僕が「ウェルビーイング」という概念に批判的な理由
先日、僕の主催しているPLANETS Schoolで、占部まりさんと議論した。テーマは「これからの医療とコミュニティ」だ。占部さんは宇沢弘文の長女であり、宇沢経済学の「社会的共通資本」という観点を交えながら医療とコモンズやウェルビーイングといった概念とのかかわりについての議論を展開してくれた。詳細はPLANETS Schoolの動画アーカイブを確認してほしいが、今日はそこから派生した別の議論について考えてみたい。
そもそもの問題として、僕は「ウェルビーイング」という発想が実は苦手だ。もっと言ってしまえば、批判的ですらある。というのも、この「ウェルビーイング」という発想自体が、愚行権を軽視しているというか、「幸福」というものについて根本的に取り違えてしまっているところがあるのではないかと、僕にはどうしても気になってしまうからだ。
この「ウェルビーイング」という発想はどこかで、人間にとっての「幸せ」や「良き生」といったものを、あまりに画一的に捉えてしまっているのではないかと僕は思う。幸せとは人それぞれ異なるものであり、「このような状態が幸せだ」と社会が定義することは、本来的には非常に難しい。
しかし、ウェルビーイングという発想に基づいた政策では、たとえば「孤独」というものが無条件に不幸とされ、それが健康寿命の長さにも影響を及ぼし、ひいては社会福祉費の増減にも大きく関係するという議論が成り立ってしまっている。その結果、望まない孤立を強いられている人々には、福祉の対象として人間関係を社会が用意すべきだという考えに至る。
だが僕は再三述べてきたように、社会はあくまで、「個人」を基準に設計されるべきだと考える。そうしないと、共同体弱い立場でしか包摂され得ない、あるいはそもそも包摂されること自体が難しいような弱者をケアすることができないからだ。
それに加えて、僕はさらにこう思う。「幸せ」という概念は、そもそも社会的に定義できるものなのだろうか、いや、もっと言えば、「幸せ」というものを人間の生の目標にしてしまって本当にいいのだろうか、と。
端的に言えば、人間の中には「幸せを求めていない人」が、意外なほど多くいるのではないかと僕は思う。一見とんでもないことを言っているように聞こえるかもしれない。しかし、僕は真剣にそう考えている。
実際に世の中にはかなりの割合で、「安定した勤め先を得て、家族をもち、何事もなく暮らしていく人生」よりも、混沌とした世界の中で、たとえ悲惨な最期が待っていたとしてもナポレオンや織田信長のように「活躍したい」とか、ゴッホのような偉大な作品を残したいとか、あるいは刹那的な快楽を追求して燃え尽きたいとか──そう考えている人がいるのではないかと思うのだ。
たとえば、シャア・アズナブルやオスカルのような人間が、果たして「幸せ」というものを望んでいただろうか。彼らは、どう考えても「幸せ」なんて求めていなかったはずだ。それよりも、自分の理想や思想を実現することとか、自分が魅了された人類の可能性を見てみたいとか、あるいはモビルスーツに乗って宇宙でのドッグファイトを極めたいとか、そういったことの方に重きを置いていたはずだ。
これは別に、シャアやオスカルのような傑出した人物だけの話ではない。たとえば、『赤毛のアン』のアン・シャーリーも、少なくとも物語の冒頭では、「幸福」よりも「ロマンチックな人生」を望んでいたはずだ。
もちろん、「それはいわゆる若者の“病”のようなもので、人間は最後には幸福を求めるものだ」と考える人もいるかもしれない。しかしこの考え方は、歴史的に見れば、必ずしも説得力を持っているとは言いがたい。人類の歴史を学べば学ぶほど、「幸福」に対して本質的に関心のない人間が、当たり前のように存在し、それは一握りの英雄や偉人だけではなく、ときに大衆的な運動を生み出しと戦争などの原因とすらなってきたことが理解できるはずだ。(もし人類のほとんどが本当に「幸福」を一番に求めているのであれば、そもそも民主国家が戦争をするなどということはあり得ない。)
だから僕は思う。「(ほとんどの)人間は幸福を求めている」という前提が、そもそも間違っているのだ。かなりの割合の人間は、たとえ不幸になったとしても、自分の生きている証を立てることや、自分の興味あるものを追求していくこと、あるいは快楽を貪欲に求めていくことの方に、むしろ関心があるのではないか。
つまり、ウェルビーイングというのは、何かとても「狭い人間観」に基づいた、人間の生のモデルにすぎない──それが僕の考えだ。
そして少し落ち着いて考えてみてほしい。そもそも「幸福」にまったく興味がないような人間が、一定の割合で存在しているからこそ、人類社会は──特に文化領域において──発展してきたのではないか。
だからこそ、僕は明確に述べたい。「幸福」というものを基準に社会を設計することには反対だ。もちろん、人権としての「幸福追求の権利」は認められるべきだ。しかし、「すべての人間に幸福追求の権利がある」ということと、「すべての人間が幸福を目的に生きている」と仮定して社会を設計することとは、まったく別の話なのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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