東京都・大悲願寺 その1(仁王門・観音堂)
テーマ:東京・神社
2022年11月18日 東京都あきる野市横沢の大悲願寺に参拝しました。
彫刻が多いため、2つに分けて掲載します。
・東京都・大悲願寺 その1(仁王門・観音堂)
・東京都・大悲願寺 その2(観音堂・境内社)
由緒
建久2(1191)年源頼朝が施主となり、澄秀を開山として平山季重が創建したと伝えられています。開山の澄秀が京都醍醐寺の三宝院と関係があったことから長く同院の末でしたが、明治29(1896)年大和の長谷寺の末となりました。国・都・市指定の文化財などが多数あります。
仁王門
慶長18年(1613)に建てられた後、寛文9年(1669)に再建されており、現在の建物は安政6年(1859)に再々建された物です。両脇に仁王像が安置されています。
中央通路の格天井は大日如来の梵字を囲んで草木の花が描かれています。(作者は幕末期の絵師藤原善信)
仁王像の天井には右・天女、左・迦陵頻伽と、北側・袖天井に雲竜図が描かれています。(作者は幕末期狩野派画家の森田五水)
天女と仁王像
迦陵頻伽
観音堂(無畏閣)
寛政6年(1794)に建立され、文政10年(1827)に向拝が取り付けられております。堂の内外には各所に彫刻が飾られ、特に向拝の飛龍と王巵弾琴と左右欄間の地獄極楽図が見事です。国重要文化財の木造伝阿弥陀如来と、脇侍の千手観音菩薩・勢至菩薩坐像が、安置されていて、毎年4月21日と4月22日に開帳されます。
懸魚:飛龍
中備:玉巵弾琴
玉巵は西王母の娘で、太真王の夫人であった。玉巵は琴の名人で、一弦琴を弾ずれば、百禽の鳥が飛来したという。また時には、白龍に乗り四海を周遊したとも伝えられる。
唐破風下:虎渓三笑
中国での浄土教の開祖である慧遠法師は来客を送る際、精舎(精進する者たちの舎宅)の下の虎渓という谷川で足を止め、川を渡ることをしない戒律「安呉禁足の掟」を守っていました。ところが詩人の陶淵明と道教の大家である陸修静が来訪して、三者でそれぞれの専門分野について話していた時、興が乗じて慧遠法師は思わず、虎渓を越えてしまいました。虎の吠える声を聞いて、それに気づき、三人とも大笑いをしたとのことです。儒、仏、道の三賢者でも夢中になって、我を忘れることがあるという故事。
拝殿正面右側の欄間:地獄図
閻魔様に裁かれ(右側)、嘘つきは舌を抜かれ(中央)、釜ゆでにされる(左側)。
拝殿正面左側の欄間:極楽図
(右側)奪衣婆が三途の川で衣類を剥ぎ取り、木に引っ掛けて今までの罪の重さを計っている。
(中央)子供が賽の河原で石を積み塔を作ろうとし、お地蔵様に助けを求めている。
(左側)阿弥陀如来に手を合わせて祈り、極楽浄土のへ往生を願っている。
** 「浄土」とは、仏教において一切の煩悩やけがれの無い、仏さまや菩薩さまが住む清浄な国土のことで、浄土には様々な種類があり、その中でも阿弥陀如来のいる浄土のことを「極楽浄土」という。
中国系の故事や動物などの彫刻が蟇股に24枚あります
不明 (上を向いた人と笙を吹く唐子。笙を吹きながら鶴に乗り飛んだ王子喬、笙を吹きながら青鸞に乗り飛んだ梅福仙人、笙を得意とした蕭史などが考えられます)
二十四孝 孟宗
中国三国時代、呉国に孟宗という親孝行の息子がいました。幼い頃に父を亡くし、高齢の母は重い病にかかっていました。彼は医者から母に新鮮な筍のスープを作るようにと言われました。時は冬、筍は春にならないと生えてきません。なす術もなく竹林に入った彼は、竹にすがって泣き出しました。すると大地が揺れ始め、地面がひび割れたかと思うと、数本の筍が生えてきました。大喜びした孟宗は筍を家に持ち帰り、筍のスープを母に飲ませまると、母の病気が治ったといいます。
張果老(瓢箪から駒)
張果老は白い驢馬に乗って各地を廻り歩き、休むときは驢馬を瓢箪の中に収めていたという。
瓢箪から出た馬












