馬の目線を人間風に描写しているので馬がものすごく賢いように見えます。
また、馬が死亡するシーンもあります。
こちらにご注意ください。
こどもの日までの限定公開です。
あなたに
あなたに
幼い頃の記憶はいつまでの頭の中に残っている。
時間が経てば忘れてしまうような、そんな小さな出来事までもが頭にあるのは、それほど執着していたからだろうか。
鉄の塊のその下に留まり、俺の目の前で物言わぬ肉体となった ── あなたに。
原初の記憶は、身体の痛みから始まった。
脚に、腰に、腹に、身体のあらゆるところに。
いつだって何か、どこかが痛かったのをよく覚えている。
どうやら俺は、産まれ持った身体がよくないらしい。
会う馬、会う馬に、その不器用に形作られた馬体を詰られる幼少期だった。
父母どちらもちゃんとした身体なのに、俺だけどこか貧相でみすぼらしく、見ていられない身体付きだとみんなが言う。
そんなことを言ってきたヤツはたいてい、俺が歯茎をむき出しにして威嚇すれば近寄ってこなくなる。
噛まれるのが恐ろしいと思うくせに、口の減らない奴ら。
同族の馬たちに言われるのも腹立たしいのに、もっと腹立たしいのは、俺たちを世話する人間も似たような奴らだ、ということか。
あっちもこっちも、互いの言葉なんか分かりっこないだろうに、悪意というのはわかりやすいものだ。
嫌だって、痛いって言っても叩いてくるし、時には放置されることだってある。
せめて言葉が通じればそちらでも反論できるのに、と悔しがりながら、叩かれるたびにどうしてもムカムカしていられなくて、前脚で小突いて見せればもっと怒られた。
なんて酷いやつだ、一生許すものかと誓ったし、近づいて来る度に威嚇もしてやったけれど。
やり過ぎたのか、とうとう俺だけおやつが貰えなくなって、昼寝の後はいつも少しだけひもじい思いをした。
ああ、ここに母馬がいれば分けてくれたかもしれない。
あんまり格好良くない俺の脚を見ても笑わなかった母さん。
周りの仔馬は母さんのことおっかないなんて言ってたけど、俺にはいつまでだって優しかった。
いまどこにいるだろう。
こどもばかりのこの放牧地で生きて行くには、おれには足りないものだらけだ。
ああ、母さん、会いたい、会いたいな。
そう願うほどにはまだ子供だった俺の前に、にんじんを転がした馬がいた。
そいつは少しずつ毛色が白くなっていく葦毛馬で、まだ重いグレーのコートを纏ってそこに立っていた。
誰だこいつ、俺になんのようだって思いながら見てたら、にんじんを前脚で蹴ってこちらに渡すと立ち去った。
一言くらい言ってこいよ、なんだっていうんだ。
それに、こんなにんじんの一欠片なんていらないよ、施しなんか受けるものか。
なんて、なんて……結局、空腹を我慢しきれなくてにんじんを口にしながら、俺は馬が去って行った方向を見た。
同世代の仔馬たちが集められた放牧地の隅。
頑丈な柵のすぐそばに腰を落ち着かせながら、そいつは空を見上げていた。
── ヘンなやつ。
自分自身も十分な変わり者だろうけれど、それは身体つきがヘンなだけで、それ以外はまともだと思っている。
そいつは、身体は同世代の中でも飛び抜けて大きいと思った。
がっしりとした造りに、十分な毛量のある鬣が風にゆらゆら揺れている。
四肢はどれも均整が取れていて健やかで、そのつやめいた毛並みからしてどれほど手間暇が掛けられているか、よくわかる馬だ。
まわりの同世代たちは、そいつが放つ、威圧にも似た空気感に気圧されて近づけもしない。
あれだけ俺が威嚇してもしつこくいじめてきた奴らも、そいつにだけは何もする気が無いらしい。
ただそこにいるだけなのに。
そいつと俺とは、何もかもが真逆の存在だと、そう思った。
それからしばらく。
同じ放牧地にいる間は、そいつは必ず俺の方におやつのにんじんを蹴っ飛ばしてきた。
もっとマシな渡し方はねえのかこの野郎、と思ったことは1度や2度じゃない。
つまり思った回数だけおやつを譲られていることになるんだけど、俺だって、最初は断ってた。
どういうつもりかは知らないけど、それが格下への同情なら受け取る気は微塵も無かったから。
だって、俺は可哀想なんかじゃない。
たまたま曲がった脚があって、たまたま病気になって身体がガレてしまった、それだけのことなんだから。
馬社会はヒエラルキー重視の社会性で成り立っている。
ご飯を食べるのはリーダーが先で、序列に割り入ってはならない。
この放牧地で頂点に立つのはそいつだったから、本来、俺が逆らうことは許されないのだが、そいつは気にしていないのかいつもスルー。
けれど、差し出されたにんじんを俺が食べず、他の馬が食べようとすると前脚で地面を掻いて警告はしてくる。
そうして時間が経ってしなびていくにんじんを見送りながら、やがて勿体ないと感じ始めて食べ始めたのがここ最近のことだ。
この頃からそいつは、俺が他の馬に蹴られそうになると割って入ったり、俺が人間に叩かれていると嘶くようになった。
ボス馬としての義務感がそうさせているのかと思えば、他の馬同士が喧嘩していてもそこまで気にしていない。
本当、どういうつもりなんだろうな、この馬は。
理解しきれないものが目の前にあるとき、馬という生き物はとりあえず順応することも選べるらしい。
さらに時が経ち、俺はすっかりそいつからにんじんを貰うのが当たり前になっていた。
当初考えていた『同情されている』とかはもう考えていない。
それなりの時間をそいつの傍で過ごしてきたからか、そいつが何を考えているのかちょっとわかるようになってきたのもある。
そいつは別に難しいことは考えていなかったのだ。
目の前に腹を空かせている子供がいたからおやつを譲った。
きっとそれだけだった。
子供以前に俺はそいつと同世代なのだが、図体の大きいそいつからしたら、貧相な俺は同世代にも思えなかったんだろう。
それに気づいた時はやっぱり格下扱いじゃ無いか、と憤ったこともあるにはあった。
けど、俺とて別に年下すべてを格下と思っているわけではないので、これもやはり字面以上の特別なものはないんだろう。
それが分かれば、ヘンな意地を張り続けるよりも、むしろそいつを盾にして一刻も早く自分の肉体を育てる方が賢い事だと、すぐに理解した。
暑い季節気が来て、寒い季節が過ぎて、またほんの少しだけ暖かい季節が来る頃には、俺は他の馬よりも数倍、そいつに気を許していた。
放牧地に出れば真っ先に探しにいった。
できるだけ近くで身体を休めるようにすれば、俺が貧相だなんだと絡んできたやつは勝手に怯えて接触してこない。
そうしてる間も、俺は謎の腹痛に襲われて毎日死ぬほど辛い思いをしたりもした。
下痢が止まらなくて、食べ物もろくに喉を通らなくて、狭い馬房の中で何時間も泣いた。
とうとう、今度こそ虹の向こう側へと行くことになるのかと、腹が痛む度に思った。
そんな時もそいつは、俺の斜め前の馬房からじっとこちらを見ていた。
他の馬たちはとっくに別の厩舎へと移った。
ほとんど垂れ流しの下痢のせいなのか、他の馬が俺みたいにならないようにするためなのか、それは知らないけれど。
気付けば毎日数頭ずつが別のところへと移動していく。
けれどそいつは、最後の1頭になっても馬房から出ようとしないから、結局、俺と厩舎の中に留まることになった。
痛いよ、辛いよ、お腹減ったけど食べられないよ、水が欲しいよ、苦しいよ、と。
泣き言を言いながら、それでもこんなところで死ねるかと踏ん張って立っている俺を、斜め前の馬房からずっと、ずっと。
目を逸らすことなくずっと見続けていたのは、そいつだけだった。
あれほど甲斐甲斐しく世話をしてくれていた人間ですら、なかなか良くならない俺に苛立ったように馬房から逃げ出しても、そいつだけは、ずぅっと。
なんとか病気が回復した後は、俺は病気前とは打って変わってそいつにベッタリになった。
だって、これまで出会ってきた同族の中で、いや、人間を含めたって、そいつほど俺を見続けてきたやつは数えるほどしかいない。
母さんに、よく会いに来る人間のオスに、そしてそいつ。
昔、まだ母さんと一緒に過ごしてた頃にも言われたんだ。
自分を大事にしてくれる存在はほかのものよりもっと、うんともっと大事にしなさい、って。
それからまた暑いのと寒いのが過ぎ去って、少しだけ暖かくなってきた頃。
俺とそいつは、鉄の塊に乗せられてどこかへと運ばれていた。
これに乗るのは初めてじゃ無かった。
何度もこれに乗って、いろんな人間の前に出されて、見られて、触られて、そうしてまたこれに乗って牧場へと帰った。
繰り返していくうちに、一緒に乗る馬の顔ぶれは変わっていく。
一緒に帰っていく馬もいれば、そのままそこに残ったり、別の鉄の塊に乗せられていくやつもいた。
そうして何度目かの行き帰り。
そいつと初めて一緒に行くことになった。
俺はまた身体を触られたり、たくさん見られたりしながら、いつも一緒についてくる人間に手綱を引かれて歩いていた。
人間の足取りはおぼろげで、どこか落ち込んだようにも見える。
この人間はほかのやつらと違い、いつだって俺に優しいやつだった。
だから比較的好きだし、悪いような思いはしてほしくない。
でも俺は馬だから、この人間にそれを伝える術はないんだけれど。
なんだか俺までも落ち込んできた中で、ある一点からワッという歓声が聞こえた。
ちらりと見ると、いつも一緒にいるそいつだった。
何やら別の人間が俺の傍にいるやつに話しかけて、ふたりは大盛り上がり。
一体何事だろう、と思っているうちに、最初は穏当に話しているように見えた人間ふたりは、いつのまにか険悪な雰囲気になっていた。
まるで縄張り争いを始めた牡馬同士のような、そういうピリついた空気に俺も段々と苛立ってくる。
前脚でカリカリと地面を掻くと、それに気付いた人間が首を振り、やがて少し離れた位置にいたそいつの手綱も引っ張りながら歩き始めた。
相変わらず無口なそいつから何か話題があがることはなかったけれど、一緒に歩いているのもそれはそれで楽しかった。
しばらくすると、他にも数頭の馬が鉄の塊の傍に連れてこられた。
来るときに一緒だったヤツが半分、残り半分は知らない顔だ。
俺は警戒心を保ったまま、そいつの傍から離れないようにしていた。
また少し時間が経つと、今度は1頭ずつ鉄の塊へと載せられていく。
他の馬がいると苛立つ俺は、一番最後に出来た、そいつの隣の空間へと詰め込まれていった。
そうして嘶きにも似た発進音を響かせて、俺たちを乗せた鉄の塊はゆっくりと、それでも確かに牧場への道を進み始めていたのだ。
けれど。
そう、だけれども。
牧場へと辿り着いたのは、俺、ただ1頭だけだった。
辛いことの多い幼少期の記憶の内、もっとも辛く、もっとも思い出したくない記憶が、痛みと共に浮上する。
急に加速しだした鉄の塊に、金属を擦る音。
一拍おいてすぐに走る強い衝撃と浮遊感。
全身がビリリ、と痺れを起こす中、黄色み掛かった視界が一番最初に捉えたのは、見るも無惨な姿となった鉄の塊。
そのすぐ後に鼻腔を侵す暴力的な血のにおい。
俺はどうやら鉄の塊の、その中から外へと放り出されたらしい。
身体のあちこちが痛むけど、でも、立てないことはない。
脚に力をいれてなんとか立つ。
そいつは、そいつはどこだろう。
俺と一緒に放り出されただろうか。
滲む視界の中から探し出そうとして、けれど周りにはいなかった。
まさか、まさかあの鉄の塊の中に。
これまで嗅いだことのない夥しいほどの血のにおいがする、あの、鉄の塊の中に!
がくん、がくんと縺れる脚をなんとか前に進める。
ブルル、と嘶いて呼ぶ。
返事はない。
誰の返事もない。
ここで1頭、泣き叫ぶ俺に嘶き返す声が、どこからも。
右往左往していると、ふるん、とか細い声が聞こえて耳が立った。
いる。確実に1頭、まだ鳴けるやつが。
ガサゴソ、小さな身動ぎの音に耳を澄ませる。
反対側だ。この鉄の塊の、俺が立っている方の反対側にいる。
大地に転がった破片も気にせず踏み抜いて、俺はあちら側へとまわった。
はたして、そいつはいた。
身体の半分、後脚が鉄の塊に飲み込まれたままだけれど確かに、そいつはいた。
出られないのか。そうか。どうしよう、無口を引っ張ろうか。
できないか。痛いのか。ああ。どうしたらいい、どうしたら!
血のにおいはますます強くなっていった。
俺はこうして立って動けるのに、そいつは地面に横たわったまま、露出している上半身だけが頼りなく上下している。
他にも同族がいれば、一緒に引っ張り出せたらいいのに、他に誰の声もしない。
ここには俺と、そいつだけなのだろうか。
一緒にいたはずの同族たちは、この鉄の塊の中で、もっと奥で、動けないままなのだろうか。
それじゃあ、俺だけがここに。
そんなわけない。人間もいなくて俺だけが無事だなんて無理だ。
きっと俺もここでいくのだろうな。
みんなと、そいつと、一緒に虹の向こう側へ行くんだ、今度こそ。
そう思って詰まった息を吐くと、そいつは顔を上げた。
あんなに痛みに揺らいだ目をしていたのに、いま見るとそいつはギラギラと目を光らせているようにも見えた。
── お前は俺となんか死にゃしないよ。
なんでそんなこと言うんだ。
── お前はもっと走るんだよ。
── もっと大きなレースを勝って。
── もっと大きな称賛を浴びて。
── バンバン子供作ってそれが走って。
── 誰もが羨むほど大成する馬なんだよ、お前は。
だから。
── だからお前は、こんなところで、俺となんか死なないよ。
大丈夫だよ、とかすれた嘶きが言う。
大丈夫、大丈夫だって。
何が大丈夫だって。
俺だけが。
俺だけを置いていくのか、こんなところに!
── 今日、痛いのなんてすぐ忘れちまうさ、絶対。
いやだ、いやだいやだ。
忘れない。
忘れてたまるか、この痛み。
このむせ返るような血のにおい。
── 大丈夫、お前は絶対、大成するから。
祈るような声を最期に、そいつは、あなたは、目を閉じた。
それから二度と開くことは無く、俺は、あなたが遺した体温を頼りに救助までの数時間を耐えきった。
涙はその時にすべて涸れた。
それなりに長い療養期間を経て、俺は、初めてレースへと出走した。
馬にはつらいリハビリで、もういやだと思う時は必ずあなたの嘶きが聞こえた。
── 大丈夫、お前は絶対、大成するから。
俺は大成する。絶対。
だってあなたが言ったから。
他の誰とも違う、血族でもないのに、同族の中でいちばん俺を信じてくれたあなたが遺した言葉。
それをお守りにして、どんな時も駆け抜いた。
負けて悔しくて絶望して、他の馬にそれ見ろお前はその程度だ、その見てくれにお似合いなほど落ちぶれていけ、と呪われても。
何度だって大地に脚を突き刺し真っ直ぐ立って、その苦難の道を走り続けてきた。
大丈夫、俺は大成する、絶対。
不運だ、神に見放されている、お前に名誉が与えられることはない。
そんな口さがない言葉が俺に向けられたって、へっちゃらだ。
お前らは死ぬほどの思いもしたことないくせに。
目の前で、この世でいちばん仲良くしたかった馬が死んだこともないくせに。
いつか対等になりたかった。
貧相なガキとしてじゃなくて、同格の存在として仲良くなりたかった、ずっと!
そうすることで与えられてきた微かな安寧の恩返しがしたかった。
今となっては叶わないすべての願いを、あなたが遺した言葉を『真実』にするためだけに走る。
そうしていくつもの季節がすぎて、俺は馬として享受できる名誉のほとんどを得られたと思う。
あれほど冷ややかな目で見てきていた人間たちも、今となっては俺の身体へと触れる度に嬉しそうに微笑んでいた。
脚曲がりの貧相な下痢垂れ小僧はもうどこにもいない。
ここにいるのは、下馬評を覆して大レースを幾度となく制して大成した、ただ1頭の馬だ。
俺は、あなたの言葉の半分を真実にできた。
それからまた季節が動いて、俺は今度は空を飛ぶ鉄の塊に乗せられて母国を出た。
競走馬としての価値を示せても、旧来の考え方を一掃するまでには至らない。
親としての需要を満たせなかった俺を、いつだって俺を手放さなかった人間は、ついに手放すことにしたらしい。
妥当な判断だと思うし、今更こいつを恨む気もない。
むしろ、気難しい性格の俺をよく見放すこと無く支えきってくれたと、感謝の気持ちすらある。
だから、俺を手放すことでこの人間に幸運が舞い込むなら、それでいいと思った。
牧場を出る日、いつもの人間は泣きながら俺を抱きしめた。
言葉はわからない。
俺は馬で、こいつは人間だから。
でも、感情がまったく伝わらないわけじゃない。
ああ、俺を手放したくて手放すわけじゃないのだな、と理解する。
短く鳴いて、別れを告げた。
さようなら、さようなら。
どうかお元気で。
柄になく丁寧に嘶いてやれば、人間は顔を上げて、またくしゃりと泣き出した。
長い旅路の末、辿り着いた異国の大地で多くの子を成した。
のっぺらとした顔の人間は当初見慣れなかったが、母国よりも多くの季節を見送るほど過ごしていれば慣れてくる。
見て呉れ以上に『優秀な馬』として俺を評価しているらしいこの国の人間たちは、俺を絶世の美牝馬のごとく丁寧に扱った。
整えられた清潔な馬房。
同じ厩舎に入る馬たちは大なり小なりうるさくはあったが、自己主張はそこまで激しくもない。
誰がボスであるのか、誰がここでもっとも優れた馬なのか。
ヒエラルキーの組み立ては十二分に出来たらしい。
もう自分に誰も逆らわないだろうことは分かっていても、両隣の放牧地を威嚇してしまうのは、きっと昔の名残なのだろう。
つい辛く当たってしまい、またしても隣に入る馬が変わるらしいと気付いた。
いつもなら俺よりも後に連れてこられる馬が、今日は俺よりも先に、俺の隣の放牧地に入れられていたからだ。
今度は一体どんなやつが入ってきたんだか。
俺は前脚に力をいれて強く大地を踏み込みながら、柵のギリギリ手前まで走る。
いきり立ったその脚は、しかし、放牧地に立つその色に目を奪われて減速した。
そこに立っていた馬の、なんて見事な葦毛。
手入れされなかった日はないのだとハッキリ分かるほどの輝きを放っていた。
それが、俺が生きている限り更新されないだろうと思っていた、俺を愛してくれる生命体一覧に新たに名を連ねることとなった、メジロマックイーンとの出会いだ。
俺には寝る前のルーティーンがある。
その日あった出来事なんかを心の中のあなたに報告するだけの、振り返りのようなルーティーンが。
まあ、聞いてくれよ、なあって。
できたんだよ俺にも、トモダチってやつ。
あなたに似てるようで、あなたよりももっと明るい葦毛で。
丸みを帯びた瞳が、いつの日かあなたが分け与えてくれたブドウのようにつやつやとしているんだ。
年下なんだけど、度胸があってさ。
俺がどんなに威嚇したって、どんなく辛く当たったって、どんなに遠ざけようと必死になったって。
そこにドンと立ってたんだ。
愛されてきたやつ特有の自信と、それとは関係無しに戦い抜いてきたやつだけが放つ誇らしさで、そこに立ってた。
俺の初めてのトモダチ。
あなたが終ぞなってくれなかった、心の最も近いところに立ってくれる馬が、俺にもできたよ。
なあ、なあ ──……。
俺、あなたの遺した言葉ぜんぶ、本当のことにできたよな。
ここよりももっと遠く、もっと高く、もっともっと向こう側にいるあなた。
直接紹介してやりたいよ、俺のトモダチを、俺がそいつに出会うまでの波瀾万丈の出来事、ぜんぶ、なんだって全部。
本当はあなたが掴んだかもしれない幸福感のなかを揺らぎながら、俺は弱まる鼓動にだんだんと身を預ける。
その瞬間、瞼の裏でひらり、あなたが駆け出していくのが見えた。
まだ暗く重たい、白い部分の方が少ない葦毛のコートをまとったまま。
タタ、タタン、と小気味よく大地を鳴らす。
漠然と、あなたが迎えに来てくれたと、そう思った。
ザラリ、弱り気に前脚で地面を擦り、ちいさく合図。
気付いたのか、隣馬房に収まっている気配がぐらりと生気を立ち上らせ、俺に待ったをかけ、いやでも。
俺はフッと堪えきれず笑った。
── もういくんか。
そんな呼びかけが聞こえた気がして、見えもしないのに頷いた。
ありがとう、ありがとう、異国でできた初めてのトモダチ。
俺の傍らで静かに立っているだけの、そんなことがどんなに俺の心を強く支えてきたか。
最後の、最期の瞬間まで添うてくれたこと、心から感謝している。
俺の馬生の中でこのトモダチに出会えたことそのものが、素晴らしい幸運だっただろう。
さようならです。
いましばらくの別れです。
ほんのすこしだけ傍を離れますが、どうか。
── また会おう、メジロマックイーン。
七日七晩、眠ること無く、横になること無く立ち続けてきた身体が崩れる。
遠くで人の気配が強まるのを感じながら、俺はゆったりと、本当にゆったりと目を閉じた。
2002年8月19日午前11時。
衰弱性心不全により、サンデーサイレンス、永眠。
享年16歳。
虹の向こう側に辿り着いたら、お願いがあるんだ。
たったひとつだけ。
褒めて欲しいんだ。
よくぞここまで駆け抜いた、と。
よくぞ俺の言う通り大成したな、と。
前脚で大地を叩き、大きく嘶いて、褒めてほしい。
ほかの誰でもなく、あなたに。
決して歴史に名前は残らない。
その存在は必要不可欠では無い。
ターニングポイントにはならず、その馬生を決定的に揺らがすことも無い。
けれど、たまたま、時の名馬の近くにこんな馬がいたかもしれない。
人間が感知しないだけで、馬たちの間でだけは確かにいたかもしれない。
そんな話でした。