断るまでもなく、個人と社会との関係を如何に把握するか、という問題は、社会学が誕生して以来、暗黙にであれ、明示的にであれ、その解明されるべき根本問題として位置づけられてきた1)。とはいえ、まさにこの「個人と社会との関係」を如何に捉えるかに関して、「過度の分極化の傾向」が、今日までの社会学史に存在してきたこともまた事実である(山崎、1993年、65頁)。すなわち、一方に「過度に個人主義的な社会学的営み」を押し進めるものと、他方に「過度に社会(中心)主義的な社会学的営み」を押し進めるものという、ふたつの傾向が存在してきた。たとえば、H.スペンサーの功利主義的個人主義に対するE.デュルケームの批判は、過度に個人主義的な人間観という問題性に向けられていたし、その後の、T.パーソンズの社会学に対するD.ロングの「社会化過剰の人間観」(the
oversocialized conception of man)批判は、過度に社会(中心)主義的なものとして受けとめられた人間観という問題性に向けられたものであると言えよう(山崎、1993年、66頁)。
「シンボリックな相互作用としての社会」(society
as symbolic interaction)(Blumer,1962)という、ブルーマーのよく知られた表現からも明らかなように、ブルーマーにおいて、「社会」とは、まず何よりも「社会的相互作用」(social
interaction)の範疇に入るものと捉えられている。そこでまず、本節では、彼の社会的相互作用把握を検討することから始めることにしたい。
「・・・・ミードは、人間の社会において生じている社会的相互作用がふたつの形態ないしはレベルにあるものと見ている。ミードは、そうした相互作用を、それぞれ、『身振り会話』(the
conversation of gestures)、『有意味シンボルの使用』(the
use of significant symbols)と呼んでいる。このそれぞれを、『非シンボリック相互作用』
(non-symbolic interaction)、『シンボリックな相互作用』(symbolic
interaction)と私は名付けたい。非シンボリック相互作用が、個人が他者の行為に対して、それを解釈することなく直接的に反応するときに生じるものであるのに対して、シンボリックな相互作用には、そうした他者の行為の解釈が含まれている・・・・」(Blumer,1969b,p.8=1991年、10頁)。
ブルーマーにとって、「社会」とは、まず何よりも、個々人が行う行為の観点から概念化されるものであった。ブルーマーも言うように、シンボリック相互作用論の立場からするならば、「根本的に(fundamentally)、人間集団ないし社会とは、行為のなかに存在する(exist in action)ものであり、そうした行為の観点から把握されなければならない」 (Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)ものと捉えられる。換言するならば、人間集団 (human
group)ないし社会(society)を、「進行中の活動の複合体」(complex
of ongoing activity)(Blumer,1969b,p.6=1991年、8頁)からなるものと捉えるのが、ブルーマーのシンボリック相互作用論の「社会」に対するアプローチに他ならない。
「私は『ジョイント・アクション』(joint
action)という用語を、ミードの『社会的行為』(social
act)を意味するものとして用いたい。ジョイント・アクションという用語で私が言及しているのは、個々別々の参与者たちの一連の諸行動を適合させ合うことにより構成される、行為の一層大きな集合的形態(the
large collective form of action)のことである。こうしたジョイント・アクションの実例には、商取引、家族の晩餐、結婚式、買い物旅行、ゲーム、懇親会、討論会、裁判、戦争といったものがある。こうした事例の各々に、それがジョイント・アクションであると識別しうるそれ独自の形態(すなわち、それが参与者たちによる諸行為の接合から構成されているという形態)を見て取ることができる。ジョイント・アクションの形態は、二人の個人による単純な共同(collaboration)から巨大な組織や機関による行為の複雑な相互調整にまでわたる。人間の社会のどこを見ても、人々が種々の形態のジョイント・アクションに従事していることがわかる。実際、こうした実例の全体が、その無限の多様性と、可変的な結びつきと、複雑なネットワークとによって、ひとつの社会という生命体を構成しているのである。・・・・ミードにおいて社会的行為とは、社会の基本的単位と捉えられていた。したがってそれを分析すれば、社会というものが持つその本質的な特性が明らかになる」(Blumer,1966=1969a,p.70=1991年、90頁)。
ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、社会とは、無数のジョイント・アクションの相互連結から形づくられているものと捉えられている。その意味で、ブルーマーにおいて「社会」とは、まさしくジョイント・アクションとしての社会として概念化されていることとなる。とはいえ先にも見たように、ブルーマーは、シンボリック相互作用論から見た社会を「シンボリックな相互作用としての社会」(society
as symbolic interaction)10)とも表現している。であるならば、次にこの「ジョイント・アクション」という用語と「シンボリックな相互作用」という用語との関連が問われなければならない。
ジョイント・アクションとは、別称「トランスアクション」(transaction)とも呼ばれ、それを指してブルーマーは「人間の相互作用の本来的形態」(real
form of human interaction)と呼んでいる(Blumer,1953=1969a,p.110=1991年、142頁)。すなわち、ブルーマーが「シンボリックな相互作用としての社会」と言うとき、そこで言及されている「シンボリックな相互作用」とは、その本来的形態としての「トランスアクション」(=「ジョイント・アクション」)のことを指しているのであり、実は、この「本来的形態」としての「シンボリックな相互作用」こそ、前節で言及した「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての第三番目の社会的相互作用に他ならない。その論拠となるのが、ブルーマーの以下の説明である。
なお、ここで「有意味会話」とは、ブルーマーにおいては、「本当の意味でのコミュニケーション過程」(process
of genuine communication)、すなわち、そこにおいて、「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じように〔=同じ見方で〕自分の身振りを見ている」(Blumer,1993,p.179)社会的相互作用のことを指す用語として用いられている。
「〔互いに相互作用し合っている〕個々人は、一定程度まで、相手の行為を、相手の観点(standpoint
of the other)から見なくてはならない。相手を一人の主体として、ないしは相手が自ら行為を行い方向付けている存在である、という観点から、その相手を把握しなければならないのである。こうして人は、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを識別することになる。相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、各々は、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、142頁)。
人々の結びつき方のその最も根源的な形態として「相互作用し合っている二人の人間」を措定し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、140頁)、そうした結びつきが持つ、その最も重要な特徴として「そこでの参与者たちの双方が互いに相手を考慮に入れている(take each other into account)」という事実に着目し(Blumer,1953=1969a,p.108=1991年、141頁)、そこにおいて「二人が二人とも相手を考慮に入れている」(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)が故に、生じる「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」という、ブルーマーが指摘するこうした現象を、「考慮の考慮」(taking
into account of taking into account)12)と名付けておこう。
先ほどの強盗の例に戻ろう。如上の引用を踏まえるならば、すなわち被害者は、まず相手の振るまい(=強盗による両手をあげろという命令=身振り)を、「相手の観点」(強盗の観点)から見なくてはならない。そのために、被害者は、まずもって強盗の観点を取得しなければならない。別言するならば、被害者は、その強盗をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義しなければならないことになる。すなわち、「相手の観点」の取得とは、そうした「観点」をダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした「観点」を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。こうして被害者は、その強盗の観点を手に入れることとなる。そうしてその観点を通して、相手の振るまい(=強盗の身振り)を見、相手が何を意味しているのか、相手の意図は何であるのか、相手がどのように行為してくるのかを見極めることとなる。これがまさに「他者を考慮に入れること」(taking
another person into account)ということが含意する内容である。なお、ブルーマーにおいては、「何かを考慮に入れる」ことは、すなわち、その何かを、「自分自身に表示する」ことを意味しており(Blumer,1966=1969a,p.64=1991年、83頁)、それ故、この「他者を考慮に入れる」という営みは、その他者を、「自己相互作用」を通じて、解釈・定義する、という営みの一種と捉えられなければならないこととなる(Blumer,1953=1969a,p.109=1991年、141頁)。ところで、忘れてはならないのは、この相互作用において、相手を考慮に入れる、という営みを行っているのは、その被害者のみではない、という点である。強盗もまた、被害者に身振りを呈示するに際しては、その被害者を「考慮に入れる」という営みを行わなければならない
(Blumer,1969b,pp.9-10=1991年、12頁)。すなわち、強盗は強盗で、身振りを呈示するに際しては、被害者をこれこれの観点を持っている者と解釈し定義し、被害者の観点という解釈枠組みを手に入れなければならない。
この時点で、両者ともに互いに「相手を考慮に入れる」という営みを行っていることになる。とはいえ、それを両者とも行っているが故に、ブルーマーが指摘するように「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」。上述のように、「相手を考慮に入れる」という営みに対応するのが、「相手の観点」の取得であった。では、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みに対応するのは如何なる事態か。ブルーマー自身、そのことについて明示的に述べてはいないが、少なくとも推論により解を導き出すことは可能である。再び被害者の立場に即して議論をすすめるならば、被害者は、強盗を、被害者を考慮に入れている相手として、考慮に入れている、ということになる。それはすなわち、被害者が、強盗を、被害者の観点を取得している存在として、考慮に入れる(ここで被害者が獲得した「相手の観点」を、先の強盗の観点と区別して、暫定的にとしておこう)、ということを意味することになる。では、ここで取得されたと、先の強盗の観点との違いは何であろうか。人間が把握する「現実の世界」(world
of reality)(そこには、ある人間にとっての他者という存在も、当然含まれている)とは、あくまで、その人間が自らの「パースペクティブ」を通してみた「世界」(world)に他ならず、その世界のありのままの姿ではあり得ない、という、先に本論第1章で見たブルーマーの前提を踏まえるならば、それは次のように捉えられる。すなわち、強盗は、被害者を強盗のパースペクティブから見、その被害者の観点を取得している。換言するならば、そのパースペクティブを用いて、被害者をこれこれの観点を持っている者と捉えている(解釈・定義している)。つまり、強盗が持っている被害者の観点とは、必然的に、強盗のパースペクティブから見た被害者の観点ということになる。そうしたを被害者が取得するということは、すなわち、このとは、被害者が取得した強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を意味することになりはしないか。すなわち、ここで被害者は、必然的に強盗のパースペクティブから見た被害者の観点を取得することになるのではないか。両者ともに「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」のであれば、当然ながら、強盗もまた、同様にして、必然的に、被害者のパースペクティブから見た強盗の観点を取得することになる。すなわち、両者とも必然的に「相手の観点」のみならず「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」をも取得し合うことになる。なお、ここで言う取得もまた、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」を、その個人がダイレクトに取得することを意味しているわけではなく、あくまでそうした観点を持っている存在として、その相手を解釈・定義することを意味している。というのも、「相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れる」という営みもまた、結局のところ、「相手を・・・・考慮に入れる」という営みに他ならないからである16)。
「新しく形成されたものであれ、長い間確立されてきたものであれ、如何なるジョイント・アクションの実例も、必然的に、参与者たちによる先行する行為という背景(a
background of previous actions of the participants)から生じてきたものである。こうした背景を離れて、ジョイント・アクションが新たに形成されることは決してない。新たに形成されようとするジョイント・アクションに関与している参与者たちは、いつでも、その形成に、彼らが前もって〔強調は引用者〕所有している対象の世界や一連の意味や解釈図式を持ち込んでくる。したがって、新しい形態のジョイント・アクションは、いつでも、それに先行するジョイント・アクションという文脈から生じてくるのであり、そうした文脈と結びつきを持っている」(Blumer,1969b,p.20=1991年、26頁)。
ブルーマーのシンボリック相互作用論においては、「社会」(society)とは、まず何よりも、個々人が社会的相互作用(シンボリックな相互作用)を通じて日々形成する「ジョイント・アクション」(joint
action)ないしは「トランスアクション」(transaction)から構成されるものと捉えられている。こうしたジョイント・アクションの形成は、その形成に参与する個々人の間に「有意味シンボル」(significant
symbol)ないしは「共通の定義」(common definition)が成立することにより可能になるものと、ブルーマーにおいては捉えられていたが、そうした共通の定義は、個々人が、自己相互作用の一形態としての「考慮の考慮」(taking
into account of taking into account)を駆使しつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を適切に把握(想定/解釈・定義)したときにのみ成立するものと捉えられていた。また、個人による、そうした適切な把握は、その個人が、自己を取り囲む「他者たちの集団」から、前もって、種々の解釈の道具(「定義の諸図式」(schemes
of definition)、「一般化された諸々の役割」(generalized
roles))を獲得し18)、そうした道具に、その解釈・定義を方向付けられる(=ブルーマーにおける「社会化」(socialization))ことによって可能になるものと、ブルーマーにおいては捉えられていた。また、個々人により作り出された共通の定義によって、ジョイント・アクションは、その規則性・安定性・再起性を保障される、とブルーマーにおいては捉えられていた。