FanGraphsのNPBデータから盗塁の損益分岐点を探る実験
はじめに
「機動力野球」という日本語があります。ベースランニング・盗塁といった走塁に関する能力を活かしてより先の塁へ進み、より多くの得点を狙うことを指すようです。足の速い選手を多く擁していれば、この戦術は有効に思えますし、何よりダイナミックな走塁は見ていて楽しいものです。
その反面、走塁にはリスクもあります。先の塁を狙う試みが失敗してアウトになり、あたら得点機を潰してしまうこともあります。盗塁の失敗や、得点圏でヒットを打った際の本塁突入→クロスプレーでアウトになるようなケースです。
これらを得点の基準で評価する際の指標には様々なものがありますが、主流となっている走塁評価は、ベースランニング・盗塁・併殺阻止の3点で構成されているようです。それらを得点に換算した価値(得点価値)は打撃のそれに比べるとかなり小さいものですが、いずれにせよ評価はされています。
最近お世話になっているFanGraphsのNPBデータには、「wSB」という盗塁に関する指標が存在しています。
盗塁成功・失敗に伴う得点価値が存在するので、盗塁には成功によるプラスと失敗によるマイナスが0となる「損益分岐点」が存在することになります。古い本では約70%程度と言われたりしますし、かつて一部で話題になった「赤星式盗塁」という指標では、(盗塁 - 盗塁死×2という計算式から)その損益分岐点は約66.7%になります。
話は変わり、ここ数年のNPBでは低い得点環境、つまり「投高打低」の状況が顕著と言われます。得点率やその他の打撃指標などを見ればその傾向は明らかですが、この環境の変化に伴い、盗塁の損益分岐点も変動するのではないでしょうか。ふとそのような疑問が浮かんだのですが、ここで持ち前の文系脳を駆使すると、どちらの仮説も考えることができてしまいます。
上がる説:得点環境が低いのだから、得点となりうる走者は貴重になる。そのため走者を失うことは大きなリスクとなるため、損益分岐点は上がる。
下がる説:得点環境が低いのだから、全体の得点期待値も下がっている。そのため盗塁死によって走者を失っても損失は小さく、損益分岐点は低くなる。
これではいつまで経っても結論が出ません。そこでFanGraphsのデータを用い、損益分岐点がどうなるのかを調べてみることにしました。
アプローチ
wSBとは
Wikipediaによると、wSBはこのように説明されています。
「平均的な野手に比べて、盗塁でチームの得点をどれだけ増やしたか、または減らしたか」を示す指標。
盗塁に関する指標であることは見当がつきますが、これだけではよくわかりません。そこでいつものFanGraphsです。wSBの詳細についてもページがあり、その詳細および計算式まで記述があります。今回も例によって、極力この内容に沿って進めます。
wSBの計算式
上記のページによると、wSBは以下2つの計算式で算出されているようです。
要するに盗塁(SB)・盗塁死(CS)のそれぞれに対して得点に基づく価値(得点価値)が設定され、これらを足し合わせたものから盗塁による得点価値のリーグ平均を引く構造となっているようです。
計算にあたっては、盗塁・盗塁死だけでなく、出塁イベント(シングルヒット・故意四球を除く四球・死球)を考慮する必要があるようです。なお、出塁イベントとして計上されているものの内容から、本指標は主に二盗がターゲットになっているものと推測されます。
またFanGraphsによると、「盗塁の得点価値(runSB)はすべてのシーズンで0.2点に固定されており、盗塁死によって失われる得点価値(runCS)はシーズンによって変動する」との記述があります。
つまり、runCSの値を出せば、0.2点に固定されているrunSBと比較することで、盗塁による損益分岐点を算出することができそうです。runCSは損失を表す値なのでマイナスの値で算出されますが、このマイナス幅が大きくなる(値としては小さくなる)場合は損益分岐点が上がり、逆の場合は損益分岐点が下がるということになります。
余談ながら、前述の赤星式盗塁をこれに当てはめると、runCSは-0.4点となります。
というわけで、runCSが計算の主なターゲットになりそうです。これまでの内容を踏まえ、先ほどのwSBの計算式をrunCSについて解くと、以下のようになります。
ただし、これは今回のようにwSBがわかっている場合の方法です。runCSを求める本来の方法は、以下の計算式で定義されています。
この式から、runCSの値を出せば、盗塁の損益分岐点だけでなく、アウトあたりの得点価値(RunsPerOut)を算出することも可能となるということです。
lgwSB計算のショートカット
前回の記事でwRC+(Weighted Runs Created Plus)を計算した際、wRAAやwRCといった算出に必要なパートがNPB全体なのか、あるいはセ・パ各リーグの値なのかを確認する必要がありました。wRC+算出の取り組みについては、以下の記事をご覧ください。
今回も「lgwSB」の記述があるため、リーグ全体のwSBを計算する必要があるように見えます。
が、今回はその計算を簡略化する方法があります。wSBの計算式を振り返ると、以下の3つが存在します。
選手の盗塁数に基づく得点価値(プラス)
選手の盗塁死数に基づく得点価値(マイナス)
リーグ平均の盗塁に基づく得点価値 × 選手の出塁イベント数
ここで「選手の盗塁・盗塁死」が絡むのは1と2になりますが、これらをいずれも記録していない選手の場合、1,2の値はいずれも0になります。各選手のwSB値はすでに存在するので、このような選手の場合、lgwSBを以下の式から求めることができます。
lgwSBがNPB全体で共通なのか、セ・パ各リーグで共通の値なのかはわかりません。ただし、少なくとも各リーグでは共通の値になるはずです。この点も実際の計算結果から判別できそうです。
lgwSBの値さえ算出できれば、runCSの値も計算することができます。
計算の進め方
これで材料が揃ったので、例によって計算の進め方を以下に示します。
盗塁・盗塁死を記録しておらず、かつ出塁イベントのある選手を対象に、lgwSBの値をを算出する。
lgwSBの値を用い、盗塁死のある選手を対象にrunCSの値を算出する。
runSB(0.2点で固定)とrunCSの値から、盗塁の損益分岐点を算出する。
wRC+に比べると、だいぶシンプルに進められそうです。
データの取得と計算
計算のアプローチは仕上がったので、実際に計算を進めます。いつも通り、まず2024年のデータを対象とします。
データの取得
取得手順はこれまでの記事と同様です。詳細は以下記事をご覧ください。
計算その1:lgwSBの算出
以下の条件を満たす選手(191名)を対象に、前述の方法でlgwSBの値を算出しました。
盗塁が0
盗塁死が0
出塁イベント(1B + BB - IBB + HBP)が0ではない
この結果、最大値・最小値ともに0.002983960323という値を得ました。素晴らしい。セ・パ両リーグで同一の値となったため、lgwSBはNPB全体を対象としているということもわかりました。
なお、FanGraphsの記事には「2014年のMLBにおけるlgwSBの値は0.00377」とあります。先程の値と比べると、だいぶ低いように見えます。
計算その2:runCSの算出
lgwSBの値がわかったので、wSBの算出式を変形した式からrunCSを求めます。最大値・最小値は以下となりました。
最大値:-0.3194723397493
最小値:-0.3194723725319
平均値:-0.3194723667132
最大値と最小値の差が極めて小さい(0.0000000327825)ことから、今回はそのまま平均値を採用します。面倒だし。
計算その3:損益分岐点の算出
runCSの値が出たので、0.2点に固定されているrunSBと比較することで損益分岐点を算出することができます。算出式は以下となります。
計算その2で算出したrunCSの値を用いた結果、損益分岐点は約61.5%となりました。
盗塁における損益分岐点の評価
投高打低環境における盗塁の損益分岐点は上がる?下がる?
元々の疑問は「投高打低環境(低得点環境)で盗塁の損益分岐点はどうなるのか」でした。まずはこれに立ち返り、先ほどの計算で得られた値を評価したいと思います。
FanGraphsでは過去シーズンにおけるrunCSの値も公開されていますが、runCSが前述の値を下回るほどのシーズンは存在しません。つまり、損益分岐点がこれほどまでに低いシーズンは存在していない、ということになります。
また、かつて赤星式盗塁(損益分岐点:約66.7%)が作られた時期から投高打低が進んでいるであろうことも勘案すると、(少なくともこの計算に基づく限り)損益分岐点は「下がる」説が正しいようです。もともとの得点期待値が低いため、盗塁死によって発生する損失の値が小さくなった結果、損益分岐点が下がったものと推測されます。
盗塁における損益分岐点の推移(2019年〜2024年)
最後に、FanGraphsにデータのある2019年からの年度別盗塁損益分岐点を算出し、打席あたりの得点(R/PA)と重ね合わせてみました。得点環境の変動と比較することで、盗塁の損益分岐点がどうなるかの再確認をしたいと思います。
このグラフからもわかるように、やはり投高打低環境が進むと、盗塁における損益分岐点は下がると言って差し支えないように思えます。「損益分岐点が下がっているからどんどん盗塁すべき」といった考え方もできるかもしれませんが、そもそもの発端が「シングルヒットや四球などで出塁しても得点に結びついていない」ことからすると、その判断もやや早計かもしれません。ここではそのような議論に踏み込むことはせず、上記を以て了としたいと存じます。



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