ちゅうごくの映画人 ヒロシマ撮り残した新藤兼人、取材に語った言葉

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斉藤勝寿
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 98歳まで映画を撮り続け、生涯49作品を世に送り出した巨匠の新藤兼人(1912~2012)にも、撮り残していた映画があった。原爆が投下された瞬間の「地獄図」を克明に描く「ヒロシマ」だ。

中国地方からは、日本映画を代表する監督、俳優らが多数輩出しています。その映画人たちは戦争とどう向き合ったのか。戦後80年を機に紹介します。

 シナリオの初稿は完成しており、創作ノートにねらいが記されている。

 「一秒二秒三秒の間に何が起きたか、白閃光に人間が焼かれ、爆風に人間が吹き飛ばされ、何万という人間が悶絶した。その実態は、だれも示していない」(「新藤兼人・原爆を撮る」から)

 課題は20億円という製作費をどう調達するか、だった。娯楽映画とはほど遠い内容である以上、興行的な大ヒットは期待できない。さらにこだわったのは製作主体に広島市を加えることだった。

 新藤作品のプロデューサーを務めていた次男の次郎さん(75)は「広島を徹底的に破壊するショッキングな映画をつくる以上、地元の理解がどうしても必要だったが、その調整がうまくいかなかった」と振り返る。

 新藤監督は1912(明治45)年、広島県の旧石内村(現在の広島市佐伯区)生まれ。敗色濃厚となった44年に召集され、海軍に入隊。終戦後まもなく広島に入り、惨状を自分の目で見ている。ゆえに戦争と原爆に特別な思いがあったのだ。

 独立プロ「近代映画協会」を…

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この記事を書いた人
斉藤勝寿
水戸総局|取手地区担当
専門・関心分野
映画、鉄道、城