2019.12.12 (Thu)
↑東京都あきる野市横沢134番地に所在する真言宗豊山派の寺院、金色山 吉祥院 大悲願寺を探訪しました。※以下、寺号のみの「大悲願寺」と表記させて頂きました。
由緒は、Wikipedia情報の一部を以下に引用させていただきました。
■大悲願寺(だいひがんじ)は、東京都あきる野市横沢にある真言宗豊山派の寺院。山号は金色山。院号は吉祥院。本尊は大日如来。
歴史
■寺伝によると創建は1191年(建久2年)で、武蔵国平山(東京都日野市平山)の武将 平山季重(ひらやま・すえしげ)が、醍醐寺三宝院の僧を招いて開山としたとされる。
■江戸時代には、江戸幕府から朱印状を与えられていた。1794年に観音堂を建立。1824年から1827年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。
■1834年から1842年にかけても、彫刻や飾り板を観音堂内陣に追加したことがわかっている。
■1951年に観音堂を改修し、屋根を茅葺きから本瓦葺きに変更。
■1978年3月16日に本堂が東京都有形文化財、1995年6月1日に観音堂が西多摩郡五日市町(現・あきる野市)の有形文化財指定を受ける。
■2005年から2007年にかけて、観音堂を半解体修理。屋根を銅板葺きに変更。
※源平合戦がお好きな方なら、武蔵七党西党に属して源義朝の時代から源氏に尽くし、宇治川、一ノ谷の合戦では義経に従って武功を挙げた、平山季重を御存知かと思います。
↑写真は、平山季重居館跡(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)です。
↑大悲願寺を探訪した理由は、BS-TBS「にっぽん!歴史鑑定」の「伊達政宗毒殺未遂事件の真相」と、BS-TBS「諸説あり!」の「伊達政宗の野望と策略」の回で、大悲願寺が紹介されていたからです。
まず最初に、通説(定説)を以下に整理してみますと・・・
■政宗は幼少期に天然痘で右目を失明して以来、母の義姫(山形城主、最上義守の娘)は政宗を疎んじ、弟の小次郎を溺愛した。
■天正12年(1584)政宗は父輝宗の隠居に伴い18歳で家督を相続し、第17代伊達家当主となった。
■天正15年(1587)豊臣秀吉は大名間の領土争いを禁じた「惣無事令」を発布したが、政宗はそれを無視して領土拡大の戦を続けた。
■天正16年(1588)2月、政宗は大崎氏を攻めたが、大崎氏は義姫の兄、最上義光(もがみよしあき)の妻の実家である。
■最上義光は大崎氏に援軍を送ったが、義姫が戦場に乗り込んで和睦させ、実家(最上家)と伊達家が争うことを阻止した。
■義姫は「このままでは伊達家は滅びる」と行く末に不安を感じ、兄の最上義光に相談すると、義光は「政宗を亡きものにしてしまえ」と進言した。
■天正17年(1589)政宗はさらに領土拡大を続け、蘆名氏を滅ぼし、その黒川城へ本拠地を移した。
■天正18年(1590)伊達政宗(当時24歳)の元に、豊臣秀吉から小田原(後北条氏)攻めに参陣を要請する手紙が届いた。
■同年4月5日、政宗は小田原へ向かう前に、義姫から「陣立ちの祝い」に招かれた。
■政宗は母の館で出された料理を口にしたた途端、猛烈な腹痛を感じて苦悶し、家臣に背負われて会津黒川城へ戻った。
■解毒剤を投与されて一命をとりとめた政宗は、自分を遠ざけて小次郎を可愛がる母義姫が自分の毒殺を諮ったと確信した。
■4月7日、政宗は弟の小次郎と、その傅役(もりやく)の小原縫殿助(おばらぬいのすけ)を殺害した。
■このことを知った義姫は、その日(4月7日)に山形の最上義光の元(義姫の実家)へ逃げ帰った。
元禄16年(1703)に編纂された伊達家の正史(公式記録)「貞山公治家記録(ていざんこうじかきろく)」には、上記の内容の記載があるようです。
この「貞山公治家記録」は信憑性が高く、暗殺未遂事件から100年以上経過して編纂された内容にも関わらず、上記の内容が現在まで「通説」として浸透していたようです。
次に、2つの番組で展開していた「毒殺未遂事件は伊達政宗の自作自演の狂言だった」という説を以下に整理してみますと・・・
■伊達藩には、秀吉に恭順しようとする政宗に対し、弟の小次郎を担いで秀吉に抵抗しようとする勢力が蠢いていた。
■政宗は、小田原参陣中に家中が分裂して、内乱に発展することを恐れた。
■そこで政宗は義姫と二人で共謀して「義姫に毒殺されそうになったので、小次郎を殺した」と信頼する部下に偽情報を流し、それが藩内に伝わって抵抗勢力の力は失われた。
■政宗は、徳川家康の口利きで、小次郎を仙台から遠く離れた武蔵国の大悲願寺に預けた。
■政宗はその後、たびたび大悲願寺を訪れて小次郎に面会した。
■小次郎は後に第十五代住職秀雄僧正となり、天寿を全うした。
※番組では「当時政宗には子がおらず、万一小田原参陣中に自分の身に何かあった場合、小次郎に継がせるつもりだったのではないか?」と言及していました。
これらの説の根拠は、冒頭に記載した大悲願寺の過去帳以外には・・・
■当時の日本には、口に入れて直ぐ効力を発揮する毒物(青酸カリなど)は無く、毒キノコを食べさせられたと書かれている小説もあるが、毒キノコでは直ぐに痛みは出ず、毒殺未遂の内容に疑問が残る。
■貞山公治家記録では、義姫は直ぐに実家へ逃げ帰ったことになっているが、文禄3年(1594)に書かれた政宗の師匠、虎哉和尚の手紙には、義姫が実家へ帰ったのは4年後で、それまで政宗と義姫は仲良く暮らしていたことが書かれている。
■朝鮮出兵中の政宗に義姫が小遣いを贈ったり、政宗が義姫に「土産に着物を買って帰る」などと書いた手紙も残り、仲の良い親子にしか見えない。
※自分は「秀雄=小次郎説」に信憑性を感じましたが、真実はどうなんでしょうね・・・
↑前置きが長くなってしまいました(汗)大悲願寺は、JR五日市線の武蔵増戸駅と武蔵五日市駅の、ほぼ中間に位置していました。僅かに武蔵増戸駅からの方が近いでしょうか・・・
自分は自転車で(笑)五日市街道(東京都道7号杉並あきる野線)の「新秋川橋東」交差点から北へ入り、JR五日市線の踏切を越えて西へ向かい・・・
↑長屋門の前に到着。長屋門の向かい側は駐車場(一般参拝者も駐車可か?お檀家さん専用か?は不明)になっていました。
↑長屋門の左(西)側には中門(朱雀門)があったのですが、改修中のため閉鎖されていました。
↑朱雀門の扁額は、院号の「吉祥院」でした。境内に建つ朱雀門の解説板を以下に転記しました。
あきる野市指定有形文化財(建造物)
大悲願寺中門(朱雀門)一棟
所在地:あきる野市横沢134番地
指 定:平成7年6月1日
棟木(むなぎ)に記された墨書(ぼくしょ)から安永9年(1780)に建てられたことがわかります。
構造は一間一戸の切妻造で、本柱の前後に二本づつ計4本の控柱(ひかえばしら)をもつことから四脚門(よつあしもん)と呼ばれます。
随所に見事な彫刻が施されており、禅宗様建築の影響を強く受けた、江戸時代後期の貴重な遺構です。
平成15年11月1日設置
あきる野市教育委員会
↑中門(朱雀門)から左(西)側へ進むと・・・
↑寺号標の向かいに、立派な仁王門がありました。
↑こちらがいわゆる「山門」になるんでしょう。境内の解説板より、解説を以下に転記しました。
あきる野市指定有形文化財(建造物)
大悲願寺楼門(仁王門)一棟
所在地:あきる野市横沢134番地
指 定:平成7年6月1日
慶長十八年(1613)に建てられた後、寛文九年(1669)に再建されました。現在の建物は安政六年(1859)に建てられたものです。
構造は三間一戸の入母屋造で銅版葺です。両脇には仁王像が安置され、幕末期の絵師藤原善信、森田五水により見事な天井絵(市指定文化財)が描かれています。
また、各所に施された彫刻も見事で、幕末期の特色をよく示しています。
平成14年9月1日設置
あきる野市教育委員会
↑接近すると、より迫力を感じました。
↑天井絵が少し見えました。
↑山号額と天井絵。
↑天井絵の解説は、解説板から以下に転記しました。
市指定文化財
仁王門 天井絵
この仁王門は安政六年(1859)再建されたが、天井絵の作成も同年である。中央通路の格天井(こうてんじょう)は大日如来の梵字を囲んで草木の花が描かれている。
一隅に「狩野養信(おさのぶ)門人 藤原善信」の銘があるが、彼は五日市小庄の人、郷土の画家である。
また仁王像の天井には右天女、左迦陵頻伽(極楽の鳥)が描かれている。
作者は現日の出町平井千石の人森田五水(ごすい)彼は幕末期狩野派画家として多摩地域に盛名があった。
北側袖天井の雲龍図も五水の手になり、見事な筆勢である。
昭和59年11月25日指定
あきる野市教育委員会
↑南無大師遍照金剛!
東京都指定有形文化財(建造物)
大悲願寺本堂
附 棟札一枚(元禄第八 亥乙 稔八月吉祥日)
所在地:あきる野市横沢134番地
指 定:昭和53年3月16日
建築年代は元禄八年(1695)八月で、高尾左衛門次郎久重ほか12名の大工と14名の木挽によって建築されたものである。
書院造り風の方丈系講堂様式本堂で、屋根は入母屋造り、茅葺型銅版葺となっている。
内部は六間取形式で、規模は桁行柱真々23.84m、梁間柱真々13.42m、面積319.93㎡である。
特に内部は建設当初の姿をよく保っており、方丈系本堂建築としてこの地方の代表的な建物の一つである。
平成19年3月1日
東京都教育委員会
↑本堂右側の寺務所(客殿?)の前に、大悲願寺と伊達政宗公との所縁が記された解説板が立っていました。
↑解説板は以下に転記しましたが、肝心の白萩を撮影し忘れて自分が嫌になりました。馬鹿ですね(涙)
白萩と臥龍梅
當院の第十五代住職秀雄僧正は仙台の藩主伊達陸奥守政宗公の俗弟であった 元和九年(1623)八月政宗公は伊奈へ鮎漁に来遊、當寺を訪ねられた
その後公は當院宛に先度は参遂會面本望に候 依って無心の申事に候へ共御庭の白萩一段見事に候き所望致候 先度は申兼候て罷り過し候 預候はば恭かる可く候云云と書輸を寄せられている
然るに昭和四十七年十一月 たまたま五日市町に於て全國健康都市會議の開催された際 議長の仙台市長島野武殿にこのような因縁のある白萩を贈呈したところ 仙台市でも大いに喜ばれ それを記念して當院に政宗公所縁の市の銘木臥龍梅の若木を贈られてきた
依ってここに移植し 白萩と臥龍梅の由来を記して感謝の微志を表すると共に 限なき両市町間の友誼の記念とするものである
昭和48年3月21日
當山
章一書
↑「白萩と臥龍梅」説明板の向かいには「伊達政宗 白萩文書」の解説板も立っていました。
仙台藩主伊達政宗が大悲願寺に宛てた書簡である。当山十三世住職海誉(かいよ)上人の時代で、たまたま政宗の末弟秀雄が上人の弟子として在山したという。
また政宗は川狩りを好んだともいわれる。内容は先日訪問した折、庭の白萩が見事であったが、その白萩を所望したいという主旨である。年次は「政宗公実記」より元和九年(1623)と推定される。
追て是式に候へ共、
折節に任せ、
小袖壱重(こそで・ひとかさね)進め候。以上。
態(わざわざ)飛脚を以て申し入れ候。
先度は参り、会面を遂げ本望に候。
仍(よって)無心の申す事候へども、
御庭の白萩一段見事に候き、所望致し候。
先日は申し兼ね候て罷(まかり)過ぎ候。
預(使いの者に)候はば恭(かたじけな)かるべく候。
猶(なお)後音を期し候。
恐惶謹言
松平陸奥守
八月廿一日 花押(政宗の書き判)
彼岸寺御同宿中
※なお、本文書は市指定文化財でありましたが、平成八年三月十八日、これを含む一万三百三十五点の資料が「大悲願寺文書」として東京都有形文化財に指定されました。
上記には「たまたま政宗の末弟秀雄が海誉上人の弟子として在山していた」とありますが、2つの歴史番組には御住職が出演され「政宗公は小次郎を何度も慰問された」と仰っていました。
あきる野市指定有形文化財(建造物)
大悲願寺観音堂 一棟
所在地:あきる野市横沢134番地
指 定:平成7年6月1日
この観音堂は「無畏閣(むいかく)」とも呼ばれます。寛政六年(1794)に建立され、文政十年(1827)に向拝(ひさし部分)が取り付けられました。
堂の内外には各所に彫刻が飾られ、特に正面欄間の地獄と極楽を表した彫刻は見事です。
昭和27年にそれまでの寄棟造の茅葺から宝形造の本瓦葺に変えられていましたが、その後、柱の沈下や屋根のいたみ等が進んだため、平成16年から18年にかけて大規模な修復工事が行われ、これによって建立時の寄棟造の茅葺型銅版葺で復元されました。
また、外面の彫刻は色の剥落が激しかったため新たに彩色が施され、往時の姿が甦りました。堂内部の彫刻は当初の色が残されていたため、それを保護する処置が施されています。
江戸後期の様式を留めた貴重な建造物です。(観音堂の中には、国指定重要文化財である「木造伝阿弥陀如来及び脇侍 千手観世音菩薩・勢至菩薩坐像」が安置されています)
平成19年3月1日設置
あきる野市教育委員会
↑浄財を入れ、合掌礼拝。
↑向拝軒下の色彩豊かで精緻な彫刻が、実に見事でした。
↑正面左側、欄間の地獄と極楽を表した見事な彫刻。幕の「輪違い紋」は真言宗豊山派の宗紋で、2つの輪は金剛界と胎蔵界を表わすそうです。
↑右側は、こうなっていました。
↑観音堂の横は、弘法大師を祀った大師堂。
↑合掌礼拝。
↑こちらの彫刻も、見事でした。お堂の裏には・・・
↑石仏、供養塔、お地蔵様などがピラミッド状に積み上げられていて、壮観でした。
↑その近くのお地蔵様(五輪地蔵)の傍には、解説板あり。内容は以下に転記しました。
あきる野市指定有形文化財(彫刻)
大悲願寺の五輪地蔵 一基
所在地:あきる野市横沢130番地
指 定:平成25年3月26日
この地蔵菩薩は、江戸時代中期の寛延元年(1748)に建てられました。船の形をした光背に五輪塔が浮き彫りにされた特徴をもち、市内で数少ない形式です。
基壇には、建てた年号のほか、和歌山県北東部の霊地である高野山の地蔵を模したことや、大悲願寺の第24世の弟子の墓として建てたことなどが刻まれています。
多摩地域で最も古い五輪地蔵であり、この形式がここから周辺に広まった可能性が考えられる貴重な文化財です。
平成28年10月15日設置
あきる野市教育委員会
↑観音堂の東側に、スポットライトが当たったように見える標柱がありました。気になるので接近してみると・・・
↑それは「乳牛供養塔」でした。ググってみましたが、情報は得られませんでした。かつてこの辺りでは、酪農が盛んだったのでしょうか・・・
↑乳牛供養塔の横から本堂の裏山に登れるようになっていて、その道中は四国八十八ヶ所霊場の疑似巡拝路になっていて・・・
↑霊場の名が刻まれた石仏が随所にありました。ここを一巡りすれば、お遍路をしたことになるのではないでしょうか。
↑道中には、はりまや橋もありました。
↑適度な勾配で、気分良く散策できました。
↑裏山の山頂まで登るのではなく、巡拝路は途中から下りになりました。
↑涅槃の道場。
↑裏山から降りると美しい田園が広がっており、桃源郷か?と思いました。五日市界隈は空気が美味しく爽やかで、高原の雰囲気。気持ち良い探訪になりました。