ネコトーーク!
うっかり忘れそうになっていただけど、昨日は精神科クリニックの月1通院日。
予約制ではないので、行きたい時に行ける。
これは、自分の心身の調子がままならないとき、とてもありがたかった。
火曜日の午後に行こう、と思ってはいても、その日にならないと自分が動けるのか。通院して、待合室に長時間座って入れれるのか。わからないからだ。
身体と気分の調子をある程度、自分で把握できる現在は、予約制だと待ち時間が少なくていいのになあ、なんて都合よく思う。
そんなふうに思えるようになったんだなあ、と通院はそれだけで自分の調子の変化を教えてくれるいい機会だと思う。
いまの精神科クリニックに通い始めたのが2020年秋。もうそろそろ3年になる。
心身の状態がポキンと折れる2カ月前にわたしは今の先生に会ったので、その後の折れたてほやほやのヤバい時期も、果てしないかに思えたリハビリ時期も、そのあいだずっと月1で定点観測的に現状報告をして、気持ち的にはずっと併走してもらっていたような存在である。
カウンセリングを受けようと思ったときも、オープンダイアローグを自分でやろうと思ったときも、自分の仕事部屋を借りようと決めたときも、必ず相談した。
相談して反対されることはないのはわかっているけれど、ほんとに反対されたことはなく、でもさりげなくアドバイスをくれたり(アドバイスというにはもっと雑談のような感じで)、励ましてくれたり、頼りになる先輩みたいなスタンスでいつもいてくれたように感じている。
渦中の頃から、処方されているのは睡眠障害に対する導入剤とかだけで、この1年で量を減薬していて、もうほぼお薬なくてもいいんじゃない?という感じになりつつ、「これがあると必ず寝られる」という御守りのように感じていて、お薬は月1で必要な量だけもらいに行きつつ、診察室ではその時々に変化について確認する雑談タイムのようになっている。
「寝られてる?」
「寝られてるんですけど、寝られてなくて……」
「寝られないの?」
「いや、寝られるけど、猫が……」
「猫?」
というわけで、noteに書いたギャル猫あーちゃんのことを話して、「こんなこと、先生にお話してもしょうがないんですけど、すみません」みたいになった。
「言葉があれば、猫がなぜ鳴くのか、理解のしようもあると思うんですけど、わからないんですよね。人間は言葉があるからいいですよね。いや、どうかな。言葉があってもわからないか。むずかしいですね」
わたしが「めっちゃ腹立つ」と激おこで愚痴るのを、先生は驚いて笑っていた。「猫に腹立つんや! ははは」って。
「かわいいけど、腹立ちますよ。腹立ててもしょうがいないけど。寝られないのはつらいです。あ、でも、お薬で寝られてます」
そんなわけで、昨日の診察室は猫の愚痴大会になり、恥ずかしかった。
3年間、月1のほんの限られた時間とはいえ、継続してお会いして、他の人とは話さないような、切迫した話、誰にも話せないと思いこんでいた話なんかも話して、聞いてもらって、そういう存在が自分に「いる」と信じられたことが、今さらだけど、どれだけ心強かっただろう。ほんとによかった。
あと、「そういえば、どうなん?」と、キックボクシングのことを聞かれて(3カ月前に始めたのも話していたので)、「めまいもましになってきました」と口にしてから、「わ、ほんまにましになってる。というか気にしてない!」と驚いた。
自分ひとりだと、自分のことって案外当たり前になりすぎて、わからないんだなあ。先生のおかげで気づけてよかった。
ミシマガジンの連載では、実は精神科の診察室でのやり取りを極力かかないようにしていた(もちろん軽くは書いているけど)。先生の言葉をさらすようなことになるのに躊躇して。
診察室の守秘義務は、患者を守るものであり、治療者を守るものでもあると思うから。
本になって、それをわざわざ購入してくれる読み手の人には、そのあたりのことももう少し詳しく伝えられたらいいなと思っている。Webでは読めないけど、本では読める内容を書き分けするというのも、今回自分がしてみたいことの一つです。
[今日の予定]作品を読む。書き下ろし書く。合間にジム。
****
8月あと少し、9月の受付も始めました。ご興味あるかたぜひ。
7月にいろんな方の話を聞いて思うのは、「皆さん、自分のことに気づく」んだなってことでした。「え!」と驚くような。そういう気持ち、わかる気がします。


コメント