<あしたの轍 第2部>②
戦後80年の今、国際秩序や平和の仕組みが揺らいでいる。自由や民主主義の旗手とされた大国が力を振りかざし、権威主義の色彩すら漂わせる。だからこそ過去に向き合い、未来につなげようとする姿はいっそう価値を持つ。あしたへと歩みを進める人々を再び追う。
◇
「俺は何者なんだ」と迷い続けていた。物心ついたころから、ずっと。
◆通名使う自分は「差別されない側にいる」
横浜市で生まれ育った韓国籍の兪在浩(ユジェホ=27)。家庭の方針から通名を名乗っており、高校までは市内の公立校に通った。両親も日本の学校出身だったが、幼少期に連れて行かれたことがある父方の親族の祭祀(チェサ)では、聞き慣れない言葉が飛び交っていた。少し年月がたって、それが民族名や朝鮮語のあいさつだったと知った。
小学5年のころ、母親に「あなたは韓国人だよ」と告げられた。周りの友達と自分は違う。そのときは「隠さなきゃ」と自身に言い聞かせた。中高生時代は「部活のサッカー、友達との遊びばかりで、ほとんど勉強しない一般的な男子」だった。それでも、両親の知人の在日同胞に誘われ、朝鮮半島にルーツを持つ少年少女が交流する「サマースクール」に足を運んだ。年1回、互いを本名で呼び合う数日間は「違わない」ことにほっとした。
高校1年の夏。通名を持たない「金(キム)」という同い年の女の子が、日本人と名前が違うだけで、聞くに堪えない暴言を吐かれた体験談を語った。ヘイトスピーチという単語が社会にあふれ始めていた。彼女に心を寄せると同時に、自分自身が「差別されない側にいる」と認識した。憤りと悲しみを帯びた目に何も声をかけられなかった。
本名と通名。同じ在日なのに彼女と違う。この夏を境にして、通名の自分に「何者だ」と問いかける日が増えていった。たまに、腹の底から「ひきょう者」と跳ね返ってきた。
◆同世代のほとんどが「在日」の存在知らず
駒沢大に進学。初対面の学友には「ユ・ジェホ」と自己紹介した。反応は決まって同じだった。「韓国語を話せるんだ?」「どこから来たの?」。ずっと日本にいるし、日本語以外は全くしゃべれない。同世代のほとんどは「在日」の存在を知らなかった。
「質問には悪気はない」とも感じた。でも、どうして在日韓国・朝鮮人が母国語を話せると、みんな思い込んでいるのか。説明するのが面倒になり、「とにかくモヤモヤしていた」ころにサマースクールの知人のつながりで、在日本朝鮮留学生同盟(留学同)の勉強会に誘われた。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の団体で、同年代の仲間がいた。民族の歴史や言葉を学び、サークルみたいに毎週のように飲み会が開かれた。「ここは何の説明もいらない。無条件にルーツを肯定してくれる」と初めて思えた。
いら立ちが消えたのは、愉快な学友と過ごせたからだけではない。戦前・戦中の創氏改名の内実を知り、通名の使用を「日本の植民地支配の名残」と理解し、「自分の生き方の矛盾に正しく気付けた」のも大きかったという。
そんなある日、財布の中の学生証を偶然、女性の先輩が見つけた。氏名欄には「三山稔希(みやまとしき)」。まだ差別にさらされる不安を拭えなかった入学時、これまでの通名を大学に届け出ていた。
◆学生証の氏名欄「本名にできませんか」
「ジェホ、通名なんだ」というさりげないひと言が胸に刺さった。踏み出さないといけない、と思った。
「本名にできませんか」
意を決した。カウンター越しの職員に語りかけた。2017年5月、2年生に進級した兪は大学の教務部を訪れた。「怖い」。震えそうな手で通名が記載された学生証を握った。
職員が示したのは、兪が1年前に提出した「通称名使用願」だった。注意書きとして「中途において変更することは認めない」とされていた。職員は相手にしてくれなかった。
◆「本名を名乗るのに、なぜおわびが必要?」
そこから「なにクソ根性でやると腹をくくった」。教務部長に直談判し、在日朝鮮人の教授を介して副学長に掛け合うと、3年生の進級時にようやく本名への変更が認められた。大学が準備した「本名使用願」に「名前は自らのアイデンティティを確立する上で大切なこと」と書いた。
ただ、変更後に一つ気になった点があった。用意されたひな型に「2年後にこうしたお願いをすることについて、深くおわび申し上げます」と記されていた。確かにルールは犯したし、名前を戻すという一心で、深く考えずにそのまま提出してしまったが、「民族的マイノリティーの学生が本名を名乗るのに、なぜおわびが必要なのか」という不信感が募った。
「親が離婚し、姓が変わったなら、即座に変更が認められる。何が違うのか。そもそも、通名と本名の葛藤を人生で迫られるのは、そのほとんどが...
残り 883/2848 文字
この記事は会員限定です。
- 有料会員に登録すると
- 会員向け記事が読み放題
- 記事にコメントが書ける
- 紙面ビューアーが読める(プレミアム会員)
※宅配(紙)をご購読されている方は、お得な宅配プレミアムプラン(紙の購読料+300円)がオススメです。
カテゴリーをフォローする
みんなのコメント0件
おすすめ情報
コメントを書く
有料デジタル会員に登録してコメントを書く。(既に会員の方)ログインする。