ザ・ビートルズ武道館公演・昭和41年(1966年7月1日・昼の部)
前座6アーティスト6曲全演奏
Broadcasted by 日本テレビ, 昭和41年7月1日
(Tracklist)
1. 開演アナウンス : 0:00 - 2:15
2. 司会 / E・H・エリック : 2:16 - 3:15
3. ウェルカム・ビートルズ (作詞・安井かずみ、作曲・井上忠夫) / ブルー・コメッツ&ブルージーンズ、内田裕也、尾藤イサオ : 3:16 - 5:37
4. のっぽのサリー (E.Johnson, R.Penniman, R,Blackwell) / ザ・ドリフターズ : 5:38 - 7:00
5. ダイナマイト (Ian Samwell) / 尾藤イサオ&ブルー・コメッツ : 7:01 - 9:19
6. 朝日のない街 (Barry Mann, Cynthia Weil) / 内田裕也&ブルージーンズ : 9:20 - 12:07
7. 恋にしびれて (作詞・沢ノ井千江児、作曲・萩原哲晶) / 望月 浩 : 12:08 - 13:49
ビートルズ最初で最後の来日公演は、8月に発売されるニュー・アルバム『Revolver』が完成された6月下旬から間もない、昭和41年(1966年)6月30日(夜の部)・7月1日(昼の部・夜の部)・2日(昼の部・夜の部)に行われました。ビートルズは7月3日にはフィリピンのマニラ公演に向かい、ツアーは8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートで終了します。以降ビートルズはライヴ活動休止を宣言し、解散までレコーディングのための例外的なライヴ収録を除いて、レコード制作のためだけに存続を続けたバンドとなります。日本公演もライヴ活動休止前のノルマ消化のために行われた、極東を含む世界ツアーの一環として行われました。この項は日本語版ウィキペディアに簡潔にまとめられていますので、日本公演の部分を抜粋引用いたします。
「1966年にビートルズ唯一の日本公演が行われた。日本航空のJL412便、ダグラスDC-8-53型機(JA8008、松島号)でハンブルグからロンドン、アンカレッジを経由して羽田空港に着いたビートルズは、関東地方での台風のためアンカレッジで一時降機してウェストウッド・ホテルで休養したため、予定より11時間ほど遅れ6月29日の午前3時39分に到着した。」
「羽田空港到着時には、大勢の報道陣やファンらが待つ中を日本航空の「JAL」のロゴと鶴丸のついた法被を着てタラップを降り、キャデラックにパトカー先導でホテル(東京ヒルトンホテル[後のキャピトル東急ホテル])へ首都高速経由で向かった。29日午後には記者会見が開かれている。」
「公演は6月30日夜および7月1日昼夜・2日昼夜 に催行(計5回)し、会場はすべて東京都千代田区の日本武道館。7月1日の昼の部に収録された映像は、当日夜にテレビ番組で放送された。」
「司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。この前座バンドについては後にマッカートニーが「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。音楽性は高くないがそういう歓待は嬉しかった」と発言している。このとき歌われた楽曲「ウェルカム・ビートルズ」は1966年9月10日発売のジャッキー吉川とブルーコメッツのアルバム『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』に収録されている。」
「しかしそうした歓待の一方で、初めて日本武道館という場所でポップ・ミュージックを演奏する事について批判する者も存在した。右翼団体、大日本愛国党総裁の赤尾敏をはじめとした街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいた。このため警視庁は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った。」
「またファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ自身も行動が著しく制限され、分刻みのスケジュール管理、および日中のヒルトンホテルからの外出禁止などの措置がとられたが、その代わりに29日には東芝音楽工業の計らいで日本の若手アーティストの代表として加山雄三のホテルへの訪問をした他、「ミュージック・ライフ」の取材を受けた。またメンバーは行動制限をかいくぐって7月1日の朝に皇居に、そして昼間に表参道と青山に買い物に出かけている。その後には着物屋や土産屋が訪問販売をしている。」
「コンサート自体はマイク・スタンドの不備などの問題は生じたものの、事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(アリーナにはチケットが割り振られず警備員のみが配置され、観客は立ち上がったり近づいたりする事が許されていなかった)会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは最初のステージで自分達の音が合っていない事に気づいてショックを受けた。ハリスンは最初のステージ後、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーのぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次のステージまでに急いで改善の努力をした。その結果、演奏は回を重ねるほどに改善していった。」
「3日間の公演の総観客数は5万人とも2万5千人ともいわれる。7月2日はホテルで休養を取り、3日の午前10時44分に日本航空のダグラスDC-8-53型(JA8006、鎌倉号)で離日する。」
(以上日本語版ウィキペディアより)
この時のビートルズの来日公演映像はテスト収録として撮影された6月30日分のみが日本のテレビ局に残り、以降テレビ放映や映像ソフト化される際には6月30日分が使われるようになったため、開演開始のブザーまで撮影され、アナウンスから始まり、日本人アーティストによる前座も含めて放映された7月1日の収録フィルムは翌1967年に死去するマネージャーのブライアン・エプスタインが原盤を押収して持ち帰ったため、エプスタインの没後は所在不明になっていました。それが熱心な研究家の調査によって発見されたのは収録から50年後の2016年になってからで、楽曲を含めて版権関係があまりに複雑なために公式な再放送、映像ソフト化がかなわず、関係者から流出して海賊盤DVDでのみでしか観られないのが現状になっています。この放送についても日本語版ウィキペディアに項目がありますので、そちらも引用しておきましょう。
「『ザ・ビートルズ日本公演』は、ビートルズが東京を訪問して行った日本武道館公演(1966年6月30日 - 7月2日)のうち7月1日の昼の部を日本テレビが録画し、同日21時から1時間番組として放送した日本のテレビ史上に残るカラーの音楽番組。視聴率は56.5パーセントを記録した(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。これは2007年9月現在も特別番組の視聴率日本最高記録である。 1978年(昭和53年)に『ビートルズ日本公演!今世紀最初で最後たった1度の再放送』として放映されたものは1966年6月30日の夜公演であり、再放送ではない。後に発売されたVHSやレーザーディスクも1966年6月30日夜公演の映像を収録している。」
「日本公演における曲目
ロック・アンド・ロール・ミュージック
シーズ・ア・ウーマン
恋をするなら
デイ・トリッパー
ベイビーズ・イン・ブラック
アイ・フィール・ファイン
イエスタディ
アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン
ひとりぼっちのあいつ
ペイパーバック・ライター
アイム・ダウン」
(以上日本語版ウィキペディアより)
ビートルズの日本公演は5回の公演すべて同一曲目なのがプログラムに予告印刷されており、アンコールなし、全11曲30分というもので、特別番組の1時間枠でもあまりに短いため、昭和41年7月1日の昼公演を夜9時から放映するに当たって(昼収録を当日晩に放映するとは、今では考えられない早業です)前座公演15分も放映されたとされていました。またのちには日本に残っていた初日の6月30日公演(夜の部)が広く流出することになったため、ビートルズのメンバー自身も不出来としていた初日公演の演奏から「ビートルズの日本公演はいかにもノルマ消化のための精彩を欠いた演奏だった」という定説が出来上がっていたものでした。1996年3月に発売された『The Beatles Anthology 2』にも6月30日公演(夜の部)から比較的出来の良い「Rock And Roll Music」と「She's A Woman」の2曲が収録されましたが、ビートルズの日本公演についてはビートルズも精彩を欠いていれば、前座の日本人アーティストの演奏については「ビートルズの登場を待つ観客の冷淡な反応しかなかった」とばかり語られてきたのです。のちにポール・マッカートニーは「(日本公演を含むビートルズ最後の1966年のツアーでも)ぼくたちは最高のライヴ・バンドだった」と発言していますが、それは昭和41年7月1日の昼公演のテレビ中継映像発掘まで証明されませんでした
しかしついにビートルズ昭和41年7月1日の昼公演とともに発掘された日本人アーティストの前座公演はビートルズの前座を勤める高揚感に満ちた、目を見張るものでした。観客はビートルズの登場を待ち、観客1万人に対して警備員の警官3千人の厳戒態勢、しかも事前に予定されていた前座の持ち時間は1時間だったのに実際は短縮され7月1日には15分半、さらに武道館でのポピュラー音楽のコンサートはこれが初めてにしてモニターもない悪条件で、ブルージーンズ(リーダーの寺内タケシは病気療養を理由に脱退、サブ・リーダーの加瀬邦彦も「客席からビートルズを観たい」という理由で脱退)、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・ドリフターズの3バンドに、ブルー・コメッツをバック・バンドとしていたソロ・シンガーの尾藤イサオ(23歳)、ブルージーンズのヴォーカリストだった内田裕也(26歳)、この年ビート歌謡「君にしびれて」をヒットさせたばかりの望月浩(18歳)の3人のシンガーが共演しています。この前座公演のために作られた安井かずみ作詞・井上忠夫作曲の「ウェルカム・ビートルズ」の尾藤・内田の2ヴォーカルとブルージーンズとブルー・コメッツの合同演奏から始まり(この曲はのちにテクノボップ・バンドのプラスチックスがデビュー・アルバムで「ウェルカム・プラスチックス」と歌詞を変えてカヴァーします)、たった1分半の持ち時間で仲本工事がリード・ヴォーカル&ギター、加藤茶がドラマーのドリフターズがリトル・リチャード1956年のヒット曲(かつビートルズのレパートリーでもありますが、来日公演では演奏予告されなかったため選曲されたのでしょう)「のっぽのサリー」を決め、クリフ・リチャード&シャドウズ1959年のヒット曲「ダイナマイト」をブルー・コメッツをバックに尾藤イサオが歌い、ジ・アニマルズ(!)1965年のヒット曲「朝日のない町」を内田裕也がブルージーンズをバックに歌い、この年春のヒット曲「君にこがれて」を望月浩がブルー・コメッツをバックに歌い、最後はブルー・コメッツが得意にしていたスタンダード曲「キャラバン」をインストルメンタルで決めて終わります。ブルー・コメッツのオリジナルの単独演奏・ヴォーカル曲がないのが残念ですが、この1966年7月1日の時点ではブルー・コメッツのヴォーカル曲は3月に「青い瞳(英語版)」が発売されていただけで、7月の「青い瞳(日本語版)」は発売前ですし、ブルージーンズと交替でバック・バンドとして出ずっぱりだったので、前座公演エンド・テーマにインストルメンタルのスタンダード曲「キャラバン」の単独演奏だけにとどめられたのでしょう。のち同年9月にブルー・コメッツのアルバムに収められた「ウェルカム・ビートルズ」はイントロにイギリス国家、間奏に「A Hard Day's Night」を引用した聴きごたえのあるアレンジで、また中西俊夫(1956-2017)さんをフロントマンとしたプラスチックスの改作版「ウェルカム・プラスチックス」は、気恥ずかしいビートルズ讃歌の安井かずみさんの歌詞をドライに歌ってシニカルな味を強調した、遅咲きのバンドだからこその名ヴァージョンです。
この前座出演バンド、アーティストは当時すべて渡辺プロとその系列プロ所属で、これはビートルズを日本に招聘した中部放送中心のプロモーター側が前座の手配まで手が回らず、渡辺プロに丸投げした結果だったそうです。内田裕也はロカビリー時代の1959年に、尾藤イサオは1953年に子役を始め1960年にブルー・コメッツをバックにロカビリー転向とデビューしてすでに5年以上のキャリアを持っており、ギターヒーロー・寺内タケシのバンドだったブルージーンズは寺内タケシが新バンド・バニーズ結成のため脱退(表向きには病気療養脱退)直後とはいえベンチャーズに匹敵する日本のエレキバンドとして頂点に立っており、ロカビリー時代からのベテラン、ブルー・コメッツは言うまでもありません。望月浩はまだハイティーンのビート歌謡の人気新人歌手で、ドゥ・ワップ・グループとして結成されたドリフターズは碇矢長一をリーダーとしてロックバンド版クレイジーキャッツ路線に転向後、仲本工事、荒井注、加藤茶が加入して1年経った頃でした。まだ高価なカラーテレビの普及率が低い時代にカラー放映するためビデオテープではなく映画クオリティーの16mmフィルム撮影が行われた鮮明な映像は、55年あまりを経て歴史的価値以上のものがあります。すべてのアーティストが全力を尽くした熱演をしていますが(ドリフターズはセット・チェンジの関係で実際の演奏はブルージーンズ、仲本工事のヴォーカル&ギターと加藤茶のドラムスのみが本人たちの生演奏になっています)、内田裕也・尾藤イサオ(この両氏はそのままステージ袖でビートルズの公演を観ることが許され、両氏がステージ袖でパイプ椅子に座ってビートルズの演奏を見つめる証拠写真も残っています)が当時のロック・シンガーとしてトップクラスの存在であり、単独のバンドとして独立したばかりの上り調子のブルー・コメッツのパフォーマンスはグループ・サウンズ時代の到来を示して余りあります。渡辺プロ系列のプロダクションに所属していたザ・スパイダースにも前座出演が打診されたそうですがスパイダースは断ったと伝えられ、観客の冷淡な反応からすればスパイダース、また「客席からビートルズを観たい」と直前にブルージーンズを脱退した加瀬邦彦氏の判断も賢明だったとも言えますが、この面子にスパイダース(またブルージーンズに寺内タケシ、加瀬邦彦)が加わっていたら前座公演映像はさらに価値を増すことになっていたでしょう。ビートルズは当時日本人アーティストの前座公演には冷淡で、日本ではまだプレスリーやギター・インストの時代なのかと一笑に伏したともされますが、1995年制作の映像版『The Beatles Anthology』ではポール・マッカートニーは日本公演映像(6月30日・夜の部)を観ながらビートルズが四人が揃ってライヴを行っていた最後の記録と懐かしんでいます。この日本人アーティストの前座公演をダサいと見るか、ビート・グループ時代に踏みこんだ日本ロック黎明期の息吹きを伝える超貴重映像と見るかは人それぞれでしょうが、わずか15分半に1966年時点の日本のロックが凝縮され、これだけで一つのショウとして観賞できるこの映像は賛否両論を越えて必見の価値があります。これを古色蒼然たる時代の産物と見るとしても、いくら何でも自分よりずっと偉い方々なんだぞと心に留めておいてください。
(旧記事を手直しし、再掲載しました。)



