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第2章 相互作用から社会へ−形成されるものとしての社会−

第1節 「社会はいかにして可能か」
 「シンボリック相互作用論は、シンボルを通じての人間の相互作用過程に焦点をおき、人間の社会による形成と社会の人間による形成という問題、つまり、人間と社会との関係についての基本的問題を明らかにしようとするものである」(船津、1976年、1頁)。
 これは、船津 衛がその著『シンボリック相互作用論』の冒頭において、シンボリック相互作用論の思想を特徴づける最大公約数として提示した見解である。
 断るまでもなく、個人と社会との関係を如何に把握するか、という問題は、社会学が誕生して以来、暗黙にであれ、明示的にであれ、その解明されるべき根本問題として位置づけられてきた1)。とはいえ、まさにこの「個人と社会との関係」を如何に捉えるかに関して、「過度の分極化の傾向」が、今日までの社会学史に存在してきたこともまた事実である(山崎、1993年、65頁)。すなわち、一方に「過度に個人主義的な社会学的営み」を押し進めるものと、他方に「過度に社会(中心)主義的な社会学的営み」を押し進めるものという、ふたつの傾向が存在してきた。たとえば、H.スペンサーの功利主義的個人主義に対するE.デュルケームの批判は、過度に個人主義的な人間観という問題性に向けられていたし、その後の、T.パーソンズの社会学に対するD.ロングの「社会化過剰の人間観」(the oversocialized conception of man)批判は、過度に社会(中心)主義的なものとして受けとめられた人間観という問題性に向けられたものであると言えよう(山崎、1993年、66頁)。
 個人と社会との関係を如何に捉えるか、という問題をその根本問題と捉える、ということに関して言えば、上記の船津からの引用にも明らかなように、このことは、シンボリック相互作用論においても、例外ではない。
 かねてより、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、上記に見た後者の批判(「社会化過剰の人間観」批判)と軌を一にしつつ、個人と社会との関係に関する新たな理論的立場を構築しようとするものと捉えられてきた。たとえば船津は、次のようにブルーマーのシンボリック相互作用論における個人と社会との関係を捉えている。すなわち、「従来の社会学」(明らかにパーソンズを中心とする構造機能主義社会学を指している)が、社会学理論における個人と社会との関係を、社会が一方的に個人を規定するという形で捉えていたのに対して2)、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、個人を社会に一方的には規定されない「主体的存在」と捉え、社会を、そうした主体的存在たる個人によって形成・再形成されるものとして捉えるという形で、個人と社会との関係を捉えようとしていると言う(船津、1976年、20頁;1993年)。
 いわば、個々人による社会の形成・再形成を強調する分析枠組みとして、ブルーマーのシンボリック相互作用論は捉えられてきたわけである。とはいえ、ブルーマーが、シンボリック相互作用論において、社会による個々人の規定の側面を看過してきたかと言えばそうではない。先にも見たように、ブルーマーにおいては、個人は、当該「社会」(他者たちの集団)より、「一般化された諸々の役割」と「定義の諸図式」を獲得し、そうした図式によって自らの解釈・定義を方向付けられるという形で、自ら「社会化」 (socialization)を受ける存在と捉えられていた。
 社会が個々人を形成する側面については、本論第1章に論じたとおりである。では、個々人が、社会を形成してゆくのは如何なるメカニズムによるものなのか。またそもそも「社会」とは、ブルーマーのシンボリック相互作用論において如何なるものと捉えられているのか。本章はそれを明らかにすることを目的としている。
 個々人が社会を形成して行くそのメカニズムや如何に。本章が解こうとするこの問題は、ブルーマー自身が、シンボリック相互作用論を展開するにあたって、その立論の背後に持っていた問でもあった。そのことを、那須は鋭く以下のように指摘している。
 「彼は解釈に基づく進行中のシンボリック相互作用のなかにある社会という『ルート・イメージ』を描くことによって、あらかじめ確立された『意味』ないしは『解釈』がもはや実際に、あるいは可能性として適切に適用されえない状況、すなわち、実際的あるいは潜在的な『問題的状況』に自らの視点を定位しようとしている・・・・彼のシンボリック相互作用論は、『問題的状況』−それが社会的なものであれ個人的なものであれ−を対象として設定することを決断したパースペクティブであり、そしてそれはまた、さらに視点を広げて言えば、『社会はいかにして可能か』という問を背後にもったパースペクティブである、とひとまずは言うことができよう」(那須、1995年b、92頁)。
 では「社会はいかにして可能か」。ブルーマーの言説を検討することを通じて、以下、この問題について議論して行くこととしたい。
 
 
第2節 三つの相互作用
 「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social interaction)の範疇に入るものと捉えられている。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい。
 周知のようにブルーマーは、人間間に生じる「社会的相互作用」(social interaction)をふたつのレベルで捉え、そのうちのひとつを「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と名付け、もうひとつを「シンボリックな相互作用」(symbolic interation)と呼んでいる。その各々の相互作用の内実を、ブルーマーは、ミードの知見を援用し、以下のように表現している。
 「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the use of significant symbols)と呼んでいる。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』 (non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic interaction)と私は名付けたい。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。
 この説明を見る限り、ブルーマーは、人間間の社会的相互作用を、確かに二つのレベルにおいて生じるものと捉えている。そこにおいて個々人が他者の行為を解釈することなく、互いに相手に対して刺激−反応的に反応し合う「非シンボリック相互作用」がまずひとつ提示されている3)。ブルーマーによれば、相手の一撃をかわすために自動的に腕を上げるボクサーの場合などのような反射的な反応が、その典型例として挙げられる(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。そしてもうひとつには、そこにおいて個々人が互いの行為を解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあう「シンボリックな相互作用」が提示されている。そして、この後者の相互作用が、ミードの言う「有意味シンボルの使用」に相当する、とブルーマーは捉えている。
 とはいえ、もしブルーマーにおいて「有意味シンボル」なるものが「共通の定義」と同義で用いられているものならば4)、上記の「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」というブルーマーの立論には、問題が生じる。
 ブルーマーは、「対象」(object)に関する議論において、「ひとつの対象が異なる個人に対して異なる意味を持つことがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、13頁)と述べ、それ故、「個人や集団は、たとえ同一の空間的な位置を占有し、そこで生活していたとしても、きわめて異なった環境を持っている可能性がある。いわば、人々は、たとえ隣り合って住んでいたとしても、異なった世界に住んでいることがあり得る」(Blumer,1969b,p.11=1991年、14頁)としている。すなわち、本論における前章の議論を踏まえた上で、このブルーマーの言説を解釈するならば、相互作用に参与するであろう個々人は、互いに相手とは異なった「パースペクティブ」を持つという意味で異質な存在として、社会的相互作用に参与する可能性が高いということになる5)。その上で、ブルーマーのシンボリック相互作用論の立場から、相互作用に参与する両者の間に共通の定義(=有意味シンボル)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、共通の定義とはまさしくシンボリックな相互作用を通じて形成されるとこたえるのであれば6)、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない。すなわち、有意味シンボルの成立は有意味シンボルを使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう7)。
 確かに、「シンボリックな相互作用」に「有意味シンボルの使用」が含まれているのは事実であろう。とはいえ、両者は同一のものではない。前者には、異質な個々人が未だ共通の定義(有意味シンボル)を成立させてはいないものの、互いの行為を解釈し合い、共通の定義ないしは有意味シンボルを成立させようとする「シンボリックな相互作用」が含まれているはずである。すなわち、ブルーマーにおける「社会的相互作用」概念には、正確には三つの「相互作用」が含まれていなければならないわけである。すなわち、1)「非シンボリック相互作用」、2)未だ有意味シンボルが成立していない「シンボリックな相互作用」、そして3)「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての「シンボリックな相互作用」という三つの相互作用が含まれていなければならないわけである。
 ブルーマーの「シンボリックな相互作用」概念には、正確には、二つのシンボリックな相互作用が含まれている。そして彼が主たる分析の対象としたのも、非シンボリック相互作用ではなく、このシンボリックな相互作用に他ならない8)。
 ブルーマーによれば、シンボリックな相互作用とは、そこにおいて「人々が互いの身振りを解釈し、そうした解釈によって生み出された意味に基づいて行為」(Blumer,1966=1969a,pp.65-66=1991年、84頁)している社会的相互作用を指す。シンボリック相互作用論の基本的前提のうち、第三の基本的前提、すなわち、「事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる解釈の過程(interpretative process)を通じて、操作されたり修正されたりする」という前提を踏まえるならば、そうした「解釈」は、その個人の「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」を通じて行われているのであり、またその第一の基本的前提、すなわち、「人間は、事柄(thing)に対して、その事柄が自分にとって持つ意味(meaning)に基づいて行為する」という前提を踏まえるならば、その結果として付与した「意味」(meaning)に基づいて、その個々人は、互いに相手に対して行為を行うことになる。なお、こうした相互作用を、ブルーマーが、「他者の行為や言及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)と、「他者が如何に行為するべきかに関する表示を、他者に伝達」する「定義」(definition)から構成されているもの9)と捉えていることからも分かるように、この「身振り」(gesture)は、それが向けられる個人に対して、その個人がどのように行為するべきかを指示する機能を持っている。そうした身振りを媒介として、人々は相互作用を行っている。とはいえ、その相互作用において、その身振りが、それが向けられた個人によって「解釈」され、またその結果としてそれに「意味」が付与されるが故に、この相互作用は「身振り会話」とは呼ばれずに、「シンボリックな相互作用」と呼ばれることになる。
 次節では、ブルーマーにおいて「社会」とは、如何なるものと把握されているのか、またその「社会」が如何なるメカニズムによって形成されるものと捉えられているのか、その内実を明らかにすることにしたい。
 
第3節 相互作用から社会へ−ジョイント・アクションとしての社会−
 ブルーマーのシンボリック相互作用論において、社会とは如何なるものと把握されているのか。そこから議論を始めなければならないであろう。
 ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる。換言するならば、人間集団 (human group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない。
 さて、この「進行中の活動の複合体」こそ、以下本論で議論の焦点となる「ジョイント・アクション」(joint action)に他ならず、ブルーマーは、人間の社会を、このジョイント・アクションからなるものと捉えている。以下の説明を見れば、そのことがより一層明らかとなる。
 「私は『ジョイント・アクション』(joint action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social act)を意味するものとして用いたい。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the large collective form of action)のことである。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである。・・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。
 この意味でまさしく「人間の社会」(human society)とは、行為のなかに存在するものと捉えられる。なお、ブルーマーによれば、こうしたジョイント・アクションは、それを見る観察者(研究者)の視点(ないしは時系列上の位置)の如何によって、個々人が各々の行為を相互に適合させようとしている過程(社会が形成され行くプロセス)と捉えることが可能であれば、各々の行為が相互に適合し合ったもの(形成された社会)と捉えることも可能である。この点について、ブルーマーは、以下のように説明している。
 「思うに、ジョイント・アクション(joint act)とは、まず何よりも行為を『組織化してゆくこと』(“organizing”action)であって、行為が『組織化されたもの』(“organization”of action)ではない。あとから振り返って見てはじめて『組織化されたもの』と見えるに過ぎない」(Blumer,1975=1992,p.121)。
 なお、ブルーマーが、自己が依って立つ視点として採用しようとしているのは、前者のパースペクティブ、換言するならば過程としてのジョイント・アクションである(Blumer,1975=1992,pp.121-122)。その意味で、ブルーマーのシンボリック相互作用論は、まさしく那須も言うように、「社会はいかにして可能か」という問いを背後に持ったパースペクティブであると言えよう。
 以上のブルーマーからの二つの引用において示された論点を補足しつつ整理すれば以下のように捉えられよう。
 1)ジョイント・アクションとは、行為の一層大きな集合的形態のことを意味する。
 2)そうしたジョイント・アクションは、その形成に参与する個々人が、自らの行動ないしは行為を適合させ合うことから成り立つ。別言するならば、その形成に参与する個々人は、自己の行為を他者たちのそれに適合させなければならない。
 3)ジョイント・アクションの担い手には、個人のみならず、大規模な組織や機関も含まれている。
 4)したがって、ジョイント・アクションには、個々人の単純な共同から、大規模な組織や機関による行為の複雑な相互調整までが含まれる。
 5)こうしたジョイント・アクションが、相互に結びつき合ったものが、ひとつの社会に他ならない。この点についてブルーマーは、別の箇所でも以下のように述べている。
 「ミードの図式にしたがうならば、社会とは、それが静態的なものであろうと動態的なものであろうと、また如何なる均衡状態を保っていたとしても、ひとつのシステムとしてではなく、刻々と生起する無数のジョイント・アクションからなるものと捉えられる」 (Blumer,1966=1969a,p.75=1991年、97頁)。
 6)したがって、ジョイント・アクションは、社会の基本的単位であり、それを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかにされる。
 7)別言するならば、社会の特性の如何は、それを構成するジョイント・アクションの特性次第で決定されると言えよう。
 8)そうしたジョイント・アクションは、あくまで過程という観点から捉えられなければならない。 
 ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society as symbolic interaction)10)とも表現している。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない。
 ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、それを指してブルーマーは「人間の相互作用の本来的形態」(real form of human interaction)と呼んでいる(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142頁)。すなわち、ブルーマーが「シンボリックな相互作用としての社会」と言うとき、そこで言及されている「シンボリックな相互作用」とは、その本来的形態としての「トランスアクション」(=「ジョイント・アクション」)のことを指しているのであり、実は、この「本来的形態」としての「シンボリックな相互作用」こそ、前節で言及した「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての第三番目の社会的相互作用に他ならない。その論拠となるのが、ブルーマーの以下の説明である。
 「人間の集団生活とは、ジョイント・アクションないしはさまざまな個人の個々別々の行為を互いに混ぜ合わせることから成り立ち、それは、人々が言語を用いることによって、換言するならば、ミードの言う『有意味会話』(significant speech)によって可能となる」(Blumer,1993,p.163)。
 なお、ここで「有意味会話」とは、ブルーマーにおいては、「本当の意味でのコミュニケーション過程」(process of genuine communication)、すなわち、そこにおいて、「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じように〔=同じ見方で〕自分の身振りを見ている」(Blumer,1993,p.179)社会的相互作用のことを指す用語として用いられている。
 では、ブルーマーにおいては、実際、このトランスアクションなるものは、如何なる性質ないしは特性を持つものとして捉えられているのであろうか。ブルーマーは、トランスアクションの性質について以下のように述べている。
 「・・・・トランスアクションというものは(これこそが人間の相互作用の本来的形態であると思われるが)、その生成の過程で構成され組み上げられて行くものだということである。そしてまさにそれ故に、トランスアクションは可変的な経歴(career)を持つことを余儀なくされる。人間の相互作用とは、互いの行為への定義と再定義という運動を通じて流れ行くものである。トランスアクションは、個々人がめいめい相手を何度となく考慮に入れ、また同様に相手によって考慮に入れられる、その都度その都度で組み上げられて行くものである。他者が一定の行為を表出したとき、個々の参与者は、それに注意を向け、判断を下し、他者のその行為を自分自身の行為を方向付けるための要因として用いなければならない・・・・そこにおいて参与者たちが、他者の行為に照らして自己の行為を方向付けているひとつの流動的な過程(flowing process)という、ここに示した人々の結びつきに関する像が示唆しているのは、トランスアクションというものが、多様な方向へと展開してゆく可能性を多分に秘めているものだということである」(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142−143頁)。
 このように、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、トランスアクションとは、まず何よりも「可変的な経歴を持つ」「流動的」な特性を有するものとして、すなわち、形成・再形成を繰り返し経験するものとして捉えられているのであり、それ故そうしたトランスアクション(=ジョイント・アクション)から構成される「人間の社会」もまた、等しくこの意味で「流動的」な特性をもつものと捉えられなければならない。
 では、何故にトランスアクションないしジョイント・アクションは「流動的」な特性を持つものと捉えられなければならないのか。「流動的」という言葉が含意する二点(「形成」・「再形成」)のうち、ここではまず、その前者の点、すなわち、ジョイント・アクションが形成されてゆくそのメカニズムを明らかにしてゆくことにしたい。
 ブルーマーによれば、ジョイント・アクションの形成は、先述のシンボリックな相互作用においてなされる。ここでシンボリックな相互作用とは、ブルーマーにおいては、ある「身振り」の呈示と、その身振りの「意味」に対するひとつの反応として定式化されている。ジョイント・アクションの形成において、身振りは、それを呈示する個人とそれが向けられる個人の双方に対して意味を持ち、両者に対して身振りが同じ意味を持つとき、両者は相互に理解し合っている、とブルーマーは捉えている(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。無論、ここで「意味」(meaning)とは、相互作用に従事している個々人が、その身振りに付与したものに他ならないことは、前節の議論で確認済みである。またそうした付与という営みが、その個々人の「自己相互作用」を通じてなされているものであることは、言うまでもない。ブルーマーによれば、こうした身振りは、それを呈示する者とそれが向けられる者の双方に対して次のような三つの意味を有している(Blumer,1969b,p.9=1991年、11頁)。まず第一に、(a)身振りの意味は、それが向けられた個人が何をするべきかをあらわす11)。第二に、(b)その身振りを呈示している個人が何をしようと考えているのかをあらわす。第三に(c)この両者の行為が接合されることによって生じるジョイント・アクションの形態をあらわす。それをブルーマーは以下のように例示している。
 「たとえばある強盗が、被害者に向かって両手を上げろと命令するとき、その命令〔=身振り〕は次の三つのことをあらわしている。すなわち、(a)被害者がこれから行うべきこと〔つまり、両手を上げるという行為〕、(b)強盗がこれから行おうと考えていること。すなわち、被害者からお金を奪い取ること、(c)両者の間で形成されようとしているジョイント・アクションの形態。この場合は強盗である」(Blumer,1969b,p.9=1991年、11−12頁)。
 身振りが有するこうした三つの意味を、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が適切に把握し、その意味に基づいて互いに行為し合うとき、そこにジョイント・アクションが成立する、とブルーマーは捉えている。逆に言うならば、「この三つの意味に、どれかひとつでも混乱ないし誤解がある場合には、コミュニケーションは有効にはたらかず、相互作用は妨げられ、ジョイント・アクションの形成は障害にぶつかる」ことになる(Blumer,1969b,p.9=1991年、12頁)。すなわち、強盗ないしは被害者のうち、どちらかでも、身振りが持つこうした三つの意味のひとつでも把握し損ねれば、ジョイント・アクションの形成はおぼつかない、ということである。またここで身振りの意味を適切に把握するとは、相互作用に参与している両者が、その身振りに対して同じ意味を付与することを意味している(Blumer,1967=1992,p.52;1993,p.163,p.179)。
 では、身振りを呈示している者と身振りが向けられている者の双方が、身振りの「意味」を如上の意味で適切に把握することは、如何なるメカニズムにより可能となっているのであろうか。そのメカニズムを解明するに際して、ブルーマーの次の説明が参考となる。以下の説明もまた、ジョイント・アクション論の文脈で書かれたものである。
 「〔互いに相互作用し合っている〕個々人は、一定程度まで、相手の行為を、相手の観点(standpoint of the other)から見なくてはならない。相手を一人の主体として、ないしは相手が自ら行為を行い方向付けている存在である、という観点から、その相手を把握しなければならないのである。こうして人は、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別することになる。相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、各々は、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、142頁)。 
 人々の結びつき方のその最も根源的な形態として「相互作用し合っている二人の人間」を措定し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、140頁)、そうした結びつきが持つ、その最も重要な特徴として「そこでの参与者たちの双方が互いに相手を考慮に入れている(take each other into account)」という事実に着目し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、141頁)、そこにおいて「二人が二人とも相手を考慮に入れている」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)が故に、生じる「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」という、ブルーマーが指摘するこうした現象を、「考慮の考慮」(taking into account of taking into account)12)と名付けておこう。
 すなわち、個々人が、互いに相手と相互作用を行い、ジョイント・アクションを形成しようとする際に用いる「自己相互作用」ないしは「解釈の過程」の内的メカニズムが、実は、この「考慮の考慮」なのである13)。かねてより、わが国のシンボリック相互作用論理解、就中ブルーマーのシンボリック相互作用論理解においては、この「自己相互作用」の内的メカニズムは、もっぱら「表示」と「解釈」からなる、としてしか捉えられてこなかった14)。その原因のひとつとして、これまでのわが国におけるシンボリック相互作用論理解が、対パーソンズの社会学ないしは対構造機能主義社会学を意識しすぎるあまり、社会的相互作用の主体としての人間を、他者や外界に対して解釈を行う「解釈主体」として強調してきた一方で、そうした人間が他者によっても解釈されている客体としても捉えられなければならない、という点を比較的看過してきたということが挙げられる。そうしたわが国の研究動向について、井上は以下のように述べている。
 「・・・・シンボリック・インタラクショニズム〔=シンボリック相互作用論〕は、行為者の『解釈過程』を重視し、人間が何よりもまず『解釈主体』であることを強調する。・・・・しかし、人間が『解釈主体』であるということは、裏を返せば、他者によって解釈される『客体』でもあるということだ。私が他者を解釈するように、他者もまた私を解釈する。私は、私と同じく『解釈主体』である他者によって『客体』として解釈されることを避けることはできない。・・・・今日のシンボリック・インタラクショニズムは、しかし、私たちが否応なしに他者からの解釈を蒙る側面については、あまり注意を払っていない。それは、ひとつには、この派の『主体性強調のふくみ』からくるバイアスであろう・・・・いずれにせよ、シンボリック・インタラクショニズムにおいては、解釈の裏返しである『被解釈』の問題は、せいぜい、自我の形成過程についての議論のなかで、あるいは逸脱行動に関する『ラベリング・アプローチ』のなかで、部分的に扱われるにとどまっている。いわば『解釈過程の重視』に見合った重みを与えられていないのである」(井上、1988年、33−34頁)。
 社会的相互作用に参与する主体を、自ら解釈を行う解釈主体であると同時に、他者からも解釈される客体としても措定するならば、必然的に生じてくるこうした現象を、ブルーマーが1953年の時点で既に指摘していたにもかかわらず、かねてよりのわが国のシンボリック相互作用論理解においては、こうした現象に対する考察があまりなされてこなかったように思われる15)。
 ブルーマーによれば、複数の人間が、互いに自らの行為を相手の行為に適応(適合)させ合い、トランスアクションないしはジョイント・アクションを形成しようとする際には、個々人はめいめい、必然的にこうした「考慮の考慮」という解釈的営みを行うことになると言う(Blumer,1953=1969a,pp.109-110=1991年、142頁)。
 先ほどの強盗の例に戻ろう。如上の引用を踏まえるならば、すなわち被害者は、まず相手の振るまい(=強盗による両手をあげろという命令=身振り)を、「相手の観点」(強盗の観点)から見なくてはならない。そのために、被害者は、まずもって強盗の観点を取得しなければならない。別言するならば、被害者は、その強盗をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義しなければならないことになる。すなわち、「相手の観点」の取得とは、そうした「観点」をダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした「観点」を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。こうして被害者は、その強盗の観点を手に入れることとなる。そうしてその観点を通して、相手の振るまい(=強盗の身振り)を見、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを見極めることとなる。これがまさに「他者を考慮に入れること」(taking another person into account)ということが含意する内容である。なお、ブルーマーにおいては、「何かを考慮に入れる」ことは、すなわち、その何かを、「自分自身に表示する」ことを意味しており(Blumer,1966=1969a,p.64=1991年、83頁)、それ故、この「他者を考慮に入れる」という営みは、その他者を、「自己相互作用」を通じて、解釈・定義する、という営みの一種と捉えられなければならないこととなる(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)。ところで、忘れてはならないのは、この相互作用において、相手を考慮に入れる、という営みを行っているのは、その被害者のみではない、という点である。強盗もまた、被害者に身振りを呈示するに際しては、その被害者を「考慮に入れる」という営みを行わなければならない (Blumer,1969b,pp.9-10=1991年、12頁)。すなわち、強盗は強盗で、身振りを呈示するに際しては、被害者をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義し、被害者の観点という解釈枠組みを手に入れなければならない。
 この時点で、両者ともに互いに「相手を考慮に入れる」という営みを行っていることになる。とはいえ、それを両者とも行っているが故に、ブルーマーが指摘するように「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」。上述のように、「相手を考慮に入れる」という営みに対応するのが、「相手の観点」の取得であった。では、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みに対応するのは如何なる事態か。ブルーマー自身、そのことについて明示的に述べてはいないが、少なくとも推論により解を導き出すことは可能である。再び被害者の立場に即して議論をすすめるならば、被害者は、強盗を、被害者を考慮に入れている相手として、考慮に入れている、ということになる。それはすなわち、被害者が、強盗を、被害者の観点を取得している存在として、考慮に入れる(ここで被害者が獲得した「相手の観点」を、先の強盗の観点と区別して、暫定的に     としておこう)、ということを意味することになる。では、ここで取得された     と、先の強盗の観点との違いは何であろうか。人間が把握する「現実の世界」(world of reality)(そこには、ある人間にとっての他者という存在も、当然含まれている)とは、あくまで、その人間が自らの「パースペクティブ」を通してみた「世界」(world)に他ならず、その世界のありのままの姿ではあり得ない、という、先に本論第1章で見たブルーマーの前提を踏まえるならば、それは次のように捉えられる。すなわち、強盗は、被害者を強盗のパースペクティブから見、その被害者の観点を取得している。換言するならば、そのパースペクティブを用いて、被害者をこれこれの観点を持っている者と捉えている(解釈・定義している)。つまり、強盗が持っている被害者の観点とは、必然的に、強盗のパースペクティブから見た被害者の観点ということになる。そうした     を被害者が取得するということは、すなわち、この     とは、被害者が取得した強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を意味することになりはしないか。すなわち、ここで被害者は、必然的に強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を取得することになるのではないか。両者ともに「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」のであれば、当然ながら、強盗もまた、同様にして、必然的に、被害者のパースペクティブから見た強盗の観点を取得することになる。すなわち、両者とも必然的に「相手の観点」のみならず「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」をも取得し合うことになる。なお、ここで言う取得もまた、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」を、その個人がダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした観点を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。というのも、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みもまた、結局のところ、「相手を・・・・考慮に入れる」という営みに他ならないからである16)。
 こうした社会的相互作用において、両者ともに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に把握しているときにのみ、両者はそこで用いられている身振りに対して、同じ意味を付与することが出来る。
 社会的相互作用に参与する個々人が、それに対して同じ意味を付与しているそうした身振りのことを、ブルーマーは特別に「有意味シンボル」(significant symbol)と呼んでいる。またこの有意味シンボルのことを「普遍的なるもの」(universal)ないしは「共通の定義(意味)」(common definition,common meaning)とも呼んでいる(Blumer,1967=1992,p.152)。
 以上の議論を踏まえるならば次のように言えよう。すなわち、社会的相互作用に参与する自己と他者とが、如上の「考慮の考慮」を正確に行い、その結果として、両者が互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ、そこで用いられている「身振り」が、その両者に対して同じ「意味」を持つようになるのであり、そうした「身振り」が「有意味シンボル」(「共通の定義」)と呼ばれるものに他ならない。
 かねてよりわが国のシンボリック相互作用論理解をリードしてきた、船津 衛は、「意味」の共有(=「共通の定義」の成立)という現象を以下のように説明して来た。すなわち、「他者にも自己にも同一の反応を引き起こす言葉や身振り」としての「有意味シンボル」(船津の言葉で言えば「意味のあるシンボル」))(船津、1995年、46頁)を用いることにより、相互作用に参与している自己と他者とは、互いのうちに「同一反応」を引き起こすことが出来る(船津、1989年、46頁)。ここで、自己と他者との間に「同一反応」が引き起こされるということは、すなわち、自己と他者とが、ある一定の「意味」を共有することを意味し(船津、1989年、46頁)、そうした「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有がまさに「役割取得」である、と(船津、1989年、46頁)。「有意味シンボル」による自他間の「意味」の共有を説く、という視点は、宝月においても見られる(宝月、1990年、116−119頁、123−129頁)。とはいえ、徳川も指摘するように、こうした議論は一種の循環論法に陥っており(徳川、1987年、83頁)、そもそもそこで用いられている「身振り」が「『意味のあるシンボル』へと転化し、自己にも他者にも『同じ反応』を引き起こすという『有意味性』を帯びるのはいかなるメカニズムによるのか」(徳川、1987年、79頁)を説明し得ていない。また同時にこうした説明は、シンボリック相互作用論の概念的柱石としての「自己相互作用」概念が、「意味の共有」という現象を説明するための分析枠組みとして、果たすべき説明機能を、十分に活用しきれているとは言い難い。
 如上のわれわれの考察を踏まえるならば、そのメカニズムとは、次のように説明することが出来る。すなわち、社会的相互作用を通じて、自己と他者の双方が、「考慮の考慮」という解釈的営みにより、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握し、その結果として、ある「身振り」より、同一の「意味」を読みとったとき(換言するならば、同一の「意味」をその身振りに付与したとき)、はじめてその「身振り」が「有意味シンボル」となる、と17)。
 ブルーマーによれば、如上の経緯を経て個々人により形成された「共通の定義」が、ジョイント・アクションの規則性・安定性・再起性ないしはジョイント・アクションの取るある一定の形態の固定的な反復を保障するという。すなわち「共通の定義によって、〔ジョイント・アクション形成への〕参与者たちには、自分自身の行為を相手の行為と適合させるための、はっきりとした指針が与えられる。この共通の定義ということによって、様々な集団領域にまたがったジョイント・アクションの、規則性、安定性、再起性が最もよく説明される」と(Blumer,1966=1969a,p.71=1991年、92頁)。なお、この引用からも分かるように、ジョイント・アクションの形成に従事している参与者たちが、この「共通の定義」に基づいて行為を行っているからといって、彼らが共通の行為を行っている、というわけではない。「共通の定義」とは、あくまで、個々人がそれぞれ従事している自らの個々別々の行為を、相手の行為にかみ合わせる(ないしは組み合わせる)ことを可能にする道具なのであって、共通の行為を行わせるものではない(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。
 以上のここまでの議論を要約するならば、次のように捉えられよう。すなわち、ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「人間の社会」とは、まず何よりも、人々が相互作用を通じて形成する「ジョイント・アクション」ないしは「トランスアクション」からなるものと捉えられている。またそうしたジョイント・アクションは、個々人が社会的相互作用を通じて形成した「共通の定義」に支えられることにより、その規則性・安定性・再起性が保障される。この「共通の定義」とは、相互作用に従事する個々人が、各々自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」という解釈的営みをを行うことによって、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握しているときにのみ成立するものと捉えられている。
 では、個々人によるこうしたふたつの「観点」の適切な把握は、如何にして可能となるのであろうか。
 上記にも述べたように、ブルーマーにおいては、如上のふたつの「観点」(「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」)を個人が把握するということは、別言するならば、その個人が、相互作用を行っている相手を、自己の「自己相互作用」(「考慮の考慮」)を通じてこれこれの観点を持っている者と解釈・定義することに他ならない。井上も言うように、「・・・・人間は社会のなかで他者とともに生きなければならないので、『他者の経験を理解しようとする試み』を避けることはできない・・・・この試みにおいて私たちは、推測あるいは解釈に頼らざるをえない。他者の言葉、表情、挙動など、私たちにとって知覚可能なデータを解釈することによって、私たちは不可視の他者を少なくとも自分なりに可視化しようと試みる」(井上、1988年、31頁)。ところで、こうした解釈や定義はフリーハンドになされるものではない。そのための道具が必要となる。この点について井上は「・・・・およそ解釈というものは、素手ではできない。解釈の作業には、それなりの用具が必要である。・・・・私たちは何よりもまず、感覚に与えられたデータの内容を整理し単純化するための『要約的カテゴリー』(summary categories)を必要とする。この種のカテゴリーなくしては、『解釈』はおろか、対象の単なる『記述』さえおぼつかない」(井上、1988年、44頁)と指摘している。ブルーマーのシンボリック相互作用論の場合、その道具にあたるのが「パースペクティブ」ないしは「定義の諸図式」であることは、先に本論第1章において述べた通りである。すなわち、そもそもこのパースペクティブないし定義の諸図式なくしては、人間は外界への解釈・定義という営みを行うことすら出来ないのである。また同様にして、自分自身という対象を形成するためのパースペクティブである「一般化された諸々の役割」なくしては、個人は自分自身との相互作用(=自己相互作用)を行うことすら出来ない。では、このパースペクティブは何処より来るものと捉えられているのか。先にルイスに対するブルーマーの反論を検討するなかで明らかになったように、個人が自らの状況を定義するに際して、前もって「他者たちの集団」から獲得したものであった。そしてそうした二つの図式(「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」)に方向付けられる形で、個々人は解釈・定義という営みを行うことになる。すなわち、「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問に対する答を提示するならば、それは、個々人がそうした把握(=解釈・定義)を行うに先立って獲得した、「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」というふたつの図式にその解釈・定義を方向付けられることで可能となる、とこたえることができる。「相互作用に従事する個々人が互いに『相手の観点』と『相手のパースペクティブから見た自分自身の観点』の双方を適切に把握することは如何にして可能となるのか」という問は、換言するならば、ジョイント・アクションは如何にして成立するのか、もしくは那須の言葉を再度用いるならば、ブルーマーのシンボリック相互作用論において「社会はいかにして可能か」と捉えられているのか、という問であると言えるが、上記の議論を踏まえるならば、それは次のようにこたえられよう。すなわち、ジョイント・アクションの成立は、その形成に参与する個々人が、その形成に先立って、解釈・定義を行う道具としての「定義の諸図式」と「一般化された諸々の役割」という二つの図式を獲得し、そうした図式にしたがって解釈・定義を行い、その結果として成立する「共通の定義」に基づいて互いに行為し合うことによって可能となる、と。そのことについて、ブルーマーは以下のように述べている。
 「新しく形成されたものであれ、長い間確立されてきたものであれ、如何なるジョイント・アクションの実例も、必然的に、参与者たちによる先行する行為という背景(a background of previous actions of the participants)から生じてきたものである。こうした背景を離れて、ジョイント・アクションが新たに形成されることは決してない。新たに形成されようとするジョイント・アクションに関与している参与者たちは、いつでも、その形成に、彼らが前もって〔強調は引用者〕所有している対象の世界や一連の意味や解釈図式を持ち込んでくる。したがって、新しい形態のジョイント・アクションは、いつでも、それに先行するジョイント・アクションという文脈から生じてくるのであり、そうした文脈と結びつきを持っている」(Blumer,1969b,p.20=1991年、26頁)。
 また、こうした経緯を経て、いったん形成された共通の定義が、同様にして、この垂直な関係を通じて、繰り返し参与者たちに継承され続けることによって、新たに形成されたそのジョイント・アクションのある一定の形態が保持され続ける、ブルーマーにおいては捉えられている。その点についてブルーマーは以下のように述べている。
 「通常、ある特定の社会において人々が出くわす状況のほとんどは、同じやり方で定義ないしは『構造化』(structured)されている。先行する相互作用を通じて〔強調は引用者〕、人々は、これこれの状況において如何に行為するかに関して共通の理解ないしは定義を創りだし獲得している。こうした共通の定義が、人々に、それまでと同様に行為することを可能にしているのである」(Blumer,1962=1969a,p.86=1991年、111頁)。
 ブルーマーによれば、こうした意味で、ジョイント・アクションは、参与者間の「水平的な結びつき」(horizontal linkage)を持つのみならず、それに先行するジョイント・アクションとの「垂直的な結びつき」(vertical linkage)も持つもの、と捉えられるのである。
 
第4節 形成されるものとしての社会
 ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「社会」(society)とは、まず何よりも、個々人が社会的相互作用(シンボリックな相互作用)を通じて日々形成する「ジョイント・アクション」(joint action)ないしは「トランスアクション」(transaction)から構成されるものと捉えられている。こうしたジョイント・アクションの形成は、その形成に参与する個々人の間に「有意味シンボル」(significant symbol)ないしは「共通の定義」(common definition)が成立することにより可能になるものと、ブルーマーにおいては捉えられていたが、そうした共通の定義は、個々人が、自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」(taking into account of taking into account)を駆使しつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握(想定/解釈・定義)したときにのみ成立するものと捉えられていた。また、個人による、そうした適切な把握は、その個人が、自己を取り囲む「他者たちの集団」から、前もって、種々の解釈の道具(「定義の諸図式」(schemes of definition)、「一般化された諸々の役割」(generalized roles))を獲得し18)、そうした道具に、その解釈・定義を方向付けられる(=ブルーマーにおける「社会化」(socialization))ことによって可能になるものと、ブルーマーにおいては捉えられていた。また、個々人により作り出された共通の定義によって、ジョイント・アクションは、その規則性・安定性・再起性を保障される、とブルーマーにおいては捉えられていた。
 以上、ここまでの議論で、ブルーマーのシンボリック相互作用論において、1)ジョイント・アクションの成立は如何にして可能となるのか、そのメカニズムが、すなわち「社会はいかにして可能か」が、そして2)その社会が如何に固定化されてゆくのか、そのメカニズムが明らかにされたと思われる。続く第3章では、こうした固定化され、規則性・安定性・再起性を保障されたジョイント・アクションないし社会であっても、必然的に形成への扉を開くものと捉えられなければならない、その理由ないしその論理的必然性を探ることとしたい。
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