種は、
感情主体で、人間関係や社会が
感情で運営される側面が、
ホモサピの社会よりも色濃いのだから、
女性は、相手の感情を深く読み取り、
意識的な非言語意思疎通コミュニケーションで、
相手の感情を思い通りにする能力によって、
社会的立場で優位になる筈だ。

また、感情の主体性が強い人は、
本能が弱い事が多くて、
暴力的である事が少なく、
感情が発達した人類種は、男が女を本能で、
暴力や威圧で支配する事はないだろう。

そして、感情が主体な人は、
感情的な恐怖を感じやすい。
感情的な刺激に深く影響されやすい。

本能的な恐怖とは、
生命の危機や暴力などで、
感情的な恐怖とは、
他者の感情に対する恐怖。
子供が母親に叱られた時の様な恐怖や
嫌われたくないという恐怖。

感情的な恐怖は女性の方が、
相手に感じさせる能力が強く、
ホラー恐怖映画の幽霊は、ほぼ全て女性であるし、
男性が夜中に公園でケタケタ笑ってても
怖くないが、女性がそれをしてると怖い。

女性は人の感情に干渉する能力が強く、
男性は人の本能に干渉する能力が強く、
本能への干渉がそもそも行われない社会では、
構成員が感情主体の社会では、
女性の立場が強くなる。
男性より女性の方が怖くなるから。

男性からの侮辱や暴言より、
女性からの侮辱や暴言の方が辛く、
それはより感情的な人程、当てはまるし、
褒める事もそうだ。

感情が発達した人類種は、
女性からの侮辱や暴言、
女性が自分をどう思ってるかに敏感になり、
女性に叱られれば委縮するし、
女性から褒められようとする。

女性からの感情表現に敏感になり、
女性からの感情表現で、
何かをやめたり、何かをしようとする。

東アジア人はホモサピの中でも、
感情が発達しているが、
日本においては明治頃から、
かかあ天下という言葉があり、
夫が妻に支配される事はよくあった。

専業主婦や小遣い制は白人にとっては、
ありえないらしく、
そこにも女性の優位性が見える。

ならば、感情が発達した人類種は
かかあ天下が基本になる筈だ。
家庭において、子も夫も、
妻の子の様な立ち位置になる。

兄が自分より弟を優先したり、
守ったりする様に、
夫は長男と似た立ち位置になって、
子供との距離が近くなる。

だが、女性が人間関係で優位だと言っても、
目的意識の強さなどから考えて、
経営者や政治家などの大きな力を持つ人に、
女性が多くなるという事はあまりないだろう。

生活主義者で、
現実的な損得を優先する女性は、
少年の様に、総理大臣も、宇宙飛行士も、
世界的な経営者も目指す事は少ない。

それには自己的感情が必要だが、
女性は社会的感情の方が発達している。

感情が発達した人類種の社会も
経営者が政治家などの世界を動かす人物や、
弁護士などの高級職は男が多いだろうが、
全ての男性が妻や女性に支配されてる状況では
男性が支配的な社会とは呼べないだろう。

そして、人間とは基本的に女性が好きで、
女性を大切する様にできてて、
それは感情であるからして、
感情的な人類種の男は、
女性に対して敵対的な感情を抱かず、
男女対立は起きにくいだろう。

政治家や経営者として
絶大な権力を持とうとも、 それを、
女性を排斥したり、
搾取したりするのには使えない筈だ。

また、感情が発達した人類種は
そもそも性差が小さく、
個人差の影響が大きいから、
ホモサピの社会よりかは、
世界を動かす人間や高級職の
性比は偏りが小さく、
女が男に対して社会的に優位だとかも
実際は弱く現れる筈だ。

女性的な男性と男性的な女性の関係だと
今回の話とは真逆になるだろう。

まとめ
・感情が未発達な場合、
言語で嘘をつく事はできるが、
表情,声色,視線などの、サブの形式で、
非言語意思疎通コミュニケーションで本心を表現してしまったり、
非言語意思疎通コミュニケーションでも嘘を表現しようとしても、
意識的に非言語意思疎通コミュニケーションをするのには
感情が発達している必要がある為、
ぎこちなさや不自然さが出る

・感情が発達した人類種において、
男は女に騙されやすく、いい様に扱われやすい

・感情が発達した人類種は感情主体で、
人間関係や社会が感情で
運営される側面が色濃い為、
女性は、相手の感情を深く読み取り、
意識的な非言語意思疎通コミュニケーションで、
相手の感情を思い通りにする能力によって、
社会的立場で優位になる

・感情主体な人は感情的な刺激に影響されやすく、
女性の方が人の感情に干渉する力が強いから、
女性の感情表現に深く影響される様になる

・感情が発達した人類種に
おける家庭はかかあ天下になる



性愛や愛

女性に対し、可愛さを性的魅力だと
感じるのは高度な感情だ。

本来、性的魅力とは性別性であり、
第二次性徴がどれだけ強く起こったかだ。

男性なら筋骨格が発達し、
ゴツゴツした顔や体で、
体毛が多く、高身長な個体。

女性なら胸と尻がでかく、
骨盤が横に広く、高身長な個体。

性別と無関係に思えるが、
第二次性徴には身長の成長も
含まれていて、昔なんかは、
八頭身の美人なんて表現があった。

だが、現代において、
女性の性的魅力とされる可愛さというのは
子供らしさの一種で、
第二次性徴という大人らしさの反対。

第二次性徴が強く起こると、可愛くなくなる。
白人の美人は可愛くはなく、
美人と可愛い美少女は別物。

高身長で、胸と尻がでかく、
骨盤が横に広い女性は 可愛い女の子でも
美少女でもなく、美人の成人女性だ。

性的魅力の基準だった身長は
女性において忘れ去られつつあり、
高身長の女性が魅力的とされていたのは
過去の時代になりつつある。

そして、本来とは真逆の事に
性的魅力を感じるのは倒錯的だ。

その、「本来性や本能」を
超越している所に高度さがあると言える。
感情が発達すると、本能が感情的になり、
本能が抽象化され、多様になって、
倒錯的になる。

感情が主体で、感情が発達した人類種は、
第二次性徴している体に
発情するという本能よりも、
可愛さという感情を優先するのだ。

ただ、子供らしさが性的魅力に
繋がったのは偶然ではない。
女性性と子供らしさは元々,似ていて、
女性らしさの身長の低さや筋骨格の未発達さは
子供らしさと共通しているし、
感情主体である事も子供と同じだ。

だから、自己家畜化による性差の減少や
雄の雌化、幼形成熟ネテオニーは区別がつきにくい。

子供らしさと女性らしさは似ているから、
子供らしさへの感情である可愛いを
抽象化すると、女性性と同一視され、
可愛い事を女性的であると感じる様になる。

もっとも、その逆は起きてなく、
猫や赤子を女性的と感じない様に、
女性的と感じる感情を、
可愛いと感じる対象に感じる事はない。

可愛さという抽象的な魅力が
女性的という具体的な魅力に
吸収される事はなく、
高度な感情では、具体的な感情が
より抽象的な感情に吸収されたり、
紐づいていく。

また、日本において、
可愛さが女性の性的魅力になったのは
現代においてであり、戦前では、
貞操を守り、真面目で厳粛な美しい女性が
魅力的な女性とされ、それは大人らしさだ。

「美しい」は「可愛い」とは逆で、
東アジア人に比べ、感情が低度な白人の
社会では今でも美しさが第1の性的魅力だ。

感情豊かで、お茶目でふざけたり
する様な女性を好まれるのは、
昔とは真逆だろう。

社会が資源的に豊かになって、
本能が満たされる程に、
人は感情的になり、感情が高度になるから、
感情が発達した人類種について考えるなら、
昔と今で、人の感情が、
どう変化したのかを見ればよい。

今の人は昔の人に比べ感情的で、
精神疾患が多いが、今の人の悩みなど、
昔の人にとって、
とても些細でどうでもいい話であり、
飯が満足に食えて、肉体労働をしなくても
いいのに何が辛いのかと不思議になる筈だ。

それは、今の人が持っている感情が高度で、
悩みも高度な感情の物だから、
感情が低度な昔の人には理解できない。
昔の人は腹さえ膨れれば幸せだった。
感情ではなく本能に生きていた。

そして、女性の性的魅力が変化した様に、
男性の性的魅力も変化している。
戦前においては、筋骨隆々とした坊主頭の、
根性や武士道を重んじた単純脳な男が
性的に魅力的とされたが、
1970年あたりからは、
長髪の、今で言う性的良性格男性イケメン
性的半仮想人アイドルが人気を博したり、
知的な意味で有能で、
仕事ができる性的賢者スマートな男性が
性的に魅力的とされた。

まず、性的良性格男性イケメンとは、
単純な男らしさや強さではない。
優しさなどの性格的魅力を持ち、
満足感のある感情的交流をしてくれる様な
女性性のある人格(をした顔)を指す。

男性的である丸坊主ゴリラよりも
性的良性格男性イケメンを選ぶのはより感情的だ。

そして、次に性的賢者スマートな男だが、
これは、強さが抽象化された魅力だ。

現代社会において、金を稼げるのは、
筋骨隆々とした男らしい人間ではなく、
実務能力の高い性的賢者スマートな男。

昔は肉体的な強さと価値を得る能力強さ
同一だった為、肉体的な強さは性的魅力であった。

だが、現代社会で労働が知性化した為、
その2つの強さは乖離し、
性的魅力としての強さの本質は後者であった為、
現代社会で価値を得る能力が高い、
性的賢者スマートな男がモテる様になった。

これも、本能が強く、具体に縛られたなら、
ゴリラを魅力的に感じ続けていた筈で、
より高度で抽象的な性的魅力に
移行したと言える。

感情の高度化は、
より本質的な価値への移行とも言え、
かっこよさは強さへの魅力だが、
強さが単なる肉体的な強さではなく、
社会的に高い地位だとか、
資源をより多く獲得する能力だとか
理解する事によって、
筋骨隆々なゴリラではなく、
真に強い男をかっこいいと感じる様になる。

女性的よりも可愛さが抽象的だから、
性的魅力は可愛さに移行した。

女性的な魅力は人間の若い一部の女性にしか
感じないが、可愛さは、人外の猫にも、
赤子にも、男にすらだって感じ取れる。
範囲の広さは抽象性の証だ。

ただ、優しくして、甘やかすよりも、
𠮟るべき時に叱る事が真の優しさであり、
そちらの方が感情が発達していて、
より本質的な価値に基づき、
表面的な事に囚われていない。
抽象とは本質だ。 

だが、可愛い女と性的良性格男性顔面イケメン
性的賢者スマートな男がモテる様になったのは、
50年も前の話で、性的魅力の高度化が
これだけで終わってる筈がない。

高度な感情表現は文化であり、
高度な感情はまず、作品内に登場する。
今の文化において、どんな登場人物キャラ
魅力的であるとされているか?

まず、女性だが、かっこよさが
魅力の1つになった。かっこよさが本来は
男性的な魅力である事を
考えればそれは実に高度な感情だ。

かっこよさと言っても、
高身長で強気な顔してて、声が低く、
一人称が俺みたいな具体的なかっこよさと
孤高カリスマ性や強い感情,信念,理想が
ある様な抽象的なかっこよさに分かれる。

そして、前者の方が、男性性を明確に感じて
抵抗が大きい為、後者の方がより一般的で、
より先に生まれた。

既にチラホラ述べているが、
感情豊かで男性な感情を
有する事も魅力の1つになった。

ふざけたり、お茶目だったり、
負けず嫌いだったり、
男性が読む様な戦闘バトル漫画を
楽しめる様な一緒にいて面白い女性が
魅力の1つになった。

これもかっこよさと同様に
男性性が女性の魅力になっている。

他にも、小悪魔、偏執性愛ヤンデレ,依存性愛メンヘラ
矛盾性愛ツンデレなど性的魅力は、挙げればキリがない。
抽象は具体に比べ多様だから、
感情が高度になれば性的魅力は多様化するのだ。

男性にしても、可愛い男、仕事のできる男、
賢い男、おじさん特有のかっこよさを持つ男、
男の娘、男の子ショタなど、
性的魅力は実に多様化してる。

文化人オタクが老人登場人物キャラ中年男おじさん登場人物キャラ
良さを見出すに至っては、
感情の高度さの極みだ。

この性的魅力の多様化からわかるのは、
感情が発達した人類種はより早く、
高度な性的魅力が
多様化かつ一般化するという事。


また、高度な感情は抽象的で、
性別の境界性が薄れる為、
両性の性的魅力は似通る。
少年愛好女性ショタコンと男の娘好きは同じ様な物だ。

男性的な女性や女性的な男性が
魅力的とされる状況では、
男性の魅力と女性の魅力は似通り、
区別が曖昧になるだろう。

性的魅力が高度化する際は、
異性の性的魅力が搭載される場合が多く、
片方の性別の性的魅力だけ
組み合わせても、似た様な物だけで
組み合わさってる感じで単調になる。

彼らは男性の性的魅力と
女性の性的魅力が感情が似通い、
更に、彼ら自身の見た目が両性的,中性的だ。

女性が男性に感じる魅力も、
男性が女性に感じる魅力も理解でき、
その2つの魅力が似通っていて、
男と女が似通ってる状況では、
性別の境界は意識されずらくなるだろう。

ちなみに、両性的な見た目と
無性的な見た目は真逆だ。

両性的な人は両性の印象が顔に出るし、
両性の欲求を持つから活動的で、
その活動性も顔に出るが、
無性的な人は無の顔になる。

無表情が最も似合う様な、
感情や性格を全く読み取れず、
無欲無感情な事だけが伝わる顔だ。

話を戻すと、性的魅力において、
性別の境界が薄らぐと同性愛の傾向が強まる。

感情豊かな女性、女文化人オタクは、
女性登場人物キャラや女性の現代絵画イラスト
強く可愛いと感じるし、
文化人オタクに多い女性配信者なんかは
互いに好意を持ったりするし、
同性愛的傾向が強い。

元々、女性同士の友人関係は、
相手を好きや可愛いと感じたり、嫉妬したり、
抱擁ハグなどの身体接触を多く伴うし、
同性愛的傾向が強い。

女友達から「過去に女性と付き合ってた」
と言われても大して驚かないが、
男友達から「過去に男性と付き合ってた」
と言われれば大いに驚く事もその証左だ。

女性同士の接吻キスを見るのと、
男性同士の接吻キスを見るの、
どちらが衝撃的か?

他にも、男性への性嫌悪を持つ女性が、
それを理由に自分を同性愛だと思ったら、
実は異性愛を欠如してるだけで、
同性愛ではなかったり、
女性同性愛者の多くが、
男性への性嫌悪を持ち、
単に性的対象とする性別が
逆転してる訳ではない事からも
女性の同性愛性は伺える。

女性の同性愛的傾向は、性的魅力が
より感情的で抽象的になる程に強まり、
感情が発達した人類種において、
女性同性愛は一般的であり、
女性同士においては、
友情と性愛が連続的だろう。

これは男性でも少なからず起こる。
抽象的な性的魅力を持つ事は、
同性愛になる事に等しいからだ。

元々、動物というのは、感情表現は
異性に対し、求愛としてのみ行われるが、
人間は感情が発達し、社会性が増したから、
同性に感情表現をし、感情的な繋がりを
持つ様になった。友情がそうだ。

だが、女性同士に比べれば、
男性同士の友情は薄く、
相手を好きと感じている事は少ない。

大抵の男性同士の友人関係は、
一緒にいて楽しいから、遊び相手として、
競争の相手として、情報交換や
相談の相手として丁度いいから、
一緒にいる事や関わる事が多いというだけで、
相手が好きだとか大事だとか
思ってる訳ではない。友情とは女性的な物だ。

そして、友情などの感情的な繋がりは
性愛に類する物で、程度が小さい限りでは、
性愛と呼ばれないだけで、
程度の問題でしかない。

ホモ属の中でホモサピが感情を発達させ、
その結果、男性同士が弱く友情を持ち、
女性同士は強く友情を持ち、
ホモサピの中でも一部の感情が発達した人は、
女性同士の友情が同性愛に
変化するのだとしたら、
感情が発達した人類種は、
女性において同性愛が一般的で、
男性において同性愛がそこそこ一般的で、
どちらの性別にしろ、友情と性愛が連続的に
なっているのではないか?

その様に全てを異性に、性的に感じる様な、
ある種の博愛さがある社会では、
個人的で利己的な犯罪は減少するだろう。

ただでさえ、「身体的特徴」で
述べた様に男性が女性的になり、
全ての人が第二次性徴の抑制で、
可愛く、子供らしいなら、
人を攻撃するのが難しくなり、
形式的な攻撃、お遊びの攻撃、
じゃれあいしかできなくなる。
人は女と子供を殴れない。

少し補足すると、男性同性愛の場合は、
異性的な男性への性愛と、
男性的な男性への性愛の2通りあり、
男の娘を好きな男や女装男ニューハーフを抱ける男が多く、
それらが男性同性愛ゲイとは
あまり思われていない様に、
男性への異性的男性へ性愛は、
より早さと一般性が広い。

ここまで、性的魅力について、
性的な属性について語ってきたが、
性的対象についても語ろう。

ここで言う性的対象とは、
身体的部位や身体的接触を指す。

今と昔での性的対象の違いで
第1に挙げられるのは乳房だ。

乳房を性的と感じ、
それを見たり触ったりする性欲を
持つ様になったのはここ50年程度の話で、
1970年頃では、電車で女性が乳房を
露出して、赤子に授乳をする事があった。

つまり、乳房を見て触りたいという
欲求はより高度な欲求だ。

彼らは、現代社会に到達する前から、
この欲求を持っているだろう。

人において性欲は、
特別視で興奮や欲求が創られ、
乳房もそれが社会的に性的だと、
特別だと認識されていたから、
そんな社会で育ったから乳房に
性欲を持つ様になる。

男の手と大して違わないかもしれないのに、
目を瞑った時に、男の手を握ってるのか、
女の手を握ってるのか
区別がつかないかもしれないのに、
男は女と手を繋ぐ事に快を感じ、
男の唇との違いがあるのか、
あったとして判別できるのか
怪しいのに、接吻キスを楽しむ。

性的快感や興奮の多くは特別視による幻想で、
広い目で見れば、男と女は心も体も同じで、
性行為も単純な動作でしかなく、
乳房を揉む事と太腿を揉む事は同じだ。

男性器を女性器に挿入する事に比べ、
乳房を見たり触ったりする事での快は、
より幻想的で、非本能的で、不確かだ。
だからこそ、高度だと言える。


また、乳房の性的化は
裸体の性的化と深く結び付いている。

ヨーロッパにしろアジアにしろ、
基本的に男は異性の裸を見て、
性的興奮をする事はなかったが、
近現代において、それをする様になった。

これも、男性器を女性器に挿入する性欲と
比べるとより高度な物で、
彼らは近現代になる前から、
裸を性的に感じている筈だ。

そして、近現代に起こった、乳房という
性器でない部位への性的視と
見る事での性的興奮を考えると、
その次が見えてくる。

乳房は服に隠れているが、
腹や背中も服に隠れている。
そして、男女問わず、綺麗な背中やお腹を
見たり撫でたりする事を好む者は、
最近よくいる。これは乳房が性的に
なったのと似た流れだ。

そして、裸体への性的興奮は、
乳房という男にはない部位を
中心にして起こったが、
筋肉が発達した男性の裸体に
赤面する女性の描写は多い。

腹にしろ、背中にしろ、筋肉にしろ、
要は下位性的対象化フェチだ。
感情が発達したなら、人は下位性的対象化フェチを持つ。

また、裸体とは相対的であり、
故に裸体への興奮は相対的だ。

例えば、コロナ下では人前で
顔面マスクを着ける事が多くなったが、
素顔を見たり、鼻がチラっと見えた時に
ゾクっと感じる人が出てきたらしい。

更に素顔を見せる事に羞恥を感じる人もいる。
顔が裸の範疇になったのだ。

感情が発達した人類種の感情の高度さや
感情の主体性は、感情の繊細さ、
神経質さとも言い換えられ、
近現代になって、人が裸に羞恥心を
感じる様になった様に、
彼らは素顔に羞恥心を感じる様になって、
素顔に性的興奮を感じる様に
なるかもしれない。

身体の部位について語ったが、
性的化は身体に限らず、服装にも見られ、
下下着パンツを見たり嗅いだりするのに
性的興奮を覚えるのも下位性的対象化フェチだ。

他にも制服や薄長靴下ストッキングも性的視されやすい。
彼らはこれが早期に起こるだろう。


性的な属性と性的対象について語ったが、
次は性愛の形態について語ろうと思う。

高度な感情は相対性を生み、
絶対的な区別が薄れて、
臨機応変になる事が多い。

感情が高度になると、より本質を重んじて、
表面的な部分が流動的になるから、
相対性や多様性が高まる。

異性愛という絶対性は、
感情が発達した個体の前には崩れ、
男は男の娘や男子ショタを可愛いと感じ、
女は美少女に現代絵画イラストを可愛いと感じ、
可愛ければ男でも女でも良いという
両性愛の境地に到達する。

そして、性愛形態における絶対性の
1つに一夫一妻制や浮気の忌避がある。
それが相対化されるという事は浮気が
許されやすくなるのではないかという事。

例えば、性豪「伊藤博文」は、
性風俗をよく利用していたが妻は
その芸者などに感謝の言葉を述べていたり、
夫婦仲は良好だったりと、
愛と性欲を切り分けてる様に見える。

漫画家「小林よしのり」も、
妻帯者でありながら、恋愛をして、
女を抱き続けており、
それでも夫婦仲は良好で、
そういう矛盾じみた状態にこそ、
高度な感情があるのだろう。

高度な感情とは、絶対性を切り崩して、
相対化し、より本質的な部分で区別を行う、
分別をつける態度にある。

男の娘や女装男ニューハーフを好きな者が、
男女という区別を取っ払って、
可愛けりゃいいと、より本質的な区別を
採用する様に、高度な感情とは、
より洗練された本質的な区別にある。

伊藤博文や小林よりのりら夫婦は、
肉体関係があるかという区別を取っ払って、
性欲や性行為の有無ではなく、
愛の有無という、
より本質的な区別を採用したのだろう。

そして、感情が発達した、女性の方が、
肉体関係の浮気を許しやすく、男の方が、
肉体関係の浮気を許せない事からも、
感情の高度さと浮気の容認の関係が見える。

感情が発達した人類種では、肉体関係のみの
浮気なら許されるかもしれない。
許されるとしたら、先に許されるのは、
男性の浮気で、女性の浮気は、
許されるのに時間がかかるだろう。

男性の肉体関係の浮気が
許される事例はあれど、
その逆はほとんど聞かないのだから。

一夫一妻制が採用されていて、
浮気が許されないのは、夫に自分の子供を
養育させる為に夫を独占する為と、
出産回数や育てられる人数に限りがある妻に
必ず自分の子供を産ませる為だが、
社会性²が高い社会なら、
その様な村なら、村全体で子供を育てたり、
困窮してる人に資源や労力を
分配したりなどする筈で、
夫を独占する必要性が低くなる。

夫を独占する必要があるのは、
個人主義で自己責任な社会に原因があり、
個人主義や自己責任というのは、
社会性²の低さその物だ。

浮気で、妻がよその男に孕まされても、
あくまで妻の子だから自分も養うという
区別を夫がすれば、
女の浮気は問題ないだろうし、
自分の子でなくてはいけないというのは
自己的感情から来る。

夫がいない女が、浮気によって、
孕まされたとしても、村の支援があれば、
どうにかなり、子育てに結婚は必ずしも
必要という訳ではない。

そして、感情が発達した人類種において、
同性愛は一般的だろうが、はたして、
同性愛は浮気と言えるのかという疑念がある。

夫からすれば、妻が女性と抱きつこうが、
口唇性交ディープキスしようが、嫉妬しないだろうし、
妻からすれば自分が愛した女性と夫が
性行為する事への抵抗は小さいかもしれない。

すると、夫と2人の妻からなる、
3人の結婚形態が存在するかもしれない。

また、配偶者の同性愛への抵抗が弱い様に、
大人と比較したなら、
おね男の子ショタな浮気への抵抗も小さく、
おね男の子ショタの浮気も許されるかもしれないし、
相対的な価値観の彼らは、
歳の差がある性行為を悪と
見なしたりはしないだろう。


その様に一夫一妻制が弱い事で、
性における純潔思想や規律は弱まり、
売買春への抵抗は薄まるかもしれない。

もっとも、感情が発達した人類種は、
感情主体で、本能が相対的に弱い為、
本能的な性欲が弱く、売春は少ないだろう。

両性愛的で、社会性が高く博愛的な彼らは、
友人関係で性行為するくらいには、
乱交的かもしれなく、だとしたら、
余計に性風俗の必要性は薄れる。

一夫一妻制が弱く、性における純潔思想や
規律は弱いと言ったが、
ない訳ではないだろう。
感情が発達した人類種は、建前を立てて、
建前を破る事を好む。グレーを好む。

それは、意思疎通コミュニケーションで、形式と実態を
乖離させる性質とも関係していて、
日本人女性が情事の際に「いや」「だめ」と
言う事と関係している。

最も人が感情的になって、
高度な感情を発揮するのは
恋愛や性行為においてであり、
形式と実態の乖離は恋愛や性行為で
最も強く現れる。

例えば、感情が発達した人類種は、
「性的な事はダメ」や
「結婚するまではしない」
という建前を社会で共有し、あえて、
それを破る事に喜びを覚えるだろう。

その行為を咎める人はいないか、
いたとしても本音ではなく、「遊び」だ。

背徳感、悪事の共有、秘密の共有という点で、
社会的に悪とされる事が性行為に
深く結びつく事は、愛を深め、
性的な喜びを増幅させる効果がある。

建前とは、社会的な道徳の物と
自分の価値観に基づく物があり、
同性愛も、彼らにおいては、
「普通ではない」とか
「自分はそれに興味はない」みたいな
建前の上で行われたりするだろうし、
「性的な事に興味はない」と普段は
公言した上で、性的な事をするのを好む筈だ。

認知的不協和や自尊心の崩壊に
よる羞恥心などの不快も彼らは楽しむだろう。

高度な性愛の1つに、被虐性愛マゾヒズムがあり、
これは、自分の意思に
反する事をさせられたいという高次メタな欲求だ。

何故そんな性愛があるかと言うと、
「焦り」「不安」「恐怖」などによる
興奮を性的興奮と同一視しているからで、
吊り橋効果と原理は同じだ。

高度な感情は異なる物や感情を
同一視するが、これもそう。

「屈辱」「悔しさ」「羞恥」「不安」
「罪悪感」などの負の感情は、
性愛においては快感になりうる。

彼らは、大丈夫だとわかっていながら、
嫌な振りをする。自ら不快を求める。
遊びだからだ。自分でもどこまでが本気で、
どこまでが建前なのか、彼らはあまり
わかってないのかもしれない。

相手を馬鹿と思っていなくても、
相手に「ばーか」と言い、
悔しくなくても悔しい振りして、
怒ってなくても怒った振りをしたりと、
彼らの意思疎通コミュニケーションには遊びがあり、
建前と本気が、事実と偽りが
ごちゃ混ぜになっていて、それは自分の感情を
ある程度,自在に引き起こせるという事だ。

物語の登場人物キャラに感情移入する様に、
演技的な自分の反応に、感情移入して楽しむ。

ダメじゃないのに、「ダメ」と言って、
実際にダメな気がする事で、
演技に感情移入する事で、彼らは楽しむ。

社会形式

有害思想

社会とは、構成員の社会能力による
結果である社会状態と、社会的文化の中でも
特に社会形式で構成される。

社会形式とは、社会的文化という
その社会で共通する、その社会にいるから
起こる行為の中でも、人間関係や社会その物に
大きく関係する形式であり、
その社会がどういう形式で、 
どういう構造,仕組みなのか。
社会の本質たる部分だ。

前章で、感情が発達した人類種の、
社会能力と社会状態について語ったから、
この章では社会形式を語る事にする。

まず、感情が発達した人類種は
社会形式の1つである有害思想を
欠如するだろう。

不当な人の区別である差別や、
悪でない事が悪とされる不適格な
道徳律などの、悪でない事を
悪とする社会的な物がないという事。

有害思想は自己欺瞞かつ
加害性を原因とする社会形式。

感情が発達した人類種においては、
感情主体であるが故の、
人間関係や文化以外への興味の薄さと
社会的感情の主体性、理性により、
有害思想が広まる事はない。

有害思想は理性の欠如と半端な社会的感情や
強い自己的感情で起こり、善性や共感性などの
社会的感情が ある程度,強ければ、
有害思想を受け入れる事はない。

有害思想を信仰するという自己欺瞞は、
他者に合わせようとする社会性が
要因の1つだが、それよりも、
その有害思想が大衆にとって、
得であるという面が大きい。

有害思想は主に自己的感情によって起こり、
同調性という社会性と我欲エゴ
嗜虐性といった自己的感情で広まるが、
感情が発達した人類種は
社会的感情を主体とし、
それが発達している為、
自己的感情の有害性を抑える事ができる。

その為、感情が発達した人類種に
有害思想は存在しない。

理性や他者を慮る社会的感情の強さにより、
「政治に興味がなく、
考えを押し付けない」女性の様に、
「それは正しいかもしれないし、
間違ってるかもしれないし、
私にはわからない。
だから、貴方にそれを強制しない。
でも、こういう利点と 
こういう欠点があるよね。 それを総合して
どう判断するかは貴方に任せる」
という良識的で中立的な
思想姿勢の人が一般的になるだろう。

感情と事実を分別する理性と、
自他境界を弁える社会的感情から
彼らはとても中立的になる筈だ。

感情の高度さや理性は、
高度な分別や弁えを齎す。

有害思想という思想が
社会に実害を与えるのは、
有害思想が押し付けられた時で、
有害思想を押し付けるという形式でのみ、
差別と不適格な道徳律が存在する。

故に、中立的な思想姿勢の人が 
一般的な社会には、
差別や不合理な道徳律は生まれない。

また、感情が発達してて理性があるなら、
有害思想はそもそも生まれない。

政治,社会の議論とは、
1+1が3に等しいかどうかの議論に等しく、
理性を欠如した人間が、自己的感情で、
事実の認識を歪め、明白に間違った事を、
有害思想を、言い出し、
それに反論する者がいるというだけの話で、
そういう狂人ヒトモドキさえいなければ、
有害思想は存在しなく、
政治,社会の議論は建設的で
穏やかな話し合いとなる。

政治,社会の話がしにくいのは、
1+1=2と言うと激怒する精神異常者ヒトモドキ
いるせいであって、それがいなければ、
政治,社会の話は、数ある知的な事の
1つでしかない。

有害思想は単に、ホモサピが
なくせない物というだけでなく、
ホモサピには必要な物だったが、
感情が発達した人類種には必要ない。

ホモサピは、感情の発達が不十分だったから、
個人の社会性,社会能力だけでは
巨大な社会を運営できず、
年功序列,男尊女卑,身分階級,
宗教の戒律などの有害思想で、
暴力を背景として、構成員に単一の秩序を
強制しなければいけなかった。

個人同士で何が正しいか言い争っても、
感情主体で自己欺瞞的な種の
言い争いに決着はつかないし、
その性質や知能の低さにより、
理論の共有や議論ではなく、
感情の伝染でしか、ホモサピという種は
意思を統一できないのだから、
共感できる要素のある有害思想が
社会を統一,形成する事になる。

共感できる、認められる有害思想とは
多数派や力がある者が得をする物で、
社会全体では得である。

大抵の種、頭数や人口が増減しない種は、
できる事,全てをして、ギリギリ生きれ、
絶滅しない程度で、人類も近現代を
除けばずっとそうで、
不合理な社会や不合理な社会的文化、
不合理な有害思想は存在しえない。

ホモサピは認知革命を起こして、
有害思想を獲得する事で、文明を起こし、
猿ではなく知的生命体になったし、
有害思想はとことん合理的で、 
愚かに見えて、現状の生物としては、
最も高度な行為だ。

チンパンジーは、神がいると、
1+1が3に等しいと妄想できず、
ホモサピはそれができる。
その違いが全てを分けた。

ホモサピが知的生命体だと言えるのは
有害思想がある事が主な要因で、
ホモサピやホモサピの社会の本質が
有害思想であり、ホモサピが
他のホモ属やヒト科と違うのは、
有害思想を持っている事だ。

ホモサピの本質的な強みは
巨大な群れを創る事、
顔も知らない人と同じ群れを創る事、
社会的文化、主に有害思想で、
抽象的な認識で1つの群れを創る事であり、
文化の発展や蓄積も
巨大な群れがないと起こらない。

有害思想こそが、地球生物の最大の発明で、
ホモサピの本質だ。

有害思想は巨大な群れを創り、
文明を起こし、社会的文化を
蓄積,発展させた最高の発明で、
抽象的な事で複数の個体が
まとまるというとても高度な事だが、
見方を変えれば、
感情の発達が不十分だったから、
個人の社会性,社会能力だけでは、
巨大な社会を運営できず、
導入したに過ぎないとも言える。

巨大な社会はホモサピしか
築けていなく、ホモサピの特殊性、
知的生命体らしさが
有害思想に由来する事を考えたら、
「ホモサピは万物を思い通りに
創造する能力がないから、仕方なく、
文明を起こした」みたいな言い方だが、
有害思想はつまる所、巨大な群れを
創る1つの方法に過ぎず、
知的生命体はその方法によって、
定義付けられるのではなく、
結果である巨大の群れで
定義付けられるべきだ。

有害思想は社会性の1種であり、
巨大な群れの形成には社会性が必要であり、
社会性,社会能力が発達した人類種なら、
有害思想がなくても、社会は築ける。

まず、社会の意思を統一するのは、
小規模なら有害思想など必要なく、
話し合いだけで済む。

個々の人同士で同質性を共有し、
効率性の為の役割分担を決めて従い、
そうしめ社会を形成し、
構成員の要求をまとめあげて、
それらを効率よく満たす様に行動し、
その時々で社会を変化させる能力が社会性だ。

だが、人数が大規模になると、
ホモサピの純粋な社会性だけでは
社会が成り立たなくなるから
有害思想が必要になり、
有害性は社会性の不足を補う為に存在し、
社会性が高い人類種には必要ない。

また、自己的感情が弱く、社会的感情が強く、
善性や共感性が強い彼らは
有害思想を受け入れられない筈だ。

感情主体の女性は綺麗事や理想論に
偏りがちな面もあるから、
女性的な、感情が発達した人類種が、
有害思想を持たない事に
違和感を抱くかもしれないが、
感情主体の人というのは、
綺麗事や理想論を言ったとしても
理性がある限りは、その認知の歪みは
一定の程度を超える事がなく、
つまり、本当に狂う様な事はない。

それに、自分でも綺麗事や
理想論だとわかりながらも、
願望や方法論,道徳論として
それを言う事は狂気ではない。

例えば、「本当に悪い人はいない」と
言う女性が本当にそれを事実と
思っているとは限らなく、
「どんな悪い人にも、ひとまずは、
何かしらの事情があったと考え、
悪人への憎悪に溺れて認知を歪めずに、
冷静に、その人がどうしてそれをしたのか、
その人がどれくらい悪いかを考えるべき」
という、考え方の方法論だったり、
「どんな悪人にも憐れみを持ち、
罰を与え、裁くとしても、
人間に対する普遍的な愛を忘れたくない」
という道徳論かもしれない。

「非言語意思疎通コミュニケーション」でも語ったが、
高度な感情表現とは、
形式的な意味と実際の意味が乖離しやすく、
文字通りの意味とは限らない。

真偽を理解しながらも、
真偽をごちゃ混ぜにして「遊ぶ」のが、
遊びを持たせるのが彼らだ。

感情が発達した人類種における言語は、
誰がどういう状況で言ったのかに
大きな意味があり、それを知らないと、
その文章の本当の意味はわからないだろう。
文章の意味は意図にある。

感情豊かな女性のそういった、
裏のある発言の形式的な意味だけを
読み取って、感情論だとか綺麗事だとか
思ってしまうのは真に知性的とは呼べず、
知性偏重主義で感情を軽視した結果だ。

そして、「高度な社会」で語ったが、
感情が発達した人類種は、
我欲エゴが善性などの社会的感情で
抑えられるから、加害行為が少なく、
社会的感情の発達からくる人の心の理解力で、
社会衝突トラブルも少ない。
つまり、彼らの社会では罪の総量が少ない。

更に、悪事の大半は有害思想に依る物で、
彼らに有害思想がない事を考えれば、
罪の総量は更に少なく見積もられる。

同じホモサピで、同じ先進国かつ
民主体制の日本とアメリカで、
10万人あたりの殺人事件発生率が
0.23と6.58と約28倍も違い、
最も高いタークスという国は76で330倍。

じゃあ、国ではなく人類種が違って、
政治体制などの社会の仕組みや
構成員(民族)の気質が大きく異なると、
それよりも、もう少し、
殺人事件の発生率が変化するのかと言うと、
それだけでは済まない。

現代では、独裁的な小国が、
戦争などで大量虐殺したりすると、
国連軍が派遣されたりし、例え、
民主体制ではない貧しい小国でも、
中世の様な国家の悪事が
できない事を考えれば、
異なる時代や文明を持ってない頃の
ホモサピの集団と日本の比較を
参考にすべきで、その場合、
殺人事件の発生率は、
数万倍程,違ってもおかしくない。

姥捨てや間引き、仇討ちなど、昔は、
結婚や葬式の様に、殺人は日常の1つだった。

つまり、感情が発達した人類種の
罪の総量とホモサピの罪の総量を比較したら、
数万倍の違いすらありえて、
彼らの社会における殺人は、 
結合双生児の存在くらい、
「この広い世界には存在するらしい」
程度の非現実な事だったり、
警察が必ず動く様な、非日常的な程度レベルの悪事は
ないと言ってもいい程度レベルなのかもしれない。

現代日本では1年に276人が殺人に遭うが、
この1万分は、36年に1件であり、
現実味は非常に低い。

感情が発達した人類種でも現代文明以前は
殺人事件の発生率が高いだろうが、
その時代の人にとっての殺人は、
現代日本人にとっての殺人と
同じくらいの認識で、葬式や病死くらい、
殺人がある程度は日常の範疇だった、
中世や近世の時代と同じ時代は、
そもそも、存在しないかもしれない。


防衛礼儀

次に語る社会形式は防衛礼儀。
有害思想は自己欺瞞かつ加害性が原因で、
防衛礼儀は加害性が原因で、
自己欺瞞かどうかは個々で違う。

防衛礼儀についておさらいする。
ホモサピにおいて、角が立つ個体は
集団から迫害されたり、処刑されたりし、
角が立つ個体が現れなくなって
終わりではなく、平均から逸脱した個体が
次の対象で、故にその処刑に終わりはない。

集団から嫌われず、より多くの人に
好かれる為の競争、好意の広さの
競争である社会性競争が激化した結果、
迫害されたり、処刑にされる理由は
だんだん言いがかりになる。

その競争の結果、過剰に丁寧で、
相手を立てる社会形式が生まれたり、
わかりやすい礼儀規則マナーを設定する事で、
迫害の対象をわかりやすくし、
わかりやすくする事で安心感を得ようとした。

日本はそれが顕著で、
「やめろ」を「申し訳ありませんが、
ご遠慮します」と言ったりなど、
相手の機嫌を損ねない為の言葉を入れたり、
遠回しな言い方をし、同調圧力が強く、
村八分や、学校での陰湿ないじめも多い。

社会性競争は自己家畜化や
幼形成熟を引き起こし、それがホモサピの
感情や社会性を発達させ、
知性も付随して発達したが、
日本人は外部に敵がいなく、
暴力性が内に向かった為、
社会性競争が強く起こった。

その結果、礼儀規則マナーや礼儀などの
防衛礼儀が発展したし、
社会性競争が激しいから同調圧力が強い。

日本の接客は外国から高い評価をされるし、
謙遜や礼儀正しさ、真面目さ、
丁寧さあたりは高い評価をされる。

これは、日本人において、
社会性競争がより激しく起こり、
より防衛礼儀が発展した事を示し、
そうせざる負えなかったと考えると、
陰湿さや性格の悪さの裏返しとも言える。

日本人は社会性競争が強く起こったから、
自己家畜化や幼形成熟ネテオニーが強く起こり、
「身体的特徴や発達」でも述べた様に、
日本人は子供っぽい容姿で、
第二次性徴が弱く起こり、
「非言語意思疎通コミュニケーション」や「男女の社会的位置」など多くの章で、
高度な感情を持つ人類種の性質を
推察するのに、日本人の実例を使った。

自己家畜化による感情の発達で
知性も付随して発達するが、
東アジアは世界で最もIQが高い地域で、
統計元にもよるが、
日本が1位とされる事が多く、
韓国や中国も同じくらいだ。
東アジアが上位を独占する。

さて、自己家畜化や幼形成熟ネテオニー
強く起こったから、感情が発達したし、
感情が発達したから社会性競争は発展し、
防衛礼儀が発展したが、
感情が更に発達すれば、
むしろ、防衛礼儀は衰退するだろう。

有害思想もそうだが、
防衛礼儀は加害的だから、ある程度、
社会性や善性が発達した個体の社会には
受け入れにくい。

防衛礼儀は言いがかりなどの
理不尽な形式での加害や
集団からの迫害を恐れた結果で、
集団での迫害に人々が参加する動機も
集団から迫害されない為に、
集団に従順であろうとした結果で、
相互的な脅迫で社会は強く団結できたが、
その構造には人々の加害性や
反社会性がある程度は必要で、
社会性や善性が発達した個体の
社会でそれは起きないだろう。

集団から迫害されない為に、
集団に従順であろうと、集団による迫害に
参加しようというのは、
集団による迫害を止めようとしないのは、
利己性であり、社会的感情が
十分に発達すれば、集団による迫害を
止める側の力が優勢になる。

そして、こういう時は必ずこうするなどと、
杓子定規で臨機応変さのない形式、
防衛礼儀は、社会に不合理さを齎し、
防衛礼儀がない社会との競争に敗れる。

社会性²に寄与する画一的な行動が
社会の中で広まっているのは
そうでない猿の群れよりは良いが、
画一であるが故に粗さが、
最適との差が存在する。

社会性²が最も高くなるのは、
社会性に寄与する行動を構成員が
全員しながらも、それぞれが
ある程度,独自にそれを行っている状況で、
全員が同じ様な行動をし、最適な行動が
何であるかが変化しても、
他者からの迫害を恐れて、防衛礼儀の変更を
提案できない社会は不合理だ。

防衛礼儀は全員が同じ事をする事を強制し、
個々が状況に応じて臨機応変に、
より最適なやり方をする事を否定するし、
集団全体で防衛礼儀を変えようと
しても反対される。
防衛礼儀は信仰性があるから。

構成員の社会性が5の社会では、
防衛礼儀がある方が良くなるが、
構成員の社会性が10の社会では、
防衛礼儀がない方が良い。

ただ、彼らの社会で、
防衛礼儀がないとは言っても、
礼儀や気遣いや礼儀規則マナーはある。
彼らは社会性が高いのだから、
ホモサピよりそれらに熱心だろう。

だが、それらが過剰に神経質だったり、
杓子定規で臨機応変でなく、
不合理になってしまったりはしない筈だ。

気遣いなどの善性による行為で、
多くの場で有用な物が広まって、
よく行われる様になるだけで、
社会形式として組み込まれて、
絶対的な物になったりはしない。
せいぜいが文化になるくらいだ。

感情が発達した人類種は相対的であり、
より本質的な価値を元に区別し、
表面的な形式に囚われる愚を犯さない。

彼らの礼儀,気遣い,礼儀規則マナーは、
社会能力の結果である社会状態であって、
社会形式ではない。

彼らの社会に大衆はいないだろう。
大衆とは有害思想を信仰し、集団からの
加害を恐れて防衛礼儀を行ったりして、
自分の個人性を抑圧して振舞う個体の
事であり、有害思想と防衛礼儀が
ない社会に大衆はいない。

「刺し箸はいけない」や
「食事でテーブルに肘を置いてはいけない」
などの不合理で無駄でしかない礼儀規則マナー
彼らの社会にないし、
御辞儀判子などの陰湿さの
裏返しでしかない過剰な礼儀はなく、
敬語はより単純明快シンプルになるだろう。

信仰

感情が発達した人類種は、形式的な意味と
実際の意味を乖離させる事が多いが、
この真意のわかりにくさで
複雑化する話として、信仰の有無がある。

有害思想は信仰の一種であり、
彼らにそれはないが、
信仰その物がないかは別の話だ。

感情が発達した人類種における信仰、
もしくは信仰ぽい物は日本人と
似た物になると考えられる。

例えば、「あの世で元気でいるといいな」
と言って個人を思いながらも、
心の奥底ではあの世がないと思ってて、
「あって当然。逆にない方がおかしい」
などとは思わない様な形だ。

本当に信仰がある人は、 
「神はいない」という考えは
意味がわからなく、突拍子がなく聞こえ、
「世界はある。なら、その創造者が
いないとおかしい」と思うし、
明確に、神もあの世もあると思ってて、
「あったらいいな。きっと、あるよ」
なんていう日本人的な考えとは
全くもって異なる。

感情が発達した人類種は、文化的で、
想像力が豊かで、架空を好むから、
創世神話を考えたり、幽霊や妖怪や神などの
架空の存在を考えたりして、楽しむだろう。
それが実際に存在するかの様に
振舞って楽しむだろう。

だが、本気でいるとは思ってなく、
縁起担ぎジンクスやマーフィーの法則などの錯覚的法則性や
占いなどを楽しむのと同様だ。

「恋愛や情」でも語ったが、
彼らは真偽を理解しながらも、
真偽をごちゃ混ぜにして遊ぶという
高度な事が可能である。

だから、まるで信仰を
持っているかの様に振舞う事がある。

彼らは感情主体で、楽しさ本位で、
現実についての関心が薄く、
誤りを恐れる誠実さもあるから、
彼らは理性や良識さ、中立性があり、
楽しさ本位なので絶対性を持たず、
相対の中に生きる。

彼らが何かしらを楽しむ時、
遊ぶ時や談笑する時、それは設定を前提にし、
その時々に、楽しめる設定を採用し、
現実も設定の候補に過ぎない。

非言語意思疎通コミニュケーションが、空気が発達している彼らは、
遊びの場と現実的な場を、
空気として分別をつけていて、
遊びの場では、現実と異なる設定も採用する。

マーフィーの法則も占いも
縁起担ぎジンクスも楽しむが、それは遊びの場だと
理解した上でしていて、
占いや宗教で人生や生活の判断を
する様な愚かな行為はしない。

遊びとは、真偽を理解しながらも、
形式的に真偽を反転し、
架空や振りを楽しむ事であり、
感情や知性が発達した種で行われる。

だから、感情が発達した人類種は
ホモサピよりも遊びが多くなる筈だ。

遊びとは「遊ぶ」事だけを指すのではない。
余裕、臨機応変さ、 あえて細かい所までは
決めずに、その場の状況で判断する空白、
相対性も意味する。

彼らは、遊びをたくさん行うだけでなく、
多くの物事に遊びを持たせるだろう。
彼らは遊び心に溢れているし、
遊びは無意識の判断である直感が優位で、
遊びは直感で行われる物だからだ。

真面目さは言語化できる合理性で、
遊びを持たせる事は、言語化しずらい合理性。
逆説的な言い方をするなら、
遊び心は正しい不真面目さ。
真面目とは杓子定規で、
臨機応変さに欠ける不合理さを意味する。

全てを理解し、意識化、 
言語化する事は困難だから、
言語化できない認知、直感を軽視すれば、
判断の精度は粗くなる。

真面目さの過剰は不合理に繋がる。
真面目さは絶対的な善ではなく、
感情が発達した人類は社会性が高く、
博愛的で、善性が発達しているが、
彼らは真面目で堅苦しい人間とは真逆だ。

意識で大まかにあたりをつけ、
無意識でより細かく絞り込む事が
人間の判断や行動であり、
無意識が優位な彼らは、
意識でのあたり付けがより大まかで、
無意識での絞り込みの方がより行われる。

無意識でなんとなく調整された合理、
最適性を、意識的である真面目さは
破壊してしまう。

話を戻すと、彼らは、信仰もしくは
狭義の信仰は持たなく、
故に狭義の宗教も持たないだろう。

宗教ぽい物は生まれるだろうが、遊びとして、
文化としてしか、それは存在せず、
生活や人生に大きな影響を与える事はない。

宗教が社会形式に属する事はなく、
それは文化の範疇に収まるだろう。

神話,縁起担ぎジンクス,礼儀,道徳などを
ごちゃ混ぜにした様な物が彼らの宗教であり、
礼儀や道徳などが架空によって、
理由付けされる事はあっても、
架空による理由付けで
悪でない事が悪にされる事はない。

ホモサピの宗教に含まれる有害思想、
悪でない事が悪とされる事は
彼らの社会に存在しないからだ。

現実的な事の判断に宗教や架空を
持ち出す事はないだろう。
遊びと現実の違いを弁えるからだ。

ただ、現実的な場にある細かな、
(それの逆の意味としての)非現実的な
部分に目をつけて、
遊びを持たせる事はあるだろう。

現実的な場、真面目でなくてはいけない場と
非現実な場、不真面目であるべき場は
混在していて、綺麗に割り切れる物ではなく、
現実的な場と思われる物にも
所々、非現実な部分がある。

それを一括りに現実的な場だとして、
不真面目さを排除するのは分別ができてなく、
彼らはその分別ができる。


遊び心とも言える不真面目さと
真面目さを両方,持ち、
分別をつけられるのが彼らだ。

ホモサピは愚かだから、
わかりやすい基準しか使えず、分別をしない。分別をしないから、表面的な事に囚われて、
杓子定規になってしまう。
杓子定規は思考の放棄だ。

19歳の飲酒を咎める者は善ではなく愚。

彼らの持つ宗教ぽい物は、
信仰ぽい物はあくまで文化だが、
ホモサピの宗教や信仰は
社会形式になりがちである。


現代社会

現代社会の特徴に社会性²の低下がある。
社会性²とは、社会の社会性、
人間関係の深さと多さから
なる人間関係の総量、単なる複数の個人なのか社会なのかを決定する値。

近代の終わりから現代にかけて、
社会性²は低下し、家族,村,会社,学校などの
下位社会はそれが特に顕著だ。

社会性²の低下は資源的な豊かさと、
現代的な法理念である自由主義や
個人主義などによる社会形式の変化、
社会的文化の急激な変化で起こった。

資源的に豊かな社会では、
1人でも生きられる為、
人間関係の煩わしさや精神損傷因ストレス
避ける為に、より1人になろうとする。

社会は基本的に構成員の同質性を本質とし、
その為に、構成員に同質性を強制する事が
ホモサピの社会の本質で、
それは個人の自由を侵害する物だ。

全ての構成員に特定の同質性ではなく、
いくつかの種類に分けて、
それぞれで異なる同質性を
求める場合は差別と呼ばれる。

だが、個人の自由への侵害や差別は
現代において、強く忌避され、
個人の自由への侵害や差別こそが
ホモサピの社会の本質であったが為に、
社会はより社会的ではなくなり、
社会性²が低下し、
単なる大量の個人となった。

国家はまだ国民に何かを強制する力が強く、
社会性²がある程度はあるが、
国家の下位社会では、
構成員への同質性の強制力が大きく低下し、
社会性²が大きく低下した。

家族からお見合いを強要されたり、
進路や人生を勝手に決められる事は減ったし、
父親が子をぶつ事も減った。

近隣住民との社会である村は消滅し、
村八分や村民同士の陰湿な陰口、
村から追い出されるなどもなくなり、
互いに無干渉になった。
隣人の顔など覚えていない。

学校で教師が生徒をぶつ事はなくなり、
私生活に干渉する校則も減った。

会社で激務を強制されたり、
嫌がらせハラスメントも減った。

つまり、社会が存在する事での構成員への害、
社会性不合理は減った。

その代わり、家族愛は薄れ、
結婚しろと圧力を掛けられたり、
お見合いをさせられたり
しなくなったから、結婚しなくなった。

拡大家族から核家族に移行する事で、
祖父母が子供夫婦の子育てを
手伝うという人の生態が消滅したし、
祖父母と子供夫婦や
孫の人間関係も薄くなった。

村民同士の付き合いや行事もなくなり、
隣人を心配する事も、
隣人に心配される事もなくなった。

会社は家族的な共同体の側面もあって、
社員旅行や忘年会などの行事もあったが、
それらもなくなった。

人間関係の総量が減る事で、
人からの加害は減ったが、
助け合いもなくなった。

つまり、社会性²が減る事で、
社会性不合理が減少したが、
社会性合理も減少したのだ。

人の加害というわかりやすい損を、
社会性不合理をなくそうと、
社会性²を低下させたら、
人間関係や共同体の助け合いや
人の温かさなどの社会性合理という
わかりにくい得もなくなってしまった。
はたして、損と得、どちらが大きかったのか?

人は群れる生物だから、1人では精神を病み、
異常な程に豊かな時代なのに、
昭和前期よりも遥かに、精神疾患は多く、
幸福感は下がるばかり。

同じ社会性²でも、人口が大きい社会での
社会的行動の方が社会的感情は満たされなく、
人口が大きい社会での社会的行動は
受動的な物が多くなる。

特定の誰かを助ける事と、
政府という実体のない機関に
強制的に徴収された金が福祉に充てられる事、
どちらが社会的感情を満たせるかは明らかだ。

科学技術の目覚ましい発展で、
社会的文化は急激に変化しているが、
人は若く幼い時期に社会的文化を習得する為、
老いた世代は、新しい社会的文化を
習得できず、世代によって、
社会的文化が異なるせいで、
世代ごとに別の下位社会に
属している状態になった。

世代という新たな下位社会の存在に
社会性²を吸われる形で
国家の社会性²は減少した。

現代というより近代に入ってからの
話だが勤労も変化した。
近代において、会社が大規模化した事で、
人は自分が何の為に、誰の為に働いているのかわからなくなって、
社会的感情が欠乏している。

昔なら、靴屋にしろ、麦綿パン屋にしろ、農家にしろ、
自分の労働が誰の何の為になるのか
わかっていて、やりがいがあったが、
近現代的な、大規模な会社は、
様々な部署で業務を専門化する為、
全体の意味と自分の業務の意味が
繋がらなくなっている。

現代社会の欠陥は、社会性²が低くなる事での
社会性合理の低下であり、
社会性²を下げても、社会性不合理より
社会性合理の方が減るのに、
政治,社会思想を理由に、
社会性²を低下させようとするから、
社会性合理は下がって、
社会性不合理はあまり下がらない。

社会性²の低下は、有害思想の影響が大きい。
反女性差別主義フェミニズムだとか、
LGBTへの差別反対だとか、
既に歴史的役目を終えた社会思想が
存在しない問題を解決しようとする事で、
有害思想となり、社会が破壊され、
無秩序になる。

反女性差別主義フェミニズムは女性の優遇を、
人種平等主義は黒人の優遇を、
少数派属性マイノリティへの配慮は攻撃的平等性ポリコレを生んだ。
正しい社会思想でも歴史的役目を終えると
有害思想になる。

有害思想は特別な配慮を求め、
例外がここにもあるぞと、私は例外であると、
社会の画一性を破壊し、社会性²が下がった。

自由や平等が尊ばれ、
社会的である事より利己的である事が
尊ばれる様になって、
有害思想は我欲エゴで肥大化した。

社会を破壊する事で、
自分の幸福を大きくする様な
有害思想が肥大化したのだ。

有害思想はあらゆる時代の
あらゆる社会が持っているが、
有害思想は現代で活発化し、
本来は社会性²を上げる働きがあったのが、
今では社会性²を下げる働きになった。

ホモサピだろうが、どんな生物だろうが、
99.9%の時期は、人口や頭数が
増えも減りもせず、せいぜい、
とても遅い速度でゆっくり、
増えたり減ったりするだけだ。

頭数が増えも減りもしないと言うのは、
最善に近しい生活,広義生態で、
できる限りの事をした状態で、
ギリギリ餓死せずに、
子供を必要な数だけ育て、生きられる状態だ。

もし、余裕があったのなら、
余裕をもって子供を育て、
生きる事ができたなら、
種の頭数を維持するのに
必要な数以上の子を育てれて、
そうするから、種の頭数は増え、
頭数の密度が増え、1匹あたりが
獲得できる資源の量が減り、
また、同じギリギリの状態に戻る。

生物は基本的に余裕がなく、
できる限りの事をした、今,考えられる上で
最善の広義生態なのだから、
何かを変える事はできない。

今,考えられる上で
最善の広義生態である時に、
広義生態の何かを変えれば、
99.9%、悪い方に変化し、
ギリギリ生きられる状態から、
ギリギリ生きられずに
種が絶滅へと向かう状態になる。

だから、有害思想は強い制約を受け、
社会に必要な、
社会性合理を上げる有害思想しか、
広まる事はなかった。

有害思想にしろ、正しい社会思想にしろ、
社会の得にならないなら、
本来は受け入れられない。

有害思想は悪であるというだけで、
ないよりある方が
社会にとって得だからあるのであり、
社会にとって損なら存続できない。

子を売らねば、家族が全員、
餓死する状況に陥る家庭が大量にある時代に、
「子を売ってはいけない」という思想が
広まる訳ないし、黒人奴隷が廃止されたのは、
奴隷の存在が大して
必要じゃなくなったからだ。

また、ある有害思想の導入で、
社会性²が上がり、社会が豊かになり、
人口密度が増加すると、
1人あたりの資源量が減って、
人口が増えない状態になり、
ギリギリの状態に戻るが、この時、
有害思想を撤廃すれば、有害思想を
導入する以前の人口になるまで
大量の餓死者が出る事になる。

だから、結果的に豊かさは変わってないのに、
ギリギリなままなのに、
有害思想だけが増え、発展した。

これは文明や技術の進歩でも
ずっと起き続けた事だ。

だが、現代社会は異なる。
異常に豊かで、何もかも余ってる時代。
本来はその分、人口が急激に増加して、
いつものギリギリの状態に戻る筈が、
少子化という文明病によって、
それが起こらなくなった。

そして、異常に豊かで、
何もかも余っているから、
社会の快の総量を下げる有害思想が
簡単に広まってしまう。
広まっても、何とかなるくらい、
社会は豊かだからだ。

社会性合理を上げる方法は少ないが、
社会全体の快を増やす方法は少ないが、
社会性不合理を上げたり、
一部(自分)に得をさせて、
他や全体を損させる様な方法は
いくらでもあり、だから、現代社会において、
政治,社会思想に基づく政策は大抵、
社会に害を及ぼすだけで終わる。

それに、社会が豊かになればなる程、
本能が満たされる程、
構成員は感情的になって、
現実論ではなく理想論に偏るから、
現実に合わない理想を導入して、
弊害が生まれてしまう。

本来はギリギリだから、現実に合わず、
導入したら弊害が生まれる理想を
導入したら大量の餓死者などの
大きな代償があったが、
今はそうじゃないから、それができてしまう。

社会が豊かになり、
1人でも生きられる様になって、
自意識が増大した結果、
義務や責任を毛嫌いし、
人の為に何かしたくなくなり、
社会行動が減少し、
社会が単なる大量の個人になっていく。

社会性²が低下し、社会性合理が減ったし、
有害思想で社会性不合理は増大する。

現実を見ない感情的な国民が
有害思想でゴミみたいな政策を支持し、
社会を悪い風に作り変えるという
社会性不合理の増大と、個人主義的で、
我欲エゴばかりになって、
社会性²が低下する事で、
社会性合理が減少した。

だから、現代社会は不合理で、
これこそが現代社会の最大の欠陥だ。

自由は殊更、賛美され、
自由を制限する要素は、
全て自分を不幸にしたり、
自分ではなく社会や誰かの為でしかないと
思われているがそうではない。

覚醒剤を使う自由は不幸しか生まない様に、
人とは、ある程度の愚かさを持つから、
自由にする事でより不幸になる事がある。

5歳児に契約する能力や、様々な同意能力や、
煙草を吸う自由を与えたって、
不幸にしかならないだろう。

ホモサピだって、生まれが違えば、
9割の人が黒人を動物だと思って、
狩り殺すくらい、愚かな生物なのだから、
その自由は、例え、私的な領域だろうと、
制限されるべきだ。

お見合いや許嫁、親や世間からの圧力などで、
半ば強引に結婚させられてた方が
人は幸せだったかもしれないし、
人間関係の煩わしさで、
短絡的に1人を選べば、
長期的には不幸になるかもしれない。

わかりやすい損失デメリットを避けて、
わかりにくい得益メリットを逃し、
短期的には良くても、
長期的には悪いなんて事は多く、
個人的には不幸でも社会全体では得で、
故に巡り巡って、
自分も得という事だってある。

子供を作り育てる事自体は、
もしかしたら損の方が大きいかもしれないが、
子供を作る人の社会と作らない人の社会なら、
前者の方がより豊かな社会になり、
個人の平均的な幸福度だって、
前者の方が高くなる。

有害思想の存在はホモサピの
社会の欠陥だが、有害無益なのに、
色々な原因で仕方なく存在し、
取り除けないのではなく、
社会性が低いホモサピには必要なのだ。

基本的に、有害思想は社会性合理かつ
社会性不合理だが、
合計で見れば社会性合理で、
近代以前の、通常の社会なら、
社会は生物の様に社会的文化が最適化され、
有害無益な有害思想は淘汰される。

性差別で役割を固定化しないと、
人々はバラバラに行動して、
社会は崩壊していただろうし、
黒人奴隷は白人にとって得だった。

江戸時代では、農民を搾取し、差別しないと、
力を持たれて、その圧倒的な人口比により、
幕府が転覆させられたかもしれない。

身分階級という差別なしに
広い地域を統一する事は不可能だろう。

自由を抑圧し、差別する有害思想の多くは
合計して社会性合理であったが、
異常に豊かな現代社会では、
なくすのが損でもなくす事が可能だったから
短絡的な感情でなくなったし、
社会性不合理でしかなく、
現代以前なら広まらなかった様な
有害思想は広まる様になった。

得な有害思想が消え、
損な有害思想が生まれたのだから、
より不合理な社会になるのは当然だ。

【まとめ ホモサピの現代社会
社会性合理が減少
・資源的な豊かさにより、
構成員の社会性が減り、社会性²が減るから
・有益な有害思想が減るから

社会性不合理の増大
・損な有害思想が増えるから】

では、感情が発達した人類種はどうか?
彼らは社会性が高く、社会性²が高い。

そして、有害思想をそもそも持ってないから
「損な有害思想が生まれ肥大化し、
有益な有害思想が減る」
という事が起こらない。

社会性²が元々,高いから、
現代社会に到達しても、
ホモサピの社会よりは社会性²が高いだろう。

1人で生きられる様になっても、
社会的感情を主体として、
人間関係の世界に生き、
対人能力が高い彼らは、
社会的行動を好むから、現代社会になっても、
社会的行動はあまり減らない。

「有害思想や差別」は基本的に
社会性合理であり必要だと言ったが、
それは構成員の社会性の低さから
必要なのであって、感情が発達していれば、
有害思想は不必要だ。

社会性さえ高ければ、
強制されなくても、社会行動をによって、
自然と同質になったり、同質にならなくても、
社会性²を上げる様な行動ができる。

有害思想がなくても、それがある以上に
社会性²を獲得できる社会では、
有害思想があっても社会性合理は増えなく、
有害思想に依る社会性不合理だけが残る為、
有害思想は不合理でしかない。

日本人はホモサピの中では、
感情が発達している方だが、
哲学者のガブリエルは日本を
社会主義の様だと言った。

これは、個人の自由が
抑圧されている社会主義国の様に、
国民がみんな同じ様な生活をし、
強制されなくても、すんなりと、
社会の合理に従っているという事だ。

コロナでは国民が自ら、口面マスクをつけて、
コロナ対策をしたりしていたが、
海外では口面マスクへの反発が大きかった。

つまり、社会は基本的に
構成員の同質性が不可欠で、
ホモサピの社会は、それを強制や
有害思想という形で実現していたが、
構成員の社会性が高ければ、
強制しなくても、自ら同質になる。

だから、感情が発達した人類種には
有害思想が必要ない。

もっとも、日本人の場合は、
単に構成員の社会性が高いから
有害思想以外の形で
同質性を持っているというより、
防衛礼儀によって同質性を
持っている側面がある。

感情がそこそこ発達してれば、
有害思想が減って、防衛礼儀が強まり、
更に感情が発達すると、
防衛礼儀もなくなるという感じだ。

日本人の礼儀正しさや謙虚さ、同調性、
気配りなどの社会性が高い行動は、
単に社会性が高い人格というだけでなく、
防衛礼儀という利己性や陰湿さの
裏返しの側面がある物を持った結果でもあり、
感情が更に発達すれば、
防衛礼儀はなくなって、
純粋に構成員の社会性で、
社会の社会性²が決まる。

有害思想ではない、強制ではない事による、
同質性として、口面マスクの例を挙げたが、
あれは防衛礼儀としての側面が強く、
防衛礼儀は有害思想よりは
間接的とは言え、強制的である。
同調圧力は強制ではないが、半ば強制だろう。

社会性²が高い場合、現代社会に到達しても、
国家に属する下位社会が存在できたり、
下位社会が社会性²を維持できる。

彼らの現代社会では、
ホモサピの現代社会にはない、
家族の上位社会である村があり、
近隣住民と社会的文化を共通して、
村で祭りや儀式をしたり、
村民同士で食材を分け合ったりなど、
交流があるだろう。

会社は単なる勤労という契約を
果たす場ではなく、学校は授業を購入して、
それを受けるだけの場ではなく、
そこは社会であり、
家庭に似た場所になる筈だ。

あらゆる社会は、家庭を元型とし、
大まかに同じ序列の構成員は兄弟、
上の序列の構成員は親、
下の序列の構成員は子の関係に近しい。

社会性²が高い社会程、それは家庭的であり、
構成員の関係は家族関係に似る。

もっとも、社会の規模が大きく、
社会的行動の直接性が下がると、
非家庭的になるが。

彼らの社会においては、
終身雇用制が一般的だろう。
その雇用形態が家庭的だからだ。
日本も外国に比べて、それが多い。昔は特に。

彼らの家族は、核家族ではなく、
3世代以上が同居する拡張家族で、
成人しても家を出ず、結婚すれば、
配偶者と子を実家に呼ぶ形になるだろう。

子供の頃は親と祖父母がいて、
大人になると祖父母が死に、
その代わり、配偶者や自分の子供が
そこに住むという流れになる。

最も祖父母の寿命や前世代との
年齢幅によってはそうでもないが。

また、現代社会の特徴に
晩婚化や非婚化とそれによる少子化がある。
晩婚化の原因として、社会性²の低下、
人間関係や社会行動の総量の減少によって、
結婚する機会が減った事が挙げられる。

サイコロを振り続ける時、
6の目が出るまで振るのと、
偶数の目が出るまで振るのでは、
後者の方が早いという話だ。

6の目が中々,出ずに30代後半や
40代になると結婚自体ができなく、
結婚数の減少と晩婚化は
同じ現象の2つの側面だ。

結婚数の減少や晩婚化は、
結婚する機会が少ない事が原因だが、
それは社会性²の低下が原因だから、
彼らの現代社会では、非婚化や晩婚化が、
あまり起こらないと考えられる。

江戸時代や近代でも、生殖能力の獲得や
身長の成長が停止する年齢、
成熟個体になる年齢と、
初婚,初産年齢は乖離してたが、
これも社会性²に問題がある。

江戸時代では、次男以下が土地を
受け取れなかったり、
奉公や分家の準備が必要な為、結婚が遅れた。

近代だと、産業革命で労働が複雑化し、
労働に習熟して、結婚できる経済能力を
得るまでに時間がかかったから結婚が遅れた。

更に、現代は核家族であり、
祖父母は子供夫婦の子育てを手伝わず、
金銭的な支援も行わない事が、
成熟年齢と初婚年齢の乖離を増大させている。

「対若年性成熟性嫌悪」という
有害思想による異常に高い成人年齢や
学歴競争も原因だ。

対若年性成熟性嫌悪は要は、
14歳に自慰や性行為は有害で、
18歳は子供であるという信仰だ。

「対若年性成熟性嫌悪」は
「若者の成熟性や性行為が嫌悪される理由」
で解説している。

現代にしろ、近代にしろ、中世にしろ、
成熟年齢と初婚,初産年齢が
乖離する原因は社会性²の低さ。

文明を持ってない頃の人の群れの様に、
群れにいる子供を群れにいる大人全体で
育てる場合、成熟年齢と初婚年齢は
乖離しない。

夫婦だけで、夫婦と祖父母だけで、
育てようとするから、
それができるまでに時間がかかるのであって、
村全体で育てれば、子供を産む人間や
その家族の能力は子を産む年齢と
全く関係がない。

その場合、成熟年齢と初婚年齢の乖離は
かなり小さくなる筈だ。

成熟年齢と初婚年齢が近しい場合、
現代社会において、
同時に生存している世代幅が増加し、
親子間の世代差が小さくなる。

仮に、15で産むとし、
女性の中央値寿命が90歳で、
2007年,生まれの2人に1人が、
100歳まで生きると
予想されてる事を踏まえれば、
5,20,35,50,65,80,95歳の
7世代が同時に存在する筈だ。

祖父母の祖父母の親を子供の頃に見て、
孫の孫の子を見て死ぬ人生になるだろう。

だが、7世代が同じ家族に
なるという訳ではない。

はとこと同じ家族にならない様に、
直系だろうと世代が離れ過ぎると、
より他人に近付き、親戚という程度になる。

出生率を2として、7世代の合計人数は、
2+2+4+8+16+32で64人。
学級クラス分。

この人数を家族の様に
感じる事は不可能だろう。

社会性が高く、ダンバー値が高い彼らは、
家族の様に親しく感じる相手を、
ホモサピより多く持てるだろうが、
64人はホモサピと比較して考えて、
ありえない人数だ。

ホモサピは8人程度までしか、
家族と認識できない。

家族と認識するというのは、
家にいて、一緒に暮らしても、
自然態でいられるという事で、
ダンバー数の150人は家族ではなく、
同級生程度の関係に相当する、

たまに会う祖母だとか叔父だとかの前で
完全な自然態ではいられなく、
故に家族とは呼べないし、
15人とかの大家族だと、
兄弟が1人,2人いる人よりも強く、
一人部屋が欲しくなる。

ホモサピはチンパンジーより
ダンバー数が多いが、3倍程度で、
感情が発達した人類種は、
ホモサピの5倍だとか10倍の
ダンバー値にはならない筈だ。

ただ、感情が発達した人類種は
社会性²が高く、
村がより家族的になる事を考えると、
親族が村的になる事はありえそうだ。

家族に加えて、いとこやはとこ、
高祖父母などの親族も合わせて、
村の様な共同体が生まれるかもしれない。

仮に、家族を超える人数の親族が
同じ家に住んだとして、
同じ家に住む事は家族の条件でも、
同じ家に住んでいるからと言って、
同じ家族と呼べる訳じゃないのだから、
親戚は親戚のままだろう。

親戚と居住する様な、核家族,拡張家族の
次にくる共同体は、寮の様な物だ。

同じ部屋で寝泊まりする人は家族、
同じ建物内の共用の場を使う相手を
親戚と分けるとわかりやすいかもしれない。

親兄弟で同居している共同体を家族、
親兄弟と祖父母もしくは親兄弟と子で
同居している共同体を拡張家族とし、
それ以上の遠縁の血縁関係で
同居している共同体を大家族と定義する。

「仮に、家族を超える人数の親族が
同じ家に住んだとして」と仮定したが、
その仮定は突飛ではない。

社会性が高い彼らは群れたがるから、
家族以外の人とも、親戚などとも、
同じ建物で暮らそうとするだろう。

大きな建物の中に、家族ごとの部屋があり、
風呂や居間や食事場などの共有部があり、
親戚一同で共同生活しながら、
その共同生活は家族という程の
濃さではないといった感じになる。

感情が発達した人類種においては、
家族の上位社会として大家族という概念が
一般的になっている筈だ。

その大家族の上位社会として、
村があるだろうが、現代社会になって、
社会性²が低下したり、
大家族の規模が大きかったりすると、
村はなかったり、なくなるかもしれない。

また、血縁関係に拘る必要はなく、
情報通信網ネットで集まった人で
一軒家を共有するという事例がある様に、
団地などの集合住宅の代わりに、
住宅共有ルームシェアが一般化する筈だ。

住宅共有ルームシェアは個人が細々とやっているから、
人数は少ないが、一般的に行われる様になったら、
団地や小規模共同住宅アパートの大きさの建物が丸々、
住宅共有ルームシェアされるだろう。

または、団地などの共同住宅の住人同士で
交流が盛んで、共同住宅全体で1つの
共同体になると言った方が正確かもしれない。

さて、世代の話に戻すと、
成熟年齢と初産,初婚年齢の差が減少すると、
親子や、祖父母と孫の世代差が小さくなる。

35歳の文化人オタクは、15歳の文化人オタクより、
映像物語アニメ,漫画,歌,電子遊戯ゲームに詳しかったり、
ホモサピでも15歳と35歳の
文化的世代差はないに等しく、
個人差が優に上回るが、
文化的である彼らは特にそうだろう。

生物学的世代ではない、
文化的世代において、15と35は同世代。

15で子を産むなら、
子が15の時に親は30だから、
彼らにおいて、親子は同世代だ。

文化的で、幼形成熟ネテオニーにより、脳の可塑性若さが長期間に
渡って持続する彼らなら、15と45の
孫と祖父母すら同世代と言えるだろう。

彼らの社会で親子は兄弟に
近しい関係になり、子と祖父母ですら、
ホモサピの親子より親しく、
より対称的な関係で、
より同じ文化の中に生きるだろう。

現代のホモサピは孫が生まれる様な年齢で
初産をしているのだから、
ホモサピの親子と彼らの祖父母と孫の
年齢差は同じになり、同じ年齢差なら、
 幼形成熟ネテオニーで脳の可塑性若さが長期に渡って、
持続する彼らの方が、近しい精神だ。

世代間の社会的文化の違いは、
異なる社会に住んでいる様な物だから、
社会全体の社会性²は低下する。

同質性が社会性²の主要な要素なのだから、
世代の違いがない方が社会性²は高くなる。

現代社会では、社会的文化が激しく変化し、
それが世代ごとの社会的文化の違いとなり、
社会性²を低下させたが、彼らの社会で
それはあまり起こらないだろう。

次に、晩婚化や非婚化の影響を
深く受けるのは少子化だが、
彼らの現代社会で晩婚化も非婚化も
あまり起こらないから
少子化もあまり起こらない。

だが、少子化の原因は、晩婚化や非婚化、
社会性²の低下だけではない。
それは避妊の存在。

人は生きる為だとか、
炭素で代謝を行う為だとか、
血糖値を維持する為に、
食事をする訳ではない様に、
子供を作る欲求など存在しない。

食いたい物を食ったら、結果的に、
栄養を摂取して、代謝が行える様に、
子供は単なる性欲の副産物で、
気持ちぃ事してたら、
勝手にできる程度の物でしかない。

性欲の量に応じて、
社会を維持するのに必要な個体数の
子供が産まれるのであって、
子供を欲しいという欲求で、
社会を維持するのに必要な数の
子供が産まれる様にはできていない。

実際に産まれた自分の子を見て、
育てたいと感じる様に作られた母性が、
可愛いと言う感情が、他人の子を見て感じ、
まだ子供がいないのに、
母性が誤作動を起こしたせいで、
子供を欲しがってるだけで、
そんな進化論の神の管轄外の現象は、
進化論の神の保証がない。

進化論の神の管轄内の現象なら保証があり、
食べたいだけ食べてるのに
餓死するなんて事はない。

避妊が存在するせいで、
子供を作りたいという僅かな欲求でしか、
子供を作らないから少子化なのであり、
少子化の原因は避妊が主だ。

少子化の原因を最初、
社会性²の低下だと言ったのは、
社会性²や有害思想といった社会の
構造を語ってたから、
具体的な話は後にしようと思った次第。

どうせ、本能には勝てないのだから、
避妊具がなければ、
子供ができても仕方ないと割り切って、
性行為して、子が産まれるだけ。

子供はできる物、仕方ない物と
本来は割り切るべきだった。
子供を作るかどうかの選択なんて意識せず、
生きる事くらい当たり前に、
思考を放棄してヤればよかったのだ。

仮に、避妊具がない事で、
未成年や学生が妊娠しまくったとして、
社会は生物の様に順応力が高いのだから、
それでも大丈夫な様に社会が変化するだけだ。

逆に、そうならなかったから、
孫ができる歳に子を生み、
親子は世代差で断絶される。

電子遊戯ゲームの話もわからん40,50の婆さんより、
電子遊戯ゲームの話がわかる30のお姉さんに育てられた方が余っ程,幸せだ。

子はできる物と思考停止して、
作るか作らないかなんて
考えるべきじゃなかった。

愚かなホモサピには物事の意味や意義など
わからなく、これに意味や意義は
あるのかと考えたら、わからない事を
ない事だと勘違いするだけ。
自分で考えずに、歴史や自然を習うべきだ。

「自分は生きるべきか?」
なんて考えるから現代人は自殺するし、
どうせ馬鹿なのだから、
余計な事を考えたって、悪い事しかない。

子供を育てる幸せは、子供が産まれてから
わかる物で、実際に産む前に、
子供を産む事の得益メリット損失デメリットを比べれば
前者を軽視する事になる。

10歳の男児に、
「3年後、美少女とセックスするか、
今5000円を貰うか、選べ」
と聞けば、5000円を選択し、
3年後にくそ後悔するだろう。
それと同じ話だ。

10代の女性に、子育てを
疑似体験させる社会実験があったが、
それを受けた女性の多くは、
子供を持ちたいと思う様になった。

核家族で、他人が赤子を育てる所を
見た事がなく、赤子の世話をした事が
ない人に、子供を育てる得と子供を育てる損を正しく比べられる訳がなく、
必ず前者を軽視する。

そういう愚かしさの対策として、
社会の強制や、当たり前だからと
思考停止する事は実に合理的だった。

サザエさんの家みたいに、昔みたいに、
兄弟の配偶者とその子がいる家庭なら、
赤子を見る機会や世話をする機会が
あったろうから、子供を作る欲求は
起こりやすかったが、今はそれがないし、
社会性²が減少して、
人間自体を避けているのだから、
子供を作って、新たな人間関係を
創りたいと思う人は少ない。

さて、子供を作りたいという欲求は異常バグだが、
感情が発達した個体というのは、
本能を超えた倒錯的な感情を
たくさん、強く持っている。

感情が発達すれば、第二次性徴を
強く起こした大人っぽい容姿ではなく、
第二次性徴を弱く起こした、
子供っぽい可愛い容姿に惹かれたり、
超正常効果で、現代絵画イラストに強く惹かれる。

感情が発達し、感情が主体的で、
社会的で、人間関係を重視し、
母性的な彼らは、子供を欲しがったり、
家庭に憧れを持つだろう。

社会性²が高いから、周囲からの
支援という意味で、子を育てる事は容易で、
簡単に子供を作る事を選択できる。

同質性,協調性が高く、
他の人に合わせる事を好み、
子育てが容易な環境に置かれた彼らは、
そもそも、避妊という概念を持たない筈だ。

「普通の人は子を産み育てる物だし、
それは幸せな事であるし、
心配な事は特にない」という価値観の人は
避妊が最初から選択肢にはない。

感情が発達した人類種は、
現代社会に到達しても、少子化にならないし、
現代社会特有の問題もほとんど起こらない。


知的生命体として

ホモサピの社会の欠陥は、
信仰、特に有害思想の存在と、
一部がそれに属する社会形式の
防衛礼儀が存在する事だ。

そして、感情が発達した人類種の社会では
有害思想と防衛礼儀がない。

この違いこそが、感情が発達した人類種が、
ホモサピの上位種である事を示す。

他のホモ属やヒト科の群れよりも、
有害思想と防衛礼儀があるホモサピの
社会の方が優れているが、
有害思想と防衛礼儀がなくても
成立する彼らの社会の方が優れている。

有害思想や防衛礼儀は野蛮であり、動物的だ。
知的生命体らしさの低さを表す。

幼い頃から周りの人が肯定していれば、
1+1=3でも何でも信じられる、
ある意味では高度な愚かしさと
陰湿な内への暴力性から生まれた、
冗長性などの無駄を持つ防衛礼儀。

有害思想を持てる事自体は高度で、
1+1=3でも何でも信じられたから、
社会は柔軟に変化し、
構成員の意思を統一できたが、
有害思想には有害性がある為、
有害思想を持たずに社会を柔軟に変化し、
構成員の意思を統一できた方が良い。
防衛礼儀も同様だ。

社会に得になる様に、構成員の意思や
行動を統一できると言っても、
社会的行動を構成員に
強制的できると言っても、
有害思想や防衛礼儀は
臨機応変さに欠けるから、
最適度に限界がある。

構成員の社会的行動は必要だが、
それは画一的である必要がなく、
画一的とは粗さであり、最適との乖離になる。

他のホモ属は社会を創れなく、
ホモサピは社会を創れて、
故にホモサピは他のホモ属と
絶対的な違いがある。

だからこそ、種が違うと言えるし、
他のホモ属よりも高度な生物で、
知的生命体としての次元レベルが違うと言えるが、
同様に、ホモサピは狭義生態として、
有害思想と防衛礼儀がない社会を創れなく、
感情が発達した人類種はそれを創れる。

これは種の違いであり、
知的生命体としての序列であり、
感情が発達した人類種は、
ホモサピよりも高度で、
知的生命体らしさが強いと言える。

感情が発達した人類種が
ホモサピより上位である事は
その社会だけでなく、個体からも説明できる。

感情の営みは人間関係と文化であり、
前者はより動物的で、後者はより人間的、
いや、知的生命体的だ。
そして、ホモサピは前者をより重視する。

ホモサピにおいて、文化人オタクはごく一部で、
しかも、10代~40代前半の範囲外だと、
その割合は著しく下がる。

家事だけして、生活だけして、
公共映像テレビすら見ない様な、
動物的な暮らしをする老人は多いし、
若い人だって、仕事,恋愛,人間関係ばかりに
力を注いで、文化に無関心な人は多い。

仕事,恋愛,人間関係,家族,生活は、
猿の社会にだってある。ないのは文化だ。

知的生命体の定義は2つ考えられ、
「社会的文化がある群れである社会を持ち、
非狭義生態を、生活や社会を自分で決め、
歴史論的速度で発展する種」という定義と、
「学術や文化を持ち、それを発展させる事が
生きる事の主体」という定義の2通りだ。

知的生命体らしさとは知性と感情の高度さ。
そして、知性の結晶が学術であり、
感情の結晶が文化だ。

知性を使った生活の合理化や
感情を使った社会の合理化は
即物的で低俗であり、動物でもやってる事で、
文化と学術の方が知的生命体らしく、
これは人以外の動物が一切やってない事だ。


知的生命体を定義するにあたり、
学術と文化がいかに重要か説明する為に、
この世界の発展を考える。

まず、無や揺らぎ、もしくは極小に極大の
質量が詰まった究極に単純な状態があった。

それは弾け、広がり、無数の素粒子が
空間で飛び交う状態になった。
前よりは複雑だ。

そして、無数の素粒子は
無数の種類の原子や分子となり、
更に、それらは重力によって、
恒星系、銀河、宇宙の大規模構造などの、
宇宙の構造や基本的な動きが生まれた。
前より複雑な状態だ。

次に、火山活動や天候など、
活発に活動し変化する惑星が生まれた。
恒星や大抵の惑星に比べたら複雑だ。

次に、そんな複雑な惑星で
生命という機構が生まれた。
それは恒星や惑星の活動よりも
遥かに複雑だった。

初めは、遺伝子をそのまま形に
した様な表現型で、遺伝子からその姿を
予測するのが容易かった。

だが、次第に胚発生や成長は複雑になり、
遺伝子の複雑さ、初期の生物の複雑さとは
別次元の複雑さを生物は持った。

次に、表現型と生態が乖離した。
初めは表現型の複雑さと、
その表現型の動作の複雑さは同じで、
表現型を見れば、
どう動作するのかがわかった。

だが、脳の発達に伴い、
生態は複雑になっていき、
表現型だけを見てもわからなくなった。

表現型が生物の生態をそのまま表してた頃と
別次元の複雑さを生物は持った。

次に生物は狭義生態を超越した。
遺伝子と環境だけで行動が、
広義生態が決まり、広義生態が進化でのみ
変化していた状態から、
社会的文化という、言語で受け継がれ、
進化,発展していく体系で
広義生態が決まる様になった。
この生物こそが人だ。

この複雑化の果て、終着点が学術と文化だ。
社会的文化は行動としてあり、
社会的文化の中核たる社会形式がそうだ。

だが、行動ではなく理論や作品といった物が
学術と文化だ。

有害思想や防衛礼儀、様々な社会形式に比べ、
学術と文化は別次元に複雑で膨大だ。
その社会での規則ルールや宗教と、
その社会に存在する全ての歌や物語、
どちらの方が多いかは明らかだろう。


そんな、この宇宙で最も高度な物を創り
宇宙の高度化という発展の歴史の
終着点となる営みをしているという
特徴があるのに、知的生命体の最たる特徴が、
採用すべき定義が、
資源的に豊かな社会に向けて、
動物的な欲求を満たす為に、
歴史論的速度で社会を
発展させるという解釈をするのはおかしい。
定義に採用すべきは前者だ。

知的生命体の本質を、学術と文化を創造し、
発展させる物と捉えたなら、
学術や文化よりも生活を重視して生き、
その2つと無関係に生きる様な個体を
知的生命体と呼ぶのには違和感がある。

ホモサピは確かに、
文化と学術を創造し、発展させたが、
文化や学術を鑑賞する者も
創造する者も一部に過ぎず、
文化や学術を鑑賞し創造する種こそが
知的生命体だと考えたなら、
ホモサピはせいぜい、
半知的生命体といった程度だ。

稀に、文化と学術を創造する個体が
いるから知的生命体の種として、
文化や学術が発展しているだけで、
知的生命体の根幹に関わる2つの
発展に大半の個体は参加せず、
創造するどころか、
鑑賞すらしない個体も多い。

生活するだけなら、文化や学術を
鑑賞も創造もしないのであれば、
知性と感情がいささか、
チンパンジーよりも発達してるだけで、
その人生はチンパンジーと
本質的には同じではないか?

ホモサピの知的生命体らしさは、
社会的文化を持ち、
非狭義生態を自分で変えられる事だが、
誰もがそれをする訳ではなく、
社会的文化の社会形式にただ従うだけなら、
人工的な生態を学習する能力が
あるだけの猿に過ぎない。

単に働いて、仲間と交流し、恋愛して、
子を育てて、飯を食うだけなら
猿と何も変わらない。

だから、「学術や文化を持ち、
それを発展させる事が生きる事の主体」
という定義が知的生命体には
相応しいのだ。

「社会を持つ種」という定義は
間違いではないが、
せいぜい、「弱い知的生命体の定義」、
「半知的生命の条件」といった所だろう。

そして、感情が発達した人類種は、
文化人オタクその物であり、文化に生きる。
だからこ、ホモサピよりも
知的生命体としての程度が高いと言える。

ホモサピの社会では文化人オタクは迫害されるが、
これはホモサピという種が低度であるが故で、
有害思想や防衛礼儀を振りかざす野蛮な猿の
集団でしかない事を示している。


文化

感情が発達した人類種は文化人オタク的だ。
文化を享受し、創る文化人オタク

文化を創る創作者がホモサピよりも
かなり多いだろうから、文化はより発展し、
同じ文明次元レベル、同じ技術次元レベルの社会でも、
彼らはより未来の文化を築いているだろうし、
より未来の世代性の気質になっているだろう。

詳しくは文化発展論に書いてるが、
現代において文化は進歩していて、
それは作品を創る道具の発展と、
資源的な豊かさで本能が満たされて、
人々がより感情主体になり、
より高度な感情を有する事で起こっている。

進撃の巨人という作品を描くだけの情報や
絵を描く技術は1950年でも揃っていて、
原理的には1950年でも、
進撃の巨人という漫画が
描かれる事はありえるが、
1950年に進撃の巨人や
それと同程度レベルに面白い漫画が
描かれる事はありえないだろう。
これが文化の進歩だ。

美少女の現代絵画イラストも昔の人には描けない。

だが、創作者の能力によっては、
平均よりは進歩的な、より未来的な
作品を創る事はありえて、
彼らはホモサピと比べてそうな筈だ。

そして、資源的に豊かになる事で
より感情主体になって、より繊細な、
より高度な感情を感じ取る様になるが、
これは彼らも同様だ。

感情が発達した人類種の社会とは、
構成員が全て文化人オタクの社会であり、
SNSの一部として築かれる文化人オタク社会が
そのまま現実社会になって、
文化人オタク文化が現実でも使われる社会だ。

その様な社会では、友人とは
呼べない人同士の世間話で、人間関係や
仕事や天気といったつまらな事ではなく、
文化が話題になる。

文化の鑑賞者よりも、
文化の創作者は少ないが、
熱心な文化の鑑賞者が、
文化の創作者になるのだから、
文化の鑑賞者が多いなら、創作者も多い。

つまり、絵を描く事や、物語を創る事、
楽器の演奏などがより一般的になる。

映像物語アニメや漫画を見て、
歌を聴くなどの文化の鑑賞に至っては
食事や睡眠くらい、当たり前で、
してない訳がない物となるだろう。

ホモサピの文化の鑑賞者、文化人オタクくらい、
身近に、一般的に創作者がいて、
文化の鑑賞者ではない人間は
そもそも存在しない様な社会だ。

そして、文化を語る上で、
特に大事なのは情報通信網ネットだ。
情報通信網ネットを一般人が使う様になり、
情報通信網ネットの世界が文化の場になる事で
文化は飛躍的に発展した。

無数の作品が情報通信網ネット世界で生まれ、
その手軽さから創作者は、
作品を創る人は、数百倍にも膨れ上がった。

小説を自費出版するのに比べ、
情報通信網ネットで小説を投稿するのが
どれだけ簡単か?

CDという形式で歌を公開するのに比べ、
youtubeに投稿するのがどれだけ簡単か?

歌も映像物語アニメも漫画も小説も絵も、
文化は情報通信網ネットが主な場所となり、
情報通信網ネットが生まれる以前と比べ、
公開されている作品の数は数百倍になった。

小説家になろうでは、
作品を投稿している人が20万人もいて、
作品数は100万を超えるが、
本という形式で小説を公開している人は、
はたして1万人もいるのかどうか。
作品数も100万には届かないだろう。

作品を投稿する気軽さから、
創作者が増える事で、
創作者と鑑賞者の境界は揺らぎ、
文化は参加型になった。
たくさんの人で盛り上げ、
鑑賞者,創作者が積極的に
関わり合う物となったのだ。

改変コラ画像を創った人は創作者であり、
Twitterで文章を投稿してる人も、
広義の創作者だ。
文化型ミームは創作者の一般化によって、生まれた。

情報通信網ネット文化は始まりの時から
文化人オタク文化と同義であり、
それは激しく変化し、
短期間に大量の言葉が創られ、
大量の文化型ミームが生まれた。

匿名性により、言語的に自由な場が
情報通信網ネットにあるからこそ、情報通信網ネットでは、
様々な文化や文化型ミームが生まれる。

情報通信網ネット文化の根幹である、
動画投稿世界サイト言語チャット型SNSによって、
文化の規模は極度に増大し、文化に参加する人、
その参加度合いが、極度に増大した。

情報通信網ネットが生まれる以前と後で、
人類全体の文化は次元レベルが、時代が異なる。

感情が発達した人類種においては、
情報通信網ネット文化は、
そのまま現実社会に持ち込まれ、
情報通信網ネット文化に参加する人が、文化人オタクが、
現実社会の構成員の大半を占めるのだから、
情報通信網ネットで生まれた言葉は
すぐに現実でも使われる様になる。

情報通信網ネット世界と現実社会は融合し、一体となるだろう。

また、情報通信網ネット文化の本質が、
創作者や文化に参加する人が大量で、
文化人オタク同士の交流が大量である事だとするなら、
情報通信網ネットが生まれる前から、
感情が発達した人類種の文化は
情報通信網ネット文化に似ている筈だ。


学術 

社会的文化は4種類ある。
文化、学術、社会形式、技術。

このうち、文化と社会形式は
語ったから学術について語る。
技術は単なる学術の応用で
語る事がないから語らない。

まず、感情が発達した人類種は、
ホモサピよりも知性が発達している。
高度な感情を有するには
ある程度の知性が必要であり、
感情や社会性の発達に寄与する自己家畜化や
幼形成熟ネテオニーでは知能の向上や
学習能力の長期にわたる維持が見られる。

そして、自己家畜化や幼形成熟ネテオニーが強く起こって、
感情が発達した東アジアや日本は、
世界で最もIQが高い地域である。

先進国の白人の国だと、
イギリスの平均IQは100で、
日本が105でその差は5。
そして、1位から香港,韓国,日本,台湾,新加坡シンガポール
東アジアが上位5か国を独占している。

これは人種や民族の違いで、
感情が発達した人類種では種が異なる為、
イギリスと日本のIQ差より、
数倍は違うだろう。

知性が発達してれば、勿論、
学術も発展しやすいが、
感情主体の個体は学術への興味がない。

感情豊かでキャッキャしてる女文化人オタクは、
雑学として、話のネタとして、
知識を披露する事はあれど、
物理学や数学などの抽象的な学術には、
学術的な学術には全く関心がない。

だが、学術に興味がないのは
ホモサピだって同じだ。
漫画や映像物語アニメ遊戯ゲームに比べ、
数学や物理がどれだけ専門嗜好マニアックな趣味か?
それでも、数学や物理は発展してきた。

感情が発達し、ホモサピよりも、
感情主体な人類種であろうと、
外れ値として、知性主体な個体はいるだろう。

特に知性主体か感情主体かは個人差が大きい。
胎児期に男性生体内伝達効用物質ホルモン
多く脳に浴びた個体はより男性脳になり、
それは運要素が大きいのだが、
男性脳とは知性主体で、女性脳は感情主体となる。

彼らは知能が高いのだから、
運によって、知性主体にさえなれば、
学者として優秀だろう。

男性脳は共感性や社会性などの
女性脳の性質を損なっているが、
それは感情の発達の全てではないし、
男性脳として生まれたからと言って、
感情の発達がホモサピと
程度レベルになったりはしない。

女性脳の、共感性や社会性などの
感情の発達というのは、
自己的感情と社会的感情のうち、
後者なのだから、自己的感情は発達しうる。

もっとも、社会的感情のうち、
特殊な物を自己的感情と呼び、
自己的感情は社会的感情より範囲が狭いから、
発達すると言っても、
社会的感情に比べると、たかが知れている。

男性脳になった、彼らの個体は、
ホモサピよりかは感情が
発達しているだろうが、通常の、
彼らに比べると感情が発達していないだろう。

学術を発展させる者は知性主体なだけでなく、
知性も必要な事を考えれば、
ホモサピよりも彼らの方が学者は多く、
学術はより早く発展するかもしれない。


あとがき

てきとうにダラダラ書くから読み飛ばすべき。

知性が発達した人類種の記事は
今後、投稿しようと思っている。

この垢を追尾フォローしとけば、
投稿した時に気付けるから勧める。

今回の3部作は元々、1つの記事として、
1.3万字で投稿した物なのだが、
修正してるうちに文字数が
あまりに増えたから投稿し直す事にした。

原因は体系化だ。
大きな事は1つの原理で一般化され、
小さな事はそうではない。

大きな事を説明するのに、
小さな事を例として出したり、
大きな事を説明した上で、
それにより小さな事が
どうなるのか語る物だが、
今回は小さな事が実は大きな事として、
1つの原理で一般化できる事に気付き、
その原理を知る事で、
語っていない事をたくさん見つけた。
体系化は網羅化に等しい。

なんとなく、Aに属するのは
a,b,cがあると思っていたら、
Aに属すも物にX,Y,Zがあり、
a,b,cはそれぞれX,Y,Zという
原理から導かれる物で、
その原理からはa,b,c以外にも
たくさんの要素があったと言えば、
わかりやすいか?

Xという原理を認知する事で、
aがXという原理に基づく事を知る事で、
a以外にもXから生まれる要素が
いくつも考えられる事に気付いた。

Aに属するのはa,b,cだけだと思ったら、
Aに属する物にX,Y,Zがあり、
Xにはa,g,hが、
Yにはb,i,sが、
Zにはc,m,qが属する事を、
それらが存在する事を知ったのだ。

社会的文化とか広義生態とか、
有害思想とか色々と用語が出てきたのは、
推敲で文章が増大した事が原因で、
体系化が原因だ。

雑多に要素を出すのではなく、
体系化するには、
厳密に物事を定義しなくてはいけなく、
それには概念の整理が、用語の設定が必要だ。

この記事では、
「5人がそれぞれで
労働すると5の成果でも、
5人が協力すると、10の成果になり、
それが社会の存在理由で、
社会性が高い構成員の社会は、
その増大比がより大きくなる」
と書いていて、最初はそれだけだったのが、
構成員の社会性と、
社会が存在する事での得と損や
構成員の社会的行動の量、人口、
社会の分裂や独立、
それらの数学的な関係性などに話が広がり、
それを体系化する為に、用語が大量に増えた。

元々は高度な社会性の構成員の
社会はどんな社会になるかを
雑多にいくつか提示した特徴の1つに
過ぎなかった物が、1万字にまで増え、
1つの章になったのだから驚きだ。

元々の記事は1月7日に投稿したのに、
もう2ヵ月が経っていて、感慨深く思う。

知性が発達した人類種の部は、
元の1.3万字の記事の内容から変えてなく、
もはや、何も書いてないと言ってもいいから、
書き終わるのには1ヵ月くらいかかるだろう。

と言うか、この3部作の記事に、
既に100時間くらいは注ぎ込んでて、
いい加減、違う事をしたいから、
知性が発達した人類種を書くのは、
2,3ヵ月、先になるだろう。
章や節は大まかに決まっているし、
感情が発達した人類種よりかは、
書く時間はかからなそうだが。

今回の記事を書き始めたきっかけは、
サピエンス全史という本を読んで、
認知革命や性淘汰などを知ったからだ。

もともと、小説で、架空の人類種や
その社会について、
書きたいと思っていたのもある。

元々、僕の創作意欲や知的欲求として、
以下がある。いくつかのツイートを
コピペしたやつで全文を読まなくても、
理解できるだろう。

「僕がしたいのは、架空の惑星に、
架空の生物を住まわせ、
架空の知的生命体を住まわせ、
架空の歴史を創る事で、
そこには架空の社会や架空の文化、
架空の言語がある

それを創るには、地球型惑星や
地理学,恒星系を理解し、
生物学を理解し、心理学と
人間生物学を理解し、
歴史や言語を理解する必要がある

単なるAを単なるXなどの
別の物に変える事はできないが、
Aはaとbがpという形式で
関係した物で、
Bはcとdがqという形式で
関係した物と理解したなら、
aとdがpという形式で
関係した新たな物を創る事ができる

物事は理解という分解をする事で、
別の物を創る為の部品を
獲得したり、
アレンジしたりができる

言語学を学べば言語が創れるし、
生物学を学べば生物が創れるし、
物理学を学べば、
魔法が単なる物理現象として
組み込まれた物理法則の世界も
創造しうる筈

・アレンジというか、
通常と異なった物、
別バージョン、
同集合の別要素が知りたい

生物が発生する様な惑星の
集合があるとして、
地球の様な惑星とは
別タイプの惑星があるかもしれない

猿から生じえた知的生命体の
集合があるとして、
ホモサピ以外の知的生命体が
ホモサピとは別タイプの
知的生命体がありえたかもしれない

そこにはホモサピが
築いた社会とは別タイプの
社会や文化が
築かれてるかもしれない

性染色体はXXはXYだが、
稀にXXYが起こりうるし、
発達障害は別タイプの知的生命体の
様な印象を感じる
発達障害のホモサピと
健常者のホモサピの違いは、
ホモサピとネアンデルの
違いに匹敵するのではないか?

完全に異なる物はつまらない、
ある要素と同じ集合に
属する要素という兄弟的関係、
パラレルな関係こそが面白く、
そして、存在しうる、
語られうるのに、
気付かれてない様な
パラレルな要素が
たくさんある筈だ

老衰やがんなどで人は死ぬが、
頭部だけで生きれる様になれば、
生命維持を機械で代替できる様に
なれば老化で脳が溶けきって
消滅するまで生きられる事だろう
新しい死が増えた、
何と素晴らしい事か、
基本的な概念が、
この世界において基本的な事が、
あろう事か新しく増える
これ程、面白い事はない

・既知の要素が属する集合の
未知の要素が気になる

ホモサピ以外の
存在しえる知的生命体,人類種

砂糖と同じ糖の1種であるブドウ糖を
チョコに混ぜたら美味いのか?

民主主義以外の現代で
成功しうる政治体制

つまるところ、アレンジをしたい
パラレルな存在を確認したい

・これができるまで士ねない

ありうるとは語られるうるであり、
現実はそのごくごく1部に過ぎない
現実は非現実のごくごく1部でしかない
そこに潜む宝を
見つけ尽くすまでは士ねない

無矛盾かつ論理の繋がりが
確かにある体系、
それを世界と呼ぶとして、
この現実とは、そんな世界の
たった1つに過ぎず、
無限じみた非現実のパターンの
1つに過ぎない

この地球があり、
この生物相があり、人がいて、
人の文明と歴史と文化がある
それは何ら必然でも唯一でもない

いくらでも、人以外の知的生命体や
それが生み出した文明は、
その歴史と文化は存在しえた
いや、語りえた
無矛盾かつ論理の確かな
繋がりを伴って

少ない数の前提から
語られた世界はこの現実と等しい
物理学という名の数式をいじった、
別の世界も同様に現実だ
パラレル、平行、異なり、隣
同集合の異なる要素、
兄弟に過ぎず、故に互いに等しい

Aを述語bしたらcに
なるなどといった公理を
論理的に展開したのが
この世界の本質で、
そのAやらCやらに
クオリアを付与したのがこの世界

その様な極限の自由度において、
語られるうるのが
この世界なだけな訳がない

自己増殖する機構は
必ずしも炭素を
含まなければいけないのか?
DNAを持たなければいけないのか?

地球の様な惑星でしか
自己増殖機構は存在しえないのか?
地球に似た惑星ばかり
探されてるが、
生命が存在しえる惑星において、
別タイプはありえないのか?

生物において、真の別系統は
存在しないのか?
DNAと炭素と水を必要とする系統が
唯一無二なのか?

ホモサピは感情と社会性が
発達した猿に過ぎず、
感情の発達に伴って、
知性が発達したに過ぎず、
あくまで主体は感情で、
その社会は感情を
元に運営されているが
知性が発達した知性主体の
人類種は存在しえないのか?
存在しえたなら、
どの様な社会と歴史を築いたか?

スチームパンクの様な、
電気よりも蒸気機関が
発展した社会はありえないのか?
現代文明とは、電気社会タイプが
唯一無二なのか?
別タイプはないのか?

民主主義と同レベルの性能を
持つ別の政治体制は
存在しえないのか?
別タイプの現代社会的政治体制は
存在しないのか?

人の終末は老衰とガンとその他の
細かな病気と怪我だけか?
別の終末は存在しえないのか?
生命維持を完全に機械で
代替する事で、全ての細胞が
老化で消滅するまで生かす
方法はないのか?
その様な新たな終末は、
新たな人の最後は存在しえるか?

悪事をかたっぱしから法律と
対応づけた条件文的な法律と
それを機械的に処理する者から
なる裁判だけが、
国の内を治める唯一の方法か?
人が何にどれくらい不快を
感じるかの統計で、その不快の
時間的な増減の曲線を積分し、
加害量を導き、故意係数や
責任能力係数などを掛け、
統計に基づいた数学的処理で
罪の重さを導けないのか?

・僕にとって、ホモサピの社会は
アマゾンの少数部族の
不思議な価値観や信仰と
同じくらい唐突に感じて、
「この社会は本当に
最適であり必然なのか?
ホモサピが知的生命体として
完全なのか?本当に知的生命体の
ど真ん中なのか?」と思う

特に僕自身が、ホモサピとは
別の人類種の様に感じる事が多く、
アスペなどは、ホモサピと
ネアンデルくらい違うのでは
ないかと常々,思ってる

なら、アスペだけで社会を創れば、
全く別の仕組みの社会が
できるのではないかと、
ホモサピの社会とパラレルな社会が
創れるのではないかと思ってる

存在しうるホモ属の種と
それぞれの社会タイプがあって、
ホモサピの社会は、
複数ある社会タイプの1つ、
複数ある知的生命体のタイプの
1つに過ぎないのではないかと

だから、別の知的生命体や
それが創る社会を考えたい」

そう、自分はホモサピ以外に
どんな知的生命体が存在しえるのか、
ホモサピの同集合異要素は
何があるのかを知りたかった。

どんな言語が、どんな惑星が、
どんな生物が存在しえるのか、
どんな知的生命体が存在しえるのか、
そういった、既知の要素の、
同集合異要素を知りたかった、
この世界の基本的な事実に、
この世界の基本的な存在と
平行パラレルな関係にある物には、
どんな物があるのか知りたかった。

このツイートもそれを表している。
「チェンソーマン、
ここのシーンがゾクゾクした

チェンソーマンが食べた悪魔の
災厄は記憶ごと消えてて、
その消えた物の中に、
この現実で存在する事と
存在してそうな事が
語られるのがいい。

生命が寿命を迎えると
死の他にあった4つの結末とか、
人なら誰もが
持っていた第六感とか、
すごいそそられる。

そして、既に消えた災厄と同様に、
戦争や死や飢餓を概念ごと
消し去ろうとしてるのが
壮大でいい
世界を組み替えてる様で面白い」

あと、自身が人とあまりに違くて、
ホモサピの価値観や欲求や生活が、
社会的文化が、アマゾンの、文明を
持たない部族の価値観くらい不思議で、
唐突で、突飛に思えて仕方なく、
自身を平均とした知的生命体の社会を
妄想したかったのもある。

敬語やら年功序列やら、
感情的で、くだらない冗長性が蔓延る、
感情的な人々に運営されるこの感情的な社会が
唯一ではなく、知性主体で、
感情を割り切れる人類種の社会を妄想してた。

ホモサピの人格や社会的文化が
唐突で突飛に感じたのは、
何でもかんでも疑うからだろう。

全てを批判して、全てに理由を求め、
ある目的でそれが存在するなら、
その目的をより満たせる別の
何かはないのかと考えて、
決してこの社会が最適だとは思わない気質。

このツイートとか、それを表してる。
「全てに対して批判的になって、
全てを疑い、要素に分解して
再検証,再証明する事で、
その時に得た知見を
他に適用したり、
要素を組み替える事で
アレンジしたりできる

疑わないと理解できないし、
理解する事で掌の上の物として
自在に分解,改変、
他の物に道具として
使うなどが可能となる」

さて、長々とダラダラ書き過ぎたな。
自分の知的欲求や創作活動、
人生の指針みたいなのも、
1万字くらい書いて、記事にできそうだ。

記事というか、小説投稿世界サイト
随筆エッセイとして、
ゆるく投稿する感じが望ましい。

このあとがきみたいな、
個人的で大して面白くない事は、
記事の本文や主題には相応しくない。

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社会、心理の考察を投稿している。
感情が発達した人類種はどんな精神で、どんな社会を創るか?|猫狐冬夜
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