『人間交際術』は元・元祖イルミナティの重鎮クニッゲが書いた今も役立つ本(鷗外と関係あり)。元祖イルミナティ資料集。元祖イルミナティ会員フーフェラント『マクロビオティック(長命術)』 new!!
Posted on 2025.05.02 Fri 07:24:56 edit
需要がありそうな箇所である、秘密結社へのクニッゲの見解(保身も含んでいる)は「秘密結社について、および、その成員との交際について」からどうぞ。
記事内検索で飛んで下さい。秘密結社への見解は、講談社学術文庫版『人間交際術』には載っていますが、イースト・プレス版では省かれています。
目次
本書を読むきっかけと理由
クニッゲ『人間交際術』の和訳の備忘録(メモ)(講談社学術文庫版とイースト・プレス版)
森鷗外についての軽い考察と、クニッゲについて
参考資料
本書を読むきっかけと理由
読むきっかけとなった呟き:
https://x.com/uxskf/status/1905612255795818890 と続き
”
”
この中でクニッゲが出した結論は
"秘密結社なんかゴミ" だった
無益で危ないだけの無価値なもの
これを世界を支配しているはずのイルミナティのNo.2の人間が言っているのである
午後10:32 · 2025年3月28日
·
1,258
件の表示
とは言え嫉妬やらなんやらで追い出されたりしてるわけでそれに対するルサンチマン的なものもあるだろうが
クニッゲの主張は
それっぽい象徴とか儀礼とかなんの有効性も無いゴミ
秘密結社はやめて"公然"と活動せよ という事
このクニッゲの理念が伝わったのか
ウェルズの"公然たる陰謀"がある
午後10:38 · 2025年3月28日
·
1,095
件の表示
https://x.com/uxskf/status/1905616191374364868
”ワクワクさん
@uxskf
そもそも陰謀の意味が一般的に思う陰謀とは違うのだが
陰謀など無く世界を啓蒙の光で照らしましょうという感じだろう
それは人権宣言とか教育運動とかだったりするのだが
午後10:41 · 2025年3月28日
·
1,115
件の表示
”
ワクワクさんに感謝。
読む本の優先順位を変えてまでも本書を読んだ理由は、クニッゲが秘密結社についてどう言っているのか気になったのと、人間交際術が書かれているからだ。人との付き合い方は本当に大事だからだ。
大当たり本。
クニッゲ『人間交際術』の和訳の備忘録(メモ)(講談社学術文庫版とイースト・プレス版)
先に講談社学術文庫版を扱う。こちらは大当たり本。
イースト・プレス版は全訳ではないのでお勧めしない。
『人間交際術』
アドルフ・F・v・クニッゲ/笠原賢介 中直一訳
1993年12月10日 第1刷発行
講談社学術文庫
本のソデ(表紙にカバーを巻いたときに、内側に折り込まれる箇所)より:
「講談社学術文庫のシンボルマークは、古代エジプトにおいて、知恵の神の象徴とされていたトキをデザインしたものです。」
[講談社学術文庫は赤組っぽいな。クニッゲの和訳を出版しているし、古代エジプトだし。
しかも知恵を強調しているので啓蒙主義的だ。古代エジプトでトキならトートだな。
なので、ヘルメス・トリスメギストスの意味も込めてそうだな。]
人間交際術 Knigge, Adolf Franz Friedrich Ludwig, Freiherr von(著/文) - 講談社 | 版元ドットコム
https://www01.hanmoto.com/bd/isbn/9784061591035
”
Knigge, Adolf Franz Friedrich Ludwig, Freiherr von(著/文)Knigge, Adolf, Freiherr von(著/文)中 直一(翻訳)笠原 賢介(翻訳) Knigge Adolph F.V.(著/文)クニッゲ アドルフ・F.V.(著/文)
発行:講談社
縦150mm
621ページ
(略)
初版年月日
1993年12月
登録日
2017年3月29日
最終更新日
2017年3月29日
(略)
紹介
世間と社交の場において、幸福かつ満足に他の人々と生活するために、また、周囲の人を幸福かつ愉快にさせるために、人はどのように振る舞ったらいいのか。万人にとって永遠の課題であるこの問いに、著者クニッゲは、交際の仕方についての一般的な考え方やルール、更に様々な状況に応じた人間交際術の秘訣をあますところなく教えてくれる。森鴎外の「智恵袋」にも紹介された人間交際術の古典的名著。
”
p.613から始まる
訳者あとがき
から記す。最重要箇所の1つだ。
本書『人間交際術』(Über den Umgang mit Menschen)は、今から 二世紀以上も前に書かれた社交術の古典的名著である。日本では著者クニッゲ(一七五二-九六)の名前はほとんど知られていないが、ドイツ語圏の人々は今日でも、クニッゲの名前を聞くとすぐに『人間交際術』を連想するほどである。それどころか「クニッゲ」という名称は、およそ交際術を書いたどのような本をも指す代名詞として使われることさえある。
今から二世紀前のヨーロッパといえば、ドイツではカントやゲーテ、シラーが、フランスではヴォルテールやルソーが活躍した時代、いわゆる「啓蒙主義」の時代である。この時代状況の中で、クニッゲの『人間交際術』は出版され、たちまちにしてベストセラーになった。初版が出版されたのは一七八八年で、同年には早くも第二版が出版された。それをさらに改訂増補した三部構成の第三版が出版されたのは一七九〇年、フランス革命勃発の翌年である。本訳書はこの第三版を訳出したものである。
クニッゲが生きた時代を一言で言うと、宮廷の時代から市民の時代への変革期、ということになろうか。フランスではまさに革命が勃発しようとしていたし、ドイツでもおそまきながら市民層が成立し始めていた。話をドイツに限定すると、当時のドイツは今日のドイツとは違い、約三百の小さな国に分かれていて、その多くに宮廷があった。また身分制度も存在していた。このような時代に書かれた社交術の書物であるだけに、クニッゲの『人間交際術』のなかには身分制原理の貫かれた当時の社会を前提にした論述が多くみられる。社交術の書物である以上は、現体制の中でいかに人がうまく身を処してゆくかを述べるのが『人間交際術』の本旨であって、現体制そのものを批判することは本書の目的ではないわけである。しかし、フランス革命の時代に生き、自身革命に共感を覚えたクニッゲの『人間交際術』の中には、身分制の不合理をつく叙述がかなり含まれている。また啓蒙の時代に生きた人物でありつつ、なおクニッゲの文章の中には啓蒙主義を揶揄するような言葉も見受けられるのである。
このように、変革の時代にあって現体制を前提にしながら、なお現体制を手放しで賞賛するのではないという、いわば両面性がクニッゲの『人間交際術』には見られるのであり、それゆえにこそ、さまざまな立場の人から本書は支持され、それどころか後々の時代にまで読み継がれることになったのである。
それでは、このような本を書いたクニッゲとはどのような人物であったのだろうか。
クニッゲ(Adolph Freiherr von Knigge)がハノーファー近郊のブレーデンベックに生まれたのは一七五二年である。当時は二十二歳のレッシングが文筆活動を開始し、ゲーテはまだ三歳、シラーはまだ生まれていなかった。もともとクニッゲ家は貴族の家柄であるが(Freiherrは「男爵」)、父が浪費家で道楽半分の事業に手を出して失敗し、しかもこの父がクニッゲ十三歳の時に負債を残したまま死去したので、クニッゲは生涯借金を背負わざるを得なかった。十七歳でゲッティンゲン大学の法学部に入学し、十九歳からカッセルにあるヘッセン方伯の宮廷に奉職するようになった。ここカッセルの宮廷でクニッゲは君主フリードリヒから信頼を得、単に宮廷人として奉職したのみならず、君主フリードリヒの事業経営にも関与し、また自らも農業協会を設立するなどの活躍を示した。
ところが、若くして一躍ヘッセンの宮廷の寵児になったクニッゲに対して、一つの陰謀が企てられた。クニッゲに関する悪い噂がばらまかれ、たちまちにしてクニッゲは君主からの寵愛を失ってしまったのである。
その後クニッゲは、ハーナウの宮廷に奉職する。1777年、クニッゲ24歳の時である。この宮廷でもクニッゲは才能は発揮し、社交界の花形になった。実際、クニッゲの才能はあちらこちらに花開き、素人芝居の監督をつとめるかたわら、バレエ音楽を作曲し、はては交響曲を作曲するにいたる始末だった。この宮廷でもクニッゲは君主の寵愛を受け――そして周囲の人々の妬みをかった。わずか四年後の1780年には、彼はハーナウの宮廷を後にしている。これ以降、クニッゲは、最晩年にブレーメンにゆくまで、およそ宮廷というものには近づかなくなる。
クニッゲは確かにあらゆる方面に才能を発揮した人物であるが、他方、歯に衣(きぬ)着せぬ物の言い方をし、また他人を揶揄したり皮肉っぽい言い方をすることが多かったようである。したがって、周囲の人々から反感を覚えられやすかったのだろう。
カッセルとハーナウは、結局クニッゲにとって、宮廷生活での栄光と悲惨をふたつながらに味わう場になったが、もうひとつこの時代に注目すべき事がある。それは、クニッゲとフリーメーソンの関係である。
フリーメーソンは秘密結社でありながら人類の啓蒙を目指すという、曰く言い難い団体である。フランス人では、ヴォルテールなどがそのメンバーである。またアメリカ人では、フランクリン、ワシントン、ジェファーソンといった独立革命の指導者がみなフリーメーソン会員であったため、フリーメーソンが独立戦争を起こした、などと噂された。ドイツでは、ゲーテ、レッシングといった文筆家の他、プロイセンのフリードリヒ二世(大王)がフリーメーソンであった。
クニッゲ自身、このような時代状況の中でまずカッセルで、当時のフリーメーソンのロッジ(支部)に入会した。だがここではメンバーとしては下級であったようである。ついでハーナウでもフリーメーソンに入会。ここでクニッゲは「ア・キュンゴ」という名前をもらい、上級に昇進した。
ハーナウの宮廷を離れてからクニッゲは、フリーメーソンと類似の団体「啓明会(イルミナーティ)」に接近した。この結社を主催していたのは、インゴルシュタットの大学教授アダム・ヴァイスハウプトである。啓明会は、1782年に「ヨーロッパ革命化のための国際的な啓明会の合議」を行なったということからも分かるように、現体制に対して批判的な目を向けることもある団体であった。クニッゲは1780年にこの会に入り「フィロ」という名前をもらったが、精力的に会の組織の拡充につとめ、この会の文書発送業務はほとんどクニッゲが統括するようになったくらいである。
1784年までの間、クニッゲはヴァイスハウプトと並んで「啓明会」の指導的立場にあったが、のちにヴァイスハウプトと対立、同会を離れている。
ところで「 啓明会」に関与していた頃、クニッゲは何をもって生活の資としていたのか。すでに宮廷からの収入はない。そこでやむなく貴族クニッゲは「市民的職業」である作家活動に乗り出す事になる。
今日クニッゲの名前は、作家としてはドイツの文学史にもほとんど記載される事はないが、当時は流行作家であった。代表作には自伝的小説『わが生涯のロマン』全四巻(1781-83)、悪漢小説『ペーター・クラウゼン物語』(1783-85)、『哲学者の混乱。別名、ルートヴィヒ・フォン・ゼールベルク物語』(1787)、『魔の城』(1790)、そしてクニッゲの文学作品の中で最も有名になった『ブラウンシュヴァイクへの旅』(1792)などがある。
クニッゲ自身認めているように、多少とも彼には粗製乱造の傾向があった。従ってクニッゲの生前には右の諸作品は読まれたが、今日では読む人もいない。
ハーナウを1780年に離れた後、クニッゲはフランクフルト、ハイデルベルクに移り住み、1787年に故郷ハノーファーに戻ってきた。そして書かれたのが彼の主著『人間交際術』である。先にも述べたように、ちょうどフランス革命が勃発しようかという時代である。多くのドイツ知識人同様、クニッゲはフランス革命勃発当初、大いに感激し、革命一周年には友人たちとそのお祝いの会を催し、ドイツにほどなく革命の起こる事を期待して乾杯したほどである。その場には、作家クロップシュトックもいた。
1792年、革命が恐怖政治の兆候を見せはじめると、クニッゲはフランス革命に対して冷静な態度を見せるようになる。92年に書かれた『ヨゼフ・フォン・ヴルムブラントの政治的信仰告白――フランス革命とその結果に関して』の中でクニッゲは、革命の根本思想に賛意(原文ママ)を表明しながらも、ジャコバン派の過激な革命行動は批判した。だがこのような書物を発表した結果クニッゲは、革命派からは反革命派と見られ、逆に反革命派からは革命派であると見なされるにいたったのである。たとえば「ブラウンシュヴァイク・リューネブルク選帝侯政府付き大ブリテン王枢密顧問会議」の名前で、本書に対する戒告状が送達されたほどである。
1791年、クニッゲはブレーメンの上級公務員に任ぜられた。だが、この時クニッゲの体は病魔に蝕まれ始めていた。ブレーメンではほとんど床についている状態で、1796年、四十三歳の若さで死去した。
クニッゲはこのように、債権者に追われる貴族として、流行作家として、フリーメーソンや啓明会の活動に参加してきた者として、さらにはフランス革命に心酔し後に反感を覚えた者として、非常にさまざまな側面をもつ人物であるのだが、その死後残ったのは『人間交際術』のみであったと言っても過言ではない。
このクニッゲの『人間交際術』にいちはやく注目した日本人は森鷗外である。鷗外はドイツ留学中レクラム文庫でこの本を読み、帰国後、本書を自由に翻案風に翻訳し、「知恵袋」と題して『時事新報』誌に連続掲載したのである。
ところがこの時鷗外は、原著者の名前を挙げることなく単に「鷗外訳補」としるしたのみであったため、「知恵袋」の原点となったものがどのような作品であったのか、長らく謎とされてきた。いや、そもそも「知恵袋」の原典が何であったか、という関心さえ生じてこなかったのである。
このような状況のなかで東京大学の小堀桂一郎教授が、「知恵袋」の原典がクニッゲの『人間交際術』であることをつきとめられた。その成果は、本訳書と同じ講談社学術文庫に『森鷗外の「知恵袋」』(1980)としてまとめられている。鷗外は十八世紀ドイツの読者に向けて書かれた『人間交際術』を自由自在に翻案・翻訳し、明治の日本人に読めるような形に改作したのである。
実は本訳書が成立したのも、小堀桂一郎教授のお勧めによるものである。本書の翻訳のきっかけを与えて下さった小堀桂一郎教授には、この場を借りてあつくお礼申し上げたい。
本訳書の底本としたのは、1878年出版のレクラム文庫版(鷗外もこの版で読んだ)である。このReclam版の他に、随時Gebrüder Weiss版、Carl Schünemann版を参照し、レクラム版を補った。また後者につけ加えられた「解説」(マックス・リュヒナー執筆)は、本訳書の「訳者あとがき」を書くに祭司て大いに参考にさせていただいた。
文化史研究家のエゴン・フリーデルは、『人間交際術』の文体に関し「行文は優美流麗、平坦にして淡彩」と絶賛しているが、少なくとも翻訳者の目からみると、クニッゲの文体は非常に回りくどく、またいつまでも続く長々しい文章が多く、正直に申して、翻訳は楽な作業ではなかった。そこで訳出に際して訳者たちは、読みやすさを考えて、次のような方針をとった。
一、原著は一つの段落が非常に長い場合が多いので、本訳書ではそれを適当に切った。
一、各項目は、原著本文中において番号だけが与えられていて、項目の表題が示されているのは目次においてのみである。本訳書では、読者の便をはかって、本文中に表題を示した。
一、訳注は、各項目の最後の部分に示した。
翻訳の内容・表現法については、二世紀も前の作品であるだけに、これをそのまま今日の日本に当てはめることは困難である。クニッゲの生きた時代の制約が強く刻印された叙述・表現法も散見される。読者におかれても、そのことに十分ご留意いただきたい。
翻訳の分担に関しては、原著まえがき、第一部前半(序論と第一章)、第二部前半(第五章まで)、第三部前半(第五章まで)を中が、第一部後半、第二部後半、第三部後半を笠原が担当し、相互に原稿を交換して文体・訳語の調整を行った。
最後になったが講談社学術文庫の池永陽一氏には、原稿段階からさまざまな形でお世話になったことをお礼申しあげる(原文ママ)と共に、翻訳作業が遅々として進まなかったことを改めてお詫び申し上げる(原文ママ)次第である。
一九九三年九月
笠原 賢介
中 直一
【
本書は、1993年12月10日 第1刷発行。
クニッゲが元ネタを明かさなかったのってメイソンと元祖イルミナティ関係者だからでは?
クニッゲの日本語版ウィキが「イルミナーティ」表記なのは本書が参考資料の1つだからだろうな。
アドルフ・クニッゲ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B2#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E6%9B%B8
”
アドルフ・クニッゲ(Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge、1752年10月16日 - 1796年5月6日)は、18世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)の著作家、評論家。
ニーダーザクセンの生まれ。ゲッティンゲン大学で学び、ヴァイマルの宮廷に仕える。のち貴族と離反しブレーメンに引退する。『人間交際術』はロングセラーとなり、ドイツの家庭では常備されていた。日本では1910年に翻訳が出ているが、森鷗外が『智恵袋』『心頭語』として新聞連載した。男爵(フライヘル)とされる。
フリーメイソンとしてのクニッゲ
クニッゲは、フリーメイソンの会派の一つである厳守派に1773年に入会したが、資金的な問題でエリート的な結社の狭い指導者グループに上りつめることはできなかった。カッセルでクニッゲは「戴冠したライオン」というフリーメイソンのロッジに入会した。ハーナウでは彼はロッジ「ヴィルヘルミーネ・キャロライン」のメンバーとなった。 「白鳥の騎士」(羅:Eques a cygno)を名乗って、クニッゲはフリーメイソンの指導者や黄金・薔薇十字団の指導者と文通をおこなった。クニッゲはフリーメイソンの業務で、たくさん旅行をしている。ブラウンシュヴァイク、ヴォルフェンビュッテル、ヴィルヘルムスバートでおこなわれた厳守派の大会でクニッゲは改革のために運動した。
フリーメーソン業界での人脈に幻滅し、深く失望したことで、クニッゲは「フィロ」という仮名で1780年に「コンスタンツォ侯爵」を通じてイルミナーティに入会した。クニッゲは、北ドイツにこの結社を広めるという使命を帯びて、持ち前の落ち着きと巧みな組織力で、約500のメンバー、主に貴族や知識人を集めることに成功した。イルミナーティはクニッゲが入会させたヨハン・クリストフ・ボーデを通じてヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテさえ獲得した。しかし、ボーデと創設者アダム・ヴァイスハウプトとの激しい権力闘争があった後、クニッゲは1784年、再び除名された。クニッゲは、自分が期待したようなこの結社による「国民の精神生活の刷新」は現実的ではなかったと後に回想している。
彼はまた、折衷同盟の設立にも関与した。人生を通じてクニッゲは平等主義的な友愛団の様々なプロジェクトに取り組んだ。彼は、死の直前の1795年に愛国同盟のマニフェストを起草した。
これらの多様な活動、特にイルミナーティ結社を強制的に脱会させられた後に果たしてきた顕著な役割のために、クニッゲはフランス革命後に当局から疑われることになった。彼は危険な民主主義者であり、ジャコバン派と見なされた。 1796年には、彼のもとにウィーンの秘密警察は、クニッゲの返事からドイツにおけるフランス革命支持者のネットワークを解明することを望んで、元イルミナーティのアーロイス・ブルマウアーの名前で偽装した手紙を送っている。
日本語訳書
(年代順)
• 『処世交際法』クニッゲ 笛川漁郎訳 玄黄社、1910年
• 『処世と交際 第2部 (人に処する法)』フライヘルン・フオン・クニッゲ 堀秀彦訳 池田書店、1953年 今日の教養新書選
• 『世に処する法』フライヘルン・フオン・クニッゲ 堀秀彦訳 池田書店、1954年 今日の教養書選
• 『交際に関する105章 世に処する法』フライヘルン・クニツゲ 堀秀彦訳 池田書店、教養新書 1956年
• 「十八世紀の黄昏 旅の書簡」クニッゲ 栗原良子訳『ドイツ・ロマン派全集 第18巻』国書刊行会、1989年
• 『人間交際術』アドルフ・F.v.クニッゲ 笠原賢介、中直一訳 講談社学術文庫、1993年
• 「クリストフ・ハインリヒ・ブリックの手稿」クニッゲ 轡田收、鷲巣由美子訳 『ユートピア旅行記叢書 第11巻 (哲学者たちのユートピア)』岩波書店、1997年
• 『人間交際術』アドルフ・F.V.クニッゲ 服部千佳子訳 イースト・プレス 智恵の贈り物、2010年
関連書籍
• 『森鴎外の『智恵袋』付:「心頭語」「慧語」』小堀桂一郎訳・解説 講談社学術文庫、1980年
[
注:「『処世交際法』クニッゲ 笛川漁郎訳 玄黄社、1910年」。鴎外の『知恵袋』の発表は1898年(明治31年)。つまり、1910年に出た和訳を参考にしたのではない。ドイツ語で読んだということだ。訳者(笛川漁郎)がケツ社員かどうかはよく分からないが、和訳されたことは確かだ。
森鷗外の箴言集『智恵袋』『心頭語』『慧語』の人間知
https://note.com/kent248/n/na744c4464d3d
”小堀桂一郎の委細を尽くした「解説」によると、鷗外の『智恵袋』と、その続編にあたる『心頭語』という二つの箴言集は、「実は鷗外の創作ではなくて翻訳、……訳者の自由な筆削や補訂の多分に加わった、翻案的抄訳とでも呼ぶべき作業の産物」である。すなわち、「鷗外の二つの処世哲学的箴言集は要するにクニッゲ作『交際法』の抄訳に他ならなかった」のであり、「鷗外の旧蔵書、つまり東京大学図書館の鷗外文庫中には古いレクラム文庫本のクニッゲが遺されており、その手沢本中には感想の書き入れや、翻訳に関係があるらしい符号等の書き入れもそのままに遺っている」のであるが、「虚心にこれに対するときは、まさにすてがたい人間知宝庫として今なお我々をひきつける」というのである。
” ※着色は引用者
中略
]
最終更新 2022年2月22日 (火) 02:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
本訳書が成立したのは、小堀桂一郎教授のお勧めによるもの。小堀について調べたら、青組の人だ(笑) クニッゲは赤組の先祖なのに勧めるんだと思ったが、小堀は森鷗外の研究者なので、鷗外の研究の資料として和訳が欲しかったんだろうな。『人間交際術』は分量が多いので、自分で訳すのは大変すぎるからな。
あとがきが1993年なので勧めたのは1992年かそれより前だろう(さすがに1年で翻訳は完成しないと思うので)。
小堀桂一郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E
『森鷗外の「智恵袋」』(講談社学術文庫 1980)は、『森鷗外の世界』(講談社 1971。訳・解説)を改訂したものだ。
統一教会の関連団体「世界平和教授アカデミー」の機関紙『知識』1984年7月号に寄稿するよりも前だ(『知識』彩文社、1984年7月号)。
小堀は、統一教会の関連団体「教科書正常化国民会議」の発起人であり、これの根拠が、青木慧『パソコン追跡勝共連合』(汐文社、1985年10月)。こちらも、『森鷗外の世界』の方が先だ。
ドイツ文学者の小堀が
①元々は赤組だから鷗外研究をしていて青組に鞍替えしたのか、
②もとから青組だったのか
③上記以外
かどうかは不明。
日本会議副会長であり、今も副会長だ。
日本会議(にっぽんかいぎ)の成立は1997年5月30日なので、『森鷗外の世界』(1980年。後に『森鷗外の「智恵袋」』)が先だ。
役員名簿 日本会議
https://www.nipponkaigi.org/about/yakuin
”令和5年6月1日現在・50音順
[顧 問]
久 邇 朝 尊 神宮大宮司
鷹 司 尚 武 神社本庁統理
[会 長]
田久保 忠 衛 杏林大学名誉教授
[副会長]
小 堀 桂一郎 東京大学名誉教授
田 中 恆 清 神社本庁総長
[代表委員]
秋 本 協 徳 新生佛教教団最高顧問
入 江 隆 則 明治大学名誉教授
打 田 文 博 神道政治連盟会長
大 原 康 男 國學院大學名誉教授
岡 野 聖 法 解脱会長老
桶 屋 良 祐 念法眞教燈主
小 野 貴 嗣 東京都神社庁庁長
城 内 康 光 元ギリシャ大使
九 條 道 成 明治神宮宮司
小 柳 志乃夫 (公社)国民文化研究会理事長
齊 藤 郁 雄 神宮少宮司
佐 藤 和 男 青山学院大学名誉教授
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
志 摩 淑 子 (株)朝日写真ニュース社会長
住母家 岩 夫 NPO法人持続型環境実践研究会会長
関 口 慶 一 佛所護念会教団会長
千 玄 室 茶道裏千家前家元
高 橋 伸 彰 崇教真光管理局長
竹 本 忠 雄 筑波大学名誉教授
中 野 悦 子 オイスカインターナショナル総裁
長谷川 三千子 埼玉大学名誉教授
廣 池 幹 堂 (公財)モラロジー道徳教育財団理事長
古 庄 幸 一 英霊にこたえる会会長
保 積 秀 胤 大和教団教主
丸 山 敏 秋 (社)倫理研究所理事長
水 尾 寂 芳 比叡山延暦寺代表役員
水 落 敏 栄 日本遺族会会長
火 箱 芳 文 公益財団法人偕行社理事長
森 勉 (社)日本郷友連盟会長
山 口 建 史 靖國神社宮司
渡 邊 毅 日本教師会会長
[監 事]
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
[理事長]
栗 田 勤 明治神宮崇敬会理事長
[事務総長]
椛 島 有 三 日本協議会会長
[事務局長]
松 村 俊 明 日本会議常任理事
以上の役員を始めとする中央本部役員約400名、
47都道府県本部役員約3100名がご就任です
” ※着色は引用者
黒表(こくひょう。ブラックリスト)だな。
日本会議の人脈と、世界連邦の人脈は一部がかぶるので、小堀にはふさわしいといえる。青組だろうけど、研究対象が赤組であろう鷗外なので。
日本会議の人脈と、世界連邦の人脈は一部がかぶっていることから、おそらく、日本会議(青)が、最終的に世界連邦(赤)を助ける計画があると思われる。日本会議(青)は悪役なんだろうな。
世界連邦運動 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%80%A3%E9%82%A6%E9%81%8B%E5%8B%95
”世界連邦日本宗教委員会
1967年結成。立ち上げた朝比奈宗源はのちに「日本を守る会」(現在の日本会議の前身の一つ)にも関与した。会長の田中恒清は日本会議副会長を務め、メンバーである北白川道久神社本庁統理や鷹司尚武・伊勢神宮大宮司、渡邊惠進前天台座主は日本会議顧問である。
(略)
最終更新 2024年11月2日 (土) 03:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
】
p.3から
原著第三版まえがき
注意深い読者ならば、初版・第二版とこの第三版を比べてみて、私がどれほど多くの変更を加えたか(項目の順番を並べ換えた箇所もあれば、内容を書き換えた箇所もある)に気付かれるであろう。本書を改訂するに際し私は、私自身の判断で行った部分もあれば、尊敬に値する何人かの人々の意見に従った所もある。
ハノーファーにて。一七九〇年一月
p.7から
原著初版・第二版まえがき
十八年間の不在期間の後、私は再び、祖国ハノーファーに戻ってきた
ハノーファーにて。一七八八年一月。
序論
p.71から
〔注一〕当時ドイツは分裂状態にあり、約三百の小国家が存在していた、
〔注二〕正当の貴族であることを証明するには、自分の父方と母方の合計十六人の先祖が皆貴族であることを示す系図が必要とされた。
〔注〕約三百あった当時のドイツの「国家」には、(国王をいただかずに)皇帝に直属する都市が含まれた。これを「帝国都市」という。ハンブルクやケルン、フランクフルトなどがこれにあたる。
〔注七〕ドイツの宮廷人の間では、(ドイツ人同士でも)フランス語で会話することが流行していた。
第一章 人間交際術についての一般的規則と注意事項
p.94
十三 自分のことに興味を持ってほしいと思うのであれば、貴方の方でも相手に対して興味を持つべきである。
”
自分のことに興味を持ってほしいと思うのであれば、貴方のほうでも、相手に対して興味を持つべきである。人との交際を好まず、友情や親切心や愛情のセンスに欠け、自分だけで生きて行くような人間は、他人に助力を望んだとしても、相手にしてもらえないものなのだ。
”
(引用符は備忘録者による。正確な引用のために、何度も確認したという意味だ)
p.97
十六 内容のあること、あるいは快適なことをしゃべらなければならない。お世辞について。
(ここからp.98)
”
人と出会ったならば、内容のある言葉を言うか、あるいは親切な言葉を言うことだ。しかし、内容のある言葉にしろ、親切な言葉にしろ、相手のためになるような言い方をしなければならない。相手をしりごみさせないように、またいかにも準備してきたというような観を与えないよう、言葉の使い方に注意しなければならないのである。貴方のそばで送るひとときが、時間の無駄であると相手に感じさせないようにしなければならない。貴方が、相手の人格そのものに興味を持っているのである、と当人に思ってもらえるような態度をとらなければならない。心をこめて振る舞うことが必要である。十把ひとからげに、誰彼の区別なしに貴方の前を通り行く人すべてに親切を売り歩く、ということはしないほうがよい。
”
p.101から
十八 噂話について。
人から聞いた噂話を、軽々しく他人に言ってはならない。とりわけ、悪口に当たるような噂話をしてはならない。噂話の中には、しばしば事実無根のものがある。何人もの人間の口から耳へ伝わるうちに、誇張されたり、一部だけが伝わったり、もとの形とまったく違う話になっていることがある。根拠のない噂話を他人に伝えたばかりに、罪のない善意の人々をひどく傷つける、ということがしばしばある。そしてそれ以上にしばしば、噂をしゃべった当の自分が、手ひどいしっぺ返しを受けるということがあるのである。
p.102から
二十 非難や反論をするときには慎重に。
非難したり、反論したりする時には、慎重さを失ってはならない。二つの面を持たないような事柄は、この世には少ないのである。先入観は、しばしば、賢明な人間の目を曇らせる。他人の立場になって考慮するということは、きわめて難しいことだ。とりわけ聡明な人間が行なっていることを判断するときには、性急になってはならない。どれほど貴方に謙虚さがあるとしても、性急に判断を下してしまっては、貴方は当の聡明な人間よりも自分の方が賢いと、思い違いをしてしまうかも知れないのである。このような思い込みは、不適当な場合が多い。聡明な人間は、多くの場合、他の人よりも活気がある。不正をゆるさぬ烈しい感情を持ち、大衆の判断を気にすることがない。自分の良心の正しさを証明するとき、何か大きな権威の力を借りようなどとは思わない。いずれにしても、聡明な人については、「あの男は、他人のためになるようなことを何かしているか」と問うてみるだけでよい。彼が他人の役に立つようなことをしているのであれば、少々、情に駆られた行動をとったとしても善行に免じて忘れてやることだ。なぜなら、このような欠点は、ただ単に彼本人にのみ迷惑がかかるという程度のものだろうし、そうでないとしても、せいぜいのところ、すぐに消えてしまうような些細な害悪しかもたらさぬものであるからだ。
他人の善行の動機を、あれやこれやとでしゃばって憶測しようとしてはならない。そのようなことをすれば、ひょっとすると今度は、貴方自身の立派な行為の多くが、疑いの目で見られ、ちっぽけなものと見られるかも知れない。およそ善行というものは、どのような結果をもたらすのかという面で、世間から判断されるものだ。
p.107
二十三 エゴイズムについて。
心の通いあった友人どうしであれば、一人の持っている話題が、皆の話題になる。このような場合を例外として、貴方は自分自身のことについて、多くを語りすぎてはならない。そして、親しい間柄においてさえ、あまりに自分を出しすぎないよう、注意しなければならない。親切な友人が貴方に敬意を払い、貴方自身のことや、貴方の書いた文章などを、話題の中心にしてくれたような場合(人は、このような場合にしばしば遭遇するものだ)でさえ、決して自分自身について語りすぎてはならない。謙虚な心は、最も愛すべき性格のひとつなのだ。
p.111から
三十一 宗教の話題について。
分別のある誠実な人間ならば、重要な宗教上の教説について――たとえ不幸な経験に見舞われて、その教説が真実であるなどとは信じられなくなっている場合でも――決して、これを鼻で笑い飛ばすといった態度は取らないものだ。私の思うに、このことは当たり前のことだ。また、教会の諸々の制度や、いくつかの宗派で守られている信仰内容、さらには多数の人々が重要だと見なしている宗教上の儀式などについても、社交の場では、決してこれを嘲笑してはならない。
他の人が尊重しているものは、自分でもまた尊重することが大切である。自分が言論の自由を求めているのであれば、他の人の言論の自由も認めるべきだ。私たちが啓蒙と名付けている当のものが、別の人には、ひょっとすると蒙昧そのものと思われているかもしれない、ということを忘れてはならない。自分にはひとつの偏見としか思えないものが、他の人には心に安らぎを与えるものであるかも知れないのだ。だから貴方はこのような偏見をも尊重すべきである。他の人が大切にしているものを奪い取るのであれば、貴方はこのような偏見をも尊重すべきである。他の人が大切にしているものを奪い取るのであれば、貴方はその代りにより素晴らしいものを相手に与えなければならない。嘲笑は、相手のためにならない。この世では、私たちの理性はまだ十分に発達し切ってはいないのである。だから理性は、色々な事柄について、過ちを犯すことがある。欠点のある体系といえども、その上にすぐれた道徳の基礎が置かれることがある。だから、安易に体系を破壊してしまうことは出来ない。もしそのようなことをすれば、その上にある建物をも土台から崩してしまうことになるからだ。そして最後に忘れてならないことは、右に述べた様々な事柄は、社交の場であれこれと論ずるような性質の話題ではない、ということである。
p.114から
イギリスでは様々な先入観が退けられているが、ハノーファーはそのイギリスと縁が深い都市である〔注1〕。
〔注1〕 1714年ハノーファー公ゲオルグがイギリス国王ジョージ一世として即位した。以来1837年まで、ハノーファーはイギリスと同一の君主によって統治された。
p.161から
第二章 自分自身との交際について
一 他人との交際にかまけて自分自身との交際を疎かにしてはならない。自分自身との交際は有益で興味深いことである。
自分自身に対する義務は、第一の最も重要な義務である。それだから、自分という人間との交際は、決して無用のこと、つまらないことなのではない。いつでも他人の間をうろつき人と交際してばかりいて、自分との付き合いを疎かにしたり、自己の陶冶もせず他人との用件にかまけ、まるで自分自身から逃避するかのようにしているのなら、それは赦しがたいことである。毎日あちこち走り回っている人間は、我が家では赤の他人となる。常に気晴らしのなかで生きている人間は、自分の心にとっての他所者となる。閑人たちの雑踏のなかで、自己の内部の倦怠を滅却する他なくなってしまう。自分に対する自身を失い、ひとたび自分と顔を突き合わせる段になると当惑してしまうのだ。耳ざわりのよいことを言ってくれる仲間だけを求める人間は、真実の声に対する嗜好を失い、しまいには、自分の内部からの真実の声にすら耳を貸さなくなる。それでもなお、良心がなにか不愉快なことを囁いてくると、善意の声がかき消される雑踏のなかへ逃げ込んでしまうのだ。
二 自分にとって自分こそが最も必要となる瞬間がやってくるものである。
それゆえ、自分の最も忠実な友人である自分自身をつれなくしすぎて、一番必要な時に背を向けられてしまうことのないよう、用心せねばならない。そうである。たとえ全ての人間に見捨てられても、自分は自分を見捨ててはならないという瞬間があるものである。自己との交際が唯一慰めとなる瞬間である。だが、この時に、己の心と平穏に暮らせないとしたら、己の心からも慰めや助けが一切拒まれているとしたら、いったいどうなるだろうか。
(地獄だよ)
三 他人同様、自分に対しても、注意深く、繊細、誠実、公正に付き合わねばならない。
だが、自分自身との交際の中に、慰めや幸福、安らぎを見いだそうと思うなら、他人に対してと同様、自分に対しても、注意深く、誠実に、繊細で公正に付き合わねばならない。ひどい目にあわせて、怒らせたり落ち込ませてはならない。疎かにして軽く見たり、おだてて堕落させてはならないのである。
第三章 様々な気性・気質の人々、様々な気分の精神・心情を持つ人々との交際について
p.217から
二十六 熱狂家、風変わりな人間、夢想家、天才、常軌を逸した人間。
不幸なことに、夢想は、鼻風邪と同様に伝染して行く。それゆえ、非常に活発な想像力を持つ者、また、それを知性によって制御する確固とした自信のない者は、どんな種類の夢想家との付き合いにも用心するようお勧めする。秘密結社は、ほとんどはこの種の妄想がその基礎である。秘密結社への熱狂がかくも世に広まった今世紀において〔注〕、人間は、宗教的、神智学的、科学的、政治的な、あるいはその他なんであれ、あらゆる種類の妄想を体系化する手段をあみ出しさえした。私は、これらのうちどれが一番危険なのかを決めつける気はない。しかし、政治的で、半ば空想的、半ばイエズス会的な計画をめざす種類の夢想、世界の改革を指向する種類の夢想は、少なくとも、まったく無害なドン・キホーテ的行動とは言えないと思う。
〔注〕十八世紀にはフリーメーソンなどの秘密結社が盛行した。
[
神智学といっても、ブラヴァツキーの神智学ではないよ。おそらくヤーコプ・ベーメ(1575-1624年)系の思想のことだろうな。
魔術人名録
Boehme, Jakob
http://www.elfindog.sakura.ne.jp/BHOME.htm
”彼の思想は theosophy という言葉で表されるようになり(この場合、「見神論」と訳す)、19世紀末にブラヴァッキーの神智学協会が出現するまでは、theosophy と言えばベーメの教義を示すものであった。
”
https://x.com/MuseeMagica/status/1328846100506189825
”西洋魔術博物館
@MuseeMagica
暦。11月18日(或は17日)はドイツの神秘主義者ヤーコプ・ベーメの命日です。この日の朝、ベーメには不思議な音楽が聞こえていたとのこと。お昼過ぎ、家人に「今何時か」と尋ねて「三時です」と言われ、「まだ早いか。あと三時間ほどだ」と言い、午後六時に息を引き取ったと伝えられています。
画像
午前8:42 · 2020年11月18日”
https://x.com/MuseeMagica/status/957769270762459136
”西洋魔術博物館
@MuseeMagica
雑。そんなわけでせっせと銀器を磨いておるわけですが、磨くという行為と金属系反射光によるヴィジョン体験はベーメの得意とするところ。当方は到底あの域には達しえないのですが、片鱗なりともと思います。図はメルクリウスのカドケス。
画像
午前9:16 · 2018年1月29日”
]
p.221から
二十八 理神論者、無神論者、宗教を愚弄する人間について。
偽善者の対極、すなわち、よく見かける種類の理神論者〔注〕や無神論者、瀆神家(とくしんか)といった人間は、偽善者ほど他人に寛容ではない。キリスト教の真理性、神聖性、必要性について確信を持てぬような不幸な人間は同情に値する。こうした人間には、なくてはならぬ幸福、生と死における力強い慰めが欠けているからである。だが、この人間が、すべき限りでの市民・人間としての義務を忠実に果たし、他人の信仰を惑わさぬのなら、同情以上のもの、愛と尊敬に値する。ところが、頭脳や心情の倒錯や悪意によって宗教を軽蔑する人間となり、あるいは、それをうわべで気取って、至る所で折伏して回り、他の人間が唯一の希望とする、時と永遠における幸福の拠り所となる教えを気の抜けた機知やヴォルテールばりの修辞で公然と嘲笑する――もしこんな人間がいて、自分と同じに考えない人間すべてを迫害し、軽蔑し、誹謗し、偽善者、隠れイエズス会士呼ばわりするのなら、それは邪悪な愚者であり、軽蔑せねばならない。たとえ、この人間が、依然としてきわめて高潔であったとしても同じである。その無駄話に真剣に根拠を挙げて反論しても仕方ないと思われるなら、少なくともその冒瀆的な口を可能なかぎり封ずるがよい。
〔注〕超越的な神は認めるが、創造以後の世界に神が介入することを認めない立場。奇蹟は否定される。ヴォルテールもその一人。
(イエズス会士は悪口だな。クニッゲはヴォルテールが嫌いらしいな。
クニッゲはキリスト教を否定しない。理神論を否定。無神論を否定。
理神論を否定しているが、クニッゲの思想は理性重視で啓蒙主義的系の思想だ)
第二部
p.329から
十七 遊び女との付き合い方
ここで一言、男遊びの好きな女性との交際方法について述べてもよいだろう。
不幸にもこの種の罠に引っかかった男性は、あんな女に近付く前に私の本を読んでおく、などという冷静さを持ち合わせていなかった人であろう。ソロモン王〔注〕は、私よりもはるかに巧みに、このことを警告している。
〔注〕 ソロモンは智者として知られたイスラエル・ユダの王。その博識と機知は「ソロモンの知恵」として知られ、旧約聖書の『箴言』『伝道の書』『雅歌』などの作者に擬せられている。
(メイソンはソロモンを重視する。なので本書でも登場する(笑))
第三部
第一章 身分の高い人、君侯、貴族、財産家との交際について
p.440
三 身分の高い人や財産家には、決して近づかないこと。
どんな場合にも当てはまる普遍的規則をひとつ述べよう。もしも貴方が、軽んぜられたくないのならば、身分の高い人や財産家の所に、自分から近づいて行かないこと。あれこれのお願いをするために、彼らの所に足繫(あししげ)く通う、などということはしない方がよい。そんなことをすれば「また君か」と思われ、貴方の姿を見ただけで、彼らは逃げ出してしまう。むしろ、彼らの方から貴方に会いに来るように仕向けることだ。彼らの前に、あまりに自分の姿を現してはならない。もちろん、貴方の意図するところが何であるかが読みとられてしまってはならない。また、いかにも無理をして姿を現さないでいる、と思われてもならない。
(クニッゲはケツ社員の活動において、できるだけ相手の方から会いに来るようにしてきたんだろうな)
第六章 市民社会における様々な身分、職業の人々との交際
第六章
p.571から
八 ユダヤ人について。および、彼らとの付き合い方。
ユダヤ人に対して我々がとるまったく無責任な軽蔑的態度。彼らが暮す国々の多くで彼らに加えられている圧迫。高利貸し以外に生計をたてる可能性が閉ざされていること。――こうしたことすべてが、彼らを道徳的に劣った者とし、彼らを卑劣な行為や詐欺に誘い込むことに少なからず寄与している。だが、こうした様々な事情にもかかわらず、彼らのなかには、高潔で善意があり、寛大な人間もいるのである。――
これらは、よく知られ、また、よく言われている事である。だが、ここでは、彼らが異なった環境に置かれたらどうなりうるかではなく、また彼ら一人一人がどのような人間なのかではなく、平均的に言って彼らの民族性は現時点ではどう判断せねばならないか、という点を考察することにしたい。
彼らは、利益を得られる所には、至る所に、飽くことなく存在している。
自分の利害がからむことについては、彼らは口が堅い。
ユダヤ人にとって、金銭を手放すことは、極度に困難なことである。
普通のユダヤ人と取り引きする際には、中味(原文ママ)をよく確かめるようお勧めする。
(クニッゲは、ユダヤ人を見下している感じだが、非常に敵対的とまではいかないな。
なのでユダヤ人嫌いの人ではなさそうだ。当時の人の中では、ユダヤ人に好意的な方の人なのだろうな)
第七章 様々な生き方や生業の人間との交際について
p.585から
四 神秘を利用する詐欺師、視霊者、錬金術師の類、および、現代の神秘主義信仰について。
カリオストロやサン・ジェルマンのような連中、また、シュレプファーとその同類から、かの哀れなマシウスに至るまで〔注〕、この種の山師が皆同じ一つの動機で動いていると断言する確信は、私にはない。
霊が見えようが、黄金を造り出せようが、そんなことを言う人間は放っておくがよい。反駁の余地なく明確に反論できるのでなければ、反論せぬがよい。習慣上認められているにすぎない前提に基いた証明では、説得されようという気のある人間しか説得できないからである。また、可能性を根拠として現実性を結論づけたり、道徳的な行為の拠り所を形而上学的な立脚点に求めてはならない。人間が多数の不可視の存在に囲まれている可能性について、論証によって納得することがあったとしても、行為において愚かであってはならない。目に見える生身の人間が、その行為を、現実に周囲に存在する実直な人間の作法に合わせるのではなく、周囲に存在するのかもしれない見えざる社会に合わせるとしたら、それはどう言ったところで、愚行に他ならない。
それゆえ、言葉においてにせよ行為においてにせよ、思弁よりも、有益な結果を生み出す活動の方に力を入れるがよい。そうすれば、神秘家の面々が我々の仲間となることは困難となるだろう。
だが、詐欺師、錬金術師、あるいは視霊者に付け入られて、彼らに一定の期間弄ばれることとなったらどうであろうか。――ああ。私以上にこの様な目にあった人間は果しているだろうか。こうした悪人の正体をついに見破ったなら、他にもいる実直で信じやすい人間に警告するためにも、ためらわず、その欺瞞を公にするがよい。たとえそれがあまりこちらの名誉とならないとしても、そうするのが義務であると考えるがよい。
〔注〕 いずれも、当時の山師、降神術師の類い。
(クニッゲはオカルトに否定的だな。啓蒙思想だもんな)
(第三部)
p.590から
第八章 秘密結社について、および、その成員との交際について
一 秘密結社は無益で有害である。
科学的な世紀たるこの十八世紀が没頭している有害あるいは無害な数多くの戯(ざ)れ事(ごと)の一つに、多種多様な秘密結社の大群がある。今日、どの身分の人間であれ、好奇心や活動への欲求、社交、あるいは知ったかぶりなどの動機で、少くとも一定期間、この種の結社の成員とならなかった者は希であろう。だが、ついに今や、無用で愚かしくもあり、また社会生活にとっても危険でもあるこの種の結社をやめにする時期が到来したのではあるまいか。私は、この種の事には、長すぎるぐらいの期間関わってきた。その経験からすれば、若者は、時間を大切に思うなら、どんな名前のものにせよ、秘密結社の成員にはならない方がよい、と言いたい。こうした結社は、全てが同程度にとは言わないが、いずれも例外なしに無益で危険である。
無益という理由は、まず第一に、我々の時代においては、どんなものにせよ重要な知識の
(ここからp.591)
伝達を秘密にくるむ必要はないからである。キリスト教は、きわめて明快で満足のゆくものであり、古代異教徒の民族宗教まがいの、秘教的解釈や顕教・密教の二元論などは不要である。また、学問においては、最新の発見は、世の福祉のために公表されている。否、専門知識を持つ誰もが吟味し、検証できるように、公表されねばならないし、されるべきなのである。ただし、いまだ暗黒と迷信が支配している幾つかの国々では、来たるべき日を期して待たなければならない。拙速は禁物である。中間の段階を飛び越そうとすると、しばしば、益よりも害がもたらされることとなる。個々人が啓蒙の時代の到来を早めようとしても、何の益も生まれない。またそれは、不可能なことでもある。もし可能であるとしても、それを公然と行うことが義務である。そうすれば、その国や他の国々の理性的な人間は、啓蒙主義者の活動や彼らが売り込もうとする知的商品の価値を判定できるようになる。彼らが説くものが本当に啓蒙なのか、ひょっとしたら彼らは、彼らが非難する相手以上にひどい貨幣を鋳造しているのではないか、ということを判別できるようになる。この点からいっても、彼らが公然と活動することは義務なのである。
第二に、秘密結社は、その有効性から言っても無益である。彼らの大部分は、瑣末な事やつまらない儀式に没頭し、その語る言葉は、様々な解釈が可能な比喩的な言語である。行動の計画は杜撰であり、成員の選択もいいかげんである。そのため、すぐに堕落が始まり、最初のうちこそその組織に一般社会より勝れた点もあったのかもしれないが、やがて、世の人
(ここからp.592)
が嘆くのと同様の、あるいはそれよりもっとひどい欠陥がはびこることとなるのである。何か偉大で有益なことを志すのであれば、一般社会や家庭生活のなかに、その機会――しかもまだ誰も十分に活用したことのない機会を数多く見出せるはずである。国家の認めない特殊で密かな活動の世界を創ることが許されるのは、公認の方途によって出来ることはもはや何も残されていないこと、善を熱心に実現しようとしても克服し難い障害に阻まれていることを証明してからである。善行に神秘的な外皮は無用である。友情は自由意志によるべきだし、秘密の手段によって社交性を促進する必要もない。
だがまた、秘密結社は、社会にとって有害なものでもある。その理由は、以下のようなものである。――隠れて行われることは、何であれ、疑われて当然である。社会を監督する者は、様々な人間が結束して行う活動の目的を知る権利がある。隠されたままであると、そのヴェールに隠れて、高潔な意図や賢明な知恵のなかに危険な計画や有害な思想が入り込んでくることとなる。きわめて美しい外観の陰に時に隠されているこうした危険な意図は、結社の成員ですら、必ずしも全員が知らされているわけではない。そんな苦しみに耐えられるのは、凡庸な人間だけである。ましな人間は、やがてやめてしまうか、破滅するか、あるいは堕落して誤まった方向に向うか、他人を犠牲にして支配権を握るかである。多くの場合、誰も知らない上層部が背後で糸を引いているが、自分が見通せない計画に従って活動せねばならないということは、思慮ある人間にはふさわしくないことである。計画が善いものであり
(ここからp.593)
重要であることを保証する人間を、我々は知ることができないのである。にもかかわらず、この人間に対しての責任は負わなければならない。かといって、彼らがこちらに責任を負ってくれるわけでもない。こちらが責任を負ったのに彼らが何もしてくれなくとも、訴える所もない。堕落した人間や悪人は、これを利用して、知られざる上層部を僭称し、私的な目的のために成員を悪用することとなる。人間誰しも情念を持っているが、それが結社のなかに持ち込まれると、秘密の仮面の陰に隠れて、日の光の下以上の勝手放題の跳梁を始めることにもなる。この種の結社は皆、成員の選択が知らぬ間に杜撰になることによって、こうした堕落に陥ってしまうのである。また、秘密結社には、金も暇も必要である。市民としてのまじめな仕事から外れて怠惰に陥るか、無目的の仕事に忙殺されるかになる。それはやがて、山師や無為の徒の溜まり場となり、ありとあらゆる政治的、宗教的、哲学的妄想の温床となる。坊主臭い党派性が根を張って、様々な害悪をもたらすことにもなる。――そして、最後に言っておきたい。秘密結社は、その成員でない――少くとも同じ党派の成員でない――善良な人間に対する不寛容と不正、策謀や争い、迫害のきっかけを生み出すのである。
以上が、秘密結社に関する私の信念の告白である。こうした様々な欠陥の多くを持たない秘密結社があるとしたら、それもよいだろう。例外もあるということである。だが、私の知る限りでは、これらの内の少くともいくつかの病いを持たない結社はないのである。
(p.593は終わり)
(ここからp.594)
二 秘密結社に関して用心すべきこと。
それゆえ、目下流行のこの愚行には手を出さぬよう、重ねて忠告しておきたい。秘密結社の組織、成員、動静にはできる限り気をとめないことである。彼らの書いた論争の書を読んで時間を空費しないことである。また、不愉快な目に会いたくなければ、この種のテーマを話す時には用心した方がよい。この種の組織の奥底は深く隠されていることが多いから、それについての判断は、肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、口に出さないことである。
三 秘密結社員としての振る舞い方。
だが、誤まった活動欲、知ったかぶり、好奇心、他人からの説得、虚栄心その他の動機にそそのかされて、この種の結社に入ることとなったらどうであろうか。――その時には、同様の愚行や妄想に冒されないよう、同様の党派(セクト)的精神に取り憑(つ)かれないよう、用心するしかない。偽装した悪人の傀儡とならぬよう、彼らの道具とならぬよう用心するがよい。子供ではないのだから、組織の全体についての明瞭な説明をあくまでも要求せねばならない。それが完全に分るまでは、他の人間をその結社に誘ってはならない。謎めかした外観、大げさな約束、人類の幸福のためと称する結構な計画、その意図の見かけだおしの純粋性、神聖性、無私に幻惑されてはならない。むしろ、行動による証しと全体の見通しを示すよう求めるがよい。その際に、まだお前はそれにふさわしくないとか、受けとめるまでに成長してはいないと非難されたなら、上層部が求める規準(原文ママ)が何なのかを説明させるがよい。そして、上層部から一切の虚飾を取り去ってなお残るもののうち、自分と比べて遜色のない価値のものとして何があるのかを、この規準に従って吟味してみるがよい。だが、どんなにもっともらしい理由が述べられようと、会ったこともない上層部に忠誠を誓うなどは論外である。また、どんな言葉にせよ、組織活動において書面に書くものには用心が必要である。誓いその他をして義務を引き受ける際はなおさらである。支払わされた金については、その使途の報告を求めるがよい。――だが、こうした幾重もの用心にもかかわらず、義務を果すのに疲れたなら、あるいは、組織の方から愛想をつかされたなら、争わずにひっそりと脱け出て、以後は二度とその事を話題にせぬことである。そうすれば、どんな迫害も受けずに済むはずである。それでもなお、組織の方がうるさく言ってきたら、他の人々に警告を発するためにも、ためらわずに、その欺瞞や愚かさ、邪悪さを公の場で衆人の前に明らかにするがよい。
[
極めて重要なので、上記の秘密結社の箇所は全文をメモした。
「不愉快な目に会いたくなければ」の「会」は原文ママ。会(原文ママ)って書くと読むのに邪魔だからやめた。「不愉快な目に遭」ではなく「会」は原文準拠だと書いておかないと、私の写し間違いだと思われてしまうかもしれない。上記の秘密結社の箇所は、通常のメモよりもしっかりと誤字がないか確認した。
秘密結社への見解の箇所が、本書で最も読みたかった箇所だ。
インゴルシュタットの一教授(ヴァイスハウプト)に学生扱いされるつもりはないクニッゲは、最終的にボーデの仲介を経て 1784 年7月1日付で正式に啓明結社を脱退した。
クニッゲはその後、秘密結社の有益性を否定したりした。
が、公的宣言したのに、クニッゲは秘密結社と関わり続ける。
『人間交際術』が出版された 1788年に、クニッゲはすでに次なる秘密結社活動の場を求めてカール・フリードリヒ・バールトの「ドイツ同盟」との接触を開始する(出典後述)。
クニッゲは元祖イルミナティを脱会した後に、『人間交際術』で秘密結社を批判したが、秘密結社活動は諦めていない。理想の秘密結社を作りたい情熱はずっとある人だったのだろう。
つまり、『人間交際術』には保身の目的もあるということなので、文字通りに受け取ってはいけないのだろうな。秘密結社叩きには本音と、保身用の個所が混ざっているのだろうな。
「こうした様々な欠陥の多くを持たない秘密結社があるとしたら、それもよいだろう。例外もあるということである。だが、私の知る限りでは、これらの内の少くともいくつかの病いを持たない結社はないのである」なので、病いを持たない結社を諦めてなかったのだろうな。「例外」を諦めてなかったのだろう。
]
(講談社学術文庫版のメモは終わり。ワクワクさんに感謝。
次が、イースト・プレス版『人間交際術』)
イースト・プレス版『人間交際術』
2010年6月12日 第1刷発行
イースト・プレス版『人間交際術』を読むきっかけ↓
https://x.com/uxskf/status/1820103128810967146
”
”
[画像は
p.110から
宗教心には寛大に接する
多くの信者が大切にしている宗教的儀式や、いくつかの宗派が信仰の実体とみなしている慣習を、人前でこきおろすのも無作法です。人が崇拝しているものは尊重すべきですし、あなたが求める自由なら、仲間が享受するのも認めましょう。私たちが啓蒙と思っているものも、他人の目には暗愚と映っているかもしれません。このことを心に留めておきましょう。たとえ偏見であっても、心の弱い人たちがそれで安らぎを得るなら、寛大な目で見てあげましょう。人から何かを取り上げるなら、それ以上に価値のあるものを与えるべきです。あざけりでは人を屈服させることはできないことを、忘れないでください。
]
(上記の続き:)
[
パリオリンピックの開会式のことだ。
画像1は
p.70から
人を笑い者にしない
人が集まっている場では、たとえ相手がどんなに欠点だらけの人物であろうと、決して笑い者にしてはいけません。相手が愚鈍な人間であれば、そんな人に皮肉の刃を向けたところで、誰も褒めてはくれません。さらに、万が一相手が思ったほど愚かな人間でなかったら、あなたが物笑いの種にされてしまいます。もし相手が高潔で繊細な心の持ち主だったら、あなたはそんな人を傷つけてしまうことになります。よこしまで執念深い相手だったら、遅かれ早かれ、復讐をしかけてくるでしょう。他人のことをとやかく言っても世間が何も言わないなら、私たちは平気で人前で善良な市民を笑い者にして傷つけることでしょう。そして、人の欠点を暴露して嘲笑の的にして不名誉な思いをさせ、弱い人を落ちこませて野心の炎を消したり、芽を出しかけた才能をつんでしまうことでしょう。
画像2は
p.232から
無神論者
宗教において一般に理神論者(*訳注…理神論とは、神を世界の創造者としては認めるが、人格的存在としては認めず、預言・奇跡・啓示は否定する学説)、無神論者、涜神(とくしん)家と呼ばれる人たちは、その対極にいる熱心な信仰者ほど寛容ではありません。なぜなら、この人たちは本質的な幸福や、生と死についての強力な救いを知らないからです。ただし、彼らが人として、市民としての義務を最大限に果たし、他人の信仰を邪魔しないなら、私たちは同情どころか、敬愛のまなざしを向けなければなりません。しかし、考え方が屈折しているためでなく精神の堕落から涜神家となった人、あるいは宗教を軽視するふりをして人に改宗を説いてまわる人、自分と考え方の違う人はすべて迫害し、軽蔑し、非難し、偽善者の焼印を押す人――こうした下劣な輩は、軽蔑してしかるべきです。
(本書は、読者視点で右側のページに題名があり、左側に文章がある形式。
なので、p.232では「無神論者」とのみ書いている。
文章はp.233に書いている)
]
https://x.com/uxskf/status/1820113601656766926 と続き
”
”
[画像1
p,26から
人の失敗を吹聴しない
人をダシにして自分の評価を上げようという卑劣な魂胆で、他人の欠点を吹聴してはいけません。また、自分が注目を浴びたいがために、人の失敗を暴露するのもやめましょう。
画像2
p.84から
うわさ話を広めない
人のうわさを広めるのは、できるだけ避けましょう。とくに、当人の印象が悪くなるような話はすべきではありませんし、人から聞いたうわさならなおさらです。くだらない作り話である場合が多いですし、人から人へと伝わっていくうちに、誇張されたり削られたりして、元々の話とは違ったものになっていることもよくあります。こうしたうわさを流すと、罪のない立派な人をひどく傷つけることになりますし、何よりも自分が窮地に立たされてしまいます。
画像3
p.82から
軽蔑されないために
会話を面白くしようとして、中傷、あざけり、陰口を交えたり、野次という卑しむべき慣習を使ったりするのはやめておきましょう。こうしたことを喜ぶ人種もたまにはいますが、他人あるいは真実を犠牲にしてまで座を盛り上げようとする人は、最終的には遠ざけられ、軽蔑されます。それは自業自得というものです。情と分別のある人なら、他人の失敗を目にしても何も言いません。悪気のない、ほんのからかいのつもりで口にしたひと言でも、どれほど人を傷つけるかをよくわかっているのです。そんな人は、もっと内容のある有益な会話を切に望んでいて、くだらないことを言い立てる輩には我慢ができません。
画像4
p.114から
人の容姿を小ばかにしない
他人の肉体的、知的、精神的欠陥を話題にしたり、特定の主義主張を小ばかにしたような逸話を紹介したり、ある階級の人々を非難したりする場合は、まず、それによって感情を害したり、その非難やあざけりが自分や自分の親族、友人に向けられたものと感じたりする人が、その場に一人もいないかどうかを確認しなくてはいけません。
人の容姿、体形、顔立ちを嘲笑してはいけません。誰にもそれを変える力は備わっていないのです。
不運にも人目に立つ容姿を持つ人にとって、それが人の嘲笑や驚きの対象となっていると気づくことほど、悲しく、つらく、不快なことはありません。世間を広く知り、さまざまな外見を持つ人々を見てきた人なら、言われるまでもないことでしょうが。
]
[画像1
p.72から
悪い冗談は言わない
たとえ親しい友であっても、にせの情報や下手な冗談などで脅かしたりからかったりして、一瞬でも不快な気分や不安にさせるのはよくありません。この世界には、ただでさえ不愉快で不安に満ちた、気が滅入るような瞬間が多いのですから、現実のものであれ架空のものであれ、わざわざそんな話をして、不快指数をわずかでも上げるのは避けましょう。それが友人としての務めです。また、浮かれた気分で面白おかしく作り話をして、友人につかの間の快楽を与えるのも、分別のない行動です。楽しいはずの社交上の会話に趣を添えるどころか、苦々しいものにしてしまうのは、むごい仕打ちだとさえ言えます。また、みだりに好奇心をかき立てたり、何か言いかけては途中でやめて、相手を不快な気分にさせたりするのも非常識です。最後まで話すつもりがないなら、初めから口をつぐんでいるほうがよほどましです。
画像2
p.116から
苦痛ではなく楽しみを与える
会話の相手に、必要もないのに不愉快なことを思い出させることがないよう気をつけましょう。不謹慎な関心に駆り立てられて、何の援助もできないくせに、相手の経済状態などデリカシーに欠ける質問をしてくる人が結構います。その結果、愉快な気分になろうと思って参加した集まりのなかで、忘れたい問題を思いめぐらすことになってしまいます。話しかけた相手が苦痛や悲しみを強めることなく、むしろ心が休まり、元気づけられるという確信もないのに、こうした話題を持ち出すのは、きわめて無作法で、不謹慎で、思いやりのない行為です。
画像3
p.152から
人は行動によって判断する
人は言葉ではなく、行動によって判断しなさい。観察するのは、相手がそれに気づいていないときにしましょう。
食べ物や飲み物の好みも調べなさい。シンプルな料理をたっぷり食べるのか、それとも味の濃い、手の込んだ料理が好みでしょうか。歩く様子も観察しなさい。一人で歩くのか、それとも誰かの腕にすがって歩くか。まっすぐ歩いているか、それとも連れのほうへよろめいたり、人にぶつかったり、足を踏んづけたりしているか。なぞめいた行動が好きで、よく人を脇へ呼んで、その耳に何ごとかささやいていたりしませんか。その場で検討されたことは、何でも自分が決めないと気がすまない【たち】でしょうか。また、筆跡にもその人の性格がにじみ出るものです。
このように、人を注意深く観察してみるのはいいことです。しかし、こうしたいくつかの特徴だけで、その人の全人格を判断するのは公正とは言えません。
(【 】は傍点の代役)
]
ゆーちゃん
@yamyam113_
おはようございます🌞これは何の書籍ですか!
知りたいです。教えてください〜
さらに表示
午前7:31 · 2024年8月5日
·
152
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
イーストプレスのクニッゲ 人間交際術です
午前7:32 · 2024年8月5日
·
660
件の表示
ーーーー
https://x.com/uxskf/status/1820226478556262641
”ワクワクさん
@uxskf
下にぽちぽち画像載せたのはイーストプレスのクニッゲ人間交際術本
一番読みやすいしまずこれ読むと良いよ
ただ秘密結社関係や宮廷関係が現代ではあまり意味がないってカットされてるから講談社のもあわせてどうぞ
巷の品格本なんか読むよりタメになる
午前7:33 · 2024年8月5日
·
2,762
件の表示”
(講談社学術文庫版よりは読みやすい。ただし、内容が省略されている。秘密結社の個所が省かれている。
本ブログや、私の呟きや、ご支援用記事の読者なら、ケツ社の個所を読みたい人が多そう。
なので、本記事の講談社学術文庫版の解説と、クニッゲの秘密結社についての記述の個所や、講談社学術文庫版とイースト・プレス版の比較の個所を読んで決めたらいいと思う)
https://x.com/uxskf/status/1820226974134259995 と続き
”ワクワクさん
@uxskf
イルミナティ流人間交際術を学ぼうという事で読んでみるのもアリなんじゃないかな
一応言っとくけど怪しい陰謀の要素とか全くないよ
ただのイルミナティ流処世術の本
実際役に立つというかそうだよなという内容も多い
クニッゲが有能なのがよく分かる
午前7:35 · 2024年8月5日
·
2,336
件の表示
これで実際に一気にイルミナティを巨大組織にしちゃったからね
現代でも使えると思うよ
午前7:38 · 2024年8月5日
·
824
件の表示
イルミナティ流女性や友達の付き合い方とか普通に面白い
怒りっぽい、野心家、気が弱いとかのタイプ別の人間への対処法とかもあるよ
午前7:43 · 2024年8月5日
·
905
件の表示
Shiro Usagi
@znTqdOXhnfi4FHw
怒りっぽい人、野心家対処法は面白そうですね
本の名前教えてもらってもいいですか?
午前10:55 · 2024年8月5日
·
113
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
これ
画像
午後4:16 · 2024年8月5日
·
318
件の表示
(イースト・プレス版の人間交際術の表紙の画像)
https://x.com/uxskf/status/1824397770066887155
”ワクワクさん
@uxskf
ブラバッキーのアセンション本やヴァイスハウプトのオカルト批判本より
クニッゲのコミュニケーション本の方が圧倒的に役に立つんだよなぁ笑
午後7:48 · 2024年8月16日
·
1,119
件の表示
”
書籍詳細 - 人間交際術|イースト・プレス
https://www.eastpress.co.jp/goods/detail/9784781603896
”“智恵の贈り物シリーズ”
ヨーロッパで百年以上、読み継がれてきた本書が、あなたの人づきあいを楽しく愉快で負担のないものにすることでしょう。
【著者紹介】
アドルフ・F・V・クニッゲ(Adolph F.V.Knigge(1752-1796))
ドイツの作家。1752年に貴族の父の家に生まれ、19歳でカッセルにあるヘッセン方伯の宮廷に奉職する。ここで君主フリードリヒに認められて、事業経営や農業教会の設立など若くして活躍。ハーナウの宮廷へ移り、1780年には宮廷から身を引く。その後、クニッゲは流行作家として名を馳せる。
著作に『わが生涯のロマン』『魔の城』『ブラウンシュヴァイクへの旅』など。なかでも『人間交際術』は処世術の書としてだけでなく、哲学書としても読み継がれている。森鴎外が本書をもとにして著書『森鴎外の「知恵袋」』を発表するなど、国内外へ強い影響カを誇る。
服部千佳子(はっとり・ちかこ)
同志社大学文学部卒。翻訳家。訳書に『ウィキッド』(ソフトバンククリエイティブ)、『虚妄の帝国の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『リーダーになったら悪口は家のネコに話せ!』(中経 出版)、『毎日をいい気分で生きる小さなノート』(三笠書房)などがある。
”
智恵の贈り物……って元祖イルミナティすぎる(笑)(啓蒙主義なので)。
森鴎外も影響を受けたんだよな、元祖イルミナティのクニッゲに。
イースト・プレス版『人間交際術』
はじめに
p.3
『人間交際術』の原書では、現代人は使わないであろう宮廷での交際術も多分に含んでいました。というのも、これが「あらゆる人間同士の交際についての規則」だからです。本書では現在、不要であると思われるこれらの箇所を削ぎ落し、現代における「あらゆる人間同士の交際についての規則」として編纂しました。
(なのでかなり省略されているから、本書がクニッゲの意見だと受け取るのは危ない)
第1章
人づきあいが楽になる智恵
他人の評価を気にしすぎない
人を信じる
〝おかげ様〟だと考える
自分の苦境を訴えない
成功を見せびらかさない
p,26から
人の失敗を吹聴しない
人をダシにして自分の評価を上げようという卑劣な魂胆で、他人の欠点を吹聴してはいけません。また、自分が注目を浴びたいがために、人の失敗を暴露するのもやめましょう。
目立たないで、相手を立てる
相手の話とのつきあい方
冷静沈着であれ
ときには頭を下げる
人はなるべく頼らない
自立するために欲望を抑える
親切は熟慮のうえで
約束は守る。これさえ守れば尊敬される
自分に厳しくあれ
p.46から
人に関心を持つ
自分に関心を持ってほしいなら、まずあなたが人に関心を持ちなさい、仲間意識を持たず、友情、思いやり、愛情に欠け、自分のことしか考えずに生きている人は、援助してほしいと思うときがきても、誰も手を差し伸べてくれず、自分で何とかするしかありません。
p.48から
もめごとは自分で解決する
個人的なもめごとに、人を巻きこんではいけません。誰かと敵対関係にあるとき、知り合いに自分の味方をしてほしいと頼むのはやめましょう。
こうしたルールの多くは、この古い格言に言い表されています。「絶えず人の立場に立って想像力をはたらかせ、自分の胸にこう尋ねなさい。『もし自分がこんな要求をされたら、こんな扱いを受けたら、こんな面倒を押しつけられたら――こんな場合、人からどんな援助や説明をしてもらったらうれしいだろう』と」
(何でもかんでも自分だけで解決しようとするのは駄目だけどね。上手に人に頼るのも大事だよ)
他人の行動は〝どうでもいいこと〟
信条は曲げない
言動は首尾一貫させる
良心に従う
気分屋にならない
気分屋に深入りしない
人づきあいに〝差〟をつける
自分が完璧だという顔はしない
第2章
自分も周りも愉快になる会話
洗いざらい話さない
p.70から
人を笑い者にしない
人が集まっている場では、たとえ相手がどんなに欠点だらけの人物であろうと、決して笑い者にしてはいけません。相手が愚鈍な人間であれば、そんな人に皮肉の刃を向けたところで、誰も褒めてはくれません。さらに、万が一相手が思ったほど愚かな人間でなかったら、あなたが物笑いの種にされてしまいます。もし相手が高潔で繊細な心の持ち主だったら、あなたはそんな人を傷つけてしまうことになります。よこしまで執念深い相手だったら、遅かれ早かれ、復讐をしかけてくるでしょう。他人のことをとやかく言っても世間が何も言わないなら、私たちは平気で人前で善良な市民を笑い者にして傷つけることでしょう。そして、人の欠点を暴露して嘲笑の的にして不名誉な思いをさせ、弱い人を落ちこませて野心の炎を消したり、芽を出しかけた才能をつんでしまうことでしょう。
p.72から
悪い冗談は言わない
たとえ親しい友であっても、にせの情報や下手な冗談などで脅かしたりからかったりして、一瞬でも不快な気分や不安にさせるのはよくありません。この世界には、ただでさえ不愉快で不安に満ちた、気が滅入るような瞬間が多いのですから、現実のものであれ架空のものであれ、わざわざそんな話をして、不快指数をわずかでも上げるのは避けましょう。それが友人としての務めです。また、浮かれた気分で面白おかしく作り話をして、友人につかの間の快楽を与えるのも、分別のない行動です。楽しいはずの社交上の会話に趣を添えるどころか、苦々しいものにしてしまうのは、むごい仕打ちだとさえ言えます。また、みだりに好奇心をかき立てたり、何か言いかけては途中でやめて、相手を不快な気分にさせたりするのも非常識です。最後まで話すつもりがないなら、初めから口をつぐんでいるほうがよほどましです。
愉快な気分で
穏やかな表情で
気の利かせ方
適切なお世辞
p.82から
軽蔑されないために
会話を面白くしようとして、中傷、あざけり、陰口を交えたり、野次という卑しむべき慣習を使ったりするのはやめておきましょう。こうしたことを喜ぶ人種もたまにはいますが、他人あるいは真実を犠牲にしてまで座を盛り上げようとする人は、最終的には遠ざけられ、軽蔑されます。それは自業自得というものです。情と分別のある人なら、他人の失敗を目にしても何も言いません。悪気のない、ほんのからかいのつもりで口にしたひと言でも、どれほど人を傷つけるかをよくわかっているのです。そんな人は、もっと内容のある有益な会話を切に望んでいて、くだらないことを言い立てる輩には我慢ができません。
p.84から
うわさ話を広めない
人のうわさを広めるのは、できるだけ避けましょう。とくに、当人の印象が悪くなるような話はすべきではありませんし、人から聞いたうわさならなおさらです。くだらない作り話である場合が多いですし、人から人へと伝わっていくうちに、誇張されたり削られたりして、元々の話とは違ったものになっていることもよくあります。こうしたうわさを流すと、罪のない立派な人をひどく傷つけることになりますし、何よりも自分が窮地に立たされてしまいます。
他人の家庭に意見しない
p.88から
反論する際の心得
人の意見に反論したり、非難したりするときは十分注意しなさい。この世界では、ほとんどのことが二つ以上の面を持っているので、先入観を持ってしまうと、賢明な人でも判断力が鈍り、他人の状況を公正に見ることが難しくなります。また、どんなに謙虚に考えても、批判の対象である人より自分のほうが賢明だと思えない限り、分別ある人の行動を軽率に判断しないよう、とくに注意しましょう。
人への批判を口にする前に、「この人はどんな善行をしているのだろう。みなの役に立つ人だろうか」と考えてみるといいでしょう。そして、もし役に立っているなら、勇み足でちょっと失敗をしたくらいは大目に見てあげなさい。どうせ本人以外に被害は及んでいないでしょうし、及んでいたとしても、その場限りの取るに足らないものでしょうから。
[
講談社文庫版だと:
p.102から
二十 非難や反論をするときには慎重に。
非難したり、反論したりする時には、慎重さを失ってはならない。二つの面を持たないような事柄は、この世には少ないのである。先入観は、しばしば、賢明な人間の目を曇らせる。他人の立場になって考慮するということは、きわめて難しいことだ。とりわけ聡明な人間が行なっていることを判断するときには、性急になってはならない。どれほど貴方に謙虚さがあるとしても、性急に判断を下してしまっては、貴方は当の聡明な人間よりも自分の方が賢いと、思い違いをしてしまうかも知れないのである。このような思い込みは、不適当な場合が多い。聡明な人間は、多くの場合、他の人よりも活気がある。不正をゆるさぬ烈しい感情を持ち、大衆の判断を気にすることがない。自分の良心の正しさを証明するとき、何か大きな権威の力を借りようなどとは思わない。いずれにしても、聡明な人については、「あの男は、他人のためになるようなことを何かしているか」と問うてみるだけでよい。彼が他人の役に立つようなことをしているのであれば、少々、情に駆られた行動をとったとしても善行に免じて忘れてやることだ。なぜなら、このような欠点は、ただ単に彼本人にのみ迷惑がかかるという程度のものだろうし、そうでないとしても、せいぜいのところ、すぐに消えてしまうような些細な害悪しかもたらさぬものであるからだ。
他人の善行の動機を、あれやこれやとでしゃばって憶測しようとしてはならない。そのようなことをすれば、ひょっとすると今度は、貴方自身の立派な行為の多くが、疑いの目で見られ、ちっぽけなものと見られるかも知れない。およそ善行というものは、どのような結果をもたらすのかという面で、世間から判断されるものだ。
(なのでかなり省略されていると分かる)
]
p.90から
言葉や知識は小出しにする
長々と退屈な話をして、聞き手をうんざりさせてはいけません。格言や警句を連発するのも、ひと言ひと言を慎重に吟味するのも困りものですが、会話にはある程度の簡明さが必要です。たとえば、少ない言葉で多くを語り、枝葉末節は省略して聞き手の集中をそらさず、また折を見てその部分を取り上げて、面白おかしく話して聞かせる力量こそ、本当の話し上手というものでしょう。
あまり長々としゃべるのはよくありません。話の種がすぐに尽きてしまわないように、言葉や知識は小出しにしましょう。そうすれば、話すべきでないことや、話すつもりではなかったことを、うっかり口に出さないですみます。他のメンバーにもどんどん発言してもらって、会話を和気あいあいとしたものにしましょう。
[
講談社文庫版の対応する箇所だともっと長い。
しかも、題名は、
「二十一 しゃべりすぎないように、また退屈させないように」(p.104)なので題名も原著に忠実ではない。
原著にこのような見出しがあるのかどうかについては、講談社文庫版の解説にて
「一、各項目は、原著本文中において番号だけが与えられていて、項目の表題が示されているのは目次においてのみである。本訳書では、読者の便をはかって、本文中に表題を示した。 」
とあるので、見出し(表題)は原著にもある。
]
話題にすべきこととは
謙虚であれ
慎重さを持って断定する
同じ話を何度もしない
うわっつらで盛り上がらない
決まり文句は控える
質問攻めにしない
反論されても冷静に
話題は場所をわきまえて
p.110から
宗教心には寛大に接する
多くの信者が大切にしている宗教的儀式や、いくつかの宗派が信仰の実体とみなしている慣習を、人前でこきおろすのも無作法です。人が崇拝しているものは尊重すべきですし、あなたが求める自由なら、仲間が享受するのも認めましょう。私たちが啓蒙と思っているものも、他人の目には暗愚と映っているかもしれません。このことを心に留めておきましょう。たとえ偏見であっても、心の弱い人たちがそれで安らぎを得るなら、寛大な目で見てあげましょう。人から何かを取り上げるなら、それ以上に価値のあるものを与えるべきです。あざけりでは人を屈服させることはできないことを、忘れないでください。
宗教的な話題の取り扱い方
p.114から
人の容姿を小ばかにしない
他人の肉体的、知的、精神的欠陥を話題にしたり、特定の主義主張を小ばかにしたような逸話を紹介したり、ある階級の人々を非難したりする場合は、まず、それによって感情を害したり、その非難やあざけりが自分や自分の親族、友人に向けられたものと感じたりする人が、その場に一人もいないかどうかを確認しなくてはいけません。
人の容姿、体形、顔立ちを嘲笑してはいけません。誰にもそれを変える力は備わっていないのです。
不運にも人目に立つ容姿を持つ人にとって、それが人の嘲笑や驚きの対象となっていると気づくことほど、悲しく、つらく、不快なことはありません。世間を広く知り、さまざまな外見を持つ人々を見てきた人なら、言われるまでもないことでしょうが。
p.116から
苦痛ではなく楽しみを与える
会話の相手に、必要もないのに不愉快なことを思い出させることがないよう気をつけましょう。不謹慎な関心に駆り立てられて、何の援助もできないくせに、相手の経済状態などデリカシーに欠ける質問をしてくる人が結構います。その結果、愉快な気分になろうと思って参加した集まりのなかで、忘れたい問題を思いめぐらすことになってしまいます。話しかけた相手が苦痛や悲しみを強めることなく、むしろ心が休まり、元気づけられるという確信もないのに、こうした話題を持ち出すのは、きわめて無作法で、不謹慎で、思いやりのない行為です。
辱めには同調しない
p.120から
口は慎むべき
自分自身や他人の秘密を口外するという軽率な行動が、多大な害悪をもたらしているのは間違いありません。それとは別に、とくに秘密というわけでなくても、口外しないほうがよいこともたくさんあります。話したところで誰の役にも立たず、下手をすると誰かを傷つける可能性があるからです。という訳で、口は慎むべきではあるのですが、いきすぎた秘密主義に堕すのもばかげています。
(元祖イルミナティの秘密結社員でしかも重鎮だったので重みが違うな)
自分をよく研究し、改善する
さりげなく気遣う
相手の話がつまらなかったら
第3章
一歩抜きん出る人づきあいの秘訣
なじみのない雰囲気に自分を合わせる才を持つ
過大な自尊心は捨てる
中心にいようとせず、期待を少なくする
服装は身分相応のものを
「もっと会いたい」と思われるように
他人との間に距離をおく
どんな会話からでも学ぶ
自分より賢明な人とよく話す
手紙を送る
手紙を受け取る
他人による他人の評価はあてにならない
p.152から
人は行動によって判断する
人は言葉ではなく、行動によって判断しなさい。観察するのは、相手がそれに気づいていないときにしましょう。
食べ物や飲み物の好みも調べなさい。シンプルな料理をたっぷり食べるのか、それとも味の濃い、手の込んだ料理が好みでしょうか。歩く様子も観察しなさい。一人で歩くのか、それとも誰かの腕にすがって歩くか。まっすぐ歩いているか、それとも連れのほうへよろめいたり、人にぶつかったり、足を踏んづけたりしているか。なぞめいた行動が好きで、よく人を脇へ呼んで、その耳に何ごとかささやいていたりしませんか。その場で検討されたことは、何でも自分が決めないと気がすまない【たち】でしょうか。また、筆跡にもその人の性格がにじみ出るものです。
このように、人を注意深く観察してみるのはいいことです。しかし、こうしたいくつかの特徴だけで、その人の全人格を判断するのは公正とは言えません。
(【 】は傍点の代役)
p154から
自分自身と対話する
自分自身に対して果たすべき義務は最も重要であり、自分自身との対話は、無用でもなければ、面白味のないものでもありません。自分とのつきあいを軽視し、いつも外をうろついて他人とばかりつきあい、自分から目をそらし、自己を磨こうともせず、それでいて他人の問題には絶えず口を出すというのは、許しがたいことです。
家の外のことばかりにかまけていると、家庭内で居場所がなくなってしまいます。気晴らしばかりしていると、自分の心がわからなくなってしまいます。そうなるとすっかり自負心を失い、たとえ自分と向き合う機会がおとずれたとしてもただ悲嘆にくれるしかありません。自分をおだて、いい気分にさせてくれる仲間としかつきあわない人は、真実の声を避けるようになり、ついには自分の心が発する声にも耳をふさぎます。それでも良心の叱責がつづくと、ありがたい忠告の声をかき消すために、世間の雑踏に逃げこんでしまうのです。
p156から
自分自身を大切にする
あなたにとって最も誠実な友である自分自身を軽んじてはいけません。さもないと、最も必要とするときに、背を向けられてしまいます。世界中の人から見捨てられても自分だけは自分を見捨てるわけにいかないときが、自分との対話だけが慰めになる日がいつかやってくるでしょう。そんなとき自分の心と不仲になっていたら、最後のそして唯一の友である自分からも慰めや援助を一切得られないとしたら、どうするつもりですか?
p.158から
自分自身に誠実であれ
もし自分との対話に慰め、幸福、平安を見出したいと願うなら、他人とつきあうときと同じくらい、自分自身に思慮分別、誠実さ、礼儀、公正さを示しなさい。自分を軽んじて憤慨させたり、落ちこませたり、お世辞を言って心を腐敗させたりしてはいけません。
心と体の健康に気を配る
自分自身を尊敬する
自分の長所を自覚する
p.166から
自分自身が好ましい伴侶となる
自分自身にとって、好ましい伴侶になりなさい。ずっとほったらかしではいけませんが、頭のなかに蓄積した知識に頼ってばかりいるのもよくありません。つねに書物や人から、新しい知識を仕入れましょう。気に入った考えばかり巡らしていると、自分に対しても他人に対しても、きわめて退屈な人間になってしまいます。そして、自分がいつも考えていることと異なる意見を拒絶することに、あっというまに慣れてしまうのです。
自分に対して厳しくする
他人と自分を比べない
第4章
どんな人ともうまくつきあえるコツ
p.174から
尊大な人
尊大な気性の人は対応がきわめて難しく、有効的な社交の場にはまったく不向きです。いつでも中心人物でなければ気がすまず、どんな場合でも同調を求めます。自分が指図しなかったことは、気に入らないだけでなく、破壊できるものは破壊してしまいます。しかし、いったん自分が先頭に立つと、あるいは少なくともそう思いこむと、あくなき情熱を持って事に当たり、途中に立ちはだかる困難をすべて克服します。尊大な人間が二人、同じ目的を達成するために手を組むと、ろくなことにはなりません。内なる激情に駆り立てられ、自分の邪魔をするものはすべてぶち壊すからです。ですから、こうした人が集まる社会で暮らさねばならなくなったとき、どう振る舞えばよいかはすぐわかるでしょう。
p.176から
野心家
野心家の場合も、尊大な人と同じくらい慎重に対応しなければなりません。尊大な人の多くは野心的でもあるのですが、野心的な人がすべて尊大な気性を持っているとは限りません。それで有能な人間だと思われるなら、従属的な役割を演じても満足しますし、屈服することに誇りを感じる場合もあるようです。しかしながら、人からこの弱点を突かれると、手がつけられないほど激怒します。
虚栄心の強い人
傲慢な人
神経質な人
強情な人
けんか腰の人
p.188から
怒りっぽい人
怒りっぽい人は、故意に人に不快感を与えるわけではありません。みずからの激情をコントロールできず、しばしばカッとなって我を忘れ、大切な親友でさえ傷つけてしまうのです。あとで自分の軽率さを悔いても、どうにもなりません。
もし相手に他の長所があって、機嫌を取るだけの価値があるなら、思慮深く話を聞き、穏やかに応対してあげなさい。それが理性を取り戻させる唯一の方法です。ただし、やる気のない冷淡な態度で応対すると、どれほど激しく反駁するよりも、相手の怒りに火を注ぐことになります。馬鹿にされていると思って、相手はさらに逆上するでしょう。
執念深い人
怠惰で無気力な人
社交的ではない人
嫉妬深い人
けちな人、浪費家
恩知らずな人
p.202から
陰謀好きの人
策略や陰謀をめぐらす人間に対しては、つねに率直で寛大な態度でつきあいなさい。そして、自分は策略、陰謀、欺瞞と名のつくものは一切、断固として憎むという意志を言葉と行動で示すのです。あなたによからぬたくらみをしたならどれほど損をすることになるか、思い知らせてやりましょう。
あなたをあざむくようなことがあれば、その不誠実さをいい加減なことですませてはいけません。相手が悪の第一歩を踏み出したところで最大限の憤(いきどお)りをあらわにしましょう。しかし、こうして手を尽くしても、彼らが更正せず、あなたをあざむきつづけるなら、一番いい対処法は、彼らに軽蔑という罰を与え、完全に改心するまでその言動の一切を信用しないと伝えることです。ただし、いったん策略をめぐらせたり、ひねくれた方法で人とつきあったりする習性が身についてしまった人が、まっとうな道に戻ってくることはまずありません。
ここで述べたルールは、うそつきとのつきあい方にも当てはまります。
(元祖イルミナティの重鎮だった人が言うと重みがある)
p.204から
ほら吹き
ほら吹きは、作り話をしたり、事実を誇張したりしますが、それはひとえに自分をよく見せたい、人から注目され評価されたいという思いからです。そして、真実を犠牲にしてでも、出来事や逸話や文章を、装飾したり誇張したりする習慣がいったん身につくと、自分のほらや自慢話を自分で信じこみ、すべてのことを拡大鏡を通して見るようになります。
あまりに誇張が過ぎるようであれば、ささいなほころびを捕まえて質問攻めにし、相手が自分で張った網に自分でかかるように仕向けましょう。すると、相手はにっちもさっちもいかなくなり、赤面するしかありません。あるいは、相手がほら話をするたびに、さらに輪をかけたこっけいなほら話を返して、そんな話を真に受けるほどバカではないとわからせてやるか、相手がほら話をはじめたら、さっさと会話を切り上げるのもいいでしょう。そういうことが度重なると、相手も気をつけるようになるはずです。
厚かましい人
悪党
小心者
軽率でおしゃべりな人
詮索好きな人
注意力が散漫な人
変人
気まぐれな人
p.222から
気が弱い人
性格はいいのに気が弱い人とつきあう場合、その人の周りには弱い者いじめをせず、意地悪な行為を評価しない、善意の人々が集まるように気を配りましょう。
何か頼まれたら、面と向かって断ることができない人がいます。また、あまりに人がいいために、誰でも信用して損をする人、一見誠実で親切そうな人なら誰かれかまわず真の友だと思いこむ人、あるいは、当然要求していい便宜が得られなくなるのに、何ごとも人に要求できない人がいます。
弱い者いじめはしてはなりません。要求する権利もないのに、気の弱い人から利益や贈り物や援助を取り上げてはいけません。また、他人が弱い者いじめをしないように気を配りなさい。臆病な人を励まし、力を貸してあげなさい。気が弱くて自分の権利を主張できない人の代弁者になってあげなさい。そういう人が助けを必要としていれば、いつでも応じてあげましょう。
皮肉屋
悪習にそまっている人
熱狂のうちにある人
偽善者
p.232から
無神論者
宗教において一般に理神論者(*訳注…理神論とは、神を世界の創造者としては認めるが、人格的存在としては認めず、預言・奇跡・啓示は否定する学説)、無神論者、涜神(とくしん)家と呼ばれる人たちは、その対極にいる熱心な信仰者ほど寛容ではありません。なぜなら、この人たちは本質的な幸福や、生と死についての強力な救いを知らないからです。ただし、彼らが人として、市民としての義務を最大限に果たし、他人の信仰を邪魔しないなら、私たちは同情どころか、敬愛のまなざしを向けなければなりません。しかし、考え方が屈折しているためでなく精神の堕落から涜神家となった人、あるいは宗教を軽視するふりをして人に改宗を説いてまわる人、自分と考え方の違う人はすべて迫害し、軽蔑し、非難し、偽善者の焼印を押す人――こうした下劣な輩は、軽蔑してしかるべきです。
(本書は、読者視点で右側のページに題名があり、左側に文章がある形式。
なので、p.232では「無神論者」とのみ書いている。
文章はp.233に書いている)
心を病む人
第5章
友人や家族、隣人、異性とのつきあい方
さまざまな世代の人とつきあう
無理して若づくりしない
老人を敬う
子供とのつきあい方
結婚相手は慎重に選ぶ
結婚相手とは価値観が違ってもいい
愛されるためにする努力
浮気されないために
浮気をしないために
相手の心を独占しない
夫と妻、どちらが裕福なほうがよいか
男女間の溝を埋める
恋人のことしか頭にない人
恋の喜びは口にしない
安易に結婚の約束はしない
離婚について
健康体
p.272から
服装で異性への印象は変わる
もう一つ言っておきたいのは、清潔で趣味のよい服装は女性に気に入られるための重要な要素だということです。女性たちはこの項目における手抜きをなかなか見逃してはくれません。
p.274から
女性を褒めるなら
自分には優れた才能があると自負している女性の前で、同じ才能を持つ他の女性をあまり褒めてはいけません。ライバル視している場合はなおさらです。
美貌、趣味、才能、その他何であれ、自分の長所を意識し、注目されたがっている人は、自分だけが称賛されたいという願望を持っていて、しかも、女性はとくにその傾向が強いです。
また、女性と話をしているとき、本人の子供であれ他人であれ、誰かに似ていると感じても、それを口にしてはいけません。
(男性も当てはまる内容だ。性別はあまり関係ないと思う。クニッゲが生きていた頃の、今でいうドイツ地域の女性は上記の傾向だったのかもしれない)
女性に花を
p.278から
秘密をあえて打ち明ける
女性の際立った特徴の一つに、好奇心が強いことがあります。女性とつきあうときはこれを念頭におき、必要に応じて好奇心をかきたて、楽しませ、満たしてあげるといいでしょう。女性の好奇心の強さは、まったく驚くばかりです。また、悪意や妬みからではないにしろ、他人の秘密を探ったり、隣人の行動を詮索したいという願望を持つ人も多いようです。チェスターフィールド卿(*訳注…一七世紀のイギリスの政治家・著述家)はこう言っています。「女性に取り入りたいと思うなら、秘密の一つも打ち明けるといい」。
(元祖イルミナティの重鎮だった人が言うと重みが違うな。
重大な秘密ではなく、漏れても別に良い秘密を打ち明ける方が良いだろうな)
勝ちを譲る
女性は本心を隠す
幼なじみ
友人は多くなくていい
友に敬意を払う
友人には不運を話さない
友人を励ます
偽装のないつきあい
友の友情を喜ぶ
p.298から
好意を押しつけない
必死になって人に友情を求めたり、いい人だと思ったら誰かれなしに好意を押しつけたりするのはよくありません。押しつけがましい態度を見せたら、相手の疑念を招くだけです。誠実さと分別が示す道をもくもくと歩み、慈悲深く思いやりのある心を持っていれば、人が放っておくはずがありません。遅かれ早かれ、その内面的な価値をわかってくれる、波長の合う友と出会うことができるでしょう。
友人がいない人
p.302から
家族間の誤解はすぐ解決する
同じ家に住んでいる人との間に誤解が生じたときは、すみやかに解決に向けて努力しなさい。分別のある人にとって、ひそかに反感を抱いている人と同じ屋根の下に暮らさねばならないことほど、苦痛なことはありません。
酔っぱらいとのつきあい
p.306から
アドバイスをする際に
誰かがあなたにアドバイスを求めてきたら、率直な意見を言っていいものかどうか、あるいは相手は本気であなたの意見を求めているのかどうか、よく見きわめないといけません。もし、すでに心を決めているくせにあなたの意見を求めたり、ただお世辞や褒め言葉がほしくて相談している場合は、きっぱり断るに越したことはありません。相談に乗ったためによけいな悩みを抱えこみたくないなら、あるいは恩を仇で返すような目に合いたくないなら、周囲の人々のことを十分に知っておく必要があります。
(「目に合い」は原文ママ。
クニッゲ存命の頃にも、すでに心を決めているくせに助言を求める人っていたんだね)
身分の高い人、金持ちについて
身分の高い人、金持ちとのつきあい
権力者のもとへ押しかけない
狭く厳しい道をいけ
能力を見せびらかさない
ふさわしい扱いを
嫌なことはきっぱり断る
威厳を保て
本とのつきあい方
[
イースト・プレス版『人間交際術』の備忘録は以上だ。
こちらの方が分かりやすい。が、講談社文庫版の方をお勧めする。本ブログの読者なら、クニッゲとケツ社の関係についての解説と、クニッゲ自身によるケツ社への言及に興味をお持ちだろうからだ。謀議追及的にも重要な箇所だから読んでおいた方が良いよ。
犬飼孝夫 INUKAI Takao
@takaoffice
「順風満帆なときも、それをあまり声高に話してはいけません。成功、富、才能を見せびらかすのはやめましょう。自分より優位にたっている人を、文句も言わず、嫉みもせずに受けいられる人はまずいません」 -- ドイツの作家:アドルフ・F・V・クニッゲ『人間交際術 (智恵の贈り物)』
さらに表示
午後1:41 · 2010年6月28日
犬飼孝夫 INUKAI Takao
@takaoffice
「人は相手が望んでいない親切や、自分が与えることができない奉仕なら大安売りするものです。浪費家は金銭を、能なしは助言を与えたがります」 -- ドイツの作家:アドルフ・F・V・クニッゲ『人間交際術 (智恵の贈り物)』
さらに表示
午後1:43 · 2010年6月28日
犬飼孝夫 INUKAI Takao
@takaoffice
「仲間の目にはあまりよくできた人だと写らないよう気をつけなさい。彼らはあなたに多くを求めるようになり、たった一度要求を断ったなら、たちまちそれまでに受けた数え切れない恩を忘れてしまうでしょう」 -- ドイツの作家:アドルフ・F・V・クニッゲ『人間交際術 (智恵の贈り物)』
さらに表示
午後1:42 · 2010年6月28日
nakai
@nnakai
アドルフ・F・V・クニッゲ「人間交際術」を読んでいるけれど、200年以上前に書かれた本なのに、一切古びていない…というか人間って全然進歩しないね。読んでいて感じたのは、「これ四コマ漫画付きで出したら売れるんじゃないか?」もしくは「もし女子高生が、うにゃうにゃ〜」なタイトルで。
午後9:07 · 2011年2月27日
ファウスト
@JAPANSHINEWORLD
副島隆彦『本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史』より
この秘密結社には、ヴァイスハウプト自身の他に、カール・アウグスト大公(ザクセン・ワイマール大公、ゲーテを尊敬した庇護者)、ゲーテ、ヘルダー、アドルフ・クニッゲ男爵たちがいた。極めて質の高い知識人たちの思想運動である。
午後6:52 · 2020年11月20日
たけ/りり/Lilyes
@Lilyes_take
“しかしながら、人は相手が望んでいない親切や、自分が与えることができない奉仕なら大安売りするものです。浪費家は金銭を、能なしは助言を与えたがります。 ” by アドルフ F.V. クニッゲ
さらに表示
午後0:32 · 2010年6月27日
]
森鷗外についての軽い考察と、クニッゲについて
ワクワクさん
@uxskf
森鴎外と言えばクニッゲ
智恵袋
さらに表示
午後8:59 · 2023年11月2日
·
1,135
件の表示
MitNak
@Mit3279
詳しく聞きたいです。ちょうど医学者としての鴎外を調べてるので。ちなみにこの男は💉の狂信者です。
午後9:04 · 2023年11月2日
·
310
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/department/037002/Departmental%20Bulletin%20Paper/p/21/item/45015
ここが詳しいかと
イルミナティの重要人物のクニッゲを森鴎外が翻訳したりしてたって話ですね
午後9:06 · 2023年11月2日
·
430
件の表示
[
森鴎外って西周と親戚って時点で怪しいよね。この名前がまさに「西」をあまねくせんみたいな名前通りに、日本語を誤訳で破壊し続けている。目イソンってマジ迷惑だな。
2人とも津和野人脈だよ。
島根の津和野=山陰の小京都。
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)も大国隆正門下。
リンク先は、
「お探しのページを表示できません
リクエストされたページが見つかりませんでした。
URLが間違っているか、ページが削除されています。」
なのでリンクを張りなおした↓
水内透
山陰地域研究(伝統文化)第三号 一九九五年三月
森鴎外研究 アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鴎外の『智恵袋』との関連において―
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/45015
からダウンロードして下さい。
]
山陰地域研究(伝統文化)第一一号 一九九五年三月
水 内 透
森鷗外研究 アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において―
”
鷗外のドイツ三部作の一つ『うたかたの記』の中に、女主人公マリイが女家庭教師の蔵書を借りて、独学で教養を身につけたと語るくだりがあり、そこに『クニッゲが交際法』の名が出て来る。いきなり私事で恐縮だが、筆者がかつてドイツの学生寮で暮していた時、同室のドイツ人学生に、君は本をよく買うようだが、ドイツの家庭で聖書の次に最も多く置かれている本が何か知っているか、と聞かれたことがある。その時初めて上記の『人との交際について』(Über den Umgang mit Menschen 1788)の名を聞いた。その時彼が皮肉っぽくニヤニヤしながら、ただしまた最も読まれない本だが、とつけ加えたのも記憶している。彼の説明が事実なのかどうかは判らない。というのが実はその後数人のドイツ人に尋ねてみて、私は持っていないが、そう言われている、という答えしか得ていないからである。
この時は実物を見たわけではなかったし、何となく俗流警世家の書物だろうという印象で、そのまま打ち捨ててしまったのだが、その後『うたかたの記』を読んだ時にクニッゲの名を見出して、ハタとその時の記憶がよみがえった。そして何かの折に、或るドイツ人の口から出た冗談から、この名が今では普通名詞化して(Der Knigge)、一般に礼儀作法の書を意味することを知ったのである。そして更に後に、鷗外の『智恵袋』の講談社学術文庫版(1)に付せられた小堀桂一郎氏の解説で、同氏が筆者と同じような経験をしていること、またどういうわけか鷗外が同書を翻案であると断りながら、原典の作者名をどこにも挙げていないために、長い間、創作と同じような扱いを受けていたこと、だが実は原典がこのクニッゲであることを同氏が突き止めた経過などを読んだ。
鷗外はこの他に同じような書物として『心頭語』『慧語』も書いている。この後者の原典はスペインのイエズス会士バルタザール・グラシアンで、こちらについては鷗外は、日本でも厭世哲学家として有名なショーペンハウエルのドイツ語訳を利用したのだが、また最近、直接スペイン語原典から日本語に翻訳されてもいて(2)、我が国でも知る人ぞ知るといったところであろう。それに対して、クニッゲの方は現在でも、小堀氏の指摘の如く、ドイツ文学史にその名を見出すことも希だし、まして知る人はほとんどない。
そこでクニッゲについては、先に挙げた小堀氏の解説が今のところ唯一の、まとまった紹介ということになる。しかし啓蒙主義思潮を基軸に据え、その系譜に彼を位置づけた説明は明快なのだが、恐らく頁数の限界から、ささやかで、何よりクニッゲの生涯に大きく影響したフリーメーソンに全く触れていないのは、やはり片手落ちではないかと思われる。そこでこれに少々補足を加えてみたい、というのが本稿の意図である。
二百年以上に亘って人気を保っているとはいえ、唯一『交際法』によってのみ知られ、しかも前記のように敬して遠去けられている作家だから、参考文献は少ない。その上、大部分は前世紀、あるいは今世紀の始めに発行されているから手に入れ難いのだが、ただ最近ペーター・ケーディングによる『アードルフ・フォン・クニッゲ―或る自由な紳士との出会い』(一九九一)(3)が出版された。筆者が主として依拠するのはこの書で、その巻末の文献表に「クニッゲ男爵は本当に死んだのだろうか?アードルフ・クニッゲ男爵生誕百二十五年記念展覧会」の記載があるから、今でも関心を寄せている人が相当いるものと推測される。作品集の方は、全二十四巻の全集が一九七八年よりサウル社から出版されて、昨年完了したらしく、(4)また十巻の選集が一九九一年にファッケルトレーガー社から刊行され始
(5)
め、これまでに六巻が出ている。恐らく鷗外の利用した『交際法』のレクラム版も健在である。(6) 他に、筆者の知る限り、これまで日本ではほとんど書かれたことのないフリーメーソンに関する文献が、余り詳細ではないが、最近数点出版されていて、(7) これにより特にクニッゲが関係した啓明結社について、ある程度のまとまったイメージを得ることが出来る。つまり啓蒙の精神こそが人間を幸福にすると信じて疑わぬまま、四十三才の若さで世を去った宮廷人・作家の生涯を形成する太い軸がフリーメーソンとしての活躍であり、脱会後もその影がずっと尾を引いて、フランス革命後の上流階級に属する人々の不安と疑心暗鬼の中で、逮捕命令が出されたものの、実は
死によって危うくそれを免れたといういきさつがあり、彼の果たした役割の重要性を保証するであろう。
クニッゲ、正式には(Adolph Franz Ludwig Friedrich von Knigge)は、ハノーファーからほんの数キロのブレーデンベック(Bredenbeck)で一七五二年誕生、ゲーテより五才年長で、兄弟は姉が一人だった。家系は代々高級官吏で、ハノーファー選帝公国で
最も名門の一族であり、父親は0ずゆ昏曾又§言言ユエ0週Φ二n三巽昇
だったというから、現在の検事のような役職であろうか。だからその息子のアードルフは何不自由ない環境で育てられ、貴公子殿金円工豊〕仁臭円)と呼ばれていた。むろん家庭教師がつけられ、少年時代には虚弱な体質で、気紛れ、傷つきやすい性格だったという。将来は官吏に、と期待していた父親の目からすると、余り才気のある息子とは映らなかったようで、可愛がってはもらえなかったらしい。
しかし息子は父を尊敬し、父の寵愛を得たいと望んだ。特に父親がフリーメーソンのフリードリッヒ・ロッジの親方であったことに非常に関心を持っていたようである。彼の後年のフリーメーソンヘの熱意は明らかにこれに起因するから、ここでそれについて少々触れておこう。
十八世紀は啓蒙思潮の色濃い時代として知られるが、「理性は神様とその聖者たち全てを瑚笑しながら表口から追い出したが、同時に
(8)
悪魔とその一味をひそかに裏口から再び招き入れる」ことになって、霊魂の呼び出し術とか錬金術、神秘めかした秘密結社の活発な時代でもあった。フリーメーソンもその一つで、ゲーテ、レッシング、ヘルダー、あるいはモーツァルトらが会員だったことは有名で、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』に登場する「塔の結社」 が、あるいはモーツァルトのオペラ『魔笛』の構成がフリーメーソンをモデルとすることもよく知られている。
とはいえ、フリーメーソンとは一体何か、という問いに一義的に答えるのは困難である。何故ならこの結社は元来明確な思想体系
を持っていたわけではなく、社交クラブ的要素を基調として、啓蒙主義、理神論・科学主義的で、同時に神秘主義的傾向をも帯びつつ、そこに集まる人物たちの顔ぶれによって、ロッジの思想と性格が決定されたといってよいからである。いわゆる近代フリーメーソンが一七一七年六月二十四日にロンドンで創立を見たことは歴史的に著名な事実なのだが、それはそれまでに存在した四つのロッジ(Freimaurerloge)を統括する機関としてグランドロッジを発足させた日付なのであって、その各々のロッジには前史がある。つまりフリーメーソンの発生起源に関しては様々な説があって、中世の
ギルド
石工職人組合説(中世における大聖堂修道院等の建築は数十年、数百年に亘る年月を要する場合が多く、職人のギルドが構成され、親方と呼ばれる指揮者のもとに作業を行った。その集合所がロッジ(Loge)と呼ばれ、職業上の秘密伝達、あるいは相互扶助を行う場所でもあった)、あるいは聖堂騎士団説(9)(中世十字軍の遠征に際して巡礼者の保護を目的として結成され、長年月活躍し続けて、巨大な組織にまで発達したが、一三三四年、最後の大総長ジャツク・ド・モレーが処刑されて、崩壊した。その残党がスコットランドに逃れ、組織を再編したといわれているが、それがフリーメーソンの母体である)、あるいは薔薇十字団説(10)(ルネッサンス時代に存在したといわれる神秘主義的結社だが、実際には存在していなかったのだ、という説もある)等々十数説あるが、いずれも決定的な根拠を欠いでいる。しかしその各説を信ずる会員がそれに合わせて、性格づけ、あるいは色づけを行う傾向があり、人集めの口実に使われもした。
彼らの組織は後には細かく彩しい段階に別れるが、基本的には徒弟(Lehrling)、職人、(Geselle)親方(Meister)の三段階があり、それぞれの段階で高貴な知識を得て昇格してゆくものとされている。しかしこの知識の具体的内容については、どこにも記載されていない。それはロッジ内での技(わざ)を通して、全人格的に悟られるものということになっていて、この技は、会員以外には秘密とされ
ているからである。この秘密性は思想的内容のみならず、組織その他にも見られるフリーメーソンの大きな特色だが、口の悪い研究家の言い方を借りれば、十八世紀の人間は「秘密をただ秘密そのもののために求めたのだ。彼らは「無」の回りに無数のヴェールを幾重にも巻き付けた後このヴェールを突き破ろうと、むきになって努めたのである。」(11)という面も否定し難いであろう。
イギリスに発生したフリーメーソンは、急速にヨーロッパの他の国々に入り込んで行く。ドイツに最初のロッジが創設されたのは一
七三七年で、ハンブルク、マンハイム、ライプチッヒ等の各都市に広がって行き、ほぼ啓蒙主義と同義の脈絡で理解されるようになっていた。だから啓蒙君主の代表であるプロイセンのフリードリッヒ大王は、はやくも一七三八年にブラウンシユヴァイクで加入して、
一七四四年にはグランドロッジ「三つの地球」を創設している。その著作で有名なのはレッシングで、『エルンストとファルク』で、フ
リーメーソンを主題として取り上げ、寛容の精神を説いている。
ところでクニッゲに最も関係が深いのは啓明会(Der Illuminatenorden)なのだが、これはもっと後のことなので、暫くその成人期を追って行こう。
父親のもとには様々な人が出入りしたが、特に幼いクニッゲにとっては、あらゆる国々でフリーメーソンが兄弟として結び合って、
人間性と人類の完成、そしてまたかつてのソロモンの寺院建築の時のように、、永遠の調和に定められた世界の完成のために働くという思想が非常に魅力的だったらしい。彼もその一員となり、賢者の石とか、
エリツクシーレ
生命の霊液とか、または秘密の心理について知りたいと願ったのである。父親は時折、人と共に錬金術まがいのこともやっていたらしく、一層、彼の好奇心をそそったようである。
母親(Freiin Knigge)の早期の死(一七三六年十一才)も、父と息子の関係に変化はもたらさなかった。しかし父の生活のおかげで、
社交性は身につけていたようである。そしてこの頃の貴族の子弟に通常であったヨーロッパ旅行をするには若すぎるとして、父は息子をコペンハーゲンへの旅行に連れて行き、そこで宮廷の華やかな生活をかいま見せたりした。七年戦争の影響をものともしない、全く優雅な生活だった。
だが母の死後三年、クニッゲ十四才の一七七六年に、この優雅な生活も突如として崩壕以後の彼につきまとう苦労が始まる。父親までもが死んだのである。死後判明したところでは、恐らく錬金術の失敗で多額の借金が残っていた。そこで荘園は差し押さえられ、
未^年の息子には、年^五百ターラーが支^されるだけになった。
以後彼の生涯をつらぬく三つの願望の一つがこの時点に始まる。
つまりこの荘園を取り返したいという願望である。結局、達成され
ないままに終るのだが。
一夜にして彼の環境は急変したわけだが、この時彼は父親が仕事熱心でも、誠実でも、家族思いでもないことを知った。そこで息子
の生き方は恐らく意識的に対照的な性格を帯びることになる。
当座は内閣秘書官のもとに預けられた彼は、やがて一七六九年
ゲッチンゲン大学の法学部に入学後見人の要請で、債権者たちが
百五十ターラー増加してくれた。ゲッチンゲン大学は英国王にして
ブラウンシユヴァイク・りユーネブルク選帝公であるジョージⅡ世
の一七三七年創立にょる、当時は最も新しい大学で、寛容なイギリ
スの気風の支配する、つまり例えばプロイセンのハレ大学で哲学者のヴォルフが追放されたような、異端を中傷したりする空気のない大学だった。また同じ中部ドイツのイエーナ大学では、学生の放縦な気風甚だしく、市民との敵対関係が有名だったのに対して、非常に穏やかな雰囲気の支配する大学でもあった。(12)
クニッゲは講義にはきちんと出席したが、ただ熱心に法学を勉強したというわけでもなかったようである。むしろ自由を満喫し、貴
族の子弟との交際を楽しみ、学生団体「協調と沈黙」の言貝となっ
ている。この大学は上記のように、当時としては寛大な気風の支配
する所だったが、それでも実はその三年前峡すべての学生団体に
禁止令が出て、解散させられていた。しかし逆にそれだけ秘密の結
社の魅力を高めることになったらしく、後年の結社での活動の基礎
をここで養ったことになる。むろん彼にも当時の学生らしい、騒ぎ
回る愚行の時代もあったが、ただこの頃ようやく時代の波に、即ち、
啓蒙思潮フマニスムス、寛容の精神等の洗礼を受けたことを特記
しなくてはなるまい。ジャン・ジャック・ルソーの一者作を宗教的啓示のように受け止め、教会で語られる声高な説教よりも、自然の素
朴と清純を信じ始めたのである。この頃後にゲッティンゲン森林同
盟と文学史に記載されることになるへルティーやミユラーが同大学
で神学を学んでいたのだが、全く彼らには近づいていない。ひたす
ら勉学、結社と愚行に明け暮れたのであろう。彼には結社が最も居
心地の好い場所であったらしい。真剣に会員の行動を律し、人類への奉仕の理念を抱いて、組織の強化を説いたから、間もなく彼は人の尊敬を集め、会長となった。
しかしやがて学業を終わる日がやって来る。一七七一年の初め、
ヘッセンの大臣アルトハウゼンと結婚している叔母をカッセルに訪
問した折に気に入られた彼は、ヘッセン方伯に職を求めるよう勧め
られる。初めは学生であるというだけで疑いの眼を以って迎えられ
たのだが、如何にも宮廷人に生まれついたような如才のなさが、こ
のいわば入社試験に合格させた。そこで一七七二年、カッセルの
レジヂンツ アツセソール
居城に試補として出入りする身となった。二十才であった。以
来その宮廷人としての天性にもかかわらず、不思議なことに、彼は各地を転々とする運命を辿った。だから生涯をつらぬく願望の二
番目は、安定した宮廷人の勤め口を見出だすこととなるのだが、その第一歩をこのへッセンーカッセルで踏み出したのである。
功名心に温れた青年貴族にとって、この町は合っているように思われた。この首都を小パリに変えようという考えにとりつかれてい
た領主の方伯フリードリッⅡ世(1720-85)は、七年戦争の終結以来町並みの整備に力を入れ、町に華やかさを生み出すために、
市民の住宅建設に援助金を出した。ロココ様式の最盛期だった。ルイ十五世を尊敬してやまない方伯は、フランス語フランス的な華麗さとか、フランス文化を盲目的に偏愛して、当人の身は小国にあっても、精神的には大きな世界に生きている、と誇った。そしてそのためカトリックに改宗すらしたのである。(一七四九)そしてまた、
その派手好みから芸術や学問の支援者であったばかりでなく、国の経済の向上にも並々ならぬ熱意を示した。この町は元来羊毛産業が盛んだったが、それを更にビロードやサージ、フランネル等の織物、あるいは帽子、靴下等に製品化して輸出を促進した。その他手袋革製口叩、銅、真録等の金属製品も世に知られるようになっていたが、中でも磁器製品に大きな希望がかけられていた。
ただ白取近再婚したばかりの、はるかに若い妻フィリッピーネは
すでに結婚前から、行状に不身持ちの峰があった。とはいえ、この世界に入ったばかりの若者にとっては、このような話しに巻き込まれるのは危険だから、身を乗り出さない方がよいと思ったのは当然である。後に「気軽に人の噂を、特に誰かにマイナスのイメージを負わせるような話を、単なる人聞きに基づいてするな。そういう話はしばしば全く根拠のないものか、多くの手を経て、少なくとも誇張され、こま切れにされているものだ。」(交際法十八)と記すように。
宮廷のわざとらしい雰囲気、気取った振る錘いやら言葉使いなどには、慣れるより仕方がなく、クニッゲはその中で異質なものを感じつつも、努めて気にしないよう心掛けた。その上、宮廷では実際に有能である必要はなく、一局位者の寵愛を得れぱよいのだということが飲み込めて来た。そして孤独を感じながらも、功名心に濫れた
この若者は、次第に目立ち始め、精神の敏活さで周囲に一目置かれるようになった。
例えばカッセルの町をフランス風に整備するには無論金が必要だったから、先に述べたように、様々な新しい産業が開拓され、輸
出もされて一{疋の成果を挙げていたが、当時流行し始めていたコー
ヒーは事情が逆で、輸入がどこでも増大し、諸侯はこれを抑制する
のに躍起になっていた。カッセルでは遂には健康にょくないとの口
実で一七七三年に禁止令が出されたが、余り効果はなかった。これ
をクニッゲは、その頃プロイセンとブラウンシユヴァイクで発見さ
れたチコリ(N-n亘ゆ巳に代えることを提案し、その栽培を力説した。更にまた気泡パイプをトルコやウィーンから輸入せず、当地で
製造せよ、とも説いた。こういう積極性が領主の目に留まり始めた
のである。
時とともにクニッゲはこの世界に適合し始めた。罪のない冗談で貴婦人を笑わせ、気に入られるようにもなった。伯爵のみならず、
伯爵夫人の受けもよかったという事実は、彼の外交的性格の天性を証明するものであろう。何故なら、すでにその頃領主夫妻の仲は冷
え始めていて、宮廷内の人間は厭応なく、この両派のどちらかに属
するという状況だったからである。そして夫人はクニッゲを夫の側
の情報の探り役として利用した。彼はこれを巧みにやってのけはし
たが、むろん面白いものではなかった。しかし彼は女官たちの一座では常にふざけ、からかいの種を見出して楽しむことが出来た。そ
の中でへンリエッテ・フォン・バウム (工含二ゆ牙ぐ0=
則郡§畜今)は特別に美しくはなかったが、少々素朴なところがあっ
て、からかい易かった。宮廷の人間に特徴的な、生半可な教養と自
惚れ、虚栄心が読み取れたからである。
今や彼は宮廷生活を享受し、義務をも果していた。それなりの自
由もあり、物質的生活にも不自由はなく、君主の覚えも目出度かっ
た。それにもかかわらず、いつしかそうした生活の中で、いつもあ) )
し し
る種の不満足感が残るようになった。それはいつも「人間にはより
高次の使命がある筈だ、という大学時代の教えを思い出させたのだ
それがどういうものなのか、彼には漠然とした予感で掴むしか゛>、
力なかった。実^に^み出すには^りにも范漠としていた。そうなる
と浮かび上がってくるのは、父親の姿から知らされた、あの結社、
つまりフリーメ】ソンの存在だった。その言貝となれぱ、自分の求める意味深い活動のイメージが明瞭な輪郭を帯びるはずだった。そこでそれに^入出来る年^になることを、彼はひたすら待つようになったのである。
そうして一七七三年、遂に彼はフェルディナント・フォン・ブラウンシユヴァイク公のもとに赴き、受け入れてくれるよう頼み込んだ。フェルディナント公はその前年に「厳しい戒律の儀礼」(Strikte Observanz)のグランドマスター(Großmeister)に選ばれて、会そのものに栄光を与えたぱかりであった。
「厳しい戒律の儀礼」とは、先にも述べた聖堂騎士団後裔説を強く主張する派の一つで、ヨーロッパのほぽ全体にフリーメーソンが普及し始めた頃ラウジッツ出身のフント男爵(Karl Gotthelf von Hund)がパリで聖堂騎士団が密かに存続している事実を知った、と主張したことに始まる。ドイツへ帰国すると、
スペリオレス・インコグニティ
未知の上位者
から秘儀への手ほどきを受け、かつ、その組織をドイツで広めるよう義務を負った、と強調した。帝国直属貴族で、豊かでもあった彼は、エルべ河とオーデル河間のドイツの第七地区の
マイスター
親方として一七五四(13)年、数人の貴族および高級官吏を周辺に集め、自分への絶対服従と「尊い騎士団」の密かな存続と再建に従うことを義務づけた。ロッジでは名誉を重んじ、秩序を尊重し、時間厳守とともに、寛大に慈善事業を行う気風が支配的だった。使われる言葉もフランス語でなく、ラテン語である。そして会員たちは、一局い秘密の知識へ達
し得る道を辿りたがった。つまり生命の霊液とか賢者の石、錬金の
術の発見などが抵抗し難い魅力を発揮したのである。これは今から
見れば、逆に教義そのものの浅薄さを裏書きしているともいぇる。
しかし詰まるところ、彼らはロッジや魔術、ミスティークに、当時の硬化した政治的状況が彼らに拒絶したものを求めた、というのが
真相かも知れない。そして先に述べたように、ブラウンシユヴァイクのフエルディナント侯がグランドマスターに選ばれた時この派
のロッジは、多くの著名人をも、ましてやクニッゲをも惹きつける新しい輝きを放つことになったのである。
ただクニッゲがここへ赴いた時、彼にとってはこの結社は、大勢の人間が高貴な目的のために集まる所であり、人類愛、人間性、美徳、宗教的寛容へと努める所を意味していたにすぎなかった。だから今やそういう集まりに出席出来る身分となった彼は、宮廷でも従来のような生活態度を変えなくてはならないと思うようになったの
である。敏感な伯爵夫人はこの変化に気づかないではいなかった。
そうしてそのまま放ってはおけないと思ったのであろう。自分たち
の秘密にも或る程度通じているクニッゲが、伯爵にそれを漏らすよ
うな事態が生じてはならなかった。そこで一計を案じて、うかつに
もクニッゲはそれにはまってしまったのである。或る朝いつものよ
うに彼は同席している宮廷の男たちやら、女官たちに愛嬌を振りま
ミ笑わせていたが、やがてもっぱらへンリエッテに向かうと、様々
な話で楽しませたり、不安にしたり、得意の境地へ引っ張り込む。
そして気がつくと、大勢に取り囲まれて、傍らで伯爵夫人がこう一言っ
ていた。「ムッシユー・クニッゲ、あなたは私の人の好い女官のバウ
ムバッハがこんなにもお気にめしたようですから、もうこの人と結
ばれるお積もりだと見てもよいのでしょうね。しいつもなら当意即妙
な返答で応ずる不遜なクニッゲが、この時ばかりは不意を打たれて、
困惑しきったままだったという。そして結局何度も身を屈めて切り抜ける他はなかった。それへ伯爵夫人は「皆さんへ新しい幸福な
ペアーを御紹介出来て嬉しく思います。」とおっかぶせて、ことは決まってしまったのである。夫人の苦肉の策が成功した。クニッゲが、これまで寵愛を受けたのと同様にまた犠牲にされたのだと気がつ い
た時は遅かった。一週間後には伯爵夫人の費用で結婚式が行われた
のである。裕福な男との結婚を夢見たばかりに、元をかけて宮廷に
娘を出したへンリエッテの母親は不満だったが、ヘンリエッテ自身
は、宮廷で人気のある男との結婚に満更でもなかったらしい。
しかしクニッゲにとっては、この出来事に象徴されるような宮廷の空気が耐え難くなりかけていた。なるほど煙草工場の長にされる
など、君主の彼への評価は高くなり、人々はもはや彼を新参者とは
見なさなくなったどころか、へつらいすら浮かべ始めていたのだが、
至る所で彼は王権神授の仮面の下に専制の匂いを嘆がずにはいられ
なかったのである。この領主も自己の主権が神からでなく、ジャン・ジャック・ルソーのいうところの人民との契約に由来することを忘
れていた。彼はプロイセンの啓蒙君主を模範とする気はなく、街の
風景に身分の差が反映されることを好み、衣服にすら秩序をもうけ
た。毛皮、縄銀等を禁じたのである。
しかもフリーメーソンのロッジでは、クニッゲの宮廷での位置を全く顧慮する様子はなかった。彼と同時に入会した連中はとっくに昇格しているのに、彼は依然として見習いだった。そこで尋ね回ったあげく、彼の現在の収入では、昇格に必要な五百ターラーは払えないからだ、という理由が判明したのである。高貴な秘密に近づく道は閉ざされていた。これではフマニスムスと寛容への彼の努力は
途中で挫折する。深く傷ついた彼は苦悩した。そして出てきた結論がカッセルを去ることであった。無論驚いた方伯は将来を約束して
引留めたが、ハノーファーの親戚のもとへ向かうとの口実で、密か\
ノ
にプロイセンの啓蒙君主を頼りとしながら、カッセルを去った。一
七七五年三旦娘のフィリッピーネの誕生一箇月後である。二十三才であった。
その後彼と家族はバウムバッハ夫人の住むへッセンの小村、ネンタースハウゼンに二年近く住み'圦の就職先を探しながら、フリー\
ノ
メーソンの会に出席したり、ドラマとか詩、時には小説を執筆して暮した。その頃彼は宗教問^で悩んでいる。正確には信仰と不信仰
の間で揺れていた。一方で啓示された真理を疑いつ?他方で理神論は彼を不安にさせた。彼はより高次の超自然的な啓示に憧れて いたのである。フリーメーソンの秘密は、それを満たしてくれるかも知れなかった。しかし就職ははかばかしく進行せず、最も期待をかけたプロイセンからは受け入れてもらえなかった。妻に促されて、
就職口を求める旅に出る。ワイマールでゲーテと知り合いになったのもその頃である。しかし力ール・アウグスト公は彼に侍従章を送って来ただけであった。もっともワイマールも多くの教養人が夢見るような国とは言えなかったが。
そこへ思いがけなく一度に二箇所から就職の誘いが来る。カルル
スルーエとダルムシユタットである。この両者の間で迷った彼は結
局へッセン・ダルムシユタットに決める。その直前に訪れたハーナ\
ノ
ウが気に入っていたためであった。こうして一七七七年夏から、後
にグリム^弟で^名になるハーナウに^むことになった。その頃に
〔75〕
八
は先の宗教問題に「宗教とは心の高まりであり、全感情だ」と一つの結論を出している。悟性にのみ由来する宗教は、完全な、真の宗教では有り得ない、と。
ハーナウの皇太子ヴィルヘルムは歓迎の表情で彼を出迎えてくれた。クニッゲは今やっと「理性が支配し、カッセルと異なって、陰謀の支配しない宮廷で生活してよい」(15)幸福を味わう。そして間もなくここの生活に溶け込み、最も楽しい社交家で、繊細な神経の宮廷人であり、貴婦人たちの感じのよい、謙虚な、礼儀正しい友となる。すでに宮廷での談話にはなくてはならぬ人物の一人であった。この頃彼は演劇に力を入れている。一座を作り、これはカルル王子が熱心に援助してくれたこともあって、一応成功の部類であった。
しかし宮廷では、逆に段々と娯楽や催物に対して慎む気分が充ち始めていた。プロイセンとオーストリーの間の戦争が目前に迫っている状況が人々の気持ちを重くしていたのである。その上、クニッゲにとって宮廷の生活スタイルは出費が大で、経済的には苦しかった。こういう雰囲気の中で仕事を越えて世界へ働きかけたいという彼の願望は、次第に意義を失っていった。誰も彼の能力に期待をかけてはいなかったのだから。この頃、金のないフリーメーソン会員の昇格は問題にならないとの噂が伝わって来て失望を大きくした。しかし逆にそれだけ彼の心には、フリーメーソンの存在が重要性を増して来ることになって、より高い叡智への抑え難い渇望を静めたいと願った。彼はフリーメーソンの思想が思慮に富んだ人たちに
よって生み出されたと信じていたのだ。神と自然との一致の中で暮
らしていた人たちが直接に、このフリーメーソンの源泉から聖なる
英知を汲んだのだと。だからこの源泉を再び人の目に明らかにする
ことほど大切なことはないと思われた。それによってフリーメーソンの本来の使命を認識し、人類をこの政治的、倫理的、経済的な貧窮から導き出すのだ。
そういう探求の中で彼は偶然に、もう一つのフリーメーソンの支流に突き当たった。黄金・薔薇十字団(Gold-und Rosenkreuzer)である。この会の組織は聖堂騎士団のそれに酷似していたから、彼は表面的には種々の異なった形態の背後に、あらゆる体系に共通の真理が潜んでいると確信することが出来た。クニッゲは、この会のメンバーの一人であるマールブルク大学の教授F・J・シユレーダーと知り合う。シユレーダーによると「厳しい戒律の儀礼」は、「聖堂騎士団を再建する使命を与えられていたのだが、現在は堕落して、その神秘性を失ってしまった。薔薇十字団はその過誤を除去するために作られたものである。」(16) しかし彼は、それにもかかわらず、クニッゲには「厳しい戒律の儀礼」を去るべきではなく、むしろそれを改革せよ、と説得した。
この頃、クニッゲはまたヴォルフェンビュッテルのフリーメーソンの大会に出かけて、レッシングに会っている。レッシングは机の上に『エルンストとファルクの間のフリーメーソンのための対話』を置き、フリーメーソンの起源を探る試みを子供っぽいと評した。その起源が人の心、市民社会にある、というだけで充分ではないかというのである。その活動は国のためではなく、個人の幸福のためにあるのだからだと。しかし位階が上昇するにつれて次第に聖なる真理に近づいて行くのだと信ずるクニッゲにとっては、源泉を知らずに、その知識なしに目標に到達出来るとは思えなかった。彼にはレッシングより、むしろシュレーダーの方に共感出来るものを多く見出していた。
それから余り経っていなかった頃、思いがけなく彼を昇格させようとの話しが上位者から届いた。しかし、あの上位への燃えるよう
な期待は、彼にはもうとっくに消えてしまっていた。結社の上位者たちが身分の差に異常なほどの価値を与えていることを知ってし
まった彼には、今や結社の改革にしか関心がなくなったのである。新しい祭式を提唱したいという希望が湧いて来た彼は、この頃こう言い切っている。「信仰とは、我々の知性の思わず知らずの行為だ。」(17) だからクニッゲの構想は、「民衆のための、あらゆる認識の基礎づけとなり、あらゆる国家、身分と宗教の人のための普遍的な組織の建設」(18) だった。キリスト教徒ユダヤ教徒、イスラム教徒など、あらゆる宗教を統合し、宗教をめぐる戦いは終了させる。宗教はただ一
つしか存在しない。その掟は健全な理性と人間愛を切り離さないこと。そして創造主が設定したあらゆる関連に従って、人間に課された聖なる義務の総括を行う。人間は原初において純粋であったから、創造主の存在を感じ取ることが出来たが、文化の発達とともに、次第に高次の世界を瞑想する時が奪われてしまった。これへ再び導き帰すのがフリーメーソンのつとめである。(19) こういう論旨の著作をクニッゲはこの頃出している。ただし、その内容は薔薇十字団の色彩が濃すぎるとの批判を浴びた。
一七七九年、プロイセンとオーストリーの争いは休戦となった。
当然、それに従軍していた皇太子が帰還して来たのだが、その際あ
る薬剤師の娘を伴って帰って来たのが騒ぎを惹き起こすこととなっ
た。というのが、こういう問題から極力、身を遠ざけていたのにも
かかわらず、女官たちに人気があったぱかりに、クニッゲはこのスキャンダルの憤激の渦に巻き込まれ、不愉快な交渉をさせられるは
めになったのである。そして複雑な力関係の中で、彼は結局、伯夫
人と女官たちの嘱笑を受け、更には皇太子自身の不興を買っく暫
時宮廷への出入りを禁じられることとなった。そして孤独な生活を余儀なくされる。
ところが、こういう状況の中で彼の生涯を決定する転機が訪れた。七月に「協調」ロッジヘバイエルンから一人の会士が現れ、これと知り合ったクニッゲが改革について尋ねられて、自分の意図を述べたところ、それをすでにほとんど実現している結社があるとして、「啓明会」の存在が伝えられたのである。ドイツにまだ自分に未知の結社が存在することにひどく驚いたクニッゲは、ただちに入会の手続きを取った。それぐらい秘密が保たれていたからには、完壁に組織されているのだろうと考えたのである。そうして或る人気のない場所で、この会士コンスタンツォ伯爵によって入会の儀式が行われた。そこで伯爵はクニッゲにピロ(Philo)という名前を与え、結社の「植物学校」(Pflanzschule)の「ミネルヴァ・クラス」の書類を手渡した。会員の秘密を守るための暗号が古代趣味に基づいていて、後に判明したところでは、会の創始者ヴァイスハウプトはスパルタクスと称して、その所在するインゴールシユタットはエレウシスと呼ぱれていた。(20)オーストリアはエジプト、ウィーンはローマである。「植物学校」とは会の見習いを養成する生徒結社で、カルルスルーエのカルル・オイゲン公も作らせたことが知られている。シラーが後に二ーチェに「自由のラッパ卒」と渾名されるほど憧れた自由の概念は、ここでその萠芽が養われたという。(21)そして今後クニッゲは当会においてアテネと称するバーダー教授の指示を受けることになる。ピロのいる場所はエデッサである。そしてこの時以来クニッゲは全力をこの会の形成に捧げるのである。
啓明(Illuminat)という名称の団体は本来一つだけではない。神や人間について内的な啓示を得たいという神秘家とか形而上学者たちもしばしばそう名乗っている。しかし現在では、上記のヴァイスハウプトの創設した結社を指すのが普通である。アーダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)は、一七四八年二月、インゴールシュタット生れだから、クニッゲより四才年長、一八三〇年にゴータで亡くなっている。七才で父親を失ったので、その名付け親であるイックシュタット男爵は、甥の息子に当たるこの少年をイエズス会経営の学校で教育させた。そういう宗教的環境にもかかわらず、一つには時代の影響を受けたのであろうが、彼はイエズス会の教義に対して次第に疑念を抱くようになり、それに対する解答を皮肉にも、男爵の所有していた理性派に属するフランスの哲学者たちの著作の中に見出したといわれる。
インゴールシュタット大学で家庭教師や伝導師として働きながら法律学を学んで、一七六八年に卒業すると、この大学の学長であったイックシユタット男爵のひきで、ただちに助講師に採用された。一四七二年に創立という歴史を持ち、一八〇二年にはランツフートへ移され、更にはミュンヘンへ移されることになるこの大学は、ルネッサンス期にはロイヒリーン等の人文主義者たちによる輝かしい経歴を持っているのだが、一五八〇年代からは神学部と哲学部はイエズス会士に占められてきて、当時バイエルンにおける反宗教改革の牙城となっていた。しかしその中でクリスチャン・ヴォルフの弟子で、啓蒙主義者であった男爵の庇護のもとに、ヴァイスハウプトは順調に経過して、一七七二年には教会法講座の教授の席をイエズス会士の手から奪いかえすことに成功、更に二年後には二十七才で法学部長となった。一七七三年に結婚したが、男爵の反対を無視したことから、その後両者の仲は割れたままだったという。
しかし彼らはイエズス会士らによって手厳しく白眼視され続けた。イエズス会そのものは、度々、俗界と衝突事件を起こすことから、一七七三年に法王クレメンス十四世によって解散命令を受けるのだが、事実上は陰に陽に権勢を振い、ヴァイスハウプトはその陰謀に悩まされ続けた。そこで先に述べた当時流行の秘密結社の結成による対抗措置に至ったのである。まず「完全者同盟」を結び、次に一七七六年五月に「啓明会」の創設となっている。(22)当初は四人の学生会員と彼自身とで出発したが、その目的のみが明確で、方法につ いてはまだ暖昧であった。そこで翌年ヴァイスハウプトはフリーメーソンに加入、「思慮深いテオドール・ロッジ」に入会した。このロッジは間もなく、事実上「啓明会」に吸収された形になったという。このミュンヘンの会員たちをアレオパギテンと呼び、それを中心に一七七九年には会の教則を作った。位階はイエズス会の模倣で、
ノヴィーツエ
修練士、ミネルヴァ、悟ったミネルヴァという三段階となる。先のクニッゲに手渡された書類上の名は、これに基づいていたわけである。そして秘密性を高めるために、下位者は上位者から常に監督を受け、誰であるか明瞭でない上位者に服従するという規律を設定した。
クニッゲが入会したのは、丁度この頃であった。彼は会の義務を熱心に果した。規定にある啓蒙的な文書を研究し、知人、友人が会に対して好意を持ち得るか、あるいは敵意を持つかを観察して、特別の日記に記入し、毎月ミユンヘンへ送って監査を受けた。彼と同時にコンスタンツォによって勧誘された三人の商人たちと協力し、喜んで匿名の監督に従ったのである。
しかし最初の感激は急速に冷却することになった。というのが指導される教育内容が余りにも、年端もゆかぬ生徒のための学校の教材じみていたからである。更にミュンヘンから送られてくる書簡の文体が粗雑で、命令口調であるのが彼らの神経を逆撫でした。クニッゲもヴィーラントやポウプ、ヘルヴェティウスらの、新教国なら誰にでも手に入る啓蒙的な書物を読むことにどんな意味があるのか、自問することになった。詐欺にあっているのではないか、との不安も湧いて来た。そして脱会を考え始めていたのである。
するとそこへインゴールシユタットの会士スパルタクスから
オーべレン
上位者より指示を受けた、との前置きとともに、今後は自分がピロと文通する、との連絡があった。この書簡に漂う雰囲気、そこから
読み取れる精神はこれまでと全く異なっていて、クニッゲの気に
入った。そこで危うく彼は踏み留まったのである。それどころか、
スパルタクスはこの会が、「極めて精緻で、確実な手段によって、無知蒙味と悪意に対する勝利を世界の美徳と叡智にもたらし、学問のあらゆる分野で最も重要な発見をするという目的に到達しようとす
露)
る結社」として描いて見せたのである。クニッゲにはこの会の目的
が、彼の考える組織と一致するように思われた。「厳しい戒律の儀礼」に失望し、黄金・薔薇十字団には詐欺の匂いを嘆ぎとった彼だった
か、ようやく^想の結社を見出したことになる。しかしそれにもか゛)、
かわらず、まだ彼には一抹の疑祭拭い切れなかった。まだ最終的
な確信が持てなかった彼は、それをスパルタクスに率直に告白した
のである。そこですでにクニッゲの熱心さと有能を腎ていたス パ
ルタクスは、自分のもとから彼が離れて行くのを恐れて、秘密を打
ち明けた。実はこの会は、「まだ存在してはいないのだ。しと。自分
の頭の中にあるだけに^ぎない。幾つかのカトリックの地方に下級
の「植物学校」が設置されているだけなのだ。しかし上位について
は、もう素晴らしい考えが幾っかある。どうか私心のない詐欺を許
して欲しい。組織の心臓にまで入り込んで来た彼のような素晴らし
い協力者とは初めて知り合ったので、どうか会のために尽くして欲
しい、とスバルタクスはクニッゲを古参△吾貝つまりアレオパギテ
ンの言貝として扱い、頼んで来た。
クニッゲが色々と想い描いていた、この会の美しいイメ】ジは幻像だったのだ。この時彼は心底から怒りを覚えたらしい。当然であ
ろう。脱会も無論考えたようである。しかしそこでまたもや彼は踏み留まるのである。脱会をしなけれぱ、今や会の運命は彼の手中に
あった。こうなると、どこかに自分の理想を実現している既成の結社の存在を期待するよりも、むしろそのような会を設立する方がよいのではないか。かなり早く冷静になった彼は、スパルタクスの招請に応じて、ミユンヘンに赴く。上級位の位階体系を作るためである。そうして一七八一年、アーダム・ヴァイスハウプトと直接に知り合う。これが初めての出会いであった。
ここで規約に詳細に目を通すことの出来た彼は、自分の期待が満たされそうな予感を持った。「啓明会員は人類愛と公共の福利への敬意の思想を広め、世界の様々な邪悪な意図を抑制し、不正に対抗して、困窮する美徳に助力を惜しまない。そして重要な人物の援助に配慮する。公益に資することを歓迎する。学問、芸術と産業を育成する。会員相互間の身分の差は除く。」(24)更に「黄金の中庸」を守ること、飲食や衣装の贅沢を避け、市民としての仕事への忠実、かつ熱心な従事も更なる義務である。
イエズス会がその邪悪な目的遂行のために用いるのと同じ手段を以て世界に善をもたらす、という理念にヴァイスハウプトは自信を持っていたが、クニッゲはこれを危ぶんだ。青年たちが今後も永続的にヴァイスハウプトの要求に従うとは考えられなかったのである。そして実際に、クニッゲが会った限りでは、彼らはヴァイスハウプトの専制的な態度に大きな不満を抱いていた。この会長は彼に、見知らぬ上位者に委託されて派遣されたような態度を取るように、と指示したのだが、彼はこの両者の和介の労を取る役割を引き受けたつもりだった。
ミュンヘンに帰ると彼は会長に、フリーメーソンの中に入り込んで、ロッジの色々な指導的職務を啓明会員で占めるよう提案した。そうやって会員をこちらの組織に移してしまうのである。そして実際、この方法で約五百名もの会員の加入に成功した。更に
オルデン
結社を三段階に分類することにヴァイスハウプトと意見の一致を見た。つまり基礎位階はミネルヴァ連士たちのクラスで作られる養成級(Pflanzschule)で、修練士(Novize)からミネルヴァ練士(Minervalis)へ、更に小啓明士(Kleiner Illuminat)へと昇進して行く。第二位階はフリーメーソン級、つまり従来の組織で、二つの部門に別れる。まず徒弟(Lehrling)、職人(Geselle)、親方(Meister)の三段階より成る象徴的フリーメーソン(Symbolische Freimaurerei)、その上にスコットランド修練士(Schottischer Novize)と騎士(Schottischer Ritter)より成るスコットランド・フリーメーソン(Schottische Freimaurerei)が置かれる。そして第三位階として小密儀(Kleine Mysterien)と大密儀(groß Mysterien)があり、前者は啓明祭司位(Illuminatischer Priester)と啓明統轄位(Regentengrad)から成り、後者はマギ(Magier)と王(König)で、これが締め括る。
クニッゲは遂に一つの結社の中に安定した位置を見出だして、幸福を感じていた。この結社は諸民族を成熟へと導き、自由と専制との永遠の循環を打破するであろう。人間には啓蒙精神と自由があれば、国家と君主は不要である。君主と国家は暴力を用いないでも、地上から消滅すると思われる。人類は将来一つの家族となり、この世界は理性的人間の住むところとなる。そうして啓明会は、人類の普遍的な秘密の英知の学校となろう。当時このような思想や発言が容易に危険視されたであろうことは、いうまでもない。しかし差し当たりはまだ会は拡大し続けた。特に一七八二年七月十六日から九月一日までの五〇日間、ヴィルヘルムスバートで世界フリーメーソン大会が開催され、その際、この会は一見、「厳格派」の会に見える様相を呈していたのにもかかわらず、そのうちの多数が啓明会に移って来たのである。しかも高潔な人格と教養の深い精神の持主で、クロップシュトックらの文人と結びつきがあり、高い社会的名声を得ている作家のJ・J・クリストーフ・ボーデ(一七三〇- 一七九三)の勧誘に成功した。以後啓明会はヴァイスハウプト、クニッゲ、ボーデの三人によって基礎が固められ、数多くの著名人を入会させた。ただ一説によると二千人を越えたことはなかったという。
しかし同時にこの頃からクニッゲは、小説の売れ行きも好調で、その執筆に忙しくなって来たことを理由として、各地区の長に仕事
を任せる案を提出している。このこと自体は問題にならなかったが、しかしそういう考えが出て来る原因つまり会員数の増大は、実は必ずしもヴァイスハウプトの喜ぶところではなかった。それによって本来の会のイメージが損われる懸念を持ったのである。他方でクニッゲの方は、会長がこのような成果の絶対的条件と見なしているイエズス派の方法の模倣を、心から納得して肯定していたわけではなかった。このような亀裂がこの頃から少しづっ大きくなり始めていた。クニッゲは会の拡大に主眼を置きヴァイスハウプトは、下からの会の強化をまず第一に設定した。
余談だが、『うたかたの記』にマリーの教養書としてクニッゲの著書と並んで、フーフェランドの名が出て来る。この名は鷗外の他の作品にも出現するし、幕末の日本では医学書の翻訳を通じて有名だつたが、その彼もこの頃入会している。彼と親交のあったゲーテの入会もほぼ同時である。
一七八三年三月、物価高を理由にクニッゲ一家は、フランクフルトからハイデルベルクに引越をしている。それから間もなくクニッ
ゲを驚博させる文書が届く。ミユンヘンのシユレッケン・シユタイン侯爵が、ヴァイスハウプトの意向を受けたとして、規約と位階体系の変更を通知して来たのである。規約の啓蒙の精神自由と人間の成熟を説いた箇所が全て、煽動的な響きが強すぎるという指摘であった。そしてまた各人に授けた位階を取り消せ、との指示もあり、それはクニッゲが余りにもフリーメーソン風な色彩を濃く出し過ぎているから、というものであった。ヴァイスハウプトには自分の造り上げた世界をクニッゲが壊そうとしているように見えて来る一方、クニッゲにはヴァイスハウプトに潜む、他人の無条件の服従を望む専横な性格が強くなって来たと映るようになっていたのである。傷つき、失望して、彼は実務から手を引き始める。そうでなくても著作や批評に忙しかった。小説を書き、オペラ『フィガロの結婚』について書く。そうして遂に一七八四年、あれほど心身ともに打ち込んだ会を正式に退団する。三十三才になっていた。当時の彼の家計は出版と年金だけで、充分とはいえなかった。その上に結石症を病んでいた。以後この病気で苦しむことになる。
他方でこの問、啓明会を取り囲む社会的状況も厳しくなっていた。一つにはフリーメーソンに似て非なる黄金・薔薇十字団が反啓明会運動を強めて来たことにあったが、それよりもカトリック教会特にイエズス会が、この結社の社会的平等主義と会員の徳性の高揚による社会改革の方向を急進主義と見て不安を抱いた方がはるかに大きかった。彼らは様々な画策の後、ついにはバイエルン選帝公を動かす材料として、カール・テオドール公の妹であるマリア・アンナ公女を通して、啓明会士のリストを提出したのだが、その際添付してあった文書が会の運命を決定してしまった。つまりオーストリア皇帝ヨーゼフⅡ世によるバイエルンの一部とオーストリア領オランダとの交換計画に、啓明会士が参画しているという「反バイエルン国際主義的陰謀」がでっちあげられていたのである。そこで一七八四年六月、一七八五年三月および八月の三回に亘る勅令により、啓明会は禁止されるに至った。
これで多くの啓明会士は公職から追放され、あるいは投獄され、ヴァイスハウプトも大学から解職されて、当時バイエルンのただ中に位置しながらプロテスタントで自由帝国都市であったレーゲンスブルクに逃亡する身となった。この大打撃にもかかわらず、会の活動は以後も暫くバイエルンの外で続けられるが、その上に次々と打撃が加えられる。その一つが、啓明会がフランス革命に点火剤の役割を果たしたという説で、このため脱会していたクニッゲにまでも嫌疑がかかり、以後生涯圧迫され続けられることになるのである。
注
(1)小堀桂一郎訳・解説「森鷗外の『知恵袋』」講談社学術文庫 昭和五十五年
(2)バルタザール・グラシアン著「賢者の教え」 J ・レナード・ケイ編 加藤諦三訳 経済界 一九九三年
(3)Peter Kaeding : Adolph Freiherr von Knigge, Begegnungen mit einem freien Herrn Verlags-Anstalt Union 1991
(4)ンル0一号ぐ号ズヨ鴇ゆ一仂仲ヨ=-n=ゆ乏ゆ牙ゆゞ如ユゆ.工誘四ぐ含
ヤN三夘墨ずゆ.仂N賃、ズ0.一器
(5)ンル0一でずぐ含ズヨ鴇ゆ一ン誘兇乏讐一ゆ乏ゆ牙ゆ一=岩如獣=ル含
司N6欠Φ一姦⑩円ぐゆ二N四工曾=0ぐ円一中中一
(6)ンル0一号ぐ0=ず一器Φ一手曾ユ含 dヨ⑳N晨ヨ=三含mnず含
工誘四ぐ0コズ讐一,工ゆ一=N n舞ゆ二閃ゆδ一Nヨ言.仂三姦巽二追一
(7)赤間 剛「フリーメーソンの秘密」 三一書房 一九八三年
マンリー・ P ・ホール、吉村正和訳「フリーメーソンの失われた鍵」 人文書院 一九九二年第五版
吉村正和「フリーメーソン、西洋神秘主義の変容」 講談社現代新書 一九八九年
湯浅慎一「フリーメーソンリー その思想、人物、歴史」中公新書 一九九〇年
セルジュ・ユタン、小関藤一郎訳「秘密結社」文庫クセジュ 一九九一年
(8)マックス・フォン・ベーン「ドイツ十八世紀の文化と社会」 三修社 一九八四年 一二四頁
(9) Allain Demurzer : Die Templer. Aufstieg und Untergang
=N冒ゆ↓ゆヨで一円.ン鳳仂二ゆ⑯言含 d具円N讐⑩
昌伽,-W一心ぐ円一N如 nl.則円欠冨雪nずゆ三途一 m.N器
筱田雄次郎「聖堂騎士団」 中公新書 昭和五十一年 一七二頁
(10)ロラン・エディゴフエル、田中義廣訳「薔薇十字団」 文庫クセジュ 一九九一年 一〇六頁
種村季弘「薔薇十字の魔法」 河出文庫 一九九三年 七二頁
(Ⅱ)冨.ぐ:ベーン三四頁
(口)潮木守一「ドイツ大学への旅」
一七頁
(玲)マンリー・ホール三 0頁
(N)ヤズミヨ如一 00頁
(而)ヤ.ズミヨ的一 0四頁
(M)「.ズミ品三六頁
(Ⅱ)ヤ.ズ器ル冨三四頁
(那)「.ズN巴冒輿三四頁
(玲)ヤ.ズN巴冨一三0頁
(加)吉村四九頁
(包湯浅六六頁
(記)湯浅七八頁
(器)如.ズ§ヨ如一五一頁
(N)ヤ.ズN巴冒⑩一六四頁
リクルート昭和六十一年
水内透 一ナ
〔6力
” ※明らかにちゃんとコピペされてない箇所があるが一部しか修正していない。
※※着色は引用者
※※※引用元(論文)の誤字は原文のまま記した(訂正はしていない。例えば「いずれも決定的な根拠を欠いでいる。」はそのままである。「で」を「て」に訂正しない。原文はできるだけそのままの方が良いので)
※※※※
上記の論文の「『うたかたの記』にマリーの教養書としてクニッゲの著書と並んで、フーフェランドの名が出て来る。この名は鷗外の他の作品にも出現するし、幕末の日本では医学書の翻訳を通じて有名だつたが、その彼もこの頃入会している。彼と親交のあったゲーテの入会もほぼ同時である」(「だつた」は原文ママ)と書いていることについて。
『うたかたの記』で、クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(Christoph Wilhelm Hufeland)は登場しない。
クニッゲ以外に登場する人名はクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントの別表記ではなくて、別人だ。
「フムボルトが長生術」(『うたかたの記』)とある。
「フムボルト」[フンボルト(Humboldt)]の候補には2人いて、2人とも医者ではないので、長生術って本を出すかなあ。
フーフェラントの著作の1つが『長命術(Makrobiotik)』なので、長生術は鷗外なりの和訳なのだろう。
おそらく、論文の執筆者は、鷗外はフンボルトとフーフェラントを間違えたと判断しているのだろう(単にマリーの知識が不正確であることを示すため記述という解釈もできる[仮にこれが目的だとしても、クニッゲの方は正確なんだよな(笑))。
論文では「クニッゲの著書と並んで」なので、離れた箇所でフーフェラントが登場するという意味ではない。
鷗外が、「フムボルト」[フンボルト(Humboldt)]の「フ」だけ記憶していて、「フ」ーフェランドと結びつけてしまったのかもしれない。
森鴎外 うたかたの記
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.html
”「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟の櫂取ることもかなはず、レオニのあたりに、富める英吉利人の住めるに雇はれて、小間使になりぬ。加特力教信ずる養父母は、英吉利人に使はるるを嫌ひぬれど、わが物読むことなど覚えしは、彼家なりし雇女教師[#「雇女教師」の左に「グェルナント」のルビ]の恵なり。女教師は四十余の処女なりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、三年がほどに多くもあらぬ教師の蔵書、悉く読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。またふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゆしてキョオニヒが通俗の文学史を繙き、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」
”
超有名人の作品なので、現代語訳が複数ある。
【現代語訳】森鴎外『うたかたの記』(中)
由良瓏砂
2020年2月22日 05:52
https://note.com/yurarosa/n/na03c143bfe45
”そういうわけで漁師の娘になったんだけど、か弱いこの体では舟の舵を取ることもできず、レオニの辺りに住んでいる裕福なイギリス人に雇われて、小間使いになったの。
カトリックの信者である養父母は、イギリス人に雇われるのを嫌がったんだけど、私が読書などを覚えたのは、その家の家庭教師のおかげよ。
彼女は40歳くらいのオールドミスだったけど、その家の高慢な娘よりは私を愛してくれて、三年ほどの間に、そう多くもない彼女の持っている本はみんな読んでしまったわ。
読み間違いもさぞ多かったでしょう。それに、文章の種類もいろいろでした。
クニッゲの交際法もあれば、フンボルトの長生術もありました。
ゲーテやシラーの詩抄を唱えたり、ケーニッヒの文学史をひもといたり、ルーブルやドレスデン美術館の写真集を広げて、テーヌの美術論の翻訳書を漁ったりしたものよ。”
https://note.com/yurarosa
”女優/他
https://www.youtube.com/@yurarosa1114
◎YScompany所属
◎アートサロン《哲学者の薔薇園》
◎創作人形工房アトリエ・アスフォデル
◎アンティーク・レトロ雑貨店ロサアンティカ
◎猫被/CALメンバー
◎ゴールデン街瑠璃”
アトリエ 3 - <現代語訳> うたかたの記(@yzkzk) - カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16818023212303375276/episodes/16818093073198233925
”「こうして漁師の娘とはなりましたが、ひ弱な身では舟の舵をとることも叶わず、レオニの近くに住んでいる裕福なイギリス人に雇われて小間使いになりました。信心深いカトリックの養父母は、イギリス人に雇われることを嫌いましたが、私が本を読むことができるようになったのは、この家の雇われの女教師の親切心のおかげです。
女教師は四十余りの貞淑なオールドミスで、尊大な態度の家の娘よりも私に深く目をかけて、三年ほどのうちに、多くはありませんが教師の蔵書はことごとく読んでしまいました。読み間違いも多いでしょうし、読んだ本の種類もまちまちでした。クニッゲの人間交際術があれば、フンボルトの国家福祉論もありました。ゲーテ、シラーの詩抄をきっかけにしてケーニッヒの通俗の文学史をひもとき、あるはルーブル、ドレスデンの美術館の写真集を繰りひろげて、テーヌの美術論の訳書を読み漁りました」”
<現代語訳> うたかたの記
@yzkzk
https://kakuyomu.jp/works/16818023212303375276
”教科書にも載る「舞姫」に続く、森鴎外のドイツ三部作の一編「うたかたの記」を現代語訳しました。
マリイの儚き人生を美術留学生の巨勢の目線からえがきます。
現代にも分かりやすいように、できるただけ平易で、大胆な意訳や補足を入れています。
”
フーフェランドの間違いって訂正していないな。
前掲論文
「『うたかたの記』にマリーの教養書としてクニッゲの著書と並んで、フーフェランドの名が出て来る。この名は鷗外の他の作品にも出現するし、幕末の日本では医学書の翻訳を通じて有名だつたが、その彼もこの頃入会している。彼と親交のあったゲーテの入会もほぼ同時である。」(「だつた」は原文ママ)。
フーフェラントが元祖イルミナティに入会したのは英語版ウィキによると1783年。
ゲーテが元祖イルミナティに入会したのは「啓明結社とフリーメイソン : アドルフ・フライへア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II)」によると1783年2月11日入会。
フーフェランドの医学書の、緒方洪庵による和訳の題名が『扶氏経験遺訓』(ふしけいけんいくん)。1857年(安政4年)に出版されたので、確かに江戸末期。
フーフェラントとは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%81%B5%E3%83%BC%E3%81%B5%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%A8-3185959
”
フーフェラント
Christoph Wilhelm Hufeland
生没年:1762-1836
ドイツの内科学者,宮廷医。その著書が日本に伝えられ,医学,医倫理の面で影響を与えた。バート・ランゲンザルツァに生まれ,イェーナ,ゲッティンゲンの両大学で学び,イェーナ大学教授,プロイセン宮廷医兼シャリテ病院医長,ベルリン大学教授などを歴任し,内科および外科学会を創始した。ゲーテ,シラーらを患者にもち,ジェンナー種痘法をドイツに入れ,チフスの予防に尽くし,研究は統計学に及んだ。ベルリン学派の雄として医学,医学教育の指導的立場にあり,その著《Encheiridon medicum》は日本でも青木周弼,緒方洪庵,杉田成卿により,それぞれ,《察病亀鑑》《扶氏経験遺訓》《医戒》という邦題で抄訳された。また《長命術Makrobiotik》もヨーロッパで広く読まれた。
執筆者:長門谷 洋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フーフェラント」の意味・わかりやすい解説
フーフェラント
Hufeland, Christoph Wilhelm
[生]1762.8.12. ランゲンザルツァ
[没]1836.8.25. ベルリン
ドイツの医師。当時の最も有名な内科医であった。緒方洪庵が安政4 (1857) ~文久1 (61) 年に訳した『扶氏経験遺訓』 30巻の原著"Enchiridion Medicum" (36) の著者。また同じ頃,青木周弼の訳した『察病亀鑑』,山本美致が訳した『扶氏診断』は,彼の診断学を日本に紹介したものである。イェナ,ゲッティンゲン両大学で医学を学び,ワイマール公夫人の侍医であった父のもとで開業。ゲーテ,J.シラーらを患者にもち,「ゲーテ家の会」の講演が好評で,1793年にイェナ大学教授。 1801年プロイセン宮廷医兼シャリテー病院長としてベルリンへ赴任。 10年のベルリン大学創立に努力し,初代内科学教授。種痘の普及にも努めた。 33年7月 24日全プロイセン医師の記念寄金によってフーフェラント慈善財団が設立された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
” ※着色は引用者
ドイツでフンボルトといえば、フンボルト兄弟。
兄である ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは言語学者で政治家であり、シラーやゲーテなどとも親交を結んだ。バスク語とインド語の文法を研究した。ベルリン大学(現ベルリン・フンボルト大学)創設者の1人。この人も怪しいな(笑)
弟であるアレクサンダー・フォン・フンボルトは博物学者、探検家、地理学者(近代地理学の創設者の1人)。主著は、百科全書派の影響を受けた『コスモス』 (5巻。1845~62) 。 こちらも怪しいよ(怪しい人しかいない(笑))。
この兄弟って2人とも現在の分類だと赤組だろうな。正確には今の赤組の先祖。
以下でどんな人なのかと、著作を確認しても、長命術(長生術)やそれに似た著作は見つからなかった。
フーフェラントは医者だけど、フンボルト兄弟は医者じゃないからね。
フンボルト(ふんぼると)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%BC%E3%82%8B%E3%81%A8-3167605
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
アレクサンダー・フォン・フンボルト - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
先に、フーフェラントの英語版ウィキの和訳(DeepL和訳を私がかなり修正した)を示す。
”
1823年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。
やがて彼は、母国でゲーテ、ヘルダー、シラー、ヴィーラント(Wieland)と同じくらい有名になった。
[中略]
彼はまた、「1783年にゲッティンゲンでフリーメイソン(freemasonry)に入門し、この時期にイルミナティ結社(Illuminati order)に加わった」。また、中国の錬金術や寿命を延ばす方法に興味があるとはっきり言っていたようだ。
彼の多くの著作の中で最も広く知られているのは、『Makrobiotik oder Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern』(マクロビオティック、あるいは人間の寿命を延ばす技術)(1796年)という論文で、1828年にウィーンでヨヴァン・ステジッチによってセルビア語を含む多くの言語に翻訳された。
”
(Makrobiotikは文字通りマクロビオティック。現代の長寿法[マクロビオティック]の起源の一つは元祖イルミナティ会員だ(笑)
現在のマクロビオティックは厳格に実践するとまずい健康法であることに注意ね)
Christoph Wilhelm Hufeland - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Christoph_Wilhelm_Hufeland
”In 1823, he was elected a member of the Royal Swedish Academy of Sciences.
In time he became as famous as Goethe, Herder, Schiller, and Wieland in his homeland.
[中略]
He also "joined the Illuminati order at this time, having been introduced to freemasonry in Göttingen in 1783."[2] He also seems to have professed an interest in Chinese Alchemy and methods of extending longevity.[3]
The most widely known of his many writings is the treatise entitled Makrobiotik oder Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern (1796), which was translated into many languages, including in Serbian by Jovan Stejić in Vienna in 1828.
[中略]
This page was last edited on 10 April 2025, at 15:29 (UTC).
”
マクロビオティックのドイツ語版ウィキのDeepL和訳(私が修正):
”
マクロビオティック(古代ギリシャ語μακρός makros「偉大な」、βιοτικός biotikos「生命に関する」)という言葉は古代に生まれ、健康で長生きするための生活様式を指す。
現代のマクロビオティックは「長寿の教義」として、1797年にクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントの研究によって本質的に造語された[1]
マクロビオティックの歴史と発展
マクロビオス(μακρόβιος)という用語は、ヘロドトスやコスのヒポクラテスによってすでに使用されていた[2]。アリストテレスや他の古典的著者は、マクロビオティックとして、シンプルな食事に基づき、健康と長寿を約束するライフスタイルを記述した。ドイツ語圏では、この言葉は1796年にクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントの主著„Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern“(『The Art of Prolonging Human Life』、『長命術』)に登場した。
より新しい形のマクロビオティックは、基本的に日本人のジョージ・オーサワ(Georges Ohsawa。桜沢如一)によって創始された。道教の教えとアジアの伝統に基づいた食事と生活の方法であり、第二次世界大戦後、ニューエイジ・ムーブメントの一環として欧米にも多くの信奉者を見出した。大沢の死後、彼の教えは弟子たちによって修正され、さらに発展した。
” ※着色は引用者
Makrobiotik – Wikipedia
https://de.wikipedia.org/wiki/Makrobiotik
”Der Begriff Makrobiotik (von altgriechisch μακρός makros „groß“, und βιοτικός biotikos „das Leben betreffend“) entstand in der Antike und bezeichnet eine Lebensweise, die zu einem gesunden, langen Leben führen soll.
Die neuzeitliche Makrobiotik als „Lehre von einem langen Leben“ wurde im Wesentlichen 1797 durch das Werk von Christoph Wilhelm Hufeland geprägt.[1]
Geschichte und Entwicklung der Makrobiotik
Der Begriff makróbios (μακρόβιος) wurde schon von Herodot und Hippokrates von Kos verwendet.[2] Sie bezeichneten damit Menschen, die gesund sind und sehr alt werden. Aristoteles und andere klassische Autoren beschrieben einen Lebensstil als Makrobiotik, der auf einer einfachen Ernährungsweise fußt und Gesundheit und ein langes Leben verspricht. Im deutschen Sprachraum taucht die Bezeichnung 1796 in Christoph Wilhelm Hufelands Hauptwerk „Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern“ auf.
Eine neuere Form von Makrobiotik wurde im Wesentlichen von dem Japaner Georges Ohsawa begründet. Sie ist eine auf taoistischen Lehren und asiatischen Traditionen basierende Ernährungs- und Lebensweise, die nach dem Zweiten Weltkrieg im Rahmen der New-Age-Bewegung auch in der westlichen Welt zahlreiche Anhänger fand. Nach dem Tod von Ohsawa wurde seine Lehre von einigen seiner Schüler modifiziert und weiterentwickelt.
[中略]
Diese Seite wurde zuletzt am 9. Oktober 2024 um 10:52 Uhr bearbeitet.
”
マクロビオティック - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%93%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF
”マクロビオティックは、マクロとビオティックの合成語である。語源は古代ギリシャ語「マクロビオス」であり[9]、「健康による長寿」「偉大な生命」などといった意味である。18世紀にドイツのクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントが長寿法という意味合いで使いはじめた[1]。
[中略]
出典
1. ^ a b クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント 『長寿学-長生きするための技術』 井上昌次郎訳、どうぶつ社、2005年1月。原著 Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern: Makrobiotik, 1797
[中略]
最終更新 2024年5月8日 (水) 20:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
思いもよらないことを明らかにしてしまった(笑)
フーフェラントとフンボルトを鷗外が間違えているか、作中キャラの知識の不正確さを示すための意図的な誤りかは分からないが、以上を書いた後、小説の注釈でフーフェラントが正しいなどと書いているかどうか確認した。
角川文庫版の『舞姫・うたかたの記』での、『うたかたの記』への注釈にて、
「フンボルト フフェーラントの誤り。(略)ドイツの内科学者、宮廷医で、その著書『長命術』は広く読まれた。」(p.154)とある。
フフェーラントは原文ママ。
隣にはクニッゲについての注釈もあるのだが、メイソンや元祖イルミナティについては一切書いていない。
啓明結社とフリーメイソン : アドルフ・フライへア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II)
(以下を開くと勝手にダウンロードされるので注意)
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00660001-0178.pdf?file_id=71114
”Title 啓明結社とフリーメイソン : アドルフ・フライへア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II)
Sub Title Illuminaten und Freimaurerei : "Aufklärung und Geheimnis bei Adolf Freiherrn Knigge (II)"
Author 斎藤, 太郎(Saito, Taro)
Publisher 慶應義塾大学藝文学会
Publication year 1994
Jtitle 藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.66, (1994. 7) ,p.161(18)- 178(1)
[中略]
1780 年 7 月 1 日に啓明結社員となったクニッゲに対し、アダム・ヴァイスハウプトは自分の結社創設者という立場を隠し,「上司による命令」を装って書簡による接触を開始した。彼は啓明結社を「遠方の地」に本拠を構える「結社の最高指導者たち」の指揮の下「人間と世界を新たに改造する組織」として描き出し,クニッゲに結社への「忠誠心の証を立てるため」に結社員の勧誘をおこなうよう指令する(37)。
[中略]
*
こうした組織の外的枠組みが整備されてゆくのと平行して,結社の目標理念の構築も進められた。その結実が,『新たに採用される監督啓明士に告ぐ』 10)である。 1782 年にヴァイスハウプトによって起草され,クニッゲによる僅かな補筆を経て最終的には『第一の部屋における教授』 の題で「司祭」位階への参入儀礼に組入れられたこの文書においては,結社の政治的,社会的,宗教的な最終目標が展開されている。その内容は多くの結社員によって啓蒙主義精神の神髄と賞賛される一方で, 1787年の『啓明結社原典資料集補遺』の公刊によって世に出ると,敵側陣営からは宗教と君主国家にたいする謀叛を企てる「啓明主義」の動かぬ証拠であると見なされ,フランス革命勃発後は,反革命陣営によってジャコバン派を準備する思想とされた。この文書の概要は以下の通りである。
人類の歴史は「神と自然の計画」 に従って原初の自然状態(幼年期),専制主義の時代(青年期),理性と道徳の時代(成人期)と段階的に完成へ向かう。この歴史的発展の原動力は人間に内在する欲求である。「新たな欲求の一つ一つはいわば新たな変化,新たな状態,より良い状況を芽ばえさせる種子なのである。欲求は人間を活動へと刺激し,人間の中に,この欲求を満たし,消し去りたいという活力を生み出すからだ」 充足さるべき欲求が最小限であるがゆえ,原始においては全ての人間の聞に平等と自由が保たれている。だが,人口が増加し,新たな欲求が発見され,私有財産が導入されると,文明とともに自由と平等の喪失が始まる。弱者は庇護
(6) ―173―
への欲求から強者に服従することを選ぶが,まだ人聞の自由と独立はかろうじて保たれている。ところが強者が「自然を超えた存在」,「神の使者」を僭称し,人類が多くの民族,国家へと分裂するに及んで,世界はもはや「巨大な一家族,唯一の王国であることを止め,自然の大いなる絆は裁ち切られてしまう」エゴイズムと国家主義が人間愛にとって代わり,自由と平等は失われて隷属が支配するようになる。国王はついには国家を私有財産と見なすに到り,他の国家に対して戦争を起こし,奴隷制を導入する。この歴史段階において人聞の行動の動因は恐怖のみである。だが,こうした状態が続く中で君主は,国家と君主自身の利益のためには支配下の国民が盲従するばかりの愚民に留まっていることは得策ではないと知る。自分の「征服欲を満たし,他国を屈伏させるため」には理性の活用が不可避である, との認識と共に「とてつもないメタモルフォーゼ」が起こる。君主のエゴイズムに起因しながらも,理性の支配は学問や産業の開花をもたらし政治的抑圧を減少させ,自由の復活を招くことによって「人間精神の革命」を準備する。これによって人類史の第三期が始まる。「啓蒙専制君主」 による改革の成果を保持し,過去への頽落を防止するために,社会の「選ばれし最良の者たち」,すなわち啓蒙主義者は自己組織を始める。彼らの目的は,専制主義によって破壊された人間の諸権利を自然の法則に適った形で回復し,啓蒙と道徳の促進を通じて「君主と国家が不要な」 体制を築き,最終的には理性が「人間の唯一の法典」であり,全人類が再び「一つの家族となって,世界が理性的人間の住処となる」 ような状態を実現することである。
この歴史哲学において秘密結社(ヴァイスハウプトは「叡知の秘密養成所(geheime Weisheitsschule)」という語を用いている)には,神の救済計画の担い手という世界史的機能と共に,キリスト教の正統な嫡子としての意義が与えられている。すなわち,結社が伝道すべき啓蒙主義の精髄とは「イエスとその使徒たちの神の教え」に他ならない。なぜならイエスが目指したのは「人間たちにその本源的な自由と権利を再ぴもたらす」ことであり,その意味でキリスト教は理性宗教そのものだからである。しかし
―172― (7)
ながら,世俗世界において君主の支配が自由と平等を破壊したように,精神世界においては教会の専制主義が,イエスの本来の意図を誤解し,人間精神の隷属化を招いてしまった。本源的なキリスト教はそれゆえ「フリーメイソンの衣装を纏って」 秘密の裡に保存きれ,伝承きれた。しかしフリーメイソンもまた,次第に本来の使命を忘却して,錬金術や党派聞の抗争に明け暮れている。こうした状況において,「選ばれし者たちの同盟」である啓明結社だけがイエスの教えの理想的体現者である。
後の反啓明結社陣営による攻撃の矛先は,結社の政治的目標として「君主と国家が暴力行為を経ずして地上から消滅する」11)ような体制が掲げられていた点に向けられたが,これと並んで最も声高な非難は,結社が理神論の唱道によってキリスト教の破壊を画策していたというものであった。12) クニッゲは『フィロの説明』の中で,こうした告発に対して潔白を証明しようと試み,彼が作成した「スコットランド位階」が「キリスト教に対する心の底からの温かな崇敬が光りを放っている」(106)ことをその例証として挙げている。しかしながら,彼が「キリスト教の保持に努めることが重要である」( 105 )と主張するとき,彼が念頭においているのは奇蹟,復活,三位一体,悪魔,天地創造などの超自然的真理に立脚する正統的キリスト教ではなしその教義が「自然に適」っているもの,つまり理性的根拠に裏付けされた宗教である。
[
注:
元祖イルミナティは無神論でもないし悪魔崇拝でもない。
『新たに採用きれる監督啓明士に告ぐ』は、 1782 年にヴァイスハウプトによって起草され、クニッゲが僅かに補筆。
最終的には『第一の部屋における教授』の題で「司祭」位階への参入儀礼に組入れられた。
この文書には結社の最終目標が書かれている。その内容は多くの結社員によって啓蒙主義精神の神髄と賞賛される。
この文書は、 1787年の『啓明結社原典資料集補遺』の公刊によって世に出た。
元祖イルミナティ思想は、ルソー(1712年6月28日 - 1778年7月2日)思想の影響下だな。
ルソーは、文明によって人間が毒されなければ、人間の素質は自然に発達すると考えていた。ルソーは人間が未開から文明に到達するとともに、不平等が生まれ、人間は堕落すると考えた。つまり、ルソーにとって、文明以前の状態が善で、文明は悪である。
中略。
↓「彼」はクニッゲのこと。
]
彼がここで構想している,段階的な人間性の陶冶と秘密の開示,上部メンバーの監視による不適格者の結社からの排除は実行に移され,結社の運営担当部門と研究担当部門の分離は「摂政位階」と「司祭位階」の並立によって実現された。他方, 「新しい結社組織図」においてヨハネ三位階に続く二位階が,「スコットランド修練士」 ,「スコットランド騎士」という,「厳格な服従」の位階を思わせる別称を有している事実は両義的である。この措置には,一方で、は両結社の類似性によって「厳格な服従」の会員を抵抗なく啓明結社に導くという戦略的意図が見てとれ,その限りにおいてはヴァイスハウプトの意に反するものではない。しかし他方では,このフリーメイソン制度に特徴的な疑似カトリック
(10) ―169―
的儀礼もまた同時に流入することになった。クニッゲは,「スコットランド・フリーメイソン風の簡素で、感動的な儀式」を導入することによって,結社員がイエスの教義の正統な継承者であるとの自覚を高めることが出来ると説明している(105)。しかし,ヴァイスハウプトにとってこうした儀式の導入は,啓明結社が排除すべき宗教的迷信の侵入に他ならなかった。クニッゲの仕上げた位階に見られるこうした傾向についてヴァイスハウプトはこう述べている。「しかし,正直に言って,これらの位階のどれ一つとして私の気に入るものはない。すべてはひどく無味乾燥で,心や情念に訴えるものが乏しいのだ」19) 「スコットランドの騎士ごっこは私の趣味ではない」 20) ヴァイスハウプトの考えでは,啓明結社は影響力と有効性を失いつつあったフリーメイソンに取って代わるべき存在であるがゆえにこそ,フリーメイソンと啓明結社との異質性は断固として保持されねばならなかった。彼にとってフリーメイソンは自分の結社の隠れ蓑として有用な組織に過ぎず,その価値は徹底してこの機能的側面に限定されていた。これに対し,クニッゲは自ら『フィロの説明』の中で告白しているように,「なおも『厳格な服従』に一種の愛着」を持っており,これと啓明結社の「両組織を合体」させたいとの願望を抱いていた( 83 )。フリーメイソンに関する両者の見解の相違は,疑似宗教的儀礼の導入の是非のみならず,「厳格な服従」の中心メンバーである君侯の結社への勧誘の可否とも連動して,彼らの関係を次第に悪化きせてゆく。それが一挙に表面化するのがヴィルヘルムスバートの国際フリーメイソン会議であった
[
注:
ヴァイスハウプトの口が悪すぎて笑ってしまった(笑)
中略
]
ディトフルトはヴイルへルムスパートの会議の翌年,様々なフリーメイソン流派のゆるやかな結合体である「折衷同盟」 (Eklektischer Bund)を組織する。この同盟は「象徴的三位階(ヨハネ位階)についてのみ同ーの形式で活動」する他は「高位階を承認することも(…)他の秘密結社において自分の幸福を築くこと」26) も個々のロッジの裁量に委ねるという方針を取ったため,啓明結社にとって多様な体制のフリーメイソンに潜入し,これを内部から占拠するための理想的な可能性を開いた。ヴァイスハウプトは1783 年 1 月 11 日のツヴァック宛書簡のなかでティトフルトの計画を賞賛してこう書いている。「われわれの最大の関心は,フリーメイソンに折衷同盟を導入することだ。これが成就したなら,われわれはすべてを恣いままにすることができる」27) この一節は,結社のフリーメイソン戦略における指導的地位がクニッゲからディトフルトに移ったことを如実に表している。
― 166― (13)
クニッゲはディトフルトとヴアイスハウプトのこうした動きに対し,「厳格な服従」の指導者たちを獲得することで密かにこの組織を啓明結社の影響下に収めようと試みる。なかでも大きな成果となったのが,ワイマールの宮廷顧問官で「厳格な服従」の財務長官の任にあったヨーハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデの結社への参加であった。これも後に啓明結社員となるザクセン=ゴータ公エルンスト二世の代理として会議に参加していたボーデは,これ以後クニッゲと並んで北ドイツおよび中部ドイツにおける最も熱心な結社活動家となる。レッシングの『ハンブルク演劇論』やクロップシュトックの『頌詩』の出版者として知られ,ニコライを中心とするベルリンの啓蒙主義者とも盛んな交流を持っていた彼は,フリーメイソンの世界においても,フリーメイソン関連の膨大な蔵書の所有者とし
て,また「厳格な服従」の改革論者として極めて高名であった。彼の活躍により,ワイマールには啓明結社のさらなる重要な拠点が築かれ,ゲーテ(1783 年 2 月 11 日入会),へルダー( 1783 年 7 月 1 日入会),ザクセン=ワイマール公カール・アウグスト( 1783 年 2 月 10 日入会)など,政治的・文化的影響力を持った人物が数多く結社員となった。28) ボーデの指揮の下に上部ザクセンの啓明結社は, 1780 年代半ばにバイエルンで啓明結社が禁止され,消滅したのちも 1790 年代にいたるまで活動を続けることになる。
クニッゲはボーデの協力を背景に北ドイツにおけるフリーメイソン・ロッジに対し完全な支配権を確立しようと活動を続け,ついにはブラウンシュヴァイク公フェルディナントとへッセン=カッセル方伯カールという「厳格な服従」最高指導者であるこ人の君侯の勧誘に成功する。しかしヴァイスハウプトにとってこの一歩は,結社における自己の指導的地位だけでなく,結社の存立基盤そのものを危うくする行為と映った。ヴァイスハウプトは『管区長に与える訓令』の中で, 「君侯の入会は極力避けるべき」であり,仮に入会したとしても結社の「政治的最終目標」 が開示される司祭位階への昇級はさせぬよう指示している。「彼らを自由にしたならば,服従を拒否するばかりでなしこの上なく気高い意図すら自分の利益のために利用するであろうから」 29) 「君主と国家が不要な体制」の実現を
(14) ―165―
目指す結社と君主の結社員という原理的な不整合に加えて,ヴァイスハウプトはディトフルトの影響の下,この二人を「厳格な服従」の非合理的・神秘主義的体質の典型と見なしていた。30)
ヴァイスハウプトのクニッゲに対する非難は,彼の作成した位階に見られる「宗教的狂信」の要素に始まり,さらに下部結社員に対する統率力の欠如にも向けられて(「彼の担当地区はどうしようもなく混乱している」 31))激しさを強めていたが,この二人の君侯の入会を機に,彼が「われわれに秘密の活動をおこなって,何か別の組織を築いている」という疑惑を抱くに至る。「フィロはまだしても呆れた愚行に精を出している。これではわれわれは『厳格な服従』に売り飛ばされたも同然だ。今後はわれわれにフェルディナント公の完全な支配下に入れというのだが,私の目の黒い内はそんなことをさせはしない」 32) 実際クニッゲはヴァイスハウプトの絶対的指導性に制限を加え,結社の指導体制を「専制主義」から「共和主義」に移行させるという意図が「厳格な服従」の指導者勧誘の動機の一つであったことを述べている。33) これに対しヴァイスハウプトは結社中枢部からクニッゲを排除することを決意して,その結社活動をこう総括している。「彼は多くの重要な人聞の獲得を通じて結社に優れた功績を残したが,その他の点では私の力にならなかった。(…)彼はいくつもの無意味な位階を挿入することで私の計画の統一性を台無しにした。長いあいだ彼に譲歩してきたが,もはや彼のやることは度が過ぎている」 34 )一方クニッゲもまたヴァイスハウプトの自分への絶対の服従の要求に「人聞の独裁的支配」を意図する「イエズス会的専制主義」の現れを見て,彼に対する全面的対決の姿勢を明確にする。自分は「イエズス会総長の命令に盲目的に従う」ような人間ではなく,「インゴルシュタットの一教授に学生扱いされる」つもりはない, 35 )と宣言したクニッゲは,最終的にボーデの仲介を経て 1984 年7月1日付で正式に啓明結社を脱退するのである。
クニッゲは『フイロの説明』の中で,啓明結社脱退以後「あらゆる秘密結社活動から手を引いた」( 140 )ことを明言し,『人間交際論』中の一章
-164- (15)
『秘密結社員との交際について』においては秘密結社の有益性を否定する「信仰告白」を行っている。36) そこで展開きれている秘密結社批判には,ヴァイスハウプトとの抗争を通じて得た認識「スパルタクスが意図するようなやり方で人々を悪用し虐げる結社は,人々をイエズス会よりも酷い隷属状態に追いやるものだ」 37 )が明確に反映している。しかし,こうした公的宣言にもかかわらず,クニッゲの生涯における「秘密結社員との交際」の章はとじられない。『フィロの説明』と『人間交際論』が出版された 1788年,クニッゲはすでに次なる秘密結社活動の場を求めてカール・フリードリヒ・バールトの「ドイツ同盟」との接触を開始するのである。
注
[中略]
(28) ゲーテ,へルダー,カール・アウグストの結社参加については長らく疑いがもたれていたが,ボーデの遺稿に基づいたW.ダニエル・ウィルソンの最近の研究( W. Daniel Wilson : Geheimräte gegen Geheim-
bünde,Stuttgart 1991 )によって改めて実証された。
” ※着色は引用者
(「1984 年7月1日付で正式に啓明結社を脱退」は原文ママ。1784年の間違いだろう。
クニッゲは元祖イルミナティを脱会した後に、『人間交際術』で秘密結社を批判したけど、秘密結社活動は諦めていない。
つまり、『人間交際術』には保身の目的もあるということなので、文字通りに受け取ってはいけないのだろうな。秘密結社叩きには本音と、保身用の個所が混ざっているのだろうな)
以上より、フーフェランド自体の解説内容は正しい。
論文については終わり。
ワクワクさんが紹介してくれた素晴らしい論文だ。紹介してくれたワクワクさんに感謝。
「啓明結社とフリーメイソン: アドルフ・フライヘア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II) 」は自力で見つけた、素晴らしい論文だ。以下↓の動画をきっかけとする考察もマジ重要だからオススメ。鷗外の陣営の考察を含む内容だ。
【ゆっくり解説】天才文豪「森鴎外」!軍医の頂点を極め、舞姫や高瀬舟など傑作小説を残した彼の激動の生涯を振り返る!
https://www.youtube.com/watch?v=IGhq_13hDqM
”2022/06/11 #森鴎外 #歴史 #ゆっくり解説
ご視聴いただきありがとうございます。
今回は森鴎外の激動の生涯を振り返っていきます。
ぜひゆっくりしていってね!
0:00 オープニング
1:02 森鴎外の概要
3:10 森鴎外の生涯の振り返り
35:03 エンディング
※参考文献と引用サイト
・山崎 一穎 森鴎外―国家と作家の狭間で
・小堀 桂一郎 森鴎外―日本はまだ普請中だ (ミネルヴァ日本評伝選)
・山下 政三 鴎外 森林太郎と脚気紛争
・志田 信男 鴎外は何故袴をはいて死んだのか―「非医」鴎外・森林太郎と脚気論争
・国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/ )
・Wikipediaコモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/Ma... )”
[動画の解説の一部を私が要約(なので動画の文章そのままとは限らない)。
・翻訳家としては、「ファウスト」や「アンデルセン」などのヨーロッパ文学を訳し、西洋文学を日本に広めた。
・軍医としては、衛生学の調査と研究を目的にドイツ留学を命じられる等、将来を期待された。
・最終的に軍医の最高位である、「軍医総監」まで登りつめている。
・文久2年(1862年)2月17日、石見国津和野町(現・島根県津和野町)で誕生。
(津和野は支配層的に重要な場所だろうな)
・生家は、代々津和野藩に仕える医者の家柄。
(地位が高い家)
・オランダ語も学んでいた林太郎(後の鷗外)は、明治五(1972)年6月、10歳で父と上京。
8月に東京に到着し、旧幕臣で明治政府の官僚、西周の元に身を寄せる。
西は林太郎の曽祖父の次男が西家を継いで生まれた人物で、森家と縁戚にあった。
若き林太郎は、西家から本郷の進文学社という私塾に通い、ドイツ語を学ぶ。
(オランダ語。医者の家系だし、蘭学者人脈だったのかも。オランダといえばメイソン。
親戚が、オランダ系メイソンの西周。鷗外はケツ社員にならない方が難しい運命の下で生まれている)
・林太郎は漢学に蘭学と様々な学問を下地にし、日本に浸透していない概念を、既存の言葉や造語に当てはめる事に腐心。
様々な童話や戯曲などを翻訳。詩情、空想、女優などの言葉を生み出した。
(翻訳と造語はケツ社員の重要な仕事の1つ。西周の造語は一部が有害だ[演繹、帰納、観念は有害な訳語])
・林太郎は明治十七(1884)年6月、22歳で衛生学の研究と、ドイツ軍の衛生制度を調べる為、ドイツ留学を命じられる。
(ケツ社員になった時期の候補の1つがドイツ留学時。留学より前に、西周の紹介で既にケツ社員になっているかもしれないけど。
クニッゲの著作に言及されるうえに、舞台がバイエルン王国(バヴァリア)で、「ミネルヴァ」ってカフェが何度も登場する、あまりにも元祖イルミナティすぎる『うたかたの記』を発表する1890年8月より前にはケツ社員になっていると考えている)
・ゲーテやバイロンが詩に込めた浪漫的心情は、鷗外によって日本語に見事に翻訳された。『於母影』(おもかげ)は日本近代詩の形成に大きな影響を与えた。
(『於母影』は、 森鷗外や落合直文ら新声社同人の訳詩集。1889年発表。ゲーテ・バイロンなどの西欧の詩を訳した。
鷗外は元祖イルミナティのゲーテの『ファウスト』も訳している。)
・明治二十三(1890)年1月に発表した処女作が『舞姫』。
『舞姫』の後、同年8月に留学時代の友人・原田直次郎をモデルにした『うたかたの記』を発表。
明治二十四(1891)年に、ザクセン王国帰りの若き日本軍将校を主人公にした『文づかひ』を発表。
これら3作品は「ドイツ三部作」と呼ばれ、留学時代の浪漫的な体験が色濃く反映されている。
(処女作の『舞姫』はケツ社要素が全然出てこない印象だ。2作目の『うたかたの記』で急にクニッゲ本やらミネルヴァやらバイエルンやらを強調しだす(笑) おそらく、処女作ではケツ社要素抜きで物語を書けるか本人と他のケツ社員が確認するのが目的だろう。
実力確認。
問題なく小説を書けることが分かったので、次作からケツ社要素を入れたのだろうな。
ほら、今でもいるじゃん。最初はケツ社要素が全然なかったのに、急にケツ社度が上がる人(笑) 例えば、『仏滅の刃』の人だよ。初期短編集と『仏滅の刃』を読み比べれば一目瞭然。隠れキリシタンの呼吸なんて初期短編集には登場しないからな。
連載作品になると急に尻社要素が濃くなり、赤い右目側の意向が強く反映されているという大変不自然な作品。
詳しくは以下をどうぞ。
ご支援用⑧(無料公開は危険な『仏滅の刃』考察)
https://yomenainickname.booth.pm/items/3874217
)
・恋の悩みを理性の力で乗り越える青年の成長を描いた、『青年』という作品を1910年3月から連載。
かつての鷗外は『舞姫』という浪漫溢れるドイツの情景と、失恋の末に発狂するエリス(エリーゼ)という浪漫主義的な作品を描いたが、長年の経験を経て、「恋という本能に翻弄されるのではなく、人間が持つ理知的な生き方を描く文学作品こそが優れている」という境地に達する。
(思想が、元祖イルミナティ的な、啓蒙主義的な理性重視思想になっている(笑)
理知:理性と知恵。論理的に考え判断する能力。)
・鷗外は大正六(1917)年12月、57歳で現在の東京国立博物館の前身にあたる、宮内省帝室博物館の総長と図書頭に就任。
(元祖イルミナティ強調の小説、理知的な生き方を良しとした思想、博物館という、今現在の分類だと赤組だな、鷗外)
・大正十(1921)年6月に鷗外は、臨時国語調査会長にも就任し、常用漢字や仮名遣いの修正や改定案についても議論している。
・鷗外は「明治」「大正」という年号に否定的だった。明治と大正は過去に他国で使われていた経緯があり、鷗外は「不調べの至り」と調査不足な政府を批判した事があった。
(「明」が「治」める元号に否定的だったのは意外だ。ケツ社的すぎる元号なのにな)
・鷗外は、樋口一葉をいち早く激賞し、与謝野晶子や平塚らいてうも早くから高く評価するなど、女性への偏見もなかった。彼の作品には女性を主人公とした作品も多く、自宅で多くの人を交えたサロンなども開催した。
(有名な文学者って本当に怪しいよね。鷗外もケツ社員なんだろうな。
そりゃ『舞姫』が教科書に採用されるよね。学校教育というまさに啓明会[イルミナティ]の重要活動にて、元祖イルミナティのクニッゲの著作を『うたかたの記』で紹介したり、クニッゲの著作を元に『知恵袋』を書いた鷗外が採用されるのは当然といえる。
紹介した論文の「どういうわけか鷗外が同書を翻案であると断りながら、原典の作者名をどこにも挙げていない」の理由は、クニッゲと同様、自分もケツ社員だからなんだろうな。クニッゲの作品を元にしたと明かすと、自分のケツ社的立場が明確になってしまうからな。『うたかたの記』に「クニッゲが交際法」だけでなく「カッフェエ・ミネルワ」が登場する(笑) 「カッフェエ・ミネルワ」は実在するカフェだよ。
しかも、「ミネルワ」が何度も登場する(笑) 元祖イルミナティの象徴がミネルヴァのフクロウだし、一部の階級の名前にミネルヴァが含まれる。つまり、鷗外は元祖イルミナティについて、象徴または階級名までも知っていたのだろう。
ドイツ・バイエルン王国が舞台だからバヴァリアは何度も出るのどうみても狙ってるでしょ。
カッフェエ・ミネルワは美術学校の近くにあるので、芸術の神としてのミネルヴァの意味だろうけど、鷗外はそれに元祖イルミナティの意味も付加しているのだろう。掛詞は基本]
森鴎外のドイツ留学を辿ってみよう
https://tannoy.sakura.ne.jp/moriougai.pdf
” ミュンヘン大学の北側に、アカデミー通りがある。凱旋門から西に延びる道である。
この凱旋門は、1814年のバイエルン解放戦争での勝利を記念して、ルードヴィヒ1世が作らせたもので、1852年に完成した。門の上には、バヴァリア女神像が立っていて、ライオンが引く車に乗っている。この像は、後述のように、森鴎外の『うたかたの記』の冒頭に紹介されている。
アカデミー通りを西に歩くと、ミュンヘン美術アカデミー(Akademie der Bildenden Künste München)の壮大な建物が見えてくる。ミュンヘン美術院と訳されることもある。
設立されたのは、1770年頃に絵画学校として作られた。1808年にバイエルン国王のマクシミリアン1世によって、王立美術アカデミーへと格上げされた。マクシミリアン1世は、ミュンヘン大学でも中興の祖であった。1850年~1918年までカウルバッハとピロティが校長をつとめ、ミュンヘン派という画風を作り出し、ヨーロッパ中に知られた。1946年に芸術工芸学校と絵画学校がアカデミーに統合された。美術大学でもあり、多くの学生が学んでいる。
アカデミーの建物は、1886年に完成したルネサンス・リバイバル様式の建物である。前に騎馬像が立っていて印象的である。西側には2005年に建てられた新しいビルがある。
森鴎外の『うたかたの記』の舞台
このミュンヘン美術アカデミーは、森鴎外の『うたかたの記』(1890年、明治23年発表)の舞台として有
名である。
その冒頭は次のようである。
幾頭の獅子の挽ける車の上に、勢よく突立ちたる、女神バワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世がこの凱旋門に据ゑさせしなりといふ。その下よりルウドヰヒ町を左に折れたる処に、トリエント産の大理石にて築きおこしたるおほいへあり。これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。校長ピロッチイが名は、をちこちに鳴りひびきて、独逸の国々はいふもさらなり、新希臘、伊太利、デンマークなどよりも、ここに来りつどへる彫工、画工数を知らず。日課を畢へて後は、学校の向ひなる、「カッフェエ・ミネルワ」といふ店に入りて、珈琲のみ、酒くみかはしなどして、おもひおもひの戯す。こよひも瓦斯燈の光、半ば開きたる窓に映じて、内には笑ひさざめく声聞ゆるをり、かどにきかかりたる二人あり。
出典:森鴎外 うたかたの記 - 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.h
tml
この文章は古語なので難しいが、現代語訳しているサイトを見つけたので、引用する。
ライオンが引く車の上で、勢いよく立つバヴァリア女神像は、ルードウィヒ一世がこの凱旋門に建てたもので、 ここから下ってルードウィヒの町を左に折れたところにトリエント産の大理石で築かれた荘厳な建物がある。ここはバイエルンにある有名な美術学校である。
校長のピロッティの名は諸外国にも鳴り響き、ドイツだけではなく、 ギリシャ、イタリア、デンマークなどからも彫刻家や画家をめざす学生が大勢集まっていた。
学生たちは授業が終わると学校の向かいにある「カフェ・ミネルバ」という店で、 コーヒーや酒を飲み交わしながらくつろいでいる。
今夜もガス灯のあかりが半分開いた窓に映り、そこから外にこぼれた笑い声が一段と大きくなったころ、店のかどまで来た二人づれがいた。
出典:鴎外作品(現代語訳) 『うたかたの記』 http://www15.plala.or.jp/joe2622cool/utakata_jo.htm
ここに出てくる「バイエルンにある有名な美術学校 」こそがミュンヘン美術アカデミーである。バイエルンにある有名な美術学校
「ルードウィヒ一世がこの凱旋門に建てた 」「バヴァリア女神像 」については、前述のとおりである。
「学校の向かいにある「カフェ・ミネルバ」という店 」は、実在した(後述)。
最後に出てくる「2人づれ」とは、エキステルというドイツ人画学生と、巨勢という日本人画学生である。
『うたかたの記』は、巨勢と恋人マリーの悲劇であるが、ここに国王ルードヴィヒ2世が登場して、物語は、ルードヴィヒ2世の非業の死の謎を解く歴史ミステリーとして進んでいく。
基本は、狂王ルートヴィヒ2世 (1845~1886年)が、1886年に水死した謎を解くという歴史ミステリーである。ルートヴィヒ2世は、恋をした女の娘を見て、近づこうとして水死したのだという謎解きである。
しかし、娘が日本人と知り合って、湖に行き、そこでたまたまルートヴィヒ2世と出会って事件がおこり、王も娘も死んでしまうというストーリーである。国も民族も時空も超えた荒唐無稽のファンタジーである。
こんなぶっとんだ話を鴎外が書いていたのはびっくり。
この巨勢のモデルとなったのが、画家の原田直次郎である。
[中略]
カフェ・ミネルヴァのあった場所
[
画像略。カフェ・ミネルヴァと美術アカデミーは本当に近所だな。
中略
]
『うたかたの記』に出てくる「カフェ・ミネルヴァ」は、アカデミー通りとアマリエン通りの東側の角に
あった。今から130年前のことであるが、今でもその場所はわかる。
右側の写真は、アカデミーから南のアマリエン通りを見たものである。左側の角にミネルヴァがあった。
現在は別の建物が建っている。
このカフェの2階に原田が下宿していた。原田は、妻子あるにもかかわらず、このカフェに勤めていたマ
リイに手をつけたのである。
” ※着色は引用者
制服を脱いだ森林太郎 ―鷗外のミュンヘン―(Y. Birumachi)[J]
https://www.jgg.jp/pluginfile.php/310/mod_folder/intro/0085.pdf
”鷗外が描き分けるミュンヘンとベルリンの二つのカフェは、そのまま芸術都市ミュンヘンと世界都市ベルリンの性格を反映するものでもある。ヨーロッパでは 19 世紀末に、アーティストやボヘミアン達が集う芸術家カフェ(Künstlercafé)が流行した。先に鷗外は、蓬髪でラフな格好をした若者たちが「あながち卑しくも見えぬ」さま、つまり、ミューズの名のもとに集まった美大生たち特有の、高踏的な気配とその生態に言及していた。アカデミーの学生が集う『うたかたの記』のカフェ・ミネルヴァは、おそらく日本にこのタイプの喫茶店が紹介された初めての例に違いない。その後のカフェ文化史をひもとけば、東京にも芸術家カフェのような場を求めた「パンの会」の活動、その結果として、1911 年、銀座における日本初のカフェ、プランタンの開業などが挙げられる。明治・大正期の芸術家たちの交流に深く関わるカフェ文化に、鷗外が果たした影響はかなり大きいのではないだろうか。余談だが、鷗外の死の翌年、1923 年にミュンヘンに留学した斉藤茂吉は、カフェ・ミネルヴァの残像を求めて冬の街をさまよい歩き、その経験を、エッセイ「カフエ・ミネルワ」に記している。
およそそんな内容を話して講演を終えると、懇談の際に、一人の婦人が私のほうに来られた。名刺を見ると Andrea Hirner 博士とある。彼女は、バイエルンと日本との史的交流をテーマとした本、Japanisches Bayern を著した研究家であり、鷗外にも造詣の深い日本学者であった。彼女は私に一枚の写真を見せ、「これはカフェ・ミネルヴァですよ」と言った。私は驚いて写真を手に取り、そこに映っている建物を見つめた。カフェ・ミネルヴァは、場所こそ美術学校の斜め向かいのアカデミー通り沿いとされているが、営業した期間が短いのか、私が調査した当時のどのミュンヘン案内書にも載っておらず、むろん写真などはこれまで見つかっていなかったのだ。
” ※着色は引用者
青空文庫
森鴎外 うたかたの記
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.html
【朗読】森鴎外「うたかたの記」【プロ声優】
2022/11/14
https://www.youtube.com/watch?v=4x_ILpLy5PY
”ミュンヘンに留学中の画学生・巨勢と、数奇な人生を辿り美術学校のモデルとなっている少女マリイとの、儚い物語。
日本画学生の巨勢はドイツ・バイエルン王国の首都ミュンヘンで、六年前に出会った花売り娘のマリイと再会する。巨勢はマリイの面影が忘れられず、自作のローレライのモデルとしていた。マリイはいきなり巨勢に接吻する。驚く巨勢に、同行していた友人は「彼女は美術学校のモデルだが狂っている」と言う。
「うたかたの記」は、森鷗外のドイツ三部作と呼ばれる、主にドイツを舞台とした初期作品、異国情緒ある物語を森鷗外の流麗な文語体で書かれた儚い悲恋物語です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
森鴎外は1862年(文久2年)島根県に生まれました。森家は津和野藩の典医を務めました。10歳の時、父と上京し、官立医学校に入るためにドイツ語を学びます。1873年、東京大学医学部に12歳で入学。卒業後は陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務し、ドイツの衛生制度を調べるためにドイツに留学。1889年「小説論」、翻訳戯曲を発表するなど軍医でありながら文筆活動をしてました。「陸軍省医務局長まで務めたが、1916年に退官。その後、東京国立博物館に就任。1922年に60歳で死去。
主な代表作は『舞姫』『うたかたの記』『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』。アンデルセン、ゲーテ、シェイクスピア、シラー、ハウプトマン、ショーペンハウアー、フォン・ハルトマンなど海外の作家から多く影響を受けています。
” ※着色は引用者
【読み聞かせ】うたかたの記(現代語訳版)
https://www.youtube.com/watch?v=C_4DqfKoEi0
【原田直次郎】油絵でなぜ観音様を描いた?【明治の洋画家シリーズ第2弾】
2021/12/03
https://www.youtube.com/watch?v=ZGF4d-z5R20
うたかたの記 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%AE%E8%A8%98
原田直次郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%9B%B4%E6%AC%A1%E9%83%8E
森鴎外が訳したゲーテの戯曲「ファウスト」~ご入居者さまの作品特集♪~ | 【エレガリオ神戸】神戸市内の介護付き有料老人ホーム
https://elegario.com/blog/7908.html
”こちらの記事は以前、会報誌でご入居者さまが森鴎外について書かれたものです。
お書きになられたご入居者さまは数年前にお亡くなりになられたのですが、生前よく可愛がっていただきました。よくお部屋で楽しくお話させていただいたり、パソコンのお教えしたりなど、たくさんの思い出があり、本当にお世話になりました。
今回のブログでは、生前ご入居者さまが会報誌でお書きになられた作品をご紹介します♪
はじめに
平成二十七年四月号の「海岸通之風」に森鴎外が翻訳したアンデルセンの「即興詩人」について述べたが、鴎外最後の和訳はゲーテの長編戯曲「ファウスト」であった。この戯曲の和訳が完成したのは大正二年(一九一三)であったが、その和訳を発想したのは鴎外が二十三歳の陸軍軍医としてドイツへ留学中の明治十八年(一八八五)のことで、それは留学地ドイツのライプチヒの酒亭「アウエルバッハスケラー」でのことであった。この日のことは鴎外の留学記録である「独逸日記」に次のように記されている。
“明治十八年十二月二十七日 (前略)夜井上とアウエルバッハ店(Auerbachskeller)に至る。ギョエテの「ファウスト」(Faust)を訳するに漢詩体を以てせば如何などと語りあひ、巽軒(註)は終に余に勧むるにこの業を以てす。余もまた戯に之を諾す。“
(註;巽軒(そんけん)井上哲次郎、一八五六~一九四四)。哲学者。福岡大宰府に生まれ、東京開成学校を経て東京大学で哲学を専攻、一八八〇年卒業、大学助教授となり、ドイツに留学、一八九〇年帰国、東京大学文学部教授となった。一八九八年文科大学学長、学士院会員。在独中に森鴎外と親しくなった。)
現在、この酒亭にはドイツ留学時代の若い鴎外、井上巽軒と翻訳が完成後の晩年に近い鴎外、それにファウスト博士やメフィストフェレスを描いた絵画が掲げられているという(図)。本稿ではこの絵画を中心に「ファウスト」翻訳に至る経過について一望したい。
一.鴎外のドイツ留学
すでに述べたように、津和野生まれの森鴎外(林太郎、一八六二~一九二二)は十歳で父とともに上京、年齢を偽って帝大に入り、一八八一年に十九歳で医科大学を卒業した。陸軍軍医副に任ぜられ、二十二歳のとき衛生学研究のためドイツ留学を命じられた。鴎外は一八八四年(明治十七)八月二十三日に横浜を出航、マルセイユ、ベルリンを経て十月二十二日に最初の留学先ライプチヒへ着き、この地の大学衛生学教室でホフマン教授に学んだ。滞在中ドレスデンでドイツ陸軍演習などに参加し、一八八六年三月七日にミュンヘンへ移り、ペッテンコーファー教授に学んだ。さらに一八八七年四月十五日ベルリンへ移って衛生試験場で研究したのち、一八八八年帰国の途に就き、七月三日ベルリン發、各地訪問ののち、マルセイユを七月二十七日出航、九月八日に横浜へ帰着した。この間の鴎外の経験は「独逸日記」に詳しいが、最近、私の高等学校時代の同級生・武智秀夫医学博士が詳しい資料に基づいた「軍医森鴎外のドイツ留学」(二〇一四)を出版した。
ライプチヒ、ミュンヘン、そしてベルリンでドイツの衛生学を学んで一八八八年、二十六歳のとき帰国した鴎外は直ちに陸軍軍医学校教官を命じられ、以後、日清・日露戦争などに従軍、陸軍軍医の最高位である陸軍軍医総監・陸軍医務局長まで昇進し、軍医として功をなした。ドイツから帰国後の二十八歳の一八九〇年、鴎外は「舞姫」、「うたかたの記」、翌年「文づかひ」のいわゆるドイツ三部作を発表した。面白いことに、鴎外はこれらドイツ三部作や「即興詩人」を「文語体」で書いている。詳細は省くが、これら三部作以後、文筆家としての活動も目覚ましく、三十九歳で「即教詩人」の翻訳、四十九歳で「ファウスト」の翻訳に着手、翌年脱稿した。
森鴎外の天才ぶりに大いに力になったのはその語学力であろう。幼時にはオランダ語を学び、以後はもっぱらドイツ語の勉強に集中し、読み書きはもちろん会話にも不自由なかったという。鴎外は「独逸日記」でもドイツ語をしばしば用いているが、彼のドイツ語については植田敏郎(一九九三)が詳しく論じている。鴎外はさらにドイツ留学中に英語も学んだ。幼時から漢文にも親しんでいたので、即興で漢詩を作ることもできた。
二.「ファウスト」について
ドイツに十五世紀から十六世紀に実在したといわれるドクトル・ファウストの伝説を下敷きにしたのがこのゲーテの代表作である。「ファウスト」最古の人形芝居が一七四六年、ハンブルクで上演されたというが、以後も演劇などでしばしば取り上げられたようである。ゲーテも子供のころからこの伝説に並々ならぬ興味を持ち、旅回り一座の人形劇を見たという。
ゲーテ畢生のこの大作は二部からなる長編戯曲で、その第一部を一八〇八年、第二部を一八三三年に発表した。書き始めてから完成まで三十年の歳月を要した。その内容を簡単に述べたい。この戯曲の内容は奇想天外であるが、当時のヨーロッパにおける政治、社会の混乱を背景として考えなければならない。宗教改革後の三十年戦争(一六一八~四八)はプラハに始まり、戦争は全ヨーロッパ中を巻き込み、ドイツ全土は戦場となり、ドイツの国土も人々の心も荒廃した。その後、十四~十六世紀にイタリアで興ったルネサンスがドイツへ流入、人びとを自由にしたといわれる。しかし小栗浩(一九七九)はそれを肯定していない。つまり、「ファウスト」はこの動乱時代の冥暗の中から不気味な姿を現すものだという。
主役はファウスト博士とマルガレーテ(グレートヘン)、それに悪魔メフィストフェレスである。主人公ファウスト博士は錬金術や占星術を使う魔術師であるとされ、悪魔メフィストフェレスと契約し、最後には魂を奪われるという話で、「プロローグ」、献辞と前戯」、「天上の序曲」、のあと、第一部、第二部が続く。そのあらましを述べたい。ファウストはメフィストに導かれて街の酒亭(つまりアウエルバッハ酒亭)に出掛けるが、酒飲みの乱痴気騒ぎが彼を満足させない。「ファウスト」第一部に「ライプチヒなるアウエルバッハの穴倉」とする章があり、「面白げなる連中の酒宴」という部分で学生たちの乱痴気騒ぎが描写されている。ここで暫くファウストとメフィストは
「御覧なさい。自由の民だ。あれが鼓腹の楽だ」。これに対しファウストは
「己はそろそろ行きたいがなあ」と不満を述べている。
メフィストは五十歳のファウストを若返らせ、街の娘マルガレーテに会わせる。ファウストは彼女を愛するあまり。彼女の母や兄を死なせてしまう。グレートヘン(マルガレーテ)はファウストの子を産むが、彼女はこの不義の子を殺して獄に繋がれる。ファウストは彼女を救うため牢へやってくる。しかしグレートヘンは、メフィストから離れられないファウストの助けに応じようとしない。彼女は神の裁きに身を任せる。彼女の巳は破滅したが、心はあくまでも純潔であった。ファウストはメフィストとともに姿を消す。愛する者のもとに留まろうとする心と、愛の神と絆を敵視する本能と、一人の人間の胸に宿る二つの魂の葛藤がここに描かれている。第一部では文学的な詩の形式は自由に述べられているという。第一部の終わりで、グレートヘンを捨てたファウストは「おのれは生まれてこなければよかった」と叫ぶほどの痛恨の思いに駆られた。第二部でファウストは新しい生に蘇えって宮廷に入り、古典ギリシャに憧れ、美女ヘレナと結婚し、戦争で手柄を立て、国土を経営した。ファウストは百歳で盲目となり、死んで行くが、彼の霊はメフィストの手をすり抜けて天上に迎えられる。
ゲーテの「ファウスト」は当時のヨーロッパで多くの人々に知られていたようで、音楽にも取り入れられている。例えば、グノーのオペラ「ファウスト」、ベルリオーズの「ファウストの業罰」、シューベルトの「糸を紡ぐグレートヘン」、ワーグナーの「ファウスト序曲」、あるいはリストの「メフィストワルツ」、ヨハン・シュトラウスのワルツ「メフィスト地獄の叫び」などが知られている。また、演劇や映画でも「ファウスト」はしばしば取り上げられた。
三.ゲーテについて
ゲーテ(Johann Wolfgang Goethe, 一七四九~一八三二)については多く知られ、ここで繰り返す必要はないだろう。彼は詩人だけでなく、物理学者、生物学者、それに政治家でもあったという天才である。その長い生涯は常に女性との恋に彩られ、十代のときライプチヒ大学から移ったシュトラスブルク大学でのフリーデリケとの恋から「野薔薇」が生まれた。小栗浩(一九七九)の年表を見ると、ライプチヒ時代のアンナ・カタリーナに始まり、最後のシュタイン夫人まで十指に余る女性と恋をした。一八三二年に八十三歳で亡くなるまで、ゲーテの創作活動には女性との恋が不可欠だった。
ゲーテは一七四九年、フランクフルトの裕福な家庭に生まれたが、十歳のとき、一七五九年の七年戦争でフランクフルトがフランス軍に占領されるという試練に遭った。ゲーテは一七六四年、ライプチヒ大学で法律を学んだのち、一七七〇年、エルザスのシュトラスブルク大学でさらに法律を学んだ。その後フランクフルトで弁護士を開業、一七七二~七五年に「若きヴェルテルの悩み」、戯曲「鉄腕のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を完成し、創作活動の傍らスイス旅行をし、一七七六年には枢密顧問官に任ぜられ、一七八二年には貴族に列せられ、財務長官となった。フランス革命後のナポレン戦争の際に彼のいるワイマルが占領された時にナポレオンと会見した。翌年「ファウスト」第一部が完成、この頃に光学・色彩論の研究をする。一八一二年にはベートーヴェンに会う。一八二六年に「ファウスト」第二部ができ、翌年完結し、一八三二年三月二二日にワイマルで永眠した。ゲーテの自然科43学的な業績については省略したが、まさに天才の一生だったといえよう。その生涯はファウスト博士のそれと相通じるように思える。
四.アウエルバッハ酒亭
「ファウスト」博士が悪魔メフィストフェレスに連れられて行ったアウエルバッハスケラ3ー(註)では学生たちが乱痴気騒ぎをしている。一七六五年から六八年までライプチヒ大学学生だったゲーテはこの酒亭に通い、ここで「ファウスト」の発想を練ったのであろう。百年余りのち、この酒亭にドイツ留学中の森鴎外も通ったらしい。そして、井上巽軒と出かけた日に「ファウスト」の翻訳を思い付いたという。ライプチヒ市の中心部にある歩行者天国メドラー・パッサージュにある地下酒亭アウエルバッハ店の地上入り口には「ファウスト」登場人物のブロンズ像があり、店の所在がすぐわかる。私もライプチヒを訪ねる度にこの店で食事をした。この酒亭は一五二五年創業で、古い伝統を持っている。私が訪れた頃にはまだ無かったが、F.ポーレンツによって描かれたフレスコ画(図)が二〇〇九年にこの酒亭に掲げられたという。
(註:Kellerは本来「地下室」の意であるが、しばしば酒亭やレストランという意味に使われる。それはアウエルバッハ酒亭もそうだが、レsトランが地下にあるからである。例えば各地の「市役所レストラン」は“Rathauskeller”という)
この画を見て不思議に思うのは、留学時の森鴎外(軍服姿、左)と老年の紋服姿で完成した「ファウスト」の訳本を手にした鴎外(右)が同時に座っている。鴎外の訳本が出版されたのは一九一三年で、それから鴎外の死の年一九二二年までの間に井上巽軒とこの酒店を訪れたとしか思えない。この十年間に鴎外がライプチヒを訪れたため、この画が出来たのかと思った。しかし、記録を調べても晩年の鴎外がドイツを訪れたという証拠はない。私の同業の友人でライプチヒ大学のフロムホルと博士にアウエルバッハ酒亭まで出向いて調べてもらった。店で訊ねたところ、この絵は想像上のものだとのことであった。
おわりに
ライプチヒはザクセン州の首都ドレスデンと並ぶ美しい街で、学問的には一四〇七年創設のライプチヒ大学が知られ(増田芳雄、一九九三)、数多くの優れた科学者や芸術家を輩出した。歴史的にも興味ある土地で、三十年戦争最大の激戦地で(一六三二年)、スウェーデン王グスタフ・アドルフが戦死したリュッツェンは市の西南方にある。また、ロシアから敗退してきたナポレオン軍を迎え撃ってこれを破った(一八一三年)欧州連合軍の勝利を記念する碑がライプチヒ郊外に建っている。音楽ではゲヴァントハウス管弦楽団や歌劇場のほか、一二一二年に創設のトマス教会でバッハが一七二三年から五〇年まで楽長を勤め,同教会にその墓もある。また、一九八九年の非暴力革命による東西ドイツ再統一の端緒となったニコライ教会などがある。近所にはザクセン州都ドレスデンのほか、磁器でも知られるマイセンもある。森鴎外もライプチヒでの学生生活を楽しんだことであろう。
【引用文献】
植田 敏郎(一九九三)森鴎外の「独逸日記」鴎外文学の淵。大日本図書。
小栗 浩(一九七九)人間ゲーテ。岩波新書。
武智 秀夫(二〇一四)軍医森鴎外のドイツ留学。思文閣出版。
増田 芳雄(一九九三)ライプチヒ大学植物園。図書一月号、十三~十七頁。岩波書店。
森 鴎外(一九九六)独逸日記 小倉日記。森鴎外全集十三。ちくま文庫。
” ※着色は引用者
森鴎外記念館で現代アート! Vol.3 「『刹那』よ『止まれ、お前はいかにも美しいから』」
https://moriogai-kinenkan.jp/modules/event/?smode=Daily&action=View&event_id=0000000414
”本展のタイトル「『刹那』よ『止まれ、お前はいかにも美しいから』」は、大正2年(1913)に刊行された森鴎外訳・ゲーテ『ファウスト』の中のファウストのセリフを引用したものです。
長大な詩劇『ファウスト』全体を貫く重要なキーワードであるこの台詞が、単に瞬間の外見の美について語ったものではないことは明らかです。人生の経験の蓄積を通じて、生の充実のなかのある瞬間の感覚が、内面的な充溢とともに新たな光を発しはじめ、永遠のものとも感じられてくる、恩寵のような稀有な時間について語った言葉なのではないでしょうか。文学者で医学者でもある鴎外は、ゲーテの作品を翻訳しながら、この言葉に、人間が癒され、より充実した存在になるところの根源的な状態を見、あるいはそこに、人間の理想への希望と憧憬を込めたのかもしれません。
[…]
<開催概要>
会期:2015年10月3日(土)~12月6日(日)
休館日:第4火曜日
会場:文京区立森鴎外記念館無料ゾーン(エントランス、図書室、廊下、カフェ等)
ディレクション:倉林靖(美術評論家)
出品作家:富岡直子、佐野陽一
開館時間:10時~18時 *11月6日(金)~8日(日)は20時まで開館
観覧料:無料(同時開催特別展「ドクトル・リンタロウ―医学者としての鴎外」観覧の場合は観覧料500円必要)
”
ゲーテの「ファウスト」で一番有名な台詞の取り扱い方法の間違いについて~ゲーテのファウストを翻訳して分かったこと~
水上基地
2019年3月24日 08:38
https://note.com/minakamikichi/n/n80ccef6bf613
”よく知られた名台詞
ゲーテのファウストで一番有名な台詞は
「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」
でしょう。原文では
「Verweile doch! du bist so schön!」
の部分、と言われております。
疑問点
だがしかし、この文には「時」は出てきません。
ドイツ語の単語のちょっとした解説。英語は分かりやすい例で挙げました。
Verweile:滞在、留まる、残る、英語で言えば「stay」あたりが適当
doch:まだ、しかし、はい、いいえ、けれど、それでも(意味はかなり変わるので一概には言ませんので一例を挙げました)
「Verweile doch! 」を直訳すると「しばし留まれ」というような意味。
du:あなた、英語で言えば「you」あたりが適当
bist :です、~であれ、英語で言えば「are」あたりが適当
so:とても、英語で言えば「so」あたりが適当
schön:美しい、英語で言えば「beautiful」あたりが適当
「du bist so schön」を直訳すれば「あなたはとても美しい」というような意味。
切り取られた部分だけで読み解くと
有名な台詞に極力合わせると「止まれ! お前はあまりに美しい!」が限界です。
なので「Verweile doch! du bist so schön!」だけを切り取って「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」とは言いがたいのです。
「時」はどこから来た?
ではなぜ「時」が出てくるのでしょうか。
それは前に「Werd ich zum Augenblicke sagen:」という文があるからです。
werd :期待、予期、英語で言えば「will」あたりが適当
ich :私、英語で言えば「I」が適当
zum :~へ、英語で言えば「to」や「for」あたりが適当
Augenblicke :瞬間、一瞬、英語で言えば「moment」あたりが適当。
sagen:言う、英語で言えば「say」あたりが適当。
「Werd ich zum Augenblicke sagen」を直訳すれば「私が瞬間に向かって言う」というような意味になります。
解読すると
この瞬間(Augenblicke )に向かって「留まれ(Verweile doch! )」と言うため、「時よ止まれ」という文意になります。なので「Werd ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch! du bist so schön!」まで含まれば「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」と言って差し支えない(むしろ良い訳だと思います)のですが、「Verweile doch! du bist so schön!」だけを切り取って「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」とは言いがたいのです。
閑話休題
この後のお前(du)が何を指すのかは議論の余地があるのでここでは割愛します。それだけで本が一冊書けてしまいそうです。
結論
言いたいことは、「切り取られて、一人歩きする名言もある」ということです。「時よ止まれ!」は格好良い台詞だと思いますし、流れで読めば素晴らしい訳だと思います。
しかし、切り取って喧伝する人が多く、いかがなモノかと思ったので少し物申しました。
ちょっと言い訳
私はドイツ語圏に行ったことも無ければ、独文科にも行っていませんし、大学等でドイツ語の単位も取っていません。完全な独学初心者なので誤解や間違いが多々含まれていると思われます。ご容赦ください。
”
青空文庫
ファウスト
FAUST. EINE TRAGODIE
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe
森鴎外訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001025/files/50909_49238.html
”己は「刹那」に向って、
「止まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びたい。
”
1)名作朗読 ゲーテ「ファウスト」(上巻/全二巻)【目次、あらすじ、解説、本文テキスト(森鴎外訳)は、下記概要欄参照】全文朗読:斉藤なお子
https://www.youtube.com/watch?v=h1QcchTerzA
2)名作朗読 ゲーテ「ファウスト」(下巻/全二巻)【目次、あらすじ、解説、本文テキスト(森鴎外訳)は、下記概要欄参照】全文朗読:斉藤なお子
https://www.youtube.com/watch?v=c43OWok8aKM
青空文庫
カフエ・ミネルワ
斎藤茂吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5078_39441.html
【現代語訳】斉藤茂吉『カフエ・ミネルワ』
由良瓏砂
2020年2月12日 03:42
https://note.com/yurarosa/n/n31cc9e7342d4
(フェイド大帝がお勧めしていた「オカルト百科」ってサイトがあって、今は消滅した。記事の1つを全文紹介する)
(ここから)
”
イルミナティ(パヴァリア啓明結社)の興亡
イルミナティは、フリーメーソンやユダヤ陰謀説と並んで、盛んにいい加減なヨタ話の種にされる秘密結社である。
イルミナティは、「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」とも呼ばれ、急進的な社会改革思想を持ち、徹底した自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を唱え、一種のアナーキズムを主張した。そして、原始共産主義的な共和制国家の樹立を主張した。
とはいうものの、この結社は創立当初においては、そんなに過激な結社だったわけではない。また、初期においては政治的な色彩も薄かった。
創立時においては、学者の知的サークル的な色彩が強かったのである。
実際、シンボルによる人間の意識への働きかけを考察し、キリスト教神秘主義者の立場から、魔術、カバラ、ヘルメス哲学を擁護したカール・エッカルツハウゼンも団員だったが、彼は過激な政治的革命思想には批判的だった。
イルミナティの創立者のアダム・ヴァイスハウプトは1748年バイエルン王国のインゴルシュタッドで生まれた。
彼の父親のヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプトは著名な法学者であり、インゴルシュタッド大学に、わざわざ呼ばれて教授となった。
というのも、当時のパヴァリアを支配したマクシミリアン3世は進歩的思想の持ち主で、教育改革を行うためにインゴルシュタッド大学に科学アカデミーを創設し、そこの責任者に進歩的なイックシュタッド男爵を任命した。男爵はドイツ中から優秀な学者を呼び集め、大学改革に乗り出したのである。
彼の父のヨハンは男爵の甥にあたり、法学の硬学として名も通っており、まさにうてつけの人材であった。
当時のインゴルシュタッド大学は、カソリックのイエズス会系学者たちの支配下にあり、この改革は、旧体制的なイエズス会系の学者たちと摩擦を引き起こした。
インゴルシュタッド大学がイエズス会の強い支配下にあったがゆえに、アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会式の教育を余儀なくされた。彼はイエズス会神学校に学び、インゴルシュタッド大学法学部に入学後もイエズス会系の学者たちから教えを受けた。そこで彼は優秀な成績を納めし、わずか20歳で法学の学位を取り、若干24歳にして教授となった。
彼は、当然の如く初期に置いてはイエズス会の強い影響下にあった。
しかし、彼はフランスの啓蒙主義や百科全書派の書を読みふけるようになり、次第に反イエズス会の思想に染まってゆく。
1773年のクレメンス15世によるイエズス会の解散命令は、一つの契機だった。インゴルシュタッド大学では、この事件は逆にイエズス会系の学者達を団結させ、彼らは非イエズス会の学者達に圧力を加えるようになった。
そのため、 アダム・ヴァイスハウプトは一時期、大学での講義を禁止され、ミュンヘンに逃げるまでになる。
彼が自由主義の秘密結社の設立を決心した大きな原因が、このイエズス会による迫害にあったことは、間違いない。
彼は古代エジプト、ピタゴラス学派、ユダヤ教エッセネ派について研究し、さらにはフリーメーソンにも興味を持った。
彼は一時期フリーメーソンに入会することも考えたらしいが、実現はしなかった。本来のフリーメーソンでは、ロッジ内での宗教議論や政治議論を禁止していたので、彼の思想とは相容れなかったのである。
彼の目的は、イエズス会の影響を逃れ、自由な学問追求を目指す学者サークルであった。
1776年、ついに彼は自分の結社を創立する。「完全可能性主義者の会」である。この同年に「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」と改称する。
結成初期の団員は、いずれもヴァイスハウプトの弟子や友人たちであった。
しかし、1778年頃に、多くの市民と下級貴族が大挙入団し、組織は巨大化する。
初期のイルミナティの位階は単純で、新参入者、ミネルヴァル、ミネルヴァル天啓の3つしかなかった。ミネルヴァル以上に昇進した団員は、「戦士名」を授けられる。それは古代古典に出てくる英雄の名が使われた。
例えば、創立者のヴァイスハウプトはスパルタクスを名乗り、彼の弟子で幹部のマッセンハウゼンはアヤックス、友人で幹部のツヴァイクはカトーであった。
参入者は団員の紹介が必要である。そして、「保証人」がつく。保証人は新参入者を観察し、彼が団の規則を守っているか、道徳的に正しい人間であるかを調べ、毎月それを書類にして団の上層部に提出する。また新参入者も、同様に自分の保証人について観察を行い、これを上層部に提出しなければならない。
要するに「相互監視制度」があった。これは実はイエズス会の真似であり、ヴァイスハウプトは反イエズス会を標榜しながら、その影響を強く受け続けていたのである。
新参入者からミネルヴァルに昇進するときは、イニシエーションが存在した。ここで彼は上層部の幹部から祝福を受け、「戦士名」を授かった。
そして、仲間の監視報告の他にも日記の提出が義務付けられた。
ミネルヴァルからミネルヴァル天啓への昇進は、事務的な人事であり、イニシエーションは無かった。
そして、下級団員達には、上層幹部のことは絶対に秘密であり、首領の「スパルタクス」の正体を知っているのは、一部の側近達だけだった。
彼らはしばしば集会を行い、反イエズス会や啓蒙思想の本を回覧したり、情報交換を行った。
そして、独自の暦を作り、これを用いていた。
しかし、この組織の運営はやがて行き詰まった。
団員達がフリーメーソンの方が楽しそうと考え、退会が相次いだからだ。
ヴァイスハウプトは、これを止めるために、新たにゾロアスター思想に基づいた「火の位階」という新位階を設定したが、焼け石に水。
そこで彼が考えたのは、フリーメーソン的なものを取り入れるということだ。
彼はメーソンに忠実な団員を潜入させた。
彼はベルリンの大ロッジにスパイを送り込み、まんまとロッジの認可証を手にれるや、ミュンヘンのロッジを乗っ取る。
さらに、アドルフ・ファン・クニッゲ男爵の入団によって、イルミナティは大きく変貌する。
クニッゲは、もともと高位メーソンであり、フリーメーソンの知識や人脈を豊富に持っていた。そのうえ、思想は啓蒙主義的であり、ヴァイスハウプトと意見があった。
ヴァイスハウプトは、彼にプィロンという戦士名を与え、側近に加え組織の大改革を実行させる。
クニッゲは、組織の位階制を13位階以上から構成されるメーソン風の複雑なものに変えた。これは1782年に正式に認可される。
さらに彼はメーソンの人脈を利用して、ドイツ各地の小ロッジを次々に乗っ取った。貴族、政治家、高級官僚、学者、医者、高位聖職者、軍人等の有力者たちが次々に参入し、確かにこの結社はドイツ全土の政界に馬鹿にできない影響……は持てなかった。
というのも、あまりに成長が急であったために、組織の統一性が思うように計れなかったのである。
また、イルミナティの最盛期の会員は600人とも2000人とも言われるが、実はこうした人数は、イルミナティの正式な団員ではなく、彼らの思想に共感したフリーメーソン内のシンパを入れての数であるらしい。
さらに、この巨大化と共に、イルミナティは政治色を強めてゆく。それも急進的な反王制、反教会的な革命を含んだ政治思想である。そして、イルミナティは次第に政治思想的な秘密結社へと変貌してゆく。
こうなったそもそもの原因は、イルミナティを巨大化させたクニッゲ男爵によるところが大きい。彼は貴族でありながら、反王制・共和主義者であったのだ。
とは言うものの、クニッゲは暴力革命には、はっきりと反対の立場を取っていた。
曰く、本来国家の主権は人民にあるべきなのに、王がその座に居座っている。そして、王は人民を従えるために、他国の人々を憎むように教え(いつの時代も偏狭なナショナリストの考えることは同じということか)野蛮な戦争を起こす
しかし、国家転覆を目指すようなことは考えない。我々はあらゆる暴力を否定する。暴力的な革命はろくな結果を生まない。我々はゆっくりと、政府の高官や支配階級に団員を送り込み、あるいは彼らを教育して同志とし、ゆっくりと国家を改造する。最終的には「国」は消滅し、戦争の無い、人民が一つの家族となる時代が来よう。
それには数千年かかるかもしれないが、それでも構わない。
さらに、クニッゲ男爵は、実はこの既存の国々を統一し、一つの国を作るという発想は、当時バラバラだったドイツを統一する程度のニュアンスしかなく、全人類レベルのような大それたことは考えていなかったらしい。
だが、スケールの大小に関わらず、これは既存の国家政府を否定する革命思想であることには変わりなく、当時の支配者たちからしてみれば危険思想であったことには変わりない。
言うまでも無く、反イエズス会の態度は、教会をも敵にまわす事になる。
イルミナティの成長は早かったが、崩壊も早かった。
1777年にマクシミリアン3世が死去すると、イエズス会が勢いを盛り返した。
インゴルシュタッド大学でも大規模な反動が起こり、廃止されていた本の検閲と禁書制度が復活した。
この結果、イルミナティはパヴァリアからの撤退を余儀なくされ、本拠地をワイマールとウイーンに移す。文豪のゲーテ(戦士名はアバリス)が入団したのも、この頃である。
さらに、ライバル結社との抗争も激化する。フリーメーソンの反撃によってフランクフルト進出に失敗。
そして、ベルリンにおいては、かの黄金薔薇十字団が最盛期を迎えており、彼らはドイツ皇帝を動かしてイルミナティに圧力を加えた。
そして、最悪なことに、この大事な時期に、イルミナティ内部で深刻な内部抗争が勃発した。
首領のヴァイスハウプトは、クニッゲ男爵の影響力が強くなりすぎたことに反発し、男爵から全ての権限を取り上げようとした。当然、男爵はこれに反発し、命令を拒否する。
そして、この両者の決別が、事実上のイルミナティの崩壊であった。1784年のことである。
クニッゲ男爵は退団し、その後はあらゆる秘密結社を否定する論者となったしまう。
とどめは1785年にさされる。まず、「政府の許可無く組織を作ることを禁止する」という禁令である。
さらに致命的なスキャンダル事件が起こる。
国立アカデミーの教授でイルミナティ幹部だったヨーゼフ・ウイッツシュナイダーが、密告を行った。
いわく、イルミナティはオーストリアのヨーゼフ2世と結託し、ドイツを転覆させ、ドイツをオーストリア帝国の支配下に置く陰謀を企んでいる。そのために毒殺や短剣を用いた要人の暗殺を企んでいる。
政府はイルミナティの調査を命令する。結果、反キリスト教的思想、反王制思想、革命思想が発覚してしまう。
同年、2回目のイルミナティを名指しで禁止する法令が出される。
一連の指導者は逮捕され、政府高官は左遷、公職追放。
さらに、団の文書の中から毒薬調合に関する物が発見される。だが、これには胡散臭さがついてまわる。本当に団は毒薬を使う気があったのか? これは謎である。
ヴァイスハウプトはレーゲンスブルクに亡命し、イルミナティの弁護の著書を次々に出したが、無駄であった。この頃、彼は私生児を設け、これを堕胎させた。
これは結果的に赤ん坊殺しのスキャンダルに発展し、終いには「イルミナティでは赤子を生け贄にする黒ミサを行っている」というデマまで生まれた。
さらに、イルミナティの元団員達が裏切り、あることないことを吹聴してまわる。曰く、イルミナティは毒殺と私刑に満ちた恐怖支配の黒魔術結社であり、テロによる政府転覆を狙う陰謀結社である云々。
そして、狂信的な反フリーメーソン論者として知られたバリュエル神父やロビンソン教授らが、イルミナティを悪魔崇拝の政治的陰謀結社とする本やパンフを撒き散らした。
(彼らの撒き散らしたデマを信じる人間が現在もなお居るのは、何ともやりきれない)
政府も世論も完全にイルミナティの敵となった。主な団員は公職追放され、団員達も退会する。
オーストリアとワイマールの支部は、その後も何とか存続しようとしたが、1786年に壊滅する。
イルミナティの寿命は、わずか十年間であった。
ヴァイスハウプトは、その後も、ほうぼうを亡命しなら著作活動続けたが、ドイツ中部のゴータ公領に逃げ込み、彼の支持者だったエルンスト公爵に庇護され、そこで余生を過ごした。1811年に彼は死去した。
彼は社会的な平等を唱え、全ての人間は「王(神?)」になることができ、そのためには自己の意志に忠実に生きなければならないとした。なにか妙にクロウリーを思わせる思想である。
彼の理想は古代の家父長制度による原始共産主義的な社会であり、封建君主や教会制度はそこに至るための過渡的なものと捕らえていた。
こうした制度を排し、一般大衆に「啓明」を与え、先の原始的なユートピアを作ろうと考えた。
これは非暴力によって行われなければならないが、どうしようもないときは革命も仕方無いと考えていたふしも否定はできない。
とはいえ、ヴァイスハウプト自身は、政治活動にはあまり関心がなく、あくまでユートピア建設思想を育むために、団員の徳の向上をはかることがイルミナティ創立の目的であった。
しかし、団は暴走した。
やがて、イルミナティの名の一人歩き、暴走はさらに続く。
かのカリオストロ伯爵がローマで逮捕されたおり、苦し紛れにイルミナティなる国際的巨大な陰謀結社があり、自分はその命令通り動いていただけだ、というホラ話しをする。
さらに、フランスの外交官ミラボー伯がドイツでスパイ活動を行っていたが、彼はここでイルミナティに入団したらしい。彼はその人脈を政治的にも利用したらしい。
さらにミラボーは、フランスのフリーメーソンの実力者をイルミナティに入団させようとした。
そして、ドイツで壊滅状態に陥ったイルミナティの難民としてヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデなる男が、ミラボー伯の手引きでフランスに現れる。ミラボーは、彼をフランスのメーソンの顧問的指導者にしようとする。
当時フランスのフリーメーソンはオカルト色が強かった。ボーデはこれを排そうとする。
しかし、カバラの替わりに政治思想を、ヘルメスの大作業のかわりに暴力革命を持ち込もうとする彼らの思想ははなはだ不評であった。
それでも、一部の小ロッジの中には、彼らの影響を受ける者もいたが、やがてそこからはジャコバン党のような連中を生み出し、フランス大革命後の血なまぐさい大混乱のさなか、彼らは多くの人々をギロチンに送り、やがて自分等も自滅してしまうのである。
また、フランスの各地でも、イルミナティを名乗る結社がいくつか作られた。
しかし、言うまでも無く、これらの結社は、ヴァイスハウプトの正統なイルミナティとは何の関係も無い。勝手に「イルミナティ」の名を名乗っているだけだった。
結局、こうしたささやかな団も長続きはできずに消滅した。
しかし、「イルミナティ」の名前だけは生き残り、創立者のヴァイスハウプトの思想とはかけ離れた怪物化がなされ、今もなお一人歩きを続けているのである。
「秘密結社の事典」 有澤玲著 柏書房
「種村季弘のネオ・ラビリントス3 魔法」 種村季弘著 河出書房新社
「秘密結社」 セルジュ・ユタン 白水社
「オカルティズム事典」 アンドレ・ナタフ 三交社
「薔薇十字団」 クリストファ・マッキントッシュ 平凡社
「薔薇十字団」 ロラン・エディゴフェル 白水社
” ※着色は引用者
(ここまで)
教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅲ──森鷗外「舞姫」とその時代 - 日本近代文学館
https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/11971/
”日本近代文学館では、国語教育の現場と文学研究の成果を館が橋渡しする形の企画展「教科書のなかの文学/教室のそとの文学」を2017年度から開催しています。一昨年の芥川龍之介「羅生門」、昨年の中島敦「山月記」に引き続いて今回取り上げる作品は、森鷗外「舞姫」です。
「舞姫」は、1890(明治23)年1月、鷗外最初の創作小説として雑誌『国民之友』に発表された作品です。発表からおよそ130年もの時間が経過したことになります。その「舞姫」が初めて高等学校国語科教材となるのは、1957(昭和32)年のことです。高校生にとって、必ずしも読みやすい文体とは言えないにも関わらず、以後60年以上にわたって定番教材としての位置を保ち続けています。では、その「舞姫」が〈今、ここ〉に生きる私たち(特に若い世代の人たち)に問いかけてくるものは何なのでしょうか。
” ※着色は引用者
紀伊國屋書店
長寿学―長生きするための技術
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784886223272
”フーフェラント,クリストフ・ヴィルヘルム【著】〈Hufeland,Christoph Wilhelm〉/井上 昌次郎【訳】
どうぶつ社(2005/01発売)
(略)
サイズ B6判/ページ数 478p/高さ 20cm
(略)
内容説明
西洋版“養生訓”とも言える本書は、フーフェラントが新進気鋭のイェーナ大学教授であった30歳代なかばに著した一般向けの啓蒙書である。ヨーロッパ近代医学の萌芽期に、真に科学的な健康法・食養生法・衛生法を確立しようとする探究の成果であり、科学史・医学史の歴史的記念碑である。同時にまた、中世以来の迷信・錬金術・占星術の影響の強い一般人に対して、合理精神への転換を呼びかけた思想書であり人生書でもある。医学や薬学を志す人には絶好の医科学入門書であり、老境や死について考える人には知恵の書・癒しの書でもある。
目次
第1部 理論の部(この学問の辿ってきた道;生命力と寿命の探究のあらまし;植物の寿命;動物の寿命 ほか)
第2部 実践の部(寿命を短くする要因;寿命を長くする要因)
著者等紹介
井上昌次郎[イノウエショウジロウ]
1935年生まれ。1965年東京大学大学院生物系研究科博士課程修了、理学博士。米国に短期留学。アレクサンダー・フォン・フンボルト奨学生としてドイツに長期留学、医学部の古風な伝統に触れた。1972年東京医科歯科大学教授、睡眠科学者として脳内の睡眠物質を探究(井上昌次郎著『眠りの精をもとめて』どうぶつ社、1986年参照)。ナイジェリア・ドイツで客員教授。日本睡眠学会理事として睡眠科学、睡眠医学の確立を図った(日本睡眠学会編『睡眠学ハンドブック』、朝倉書店、1994年参照)。世界睡眠学会連合・アジア睡眠学会の創設に携わり、それぞれ理事・会長。2001年東京医科歯科大学生体材料工学研究所長を最後に定年退官、同大学名誉教授
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
” ※着色は引用者
反イエズス会でも啓蒙主義でも反カトリックでも反王政でもないのをイルミナティと呼ぶ奴は全員無知か詐欺師!イエズス会や王侯貴族やバチカンやWASPにイルミナティという間違った名づけをするな!「光=イルミ」もやめろ!最重要マッキントッシュ『薔薇十字団』メモ
Posted on 2017.09.24 Sun 22:21:21
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-229.html
”・p.135から
第七章 黄金薔薇十字団
が開始
オーストリアとのバイエルン戦役で一躍勇名を馳せたプロイセン王家の一員が
1781年に「黄金薔薇十字団」の志願者となる。
薔薇十字団にとって彼は重要な意味を持つ新会員であった。
彼は、叔父にあたるフリードリヒ対応の後を継いでプロイセン王となる
ヴィルヘルム・フリードリヒ二世であったからである。
彼の友愛団への参入は、まもなくわれわれが見るように、
かなり長期にわたる影響を及ぼすことになる。
この段階では、実際には互いに影響しあう二つの黄金薔薇十字団が存在していたことを強調しておきたい。
一つは、前章で説明した広義の錬金術的友愛団である。
もう一つは、「黄金薔薇十字」という名称を引き継いだフリーメイソン系の分派である。
実践的な石工職人の組合とは対照的な、
いわゆる「思弁的な」フリーメイソンのロッジがイギリスで最初に言及されるのは
1646年10月16日にランカシャーのウォリントンで
自分がフリーメイソン・ロッジの会員になったことを記しているイライアス・アシュモールの日誌である。
しかし、スコットランドには
1641年5月20日にエディンバラのロッジにロバート・マリ卿が加入したという信頼できる記録が残っている。
それ以前にもフリーメイソンのロッジが存在していたことは確実と思われるが、
思弁的フリーメイソンのロッジの記録としてはそれが最も古いものである。
(本書は「スン」ではなく「ソン」表記)
フリーメイソンが公的な組織として確定した年代は
ロンドンのグランド・ロッジの創立された1717年である。
グランド・ロッジは急速にイギリスのフリーメイソンを統括する中央組織となり
若干の抗争と分派活動はあったもにもかかわらずそのまま現在に至っている。
中央の権威ある組織が存続していたために
イギリスのメイソンには一貫性と安定性が見られ、
その歴史もどちらかというと直線的に進んできた。
しかし、
ヨーロッパ大陸のメイソンにはそうした中央組織がなく
その歴史は複雑きわまりないものとなった。
メイソンがイギリス以外で最初に足場を築いたのはフランスにおいてである。
フランスにおける最も初期のロッジは1720年代に創設されており、
1756年にはフランスのグランド・ロッジができる。
イギリス生まれのメイソンが発展していった背景には
ヨーロッパにいたジェイムズ二世派のスコットランド人とアイルランド人の助力があった。
そうした人物の一人が
シュヴァリエ【勲爵士】・アンドルー・マイケル・ラムジー【1696 - 1743年】である。
ラムジーはスコットランドのエアシャーで平民の子として生まれ
エディンバラ大学で学士号を取得する。
その後フランス語を習得し
学識ある冒険家としてフランスの貴族社会を自由に動きまわり
あるいはまた「老僭王」〔=ジェイムズ三世〕の子のローマにおける家庭教師となるなどした。
ラムジーはメイソンとしての活躍もめざましく
フランスのグランド・ロッジの高官になっている。
ラムジーはスコットランドには古代のメイソンの伝統が残っており
スコットランド以外の地ではすでに退化してしまった純粋のメイソンが維持されていると
主張した。
こうしてヨーロッパ大陸のメイソン員取って
「スコティッシュ【=スコットランドの】」という言葉は
特別な威光を持つものとなり
革新を正当化しようとする新しいメイソンの儀礼は
しばしばスコティッシュという旗を掲げるようになった。
結果、ラムジーによってフランスのメイソンから
不思議な子孫、スコティッシュ・メイソンが誕生してくる。
スコティッシュ・メイソンは
異国風の儀式と大げさな称号を持つさまざまな儀礼を表すようになる。
パリのグランド・ロッジは華やかに分立していく儀礼を管理できず
自らの権威を弱めていくのである。
正統的なメイソンとともに
スコティッシュ・メイソンはフランスからヨーロッパ全土に広がっていった。
確かにメイソンはもともとイギリス起源だが
ヨーロッパ大陸において最大の規模を誇ったのはフランス版メイソンであった。
メイソンが浸透した国の中で
スコティッシュ・メイソンとその分派が最も肥沃な土壌を見出したのはドイツである。
(ロンドングランドロッジの中枢にフランスのユグノーがいるので
フランス系カルヴァン派の影響は強い。
スコットランド系とフランス系のメイソンのつながりは深く
英米系と対立。
スコティッシュ・メイソンの起源がフランスなのが興味深い。
西洋魔術の本拠地はドイツ。
イングランドではない。
思想の流れで見てもドイツが中心)
ドイツにおけるスコティッシュ・メイソンの儀礼の中で
最も影響力が大きかったのは
1764年にフント男爵カール・ゴットヘルフによって創設された
「厳しい戒律の儀礼」である。
この儀礼はメイソンがテンプル騎士団から派生したことを強調し
ドイツ人は権威あるこの騎士団の伝統を真に受け継ぐ民族であることを主張した。
錬金術的な象徴体系を大いに利用し、
金属変成の秘密を獲得できると約束した。
この民族主義とオカルト学をうまく結びつけることで
「厳しい戒律の儀礼」は多くの人々の支持を得ることができた。
さらに異国風の儀礼は
牧師であったヨーハン・アウグスト・シュタルクによって創設された
「テンプル司祭団」である。
シュタルクは金属変成の術を含む「テンプル騎士団」の秘密の
真の管理者が騎士ではなく司祭であると主張した。
この段階で薔薇十字団とメイソンが出会いそして融合する。
「厳しい戒律の儀礼」や「テンプル司祭団」よりも
さらに深く錬金術の研究を進めようとする人々は
必然的に「黄金薔薇十字団」へと向かっていった。
黄金薔薇十字団は純粋にドイツ的な現象として
より人々を引きつける塚らを持っていた。
かくして薔薇十字的フリーメイソンの新しい儀礼が誕生したのである。
↑
・p.140
↓
新しい薔薇十字結社には錬金術的な知識の探求とは別に、
人々を引きつけるもう一つの特徴があった。
それは結社の政治的立場である。
pp.140-141
”
十八世紀後半の薔薇十字団は、
保守的な見解を持つ人々が結集する場所となっていた。
そうした人々は、ドイツにおいて重大な問題となりかけていた
急進的・理性主義的・反宗教的な傾向に反対する立場をとっていた。
…
アーダム・ヴァイスハウプトのバイエルン結社「イルミナティ【啓明結社】」は、
明らかに進歩的理性主義者の陣営に属している。
しかし、フランスの同時代の著作家が「イリュミネ」という言葉を使用するときは、
反啓蒙主義者たちを指しているのである。
フリードリヒ大王はけっして急進的ではなかったが、
フランス的な平等主義の信念を持つフリーメイソン・ロッジの会員であった。
どちらかというと、フリーメイソンには急進的な意味が含まれ、
新しい薔薇十字団にはそれと対照的に保守的な傾向がある。
…
黄金薔薇十字団の成功の背景には、次の四つの要因があった。
(一)特権的なエリート階級に約束された秘密の知識、
(二)保守派の中心としての結社の機能、
(三)宗教的な代替物としての魅力、
(四)民族主義的な傾向を持つ人々を引きつけたドイツ的性格。”
(黄金薔薇十字は保守でエリート的でヴァイスハウプトのイルミナティと思想が真逆なので対立。
工作員が言うイルミってイリュミネに近い。
啓蒙主義のヴァイスハウプト的思想を受け継ぐ結社は今はフランスの
百科全書・理性主義系。
啓蒙主義で反カトリックで反オカルトで共和主義でない組織に
イルミナティと名付けるのは誤り。
工作員は意図的に誤った名づけをしている。
誤った名づけをしているのはヴァイスハウプトと対立していた黄金薔薇十字系の末裔。
黄金薔薇十字団員が完全に今の支配層の先祖。
ドイツ語文献を読んで研究している人から情報を得ず
黄金薔薇十字vs元祖イルミの歴史を知らない人が
イルミを語っても騙りになる可能性が高い。
)
アルノルト・マルクスは
1929年に出版された黄金薔薇十字団に関する著書において、
黄金薔薇十字団の創設された年代を1757年と特定している。
黄金薔薇十字団はメイソンの影響圏の内側で発展し、
初期の頃には主としてドイツ語圏の南部で栄えた。
その中心地としては、
ヴィーン、
ホーフ、
フランクフルト・アム・マイン、
マールブルク、
カッセル、
レーゲンスブルク、
そしてプラハの居留地である。
最も活動的な中心は、
オーバープファルツのズルツバハ公国であり、
その領主たち、特に
クリスティアン・アウグスト公爵【1622 - 1702年】は神秘的思索に関心を持っていた。
この宮廷には神秘主義者たちが集まっており、
その中にはヘブライ語学者でありカバラ主義者であった
クリスティアン・クノル・フォン・ローゼンロート【1636 - 89年】や、
医師でありカバラ主義者でもあった
フランキスクス・メルクリウス・ファン・ヘルモント【1618 - 99年】がいた。
ズルツバハはまた、オカルト学や神秘的な著作の出版でも一つの中心地であり、
カバラやユダヤ教に関するヘブライ語の出版社があった。
ヘルモントは輪廻転生を信じており、
ローマに滞在していたときには、
そのために異端審問所の牢獄に幽閉されていたこともある。
(年代的に黄金薔薇十字団には属せないが
完全に黄金薔薇十字の先祖)
ズルツバハ公国が十八世紀の後半に黄金薔薇十字団の中心地になるということは
何も驚くことではない。
黄金薔薇十字団の指導者は、
ベルンハルト・ヨーゼフ・シュライス・フォン・レーヴェンフェルト博士【1731 - 1800年】であった。
シュライス・レーヴェンフェルトは七年戦争で軍務についた後、
ズルツバハの宮廷付き医師となり、最後には伯爵となっている。
多くの医学書の他に、薔薇十字団を弁護する著作も二冊書いている。
ズルツバハ以外に薔薇十字団の活動の中心地になっていたのは、マールブルクである。
そこで指導的な提唱者となったのは、
フリードリヒ・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・シュレーダー【1733 - 78年】である。
シュレーダーは大学で医学を教えており、
神秘学と錬金術に強い関心を持つ著名な医師であった。
1764年にマールブルクに移るとすぐにシュレーダーは、
「三頭の獅子」というメイソンのロッジに加入し、
翌1765年にはロッジの内部に薔薇十字団の支部(チャプター)を構成したと信じられている。
錬金術に関する著作の他に、黄金薔薇十字団の会員のための便覧を執筆した。
(医者多いな!
医学と占星術が一体だからオカルト好きも多いのだろう)
すでに述べたように、
南ドイツ、オーストリア、ハンガリー、北イタリアには薔薇十字団の
中心地が点在していた。
北ドイツにおける中心地はベルリンとハンブルクであった。
ハンブルクにおいて、1785年、多くの錬金術に関する挿絵と
黄金薔薇十字団の教義の説明を含む匿名の書『薔薇十字団の秘密象徴』が刊行されている。
黄金薔薇十字団のさらに重要なテクストとして、
ゲオルク・フォン・ヴェリングの『魔術・カバラ・神学論集』がある。
この書物は
1719年にフランクフルト・アム・マインで初版が出ており、
著者はグレゴリウス・アンゲルス・ザルヴィヒトであった。
この名はおそらくヴェリングの偽名であると思われるが、
実名であってヴェリングはその編者である可能性もある。
この本はかなり混乱した内容となってり、
1769年にこの書物を研究したあの偉大なゲーテも、
なかなか理解できなかった。
にもかかわらずそれは、黄金薔薇十字団が使用した最も重要な教科書となった。
1767年の改革は、結社がすでに変動期にあるときに行われた。
前年の1766年10月には、
オーストラリアにおいて薔薇十字団を禁止する皇帝の布告が出ている。
この布告は大ドイツ圏における結社全体に影響を及ぼすことになる。
それまで指導的な立場にあったフィクトゥルトはインスブルックに避難せざるをえなくなり、
その影響力も低下した。
シュライス、シュレーダーなどの新しい世代が指導者となり、
1767年の改革で具体化される新しい考えが登場した。
薔薇十字団の起源がテンプル騎士団にあるとする伝説が消え、
教義においては聖書が中心的な位置を占めるようになった。
黄金薔薇十字団も最終的に崩壊する前に、
その勢力と影響力が最後の盛り上がりをみせた。
プロイセン王が黄金薔薇十字団の会員となるのは、
この幸福な一時期においてである。
フリードリヒ・ヴィルヘルム公を友愛団に導いたのは、
ヨーハン・ルドルフ・フォン・ビショッフスヴェルダー【1741 - 1803年】である。
ビショッフスヴェルダーはテューリンゲンの貴族出身であり、
1754年に亡くなった父親も、
最後はサクス元帥の副官となるなど輝かしい軍歴を持っていた。
ビショッフスヴェルダーは、初め法律を学んだが、
やがて父親と同じ道を歩むことになり、
七年戦争の後半【1760 - 63年】にはプロイセンの騎兵隊の士官となっている。
戦争後、ビショッフスヴェルダーはクーアラント公カールの厩舎監・家令となり、
1764年には「厳しい戒律の儀礼」に加入し、「グリフォンの騎士」という名前を与えられている。
しかし、「厳しい戒律の儀礼」においてはビショッフスヴェルダーが求めていた神秘学の知識は得られず、
ライプツィヒにあるコーヒー・ハウスの経営者ヨーハン・ゲオルク・シュレップファーと知り合いになる。
錬金術師と薔薇十字団員を自称していたシュレップファーは
1774年に自殺しているが、
その前にシュレップファーは霊を出現させる機械と
若さと活力を維持させる霊液をビショッフスヴェルダーに贈っている。
ビショッフスヴェルダーが薔薇十字団に関心を持つようになったのは、
シュレップファーの感化によるのかもしれない。
いずれにしてもビショッフスヴェルダーは
1779年12月24日に黄金薔薇十字団に加入している。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、
すでに「黄金の鍵」というメイソンのロッジの会員であったので、
黄金薔薇十字団の志願者の資格を持っていた。
一年間の見習い期間ののち、
1781年8月8日にフリードリヒ・ヴィルヘルムは黄金薔薇十字団への加入を承認される。
彼にもオルメスス・マグヌスという特別な名前が与えられた。
友愛団の中ではビショッフスヴェルダーが彼の直属の上司であり、
そのとき以来特別の僚友となった。
ヴィルヘルムが王位についた後、
ビショッフスヴェルダーはプロイセンの外交政策にも強い影響力を及ぼし、
フランスのジャコバン主義に対する反革命十字軍を奨励した。
(黄金薔薇十字は保守だから王侯貴族系で
革命否定は当然)
ヴィルヘルムの参入儀礼において歓迎の講話をしたのが
ヨーハン・クリストフ・ヴェルナー【1732 - 1800年】であり、
ヴェルナーは後にビショッフスヴェルダーより強い影響力を王に与えることになる。
ヴェルナーは平民の出身であった。
ヴェルナーは黄金薔薇十字団に加入し、
まもなく北ドイツの中心的な指導者となり、
総勢200名からなる26支部の最高指揮官となる。
1786年にフリードリヒ・ヴィルヘルムが王位につくと、
ヴェルナーは新王の経済顧問官となり、
貴族に列せられる。
さらに、彼とビショッフスヴェルダーはヴィルヘルムの相談役として、
演説草稿の執筆をしたり、
旅のお供をしたり、
人事問題で意見を述べたりするようになる。
ヴィルヘルムは芸術にも熱心であり、
ベートーヴェンやモーツァルトなどの保護者であった。
ヴェルナーが最も強く影響を与えたのは宗教の分野においてである。
ヴェルナーの「嫌悪の対象(ベト・ノワール)」となっていたのは、
いわゆる「啓蒙主義者」であった。
(ヴァイスハウプト系は啓蒙主義だから黄金薔薇十字と対立)
二人の権勢は、ヴィルヘルムの死とともに終わる。
彼の息子のヴィルヘルム三世が王につくと、
薔薇十字団の徒党は一人残らず宮廷から追放される。
南部でも黄金薔薇十字団は勢力を失っていた。
1785年にオーストリア=ハンガリーで錬金術禁止令が出た後、
結社は休眠状態に入った。
1790年になって新皇帝レオポルト二世が即位すると、
彼が錬金術への関心を持っていたこともあって、
結社はふたたび表面に現れた。
しかし、レオポルト二世の統治も短期間に終わり、
彼は1792年に亡くなる。
その後を継いだフランツ二世の時代になると、
錬金術禁止令が再度交布される。
結社はしばらく地下に潜ったと考えられる。
オーストリア国立図書館にあるアルカリオンの『アーレフ』という錬金術=薔薇十字的写本は、
1802年という年代になっているからである。
その後、黄金薔薇十字団についての噂はまったく聞かれなくなる。
しかし、薔薇十字運動は別の土地において新しい局面を迎える。
(中略)
・p.207から
薔薇十字団の主題を利用した詩人にゲーテがいる。
ライプツィヒでの修業時代を終えて
1768年にフランクフルトに帰ると、
ゲーテは体調を悪くして数か月間病床につく。
ゲーテは、病から回復できたのは錬金術の秘密の「塩(えん)」を服用したからであると考え、
後に錬金術の実験を自分でも試みている。
病床にいるあいだ、ゲーテはヘルメス主義的な話題に関する多くの本を読んでいるが、
そうした関心をゲーテに呼び起させたのは、友人で会ったフォン・クレッテンベルク嬢である。
薔薇十字思想はゲーテが読んだものの中に含まれていたに違いない。
ゲーテは26歳のときに、若きカール・アウグスト公の顧問官としてヴァイマルに移るが、
薔薇十字思想への関心はその時まで続いていた。
薔薇と十字は、彼の未完の詩「秘儀」【1784-85年】の特徴となっている。
pp.208-209
” ゲーテは、一七八五年の春にこの詩を書くのをやめている。
彼はその主題にすでに飽きていたのだが、それを放棄する別の理由があった。
一箇月前に薔薇十字団は、
ヴァイスハウプトの創設したバイエルンのイルミナティ結社を警察に弾圧させることに成功していた。
第七章ですでに指摘したように、
十八世紀の薔薇十字団は政治的に保守的であるのに対して、
イルミナティ結社は急進的であった。
ゲーテは賢明にも、イルミナティ結社の弾圧が真の薔薇十字友愛団の理想にも及ぶことになると察していた。
インゴルシュタットの教会法教授であったヴァイスハウプトは、
バイエルンの薔薇十字集団とは意見が合わなかった。
エッカーという名前の歩兵隊の将校は、
ブルクハウゼンに錬金術研究を目的とする薔薇十字団の支部を設立した。
その支部は代理人をインゴルシュタットに送り込み、
ヴァイスハウプトが自分の結社のためにと注目していた会員を引き抜こうとしたために、
彼の怒りを招いた。
ヴァイスハウプトは、
「若い人々が黄金変成とか同じような馬鹿げたことに参加するなどということは、
私には耐えられない」と書いている。
ゲーテは、黄金薔薇十字団との対立においてヴァイスハウプトに共感を持っていたが、
薔薇十字思想それ自体を非難することはなく、その主題に興味を持ち続けた。”
(
(ヴァイスハウプトは薔薇十字が大嫌いである理由の一つが
薔薇十字に引き抜き攻撃を食らったこと。
ゲーテもイルミナティ結社のメンバーだが
薔薇十字が嫌いではない。
ヘルダーリンもイルミナティ結社員。
私がイルミナティという単語を使うとき基本的にヴァイスハウプトの結社を指す。
ヴァイスハウプトは錬金術の黄金錬成思想を否定。
つまり、薔薇十字思想の根幹の一つの否定。
そうえばシンフォギアでヴァイスハウプトが敵で性格最悪だったのは意図的だね。
日本は実質王政だから共和主義のヴァイスハウプトは叩かれやすいのさ)
p.218
黄金の夜明け教団の会員の一人であったW・B・イェイツはその詩や物語において
しばしば薔薇十字団の主題と薔薇のイメージを使っている。
黄金の夜明け教団の会員であったクロウリーの詩「薔薇と十字」は、
『オクスフォード神秘詩集』に入っている。★11
★クロウリーの使用した便箋の上部には一時期、
自分の称号として名前の下に
「M.D.Damc.」
と印刷されていたことがある。
『名声』においてクリスティアン・ローゼンクロイツがアラビアのダムカル【Damcar】で
医学の知識を修得したことに言及するものと考えられる。
(黒星★=原注
=作者マッキントッシュがつけた注釈。
白星☆=訳注
=翻訳者の吉村がつけた注釈。)
” ※着色は引用者
(「オルタナティブを考えるブログ」というブログあったのが消えてしまった。このブログの元祖イルミナティについての記事を紹介)
(ここから)
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【1】
2009/8/14(金) 午後 6:24 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
イルミナティ結社という18世紀半ばドイツのバイエルン州で設立された組織は、どういうわけか近年の陰謀論には欠かすことの出来ない秘密結社となり、反ロスチャイルド同盟やその他の国際金融資本家の陰謀論にまで登場している。
1776年、ロスチャイルドが資金提供して、インゴシュタット大学法学部長のアダム・ヴァイスハウプトが秘密結社イルミナティ(光明会)を創設します。
アダム・ヴァイスハウプトは、わずか24歳で大学教授になった「早熟の天才」と言われたユダヤ人です。
このイルミナティの共同設立者として、あのヤコブ・フランクが名前を連ねています。
イルミナティは、その目的を「知的に有能な人々に世界を支配させ、すべての戦争を防止させるために、世界統一政府を作ることにある」とし、当時の最も聡明と言われた人々、二千人もの信奉者を集めたということです。
結社を結成した5月1日に、ヴァイスハウプトは『Novus Ordo Seclorum』という本を出版しています。 Novus ordo seclorumはラテン語で、英語ではNew World Order、つまり新世界秩序となります。
反ロスチャイルのサイトより抜粋: http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
何故だろうか?
これは1つ事象に対する陰謀論を支持する者は、ありとあらゆる物事に対する陰謀論を支持するという悲しい特性があるためだ。
国際金融資本の陰謀を信じている人は、おそらくユダヤ人の陰謀だとか、9.11の陰謀なども信じているに違いない。今回の経済危機においても
『どこかできっと陰謀があったに違いない』
と、
ロックフェラーだとか、外交問題評議会やビルダーバーグ会議だとか、目に見えない巨大な力による陰謀があると考えるだろう。
まぁ、それはそれでいい。
彼らは(と言いながらもついこの間までの自分もそうだが)、『自分たちは真実を知ってしまった・・・この真実をみんなに伝えないと・・・』と考え方によっては正義感や善意の塊のような人たちだ。しかし、真実を探しているようで、
実のところ彼らが探しているのは、
「更なる陰謀」 の 「きっかけ」 に他ならない。
ま、
陰謀論は楽しい。
スケールが大きく( ̄o ̄;)
ちょっとワクワクするようなところがある。(・_・;)
誰も知らない秘密を、あたかも自分を含めた少数だけが知っているような気分。
見てはならないものを見てしまった映画の主人公になったような気分になる。
映画が終わり、場内が明るくなって床に散らかっているポップコーンを見た時、ふと現実にかえる。
映画の続きを見たかったら今後このブログは見ないほうが良いかも知れません。
陰謀論の起源
おそらく陰謀論がまかり通った時代は、紀元前のギリシアやローマにも存在してた。陰謀論という言葉そのものは、全く新しいというわけではないが、理論して広がりを見せるのは17世紀に入ってからだ。17世紀に入ると、エリザベス1世の時代に反イエズス会が吹聴したカトリック陰謀事件を発端として、フランス革命ではロベスピエールが様々な外国の陰謀論(つまり”言いがかり”。しかし根拠が無かった訳でもない)を利用しながら公安委員会によって恐怖政治を行ったりもして、陰謀論百花繚乱の時代を迎える。
カトリック陰謀事件
イメージ 1
同時代、大西洋をはさんだ向こう側の大陸でも同じだった。アメリカ独立戦争直後は大英帝国の陰謀論が吹き荒れた。国際金融資本の陰謀論を用いてアレクサンダー・ハミルトンなどの連邦派に対峙したのは他でもないトーマス・ジェファーソンだった。彼自身が理論を展開したわけではないが、国際金融資本の陰謀論の開祖はジェファーソンかもしれない。
そして、19世紀になると啓蒙思想家によるアンチ・キリスト教的な攻撃が大々的に行われ、フランス革命の政犯探しなどの反動から、保守的な理論家を中心に陰謀論の矛先を逆転させる運動が起きた。この急先鋒にたったのが、イエズス会のアウグスティン・バリュエル(1741-1820:Augustin Barruel)だった。まぁ、言ってみれば近代陰謀論者の草分け的存在だ。
アウグスティン・バリュエル(Augustin Barruel)
イメージ 2
アウグスティン・バリュエルの登場までは、イエズス会が陰謀論の中心的存在であった。日本ではフランシスコ・ザビエルで有名なあのイエズス会だ。
イエズス会は近代においてプロテスタント側のみならずカトリック側の人間からもさまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)がしばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられるのはその名残である。イエズス会は「より大いなる善」のためならどんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆などあらゆる「陰謀」の犯人とされた。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに教皇とバチカンを陰から操っているのは実はイエズス会総長であるといううわさがまことしやかに吹聴されてきた。
しかし、バリュエルの登場でイエズス会に向けられていた陰謀論の矛先は突如方向転換をする。
その矛先が向けられたが、他でもない
イルミナティ結社だった。
バリュエルは、1797年から98年にかけてバリュエルが書いたを全4巻からなる大?b>『Mémoires pour servir à l'histoire du Jacobinisme(ジャコバン派の歴史上記憶にとどめておくべきもの(?))』砲�い董△修療��茵璽蹈奪冀罎紡減澆垢襪△蠅箸△蕕罎覬∨渡世療�腓靴燭發痢淵轡鵐董璽次砲鮑遒蠑紊欧拭?br />
全4巻からなるこの超大作は、彼の名を一躍有名にした。
ヨーロッパ諸国の言語に翻訳されたこの本はロングセラーとなり、19世紀前半ヨーロッパで最も売れた本になった。
バリュエルを一躍有名にしたこの本では、どのようにフランス革命が起りえたか?という問題をテーマにまず最初に以下のような記述で始まる。
『フランス革命においては・・・すべて、彼らの恐るべき犯罪行為にいたるまで、予見され、熟慮され、組み合わされ、計画が立てられた。すべて彼らによって準備され導入された最も極悪な作用は、長い間、秘密結社によってじっくりと練られ、彼らの陰謀を確実に成功させるために最も好都合な瞬間が選択され、そして実行された。』
第1巻で彼は反キリスト的な陰謀論はすべて啓蒙主義の哲学によるものだと非難した。
第2巻では詭弁と君主に対する反抗の陰謀として、彼はフリーメイソンなども同類とみなした。
第3巻で、ついに彼はイルミナティをアナーキストもしくは悪魔主義者として描き出し、フランス革命の直接の原因が彼らの陰謀であるとした。
第4巻ではバイエルン州のイルミナティを三世紀近くのペルシアの宗教設立者まで溯らせ、その預言者を異端者としてみなし、その後のあらゆる異端者の起源としている。
この本が出版された当時、イルミナティはすでに解散していた。ヴァイスハウプトは生きていたが・・・。
僕自身この古い文献はまだ読んだことがないのでダイジェストしか分らないが、バリュエルの登場によってイエズス会の逆襲とも取れる陰謀論が理神論者や啓蒙思想家に対して展開されたことは確かだろう。そして彼がはじめた陰謀論は現在に至るまでの陰謀論にある流れを呼び込む布石となった。
それは 「反ユダヤの陰謀論」 だ。
続く・・・
” ※着色は引用者
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【2】
2009/8/17(月) 午後 11:55 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
イルミナティ陰謀論は、イエズス会の出身であるアウグスティン・バリュエルの19世紀前半のベストセラー?b>'『Mémoires pour servir à l'histoire du Jacobinisme(ジャコバン派の歴史上記憶にとどめておくべきもの(?))』砲修發修發糧�爾�△襪海箸倭芦鷭劼戮拭?br />
彼の四巻になる大著がイルミナティをとりまく陰謀論の起源となるわけだが、そもそもイルミナティとはどのような秘密結社であったのだろうか?イルミナティ結社の起源を知るにあたって、当時18世紀頃のドイツ・バイエルン州における精神世界的な時代背景や社会政治の状況を確認する作業というのは、とても大切な作業だ。
18世後半のドイツ・バイエルン州の状況
ドイツ人の著名な歴史家で『Historische Anthropologie(歴史人類学)』という雑誌も発行したザールランド大学の教授リヒャルド・ファン・ドュルメン(Richard van Dülmen)は、イルミナティ結社について1975年の時点で、「イルミナティという結社はドイツの歴史学においては、かつて一度も歴史的意義のあるものとして注目されなかった。」と言っている。
ただし、こうした状況はここ30年ほどで変わり、歴史学者だけでなく、ワイマール秘密委員会の会員リストにゲーテの名前が見つかってからは文学研究者までもが秘密結社を研究し始めた。
そして、イルミナティ結社は啓蒙思想時代に結成された秘密結社の中で最もよく研究される対象となった。
イルミナティが最も研究された理由は単純で、他の秘密結社に比べて資料が豊富で容易に入手できたからだ。なぜ入手しやすかったかというと、それは時のバイエルン選帝侯であるカール・テオドールの警察隊が、1786年にほとんどの結社の書簡を押収することに成功し、政府命令によって1787年に印刷されるにいたったほどだ。
反イルミナティの公表文に対する反応として、ヴァイスハウプトや元イルミナティ会員は多量の釈明・抗議文を公表したので、比較的文章として残っている資料が多い。
当時の啓蒙思想がヨーロッパに与えた影響はすさまじかったのは言うまでもないことだが、
ドイツ・バイエルン州で確認される啓蒙主義の構造的変化と言うべき動きは、3つの局面に分ける考えることができる。
第一局面
バイエルン選帝侯であるマクシミリアン3世ヨーゼフ(1727-1777)は、バイエルン州のカトリック教会に対して決定的な影響を及ぼし、修道院の改革に取り組んだ。彼は非常に進歩的・啓蒙的な思想で知られた人物であった。
彼のカトリック教会の改革運動の頂点は、官僚で歴史家のヨハン・ゲオルグ・ロリ(1723-1787)によって1759年に設立されたバイエルン科学アカデミーと“精神的世界の委員会(Geistliches Rat)”であったとされている。また、ニンフェンブルクに磁器工場を建設するなど経済や手工業の発展に大いに力をかした。
ちなみに彼の卒業した大学はヴァイスハウプトと同じインゴルシュット大学で、所謂ヴァイスハウプトの先輩にあたる。ひょっとしたらヴァイスハウプトのお父さんの講義を受けていたかもしれない。
Max III. Josephマクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)
イメージ 1
第二局面
第二局面は、ジャンセニスム支持者、合理主義者、そして薔薇十字団の論争が激しく展開された局面だ。これらを背景にイエズス会結社が1773年に禁止され、1776年にイリミナティ結社(当初は違う名前で“蜜蜂団”)が誕生した。
ジャンセニスムというのはあまり聞きなれない言葉かもしれないが、啓蒙思想時代に広まった思想の一つである。
以下はWikipediaより引用
ジャンセニスム(Jansenisme)は17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想。ヤンセニズム、ヤンセン主義ともいわれる。人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。低地諸国出身の神学者コルネリウス・ヤンセン(1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス』の影響によって、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。
コルネリアス・ヤンセン(Cornelius Jansen)
イメージ 2
ジャンセニスムは、その行き過ぎた悲観的人間観や自由意志の問題により1653年にローマ教皇庁によって禁止・追放されることになった。しかし、18世紀に入るとケネルという人物がフランス教会の権威からの自由とシャンセニスムを結びつけ、再び論争を巻き起こした。
薔薇十字団という秘密結社の起源については、マルティン・ルターにはじまる宗教改革や、パラケルスス、敬虔主義、錬金術、千年大国説などの理論の発展と結果に不満を持った貴族階級の人々や学者達が神学と科学を融合させるような新しい道を模索していた時期だった。敬虔主義や神智学から派生した様々な幕の内弁当のような思想が、17世紀における薔薇十字団のマニフェストに広がりに重要な役割を果たしたといわれている。彼らの思想のは当時支配的だったキリスト教神学の流れに真っ向から対峙するものであった。
ただし、この名前を持った結社が何であったか定義するのは極めて難しいとされている。クリスチャン・ローゼンクロイツが1614年に匿名の書物1614年に神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで刊行された文書『Allgemeine und General Reformation, der gantzen weiten Welt全世界の普遍的かつ総体的改革』にはじめて登場する。例えば薔薇と十字架の紋章というのは、いろいろな説があるが実はマルティン・ルターも使用していた。薔薇と十字架のコンビネーションというのは啓蒙的な思想と結びつける上でよく用いられていた象徴だった。
マルティン・ルターの紋章
イメージ 3
薔薇十字団の思想的特徴を述べるのは難しく、実際は、錬金術、占星術、神智学、自然哲学などのヘルメス主義、ネオプラトニズム、カバラ、そしてグノーシス主義など様々な哲学的世界が混ざり合わさっていた。
第三局面
第三局面は、イルミナティの禁止によって終焉を迎える事になる。バイエルン州の特異な発展はファン・ドュルメン によると『封建教会の独占的な地位と脆弱な市民という社会的情勢に立ち向かうために、少数の精神論者や官僚などの愛国者によってバタバタと啓蒙思想的な処方箋を描こうとした過程によるもの』だとされている。
次はヴァイスハウプトの生い立ちやイルミナティ設立の歴史をドイツ語サイトの情報ソースを中心に見ていく。
” ※着色は引用者
” 反陰謀論 真実のイルミナティ 【3】 ヴァイスハウプトはユダヤ人か?
2009/8/18(火) 午後 6:33 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
前回の記事→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20688914.html
ヨハン・アダム・ヴァイスハウプト(Johann Adam Weishaupt:1748-1830)は、1748年2月6日にインゴールシュタットに生まれた。彼の父ヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプト(Johann Georg Weishaupt: 1717–1753)は法律学の教授であったが、彼が5歳の時に亡くなってしまう。
彼の出生にまつわる話において第一の疑問点に突き当たる。
ヴァイスハウプトはユダヤ人か?
彼の略歴を述べるにあたって必ず述べられているキーワードがある
「早熟の天才ユダヤ人」
でも・・・
彼って・・・ホントに
ユダヤ人 ?
(しかし、どれもこれも ヴァイスハウプトをユダヤ人だと言っているサイトや記述はすべて同じ情報源で、書き方を変えようとする努力すら見られない。)
もし、ヴァイスハウプトがユダヤ人でなくなるとどういうことが起きるか?
それは、ロスチャイルド家やユダヤ系の国際金融資本家を中心とした陰謀論の大前提がもろくも崩れてしまう。ロスチャイルドとイルミナティ結社にそもそも繋がりを持たせる必要はないのだが、金融という近代的システムを通じて、世界を支配する陰謀をでっち上げようとすれば、なかなか両者を切って切り離すことは難しい。
副島隆彦がせっかく超スーパー・・・ん~~なんて言ったっけ・・・
・・・そうそう日本人の中では彼しか出来ない「真実読み破り訳」を使って翻訳があったとしても、そもそも翻訳した元の資料がでっちあげだったとしたら・・・
多分 原文が英語であることから見るとヴァイスハウプト自身の文章ではない。
(しかも 結成時の演説って・・・クスッ 笑っちゃうね。← 理由は後日書きます)
まぁ、何だか お疲れ様・・・という感じだ。
(以下リンクより転載→ http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/c-8-2.html)
本当は、もうあと、英文の原著作から数箇所の引用文を挙げることで、イルミナティという団体の秘密が分かります。それは、後日、解説します。あるいは、この本が出版されてから、改めて、取り上げます。それでは、副島隆彦の「真実読み破り訳」をお見せします。
(副島隆彦による訳文を載せる)
アダム・ヴァイスハウプトは、1776年に秘密結社、イルミナティを創設した。その時の、結成の演説(説教)の中で、イルミナティの組織結成の目標を次のように説いた。
「われわれイルミナティは、理性(りせい、reason , vernunft フェルヌンフト)すなわち、利益欲望の思想、金銭崇拝の精神を、われわれ人間にとっての唯一の法典(規則の体系)にするであろう。これこそが、これまで人間(人類)が解明できなかった最大の秘密なのだ。金銭崇拝(利益欲望の精神、すなわち理性)が、人間にとって信じるべき信仰、宗教となる時に、その時に、ついに、われわれ人間が抱えてきた最大かつ唯一の大問題が、解明され、解決されるのである。」
(副島隆彦の訳おわり)
<中略>
私は、5年ぐらい前から、reason リーズンとは、reison レゾン(存在の根拠)と同義であり、さらには、ratio ラチオ、レイシオ 「合理」と同義である、とずっと説明してきました。ですから、rationalism ラシオナリズム、ラッショナリズム、「合理主義」とは、「利益の法則」であり、「損得勘定の思想」であり、「投下した労力に対してそれに相当する利益を得ることである」である、と解読してきた。だから、それが、ユダヤ思想(ユダヤ教とも訳す、Judaism ジュダイズム)の根本の思想だということをずっと、しつこく説明してきた。
ユダヤ教(ユダヤ思想)を知るには、モーゼ五書や、タルムードなどの教典を解読することがユダヤ思想を勉強することだというものではない。それは日本人には困難を極める。そうではなくて、ユダヤ思想の原理は、金儲けの精神であり、ラチオ=リーズンなのだ、ということだ。これを、強欲の精神とか、拝金主義とか、訳してもいい。えー。そんなに簡単なことなのか、と私に聞き返しても、どうにもならない。これで、読み破れたのだから、それでいいのです。
そもそも ヴァイスハウプトはユダヤ人かも・・・
という噂は、
前々回に述べたアウグスティン・バリュエルの著作に関係している。
彼がすべての悪玉としてイルミナティの存在をカトリック教の立場から論じはじめたので、ある程度、反ユダヤ主義やユダヤ陰謀論と結びつく資格はこの時点で十分に出来上がっていたと言っていいだろう。
ただ、実はバリュエル自身、イルミナティについての知識は殆どなく、また彼が結社に興味を持った時点ではすでに解散されていた事も知らなかった。更にその活動範囲をヨーロッパ全土として捉ええるあたりは完全にフリーメイソンと取り違えていたのだろう。イルミナティは最盛期でさえ、その影響力はドイツ国内に限られていた。
彼は全4巻にわたる大著の後半(3巻と4巻)でイルミナティにまつわる陰謀論を展開したわけだが、その出来栄えに比べてあまりにも有名になったことで、彼の死後ある噂が流れた。
この話には どうも 続きがあった・・・
幻の第5巻の存在だ。
1878年のとある新聞にバリュエルがイタリア士官に宛てて書いた手紙の内容が公開された。
彼が1806年に書いた書簡で、イルミナティの黒幕とも言うべき壮大な陰謀組織があるとった内容が書かれてあったという。それは力のあるイルミナティさえもコントロールしていたという存在だ
・・・ ユダヤ人だ。
その疑惑の手紙によると、バリュエルはこのユダヤ人陰謀論を彼の大著の第5巻として明らかにしようとしていたというのだ。そして、それによるとすでに彼は執筆終えていたが、発刊は結局のところ見送ってしまったというのだ。そのあまりにも過激な内容であるがために、大量虐殺をまねきかねないと彼が恐れたからだ。
これが正しいかどうかの確認は出来ない。この書簡はバリュエルの死後1878年のフランスの反ユダヤ主義小冊子である『Le Contemporain』にて公表されたもので、陰謀論的な反ユダヤ主義がおそらく捏造したものではないかという疑いもある。
というか・・・すでに有名になっていたブリューエルの威を借りて捏造されたものとしてまずは間違いないだろう。
この書簡にてヴァイスハウプト自身がユダヤ人であると書かれていたかどうかは分らないが、少なくともイルミナティ結社を動かしている闇の組織なる存在について述べられたモノだ。
このイルミナティとユダヤ人という奇妙な結びつきはやがて、カトリック系や右翼の新聞を中心にヴァイスハウプトをユダヤ人とする論調が19世紀のうちに出来上がってしまうことになる。
さて、次は話をアダム・ヴァイスハウプトの略歴に戻そう。
” ※着色は引用者
” 反陰謀論 真実のイルミナティ 【4】 ヴァイスハウプトとロスチャイルド
2009/8/21(金) 午後 10:52 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
さて、話をアダム・ヴァイスハウプトの略歴に戻そう。
前回 →http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20703727.html
ヴァイスハウプトの成長
アダムが5歳の時、父であるゲオルグが亡くなり、彼の母親は彼の名付け親であり、父親と同じくインゴールシュタット大学の法律学の教授であったヨハン・アダム・イックシュタット(Johann Adam von Ickstatt:1702-1776)に養子として引き取り、当時はまだバイエルンでは普通に行われているイエズス会による教育を受けさせることにした。
ヨハン・アダム・イックシュタット(Johann Adam von Ickstatt)
イメージ 1
さて、このイックシュタットという人物は、当時ドイツを代表する啓蒙思想家で、ドイツ独特の学校システムである実技学校(Realschulwesen)を確立した人物でもある。彼がアダム・ヴァイスハウプトを引き取った時にはすでにインゴールシュタット大学の法学部長となっており、ミュンヘンの選帝侯の法律コンサルタントもしていた。
イックシュタットは、鍛冶屋の息子として生まれ、ヨーロッパ中を点々とする生活を送るが、彼の人生の転機は、彼が苦労しながらマールブルク大学(1725年-1727年)で、ドイツの偉大な数学者にして哲学者クリスチャン・フォン・ヴォルフ(Christian von Wolff)の教えを下に、数学と哲学を学んだ事にある。彼は1730年にマインツ大学で博士号を取得するとヴュルツブルク大学で法律の教鞭をとることになる。
クリスチャン・フォン・ヴォルフ(Christian von Wolff)
イメージ 2
ヴァイスハウプトに哲学や当時の合理主義哲学を教育し、彼の思想形成に影響を及ぼしたのは間違いなくこのイックシュタットだったろう。インゴールシュタットにあるユスティン・ギムナジウム(Jesuiten-Gymnasium:つまりイエズス会の学校)に通い、哲学、歴史、そして政治学を専攻するために15歳にして学校を去り、大学へ通うことになった。
ヴァイスハウプトはインゴールシュタット大学で、予定通り哲学、歴史、法律、そして政治学を学び、1768年20歳の時に哲学のドクターを取得する。彼の博士論文のテーマはちなみに『Ius civile privatum』で多分、“私市民法”とか訳すのかな。
まぁ、これをもって彼を早熟の天才として見る人もいるが、比較的早い・・・ぐらいだろう。彼の生みの親も育ての親も同じ大学の教授であったことを考えれば、それほど特筆すべきのことではないだろう。1772年に彼は大学の法学部非常勤講師となり、大学でも教鞭をふるうようになる。
ロスチャイルとヴァイスハウプトの出会い?
さて 陰謀論者の話に少しもどすと、実は1770年に重要な事がおきている。海外のサイトを見るとロスチャイル財閥の初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルがこの年に会っているというのです。
(『Weisshaupt』、『Rothschild』、『1770』 というキーワードでググれば山ほど出てきます。)
日本語のサイトにも紹介されているます。
(引用先→http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-27-7.html)
1770年、ヴァイスハウプトが22歳の時、26歳のマイヤー・アムシェルに雇われた。
マイヤー・アムシェル
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e3/MayerRothschild.jpg
安部芳裕氏が書いた『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』には、(今手元にないのでなんともいえないですが)、
ロスチャイルドがイルミナティ設立にあたり資金を提供した・・・
とか
「シオンの議定書」を作らせた・・・
とか書いてあったかと思います。
この噂の大元の出典についてはそのうち調査しますが・・・
マイヤー・アムシェルのロスチャイルドがようやく銀行として成功するのは、1789年にヴィルヘルム1世との金融商売にからんでからで、それまでは、フランクフルトにおけるユダヤ人ゲットーの両替屋として細々と商売を営んでいたことだろう。
まぁ、商売が繁盛するようには努力していたし、なみなみならぬ野望も抱いていたかもしれない。1769年に彼は古銭コレクター仲間でヴィルヘルム1世とのコネを持っていたエメリヒ オットー・アウグスト・フォン・エストルフ(Emmerich Otto August von Estorff)に嘆願書を書いた。
彼が嘆願したのは
『宮廷ユダヤ人というタイトルが欲しいです。』
この願いが受け入れられ1769年9月21日にヘッセン=ハナウの紋章が入ったバッジと銘文『M. A. Rothschild, Hoflieferant Seiner Erlauchten Hoheit, Erbprinz Wilhelm von Hessen, Graf von Hanau(ロスチャイルド、彼の尊厳すべき殿下ヘッセンのヴィルヘルム皇太子、ハナウ伯爵の御用商人)』を店につけることを許された。
貴族相手の商売には特に役に立ったそうだ。
1770年は、事実マイヤーにとっては重要な転機だった。
彼はヴォルフガング・サロモン・シュナッパー(Wolf Salomon Schnapper)という宮廷ユダヤ人の娘で、同じユダヤ人ゲットーの中で暮らしていた16歳のグトゥレ・シュナッパー(Gutle Schnapper)と結婚したのだ。
これで読めましたね!
彼が『宮廷ユダヤ人』というタイトルを欲しがったのは貴族との商売を考えてというよりも・・・
グトゥレさんと結婚するためだったんだね。
きっとすっごく 美・・・
グトゥレ・シュナッパー(Gutle Schnapper) マイヤー・アムシェルの奥さん
イメージ 3
え?結構怖い?
自画像では・・・な婦人ですが、参考までに1771年から1792の間にアムシェルとこの奥さんの間に生まれた子どもは全部で20人です。
え? 関係ないか・・・
とにかく とっても忙しかったようです。
しかも、彼の2人の兄弟と家を分けて住まねばならず、彼の持分は8分の3だったそうです。
そんな若いアムシェルがヴァイスハウプトに資金をイルミナティ結成の資金を提供して、シオンの議定書を書かせ、そして世界征服を企んでいた・・・という確率は
多分
0ですね
それにしても イルミナティはどのようにして結成されたのだろうか?
” ※着色は引用者
(このブログからの引用はすべて画像省略だ)
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【5】 たった3人での結成式
2009/8/24(月) 午後 11:38 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
ロスチャイルドから資金提供が無かったとしたら、いったいどやってアダム・ヴァイスハウプトはイルミナティを結成したのだろうか?
前回 →
答えは簡単だ。
そもそも資金なんて必要なかったからだ。
話をイルミナティ結成の歴史にもどそう。
イルミナティ結社の結成
1773年に教皇の命令によってイエズス会の結社が廃止される事になり、これを受けてイックシュタットは同じ年にインゴールシュタット大学のイエズス会組織を解散させると、イエズス会系の教授たちは、この大学を去らなければならなくなった。
それによって空席となったインゴールシュタット大学の教会法と実践哲学のポストにヴァイスハウプトが首尾よく収まり、若き教授が誕生することになった。'''
しかしながら、イエズス会結社の解散をもってその影響がなくなってしまうわけではなく、それまでこの小さな街を牛耳ってきたイエズス会派の役人達の影響力は未だ強く残っていた。
ヴァイスハウプトは、その若さゆえ、インゴールシュタット大学で唯一のイエズス会的な過去を持たない教授であった。当時広がりつつあった啓蒙思想に感銘を受けつつも、彼は教授陣からは孤立した存在であったといえるだろう。
そんな アダム・ヴァイスハウプトにとって、自分の知識を思う存分教えることのができる学生との交流は、唯一の楽しみだったかもしれない。
さて、その頃エッカー(Ecker)という名の士官がバイエルン州ブルクハウゼンにロッジ(おそらく薔薇十字団)を建てると、彼の錬金術などが有名になりあっと言う間に近隣地域へその噂は広がっていった。1776年このロッジの会員の1人が、州の各地方で最も能力のある学生をスカウトするべく、インゴールシュタットにもやってきて、よりによってヴァイスハウプトの優秀な教え子であった学生の1人をスカウトして連れて行ってしまう。
薔薇十字団
イメージ 1
ヴァイスハウプト自身も書いているが、彼にとってはかなりショックな出来事だったようだ。ヴァイスハウプトはますます孤立感を深めて、彼の生徒をイエズス会的な計略や薔薇十字団などの秘密結社から保護するため、そして特に生徒にその時代の精神的とも言える教会批判的な文献を供与するために、秘密結社を設立することを決意することになった。
そして
インゴールシュタット大学の教会法及び実践哲学の教授であったヴァイスハウプトは、1776年5月1日に2人の教え子と、完全主義同盟(Bund der Perfektibilistenラテン語:perfectibilis)というサークルを結成する。
後のイルミナティ結社(ハチの結社とも呼ばれた)である。
このサークルのシンボルとして彼はミネルバというフクロウを選ぶ。ローマ時代における叡智の神だ。
イルミナティのシンボル
イメージ 2
残念ながらプロビデンスの目とかホルスの目とか言われるものではない。日本語や英語のウィキペディアでは述べられていないが、ドイツ語はもちろんのこと、フランス語、イタリア語では常識として掲載されている。
反ロスチャイルド同盟や安部芳裕氏の本には次のように書かれてある。
1776年、ロスチャイルドが資金提供して、インゴシュタット大学法学部長のアダム・ヴァイスハウプトが秘密結社イルミナティ(光明会)を創設します。
http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
そりゃ、銀行家のやることなんて資金提供ぐらいなものだろうが、資金提供なんて必要ありません
もう一度書こう
彼は2人の学生とサークル(後のイルミナティ結社)をつくった。
2人です。
当然。。。ロスチャイルド(当時は両替商)からの資金提供などいるわけもなく、彼の研究室で、ささやかにビールで乾杯でもしたことだろう。それぐらいヴァイスハウプトの給料でもまかなえたはずだ。
結成時にまつわる噂はまだある。反ロスチャイルド同盟サイトには次のように書かれている。
『このイルミナティの共同設立者として、あのヤコブ・フランクが名前を連ねています。』
http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
→残念ながらヤコブ・フランクがイルミナティ共同設立者として名を連ねることはありませんでした。全然。。。 これっぽっちも・・・。
二人の学生とスタートさせたこのサークル結成当時は、まだ組織と呼べるものもなく、理念とか思想的なものはヴァイスハウプト本人の頭の中に存在するだけのものであった。
ヤコブ・フランクというのはそもそも誰だろうか?
イメージ 3
ヤコブ・フランクというのは、18世紀におけるユダヤ教リーダーで自称メシアのサバタイ・ツヴィの生まれ変わりだとかダビデ王の生まれ変わりを自称した。しかしながら、様々な反論を呼び起こした“悪事を通じた浄化”というコンセプト、や新約聖書や啓蒙思想を受け入れるなど、およそ型破りな教義によって彼と彼の弟子たちはユダヤ教から破門されてしまう。
彼はキリスト教とユダヤ教の観点を複合した『フランキスト』と呼ばれる新しい宗教をつくったと考えられるが、その危険な教義のために、1760年2月6日に逮捕されて以来、ロシアに侵攻によって開放される1773年までの13年間はとりあえず、ポーランドのチェンストホヴァという町で自宅軟禁状態になる。
彼はその後オーストリアのウィーンで暮らことになるが、アダム・ヴァイスハウプトとヤコブ・フランクの接点を示す証拠はゼロです。海外のサイトなんかには、1770年代にヤコブ・フランクはヴァイスハウプトが協定をむすんだという記述もあるのだが、検証に値するサイトはほとんどない。
反ロスチャイルドのサイトを見ると次のような事が書かれています。
http://www.anti-rothschild.net/main/06.html
(中略)
もう一人が、ヤコブ・フランク。(1726-1791)
ヤコブ・フランクは、ポーランド出身のサバタイのような“自称メシア”で、ユダヤ教の救世主思想を「この世の悪や不幸を人為的に頂点にまで満たして、この世を破壊し尽し、メシアを到来させる」という危険な思想に転換させたのです。ヤコブ・フランクとその信者(=フランキスト)たちは、正統派ユダヤ教のラビから破門されましたが、フランキストたちは「改革派ユダヤ教」と名称を変え、ユダヤ教の中で一大勢力となっています。
そして、このフランキストがサバタイ派と結びつき、キリスト教徒・イスラム教徒・仏教徒たちの中に紛れ込んで、危険な終末思想を実現しようとしているのです。
さて問題は、世界を支配するユダヤ王ロスチャイルドが、ただの大富豪ではなく、タルムードを信奉していて、しかもサバタイ派=フランキストに属していることです。
ロスチャイルドは、タルムードを信奉しているとありますが、
ヤコブ・フランクは『反タルムード』に属します。
何だかおかしいですよね。明らかに矛盾してます。
結社を結成した5月1日に、ヴァイスハウプトは『Novus Ordo Seclorum』という本を出版しています。
http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
→ 残念ながら出版していません。
彼は結成の際に出したは
『Pythagoras oder Betrachtungen über die geheime Welt- und Regierungskunst』
という報告書のような形の文章は発表しました。出版されたのはイルミナティが解散させられてからですが・・・。
彼の著した本の中で 『Novus Ordo Seclorum』 という名前の本はありません。
それに世界統一政府って・・・
アダム・ヴァイスハウプトが目指した世界は本来 『支配者のいない世界』 を暴力なしに実現することなのにこれでは矛盾してますよね。
それに そもそも 『秘密結社』 であるからには・・・ そんな犯行予告のような本だしますかって。
ここまでは、ドイツの片田舎ですすむ極めてローカルな話である。
” ※着色は引用者
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【6】 最初の組織改革 蜂結社?
2009/10/19(月) 午後 7:16 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
イルミナティとフリーメイソン
1776年に3人でスタートした完全主義同盟(Bund der Perfektibilisten)は、学生を中心に徐々に会員数を増やしていくが、それは決して目立つような変化でもなく、インゴールシュタットという田舎町にある大学の出来事らしくのんびりとしたものだった。
世界征服とか・・・ 世界単一政府の樹立だとか・・
さすがに結成当時のイルミナティには荷が重過ぎるような気がする。
『結社はつくったはいいが・・・この先どうしよう・・・』
・・・なんて悩みをヴァイスハウプトはもっていたのかもしれない。実際、ヴァイスハウプトのつくった完全主義同盟というのは、この頃はまだ組織とよべるようなモノでもなく、また、これといった明文化された組織の主義・思想があるわけでもなかった。
彼の頭の中でしか存在していなかった。
ひょっとしたら彼はそれだけで満足だったかもしれない。。。
ただ、学生とは言え少しずつ会員が増えていく中でそうもいかなくもなってきた。
そこでヴァイスハウプトは1777年にミュンヘンにあるフリーメイソンのロッジZur Behutsamkeitの会員になり「Sanchoniaton(←読み方が分かりません)」というトロヤの伝説的な歴史家の名前を使用した。この結社は、これまでのフリーメイソンの階級構造を改革した事でもすでにバイエルン州では有名なロッジだったそうだ。
秘密の名前
この結社で使う秘密の名前を彼は、バイエルン州でイルミナティ結社の存在があらわになった時にCocyrus(コキュートス)とかScipio Aemilianus(スキピオ・アエミリアヌス)とか変えたりもしている。コキュートスはちなみにギリシア神話の中で、地獄の最下層に流れる「嘆きの川」を意味している。
秘密の名前・・・ ようするにネット上のハンドルネームみたいなものだ。
ちなみにヴァイスハウプトは自身が設立した結社では、ローマの剣闘士であるスパルタクス(spartacus) という秘密の名前を使用していた。
ま、ミュンヘンにあるフリーメイソンのロッジの会員になったのは、結社の組織を研究する、つまり彼の私的なサークルを結社らしくするためにも、当時ヨーロッパ知識人の間で流行していたフリーメイソンの組織構造を真似ようとしたのだ。ただ、ここで言うのは発祥地のロンドン本家フリーメイソンの組織構造ではなく、ドイツでフントによって発展したスコッティッシュライト系の組織構造だ。
そこで、彼の結社設立の時からもっとも信頼のおける学生であり、ヴァイスハウプトの右腕ともいうべきFranz Xaver von Zwack(フランツ・フォン・ツヴァイク)と伴に組織化をはじめることにする。
このツヴァイクという人物は、後年にプファルツ地方の政権トップの座につくほどの人物なのだが、彼は、1778年すでにヴァイスハウプトが会員になっているミュンヘンのフリーメイソンロッジ『Zur Behutsamkeit』に加入している。彼の秘密の名前はいくつかあり、Cato、DanausもしくはPhilipp Strozziだった。
イルミナティという名前に(やっと)決定
組織再編の際、ヴァイスハウプトは新しい組織の名前として蜂結社(Bienenorde)を提案した。なぜなら
女王蜂の下に「叡智」という名の蜂蜜を集めなければならないので・・・
ということらしかった。。。
しかしながら、結局のところ『イルミナティ結社』と名に決めた。
イメージ 1
なぜ、蜂結社がボツになり、イルミナティにしたのか・・・
いろいろな憶測が飛び交うが、実際は
「ハチ結社じゃ 格好悪いっすよ~。イルミナティの方にしましょうよ~」
と、ツヴァイクに言われたのかもしれない。
ところで、「イルミナティ」という言葉はサタン(ルシファー)に由来するという陰謀論者もいるが、まぁ「光」でもルシファーだといわれたらもうお手上げかもネ。そんな言いがかりをつけられるぐらいだったらやっぱり蜂結社にしとけばよかったのかもね。
また、イルミナティという名前がついた結社は実のところヨーロッパのいたるところにあり、このヴァイスハウプトの結社が解散させられた後も、密かに継承されていたとしてしたことが陰謀論の中心となっている。
フランス革命の時には『Les Illuminés』という名のフリーメイソンのロッジがあったので、「イルミナティは地下で活動していて生き残った」とか「フリーメイソンをのっとった」とか言う噂の元にもなった。しかしながら、フランスの『Les Illuminés』というロッジに限って言えば、小さな規模のロッジで、フランス革命に影響を及ぼしたとは考えにくい。
まぁ、何はともあれ少しは組織らしくなり、地元の会員数も徐々に増えていった。ツヴァイクがミュンヘンのフリーメイソンのロッジに入会したあたりから、このイルミナティ結社の主な活動舞台はミュンヘンに移った。
そこでおそらくアドルフ・フライヘア・フォン・クニッゲ(Adolph Freiherr v. Knigges)に出会ったのだろう。
” ※着色は引用者
” 反陰謀論 真実のイルミナティ 【7】 クニッゲ男爵登場
2009/10/28(水) 午後 7:34 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
フリーメイソンの改革者クニッゲの登場
アドルフ・フォン・クニッゲ(Adolph Freiherr v. Knigges)男爵が1780年1月にイルミナティ結社に加わると、組織的な大きな転換期を迎えることになる。1781年まではヴァイスハウプトがこの結社をイエズス会指導者のような役割を担っていて、組織の構造もイエズス会のに良く似たものであったそうだが、クニッゲの改革によって権力構造も変化がおきたのだ。
アドルフ・フライヘア・フォン・クニッゲ(Adolph Freiherr v. Knigges)
Freiherr(フライヘア)はドイツで使用された貴族の称号「男爵(バロン)」を少し丁寧にした呼称
イメージ 1
このクニッゲという人物はもともとあちらこちらのメイソン・ロッジ(主に北ドイツ)の会員で、ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)、ヴォルフェンヴュッテル(Wolfenbuettel)やヴィルヘルムスバード(Wilhelmsbad)などで階級制度の改革などを断行してきた。
彼がフリーメイソンの階級制度改革を行うのはそれなりの背景があり、ヴァイスハウプトのイルミナティに参加したのにも理由があった。
フリーメイソンとドイツの関連について少し調べてみた。
フリーメイソンのはじまり
『近代』におけるフリーメイソンが公式に設立されたのは1717年だと言われている。1717年6月24日に、すでにある四つのロッジが合併し、ロンドンのコヴェントガーデンにあるアプルツリー・ターヴァンに集まってグランド・ロッジを形成したのがはじまりだ。
この日は今でも世界中のフリーメイソンにとって最高の祝日として位置づけられているという。ちなみにこの日は洗礼者ヨハネスの誕生日でもある。
『近代』という言葉を使ったのは、それまで石工職人のネットワークやギルドと言われる商人・手工業の団体は、ヨーロッパ各地に存在しておりロッジも数多く設立されており、フリーメイソン自体もそれ以前から存在していたと考えられるからだ。
1717年以前のフリーメイソンは、本当の意味で秘密結社的な存在であった。したがって、会員である事実を認めたり、ロッジでの集会について話題にする事さえ誓いへの冒涜とされていたそうだ。
その起源については諸説あり、カリオストロ男爵が力説したようにエジプト起源説やテンプル騎士団の流れを汲んでいるという説もある。
いずれにしても、近代フリーメイソンの『結社』として登場したのは、もともと石工職人やギルドにある『友愛(兄弟愛)』というのが、啓蒙哲学や宗教革命とあいまってより注目されはじめたことにも起因するだろう。
存在自体が公にされた理由はいろいろ考えられるが、おそらく秘密結社に対する取り締まりが厳しくなったことで、いっそのこと公開してしまい、反逆罪などという名目で摘発される前に、富裕層や貴族、王族なども取り込んでいくことで、そうした結社に対する弾圧から免れようとしたのかもしれない。
フリーメイソンの儀式の様子
イメージ 2
1717年以降、フランスやスコットランドでもロッジも公開の結社として世の中に姿をみせはじめる。
広がるという見方は少しおかしいかもしれない。諸説が示すように近代フリーメイソンには下地のネットワークになる母体がもともと存在していたと考えるのが妥当で、各地域でこれまで秘密にされてきた組織が公開され始めただけということになるかもしれない。
ドイツにおけるフリーメイソンの歴史
ドイツに注目してみると、1729年にターナス(Thuanus)という人物が辺境地(ザクセン地方)のグランド・マイスターに任命されたが、実際の活動に関する記録は残念ながら残されていない。その後1733年に11人のドイツ紳士がロンドンでフリーメイソンに受け入れられると、ハンブルクにロッジを設立するように依頼される。しかしながら、これも成功しなかったと言われている。
ようやく1737年12月6日にドイツのハンブルクに(近代)フリーメイソンのロッジが出来るが、最初のうちはロッジの名前もなく、ましてやグランド・ロッジという位置づけでもなかった。しかしその後1740年に第二の親方がロンドンのグランド・ロッジ・レジスターの番号108として登録され、1743年にようやく『Absalom(アブサロム)』という独自の名前が与えられた。
また、他方で1738年にはドレスデン地方にもロッジがルトウスキ伯爵によってロッジが設立され、その後二年間にさらに2つのロッジが設立されている。
1754年には確認される限りは19ものロッジがドイツに設立された。。。
ドイツ独自の発展 Strikte Observanz
当時のドイツでは、フリーメイソンは独自の発展を遂げる。Strikte Observanz(Rite of Strict Observance:厳守の騎士?)というイギリスの3段階からなるシンブル階級構造に比べて、複雑な階級構造をカール・ゴットヘルフ・フォン・フント(Karl Gotthelf von Hund)なる人物がドイツ全土に広めたからだ。
カール・ゴットヘルフ・フォン・フント(Karl Gotthelf von Hund)
イメージ 3
フントは、元々フランスでフリーメイソンとして受け入れられ、その後パリに滞在中にスコッティシュ・ライトの段位の中に受け入れられた。その際、彼は絶対服従の騎士(赤い羽根の騎士)に会いテンプル騎士団のフリーメイソンになったとか、ならなかったとか・・・。
いずれにしも、彼はフリーメイソンとテンプル騎士団を結びつけ、『未知なる上階位の存在』を説くとともに、スコッティシュ・ライトと似たような階級制度を導入しようとした。
スコッティシュ・ライトというのは、フリーメイソン関連の本や資料には必ずと言ってよいほど登場するのだが、これはフリーメイソンの、会派のようなもので、特徴的なのは「徒弟」、「職人」、「親方」の3位階からなるフリーメイソンの階級システムの上に、更に30位階をもうけて33の位階としてもので、発祥は実はフランスのボルドーとされている。
さて、フントが主張した『未知なる上階位の存在』といのは・・・
本当に未知だった・・・(笑。
誰も知らなかった・・・。
したがって、イルミナティがそのささやかな結成式を挙げた1776年、フントが突然亡くなると、彼の影響を受けたドイツのフリーメイソン社会は混乱に陥った。
「俺たちこれからどうすればいいんだろう・・・」
「いったい誰なんだよ。未知なる上階位の者って・・・」
しかし、フントが指導者と仰いだ『未知なる上階位』なる人物はついに現れなかった。
クニッゲ男爵 イルミナティ結社へ・・・
指導者を失ったドイツのフリーメイソン社会にあって、Strikte Observanzに従い改革を実践していたクニッゲにとって、イルミナティを組織したヴァイスハウプトとの出会いはまさに渡りに船だった。
クニッゲは北ドイツの会員勧誘を任されていた。彼の意気込みには並々ならぬものがあり、数多くの結社会員を獲得した。その中にはヴォルフガング・ゲーテやヘルダーリンもいた。
ヴォルフガング・ゲーテ
イメージ 4
これは確かなようだ。
まぁ、不思議な事ではない。むしろ 陰謀論として論じるのであれば、怪しいのはヴァイスハウプトやイルミナティ結社ではなく、むしろヴォルフガング・ゲーテの方だ。(これについては いつかまた・・・)
さて、このクニッゲがフリーメイソンのコネクションを利用してあまりにもすごいスピードで会員を獲得していくので、イルミナティ結社は間もなく組織力の限界に達してしまう。彼自身の申告によると結果として500人以上の貴族や知識人たちを獲得することに成功したという。
その多くの会員達はこれまでのフリーメイソンの活動には満足しておらず、フント以来ついに『未知なる上階位の存在』を知ることが出来ると思っていた。
しかし、そうした高い要求をもった会員達が急速な拡大していく中で、ヴァイスハウプトは逆に追い込まれる。その時になってもまだ「『未知なる上階位」というものが結社の中には存在していなかったのだ。
困ったヴァイスハウプトは、クニッゲに命じて彼が集めた資料を基にしてイルミナティ結社の組織作りに本格的に着手させた。クニッゲはフリーメイソンの構造を模倣することにした。
1782年7月16日から9月1日までフントと彼の作ったテンプル騎士団方式の階級システムについて話し合う会議がヴィルヘルムバードで執り行われた。イルミナティに参加したばかりのクニッゲとナンバーツーであり非常に急進的な啓蒙主義者であるフランツ・ディートリヒ・フォン・ディトフルト(Franz Dietrich von Ditfurth)が会議に参加し、会議を先導する立場をとった。
テンプル騎士団のシステムについは、薔薇十時団がStrikte Observanzの後継者となるべく裏で動いていたが、結局のところ、ライバルでもあるクニッゲによって薔薇十時団が継承する事を支持する者は少数派にとどまり、イルミナティを代表する2人の勝利となった。
クニッゲとディトフルトは、Strikte Observanzを解散させ、そこに集まった会員を次々に引き抜き、更に、著名なフリーメイソンであり、Strikten Observanzにおける代表格であったクリストフ・ボーデや有力な貴族達をイルミナティ結社の会員として獲得した。
クリストフ・ボーデ(Johann Christoph Bode)
イメージ 5
これでイルミアンティ結社は絶頂期を迎えたようだ。。。
しかし、組織が大きくなると分裂するリスクも高くなるのは古今東西同じだ。
すでに終焉がすぐそこまできていた。
続く・・・
”
※着色は引用者
(以上だ。続くと書いているが続かなかった)
(ここまで)
元祖イルミナティのドイツ語版ウィキの和訳(一部修正した)を先に示す:
”
契約のシンボル: ブナの木に座るミネルバのフクロウ。Print from 1788
[...]
1777年、ミュンヘンの2つのメソニック・ロッジが潜入に成功し、そのうちの1つにヴァイスハウプトが加入した[5] 。翌年、ヴァイスハウプトの元教え子で、後にプファルツ州政府の大統領となったフランツ・クサーヴァー・フォン・ツヴァックによって再編成されたとき、騎士団は、まだ控えめではあったが、さらなる上昇を経験した。ヴァイスハウプトは、会員が女王蜂の指導の下で知恵の蜜を集めることを想定し、「ミツバチの結社(騎士団)」(„Bienenorden“)という新しい名称を提案した。しかし、最終的には「イルミナティ同盟」( „Bund der Illuminaten“ )に決定された。1780年、教団は約60人の会員を擁していた[6]
[...]
クニッゲは、修道会の規約、学位、教えがまだ十分に整備されていないことに強い不満を抱き[21]、新会員勧誘の努力が報われないと感じていた。彼はボーデと組み、修道会の指導権を引き継ごうとした。彼はまた、教団を残りの厳格遵守派と合併させるという計画を追求し続けたが、これはヴァイスハウプトによって厳しく拒否された[22]。[22]クニッゲは手紙の中で、教団の秘密をイエズス会や薔薇十字団に漏らすとまで脅したが、ヴァイスハウプトの不信感は増すばかりであった。ボーデとクニッゲが、ヘッセン公シャルルやブルンスヴィック公フェルディナント、ザクセン=ゴータ公エルンストやザクセン=ヴァイマル公カール・アウグストといった絶対主義権力者の代表を教団に引き入れたことを、ヴァイスハウプトは非常に懸念した。エルンスト2世はゴータ・イルミナティ・ロッジを秘密の影の内閣として利用した[23]
その結果、ヴァイスハウプトとクニッゲの意見の対立は頂点に達し、教団は分裂の危機に陥った。1784年2月、「会議」と呼ばれる仲裁裁判所がワイマールに招集され、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、ザクセン=ゴータ公エルンストが参加した。クニッゲにとって意外なことに、会議はまったく新しいアレオパゴスの結成を決定した。これは妥協案として受け入れられるように思われた。しかし、アレオパゴスの正式な会長職がなくても、アレオパゴスの創設者が影響力を持ち続けることは予想できたので、クニッゲにとっては明らかな敗北だった。沈黙とすべての書類の返還が合意された。1784年7月1日、クニッゲはイルミナティ教団を脱退した[24]。その後、彼は秘密結社を通じて世界を改善したいという「流行の愚かさ」から目を背けた[25]。ヴァイスハウプトは教団の指導権をヨハン・マルティン・グラーフ・ツー・シュトルベルク=ロスラに譲った[26]。
[...]
このページの最終更新日時は 2025年3月16日 (金) 18:03 です。
” ※着色は引用者
Illuminatenorden – Wikipedia
https://de.wikipedia.org/wiki/Illuminatenorden
"Symbol des Bundes: Die Eule der Minerva, auf einem Buche sitzend. Druckgraphik aus dem Jahr 1788
[…]
1777 gelang die Unterwanderung zweier Münchner Freimaurerlogen, in deren eine sich auch Weishaupt aufnehmen ließ.[5] Einen weiteren, wenngleich noch bescheidenen Aufschwung nahm der Orden im Jahr darauf, als er von Franz Xaver von Zwackh, einem ehemaligen Schüler Weishaupts und späteren Regierungspräsidenten der Pfalz, reorganisiert wurde. Weishaupt schlug als neuen Namen „Bienenorden“ vor, weil ihm vorschwebte, dass die Mitglieder unter der Leitung einer Bienenkönigin den Nektar der Weisheit sammeln sollten. Doch entschied man sich für „Bund der Illuminaten“ und schließlich für „Illuminatenorden“. 1780 hatte dieser etwa 60 Mitglieder.[6]
[…]
Knigge war hochgradig unzufrieden, dass Statuten, Grade und Lehren des Ordens weiterhin unzureichend ausgearbeitet waren[21] und sah seine Leistungen bei der Rekrutierung neuer Mitglieder nicht honoriert. Er tat sich mit Bode zusammen und versuchte, die Leitung des Ordens zu übernehmen. Auch verfolgte er weiter sein Vorhaben, den Orden mit den noch bestehenden Resten der Strikten Observanz zu verschmelzen, was von Weishaupt strikt abgelehnt wurde.[22] Brieflich drohte Knigge gar damit, Ordensgeheimnisse an Jesuiten und Rosenkreuzer zu verraten, was nur Weishaupts Misstrauen verstärkte: Dem bereitete es nämlich erhebliche Sorgen, dass Bode und Knigge Vertreter der absolutistischen Obrigkeit wie die Prinzen Karl von Hessen und Ferdinand von Braunschweig sowie die Herzöge Ernst von Sachsen-Gotha und Carl August von Sachsen-Weimar in den Orden gebracht hatten. Ernst II. nutzte die Gothaer Illuminatenloge als geheimes Schattenkabinett.[23]
In der Folge spitzte sich der Dissens zwischen Weishaupt und Knigge derart zu, dass der Orden zu zerbrechen drohte. Im Februar 1784 wurde daher ein „Congress“ genanntes Schiedsgericht in Weimar einberufen, an dem unter anderen Johann Wolfgang von Goethe, Johann Gottfried Herder und Herzog Ernst von Sachsen-Gotha beteiligt waren. Für Knigge überraschend urteilte der Congress, es müsse ein gänzlich neuer Areopag gebildet werden; beide führenden Persönlichkeiten des Ordens sollten ihre Machtpositionen aufgeben. Dies schien ein tragbarer Kompromiss zu sein. Da aber absehbar war, dass der Ordensgründer auch ohne formalen Vorsitz im Areopag weiterhin einflussreich bleiben würde, bedeutete es eine klare Niederlage für Knigge. Es wurde Stillschweigen und Rückgabe aller Papiere vereinbart. Am 1. Juli 1784 verließ Knigge den Illuminatenorden.[24] Er wandte sich danach von der „Mode-Thorheit“ ab, die Welt durch geheime Gesellschaften verbessern zu wollen.[25] Weishaupt gab die Leitung des Ordens an Johann Martin Graf zu Stolberg-Roßla ab.[26]
[…]
Diese Seite wurde zuletzt am 16. März 2025 um 18:03 Uhr bearbeitet.
"
森鴎外と西周:両雄並び立たず? - 時空を超えて Beyond Time and Space
2022年08月12日
https://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/99f84c320960caaffa9ebc35e3c663e8
”(画像略。森鴎外『椋鳥通信 上』の表紙画像)
2022年は森鴎外(1862〜1922年)の生誕160年、没後100年を記念する年となり、多くの行事、出版、報道などが行われている。
ブログ筆者は森鴎外の著作には、戦後の文字に飢えていた頃に惹きつけられ、当時人気だった大部な文学全集などを通して、主要な作品に親しむと共に、鴎外生誕の地、津和野や文京区の記念館などを訪れたりしてきた。
他方、コロナ禍が始まるかなり前から、重く扱い難い文学全集などを整理する傍ら、いつのまにか近年刊行された未読の短編や周辺の資料などを手にとっていた。断捨離どころか、軽くて読みやすい新訳の文庫版などが増え始め、何をしているのか分からなくなってきた。
西周邸に寄寓した林太郎
ここにいたるには、いくつかの動機があった。そのひとつに森鴎外と同じ津和野の出身であり、先輩でもあった西周(1829〜97年、森家の親戚で、藩の典医の家系、血縁はない)の存在があった。西周は鴎外より33歳ほど年上であり、西・森の両家は極めて近い関係にあった。西周は明治日本の啓蒙思想家の一人であり、西洋哲学者でもあった。しかし、(最近の状況はよく分からないが)同じ津和野の出身でありながら、西周の旧居(生家)跡を訪ねる人は少ないようだ。
森林太郎(森鴎外の本名)が上京し、修業時代の一時期、家族から離れ、ひとり西周邸に住み込んでいた時期があったことは知っていた。公務から解放された後、西周と森林太郎の人的関係は実際にはどんなだったのか、知りたくなった。
偶々、筆者は西周が初代校長を務めた獨逸学協会学校の流れを汲む学園で教育・運営の任を負ったことがあった。その折、公務の傍ら、周囲にあった公刊されていた文献のかなりのものは目を通した。しかし、多忙であったため、いくつかあった疑問を探索し、整理・解明する時間はなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*西周は文久2(1862)年、津田真道、榎本武揚らと共にオランダに留学し、法学、哲学、経済学、国際法などを学び、慶応元年(1865)年に帰国し、徳川慶喜の側近となり、明治になってからは明治政府に出仕し、兵部省、文部省、宮内省などの官僚を歴任した。東京学士会院第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校の初代校長を務めた。啓蒙思想家、西洋哲学者。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1872(明治5)年6月、森林太郎は父に伴われ津和野を離れ、東京へ向かった。そして、森家は故郷津和野の家を引き払い、林太郎の母、祖母、次弟と妹共々、上京し、林太郎だけは父が探してくれた獨逸語を学べる「進文学社」(私塾、本郷壱岐坂)に通うに便利な西周宅(神田西小川町)に寄寓することになった。1872年(明治5年)、西周は43歳、林太郎は10歳であった。西邸にいたのはいつまでか正確には分からないが、たまたま同居していた相沢英次郎*1の記憶では、林太郎は明治6年に西家を去ったとあるので、主人の西周との交流は1年程度であったようだ。
林太郎が西邸に住んだ当時、西周は、すでに留学先のオランダから帰国し、兵部大丞として、宮内省に関連し、官僚として多忙な日々を過ごしていたと思われる。その傍ら、家の造作から食生活までヨーロッパでの体験をさまざまに導入していたようだ。西と夫人升子の日常から林太郎を始めとする西邸に寄寓していた住人は、有形無形に多くを学んだことと思われる。西周が『明六雑誌』(1874年3月創刊)で活躍する直前のことである。働き盛りの西周から見れば、10歳そこそこの若者は、対等の話し相手とはならなかったろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*1
ここで大きな情報源となったのが、近刊の宗像和重編に所収の相沢英次郎「西周男と鷗外博士」と題した1章である。西周男とは、西が1897(明治30)年に男爵に任じられていることによる。相沢英次郎(1862~1948年、敬称略)は、宗像編によると、教育者、歌人であり、少年時代に叔母升子が嫁した西周邸に預けられ、森林太郎と起臥を共にした。後に三重県師範学校長などを歴任した人物であった。
相沢英次郎「西周男と鷗外博士」(原典『心の花』1926年6月)宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
林太郎が同郷の親戚としての西周に頼り、東京の西邸に寄寓したのは、西周が43歳頃のことであった。同郷の親戚、年長者などを頼って、書生、家事見習いなどの名目で、住み込んだのは、戦前までは一般に珍しいことではなかった。西周は帰国後、先進国西欧を知る数少ないエリートとして、文字通り働き盛りであった。神田小川町にあった広大な屋敷は、内部は西欧風に設えられていて、生活、とりわけ食生活なども西欧風に変えられていたようだ。相沢がコンデンスミルクやビスケットを味わったのも、西邸であったと記されている。さらに、西は津田真道、加藤弘之、福沢諭吉、神田考平、箕作秋坪などの学者を自邸に招き、料理人を呼んで会食などもしていたようだ(相沢、50〜51ページ)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
相沢によると、林さん(鷗外博士の当時の呼称)は明治5年に西邸に寄寓し、1歳年下の相沢と同じ室に寝起きしていたようだ。さらに同居していた西の養子の紳六郎(後の西紳六郎男爵、海軍中将)は、林さんの1歳年上という間柄でもあった。相沢は西邸に足掛け5年ほど寄寓していたようだ(宗像、50ページ)。三人ともほぼ10歳近辺の少年であったが、現代の同年代と比較すると、やや長じていたようだ。時には悪戯をして、西男爵に叱られたことも記されている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
鴎外と西周の関係に大きな影響を与えたのは、よく知られた林太郎がドイツから帰国した後に起きたドイツ人女性との問題だった。エリーゼ・ヴィーゲルトは、1888(明治21)年、林太郎(26歳の時)の帰国と相前後して来日するが、間もなく帰国している。この出来事が一段落した後に林太郎の結婚を急いだ両親に周旋を頼まれた西は、赤松登志子との関係を取り持った*2。
その後間もなく1890年に、林太郎は登志子と離婚、それが原因で西の不興を買い、絶縁状態になってしまったと推定されている(中島、18ページ)。離婚の原因、経緯は不明だが、いわば仲人役をした西周の心情はほぼ推測できるような気がする。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*2
1889年、林太郎と登志子は結婚、二人は上野花園町(現在の上野池之端)に住んだ。1900年、離婚した登志子が死去。鷗外は翌年40歳で荒木志げと再婚している。
余談だが、ブログ筆者は子供の頃、不忍池周辺に住んだいとこたちとボート遊びなどをした思い出があり、横山大観邸などの記憶を含め、さまざまなことが思い浮かぶ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
森鴎外が評した西周
西周が亡くなったのは、1897(明治30)年、鷗外35歳頃であったと推定される。状況からして、西周と鴎外の関係が冷却していたことは分かるが、当時二人は日本を代表する知識人でもあり、実際にいかなる公私の関係にあったのかは必ずしもはっきりしなかった。しかし、幸い最近刊行された上掲の宗像編著所収の相沢の追憶が、この疑問にかなりの示唆を与えることが分かった。
さらに、新刊の中島國彦『鷗外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)に下記の興味深い記述があることを発見した。
西の没後の1909(明治42)年、鷗外47歳の時、在東京津和野小学校同窓会での講演の際、郷土の先人西周の名を挙げて、鴎外は「あの先生は気の利いた人ではない。頗るぼんやりした人でありました。そのぼんやりした椋鳥のやうな所にあの人の偉大な所があった」と述べている(中島、19-20ページ)。
この時点で、西周は没しており、鴎外も同郷の先人に対しては冷静に畏敬の念を表するまでになっていたのだろう。ここで興味深いのは西周を「ぼんやりした椋鳥のやうなところにあの人の偉大な所があった」と評していることにある。
実は、鷗外が西周を評した「椋鳥のやうな」*3という言葉の意味するものがすぐには浮かんでこなかった。椋鳥と「ぼんやりした」という表現がうまくイメージとして取り結ばなかった。
池内紀*3によれば「椋鳥」は江戸時代によく使われた表現で、「田舎者」を意味しているとされる。鴎外は西周をその言葉通りの意味で評したのだろうか。鴎外ほど多彩な公私に渡る広範な活動ではなかったとはいえ、西周が残したさまざまな社会的活動、論説などから推測すると、やや複雑な思いがする。西周もオランダに学び、当時としては日本屈指の西欧通であり、『百学連環』などに展開されているように広い視野の持ち主であったからだ。
ちなみに、鷗外が西周の死去とほぼ同時に執筆を開始した海外雑録のような膨大な記述には『椋鳥通信』の標題が付けられている。現代に引き戻すと、その内容はあたかも海外情報ブログのような印象でもある。この時期、「椋鳥」の語に、鴎外はいかなる思いを込めたのだろうか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
鴎外は1909年『椋鳥通信』と題した膨大な海外通信を始めた。公務で多忙であった鴎外が、こうした海外雑録通信のようなものを書き出した背景は、同書上巻巻末の池内紀氏の大変興味深い解説に詳しい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
参考文献
森鴎外『椋鳥通信 上・中・下』(岩波文庫)、2014〜15年
ハンディな文庫版とはいえ、3冊の文庫に凝縮された内容は驚くばかりである。編纂、注釈の任に当たられた池内紀氏の適切な解説なしには、とても読みこなせないが、鷗外が楽しみながら書いたと思われる本書は、歴史年表を傍らに時間をかけて読むと実に興味深い。
宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
本書だけでも十分に興味深いが、最近、森鴎外に宛てた書簡が、新たにおよそ400通発見されたと報じられており、いずれ公開されると本書と併せ、鴎外の個人的生活の側面に一段と光が当たるだろう。
中島國彦『鴎外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)
森鷗外に関する出版物は汗牛充棟ただならぬものがあるが、本書は今日、森鷗外に関心を抱く人々にとって、ぜひ一読をお勧めしたい新たな評伝である。多くの貴重な情報が凝縮されており、日常、手元におきたい一冊である。
” ※着色は引用者
goo blog
サービス終了のお知らせ
https://blog.goo.ne.jp/info/close.html
”この度、2025年11月18日をもちまして、
goo blogはサービスを終了することとなりました。
これまで私たちは、「みんなの好きを応援する」ことを大切に、みなさまの想いが世界中に届き、読者の心を動かし、共感を呼ぶ──そんな場を目指して運営を続けてまいりましたが、この度サービス終了というお知らせをすることとなり、心よりお詫び申し上げます。
2004年3月のサービス開始から21年にわたり、ご愛用いただき誠にありがとうございました。”
森鷗外の「鷗外」という号について、その由来や、いつから使われたのかが知りたい。 | レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000344531&page=ref_view
”1 号の由来について
(1)事典、辞典類
ア 『ペンネームの由来事典』 紀田順一郎/著 東京堂出版 2001.09
p.247-249 森鷗外
以下の3つの説が挙げられています。
(ア) 「明治二十三年(一八九〇)『舞姫』を発表するさい、友人の斉藤勝壽から借りたもの」
「当時隅田川の鷗の渡しのそばに住んでいたので、それにちなんだ号」
(イ) 「鷗外が愛した西周家の女中ウメにちなむという。
ウメの連想で深川小梅町は吾妻橋の川向こうにあり、付近に鷗の渡しという場所があった。」
(ウ) 「杜甫の詩「王十二判官に別る」の「柔艫軽鷗の外、悽を含んで汝の賢を覚る」からとった」
イ 『作家のペンネーム辞典』 佐川章/著 創拓社 1990.11
p.417-421 森鷗外
以下の4つの説が挙げられています。
(ア) 「友人・斎藤勝寿の雅号(鷗外漁史)を貰った。」
(イ) 「杜甫の漢詩から「鷗外」と号した。」
(ウ) 「千住に「かもめの渡し」があり、この地名をもじったものである。」
(エ) 「「かもめの渡し」は、吾妻橋の上流にあり、吉原を指す名称でもある。
"鷗外"とは、遊興の地に近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味である。」
(中略)
2 いつから使われていたのか
「鷗外」という名称自体は、ドイツ留学中の明治19(1886)年1月時点で「鷗外漁史」という号で
使用していたという記述が確認できました。
(1)『鴎外研究年表』 苦木虎雄/著 鴎出版 2006.6
p.159 「ギョオテの『ファウスト』全巻(第一部、第二部)を通読し、
所持していたレクラム版ギョオテ全集の『ファウスト』の扉に、
「明治十九年一月於德停府鷗外漁史校閲」と記す」
(2)『森鴎外事典』 平川祐弘/編 新曜社 2020.1
p.482-484 『ファウスト』
「森鷗外は一八八六(明治十九)年ドイツ留学中ドレスデンでGoethe, Faustを読み出した。
レクラム文庫本に「明治十九年一月於徳停府鷗外漁史校閲」とある。」
(3)『評伝 森鴎外』 山崎國紀/著 大修館書店 2007.7
p.57 「鷗外の所有した『ファウスト』の扉に
「明治十九年一月、於徳停府鷗外漁史校閲」とあるのがそれである。」
ドイツ帰国後の著作活動において使用した号については、以下の資料に記載があります。
(4)『近代文学研究叢書 第20巻』 昭和女子大学近代文学研究室/著 昭和女子大学 1963.11
p.125-164 二、著作年表
明治22(1889)年1月3日に、「鷗外」の筆名で読売新聞に
「音調高洋筝一曲」を掲載したとの記載があります。
Webサイト最終確認日:令和5年9月20日
” ※着色は引用者
【文豪の生涯】森鷗外|激動の明治を駆け抜けた軍医の生涯、ドイツでの悲恋、嫁姑戦争などエピソードと作品紹介、偉人たちとの交流を徹底解説!
https://www.youtube.com/watch?v=XgP-JIsM1OI
[11:54~
(森)林太郎は、寄宿舎で同じ部屋を割り当てられたことをきっかけに、賀古鶴所(かこつるど)という人物と親しくなりました。そして 賀古を通じて、緒方収二郎とも友人関係になり、同じ寄宿舎で暮らす三人は、いつも行動をともにするようになりました。
林太郎は彼らとの関係を「三角同盟」と呼び、青春時代の思い出として後年、懐かしく回想しています。
「舞姫」の主人公・豊太郎の友人 相沢謙吉は賀古をモデルにしたとされる
]
参考資料
ワクワクさんさんがリポスト
https://x.com/Tweedle37035313/status/1820221651923165281
”TweedleDee
@Tweedle37035313
Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge
人間交際術
かな
開会式は…笑うしかないよね…
無神論ではないと思います
ぱっと見では涜神論だけど、実はそうではない可能性
https://x.com/Tweedle37035313/status/1819167946004160838
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月4日
返信先: @uxskfさん
開会式・・・
画像
画像
午前7:13 · 2024年8月5日
·
1,009
件の表示”
[
引用されている、ワクワクさんの方でない呟きは、
https://x.com/Tweedle37035313/status/1819167946004160838
”TweedleDee
@Tweedle37035313
Phillippe Caterine
開幕式でキリスト??に扮する。
スレッドもまとまっています。
ただ、それとは別に
この開会式のパフォーマンスは歴史的観点から気になることがあるので補足しておきます。
1/
引用
ロシア在住です(松本陽子)
@jupiter_russia
·
2024年8月1日
キリスト教信者の怒りを買ったパリ・オリンピックのパフォーマンス、キリスト扮した俳優がインタビューを受け、「気分を害したら悪かったよ。でもキリスト教の良いところは赦しでしょ。キリスト教徒は優しいから赦してくれるよねー」と話していました。まだ青の染料が残っている臍を見せて有頂天の様子
さらに表示
埋め込み動画
午前9:26 · 2024年8月2日
·
246
件の表示
”
]
https://x.com/uxskf/status/1907041007117676703 と続き
”ワクワクさん
@uxskf
あの開会式はブログに書いてあったはずだからあんま書かなかったけど
ディオニュソス=バッカス的な話をキリスト教がパクったというのを堂々とやったからキリスト教の連中やイランが怒ったわけ
ご存知の通りキリスト教もいろんな宗教や神話から影響されているわけで
午後9:03 · 2025年4月1日
·
1,566
件の表示
水をワインに変えた 死んでから蘇る ワインを飲む
そのままディオニュソスの話をイエスが取り入れた という事に尽きる
ギリシャ神話の研究者やパンワインの神話本にも書いてあるけどね
このディオニュソスの密儀を開会式にメーソンが取り入れて
イエスの元ネタ=ディオニュソスをやった
午後9:07 · 2025年4月1日
·
1,160
件の表示
だから多少神話学や宗教に詳しい人間からすると
「アレは最後の晩餐ではなくディオニュソスです」
という五輪側の言い訳がそのまま答えになってしまっているしメーソン流のブラックジョークで笑うしかないわけ
午後9:10 · 2025年4月1日
·
932
件の表示
そもそもがキリスト教、イエスの元ネタの一つがディオニュソスなんだから
最後の晩餐だろうがディオニュソスの祭儀だろうが
最後の晩餐=ディオニュソスの祭儀としかどっちにしろならんのよw
午後9:15 · 2025年4月1日
·
907
件の表示
このキリストのパクリ問題を堂々と開会式でやったフランス大東社に対して
バチカンにしろ他の連中にしろなんか怒ってますアピールしか出来ないし
他のキリスト教の保守やらがポリコレガーとしか叩かないのはそういう問題がある そもそもの虚構がバレるから
さらに表示
午後9:18 · 2025年4月1日
·
882
件の表示
”
[
ありがたい補足だ! 感謝。
「水をワインに変えた 死んでから蘇る ワインを飲む
そのままディオニュソスの話をイエスが取り入れた という事に尽きる」に当時の私は気づいてなかったよ。
単純に元ネタの1つって当時の分析に書いていないので。
一部のディオニュソス祭で人肉を食べていた説がある。それがミサの元ネタでは?みたいなことも書いていないので、
キリスト教の元ネタとしてのディオニュソスには気づいていない。
ミサの元ネタが人肉食の儀式だと書いたのに、そもそもキリスト教の元ネタだと気づいていない。
こういう抜けがあるから1人ですべての要素を考察するのはほぼ不可能なんだよな。
当時の呟きを確認だ。
https://x.com/kitsuchitsuchi/status/1817930726484140534 と続き
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
です。
最後の晩餐において、キリストはパンをとり、「これはあなたがたのために渡される私のからだである」と言い、またぶどう酒の入った杯をとり、「これは私の血の杯、あなたがたのために流される新しい契約の血である」と言って、「これを私の記念として行いなさい」と弟子たちに命じました。”
は
人肉食の儀式が元だと解釈できる。
最後の晩餐が元ネタの場面で、料理の皿の蓋をとると青いディオニュソスが登場。食人(神)を想起させる。青い肌であることで、青組の青や、インド属性をつけられる。青組(アーリア白人妄想)は食われるってことだろう。この青いおじさんの毛の色が金または黄色。
青組が好きな配色の1つが青と金(黄)色。ディオニュソスなのは、一部のディオニュソス祭で人肉を食べていた説があるからだろう。
最後の晩餐の冒涜(既存の伝統的な耶蘇教の否定。イエスの血と肉の儀式は人肉食が元だとする説)、
バッカス(ディオニュソス)祭(人肉食説あり)、
「青組(青と金の人
型存在)が食われる」などの多重掛詞だろう。
なので青組が怒るのは当然だ。青組ではなさそうな人も怒っているけどね。
赤組”ゆうあい”(≼◎≽) 対 青組”とらんぷ”✊
何が悪魔崇拝だよ。分析において、フランスが舞台でグラントリアンや類する表現が出ない時点でダメでしょ。
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年7月27日
ギロチン、マリーアントワネット、フランス革命、レミゼラブル、月世界旅行、海底2万マイル、エッフェル塔、ルーブル、ヴェルサイユ、アサクリ
うーんグラントリアンピック
さらに表示
午後11:49 · 2024年7月29日
·
2,743
件の表示
]
ーーーーーー
江戸っ子
@mer0036
キリスト教系の聖書よりも、ギリシャ神話の方が古くからあるということですね、この辺の時系列は知らなかったので、勉強になります。
さらに表示
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
4月1日
返信先: @uxskfさん
水をワインに変えた 死んでから蘇る ワインを飲む
そのままディオニュソスの話をイエスが取り入れた という事に尽きる
ギリシャ神話の研究者やパンワインの神話本にも書いてあるけどね
このディオニュソスの密儀を開会式にメーソンが取り入れて
イエスの元ネタ=ディオニュソスをやった
さらに表示
午後9:23 · 2025年4月1日
·
471
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
まぁこのイエスとディオニュソスにしろ (誕生日が同じとか言ってる人もいるが)
それより前の地母神と樹木、植物の神の死と再生という神話が影響した話ですよ
エジプトにもオシリスなんてのがいるしメソポタミアにはおそらく最古のタンムズがいる
さらに表示
午後9:35 · 2025年4月1日
·
268
件の表示
ーーーーー
ワクワクさん
@uxskf
シヴァかよみたいな話もインドのディオニュソスって扱いならまぁ分かるんだけどなぁ
さらに表示
午後9:24 · 2025年4月1日
·
682
件の表示
ーーーーー
ワクワクさん
@uxskf
ディオニュソスの話はなかったのか
書いていたように勝手に思っていた
大体この分野の研究は左の方や石屋の方がやっていてそのまんまメーソン側ならダンブラウンの系列とか封印のイエス
共産主義エンゲルスに影響のバッハオーフェンとかメーソン系のゲームでよく使われるバーバラウォーカーとか
午後8:24 · 2025年4月5日
·
1,106
件の表示
バーバラウォーカーの事典とかはサブカル面見るなら把握しといた方が良いよ 学術的にアレなのは前提で
バッハオーフェンやバーバラウォーカーの母権の話とかも含めて男尊女卑キリスト教の再構築という意味ではあそこら辺の連中のは元ネタの題材としてよく使われる
ウイッチクラフト方面とかもか
午後8:26 · 2025年4月5日
·
359
件の表示
象徴魔女がハマってたツァイトガイストとかもか
これらみんな既存のキリスト教はツギハギのパクリでしかないという事が言いたいわけで
そこは支配の再構築というメーソン思想が入ってるわけですが
とは言え普通に表の学者も話してるようにイエスキリストの元ネタの部分とかは嘘もありつつ真実もある
午後8:29 · 2025年4月5日
·
826
件の表示
地母神やディオニュソスの話なんてのはそう
バーバラウォーカーら辺も書いていたと思うけど
さらに表示
午後8:30 · 2025年4月5日
·
670
件の表示
ーーーーーー
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティ陰謀論
初級 ヴァイスハウプト
中級 クニッゲ
上級 ボーデ
午後4:51 · 2023年9月24日
·
1,675
件の表示
フリーメイソンとフランス革命を巡る会話:フランクリン・ゲーテ・ナポレオン/純丘曜彰 教授博士
2021年3月22日 22時36分
INSIGHT NOW!
https://news.livedoor.com/article/detail/19894817/
”
米国独立戦争:フランクリンvsブラウンシュヴァイク侯
「ほら、新大陸のベンジャミン・フランクリンも、凧で天空から電力を取り出しただろ」
「フィラデルフィア市の新聞編集人ベンジャミン・フランクリンなんて、典型的なメイソンだったからな。彼こそが、おそらくフント男爵の計画していたドイツ人大移民団の受け入れ窓口だっただろうね。六五年にスタンプ税問題が起きると、翌年からすぐにドイツやフランス、大ブリテンを訪れ、解決に奔走している。同時に、国境争いだらけの植民地諸州の間の郵便通信網を整え、新大陸新王国の準備を進めている」
「彼も、カトリック・ジャコバイト(ジェームズ派)だったんですか?」
「いや、マサチューセッツ州ボストン市の家の生まれだから、もともとは清教徒(ピューリタン)だろうが、わざわざフィラデルフィア市に移り住んでいるところを見ると、宗教的にはもっとリベラルだったんだろうな」
「そんな人が、カトリック・ジャコバイト(ジェームズ派)の新王国を準備していたんですか?」
「ジャコバイト(ジェームズ派)王のチャールズ三世も、一七七五年には五五歳で、子供がいなかった。かろうじて弟がいたが、ローマ大聖堂首席司祭枢機卿だった」
「つまり、もはや断絶確実ということですね」
「それなら、フランクリンは、誰を王に呼んでくるつもりだったんでしょう?」
「いや、モンテスキューが提唱した、王のいない共和政体だろうね」
「ああ、『法の精神』は一七四八年でしたっけ」
「それまでにも、ヴェネチア島やフランクフルト市などに特権的都市貴族たちによる共和国はあったんだが、モンテスキュー男爵は、古代ローマを研究しているうちに、紀元前四世紀からカエサルが出てくるまでの連邦共和制ことが最強だと考えるようになった。彼は五五年に亡くなったが、その理想を引き継いだのが、フランクリンだよ」
「そのうえ、たんなる理想ではなく、その実現のチャンスを目の前にしていたんだな」
「とはいえ、一七七五年四月に独立戦争が始まるころは、フランクリンは、もう六九歳で、新大陸メイソンでも最長老の一人だった。おまけに、独立戦争を始めたのが、宗教的寛容性のかけらもない狂信的潔癖主義のマサチューセッツ州の清教徒(ピューリタン)たちだったものだから、ニューヨーク州やニュージャージー州、フィラデルフィア州などの新王国の中核となるはずだった東岸中部諸州は、むしろ大ブリテン側についたんだ」
「ジャコバイト(ジェームズ派)が断絶して共和政になったら、領主として認められるかどうかわからないし、大ブリテンに敵対して敗北したら、別のやつが自分の領地の領主として任命されて来るかもしれないからなぁ」
「おまけに、彼が受け入れようとしていたドイツの「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」も、プロシア王の義弟のブラウンシュヴァイク侯に乗っ取られて、独立運動を弾圧する大ブリテン側についてしまったんですよね」
「ついてしまったどころの話じゃないよ。ブラウンシュヴァイク侯の子分、カッセル方(ラント)伯カールが、チューリンゲン(中部丘地)やヘッセンで喰い詰めていたドイツ人の没落貴族や貧窮農民を三万人もかき集めて、大ブリテンの傭兵奴隷として新大陸に送り込んだんだ。これは大ブリテンの正規軍より多い」
「大移民団が大傭兵団に化けてしまった?」
「結果として、そういうことになるな」
「でも、大ブリテンからの独立を夢見る「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」が大ブリテン側の傭兵団になってしまったんじゃ、事実上の創設者のフント男爵の面目が立たないだろ」
「総(そう)帥(すい)ブラウンシュヴァイク侯は、七五年六月に、お膝元のブラウンシュヴァイク市にメイソン大会を招集、フント男爵に中世の聖堂騎士団(テンプラー)と「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の連続性の証明を迫って憤死させた」
「余計な邪魔者は始末するというわけか」
「だけど、そんなことをしたら、ブラウンシュヴァイク侯だって、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の総(そう)帥(すい)としての正当性が危うくなりませんか?」
「だいじょうぶ。代わりにシュタークというやつを拾ってきたんだ。そいつの「聖堂司祭団(クレリキ・オルディニス・テンプラリイ)(クレリカート)」とやらは、中世においても聖堂騎士団(テンプラー)よりも上位に存在したとかで、それがブランシュヴァイク公の地位と「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の正当性を保証した」
「そいつ、どうせイエズス会残党だろ」
「おそらくね」
「フランクリンは、あくまで独立派で、七五年七月四日に独立宣言を出すが、ワシントン将軍の新大陸独立派軍はわずか一万数千。対する大ブリテン正規軍、傭兵軍、新大陸帰順派軍は、その五倍。これじゃ勝てるわけがない」
「新大陸議会の中心フィラデルフィア市も七七年の秋には陥落してしまいますよね。その後も、よく持ちこたえましたね」
「大ブリテンは、勝つ気が無かったんだろうね。本国がほしかったのは、フランスやスペインの握っているカリブ海の西インド諸島の権益で、植民地の方はどうでもよかったんだよ。もともとあんなところはジャコバイト(ジェームズ派)の領土で、先住民たちの際限ない襲撃もあって、なんの利益も見込めなかった。大ブリテンの産業革命に乗り遅れた田舎貴族と、ドイツで喰い詰めた没落貴族や貧窮農民が新大陸を暴れ回っていれば、そのうち、新大陸の連中の方が、跡(あと)継(つぎ)もいないジャコバイト(ジェームズ派)なんか見限って、大ブリテンに帰順すると思っていた」
ドイツの米国支援:ボーテ・カント・ゲーテ
「どうやって形勢を逆転したんだ?」
「その鍵となるのが、ゲーテさ。このころ爆発的な話題になっていたのが、二五歳のゲーテが書いた『若きウェルテルの悩み』。主人公の青年が婚約者のいる娘に恋して絶望し拳銃自殺する、というモックドキュメント風の書簡体小説で、七四年の九月に出版されると、ドイツはもちろんフランスその他でも売れに売れまくり、主人公の黄色いチョッキ、さらには拳銃自殺まで流行してしまった」
「すごい人気ですね」
「ちょうどワイマール公国に十八歳のカールアウグスト公がいて、彼もまたこの小説に心酔していた。それで、その家庭教師がカールアウグスト公とその弟をパリへグランドツアーに連れて行く途中でフランクフルト市に立ち寄り、ゲーテとカールアウグスト公を引き合わせた」
「それで?」
「二人は兄弟のように意気投合し、七六年十一月、カールアウグスト公はゲーテをワイマール公国に招聘した」
「それと、米国独立戦争と、どんな関係があるんですか?」
「この本自体は、ライプツィッヒ市のヴェイガントが出したんだが、その出版を仲介したのが、ハノーファー選帝(クア)公国の中の自由都市ハンブルクの新聞編集人ボーテなんだ。彼はブラウンシュヴァイク侯国の貧しい家の生まれだったが、大学を出て、英語や仏語もでき、港町のハンブルク市にあって内外の情報に通じ、新聞を出していた。七五年の独立戦争開戦当時で四〇歳。じつは、彼は、ドイツで最初というハノーファー市の伝統あるメイソンロッジ「アブサロム」の幹事で、新大陸移住を計画する「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の送り出しドイツ側の連絡係だった。つまり、受け入れ側のフランクリンとは年来の付き合いだったんだ」
「でも、ゲーテって、フランクフルト市の人ですよねぇ」
「メイソンは、街も国も大陸も越えて繋がるらすごいんだよ。そのうえ、ボーテは、面倒見がよかった。売れない劇作家のレッシンクをハノーファー国立図書館長に押し込んだのも彼だし、選帝(クア)侯マインツ大司教領飛び地エアフルト市の哲学教授で作家のヴィーラントをワイマール公国の若きカールアウグスト公の家庭教師に推薦したのも、彼。四七歳になってもいまだ無給私講師として不遇をかこっていたプロシアのケーニヒスベルク大学のカントを見出してきてワイマール公国のイェナ大学に招こうとしたのも彼なんだ」
「あれ? カントってイェナ大学に行っていましたっけ?」
「生活を変えたくないカントは固辞して、代わりに自分の弟子で、パリ市のディドロやダランベールなどの百科全書派を訪れていた二七歳の新教説教師で文芸評論家のヘルダーを、ボーデの出張先のシュトラスブールに送った。そこで、ボーテが、二二歳のシュトラスブール大学の学生ゲーテと引き合わせた。それで、ゲーテは、すっかりヘルダーの敬(けい)虔(けん)主義的な信仰と百科全書的な知識と、それらを凌駕する疾風怒濤の情熱に染まった」
「それで、その三年後にゲーテは『若きウェルテルの悩み』を書くことになったというわけですね」
「ボーデは、クニッゲ男爵という青年も世話をしている。ハノーファー選帝(クア)公国のハノーファー市近くの没落貴族で、かろうじてハノーファー選帝(クア)公国のゲッティンゲン大学を出て、カッセル方(ラント)伯フリードリッヒ二世のところで拾ってもらっていたんだが、こいつは、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の新統帥ブラウンシュヴァイク侯の子分だ」
「チューリンゲン(中部丘地)やヘッセンの若者たちを騙して、傭兵奴隷として大ブリテンに売り飛ばしていたやつですね」
「クニッゲは、独立戦争開戦当時二三歳で、同年代の同胞の青年たちの命をカネに換えて大儲けするカッセル方(ラント)伯やブラウンシュヴァイク侯が気に入らなかった。それで、この問題をボーテに相談し、ゲーテ同様、ワイマール公カールアウグストのところに転がり込んだ」
「それで、ボーテやレッシンク、カント、ヴィーラント、カールアウグスト公、ゲーテ、クニッゲたちが、プロシア・大ブリテンの裏をかいて新大陸の独立を支援した?」
「そう、フランクリンをフランスに仲介したんだ」
百科全書ロッジ・ヌフスール:ヴォルテール
「フランスって、ルイ十五世ですか?」
「いや、彼は七四年に天然痘で亡くなってしまっていた。大ブリテンは、七年戦争以来、天然痘患者が使って汚染した毛布などを新大陸の原住民に贈って、連中を殲(せん)滅(めつ)しようとしていたんだ。その流行が、新大陸中西部フランス領からヴェルサイユ宮殿にまで流れ込んだんだ」
「生物兵器かよ。ひどいことをするなぁ」
「でも、大ブリテンとしては、独立戦争直前に神聖ローマ皇帝になるかもしれないフランス王が亡くなるなんて、思った以上に成功した作戦ということになるんでしょうねぇ……」
「それで、後を継いだのが、例のボンクラか」
「ああ、ルイ十六世。七〇年に十六歳でマリーアントワネットと結婚させられ、七四年に二〇歳で即位。七六年当時でまだ二二歳だからね」
「そんなのにフランクリンを紹介しても、意味が無いでしょ」
「じゃあ、メイソンか」
「そう。五〇年代のドルバック男爵の百科全書サロンを引き継いだ「ヌフスール(九美女神)」。ここでフランクリンは、ヴォルテールらと親好を深めた」
「ドルバック男爵のサロンは、ロワイヤル通り八番地で、あまりに町中すぎましたよね。「ヌフスール(九美女神)」は、パリ市のどこにあったんですか? よくばれなかったですね」
「それは、じつは哲学者で徴税請負人だったエルヴェティウスのサロンだ。オートウィユ通り五九番地。本人はすでに七一年に亡くなってしまっていたが、その友人知人が未亡人のところに集まってきてできた」
「なんだ、こないだ行ったジュリアの家の近くかよ。あんなパリ市のはずれのところじゃ、そりゃ見つからないはずだ」
「でも、今じゃ、目の前がフランス国立科学研究センターだよ」
「百科全書啓蒙主義にふさわしい」
「「ヌフスール(九美女神)」って、九人姉妹っていう意味ですよね」
「ただの姉妹じゃないよ。九人姉妹と言ったら、ヘシオドスに出てくるギリシア神話のムネモシュネ(記憶女神)の娘たち、九柱のミューズ(美女神)のこと」
「あ、それなら知ってます。記憶から生まれた弁論、歴史、叙情、喜劇、悲劇、舞踊、歌唱、讃辞、予言、でしたっけ」
「そう言えば、プルーストの生家もそばだな」
「記憶の娘たちの近くで『失われた時を求めて』というのも、ずいぶん皮肉ですね」
「もっとも、ブラウンシュヴァイク侯やカッセル方(ラント)伯も、ばかじゃない。パリ市の啓蒙主義サロンの「ヌフスール(九美女神)」と違って、リヨン市の「エリュ・コーエン(選良司祭団)」や「レザミレユニ(再結の友)」は、もともとオカルト色が強い。もとより「エリュ・コーエン(選良司祭団)」の創始者のドパスカリは七四年に亡くなっていたところで、錬金術師のウィレルモに組織を乗っ取らせ、七八年には、上位に「聖地善行騎士団(シュヴァリエ・ベネフィシアン・デュラ・シテサンテ)(CBCS)」を創ってしまった」
「フント男爵の騎士団、ローザの騎士団、ロイヒテの騎士団に次ぐ四つめの新聖堂騎士団(テンプラー)ですか」
「いや、実質的には、ドイツの「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」ブラウンシュヴァイク侯派のフランス支部だ」
「えーと、ブラウンシュヴァイク侯は、親プロシア・親大ブリテンだから、反フランス王権は支持する、ということですね」
架空のイルミナティ:ボルン・ミミ・ロスチャイルド
「じつは、まったく別のところで次の動きが起こっていた。カトリック国バイエルンのインゴルシュタット大学は、これまでイエズス会が支配していたんだが、七三年の教皇のイエズス会解散命令を受けて、啓蒙主義者の学長が会士追放を行った。ところが、学長の甥の若き法学教授ヴァイスハウプトが攻撃にさらされた。そこで、彼は、自分の学生五人と啓蒙秘密結社「イルミナティ」というインチキ団体を創設し、薔薇十字友愛団(ローゼンクロイツァー)のように、教会以上の歴史と組織を匂わせ、自分たちの身を守ろうとした。とはいえ、この団体は、実際はせいぜいバイエルンの首都ミュンヘン市周辺しか仲間がいなかった」
「イルミナティって、よく聞くけど、最初はそんなものか」
「ところが、この動きに、イエズス会をこころよく思っていなかった人々も乗っかってきた。たとえば、ウィーン市のイエズス会士だったが、その解散前に辞めてプラハ大学で鉱物学を研究していたイグナティウス・ボルン。彼も、イエズス会のしつこい嫌がらせに辟易して、イルミナティに加わった」
「自分たちが解散させられても、以前に辞めたやつに嫌がらせをするのか?」
「解散させられたから、余計にじゃないでしょうかね」
「ところで、七年戦争中の一七五九年、スローン準男爵(バロネット)の雑多な珍奇コレクションを元に大英ミュージアム(博物館)ができた」
「でも、そういう珍奇コレクションのたぐいなら、イエズス会にどっぷり漬かっていた一六〇〇年ころのルドルフ二世とか、ハプスブルク家の方がはるかに格が上だろ」
「そう、それで、帝太后マリアテレジアは、七六年、ボルンを呼び出し、すでに六五年に亡くなった夫フランツ一世の遺品のメイソン的博物コレクションを加え、ウィーン帝立ミュージアム(博物館)を作らせる」
「でも、自称啓蒙君主の息子の皇帝ヨーゼフ二世は、そういう古くさいのは嫌いそうだな」
「でも、せむしで一生を独身で通した姉のマリアアンナや、ザクセン選帝(クア)公六男アルベルトカジミールと熱烈な恋愛結婚をしたマリアクリスティーナ「ミミ」、そして、その夫のアルベルトカジミールも、ボルンを支援し、ミュージアム(博物館)を充実させ、イルミナティを広めた」
「「ミミ」って、ヴェネチアのナポレオン館にカノーヴァの作ったピラミッド型のお墓のレプリカがあった人ですよね」
「父親のフランツ一世に代わって、彼女が次の世代のヨーロッパメイソンのハブになったんだろう。フランツ一世は政治的には恵まれなかったが、奥さんや娘たち、彼を慕ったメイソン仲間がおおぜいいたんだろうな」
「それと、ちょうどそのころ、ワイマール公のところのクニッゲ男爵が、以前に仕えていたカッセル方(ラント)伯のハーナウ宮廷に逗留していた」
「ハーナウ市って、フランクフルト市のすぐ東だよな」
「カッセル方(ラント)伯国は、一六八五年のフォンテーヌブロー勅(ちょく)令(れい)で追放されたフランス人新教徒移民を常備軍にして以来、傭兵で外貨を稼ぐのが国業。方(ラント)伯フリードリッヒ二世も、若者三万人を新大陸の傭兵奴隷として大ブリテンに売りつけて、大儲けしていた。そうやって稼いだ法外な大金を、息子のヴィルヘルムを通じて、フランクフルト市のユダヤ人金融業者ロスチャイルド家に運用させていた」
「そんなところになんでまたクニッゲ男爵が?」
「表向きは執筆出版活動のため、ということになっているが、実質的にはボーテ派のスパイだろうな。七八年には、すでにパリ市「ヌフスール(九美女神)」でのフランクリンの外交活動で、フランスが新大陸新政府と同盟を組んで参戦を準備していたからね」
「あれ? ロスチャイルド家って、そんな大金、どうやって運用していたんですか?」
「あ、よく気づいたね。このカネの大半は、フランスのオルレアン「平等(エガリテ)」公が借り入れ、「フランス大オリエント社(GOdF)」に注ぎ込まれていた」
「えーと、つまり、カッセル方(ラント)伯の傭兵奴隷の代金として大ブリテンが払ったおカネが、エジプト十字軍の準備資金になっていた、ということですね」
「そういうこと」
1782年の国際メイソン大会:ボーテvsブラウンシュヴァイク侯
「でも、エジプト十字軍がうまくいかなかったら、どうなっちゃうんです?」
「ロスチャイルド家も、それを心配し始めた。それで、オルレアン「平等(エガリテ)」公に言って、庭園を開放させ、その廻りにぐるっと建物を作って、そこでテナント業をやらせた」
「悪名高きパレ・ロワイヤル(王立宮殿)か」
「悪名高い?」
「本人が放蕩三昧だったせいもあって、ろくでもない連中ばかりがたむろってきたんだよ。公営風俗街みたいなもんだ。そのくせ、あくまで公の庭園だから、警察も手を出せない」
「クニッゲ男爵が、ロスチャイルド家をオルレアン公や「フランス大オリエント社(GOdF)」に仲介していた?」
「それはどうかわからない。ただ、クニッゲ男爵は、自由都市フランクフルトで、イルミナティのコスタンツォ侯に会った」
「コスタンツォ侯って?」
「宮中(プファルツ)選帝(クア)伯ヴィッテルスバッハ家の傍系の傍系のビルケンフェルト伯ヴィルヘルムの宮廷官」
「ぱっとしないなぁ。それに、伯に仕えている侯って変だろ。身分が逆じゃないのか」
「落ちぶれて、ぱっとしないから、インチキ組織で一発逆転を狙(ねら)ったんだろ」
「それで、クニッゲ男爵は?」
「これが、イルミナティを本気にしちゃったんだ。それで、彼一人で五〇〇名も集めた。というより、新聖堂騎士団(テンプラー)ボーデ派がごっそりイルミナティに入った、ということかな」
「でも、バイエルンのイルミナティなんて、ほとんど実体が無いんだろ」
「おもしろいのは、ヴァイスパウプト教授が、そのことを正直にクニッゲ男爵に告白して謝罪したことだよ。それで、むしろ組織の完成をクニッゲ男爵に委ねている」
「クニッゲ男爵だって、まだ三〇前だろ」
「もちろん黒幕はボーデさ。八一年には、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の拠点を統帥ブラウンシュヴァイク侯のブラウンシュヴァイク市からヴァイマール市に移してしまっているし」
「そんなことしたら、ブラウンシュヴァイク侯が怒るだろ」
「ああ、怒ったね。それで、翌八二年七月にハーナウ市郊外ヴィルヘルムスバートのロスチャイルド家の豪邸で国際メイソン大会が開かれた」
「そんなに大規模だったのか?」
「いや、各国三六大ロッジの代表による会議だ。大ブリテンも入っていないし、プロシアも親書を送っただけ。問題は「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」内の主導権争いだからね」
「で、どうなった?」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」に近いボーテ派によって、中世聖堂騎士団(テンプラー)起源説は否定された。でも、ブラウンシュヴァイク侯は、代わりに聖地善行騎士団(シュヴァリエ・ベネフィシアン・デュラ・シテサンテ)説を了承させた」
「それ、ブラウンシュヴァイク侯がフランスのリヨン市のウィレルモに作らせた組織でしょ?」
「メイソンも、種々雑多の寄せ集めなんだ。ボーテ派のような啓蒙主義者もいれば、それを批判するオカルト主義者もいる。ブラウンシュヴァイク侯は、その隙(すき)を利用したんだ」
「でも、大陸メイソンは、ウィレルモに従う、ということ?」
「いや、リヨン市の「エリュ・コーエン(選良司祭団)」でも、「聖地善行騎士団(シュヴァリエ・ベネフィシアン・デュラ・シテサンテ)」を騙(かた)って支配するウィレルモに対する反発が生じ、八三年、「レザミレユニ(再結の友)」の王室財宝官ランジェ侯シャルルピエールポールが、パリ市で、聖地善行騎士団とは別の上位組織「フィラレート」を創設する」
「フィラレートって?」
「古代ギリシアの人名だな。真実を愛する者、という意味だ」
「ようするに、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の啓蒙主義ボーテ派のフランス支部だよ」
「ただ、八四年にはバイエルン王国がイルミナティはもちろんメイソンを丸ごと禁止してしまった。八五年には教皇ピウス六世もイルミナティを異端として禁止」
首飾り事件:エジプト十字軍の計略
「その間に、フランスでは、例の首飾り事件が起きるだろ」
「ああ、そうだ。それもおそらくイルミナティ絡みだろうな。「フィラレート」の事務局が王室財宝官ランジェ侯なんだから」
「首飾り事件って、ロアン枢機卿がラモット伯爵夫妻とカリオストロ伯爵夫妻にそそのかされて、王妃マリーアントワネットへの贈り物として首飾りを買ったけれど、宝石商に代金も支払われなかったし、王妃にも首飾りは届けらなかった、っていう話ですよね」
「表向きは、ラモット伯爵夫人の単独犯行ということで、マリーアントワネットは、詐欺師たちにかってに名前を使われた、と言っているが、どこまで本当だか」
「マリーアントワネットだからなぁ」
「というと?」
「母親のマリアテレジアが心配して、オーストリアからなんども手紙で諫(いさ)めなければならないほど、彼女の贅沢(ぜいたく)ぶりはヨーロッパ中で有名だった。だけど、米国独立戦争の支援もあって、そんなカネがフランス王室に残っていたわけがないんだ。だから、むしろ王妃は、衣装だの、舞(ぶ)踏(とう)会だの、諸所からの請求に困って、かってにブルボン家の王室財宝の一部を支払いに当ててしまっていたんじゃないだろうか。それで、王室財宝官のランジェ侯は、その買い戻しに奔走していた」
「マリーアントワネット王妃は、なんとかする気は無かったんですかね」
「彼女なりの考えはあったよ。貴族は私一人で十分。ほかの都市貴族に重税をかければいい、って」
「いい案じゃないですか」
「その程度で、どうにかなる状況じゃなかっただろ。中世の十字軍時代と同じだよ。いや、それよりもっと悪い。農業生産に比して人口過剰の上に、産業革命で生産過剰だ。街にはすでに失業者があふれかえっていた。こんな状況で課税まで強化したら、市中経済は死んでしまうぞ」
「そうだよ、だからエジプト十字軍なんだ。ロアン枢機卿は、色狂いで王妃に言い寄ったみたいに言われているけれど、ブルターニュのロアン子爵家の縁戚。王室財宝官ランジェ侯爵やマルタ騎士団連絡役のカリオストロ伯爵らは、彼を財務総監につけようとしていた」
「そんな優秀な人だったんですか?」
「当時のマルタ騎士団の大統領はエマニュエル・ドゥ・ロアン」
「ロアン枢機卿の親族?」
「そういうこと。おまけに、彼らはブルターニュの子爵家だから、これまでの遺恨も水に流して、大ブリテンもエジプト十字軍計画に取り込める。すでにフランスは一七〇一年のスペイン継承戦争でスペインを、一七三三年のポーランド継承戦争でシチリア島・南イタリアを、さらに、一七六九年にコルシカ島を手に入れている。そして、七三年に「フランス大オリエント社(GOdF)」ができて、八四年、オスマン艦隊とベルベル人海賊の拠点アルジェ市を叩き潰している。エジプトまでは、もう一歩だ」
「でも、首飾り事件で、ロアン枢機卿の財務総監就任という人事案は、王妃マリーアントワネットに潰されてしまったんですね」
「そんな遠征のために王室予算の削減をもくろんでいる連中の言うことなんか聞くようなタマじゃないからね」
「カリオストロ伯爵の話は、ゲーテの『イタリア紀行』にも出てきますよね」
「というより、八六年九月にゲーテが行き先も告げず、突然にワイマール市からシチリアまで旅に出たのも、カリオストロ伯爵の問題調査のためなんじゃないだろうか」
「いや、カリオストロは、もう用済みだ。ヨーロッパは、もっと大物を必要としていたんだよ」
「それがゲーテ?」
「いや、ナポレオンだろ」
「その前に、自分で名乗り出たやつがいた。オルレアン「平等(エガリテ)」公だ」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」の大統領ですね」
「それで、ボーデは一七八七年にパリ市に赴いたが、いい印象は持たなかったようだ」
「窮民救済のエジプト十字軍の話を、たんに自分が王位に就くためのクーデタにすり替えたんだろ」
「そんなところだろうな」
フランス革命前夜
「でも、革命前のパレ・ロアイアル(王立宮殿)も、こんなだったんですかね」
「どうかな。パレ・ロワイヤル(王立宮殿)の周辺にたむろっていたのは、大量の売春婦たちや犯罪者たちだぜ。パレ・ロワイヤル(王立宮殿)の中に逃げ込めば、王宮扱いだから、警察も手を出せない。おまけに、オルレアン「平等(エガリテ)」公は独自に「プロ市民」を養成していた」
「プロ市民?」
「売春婦や犯罪者の中で口が立つ連中を引き寄せて、扇動家や連絡係に使っていたんだよ。連中は、もとより反体制的だし、カネさえもらえば、なんでもやるやつらさ」
「そんなの、屋敷の中に入れていたんですか?」
「ほら、ここにも、あちこちに噴水があるだろ。あれが重要なんだ。オルレアン「平等(エガリテ)」公が使った通信手段だ」
「通信?」
「噴水は、屋敷の中から操作できるんだよ。あれでプロ市民たちに指示を出す。やつらは、噴水がどんな状態だったかだけを、地方の同志の都市貴族に伝える」
「会ってもいない、文章も無い、証拠も残らない、途中で連絡係が捕まっても、だれにも意味がわからない、というわけだな」
「ああいう噴水を都市貴族の屋敷前に作らせて、地方の末端の連中まで操作した。噴水暗号は、各階層ごとに組み合わされていたから、下位の連中は上位の連中の暗号がわからない」
「メイソンの暗号儀式の応用ですね」
「で、八九年の七月か」
「もうすこし順を追っていこうよ」
「なら、まず前年の八八年八月末に財務総監ブリエンヌが都市貴族への課税に失敗して辞任したところからですよね」
「そうだな」
「それで、ネッケルの再任となったけれど、そのときに三部会の招集と承認をルイ十六世に条件付けた」
「このあたりまで、王室財宝官ランジェ侯爵の思惑どおりだな」
「それで、問題の八九年五月にヴェルサイユ宮殿内で三部会(エタ・ジェネロ)が開かれた。だけど、地方議会同様に第三身分を倍にしろ、いや伝統的に中央は三身分同数だ、って、運営の仕方で紛糾してしまった。それが昂(こう)じて、六月二〇日の球技場(テニスコート)の誓い、第三身分は絶対に憲法を制定するぞ、ということになった」
「大ブリテン型の立憲君主制が予定のおとしどころだったからね」
「ところが、業を煮やした王妃マリーアントワネットが、ほら、やっぱりネッケルなんかじゃダメじゃないの、って、七月十一日、ルイ十六世にネッケルを解任させてしまった」
「これは予想外だっただろうなぁ」
「それで、今度は、ほらやっぱりルイ十六世なんかじゃダメだろ、って、オルレアン「平等(エガリテ)」公がみずからクーデタに動き出した」
「このあたりから、どんどんランジェ侯爵の軌道を外れて、コントロールできなくなっていったんだろう」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」のランジェ侯爵がめざしていたのは、あくまでルイ十六世下での立憲君主制で、オルレアン「平等(エガリテ)」公には、せいぜい首相になってもらうくらいのつもりだったんだろうな」
革命と国会議事堂建設
「ところが、ここで、やっかいな女が出てくるんだ。ほら、「フランス大オリエント社(GOdF)」、あれ、中心となっていたのは、王室財宝官のランジェ侯爵と政府科学顧問のギヨタン医師、そして、博物学者のビュフォン伯爵。ところが、ビュフォン伯爵は、革命前年の八八年四月に亡くなってしまっていたんだ」
「それで?」
「問題は、ビュフォン伯爵家を継いだ息子。これが、ビュフォン伯爵の広範な博物学研究の中でも最低の生き物と揶揄されるくらいのバカで、その嫁というのが、野望に満ち満ちた町娘、アニェス。うるさい義理の父の大ビュフォンが亡くなったのをいいことに、さっさとバカ息子の小ビュフォンを放り出し、名目上の「フランス大オリエント社(GOdF)」大統領、オルレアン「平等(エガリテ)」公の愛人になって、王位簒奪をけしかけた」
「面倒な時に面倒なやつが出てきたもんだな」
「でも、ワイマール公国のボーデと決裂して、大オリエント社のエジプト十字軍の話はダメになっちゃったんですよね。立憲君主制を建てたって、王様を変えたって、財政破綻は救えないですよねぇ……」
「憲法を作って、議会を開いても、都市貴族への課税承認なんか、どのみち取り付けられないだろうな」
「ちがうんだよ。議会を作ることが重要なんだ、文字通りね。ほら、徴税請負人の壁、あれは、すでに八七年に完成している」
「そのせいで物価が高騰したって、パリの町民が怒っていたんですよね」
「壁のせいというより、その工事が終わってしまったせいで、十万人の建設失業者が出ていた。だけど、大きな徴税請負人の壁ができれば、その内側の古い昔の壁の残骸はいらないだろ」
「昔の壁って? すでにルイ十四世の時代にほとんど撤去したんじゃないか?」
「その一部、大物が残ってたんだよ」
「サンタントワーヌ・バスティーユ(要塞)か」
「そう、西のルーブル・バスティーユ(要塞)は宮殿に改装されたが、それと対で百年戦争期に建てられた東のサンタントワーヌ・バスティーユ(要塞)は、監獄として使われていた」
「国事犯専用で、サド侯爵が中から、ここで人が殺されている! とか、わめき立てていたんで、圧政の象徴とされた、って、聞いていますけれど」
「それは表向きの話。とにかく、あれをぶっ壊して、あそこに巨大な国会議事堂を建てる計画だった。そうすれば、その周辺も、官庁はもちろん、地方議員の事務所だのなんだのができて、ヴェルサイユ宮殿に奪われてしまっていた活気がパリ市に戻ってくる、という、もくろみだ」
「まさにメイソンらしい土建的経済刺激策だな。だけど、それには、最初の呼び水の資金がいるだろ。ただでさえ国庫が破綻しているのに、どうやったんだ?」
「名門生まれのオータン司教タレーランだよ。七三年にイエズス会を解散させたときに、その莫大な資産が吐き出されてきた。それなら、ということで、革命を機会に国内のカトリック教会を全部ぶっ潰し、その土地収益を抵当にアシニャ(割当)紙幣を発行した。タレーランは教皇から破門されたが、自分の方からも司教を辞して国民議会の議長になってしまった」
「貴族にとって、教会なんて、家柄に箔を付けるだけのものだもんなぁ」
「革命と言っても、立憲王政を目指して国王や都市貴族は存続して、ローマ中心主義の一部の僧侶階級が排除されただけというのが本当のところなんですね」
「ところが、これでうまく終わっては困るのが、愛人の小ビュフォン伯爵夫人アニェスにけしかけられているオルレアン「平等(エガリテ)」公だ。彼は、王室顧問会議弁護士のダントンだの、貧乏ジャーナリストのデムーランだの、サディスト高級娼婦のテロワーニュだの、パレロワイヤルの手下のプロ市民たちを使って王室批判を続ける。逆に、よけいなスウェーデン貴族のフェルセン伯爵とやらは、絶対王政に戻そうと、プロシアやオーストリアを反革命でけしかける。そのせいで、九一年六月二〇日、国王一家は国外逃亡を図って、王権停止で立憲王政計画は瓦解。ボルドー市の連中、いわゆるジロンド派が政権を奪取して、干渉周辺国に対する主戦論を展開。もはや国会議事堂建設どころではなくなってしまった」
「ちなみに、三五歳のモーツァルトは、九一年九月末に、ウィーン市のオペラ座の南西のヴィーデン劇場で、メイソンを暗示する『魔(ま)笛(てき)』を上演して、十二月には病死しているな」
「オーストリアの方は、あんまり戦争なんていう雰囲気じゃないですねぇ」
「自称啓蒙君主の皇帝ヨーゼフ二世はともかく、姉のマリアアンナや妹のマリアクリスティーナ「ミミ」、その夫でネーデルランド総督になっていたアルベルトカジミールは、イルミナティで「フランス大オリエント社(GOdF)」の側だからね」
「なのに、ジロンド(ボルドー)派は、なんで主戦論だったんでしょうね?」
「想定されていた敵国は、オーストリアじゃなくて、大ブリテンだったんだろうな。フランス西岸のボルドー市は、十五世紀の百年戦争が終わるまで大ブリテンに支配されていたから、また侵略される、と思ったんじゃないのかな。実際、パリ市のチュルリー宮に幽閉されていた王族は、以前からドイツ兵、つまり、米国独立戦争と同じチューリンゲン(中部丘地)の傭兵奴隷を使っていたし、王族がタンプル(聖堂騎士団)塔に監禁された翌年の九二年七月には、傭兵奴隷の親玉の「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」総(そう)帥(すい)ブラウンシュヴァイク侯が、王家の地位の保全を要求。これは事実上の宣戦布告だ。背景に、大ブリテン王国・ハノーファー選帝(クア)公国やプロシア選帝(クア)王国がいたのは、あきらかだろ」
独立マインツ共和国
「でも、立憲王政でいいんでしょ。王権停止を解除すればいいじゃないですか」
「いまさらルイ十六世を立てても無理だろ」
「九二年九月の国民公会(コンヴェンション・ナシオナーレ)でジロンド(ボルドー)派が圧勝して国王無しの共和政に移行。革命軍を組織。そのうえ、オルレアン「平等(エガリテ)」公も、あくまで主戦論を画策したんだ」
「え、どうして?」
「オルレアン「平等(エガリテ)」公は、ジロンド(ボルドー)派のような共和主義者も嫌いだったからね」
「嫌いなのに、同調した?」
「いや、共和主義者が負ける戦争を仕掛ければ、政権は自分のところに転がり込む」
「ひどい狂言回しですね」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」が周到に計画したフランス大革命は、彼とその愛人の小ビュフォン伯爵夫人アニェスの野心のせいで、どんどん迷走していくんだ」
「すでに八七年にオルレアン「平等(エガリテ)」公の「フランス大オリエント社(GOdF)」と決裂したドイツのボーデ派はどうしていたんですか?」
「それで、このマインツ市だよ。当時、このあたりは、領地がぐちゃぐちゃに入り組んでいたんだ。ライン渓谷は、コブレンツの選帝(クア)侯トリエル大司教領、ザンクトゴアールはヘッセン家のカッセル方(ラント)伯だったりダルムシュタット方(ラント)伯だったり。マインツ周辺を取り囲んで、マンハイムの宮中(プファルツ)選帝(クア)伯領。マインツ選帝(クア)大司教領は、フランクフルトより東のアッシャッフェンブルクに住んでいて、ライン西岸の自領は、ほったらかし。そして、東岸のウィスバーデンを含むフランクフルトの裏山のタウヌス山脈は、ナッサウ公領。その南がヘッセン家のダルムシュタット方(ラント)伯領。つまり、マインツ市そのものは、拮抗する複雑な勢力争いの渦中にあって、事実上の自由都市だった」
「ちょうどヴェネチアやモンテカルロみたいなものですか」
「ところが、ブラウンシュヴァイク侯が宣戦布告した後の九二年十月、マインツ大学のメイソン連中がフランス革命軍を招き入れて、独立マインツ共和国を樹立してしまった」
「そう言えば、マインツ市は、市民騎士団創設者の自称ヨンセン男爵が詐欺師時代の五五年に、守鍵官シュパウァ伯をインチキ錬金術で引っかけたところですよね」
「そのころからすでに武装市民革命を組織していたのかもな」
「さらに、北のケルン大学やボン大学、二三歳の若きヘーゲルがいた南のチュービンゲン大学でも同様の動きが広がる。それで、ブラウンシュヴァイク侯がプロシア連合軍八万を率いて、マインツ共和国へ出陣。ワイマール公国のアウグスト公とともに宰(さい)相(しょう)ゲーテもプロシア側で従軍。翌九三年三月から、二万の革命軍フランス兵が残るマインツ市を攻囲。七月にはマインツ共和国を壊滅させてしまった」
「ドイツのボーデ派はブラウンシュヴァイク侯派に寝返った?」
「もともとただの市民や下級貴族で、表立って「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」総(そう)帥(すい)ブラウンシュヴァイク侯に逆らえるほどの連中じゃないからね」
「そうですよね……」
「でも、ゲーテは、なかなか一筋縄でいくようなやつじゃないよ。彼はもとはフランクフルト市の大商家の出で、同じくフランクフルト市に居を構えるミラノ人銀行家ブレンダーノ家とも親しかった。このブレンダーノ家が、このウィスバーデン市の西のラインガウに別荘を持っていて、ゲーテは昔からよくそこに滞在している。このラインガウの帝国代官がビルケンシュトック家で、ヨハン・ビルケンシュトックは、ウィーン市のハプスブルク家宮廷顧問の重鎮。金羊毛騎士団(オルドレ・デ・ラ・トワソンドール)の一員として同じくハプスブルク家に仕えるハンガリーのエステルハージ侯爵アントン一世は、ゲーテらとともにブラウンシュヴァイク侯の対仏戦争に加わっていたし、その親族のエステルハージ伯ヴァレンティンは、以前からフランス王妃マリーアントワネットのお気に入りの一人で、革命のさなかにあってもフランス王室と外部の連絡係を務めていた。また、ボン市で不遇をかこっていたベートーヴェンは、ハンガリーのエステルハージ侯家に仕えていたハイドンに招かれ、九二年十一月にウィーン市に移り、そこでビルケンシュトックの支援を受けることになる。さらに後の九七年には、ビルケンシュトックの娘アントニアとブレンダーノ家の跡(あと)継(つぎ)フランツが結婚」
「なんなんです、この人たち?」
「ヨンセン男爵、ボーデに次ぐ、ドイツ啓蒙主義者の人脈だよ」
「つまり、イルミナティの本流?」
「そういうこと。ただし、連中は、国粋主義のジロンド(ボルドー)派や恐怖政治のジャコバン(ヤコブ修道院)派には反感を持っていたし、ナポレオンが出てくると中で分裂してしまう」
ロベスピエールの暴走
「でも、それって、もうすこし先のことでしょ」
「いや、マインツ共和国の壊滅がナポレオンを作ったんだ。この敗北で、主戦論のジロンド(ボルドー)政権がガタガタになって、ルイ十六世の処分にも慎重ならざるをえなかったのだが、そこでかのオルレアン「平等(エガリテ)」公はサディスト高級娼婦テロワーニュが指揮する女性騎馬隊なんかを使って世論を沸騰させ、九三年一月の国王処刑へ持って行く」
「で、いよいよ自分の出番だ、と」
「三月にデュムーリエ将軍に反革命クーデタを起こさせたんだけど、失敗して、逆に自分が逮捕されてしまった。テロワーニュも、五月に別の女性たちの暴行を受けて発狂。むしろ六月にはジロンド(ボルドー)派より面倒なロベスピエールのジャコバン(ヤコブ修道院)派が恐怖政治を始める」
「そして、十月には王妃マリーアントワネットも処刑、十一月には黒幕のオルレアン「平等(エガリテ)」公も処刑」
「これで、王族はいなくなった、というわけですね」
「愛人の小ビュフォン伯爵夫人アニェスは?」
「いまさら夫の小ビュフォン伯爵の元にも戻れず、貧窮して死んだらしいよ」
「自業自得だな」
「でも、今度は、三六歳のロベスピエールが暴走する」
「例の有名な恐怖政治ですね」
「翌九四年三月、マインツ市陥落の責任を問うて、三四歳のライン革命軍総将軍ボーアルネ子爵と、その後のライン軍を引き継いだ二六歳の気鋭のオッシュ将軍まで逮捕。また、オルレアン「平等(エガリテ)」公の手下だった三五歳のダントンや三四歳のデムーランを四月に収(しゅう)賄(わい)で処刑。これで、ほとんどのライヴァルを始末して、独裁者に成り上がった。さらに、六月、神がいないなら、それを発明すればいい、と言って、あるじのいなくなったチュルリー宮で、カトリック教会に代えて自分が大祭司になり、最高存在の祭典、なんてものを開いている」
「最高存在って?」
「理性のことらしいよ。それまでにも、革命の翌年の革命記念日から練兵場、いまのエッフェル塔の前に、祖国の祭壇なんていうのを作って、変な儀式を行っているけれど、最高存在の祭典は、それを画家の国民公会議長ダヴィットによる派手な演出でさらに仰々しくしたもので、でかい塚の上に変な「自由の木」を立てて、これに礼拝した」
「およそ理性的とは思えないですよねぇ」
「カリオストロ伯爵やオルレアン「平等(エガリテ)」公に代わって、自分が宗教結社の大統領になろうとしたんじゃないのかな」
「この後、七月にはマインツ陥落の責任を取らされて、ライン革命軍総将軍ボーアルネ子爵が処刑」
「あ、その奥さんが、ジョセフィーヌですね」
「三一歳の彼女は、カリブ海のマルティニーク島に砂糖プランテーション(単作大農園)農場を持つ騎爵の娘。セーヌ左岸(南側)、いまの六区のカルム修道院跡の監獄に収監されていた。ここで、隣室の二六歳のオッシュ将軍と恋仲に堕ちてしまう」
「二人とも、断頭台を待つばかりの身の上ですものね、ちょっとわかるわ」
「いや、だけど、九四年の七月末にテルミドール(熱月)のクーデタだろ」
「そう、ダントン派の残党の三九歳のバラスが国民公会軍を率いてロベスピエールの方を断頭台に上げた」
オッシュ将軍とナポレオン
「じゃ、ジョセフィーヌとオッシュ将軍は?」
「オッシュ将軍は、すぐヴァンデ反乱の対応に向かわなければならなかった。ボルドー市の北、ナント市やヴァンデ地方で、カトリック王党派残党が、徴兵令に反対する農民たちを巻き込んでゲリラ戦を展開したために、その鎮圧にはひどく手間がかかった」
「ジョセフィーヌの方は?」
「総統バラス子爵の愛人になった。汚職と腐敗の巣窟のような政治を繰り広げた」
「潔癖主義のロベスピエールより、さらにタチが悪そうじゃないか」
「でも、なんだかんだ言っても、ナポレオンがひっくり返すまで五年間も持ったんだぜ」
「すごいな」
「まず対外戦争を次々と終結。国内に復活してきた復古派を弾圧。九五年十月のヴァンデミエール(葡萄月)の反乱じゃ、バラス子爵が国内軍総将軍になって、二六歳のナポレオンを副官に抜擢。ナポレオンは、革命広場、いまのコンコルド広場で散弾大砲を復古派の暴徒に水平撃ちして、一日で鎮圧してしまった」
「それで、ジョセフィーヌは、ナポレオンに乗り換えた?」
「そんなところだな。九六年三月九日に結婚して、三月二七日にはナポレオンはイタリア派遣軍総将軍になっている。もっとも、このころ、いちばんの英雄は、ナポレオンより一歳年上で、九六年七月にヴァンデ反乱を終結させたオッシュ将軍だったんだ。アイルランド遠征は失敗したものの、九七年二月、ライン方面に乗り込み、プロシア連合軍を奥地まで追い込んだ。一方、ナポレオン将軍も、四月にはウィーン市まで迫る。八月、オッシュ将軍は、ライン左岸(西側)を完全に手中に収め、ケルン市・コブレンツ市・マインツ市を中心に、オランダ国境からストラスブール市まで、新たにシスレニア共和国を独立させようとした」
「シスレニアって?」
「ラテン語で、ラインのこちら側、という意味だな」
「ところが、九月、オッシュ将軍が、フランクフルト市の北の前線で病死。十月、ナポレオン将軍は独断でオーストリアと講和して、とにかくシスレニアを承認させ、十二月に凱旋」
「このころ、かつてのイルミナティの人たちは何をしていたんですか?」
「七一歳の老カントは、あいかわらず東北の辺境、プロシアのケーニッヒスブルク市にあって、九五年四月のプロシアとフランスの間のバーゼルの和約を一時の気休めに過ぎないと批判し、『恒久平和のために』を書いて、どの国も共和政だったら、国民の意見がバラバラになってしまって開戦の合意に至らないはずだ、なんて楽観的に考えている。一方、その弟子で三四歳のイェーナ大学教授フィヒテは、逆に、九六年には、国家は、国民の自由と権利に担保された絶対意思の表れだ、なんて、言い出した」
「九四年のロベルピエールの「最高存在」よりは洗練されてますね」
「でも、それ、独裁者の正統性の話でもあるぜ」
「南西ドイツのチュービンゲン大学で学生時代に革命に熱狂していたヘーゲルは、その後、革命の現実に失望し、スイス・ベルン市の貴族の家庭教師。九七年に二七歳でフランクフルト市のワイン商家の家庭教師」
「すっかり丸くなっちゃってますね。大物のゲーテは?」
「九六年に『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』を書いただけ」
「それだけ? ベートーヴェンは?」
「時代に不満な、ただの傲慢なピアニスト。ソナタやコンチェルトを書いていたが、難聴の兆候は顕著になりつつあった」
「なんだか、みんな現実逃避的ですね……」
霧月のクーデタ
「ところが、彼らと関係して、また新たに面倒な女が出てくる。スタール男爵夫人。三部会(エタ・ジェネロー)当時の財務長官ネッケルの娘で、八六年、二〇歳でスウェーデン外交官スタール男爵と結婚したものの、すぐに別居。以後、文芸や政治の評論で活躍し、ゲーテらに大いに気に入られた。そして、ロマン主義の小説家、コンスタンと同棲して、四人の子供も生まれている。ところが、ナポレオンが頭角を現してくると、猛烈にアタックをして、風呂場まで押しかける始末。しかし、ナポレオンは、ジョセフィーヌにゾッコンで、スタール男爵夫人には目もくれない。こうなると、今度は愛人のコンスタンとともに、激烈なナポレオン批判を始め、ヨーロッパ中の広い人脈を駆使して、旧イルミナティの連中を反ナポレオンに扇動しようとする」
「ナポレオンも、ずいぶんやっかいな女に関わっちゃったなぁ」
「いや、関わらなかったから、逆恨みされたんだよ」
「ようするに、その人、ストーカーじゃないですか?」
「だけど、父親はとてつもない金持ちだし、本人はイルミナティの人脈に気に入られているし、敵に回すと、まさに面倒だったろうな」
「一方のナポレオン。この女のせいなのか、パリ市を離れて、九八年七月には、念願のエジプト遠征。ところが、この行きがけにマルタ島を襲撃して掠奪。修道騎士団員の大半はロシアに亡命せざるをえなかった」
「あれ? 救院騎士団(シュピタラー)は、むしろ教皇やイエズス会と対立してエキュメニズム(世界教会主義)を計画し、イルミナティや「フランス大オリエント社(GOdF)」を創設して、フランス大革命を引き起こした本体なんじゃないのか?」
「彼らの支援でできた革命政府は、八九年十二月、カトリック教会の資産を抵当にしたアシニャ(割当)紙幣を発行した際に、救院騎士団(シュピタラー)の資産もいっしょにガメちゃったんだよ。それに文句を言っていたら、こんな風に本拠地まで攻め込まれた」
「で、肝心のエジプトの財宝って見つかったんですか?」
「さあ……。七月にエジプトに着いて、現地のマムルーク政権を倒したものの、八月一日にはアレキサンドリア市沖のアブキール湾にネルソン提督の大ブリテン艦隊がやってきて、海戦で大敗。ナポレオンは、エジプトで孤立。その間に北イタリアもオーストリアに取り返され、経済の混乱もさらに悪化。そんな情勢で、ナポレオンは、単身でエジプトを抜け出し、九九年十一月、パリ市に戻って、クーデタを起こし、腐敗政治の元凶で抜擢人事の恩人のバラスを追放し、自分が第一執政(コンスル)になってしまった。で、一八〇〇年一月、彼が最初にやったのが、フランス銀行の創設。金銀複本位制で、アシニャ(割当)紙幣は廃止、旧政府の負債もまるまる踏み倒した」
「持っていたカネが、文字通り紙クズになるなんて、腐敗した政治家や御用商人にとっては散弾大砲の水平打ち以上の破壊力だっただろうな」
「だけど、この時点では、紙幣を廃止できるほどの量の、現物の金銀があった、っていうことですよね」
「やっぱりエジプトの財宝か?」
「まあまあ、それは後で。このころ、北イタリアは、またオーストリア・ロシアの連合軍に荒らされていた。そこで、五月、例のナポレオンのアルプス越えの奇襲だ」
「ダヴィッドが翌〇一年に描いた白馬に乗った英雄だな」
「でも、しょぼくれたナポレオンが雪道をロバに乗って行く絵もありますよ」
「あれは、ドラローシュが半世紀も後に、英国人に売るために描いたもので、最初から悪意に満ちたカリカチュア(戯画)だよ。実際は、雪の消える五月に、先発工兵隊を送り込んで道を整備し、一気呵成に馬と大砲で駆け抜けた。だから、奇襲なんだ。で、六月十四日夕刻、ナポレオンの援軍によって、ミラノ市とトリノ市、ジェノヴァ市の中央のマレンゴで逆転圧勝。七月には、政教和約(コンコルダート)で、没収財産を弁償しない条件でカトリック教会を承認した。また、十二月には、モロー将軍がミュンヘン市の先まで攻め込んで、翌一八〇二年二月、オーストリアとのリュネヴィルの和約で、北イタリアやライン左岸(西側)のフランス領有が確立。三月、大ブリテンとのアミアンの和約で、大ブリテンはマルタ島やエジプトから撤収、フランスはナポリやローマ教皇領から撤収。この二つの和約で対外関係を安定させ、八月、終身執政になる」
「選挙無しの終身身分なんだから、この時点で彼は事実上の王になったということだよな」
「大ブリテンの女王アンを造幣局長官の錬金術師ニュートンが支えたように、八方の戦闘に駆け回るナポレオンを支えたのが、外務大臣のタレーランと内務大臣で財宝官のシャプタル」
「タレーランは、司教のくせに、教会資産を没収してアシニャ(割当)紙幣を発行した人ですよね」
「そもそもナポレオンのクーデタを画策したのも彼だからね」
「すごい策士だな」
「その才能を買って、こんどは外務大臣か」
ミュージアム建設の宝くじ
「シャプタルは?」
「もともと南仏の薬剤師の息子で、モンペリエ大学の化学教授」
「もろに錬金術師だな」
「このころは、すでに産業革命の時代だ。彼は叔父の莫大な遺産で硝酸やアルミなどの化学工場を創設している。そして、大革命の前年には、三〇歳で国王の聖ミカエル騎士団に抜擢されている」
「だったら、王党派じゃないのか?」
「かもな。国王処刑の九三年に『モンターニュ(急進上座)派とジロンド(ボルドー)派の対話』なんて書いて、逮捕された。それで、その後は政治から手を引いて、パリ美術工芸学校の創設したり、ワインの加糖発酵を発明したり」
「なんでもやるんですね」
「彼の中では、化学も、芸術も、農業も、ひとつのものだったんだろうな」
「まさに錬金術というところじゃないか」
「その彼が、ランジェ侯爵の後を継ぐ財宝官として経済再建でやったのが、ミュージアム(博物館)」
「ミューズの館、シャプタルは、まちがいなく「ヌフスール(九美女神)」のメンバーでもあったんだろうな。考えてみれば、ミュージアム(博物館)って、たいてい新古典主義の建物だ」
「ようするに、新時代のメイソンロッジそのものだよ」
「あれ? 私、学芸員だから、メイソンロッジの事務係ということですか?」
「時代が時代ならね」
「でも、ミュージアム(博物館)なんかで経済再建ができるんですかねぇ。どこでもガラガラで、人なんかあんまり来ませんよ」
「メイソンロッジなんだから、それくらい目立たない方が好都合なんだ。重要なのは、巨大な箱物を作ることさ。一七五九年に大英ミュージアム(博物館)を建てるとき、宝くじで莫大な建設資金の調達をしたんだよ」
「シャプタルも、同じ手を使った?」
「教会を潰したら、大量の土地が出てきただろ。同様に、王族を潰したら、莫大な美術品が出てきたんだ。これらをルーヴル宮だけでは収容しきれず、リヨン市、マルセイユ市、ボルドー市、ジュネーヴ市、ナント市、リル市、ブリュッセル市、ストラスブール市、ナンシー市、ディジョン市、トゥールーズ市、カーン市、ルーアン市、レンヌ市、さらには、新領土のライン左岸のマインツ市にミュージアム(博物館)を造らせた」
「宝くじで地元の現金を吸い上げ、巨大建設工事を落とし、経済活性を図った、ということか」
「国会議事堂なんか作って政治議論を沸騰させてしまうより、美術工芸品を祭る神殿を作って静かにさせた方がましですものね」
「大英ミュージアム(博物館)は、奇天烈なガラクタの寄せ集めで、オカルト薔薇十字団(ローゼンクロイツァー)趣味の最後の徒(あだ)花(ばな)だが、シャプタルの作らせたものは、まさに美の殿堂。近代ミュージアム(博物館)の原点なんだ」
「博物館と美術館の違いですかね。神さまや王さまに芸術が取って代わって、そのための教会だか王宮だかを作ることで、街や国家のシンボルにしようとしたんでしょうか」
「でも、わけのわからない理性なんか祭るより理性的だな」
「だけど、エジプト、ぜんぜん関係ないじゃないじゃないですか。やっぱり財宝はなかったんですかねぇ」
「いや、軍隊のほかに総勢二百名もの研究調査団が随行している。ただ、負けイクサだったから、ナポレオンは、なんの成果も持って帰って来られなかった。彼が持ち帰ったのは、これらの美術館の元になる、アレキサンドリア市の図書館の理念だけ」
「でも、宝くじだけで経済復興して、あれだけの大戦争ができるほどの軍資金が調達できたんでしょうかねぇ?」
「うーん……」
『悪魔は涙を流さない』から
” ※着色は引用者
ワクワクさん
@uxskf
新世界秩序NWOにしろイルミナティにしろその言葉の定義をちゃんと出来てないからいつまでも陰謀論なのよ
悪魔崇拝ネタならその悪魔とはなんぞやくらい言ってくれないと分からんし
クニッゲどころかヴァイスハウプトすら出てこないイルミナティ陰謀論もあったよw
午前7:40 · 2023年10月29日
·
566
件の表示
あとはフランクリンが重鎮なの知らなかったり大東社も知らないフリーメイソン陰謀論とかもあったよ
NWO、新世界秩序に関してはウェルズの名前すら出ないから勝手に改憲やら安倍晋三とかロックフェラーと結びつけられたり無茶苦茶だね
午前7:44 · 2023年10月29日
·
228
件の表示
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
名文↓
https://x.com/uxskf/status/1712361589113065755
”Twitterで工作員ぽいのってそもそも世界連邦とかいう陰謀の中心地点すら言わないからなぁ
反ワクチンだからと思って見てみるとスウェーデンボルグに頭を宇宙に連れてかれたりクリスチャンに地球も脳みそも平らにされてたり
”
帰一帰一(キーキー)うるさいよね(笑)
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2023年10月12日
Twitterで工作員ぽいのってそもそも世界連邦とかいう陰謀の中心地点すら言わないからなぁ
反ワクチンだからと思って見てみるとスウェーデンボルグに頭を宇宙に連れてかれたりクリスチャンに地球も脳みそも平らにされてたり
さらに表示
午後7:49 · 2023年10月19日
·
9,506
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
帰一帰一うるさいてマジで笑えるけど笑えないよねw
ほんとにそのまんまスピってる人ばっか
出る言葉はユダヤガァー イルミナティガァーだし
どう考えても✝️のが強いし日本の文化だって🕎より✝️くさい
午前8:31 · 2023年10月29日
·
1,290
件の表示
ーーーー
かきがら書房
@kakigara_shobo
小堀桂一郎訳「森鷗外の『知恵袋』」:「恥は人に見られて初めて恥となるわけではなく、人が見ていないところでも恥ずべきことはやはりひとり自ら恥ずべきなのである」クニッゲ著『交際法』の、鷗外による翻案的抄訳を編纂した一冊。文語体を採る鷗外の文にも訳がついて読み易くなっている。 #積ん読
画像
午前1:26 · 2022年9月19日
ムルのフェア台【本はお魚。大漁もシケも】
@Books_Bartleby
【既刊】 森鷗外の『智恵袋』 http://honto.jp/netstore/pd-book_00186578.html
>「知恵袋」「心頭語」はクニッゲ「交際法」、「慧語」はBalthasar Gracian「Handorakel und Kunst der Weltklugheit(神託提要・処世の術)」の鴎外の抄訳
午前7:39 · 2016年11月19日
Kent Nishi
@kent24hara
森鷗外の処世術箴言集『知恵袋』『心頭語』『慧語』と、その三作の口語訳によって構成される、小堀桂一郎訳・解説『森鴎外の「知恵袋」』を読み始めた。委細を尽くした「解説」によると、『知恵袋』と『心頭語』は、クニッゲ『交際法』の「翻案的抄訳とでも呼ぶべき作業の産物」ということだ。
画像
午前11:53 · 2017年1月4日
森鷗外研究アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において― Ⅱ
山陰地域研究 12 巻 92-106 頁 1996-03 発行
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/45023
からDLできる論文:
森鷗外研究アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において― Ⅱ
”森鴫外研究アードルフ
1森鴫外の﹃知日恵袋﹄
一七八七年︑クニッゲは父の遺産を少しでも取り戻したいという
希望を抱いて︑ハノーファーに帰った︒そして父親と異なって家族
(1)
思いの彼は︑娘のフィリッピーネの教育に熱心に関わりながら﹃交
際法﹄を執筆し始めた︒啓明会での挫折にもかかわらず︑その後も
人間を成熟へと導き︑同時に公民として教育するという彼の信念は︑
弱まるどころか︑これまでょりも強くなっていたのである︒この前
(3
年に匿名で﹃フリーメーソンの最新の歴史﹄を出版している︒実は
本稿もこれを援用しているのだが︑対話の形でフリーメーソンの由
来や系統を語ったもので︑現代における結社の秘密性の不要や︑そ
の危険性の強謬当時の彼の気持ちがうかがえる︒そして更にこれ
までに数々の過誤を犯している様々な形態の国家制度も︑倫理的世
界改革が進行すれば止揚され︑より高次の段階へ進む︒それは人間
の成熟完成をまって初めて可能になる︑という理念が展開されて
いる︒つまり本来こういう遠い地点に目標を据え︑啓蒙精神への導
入の意図を持って彼は︑後世に名を残すことになる新しい著作にか
かったのだった︒しかも﹁私が何であり︑他人が何であるか︑他人
フォン・クニッゲ
との関連においてー
.
Ⅱ
が何を要求し︑私が何を要求するのか︑を知ること︒私は自分一人
では満足させられず︑仲間の助けがなければ何者でもない︑と知る
こと︒仲間を私の幸福の本質的な部分と見なし︑様々な活動にょっ
て彼らに役立っこと︒人の過誤に対して寛容であり︑他人の意見に
柔軟であること︒自分の運命に満足して生きること︒自分にとって
(3)
余分なものを他人のために役立たせること︒﹂こういう謙虚な日常
生活の知恵がその内容の核であって︑教壇学者が伝える知識とはか
なり様相を異にする︒
この新しい著書は当った︒売れ行きは爆発的で︑短期間のうちに
クニツゲの名はドイツ中に知れ渡った︒その年のうちに第二版が出
されたが︑それでも需要を満たすには至らなかった︒彼が宮廷で公
務を遂行しつっ︑啓明会員として密かに普及に努めた啓蒙の精神に︑
いわば日常性という衣をまとわせて公衆の眼前に具体的に提示した
わけだが︑そういう内{谷のこの書物が︑何故そのように人気を博し
たかについては種々考えられる︒しかし何といっても︑この十八世
紀の末に隣国フランスで起こった大革命が︑いわゆる市民革命と呼
山陰地域研究(伝統文化)第一二号
水内
一九九六年三月
透
〔106〕
森鵬外研究アードルフ クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱフオン.
ばれる性質のものであったことに示唆されるように︑市民階級の社
会的台頭が前提となるであろう︒最初は商工業者たちが︑それから
広範囲に特に都市に居住する市民たちが︑経済的実力を増大させる
と同時に教養を身につけ︑文化の担い手になろうとする傾向を著し
(4)
く帯び始めていたのである︒この時代の精神はもはや社会を階級へ
厳格に分割することを容認しなかったし︑現代にまで一定のイメー
ジを与え続けている︑いわゆる﹁ドイツ的市民性L と名づけられる
市民の日常生活の型が定着したのは︑ほぽこの頃である︒スタール
夫^の^名な﹁ドイツ^洲L は^九^^に^かれたものだが︑これに
紹介される市民的共同体では︑だからすでに前世紀に形成されていた社交界が成熟の段階に入り、その世界特有の感覚や常識が根をおろしていたのであって、そこで生きてゆくためにはある程度それを身につけなけれぱならなかった。そこで道徳を実生活の知恵と結びつけたものと言える『交際法』は、様々の気質、年齢、地位、職業の人との、あるいは親と子との、恋人、友人たちとの、果ては動物との交き合い方まで扱ってある便利な書物となったのであろう。そのことは本書が十九世紀には学校の教科書として用いられることの多かった事実からも想像される。しかしこれから社会に参加しようとする世代に実際的に有用であったぱかりでなく、そこに述べられている様々な教訓と知恵が、経験を積んだ世代にも興味深かったのが人気の理由だったのではないだろうか。
とはいえこの評判と並行して、啓明会への攻撃が︑かっての指導
者層に属する人物としてピロの名を浮かび上がらせ︑その人物を追
跡し︑特定する動きを強めていた︒そこでこの頃彼は『ピロの最終
(5)
的な官亙口﹄という題で︑むろん実名を明かすことなく︑自分の立場
を解説する長文をも公刊している︒しかし啓明会という結社の全体
像については自分の役割ではなく、ヴァイスハウプトの任務だとの認識を持っていたらしい。そうして持病の結石が少しづつ悪化し始めたのに悩みながら、教育問題に関心を抱き、演劇雑誌を出版したりもしている。
そこへフランス革命が起こったのである︒パリの住民が熱狂的な激しさで政府の暴力施設を襲撃して︑彼ら独自の機構を作ろうとす
る動きを見せつつぁり︑それがまた︑またたくまにフランスの各地
方にも伝染したという衝撃的なニユースが︑電撃のようにヨーロッ
パ中に伝わる︒それにょって特に隣国ドイツは震掘した︒数多くの
知識人が︑ドイツにも間もなく波動が伝わって来て︑共震すると期
待したことが知られている︒ Gフォルスター︑ヘルダーリン︑クロッ
プシユトックやシラーは固唾を飲んで︑この国家転覆の経過を見
守った︒クニッゲもむろん深い関心を以てフランスに目を凝らした︒
しかし今多くの人間が浸っている自由の陶酔に彼は巻き込まれはし
なかった︒彼の照準は民衆の熱狂に合わされてはいなかった︒彼に
はもっぱら革命にょって普遍的な啓蒙への道が開けたか︑人間性を
陶冶する法治立憲国家が打ち建てられるか︑という問いだけが重要
だったのだ︒彼の政治的思考の基軸は︑﹁社会契約L にょって方向づ
けられていたから︑信仰と思想の自由だけでは満足出来なかったし︑
それでいて同時に懐疑的でもあった︒すでにこの頃彼は︑小説﹃哀
れなミルデンプルクの人々﹄で﹁ただ旧いものの破壊だけを念頭に置いているあの人たちは︑すべて半世紀経たぬうちにかなりの国々で、かつて独裁者や寡頭政治家たちが民衆の間に惹き起こしたのよ
(6)
りも︑もっと大きな不幸を惹き起こすだろう︒﹂と予一言しているのである。
『交際法』初版の出版は一七八八年で、第二版も内容に変化はないのだが、一七九〇年の最終版となる第三版では、恐らく革命に影響されて、「君候との交際」の章が拡張されている。元来、貴族と金持ちに対する厳しい批判色が基調であるのに、更に彼は「君候が忘れてはならないことは」と書く、「我々の財産と存在は、彼らの所有物ではなくて、彼らの所有している全てが我々の所有物なのである、ということである。何故なら我々はその代りに、彼ら全ての需要を満たし、更にその上に位階、名誉と安全を与え、楽団員に給与を支払ってやっているからである。この啓蒙の時代に、間もなく、たった一人の、ひょっとすると全国民の中で最も弱いかも知れない人間が相続権を主張出来ると信ずる人間はもう全然いなくなるだろう。… (『交際法』 三・一・一) 相当過激な発言だが、こういうことが言えるようになった時代でもあった。
(7)
それから間もなく彼はブレーメンに現代の検事に相当する職を与
えられ︑赴任することになる︒一七九0年の十一且すでに病気が
かなり進行して︑しぱしば発熱に悩まされている︒そしてフランス
非革命の過熱化につれてその余波を恐れる一団が啓明会員の追跡︑
難中傷の動きを一層強化しつつぁった︒特に革命がジャコバニス︑\
ノ
トのテロ体制へと変谷し︑しかもそれが国境を越えて来そうな気配
を呈すると︑各国の体制派は動揺を来して︑うさんくさい存在を血
祭りにあげ︑伝染を食い止めようと企ったのである︒中でもウィー
ン大学教授のアロイス・ホフマンは︑かつてモーツァルトも訪ねた
ことのあるロッジ﹁恩恵﹂のマイスターだったこともあるのにかか
わらず︑今や急進的な反フリーメーソンに変貌し︑﹁ウィーン雑誌﹂
の編集長の立場を利用して︑メイソンがもたらすヨーロッパの危機
的状況を狂信的に説いた︒そして同じ図書館長のホーフシユテッ
ター︑作家のハシユカと共に︑かねてからクニッゲを面白からず思っ\
ノ
ているハノーファーの{呂廷侍医のヨーハン・Gチンマーマンをけし
かけて︑啓明会がフランス革命の精神的点火剤の役割を果たしたの
だと叫ばせたのである︒革命を動かしているミラボー︑ロベスピエー
ル︑ミユラー︑シエース等が属している一ゆmNヨ一m門か仁ヨmというロッ
ジは︑ヴァイスハウプトの抱懐する国際的テロリズムにょって煽ら
れて行動を起こしたのだとして︑その仲介に立っていたのが︑先に
^を^げたボーデだという︒だから^^はオーストリアにいる^ら
の仲間を速やかに排除すべきだと主張した︒
一七八九年のパリには︑三百五十箇所を越えるロッジが存在して、この指摘通り、ジャコバン党員の中に多くのメーソン会員がいた。そしてフランス革命に思想的基盤を提供したディドロ、ダランベール、ヴォルテール、あるいはモンテスキユー等の啓蒙思想家の多くがフリーメーソンであったことも事実である。こうした啓蒙思想は理論的フリーメーソンの思想に極めて近かったのである。しかしこの革命を一七八九年から一八〇四年まで十五年間続くと考えると、その初期に活躍したミラボー、ラファイエット、オルレアン公という三人の有名なメーソン会員の行動は、いずれも絶対王政は打倒するが、立憲王政を目指していて、後期の過激な恐怖政治には参加せず、この段階に入ると、ジャコバニズムから離れて行く。(8) そして啓明会とジャコバニズムは、なるほど共に完全者による自律という無政府主義を説く点では共通しているのだが、ヴァイスハウプトとクニッゲは無論、恐怖政治、あるいは流血騒動によるこの夢の達成など考えてもいなかったから、チンマーマンの非難は全くの中傷に過ぎない。シラーやゲーテのドイツ古典期の代表者たちが政治変革ではなく、道徳的教養によってのみ人間社会は前進すると考えていたのはよく知られ、それを後に青年ドイツ派の作家たちによって痛烈に批判されることになるのだが、(9) クニッゲらもほぽこれと同じ方向を辿っていた。先にクニッゲがフリードリッヒ大王に大きな期待をかけていたことを述べたが、彼らは、領邦諸国の為政者たちは、これまでに行って来ている上からの啓蒙運動を続ければよいのだ、ドイツには革命は不要であって、漸進的改良が適切である、という見解に達していたようである。
しかし先にも述べたように、明確な思想体系を持たない他のフリーメーソンの組織と異なって︑その目的と理想のはっきりとして
いたことが啓明会を特異な存在とし︑また社会的な影響を及ぽして︑
{谷易に攻撃の手掛かりを与えたことは間違いない︒彼らの唱える千
年王国論的ユートピアに敵対する存在としての既成のキリスト教及び僧侶と結びついた君主の
テオクラテイ
神政制との想定が、まず攻撃の対象となる。ヴァイスハウプトの著書によると、歴史の幼年期では人間は自由で幸福であるが、少年期に入ると物質的必要性、つまり欲望から人間的組織が生まれ、国家が成立する。それはもう「自由の墓場」であり、「独裁のゆり篭」である。しかしこの不自由の中で喪失した理想への憧れが強まり、そういう現状について十分啓蒙されることによって理性的認識に至って、必要性から解放されつつ自由が回復する。これが成人期である。ここで人間はより完全な段階へと上昇し、人類として救済されることになるのだが、その時地上には君主も民族もない。各人はキリストの弟子のように自由で、平和である。ここで信仰と理性は融合する、というのである。(10)
つまり一種の歴史哲学が展開されていて、現実論ではないのだが、為政者には存在が否定される危険思想と見える。今や国中にスパイがいて︑窺っているかのような雰囲気になっていた︒チンマーマン
の暗躍に乗って︑ハノーファーでは士官たちがクニッゲを非難し始\
ノ
め︑内閣までもがうさん臭い目を向け始めた︒特に﹃ヨーゼフ・フォン・ヴルムブラントの政治的信条告白﹄に不穏当な箇所があると騒
ぎ立てた︒もちろんクニッゲとしても沈黙しているわけにはゆかず︑
雑誌などで︑フランス革命を啓蒙主義者が惹き起こしたと考えるのは間違いであり︑従って君主は啓蒙の方向を進めなけれぱならない
と論陣を張った︒しかし事態は悪化するばかりで︑特に一七九二年
に入って︑パリーにおける九月の大虐殺は︑人々をヒステリックに
興揚させた︒ホフマンたちは︑あの秘密結社はフランスに点火して
から︑今度はドイツでも同様の状態を画策し︑準備中だと煽り立て
た︒クニッゲにとってホフマンやチンマーマンは何でもなかったが︑
彼の鴛者までもがその煽動に乗って信じ始める傾向が出て来たの
で︑手を打たないではおれなかった︒しかしもう彼の健康状態はか
なり悪化していた︒そういう状態で小説を書ミあるいはマニフエ
ストを執筆して︑自分の立場を弁護しなければならなかったのである。
その間にフランス軍はラインラントに進駐して来て︑ハノーファーやブレーメンでは︑追い詰められた空気の中で︑生け贄をあ
ぶり出そうとする気配が濃厚となる︒ウィーン警察に至っては︑偽
の書簡をクニッゲに当てて︑その返事によってウィーンの同志の所
在を探ろうとすら試みたのである。そこで次第に逮捕の気分が高まってくる中で︑熱に浮かされながらもクニッゲは執筆を止めな
った。そして遂に幸か不幸か逮捕の直前でその死を迎えたのである。一七九六年五月、時に四十三才の若さであった。
以上の紹介は、フリーメーソンとの関わりに少々比重を置き過ぎたきらいがあるかもしれない。クニッゲの名を不朽のものとした『交際法』の成立には、何といっても、まず彼をフリーメーソンの秘儀へと駆り立てた衝迫が、つまり啓蒙の精神、理想主義が決定的な役割を演じている事実の強調に本論の意図があったからである。しかしその代り他の面がかなり犠牲にならざるを得なかった。例えぱ彼の生活は楽ではなく、苦しい家計を主として著作物が助けたのだが、本論では若干しか触れることが出来ず、生存中はむしろ作家としての名の方が高かった事実が明瞭ではなかったかも知れない。G.ユーディングにょれば︑﹁^が^みなかったジャンルはない︒^期に一旦る
文通及び時事評論活動と並んで︑ドラマ︑詩︑及び大部の長編小
説︑経済及び通俗哲学的需︑宗教的教説︑風刺︑音楽需並びに
(H)
旅磊﹂と広範囲な文筆活動を行っている︒しかし今それらを挙げ
るのは余り意味があるとも思われないので︑﹃ペーター・クラウゼン
物語三巻﹄(一七八五)︑書簡体の﹃我が生涯の長編四巻﹄(一七八
一)︑風刺的で皮肉な作品﹃ブラウンシユヴァイクへの旅路﹄(一七
九二)の名に留めておこう︒全体的に文体はヴィーラントの影を色
濃く帯びていて、J.J.ルソー、あるいはスターン︑フィールディングからモチーフとかテーマ設定の上で影響を受けていると一言われる。
その中で唯一後世に有名になった『交際法』は、唐突にクニッゲの手から生まれたのではなくて、こういう、いわゆる処世哲学の書
には、その低流があった。文化史家のブルックハルトが︑﹃イタリア .
ルネッサンスの文化﹄の中で激賞するカスティリオーネの﹃宮廷人﹄
(1)
倉ら又冨曾0巨伽)以来の︑一っの伝統的な流れが形成されてい
て︑本論の冒頭に挙げたバルタザール・グラシアンの﹃神託提要﹄
(0益0三oaN言巴︑てN二Φヤ益仙含含N一鴛)もその一っと言えよう
し︑﹃一父際法﹄もこの流れに乗っていると考えられる︒ただユーディ
ングが﹁ドイツの貴族教育は十七世紀の初め以来ーロマンス圏の宮
廷文学の最初の翻訳は十六世紀の終りに出現する1 ﹃宮廷人﹄の宮
(悲
廷的教養理想なしには考えられない︒しと一言っているように︑こうい
パイヂイア
う教養を意図する書は︑本来全ヨーロッパ的な規模で︑一つの社
会層即ち貴族上流階級に向けられたものだった︒だがクニッゲ
の生きた十八^^は︑先にもフランス革^叩に^れた所で強調したよ
うに︑ドイツのみならず︑ほぽ汎ヨーロッパ的に市民層の非常に興
隆して来た時代である︒例えば︑先にクニッゲの﹁楽団員に給与を
支払っている:・﹂との言葉を引用したが︑後に音楽の国といわれる
ようになるドイツで︑それまで宮廷貴族︑あるいは教会に依存することにょって生活していた音学家たちが自由職業者となって︑芸
山陰地域研究(伝統文化)第ご喜 五一九九六年三月
〔10幻
森鵬外研究アードルフ・フォン・クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Π
術は芸術家の心の表現であり︑個性の具象化であると意識し始めた
のがこの頃である。だから『交際法』が版を重ねたということは、この層の受容を意味する。クニッゲ自身も初版の序文でこう言って
いる。「本書の対象は非常に重要だと思われる。そして私の誤りでなければ、こういう独自の作品であらゆる階級の人間との交際のための決まりを与えようという考えは、まだ新しいのである。」(『交際法』序文) 彼は、新しい時代を担う社会階層の存在を明確に認識していた。そしてこのいわゆる中産階級、市民階級の向上意欲に伝統的な形態で社交の常識を伝える作業が、新しく、意義深い企てであることを充分に自覚していたのである。ただ彼はこの市民意識を一挙に革命にまで高めようとは決して思っていなかったことは、先にも述べた。彼の自覚はあくまで漸進的に社会改良し、有用であることに留まり、それへの希望表明が『交際法』であったと言えよう。
本書は何しろ︑著者の経験に基く一種の人生哲学であるから︑現
代でも実際の役に立っ教訓を多大に含んでいる︒ただそれを大真面
目に受け取るには︑現代人の心理はやや屈折して︑気恥ずかしい思
いになるかも知れない︒それよりもむしろ︑現代人の目から見る本
(U)
書の面白さは︑ピットロフの言うように︑作者の経験を通して時代
の世相が反映されていることにあるだろう︒例えば第二部第十章第
︑
二項は﹁旅行中の態度についてしであるが︑﹁ドイツでは金の両替の際に非常に沢山の鋳貨があるから︑他の国々を旅行する場合よりももっと注意しなければならない︒そしてその際悪質な宿の主人が外国人を胴したり︑金と引替に次の宿泊所ではもう必要でない貨幣を渡したりするのは︑ごく普通のことだ︒﹂(﹃交際法﹄二・十二・二)
などという叙述があって︑十八世紀のドイツの分裂した国情と旅の様子を枋佛とさせる︒
だが鷗外はこの書をどのように見たのだろうか。小ノくとも^相の
反映を主眼に見たわけではあるまい︒むしろその頃すでに出版百十
数年を経て古典的な評価を得ていたのにもかかわらず︑その年輪の
差を感じることなく︑現代的な︑当時の日本の世相に適合し︑必要
な書物という印象を抱いたのではあるまいか。『智恵袋』が時事信報に連載され︑﹃心頭語﹄が二六新報に掲載されたのは明治三十年代の九S十・五︑明三三・ニ・-S三四・ニ八初めだが(明三一 . . .
八)その頃は日本が近代化に足を踏み入れ︑西洋から息せききって
文化を輸入し続けて来て︑いわばほっと一息ついた︑あるいは振り
返ってみる気になった時期だったのである︒鴎外自身にそういう雰
囲気を伝える発言が幾っかあっく例えぱ明治三十五年の講演﹃洋
学の盛衰を論ず﹄で︑﹁すでにして︑この模倣崇拝はやうやく陳套に
帰し︑予の見る所をもってすれば︑今や許多の朕兆の洋学の衰替
を証するに似たるものあるなり︒﹂と西洋化抑制の気配の見えることを注意している。彼は「洋行帰りの保守主義者」(15)を自認しながら、日本はまだまだ西洋から多くを学ばねばならぬと考えていた。だから鷗外はここで西洋人をモデルとする近代人としてのあり方、その社会的存在の自覚に注意の目を向けるよう促すために『交際法』の翻案を思いついたのではないか。つまり国民的啓蒙の思想が丁度その頃の日本に相応しいと思われたのであろう。その際本書を根底から支えているクニッゲの人間への深い信頼、教育の可能性への自信が彼をとらえたのに違いない。
しかしこういう時代の空気への懸念に発する一種の使命感の前に、凡そ一世紀も前の人生案内書のようなものを︑鴎外に取り上げる気
にさせた個人的な動機が︑あるいは惹きつけられた理由が無論考え
られる︒つまり自己の内面がそこに重なって写るような︑互いに響
き合うものがありはしなかったか。その生涯からすでに推察されるように原作者のクニッゲをこの書の執筆へと促したのは、恐らく宮廷生活で一度大きな成功をかち得ながら、能力ではなく、人間関係での失敗によって挫折した苦渋であったし、また啓明会での軋轢であったのは、まず疑いようのないところである。そこでその翻案の執筆とほぽ同時期に高級官吏の世界で小倉左遷を体験している鷗外の人間観に、時代を越えて響鳴させるものがあったとしても、怪しむに足りない。『交際法』の序文にある次のような言葉と同様な趣旨の一節が、『智恵袋』にも見出されるのだが、それは恐らくただの書き替えではない筈である。
「いや、私の言葉は、本当に善良な意志と実直な誠実さを、多方面への優れた素質と、この世の中を切り抜けて行こう、自他の幸福を築こうという熱心な努力と結びつけていながら、それでいてこの全てに認められず、無視され、何事にも到達出来ないでいる人たちにこそ向けられているのである。これは何に起因するのだろうか。これらの人々には欠けていて、真の長所があるわけでもないのに、この世界の幸福な階段を登って行く他の人々にはあるものは何か?―フランス人が「振る舞い方の才能(esprit de conduite)」と名づけるものがこの人々には欠けているのである。即ち、人との交際の技術が。(『交際法』序文)「また同じやうなる男の年
やゝた
稍長けたるが来りて︑われ功名の場に奔走すること既に久しけれど︑長上に用ひ
(だせいはい しの
られず儕輩に容れられず︑常に才おのれより下るもの︑ために凌が
た.)よ
る︑この事何に縁りてか匡し救はるべきと問ふことあらん︒わがこ
かたやひ あらい よ
の類の人に答ふるところは如何なるべきか︒能く頭角を顕はして︑
ねたしか へつらう毛
而も忌まれず妬まれず︑能く人の意を承けて︑而も曲げず謨はざら
たやす
んは︑まことに{谷易からぬ事にて︑・・:・・」(『智恵袋』序言)
それにしても時代の違いのみならず︑国民性とか風俗習慣のどうにもならぬ相違があるし︑あるいはまた対象領域にょって作者自身
の個人的関心の相違などがあるに違いない︒例えぱ先に挙げた旅行
の際の忠告など︑これは取り上げられてはいないのだが︑仮に利用
されたとしても︑日本では全く意味がない︒だから鴎外が翻案とい
う方法で︑幾つかの主題に関して大幅に日本的な内容に変容を行っ
たのは賢明であった︒
さてそうなると、『交際法』と﹃智恵袋﹄﹃心頭証的﹄との比較に移
(玲)
るのが自然であろうが︑小堀氏も指摘しているように︑﹃交際法﹄
の原文はそれぞれかなりの長さであるのに対して︑﹃智恵袋﹄﹃心頭
五如﹄の方は︑全般に割合にかなり短く︑不揃いである︒あるいはまた必ずしも両者相対応し合う関係にはない。一箇条全部が鴎外の創作と考えられる場合もあって︑全体の並列対照という作業はスペー
スから不可能に近い︒だから講談社の注釈本に付されている﹃交際
法﹄と﹃智恵袋﹄及び﹃心頭語﹄との題目対照表︑あるいは内容対
照表の程度で満足する他あるまい︒ここでは屋上屋を架すのを承知
で︑﹃六X際法﹄の内{谷を標題にょって一括しておく︒テキストはイン
ゼル社版である︒全体は三部に分かれる︒
山陰地域研究(伝統文化)第τ喜
ほんモう
一九九六年三月
こネ
七
〔100〕
森鵬外研究アードルフ・フォン・クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Π
第三版への序文(一七九0年一月)
最初の両版への序文(一七八八年一月)
部第一
前置き
第一章
第二章
第三章
四項目
人との交際についての一般的所見と規則六十三項目
自分自身との交際について九項目
精神と心情の様々な傾向︑気質と気分の人々との交際に
ついて二十九項目
第二部
前置き
第三早様々な年齢の人々の間での系について七項目
第二章両親子供と親族の間での藤について四項目
第三章夫婦間の交際について二十二項目
第四章恋人との︑及怠人間の交際について八項目
第五章婦人との交際について二十一項目
第六章友人間の交際について二十二項目
第七章主従間の関係について十項目
第八章家主︑隣人及び同じ家屋に住む人たちに対する態度五
項目
第九章主人と客との間の関係について四項目
第十章恩恵を施す人と受ける人︑並びに先生と生徒及び債権者
と債務者との間の関係について六項目
第十豆早種々の特殊な境遇と状況にある人々に対する態度につ
いて四項目
第十二章人間生活における種々の出来事に際しての態度につい
て六項目
水内透
第三部
前置き
第一章現世の偉人︑君候'貝人及び金持との交際について二
十二項目
第二章低い身分の人々との交際について九項目
第三章宮廷人及びそれに等しい身分の人たちとの交際について
十四項目
第四章聖職者との壽について三項目
第五章学者と芸術家との交際について十一項目
第六章市民生活における様々な身分の人々との交際について
九項目
第七章様々な生き方と生業の人々との交際について四項目
第八章 秘密結社とその会員との交際について 三項目
第九章動物との交合い方について六項目
第十章作家と読者の間の関係について四項目
第十豆早結び
このうちの第二部第三章第一項までが『智恵袋』にほぽ対応し、第二項以下、第三部第一章第十五項までがほぼ『心頭語』に対応する。『交際法』を底本として自由に訳出しているということになるだろうか。自由といっても、原典に話題とか発想素材について示唆を受けたという程でもない。むろん箇所によってかなり異なるのだが、もっと近い関係にあると言える。ここで一つの例を出して︑比較してみよう。
「もし何かうまくゆかないことがあり︑心労とか災難を抱え︑欠乏に悩み︑分別︑知恵も善意も役に立たないような時に︑その悩み
や弱点を助けてくれる人にこぽしてはならない︒誠実な妻に対して
すらしてはならない︒支えてくれる人はほとんどないものだ︒ほと
んど全ての人は荷を重くするだけだ︒大抵の人は︑君には幸運が微
笑みかけてはいない︑と見てとるや︑一歩後ずさりするものだ︒し
かしその上︑君に全く援助の資金がないということ︑密かに保護し
てくれるものがいないということ︑君の世話をする人が誰もいない
ということを認識すると1辛いことだが︑誰も当てにしてはならな
世の中全ての人々に見捨てられた人間の支えになるために唯一)0
し
人で︑し・つかと足を踏みしめ︑公然と歩み出る勇気を持っている者
がどこにいよう?﹁私はあの男をよく知っている︒あの男は私の友
人だ︒あの男は︑彼を瑚笑する君たち全てょりも優れている︒﹂と言
う勇気を誰が持っていよう?仮にそういう人を見出したとすると︑
そういう人は︑自分自身も憐れな人間であって、惨めな状況にあり、絶望から自分の運命を君の運命に結びつけようとしているのに過ぎないから、その保護は君に有用であるどころか、むしろ有害となろ
(﹃交際法﹄一・一・六)0
う ﹂
﹃智恵袋﹄の方を引用する︒
うれへ わぎはい なんじうー︑なんじしりよあた
﹁憂あり禍あり又足らざることありて︑汝が思慮の救ふこと能は
ず︑汝が意志の排すること能はざるときは︑決してそを人に告ぐる
なか いう
こと一昊れ︒親しき友も例外にあらず︑妻子も例外にあらず︒:::憂
くわ
禍不足は汝が肩の上なる重荷なり︒そを人に告げんとき︑汝に厚か
けいふけん
らざるものは︑そを分ち負ふことを敢てせず︒:::若し夫れ軽浮慢
tく うれひた.)
薄なるものは︑畜に汝が憂を分たざるのみならず︑汝が憂の影を見
やうやゆき>
て︑早く一歩を退くならん︒往来は漸く稀になり談話は漸く短くな
おもてま
るべし︒・・:・・汝の友は復た汝の名を知らざるべく汝の面を認めざる
しゆやく なほクリスト にはとり
べし︒基督のその主鎗の弟子に於けるすら猶云はずや︑今夜鶏鳴
なんじ こ)
かざる前に︑爾三たび我を知らずと言はんと︒爰に一事の忘るべか
こと と
らざるあり︑そはか︑る折特さらに汝を訪はんはいかなる人物なる
べきかといふことなり︒:::次にくさぐの下客あらん︒社会に棄
でいねい
てらる︑こと汝より甚しく︑身を泥淳の底に没すること汝より深き
しりぞよ と力く
もの\善き友得つとて来るは︑兎角実情より出づるなれば︑斥く
きくわ
べからざるに似たれど︑心せよや︑:::またこの時汝を奇貨として
きずつ
来るものあらん︒そは悪徳新聞などのいたく汝を傷けんとき︑無頼
ともがら てう
の徒の来り弔せんが如し︒こ︑に下客中の下客あり︑その性極めて
げんぞく はんもん さまま く
狠毒にして︑目のあたり汝が煩悶せる状を見んとて来るなり︒この
たやひ
類の人はあまり多くはあらねど︑また甚だ稀なるにもあらず︒我が
まじは うち
交る人の中にもこれに似たるあり︒相見れば必ず汝の顔色の悪しき
まれ
ことよと云ひ︑汝の評判好からずと云ふ︒その足跡の稀に我庭に至
わぎはひあ しかすなはかへりみ こ
りしときを顧れば︑即ち是れ我が禍に遭へるときなり︒而も我はい
よろこぴ
つもその面に喜の色ありしを記憶するなり︒﹂(﹃智恵袋﹄六独り負
ふべき荷)
原文より長くなっている数少い場合の一つで︑比較してみると︑
敷衍していることが分かる︒原文はおよそ直線的に論理を展開して
いるのに対して︑キリストの場合を例に持ち出したり︑あるいは﹁悪
徳新聞などのいたく汝を傷けんとき︑無頼の徒の来り・・:・・しと具体
山監域研究(伝統文化)第ご喜
モ
九一九九六年三月
四幻
森鴎外研究アードルフ・フォン・クニッゲー森鵬外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱ
的なイメージで分かりやすく強調している︒箇所にょってかなり扱
い方が異なる場合もあるが︑両者の関係が上の例である程度は推測
がつくであろう︒
つまり文自体は古風ながら︑分かり易さを心懸けているのである︒
だから原文で日本人には一般に馴染みのない実例の引用があれば︑
なるべく東洋的イメージに変えている︒例えば第豆早第一項で皇帝
モうしん りう
ヨーゼフ及びカウニッツ候が挙げられているところでは︑﹁宗臣が劉
いつぢやう
一丈に報いる声(﹃智恵袋﹄一自ら定むる値)に置き換えられて
いるし︑同章第二項では標題がすでに﹁みせかけ命今含=)L となっ
ているのを﹁金箔﹂(﹃智恵袋﹄二)とするなど︑巧みな比喩に置き
換えられているだけでなく︑原文にはない幕府行事年代記の﹁玉露
叢﹂からの詳細な引用がされているので︑全体が約二倍の長さになっ
てしる
こういう実例を鵬外自身の経験で補うことがある︒﹃智恵袋﹄第二
かつはじめモれがし
十四節の「寡言の得失」に「われ嘗て始て某大臣に引見せられしこ
とあり……」で始まる某大臣とは山県有朋ではないかと推察される。山県有朋は『舞姫』に登場する天方伯のモデルらしいことで知られるが、鷗外が彼に実際に会ったのは、山県が洋行から帰って来た明治二十二年の末ぐらいらしい。
しかし鷗外の経験といえば何といっても、クニッゲの第二部第三章﹁夫婦間の交際について﹂に相当する﹁百十六つまさだめ﹂に
始まる夫婦間の問題に濃厚に表れていると想像される︒実はこれで
﹃智恵^﹄は終り︑その後から﹃心頭甑中﹄が始まって︑この話^は
そのまま続くのだが︑それはともかく︑鴎外にとって︑この主題は
他よりも比重が大きかったのではないだろうか︒特に第百三十三節
は離婚と題されて︑これには赤松登志子との破局が投影されている
と推察される︒そこでは︑日本社会の慣習では︑夫婦間に不和が生
おほよこれら
ずると媒酌人に訴えるのが常だが︑﹁凡そ此等の問題は夫婦の自ら
ようカモ
決すべき所なり︒﹂と断定し︑﹁断じて他人の容碌を許すべからず︒
か
その夫婦間にて決すべからざるものは唯だ法律の力を藷りて決せん
やぶ かくいやしく を
のみ︒萄も今の社会に処りて名誉を築らざらんと欲するものは︑此
のごとくならざることを得ず︒︑と結ぶ︒この結論は︑鵬外自身が登
志子との間に取った方法そのものであって︑だからその信念に基い
て書いたように見えるのだが︑これが意外なことに︑原典と非常に
趣旨がよく似ているのである︒﹁一般に夫婦間の不和は︑すべてただ
当事者の間で決せられるべきである︒そして危機が白亟局に達したら︑
国の然るべき役所で決せよ︒すべてその間に入る審議は全く無用で
ある︒他人の調停者とか︑悩める者の相談者は事態をますます酷く
する︒﹂(﹃交際法﹄二・三・二十)先に鴎外が﹃交際法﹄を取り上げ
る気になったのは︑自己の内面と重なり合い︑響き合うところがあっ
たからではないか︑と述べたことは︑例えぱこういう箇所で裏圭白き
されよう︒ただこの^^問^は︑クニッゲにはその^^がないだけ
に︑人生における重みが異なっていたと思われる︒
鴎外が自分の経験を語ったもの︑あるいは彼自身の創作になる箇
所は︑他にも幾つかあるが︑特にこの夫婦間の︑あるいは男女間の
在り方が︑当時まだ先進諸国と大きく異なっていたから︑強く彼の
関心を惹いたらしい︒百三十七節から始まる﹁恋愛﹂に相応する部
分はクニッゲにはなく︑ほぽ完全に日本と西洋との比較^討になっ
水内透 -0
〔97〕
ているからである二然らぱ今の東西の俗よりして言ふときは︑恋愛
とくぎ
は^に^りて^^たり︑^に^りて^^たりと一^はんも︑また^^
なることなきにあらずや︒L(﹃心頭証如﹄百三十七)と述べて︑恋愛が
日本では罪悪であるのに対し︑西洋では美徳と義に適った行為だと
へいしゆくぜん
正反対であることを率直に定義している︒あるいは﹁並宿前の恋愛
の西洋に在りては徳義たるが如く︑我国に在りては罪悪たるが如き
をば︑既に説きたり︒今その反面を観察せんに︑並宿前の恋愛なく
とうしよ
して︑頭初より並宿するは︑我国に在りては徳義たること︑これを
こんUやく ちよう
今昔の両家の婚姻に徴して明かなるべく︑その西洋に在りては罪悪
たること︑少しく彼の風俗に通ずるもの>皆知るところなるべし︒
せんあいこうこん せんこんこうあい
宅もく西洋先愛後婚の俗は開明の俗にして︑東洋先婚後愛の
けんがう雌じやく はいき
俗は野蛮の俗なるか︒彼の俗儒弱にして排棄すべく︑我の俗健剛に
よろ
して保存すべきか︒現行の少年男女の教育は我俗を保存するに宜し
はた いうき ゆえん
きものなるか︒将彼の俗に従はざるべからざる風潮を誘起する所以
のものなるか︒﹂(﹃心頭語﹄百三十九)と︑まず愛し合った後に結婚
に至るという風習が進歩的なのか︑あるいは最初に結婚して後に愛
が始まるという東洋の風習が野蛮なのか︑と問うている︒この問い
は現在でも時として投げかけられる疑問だが︑その当時︑この問題
提起は非常に新しかったのではないか︒
恋愛がその頃このように性格づけられていたのは︑むろん女性の社会的地位が西洋に較べて日本では低かったからである︒だから
上記の夫婦間の交際に続く︑女性との交際の節も︑結局︑被我の差
の解説から︑鴎外の独創がほとんどとなる︒本来ならクニッゲの原
文の第二部第五章がこれに相応するのだが︑その第二項の冒頭にこ
んな言葉がある︒﹁青年の教養の仕上げには︑貞節で教養ある女性た
ちとの交合いに勝るものはない︒この過程のうちに穏やかな色調に
よってその気質が染められるし︑粗削りな硬さが柔和で︑繊細な性
向にょってほどよく柔らげられる:::﹂(﹃交際法﹄二・五・二)こ
の発言は︑ヨーロッパの中世宮廷時代以来の︑あるいは考え方にょっ
ては︑それより以前からの伝統を踏まえている︒中世騎士時代の文
学には︑若く︑猛々しい騎士が︑年齢的にも身分的にも上の婦人に
恋をし︑精神的に高められるミンネのモチーフがよく描かれる︒こ
の風習が古典的な伝統として賛美されているのである︒
ところが恋愛は不義であり︑卑しいものと考えられていて︑精神
を高揚させるという発想など凡そ有り得なかった我が国では︑上記
のクニッゲの引用のような内容は︑仮に言葉通り訳したとしても恐
らく奇異にしか響かなかったに違いない︒そこで鴎外の解説は︑ク
ニッゲとは趣旨がかなりずれたものとなる︒日本の上流社会の人物
に︑性格は剛毅だが︑人当たりは柔らかいという真の紳士らしい人
すなはかう
物が一人もいないのは何故か︑という問いを前提にして︑﹁乃ち高
かしやう
尚なる社交の閥けたるが為めなることなからんや︒一局尚なる社交は
はじめ
高尚なる女性の分子を得て始て成立し︑少壮紳士の最後の教育は此
まこと
の如き社交を得て始て終結すと︒われは此の説の信なるや否やを知
らず︒﹂(﹃心頭語﹄百四十一)我国の上流の紳士に女性との高尚な交
際がないから︑粗野で︑行儀が悪いことは否定出来ないと一言いなが
ら︑本当かどうかは判らないが︑と注釈を入れて締め括ってるあた
り︑終りは余り歯切れがよくない︒この場貪仮に西洋風の習慣を
取り入れてみても︑今度はそもそもそれに相応する女性の存在が疑
三一九九六年三月山陰地域研究(伝統文化)第ご喜
〔96〕
クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱ森鴎外研究アードルフ フオン
問になるからであろう︒
それは次の節からもうかがえる︒百四十四節の﹁馬丁車夫L は︑
これも原典とはほとんど完全に︑と一言えるほど異なっているのだが︑
現代の我々から見ても興味深い事実が記されているのである︒﹁我国
ゆえら
上流の女子の自ら択むや︑俳優に之かざれば馬丁車夫に之く︑こは
よ
女子の同等の男子に交る機会を得ざるにも因るべし︒﹂(﹃心頭語﹄百
四十四)つまり日本の女性の男性評価の基準が︑現代風に言えぱ︑
肉体労働者か美男俳優しかない︑と嘆いて︑その原因が男性との交
際の機会の乏しいことにある︑と推察している︒今の我々から見る
と︑鴎外の偏見ではないかと思われるぐらい︑時代の差を感じさせ
るのだが︑考えてみると︑こういう現象はその後も長く続いて︑現
代ほど自由になったのはそれほど前ではないかも知れない︒
﹃交際法﹄と﹃智恵袋﹄乃至﹃心頭語﹄を比較対照して︑男女間
の在り方の解説に鵬外の特色が表れているとすると︑クニッゲの方は、先に述べたように、王候、貴人とかお大尽との交合い方の記述に表れている批判性の鋭さに特徴があるのだが、それに更に、非常に短くはあるが、秘密結社の章の存在を挙げておこう。つまりクニッゲがフリーメーソンという幻像を通して抱いた燃えるような理想主義は、本書がすでにそれへの失望の後に、理性のヴェールを通して抑制されたタッチで書かれたものであるだけに、鷗外にはかすかな残響としてしか聞こえなかったのではないかと思われるが、例えかすかでも、本来それを示唆するのがこの秘密結社の章であろう。だから、「今日ではあらゆる身分の人に、好奇心や行動欲、社交性、あるいは出しゃばり衝動に導かれて、ほんの短期間であっても、そのような秘密の親睦会の会員になったことのない人に会わない方が珍しい。それでもやっと、一方で役にも立たず、馬鹿げていて、他方で社会生活に危険な結合団体を捨てる時が来ているようだ。私は自分の経験を人に話せるだけ充分長く、この件に関わってきたから、時間を大切にしなければならない若い人に、その名称はどうであれ、何らかの秘密結社に受け入れてもらうことなどしないように忠告し
たい。こういう結社はみんな、もちろん程度の差はあるが例外なく無用であり、危険である。無用なのはまず第一に、現代に如何なる種類の教育も秘密のヴェールに包み込む必要はないからである。キリスト教は非常にすっきりしていて、満足出来る宗教だから、古代異教の民間宗教のように、秘密の解釈とか二重の解説などは必要としていない。……これに対して、まだ無知蒙眛が支配している国では、将来に期待しなければならない。そこでは決して急いではならない。もし中間段階を飛び越えようとすると、改善するどころか、かえって壊してしまうことがしばしばある。個々人が啓蒙の時期を早めようと努めても、何にもならないし、また出来もしない。…」(『交際法』三・八・一)と全体的には、なるほど先に挙げた『フリーメーソンの最新の歴史』と同じく、結社については手厳しい酷評を下しているのだが、それでいて「現代では如何なる教育も秘密のヴェールに包み込む必要はない。」と啓蒙への信頼は微塵も揺いではいない。ただ「決して急いではならない」と戒めているのは、自分の失敗についての反省から出た言葉であろうか。いずれにしても、あの結社への幼年期からの幻想は完全に消滅しているらしく、その後の文にも繰り返し「この流行の愚行」に関わりを持つな、と忠告している︒
ところで先に鴎外は﹃一父際法﹄を現代的と感じていたのではない
かと述べたが︑それにしてもその出版以来﹃智恵袋﹄までほぽ百年
も経過しているのだから︑社会的風習に関する地域的な相違に留ま
らず︑その当時すでにその間の時間的経過を感じさせる主題もあろ
う︒つまりさすがに一世紀前の西洋よりは︑現代の西洋化を目指し
つつぁる日本の現状の方が前進しているというケースである︒その
典型的な例が﹃智恵袋﹄の第二百十節の﹁旅﹂で︑旅行案内記とし
てドイツの﹁べヱデッケル﹂(現代ではべデカーと書く方が普通の︑
今なお有名な旅行案内書である)とか参謀本部地図など︑至って近
代的な利用具の名が挙げられている箇所である︒初めは﹃交際法﹄
とほぽ同趣旨となっていて︑旅への注意は洋の東西時代を問わぬ
ものかと思わせる︒﹁つまり町などを歩いている人よりもよい服装で
旅行をすると︑うさん臭い人間とか︑やま師とかに思われ︑:::粗
末な服を着ていると︑一遍歴中の職人のように屋根裏部屋とか汚い
けいせふかつ
ベッドに押し込まれる﹂(﹁交際法﹂二・十二・二)﹁曽て夏時軽捷を
たづさかふりりやうゆかた 生と
愛する故を以て︑一領の浴衣を纏ひ︑行李を携へずして東北に遊
えきりつね かうぶ ごりんせきまうふ しうあいた
ぶ︒駅吏毎に予をして彼の藺席毛布を被るものと伍せしむ︒臭桟堪
ネなネ
ふべからず︒:・:・旅装は又甚だ美ならざらんことを欲す︒白疋れ世に
さぎし
謂ふ詐欺師の徒に似んことを恐る︑なり︒﹂(﹃心頭語﹄二百十)と順
序は逆だが︑ただ外見からだけ人を判断する他人の目の勝手きまま
を嘆いている比喩は︑共通した発想に基いている︒ところが日本で
は明治も三十年代に入ると︑先のモダーンな旅行用具の登場が暗示
するように︑すでに鉄道時代に入り︑東海道線︑山陽線など幹線鉄
ご二
道にょる旅行は馴染みとなっていて︑駅馬車全盛期のクニッゲの時
代とは着眼点が異なってくるのは当然であろう︒
つまり﹃一父際法﹄の方では旅につきまとう苦労として︑駅馬車に
関する話題が大半を占めている︒﹁旅行中には︑相応しくないところ
で倹約をしてはならない︒例えぱ駅馬車の御者には︑過剰に渡すの
はよくないが︑状況次第で豊かにチップを与えるのがよい︒そうす
ると彼らは駅ごとに次から次へとその旨を伝えて︑そうなると車を
早く走らせて︑多くのメリットがあるというものだ︒ドイツの宿駅
長とか馬車組合の親方︑あるいは車夫は︑正真正銘の無頼漢だとの
評判である︒しかし何でも彼らとの交合い方次第なのだ︒ある種の
威厳を伴った真面目な態度とか︑適当な時に親しみの篭った言葉を
かけることが︑この人たちに何等の効果も発揮しないことなぞ︑滅
多にない︒﹂(﹁交際法﹂二・十二・二)そうして﹃心頭語﹄執筆の頃
には︑こういう話題はすでにもう時代遅れの筈であるのにもかかわ
らず︑鴎外の方がどうもこれに合わせている印象が強い︒﹁馬車ある
ひぽくこれ りよてん
地を行くには︑此に由るを利とす︒旅店の主人蝿僕等は人力車の便
ことへんぱいへピ
を説くと難も︑その言偏頗なるを常とす︒:・・・・しなどと馬車を勧め
ているからである︒だから︑当時この見解に従うことが賢明だった
かどうか︑は大いに疑問である︒他方でクニッゲが上記のように︑
駅馬車の従業員の態度をある程度の好意を以て記述しているのに対
いにしへくもすけ
して︑鴎外は﹁今の人力車夫は古の雲助の進化しそこねたるものな
さき痔やと よろ
り︒・・:・・車を雇ふには︑宣しく口を開くに先ちて一切の論理一切
あたひひりやうちなげう
の比量智を拠ち棄て\価を増すにも価を減ずるにも︑彼の偽の理
のぽか まこと
由に耳を借さず︑我の真の理由を口に上さゞるべし︒L(﹁心頭語L二
一九九六年三月山陰地域研究(伝統文化)第三号
四4〕
森鴎外研究アードルフ クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱフォン
百十)として︑車夫の人間性を徹底的に腎ない西洋人の態度を肯
定している意外な勧告が見出される︒旅行する機会の多かった鴎外
は︑その分だけ此の種の人間に憤激することが多かったのであろう
)0
力
西洋では重要な問題であっても︑現代の日本では通常それ程関心
を惹かないのが︑例えば宗教であるが︑当時でも恐らく︑紹介すれ
ば︑もの珍しさという価値はあったものの︑実用書を意図していた
本書にはそぐわない主題が﹁決闘﹂であろう︒鵬外が何故この凡そ
非^実的な^^を^リ^げる^になったのか︑^に原^<には^にこ
の主題を中心にした章がないだけに︑理由がはっきりしないのだが︑
や
本文の中の︑﹁然らば決闘は何故に息まざるか︒・・:・・その全く滅びん
ぷしかたぎ あかつきはさ
は︑中世の武士気質の夢の醒め果っる暁にあるべし︒国に常備兵あ
ようへい かぎり たやす
り天下に擁兵の太平あらん限は︑未だ容易く決闘の全滅を望むべか
らず︒﹂(﹁智恵袋﹂八十一﹁決闘﹂)という言葉から推察すると︑つ
まり国に職業軍人のシステムがあって平和が維持されている限り︑
騎士道的な武人精神の発現張である決闘の条件が存在する︑とい
う論旨からすると︑彼にとっては至極当然だったのかも知れない︒
ただしこの論拠の正当性は別問題で︑どうも怪しく思われる︒これ
に従うと︑軍隊の存在するところには︑すべて決闘の風習が存在す
ることになるからである︒あるいは日本の武士社会にこれに似た風
習があったという観点から取り上げたのだろうか︒いずれにしても︑
余り意味があるとも思えない︒
むろんクニッゲにも︑この語は登場してはいるのだが︑それは﹁喧
嘩好き﹂﹁好んで人と反対意見を提示する人L あるいは﹁怒りやすい
人﹂との関連において語られるのであって︑鴎外のように︑これを
主題とはしていない︒﹁最後に﹃難癖屋﹄と一言われている人たちは︑
意図的に個人的な喧嘩の機会を求めて︑臆病な人たちに︑少くとも
自分たちょりも臆病な人たちに対して一種の凱歌を挙げようとする︒
あるいは刃物の扱い方を心得ていると︑馬鹿げた決闘で誤った勇気
を誇示するのである︒L(﹃際法﹄第一部第三章第八項)そして決闘
はここでは︑徹頭徹尾否定的なイメージである︒
これに対して﹃智恵袋﹄では︑決闘が勇気の誇示に発すると見て
いる点では同じだが︑性格的な関連からの解説はなく︑社会的な啓
蒙度からの説明に終始しているのは︑立場が逆転している観があっ
かうしやうおもむ よ
て興味深い︒﹁国の風俗高尚に赴き民の自由完全に向ふときは︑能く
くわ︑
人をして決闘の快を忘れしむるに至るべきこと期すべからざるにあ
力かん あたた
らず︒唯だ奈何ともしがたきは︑今の時に方りて二人相争ひ︑必ず
ぽうじん よしとゞ
血を見て満足せんと云はゞ︑傍人これを禁むるに由なき事なり︒L
(﹃智恵袋﹄八十一﹁決闘﹂)小堀氏の現代票が﹁傍からこれを強
いて思いとどまらせるだけの^^がまだ^会の中にないのだ︒﹂(ド
イツ人の決闘観)となっているように︑世の中の人がもっと理性的
に物事を考えるようになれば︑この風習もなくなるだろうという︒
鵬外が何故この主題を取り上げたのかは不明だが︑その考え方の底
流にはクニッゲと同じ発想の存在への明白な示唆がある︒
このように対照させながら見て来ると、どうしても、『交際法』とのかなりの親縁性にもかかわらず、『智恵袋』あるいは『心頭語』に何故原作者の名が挙げられていなかったのか、という疑問に帰り着く。特に第八十七節に「クニッゲ(Knigge)のいはく、我に
オランダ
和蘭製の
しよかん
書翰紙
ひとをり
一折を乞はんよりは、其価に数十倍せる金銭を乞へと。」とその名を引用の下に、参照の事実を公開しているだけに、奇妙な感は否めない。そこで以上の比較検討から敢えて推定を試みれぱ、翻訳、あるいは翻案として原作者の名を付すには、自己の経験や見解が濃厚に出過ぎていることを懸念したのかも知れない。特に日本の読者への分かり易さ、当時の国情への適合性が強く念頭に置かれていたようだからである。しかしまた、この程度の俗流世間智の展開に、わざ/\先進国の先達の名を持ち出すのは、いかにも権威づけめかしているようで、気恥ずかしさを覚えたのかもしれない。あるいはまたこの程度の、といいながらそこには鴎外の日常性の真実が露呈され、本質がむき出しになっている部分があって、他人の名を付す気がしなかったのかも知れない。いずれにしても、これは恐らく鴎外にとって決してどうでもよい問題ではなかったのではないか。
注
(1)水内透「森鷗外研究 アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において― Ⅰ 山陰地域研究第十一号 平成七年五月 四頁
(2)如ゆて一益如 N兵=ゆ仁ゆm曾 0ゆmn=片ず一ゆ住ゆm 司﹃ゆてヨN三ゆ§ユゆ昂
ン仁m⑩ゆ審簡==ゆ乏円=ゆ如住.↓一づ Nゆ=出如獣=血曾.■Nn片ゆ一姦⑩円
ぐ円一N⑩一途一仂.一中一
(3)ヤゆ一円ズN巴ヨ映ン巨0一号剛昂一ず円﹃ぐ0=ズヨ鴇ゆ︑則ゆ如ゆ⑩=号⑩曾
具ゆヨΦ昌才含ゆ=工ゆヨ︑ぐ円一N暢ーン=m-N= da0三中中]仂.N一中
(4)マックス・フォン・ベーン﹁ドイツ十八世紀の文化と社会﹂
一九九六年三月 一五
三修社一九八四年三頁
(5)﹁豆om 含住一片ずΦ即三脇Z=的女=住ンヨ乏又一︑ン易兇審獣==Φ
乏ゆ牙ゆ則五.↓ N.円.0.︑如.N↓伽
(6)勺.ズミヨ如m.語
(7) 9円ず讐又昆言言ユmδ=0一理δずゆ戸 n{.﹁.ズNゆ区冒⑩め.N認
(8)ヤーコブ.カッツ︑大谷裕文訳,ユダヤ人とフリーメーソン﹂
三交社一九九五年四二六頁
(9)司二曾冨鍵ニヨ一ごゆ巨mnずゆ戸一一ゆ§異兇功nず片三Φ︑ズ§円一中認
m.獣一
(W)湯浅慎一﹁フリーメーソンリーその思想人物︑歴史﹂中公
新書八五頁
(Ⅱ) 0円ル dゆル沙四寸一ゆズ言m一区曾⑩ゆ仂ゆ一一mnケN才二nず含 W円巴,
mNヨ片ゆ一一,ZNδず冬0二讐ズ己器Φmご一m片民m︑︑dず曾ル含 dヨ鴇=⑩
ヨ一一冨含mδずゆ出*.一易巴一Nmnず含ず暑ずN謎︑一呉仂.心N中
(n)︺.則三nX冨区一一■一ゆズ仁=Eユ円えゆ§器習6Φ一==N一一含.叉門今円
一§ m.迭
(B) n.dゆ住冨仂.甑
(H)↓ずoaNmヤ一ヨ0{一ズヨ器ゆmン仁穿一等言⑩二ず円ル含dヨ⑩曾⑩ヨ一一
冨ゆ易n=含.三一ずΦ一ヨ剛一づ片ぐ曾語国曾n=曾一拐φ m.-N
(亜森鴎外﹁妄想L
(M)小堀桂一郎訳・解説﹁森鴎外の『智恵袋』L講談社学術文庫昭
和五五年四五0頁
山陰地域研究(伝統文化)第ご言ぢ
〔92〕
” ※着色は引用者
(「原作者の名が挙げられていなかったのか」について書いている箇所で、メイソンと元祖イルミナティという秘密結社についての言及がないのが不思議だな。メイソンと元祖イルミナティにおける重要人物だって論文執筆者は知っているのにね。元祖イルミナティの重鎮だった人の本を参考にしているって公言したら、自身の身が危ういと判断したってすぐに思いつきそうなんだけどな。
「そのことは本書が十九世紀には学校の教科書として用いられることの多かった事実からも想像される。」。教科書だった頃があるのはすごいな)
※明らかにちゃんとコピペされてない箇所があるが一部しか修正していない。
※引用元(論文)の誤字は原文のまま記した(訂正はしていない)
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティカード新発売してて草
こんなん買うよりヴァイスハウプトの著作かクニッゲの人間交際本買った方が100倍タメになるよ
https://amazon.co.jp/dp/4868010379
ベストラー1位? 高すぎだろ
amazon.co.jpから
午後9:08 · 2024年9月17日
·
3,341
件の表示
大体イルミナティによる予言やら予告を知りたいから買うという目的なら図書館行って初期のSFの名作らへん読めばいいだけね
450枚もあったら数枚はそりゃ当たるだろ
午後9:10 · 2024年9月17日
·
908
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
私はイルミナティ=アダムヴァイスハウプトは基本として
現代に復興したイルミナティ(魔術師+大東社のコラボ)を考える上ではオカルト結社とクニッゲで争ってた頃に囚われて考えない方が良いと思うよ
午前1:51 · 2024年9月2日
·
1,850
件の表示
ルソーのエミールの翻訳出版してた神智学の日本の代理人の三浦関造周りでも分かる話
日本の最も分かりやすい啓明会(イルミナティ)である下中弥三郎こそが神智学ニッポンロッジの元である竜王会の関係者だったのだから
竜王会設立の宣言的な幸福への招待への序文を書いたのは下中弥三郎ですよ
午前1:59 · 2024年9月2日
·
661
件の表示
平凡社から三浦の本が出ているし下中弥三郎の自宅は竜王会、神智学関係者の集会場として提供されている時もある
まぁそんな事を確認するまでもなくこのイルミナティこと啓明会も含めて当時の教育界を取りまとめていた人物=人権ロッジのアニーベサントの神智学協会なんだけどね
午前2:03 · 2024年9月2日
·
516
件の表示
ーーーー
どうしたら良いのかわからぬ人
@momo888bar
😂
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月4日
返信先: @uxskfさん
開会式・・・
画像
画像
午後11:44 · 2024年8月4日
·
171
件の表示
(上記に対して)
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティからの言葉を全然守ってないね
人を馬鹿にしてるし宗教も馬鹿にしてるし
クニッゲってイルミナティの創立者の右腕で何人もメンバー増やした超有能な人だよ
午後11:47 · 2024年8月4日
·
217
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
陰謀界隈の流行語大賞 イルミナティとかニューワールドオーダーもそうだけどね
イルミナティならヴァイスハウプトとかクニッゲ
ニューワールドオーダーならウェルズ
ちなみにどっちともしっかり本人の著作読んだりして語ってる人は見た記憶がない
午後6:06 · 2024年1月10日
·
2,156
件の表示
ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
別にイルミナティ=フクロウ🦉ってのは常識レベルのお話なんですけどね笑
フリーメイソンと混同してる人が多いのじゃないでしょうか
クニッゲはともかくアダムヴァイスハウプトも出てこないイルミナティ陰謀論もザラですよ
午後2:41 · 2023年11月14日
·
437
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティの話とかやりたいならクニッゲとかヴァイスハウプトなんて基礎なのにヴァイスハウプトは訳分からん悪魔とかの情報しかヒットしないし
クニッゲに関しては イルミナティ クニッゲ で調べても陰謀論1ミリも関係ない一部の大学の論文しか出ませんからね
午後2:50 · 2023年11月14日
·
394
件の表示
ーーーー
ワクワクさんさんがリポスト
甲斐宗運act4 (早川 数秀)
@KazuNoSaru
どうせ、メーソン陰謀論語りたいなら、留学先のライデン大学に入会の記録紙が残ってる西周から説き起こせよ。即、軍医森鴎外と津和野亀井家が出てくるから。
さらに表示
午後2:38 · 2011年12月19日
ワクワクさん
@uxskf
西周がフリーメイソン
鴎外がクニッゲ
くさいなぁ
午前8:48 · 2023年11月13日
·
1,016
件の表示
[
鷗外って軍医に任官した後、1884年衛生学研究の目的でドイツに留学したので、ドイツ留学中にクニッゲ系つまり啓蒙主義系に入会したのかもしれない
]
人生飽きた勢
@DeQk7n
鴎外は成人した子供4人全員が父親について本を出版してるのが珍しい。
於菟→『父親としての森鷗外』
茉莉→『父の帽子』
杏奴→『晩年の父』
類→『鷗外の子供たち―あとに残されたものの記録』
明治時代に既にドイツに子供服の通販があって、それで娘に服買ったり、娘に激甘、息子には厳しかった。
午後5:07 · 2023年11月13日
·
246
件の表示
ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
http://conspiracyhistoryfacts.blogspot.com/search/label/Karl%20of%20Hesse-Kassel
ヘッセン関連だと外国のこのブログが結構面白い
珍しくヘッセンから薔薇十字ってのが書いてある
というかヘッセンと薔薇十字の繋がりの話って外国の本やブログ等でもほぼないからね
午後11:26 · 2023年12月8日
·
661
件の表示
[
”Kuudere-Kun
I'm a Christian with some unconventional beliefs, and I've become a huge Anime fan. On my blogs don't hesitate to leave comments on old posts.”
アニメキャラの画像は、スクールデイズという、真言立川流の南朝系作品の清浦刹那ってキャラ。
]
書いてるのが
キリスト教徒で、アニメの大ファンになりました。
って人なのでそこは要注意
他にもブーリン家にロックフェラー、チャーチル、ダイアナ、ダーウィン等々が繋がるとか色々あるよ
午後11:28 · 2023年12月8日
·
367
件の表示
http://conspiracyhistoryfacts.blogspot.com/2022/03/lutheran-aristocracy.html
結構頑張ってまとめてるのよねここら辺とか
イルミナティでもヘッセンのとこが割といる
この人もイルミナティ=バリュエルの流したデマではない、オカルト嫌い、クニッゲが黄金薔薇十字を叩いた とかは知ってるようだけど
ナチスのとこはかなり面白い
午後11:32 · 2023年12月8日
·
411
件の表示
http://conspiracyhistoryfacts.blogspot.com/search/label/Wilhelmsbad
イルミナティとロスチャイルドは無関係とまで書いとる
まぁ
型破りな信念を持つキリスト教徒なんだけどね笑
まぁスクールデイズ=南朝アピールは関係ないだろうけど
午後11:55 · 2023年12月8日
·
355
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
ちなみにプロイセン 黄金薔薇十字団の黒幕ヘッセン メタルレジスタンス
って言う薔薇十字団やイルミナティついてのサイトはくにっげの立ち位置がおかしい
午前9:30 · 2024年5月15日
·
1,934
件の表示
ヘッセンのオカルト薔薇十字団を批判する内容をクニッゲは書いてたりしているし間違いなくヘッセン側ではない
どちらかと言うとヘッセンの下についていたはずのロスチャイルドがクニッゲを通じてグラントリアン側に協力していた可能性の方が高い
午前9:36 · 2024年5月15日
·
606
件の表示
今現在ロスチャイルドがオカルト側だろうとイルミナティ側だろうとオカルトも啓蒙結社も協力関係だろうからそこまで変わらんと思うけど
午前9:39 · 2024年5月15日
·
529
件の表示
ーーー
ワクワクさん
@uxskf
ロスチャは結構危ない橋を渡ってたけどもしかしたらここクニッゲ経由の可能性もあるのよね
ヘッセンの宮廷でクニッゲが働いていたわけで(スパイ説もあるが)
そこ繋がりで大東社と繋がっていた可能性があるわけ クニッゲもヘッセン側(に見える)だったわけで
結果的にロスチャはラッキーだったけどね
午前11:35 · 2023年11月17日
·
871
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
ヘッセンにしろロスチャにしろイルミにしろ大東社にしろ
クニッゲの方が超重要なのがなぁ
ヴァイスハウプトもうちょい頑張れ
午後6:24 · 2023年11月17日
·
562
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
西周 ジョン万次郎 森鴎外
小沢一郎 Jロックフェラー クニッゲ
午後7:20 · 2023年11月3日
·
536
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静の出身地って時点で草
森鴎外はクニッゲとかイルミナティでも結構面白いとこ行ったのが不思議
午後8:33 · 2023年11月3日
·
697
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
思想が最上位って本当そうよね
ブラバッキーとかスウェボとかクロウリーとか
ヘーゲル害悪哲学も生きてるしH(・G ウェルズ)本も生きている
こわい
午後8:38 · 2023年11月3日
·
360件の表示
ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
森鴎外は今の基準で言うと赤っぽいですよねぇ
当時の赤傾向ではあると思う
さらに表示
午前0:24 · 2023年11月11日
·
73
件の表示
(普通は、有色人種が「白人至上主義つまり有色を皆殺しにしろ思想」を積極的に支持するとは思えないからね。白人への劣等感[コンプレックス]の程度によっては青に行くことはあり得る。)
ーーーーー
シーア兄貴(来世触手)2023/7/23~8/3と良呟きや記事の保管庫。ワールドSTAP石森メイト。『ゼイリブ』。プロイセン。満鉄。オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会。ライデン大学、ホフマン、西周、津田真道
Posted on 2023.08.04 Fri 19:28:33
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-531.html
”https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1686133348878483457
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い
午前6:54 · 2023年8月1日
·
702
件の表示”
ドイツ人であるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは世界で最初の日本語学の教授職が置かれた(1855年)オランダのライデン大学の教授。
ライデン大学だし、西周と津田真道と関係しているので目イソンだろう。ホフマンと西周と津田真道は近所に住んでいた。完全に日本語研究の協力関係にある。
)
[中略]
「オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い」
gorinotsukudani
@gorinotsukudani
シーボルト妻、つづる愛情 オランダに追放後の手紙https://nikkei.com/article/DGXMZO37016000X21C18A0ACX000/
代筆の可能性がある。署名は遊女名の「其扇」となっていた。日本を退去したシーボルトの助手となり、ライデン大日本学科の初代教授も務めたヨハン・ヨーゼフ・ホフマン(1805~78年)が、手紙を管理
午前1:55 · 2018年10月29日
Lan@2023日本語教育能力検定試験受験勉強垢
@2023passthetest
外国語としての日本語教育
③-3 シーボルトが持ち帰った資料はオランダのライデン大学に所蔵されている。
ライデン大学に世界初の日本語学科ができた。
初の日本語学科教授はシーボルトの弟子、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン。
午前9:31 · 2022年10月17日
ホウジ
@_hojojoh_
ちなみに、ライデン大学の日本学科で初代日本語担当教授はヨハン・ヨーゼフ・ホフマン。この人はもともとオペラ歌手を目指してたんだけど、シーボルト事件で帰国したシーボルトに偶然出会って日本のことを聞いたらのめり込んじゃって日本語学の道へ進み大成した人。
午前0:17 · 2014年11月13日
平塚連 L 日本イン🇯🇵🇩🇪🇺🇳🇲🇾🇧🇷🇸🇬🇺🇸🇹🇷🇫🇷🇵🇸
@JapanTeitterINA
16世紀に日本にやってきたキリスト教の宣教師が見聞をまとめたことに始まり、江戸時代には歴代のオランダ商館長(カピタン)たちが研究を進めた。幕末期の1855年にはヨハン・ヨーゼフ・ホフマン教授によってオランダ・ライデン大学に最初の日本学科が設立された。
午後0:57 · 2020年6月15日
[日本学科など、【国名】学科って侵略のためだよ]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い
午前6:54 · 2023年8月1日
·
672
件の表示
[時間を見るに上記を読んでから呟かれたのが以下]
多情仏心
@jiangminjp
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 奥田 倫子 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/25571/1/shomotsu0001401190.pdf
日本語文典 https://kufs.ac.jp/toshokan/gallery/50-37.htm
ja.wikipedia.org
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia
午前11:27 · 2023年8月1日
·
23
件の表示
一橋大学
日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 (試案) 奥田 倫子
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/25571/shomotsu0001401190.pdf
によると、
1855年、オランダのライデン大学に、世界で最初の日本語学の教授職が置かれた。
その座に就いたのは、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンである。ドイツ人である。
(オランダの大学にドイツ人。世界最初の日本語学の教授がドイツ人)
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは、1830年にシーボルトに出会い、彼の助手としてライデンにやってきた。
1825年にパリで出版されたロドリゲス著『日本小文典』の仏語訳を用いて日本語の構造を学んだ。
(ロドリゲスはイエズス会士で中ユ同祖論者であり、日ユ同祖論の源流だ)
シーボルトの中国人助手・郭成章から中国語を習い、中国語の知識を通して日本語文献を読み解いた。
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンはシーボルトの学術活動に寄与した。
1846年には、その中国語能力・日本語能力を見込まれてオランダ政府の公式翻訳官になり、以後、幕末の日蘭関係の一角を支えた。
(ライデン大学だし、西周と津田真道と関係しているのでメイソンだろうな。
『石の扉』p.199の一部を要約。
西(洋)周(くせん)は、ライデン大学から徒歩五分の所にあるラ・ベルトゥ・ロッジNo.7でフリ目に加盟。推薦はフィッセリング教授。入会申し込み書署名の写真がある。要約終了)
以上。
ジョアン・ロドリゲスはイエズス会士で、『日本大文典』、『日本語小文典』、『日本教会史』の著者。
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』と茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマと大日本皇道立教会と鹿児島版田布施の加治屋町
Posted on 2015.07.26 Sun 04:15:39
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
”ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン(Johann Joseph Hoffmann、1805年2月16日 - 1878年1月23日)は、ドイツ生まれで、オランダで働いた言語学者である。日本語、中国語の研究を行い、ライデン大学の初代の中国語・日本語担当教授となった。『日本語文典』("Japansche Spraakleer" )などの著作で知られる。西洋においての真の意味の日本学の始祖と考えられる[1]。
生涯
ヴュルツブルクに生まれた。ヴュルツブルク大学[2]で文献学を学んだ後、1830年7月、アントワープのホテルの食堂でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにたまたま出会った(同郷の訛りのドイツ語で東洋の見聞を話す人に「シーボルト博士をご存じないか?」と尋ねると「私だよ」と言われた)[1]ことから、東洋学者としての活躍が始まった。シーボルトの『日本』の著作に協力した。ホフマンの研究は東洋学者スタニスラス・ジュリアンらから注目された。1855年にライデン大学の初代日本学教授に任じられた。1862年に日本のオランダ留学生、西周、津田真道の世話役を務めた。1868年に『日本語文典』を出版し高い評価を得た。日本語研究として『日本研究』『日本書誌』(シーボルトと共著)がある。日本語辞典の編纂にとりかかったが未完で終わった。日本の地を終世訪れることはなかった。
参考文献
飯田晴巳『明治を生きる群像-近代日本語の成立』(おうふう 2002年) ISBN 4273032201
脚注
[脚注の使い方]
^ a b 山東功『日本語の観察者たち』(岩波書店 2013年pp.93-107)。
^ 山東功は『日本語の観察者たち』で「高等専門学校」を出て劇場歌手としてヨーロッパ各地を回っていて、歌手として回っていた時に出会ったとしている。
関連項目
オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会
外部リンク
日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 奥田 倫子
” (「最終更新 2021年9月10日 (金) 10:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。」)
「1862年に日本のオランダ留学生、西周、津田真道の世話役を務めた。」があまりにも気になる。
洋学伝習と日本事情
https://www.nier.go.jp/saka/pdf/N12006010.pdf
より。
”
津田の下宿 はホ フマ ンの住 まいの向かい側 にあ りま した。
[注:近所過ぎる(笑) 案内役という情報は正しいだろうな。
中略
(津田の下宿がある通りは昔は運河だった。聖パンクラス教会がある。
「ホーフラントセ大教会」と地図にはある。以上の主旨に続くのが)]
「地 図には記入があ りませんが、西 の下宿 は教
会 の裏手 にあた る hooigrachtとい う通 りにあ りま した。」
”
(ホフマンと西周と津田真道は近所に住んでいる)
(津田真道は、真一郎、行彦とも名乗ったことに注意)
”
2.日本事情 (その一)ホ フマ ンへ の協力
論点 の二 に入 ります。 ヨハ ンヨゼ フホフマ ンは当時 ライデ ン大学 で 日本学 と中国学
の教師 をや って いま した。 ホ フマ ンは四書五経 の始 めであ る 『大学』 の和訓本 を1863
年 の 9月 に刊行 して います。西 と津 田が校正 に当た っています。The Grand Studyと
い う題 の第二部 は ロ-マ字表記本 で、 英蘭対訳 の解説が付 いて います。資料 5を ご
覧下さい。上段 が漢文 の傍 らに和字 により訓を付 した 『大学』の訓読本 です.通常 の
訓点だ けでな く、読 み仮名 が全部振 ってあ ります。
(中略)
ホフマ ンの住まいの向いに下宿 して いた津田
真一郎に native informant として本文を読んで貰い、そのアクセントを記録したとあります。
ホフマンはは漢文訓読体 を日本語における学術文体 と考 え、候文や会話文 へ
の導入 とす る ことを企 てたわ けです。
”
(案内役どころじゃないな。完全に日本語研究の協力関係にある)
Leiden University Office Tokyo ライデン大学東京事務所
https://luot-nrg.jp/
”オランダ国ライデン大学 (1575年設立) は、オランダ最古、ヨーロッパでも最も古い総合大学のひとつであり、欧州研究大学連盟発足時(2002年)からの加盟大学です。
日本とは、17世紀にまでさかのぼる長い関係があり、オランダ東インド会社(VOC)に雇われて長崎の出島に滞在し、日本についての著作を残した人たちも、多くはライデン大学で学んでいます。そして、シーボルトの弟子のヨハン・ヨゼフ・ホフマンを初代日本語教授とした世界初の日本学講座を開設(1855年) しました。幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献する西周や津田真道ら幕府派遣留学生もライデン大学で学び、以来今日まで、多くの日本人留学生・研究者を迎え入れています。
ライデン大学は主として、日蘭関係史研究で重要な役割を果たした財団法人日蘭学会を通じて、1975年に始まり2011年まで日蘭研究のみならず、日本との間にあらゆる分野の学生・研究者の交流を行う数々のプログラムを実施してきました。
”
” ※着色は引用者
シーア兄貴(来世触手)2025/1/29~2/16。新年(旧暦)の挨拶。ブンブン・50ジャー。ふつうじゃない軽音部。ご支援用⑭国号「日本」の変更箇所(意味は不変)。ペルンナ2。ギア巣。ビルド考察まとめ
Posted on 2025.01.29 Wed 23:59:48
”ワクワクさんさんがリポスト
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
増量
随時追加シーア兄貴(来世触手)2025/1/29~。新年(旧暦)の挨拶。ブンブン・50ジャー。ふつうじゃない軽音部。ご支援用⑭国号「日本」の変更箇所(意味は不変)http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-587.html
オランダ東インド会社(VOC)の従業員の約20~30%が(目イソン)会員って書いている(笑) 目イソン会社だ。
yomenainickname.blog.fc2.com
随時追加シーア兄貴(来世触手)2025/1/29~。新年(旧暦)の挨拶。
※しばらくの間、内容が追加されていく。最重要・ブログ10周年記念・新たな固定記事が完成↓初めにお読み下さい。陰謀業界人の宗派リスト(ずっと騙され続けないための最低限の防具)。初学者の人になるべく早く読んでもらいたい、人気かつ、極めて重要な記事一覧http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-586.html冒頭の「陰謀業界人の宗派リスト」だけで...
午前8:37 · 2025年2月3日
·
754
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
自分も教科書でフリーメイソンが登場してるものは一切知らないね
不思議だよね
あらゆる出来事や人物の影にメーソンの足跡が残ってるのに全てスルーされてるとか
午後6:40 · 2025年2月3日
·
301
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
オランダ東インド会社、オランダ商館がフリーメイソンだらけなのは事実として
そこからの蘭学なんで明治維新どころか日本のヨーロッパからの学問なんてフリーメイソン経由だからね
隠れキリシタンで有名な医学者のコンパスとかはまさにそういうものだろうし
午後6:52 · 2025年2月3日
·
308
件の表示
オランダ語の翻訳にしろ確実に日本人だけじゃなくメーソンが関わってるでしょ?
資料提供は当然メーソン天国でお馴染みのカピタンだしw
「望む人がいれば譲るだとさ」笑
絵を描いた小田野直武の師匠の平賀源内も謎の長崎遊学だの蘭学の中心だし
午後7:01 · 2025年2月3日
·
111
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
蘭学=メーソン学
蘭学者=フリーメイソンに入れ知恵された人物
長崎のオランダ商館及びカピタンがヨーロッパの学問や情報を握っていてそれを日本へ選んで手渡していたわけだからね
日ユ論で出てきたケンペルもオランダ東インド会社から長崎への人だよ
午後7:09 · 2025年2月3日
·
129
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
明治維新もフリーメイソンでそれ以前の日蘭交流もフリーメイソンだけど
赤い楯の広瀬隆は文明開化は長崎からって出してたんだよね
それもフリーメイソンの中核は抜いてたはずだけど
さらに表示
午後7:11 · 2025年2月3日
·
135
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
メーソンのオランダ商館の医者シーボルトが地図持ち出したらメーソンのペリーがやってきて開国へみたいなのは当然として
日英修好通商条約のイギリス代表ってテンプル騎士団伝説とかスコティッシュメーソンの大物一族のエルギン伯爵 ブルース家なんだよね
午後7:23 · 2025年2月3日
·
285
件の表示
それでやって来た初代駐日総領事のラザフォード・オールコックもちゃんとフリーメイソン
結局長崎のオランダ商館がフリーメイソンの活動を開始 コンパス蘭学
明治維新メーソン革命やメーソンのペリー来航からさらにフリーメイソンが活動
西周もオランダ商館が手引きしただろうし
午後7:30 · 2025年2月3日
·
85
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
ある地域では会社の高官の約6割がメイソンで
全体の3割近くがメイソンとか草
出島で共同生活を営む集団に絶えず2か3人はメイソン
メイソンが歴代の商館長が何らかの関係者
草 教科書に載せとけよ
午後7:45 · 2025年2月3日
·
187
件の表示
ここまで、出島でのフリーメイソンの影響力が強いとすると、新見地
からも含めて様々な所でこの輸出漆器の流れをを見直す必要がありそう
は当然あるんだけどまぁ秘密結社だから秘密にしとくんだと思うよ
ユネスコも日本の教育や教師に大学の流れもフリーメイソン経由だし
午後7:46 · 2025年2月3日
·
110
件の表示
[
メイソンいすぎ(笑)
教科書に載ってないこと自体が、権力を持っている証拠だよね。
オランダ東インド会社(VOC)の従業員の約20~30%が(目イソン)会員って書いている英文のサイト、ライデン大学じゃん(笑)
メイソン大学じゃん(笑) Leiden Universityって思いっきり書いているわ(笑)
神智学もメイソンに影響された組織だもんな。ブラヴァツキーもメイソンだし。女性用の位階をもらったほどに特別扱いだったのがブラヴァツキー(笑)
シーア兄貴(来世触手)2024/12/13~2025/1/10。あのフラワー(対応人物編)。50ジャー。ブラヴァツキーが元ネタのキャラがいる作品集[悪エリアン時代(TCG)等]
Posted on 2024.12.21 Sat 21:51:58
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-583.html
”1877年11月24日付のブラヴァツキーのメーソン証書には、次のように記されている:
「われら、三位一体の神聖なるグランド・マスター・ジェネラルは...われらの輝かしい啓蒙の兄、H.P.ブラヴァツキーが、アプレンティス、コンパニオン、パーフェクト・ミストレス、崇高なるエレクト・スコッチ・レディ、グランド・エレクト、シュヴァリエール・ド・ローズ・クロワ、アドナイト・ミストレス、パーフェクト・ヴェネラブル・ミストレス、そして養子縁組の儀式の戴冠されたプリンセスであることを宣言し、宣言する」
これらの養子縁組の位階は、女性がスコティッシュ・ライト・フリーメーソンの謎を研究し、解き明かすために特別に設けられたものである。旅行、勉強、曽祖父の蔵書へのアクセス、そして多くの著名なメイソンとの親しい交友関係から、ブラヴァツキーはこれらの学位を受ける前から、おそらく当時のほとんどのメイソンよりも多くのことを学んでいたと思われる。」
ブラヴァツキーって、女性なのにスコティッシュ・ライト系の位階持ちなんだ。特別待遇なのは、曽祖父がメイソンなのも理由なんだろうな。
” ※着色は引用者
]
”
六草いちかの気になる毎日💙💛
@rokusouichika
⑥このたび1000円札の図柄に選ばれた北里柴三郎は「細菌学の父」とも呼ばれる医学者。ベルリンに留学しロベルト・コッホのもとで研究。師のノーベル生理学・医学賞受賞に至るまでの研究にも貢献。
留学仲間の身を案じたり、鴎外がコッホ研究所に通えるよう世話したり、人情家でもありました。⑥
画像
午後9:21 · 2019年4月9日
(鷗外の人脈の1つがノーベル賞人脈。赤いなあ)
イタリア猫
@italian_cat
「明治村」北里研究所本館・医学館。『ドイツにおける日本人留学生達』1885年32歳と割と年取ってからベルリン大学に留学した北里柴三郎。コッホに師事し破傷風やジフテリアの血清療法を開発しノーベル賞候補になったという。写真にはジョン万次郎の長男や森鴎外の姿も。
画像
午前7:33 · 2020年1月8日
(参考資料は後日、追加するかも)
お読みいただきありがとうございました。
記事内検索で飛んで下さい。秘密結社への見解は、講談社学術文庫版『人間交際術』には載っていますが、イースト・プレス版では省かれています。
目次
本書を読むきっかけと理由
クニッゲ『人間交際術』の和訳の備忘録(メモ)(講談社学術文庫版とイースト・プレス版)
森鷗外についての軽い考察と、クニッゲについて
参考資料
本書を読むきっかけと理由
読むきっかけとなった呟き:
https://x.com/uxskf/status/1905612255795818890 と続き
”
この中でクニッゲが出した結論は
"秘密結社なんかゴミ" だった
無益で危ないだけの無価値なもの
これを世界を支配しているはずのイルミナティのNo.2の人間が言っているのである
午後10:32 · 2025年3月28日
·
1,258
件の表示
とは言え嫉妬やらなんやらで追い出されたりしてるわけでそれに対するルサンチマン的なものもあるだろうが
クニッゲの主張は
それっぽい象徴とか儀礼とかなんの有効性も無いゴミ
秘密結社はやめて"公然"と活動せよ という事
このクニッゲの理念が伝わったのか
ウェルズの"公然たる陰謀"がある
午後10:38 · 2025年3月28日
·
1,095
件の表示
https://x.com/uxskf/status/1905616191374364868
”ワクワクさん
@uxskf
そもそも陰謀の意味が一般的に思う陰謀とは違うのだが
陰謀など無く世界を啓蒙の光で照らしましょうという感じだろう
それは人権宣言とか教育運動とかだったりするのだが
午後10:41 · 2025年3月28日
·
1,115
件の表示
”
ワクワクさんに感謝。
読む本の優先順位を変えてまでも本書を読んだ理由は、クニッゲが秘密結社についてどう言っているのか気になったのと、人間交際術が書かれているからだ。人との付き合い方は本当に大事だからだ。
大当たり本。
クニッゲ『人間交際術』の和訳の備忘録(メモ)(講談社学術文庫版とイースト・プレス版)
先に講談社学術文庫版を扱う。こちらは大当たり本。
イースト・プレス版は全訳ではないのでお勧めしない。
『人間交際術』
アドルフ・F・v・クニッゲ/笠原賢介 中直一訳
1993年12月10日 第1刷発行
講談社学術文庫
本のソデ(表紙にカバーを巻いたときに、内側に折り込まれる箇所)より:
「講談社学術文庫のシンボルマークは、古代エジプトにおいて、知恵の神の象徴とされていたトキをデザインしたものです。」
[講談社学術文庫は赤組っぽいな。クニッゲの和訳を出版しているし、古代エジプトだし。
しかも知恵を強調しているので啓蒙主義的だ。古代エジプトでトキならトートだな。
なので、ヘルメス・トリスメギストスの意味も込めてそうだな。]
人間交際術 Knigge, Adolf Franz Friedrich Ludwig, Freiherr von(著/文) - 講談社 | 版元ドットコム
https://www01.hanmoto.com/bd/isbn/9784061591035
”
Knigge, Adolf Franz Friedrich Ludwig, Freiherr von(著/文)Knigge, Adolf, Freiherr von(著/文)中 直一(翻訳)笠原 賢介(翻訳) Knigge Adolph F.V.(著/文)クニッゲ アドルフ・F.V.(著/文)
発行:講談社
縦150mm
621ページ
(略)
初版年月日
1993年12月
登録日
2017年3月29日
最終更新日
2017年3月29日
(略)
紹介
世間と社交の場において、幸福かつ満足に他の人々と生活するために、また、周囲の人を幸福かつ愉快にさせるために、人はどのように振る舞ったらいいのか。万人にとって永遠の課題であるこの問いに、著者クニッゲは、交際の仕方についての一般的な考え方やルール、更に様々な状況に応じた人間交際術の秘訣をあますところなく教えてくれる。森鴎外の「智恵袋」にも紹介された人間交際術の古典的名著。
”
p.613から始まる
訳者あとがき
から記す。最重要箇所の1つだ。
本書『人間交際術』(Über den Umgang mit Menschen)は、今から 二世紀以上も前に書かれた社交術の古典的名著である。日本では著者クニッゲ(一七五二-九六)の名前はほとんど知られていないが、ドイツ語圏の人々は今日でも、クニッゲの名前を聞くとすぐに『人間交際術』を連想するほどである。それどころか「クニッゲ」という名称は、およそ交際術を書いたどのような本をも指す代名詞として使われることさえある。
今から二世紀前のヨーロッパといえば、ドイツではカントやゲーテ、シラーが、フランスではヴォルテールやルソーが活躍した時代、いわゆる「啓蒙主義」の時代である。この時代状況の中で、クニッゲの『人間交際術』は出版され、たちまちにしてベストセラーになった。初版が出版されたのは一七八八年で、同年には早くも第二版が出版された。それをさらに改訂増補した三部構成の第三版が出版されたのは一七九〇年、フランス革命勃発の翌年である。本訳書はこの第三版を訳出したものである。
クニッゲが生きた時代を一言で言うと、宮廷の時代から市民の時代への変革期、ということになろうか。フランスではまさに革命が勃発しようとしていたし、ドイツでもおそまきながら市民層が成立し始めていた。話をドイツに限定すると、当時のドイツは今日のドイツとは違い、約三百の小さな国に分かれていて、その多くに宮廷があった。また身分制度も存在していた。このような時代に書かれた社交術の書物であるだけに、クニッゲの『人間交際術』のなかには身分制原理の貫かれた当時の社会を前提にした論述が多くみられる。社交術の書物である以上は、現体制の中でいかに人がうまく身を処してゆくかを述べるのが『人間交際術』の本旨であって、現体制そのものを批判することは本書の目的ではないわけである。しかし、フランス革命の時代に生き、自身革命に共感を覚えたクニッゲの『人間交際術』の中には、身分制の不合理をつく叙述がかなり含まれている。また啓蒙の時代に生きた人物でありつつ、なおクニッゲの文章の中には啓蒙主義を揶揄するような言葉も見受けられるのである。
このように、変革の時代にあって現体制を前提にしながら、なお現体制を手放しで賞賛するのではないという、いわば両面性がクニッゲの『人間交際術』には見られるのであり、それゆえにこそ、さまざまな立場の人から本書は支持され、それどころか後々の時代にまで読み継がれることになったのである。
それでは、このような本を書いたクニッゲとはどのような人物であったのだろうか。
クニッゲ(Adolph Freiherr von Knigge)がハノーファー近郊のブレーデンベックに生まれたのは一七五二年である。当時は二十二歳のレッシングが文筆活動を開始し、ゲーテはまだ三歳、シラーはまだ生まれていなかった。もともとクニッゲ家は貴族の家柄であるが(Freiherrは「男爵」)、父が浪費家で道楽半分の事業に手を出して失敗し、しかもこの父がクニッゲ十三歳の時に負債を残したまま死去したので、クニッゲは生涯借金を背負わざるを得なかった。十七歳でゲッティンゲン大学の法学部に入学し、十九歳からカッセルにあるヘッセン方伯の宮廷に奉職するようになった。ここカッセルの宮廷でクニッゲは君主フリードリヒから信頼を得、単に宮廷人として奉職したのみならず、君主フリードリヒの事業経営にも関与し、また自らも農業協会を設立するなどの活躍を示した。
ところが、若くして一躍ヘッセンの宮廷の寵児になったクニッゲに対して、一つの陰謀が企てられた。クニッゲに関する悪い噂がばらまかれ、たちまちにしてクニッゲは君主からの寵愛を失ってしまったのである。
その後クニッゲは、ハーナウの宮廷に奉職する。1777年、クニッゲ24歳の時である。この宮廷でもクニッゲは才能は発揮し、社交界の花形になった。実際、クニッゲの才能はあちらこちらに花開き、素人芝居の監督をつとめるかたわら、バレエ音楽を作曲し、はては交響曲を作曲するにいたる始末だった。この宮廷でもクニッゲは君主の寵愛を受け――そして周囲の人々の妬みをかった。わずか四年後の1780年には、彼はハーナウの宮廷を後にしている。これ以降、クニッゲは、最晩年にブレーメンにゆくまで、およそ宮廷というものには近づかなくなる。
クニッゲは確かにあらゆる方面に才能を発揮した人物であるが、他方、歯に衣(きぬ)着せぬ物の言い方をし、また他人を揶揄したり皮肉っぽい言い方をすることが多かったようである。したがって、周囲の人々から反感を覚えられやすかったのだろう。
カッセルとハーナウは、結局クニッゲにとって、宮廷生活での栄光と悲惨をふたつながらに味わう場になったが、もうひとつこの時代に注目すべき事がある。それは、クニッゲとフリーメーソンの関係である。
フリーメーソンは秘密結社でありながら人類の啓蒙を目指すという、曰く言い難い団体である。フランス人では、ヴォルテールなどがそのメンバーである。またアメリカ人では、フランクリン、ワシントン、ジェファーソンといった独立革命の指導者がみなフリーメーソン会員であったため、フリーメーソンが独立戦争を起こした、などと噂された。ドイツでは、ゲーテ、レッシングといった文筆家の他、プロイセンのフリードリヒ二世(大王)がフリーメーソンであった。
クニッゲ自身、このような時代状況の中でまずカッセルで、当時のフリーメーソンのロッジ(支部)に入会した。だがここではメンバーとしては下級であったようである。ついでハーナウでもフリーメーソンに入会。ここでクニッゲは「ア・キュンゴ」という名前をもらい、上級に昇進した。
ハーナウの宮廷を離れてからクニッゲは、フリーメーソンと類似の団体「啓明会(イルミナーティ)」に接近した。この結社を主催していたのは、インゴルシュタットの大学教授アダム・ヴァイスハウプトである。啓明会は、1782年に「ヨーロッパ革命化のための国際的な啓明会の合議」を行なったということからも分かるように、現体制に対して批判的な目を向けることもある団体であった。クニッゲは1780年にこの会に入り「フィロ」という名前をもらったが、精力的に会の組織の拡充につとめ、この会の文書発送業務はほとんどクニッゲが統括するようになったくらいである。
1784年までの間、クニッゲはヴァイスハウプトと並んで「啓明会」の指導的立場にあったが、のちにヴァイスハウプトと対立、同会を離れている。
ところで「 啓明会」に関与していた頃、クニッゲは何をもって生活の資としていたのか。すでに宮廷からの収入はない。そこでやむなく貴族クニッゲは「市民的職業」である作家活動に乗り出す事になる。
今日クニッゲの名前は、作家としてはドイツの文学史にもほとんど記載される事はないが、当時は流行作家であった。代表作には自伝的小説『わが生涯のロマン』全四巻(1781-83)、悪漢小説『ペーター・クラウゼン物語』(1783-85)、『哲学者の混乱。別名、ルートヴィヒ・フォン・ゼールベルク物語』(1787)、『魔の城』(1790)、そしてクニッゲの文学作品の中で最も有名になった『ブラウンシュヴァイクへの旅』(1792)などがある。
クニッゲ自身認めているように、多少とも彼には粗製乱造の傾向があった。従ってクニッゲの生前には右の諸作品は読まれたが、今日では読む人もいない。
ハーナウを1780年に離れた後、クニッゲはフランクフルト、ハイデルベルクに移り住み、1787年に故郷ハノーファーに戻ってきた。そして書かれたのが彼の主著『人間交際術』である。先にも述べたように、ちょうどフランス革命が勃発しようかという時代である。多くのドイツ知識人同様、クニッゲはフランス革命勃発当初、大いに感激し、革命一周年には友人たちとそのお祝いの会を催し、ドイツにほどなく革命の起こる事を期待して乾杯したほどである。その場には、作家クロップシュトックもいた。
1792年、革命が恐怖政治の兆候を見せはじめると、クニッゲはフランス革命に対して冷静な態度を見せるようになる。92年に書かれた『ヨゼフ・フォン・ヴルムブラントの政治的信仰告白――フランス革命とその結果に関して』の中でクニッゲは、革命の根本思想に賛意(原文ママ)を表明しながらも、ジャコバン派の過激な革命行動は批判した。だがこのような書物を発表した結果クニッゲは、革命派からは反革命派と見られ、逆に反革命派からは革命派であると見なされるにいたったのである。たとえば「ブラウンシュヴァイク・リューネブルク選帝侯政府付き大ブリテン王枢密顧問会議」の名前で、本書に対する戒告状が送達されたほどである。
1791年、クニッゲはブレーメンの上級公務員に任ぜられた。だが、この時クニッゲの体は病魔に蝕まれ始めていた。ブレーメンではほとんど床についている状態で、1796年、四十三歳の若さで死去した。
クニッゲはこのように、債権者に追われる貴族として、流行作家として、フリーメーソンや啓明会の活動に参加してきた者として、さらにはフランス革命に心酔し後に反感を覚えた者として、非常にさまざまな側面をもつ人物であるのだが、その死後残ったのは『人間交際術』のみであったと言っても過言ではない。
このクニッゲの『人間交際術』にいちはやく注目した日本人は森鷗外である。鷗外はドイツ留学中レクラム文庫でこの本を読み、帰国後、本書を自由に翻案風に翻訳し、「知恵袋」と題して『時事新報』誌に連続掲載したのである。
ところがこの時鷗外は、原著者の名前を挙げることなく単に「鷗外訳補」としるしたのみであったため、「知恵袋」の原点となったものがどのような作品であったのか、長らく謎とされてきた。いや、そもそも「知恵袋」の原典が何であったか、という関心さえ生じてこなかったのである。
このような状況のなかで東京大学の小堀桂一郎教授が、「知恵袋」の原典がクニッゲの『人間交際術』であることをつきとめられた。その成果は、本訳書と同じ講談社学術文庫に『森鷗外の「知恵袋」』(1980)としてまとめられている。鷗外は十八世紀ドイツの読者に向けて書かれた『人間交際術』を自由自在に翻案・翻訳し、明治の日本人に読めるような形に改作したのである。
実は本訳書が成立したのも、小堀桂一郎教授のお勧めによるものである。本書の翻訳のきっかけを与えて下さった小堀桂一郎教授には、この場を借りてあつくお礼申し上げたい。
本訳書の底本としたのは、1878年出版のレクラム文庫版(鷗外もこの版で読んだ)である。このReclam版の他に、随時Gebrüder Weiss版、Carl Schünemann版を参照し、レクラム版を補った。また後者につけ加えられた「解説」(マックス・リュヒナー執筆)は、本訳書の「訳者あとがき」を書くに祭司て大いに参考にさせていただいた。
文化史研究家のエゴン・フリーデルは、『人間交際術』の文体に関し「行文は優美流麗、平坦にして淡彩」と絶賛しているが、少なくとも翻訳者の目からみると、クニッゲの文体は非常に回りくどく、またいつまでも続く長々しい文章が多く、正直に申して、翻訳は楽な作業ではなかった。そこで訳出に際して訳者たちは、読みやすさを考えて、次のような方針をとった。
一、原著は一つの段落が非常に長い場合が多いので、本訳書ではそれを適当に切った。
一、各項目は、原著本文中において番号だけが与えられていて、項目の表題が示されているのは目次においてのみである。本訳書では、読者の便をはかって、本文中に表題を示した。
一、訳注は、各項目の最後の部分に示した。
翻訳の内容・表現法については、二世紀も前の作品であるだけに、これをそのまま今日の日本に当てはめることは困難である。クニッゲの生きた時代の制約が強く刻印された叙述・表現法も散見される。読者におかれても、そのことに十分ご留意いただきたい。
翻訳の分担に関しては、原著まえがき、第一部前半(序論と第一章)、第二部前半(第五章まで)、第三部前半(第五章まで)を中が、第一部後半、第二部後半、第三部後半を笠原が担当し、相互に原稿を交換して文体・訳語の調整を行った。
最後になったが講談社学術文庫の池永陽一氏には、原稿段階からさまざまな形でお世話になったことをお礼申しあげる(原文ママ)と共に、翻訳作業が遅々として進まなかったことを改めてお詫び申し上げる(原文ママ)次第である。
一九九三年九月
笠原 賢介
中 直一
【
本書は、1993年12月10日 第1刷発行。
クニッゲが元ネタを明かさなかったのってメイソンと元祖イルミナティ関係者だからでは?
クニッゲの日本語版ウィキが「イルミナーティ」表記なのは本書が参考資料の1つだからだろうな。
アドルフ・クニッゲ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B2#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E6%9B%B8
”
アドルフ・クニッゲ(Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge、1752年10月16日 - 1796年5月6日)は、18世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)の著作家、評論家。
ニーダーザクセンの生まれ。ゲッティンゲン大学で学び、ヴァイマルの宮廷に仕える。のち貴族と離反しブレーメンに引退する。『人間交際術』はロングセラーとなり、ドイツの家庭では常備されていた。日本では1910年に翻訳が出ているが、森鷗外が『智恵袋』『心頭語』として新聞連載した。男爵(フライヘル)とされる。
フリーメイソンとしてのクニッゲ
クニッゲは、フリーメイソンの会派の一つである厳守派に1773年に入会したが、資金的な問題でエリート的な結社の狭い指導者グループに上りつめることはできなかった。カッセルでクニッゲは「戴冠したライオン」というフリーメイソンのロッジに入会した。ハーナウでは彼はロッジ「ヴィルヘルミーネ・キャロライン」のメンバーとなった。 「白鳥の騎士」(羅:Eques a cygno)を名乗って、クニッゲはフリーメイソンの指導者や黄金・薔薇十字団の指導者と文通をおこなった。クニッゲはフリーメイソンの業務で、たくさん旅行をしている。ブラウンシュヴァイク、ヴォルフェンビュッテル、ヴィルヘルムスバートでおこなわれた厳守派の大会でクニッゲは改革のために運動した。
フリーメーソン業界での人脈に幻滅し、深く失望したことで、クニッゲは「フィロ」という仮名で1780年に「コンスタンツォ侯爵」を通じてイルミナーティに入会した。クニッゲは、北ドイツにこの結社を広めるという使命を帯びて、持ち前の落ち着きと巧みな組織力で、約500のメンバー、主に貴族や知識人を集めることに成功した。イルミナーティはクニッゲが入会させたヨハン・クリストフ・ボーデを通じてヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテさえ獲得した。しかし、ボーデと創設者アダム・ヴァイスハウプトとの激しい権力闘争があった後、クニッゲは1784年、再び除名された。クニッゲは、自分が期待したようなこの結社による「国民の精神生活の刷新」は現実的ではなかったと後に回想している。
彼はまた、折衷同盟の設立にも関与した。人生を通じてクニッゲは平等主義的な友愛団の様々なプロジェクトに取り組んだ。彼は、死の直前の1795年に愛国同盟のマニフェストを起草した。
これらの多様な活動、特にイルミナーティ結社を強制的に脱会させられた後に果たしてきた顕著な役割のために、クニッゲはフランス革命後に当局から疑われることになった。彼は危険な民主主義者であり、ジャコバン派と見なされた。 1796年には、彼のもとにウィーンの秘密警察は、クニッゲの返事からドイツにおけるフランス革命支持者のネットワークを解明することを望んで、元イルミナーティのアーロイス・ブルマウアーの名前で偽装した手紙を送っている。
日本語訳書
(年代順)
• 『処世交際法』クニッゲ 笛川漁郎訳 玄黄社、1910年
• 『処世と交際 第2部 (人に処する法)』フライヘルン・フオン・クニッゲ 堀秀彦訳 池田書店、1953年 今日の教養新書選
• 『世に処する法』フライヘルン・フオン・クニッゲ 堀秀彦訳 池田書店、1954年 今日の教養書選
• 『交際に関する105章 世に処する法』フライヘルン・クニツゲ 堀秀彦訳 池田書店、教養新書 1956年
• 「十八世紀の黄昏 旅の書簡」クニッゲ 栗原良子訳『ドイツ・ロマン派全集 第18巻』国書刊行会、1989年
• 『人間交際術』アドルフ・F.v.クニッゲ 笠原賢介、中直一訳 講談社学術文庫、1993年
• 「クリストフ・ハインリヒ・ブリックの手稿」クニッゲ 轡田收、鷲巣由美子訳 『ユートピア旅行記叢書 第11巻 (哲学者たちのユートピア)』岩波書店、1997年
• 『人間交際術』アドルフ・F.V.クニッゲ 服部千佳子訳 イースト・プレス 智恵の贈り物、2010年
関連書籍
• 『森鴎外の『智恵袋』付:「心頭語」「慧語」』小堀桂一郎訳・解説 講談社学術文庫、1980年
[
注:「『処世交際法』クニッゲ 笛川漁郎訳 玄黄社、1910年」。鴎外の『知恵袋』の発表は1898年(明治31年)。つまり、1910年に出た和訳を参考にしたのではない。ドイツ語で読んだということだ。訳者(笛川漁郎)がケツ社員かどうかはよく分からないが、和訳されたことは確かだ。
森鷗外の箴言集『智恵袋』『心頭語』『慧語』の人間知
https://note.com/kent248/n/na744c4464d3d
”小堀桂一郎の委細を尽くした「解説」によると、鷗外の『智恵袋』と、その続編にあたる『心頭語』という二つの箴言集は、「実は鷗外の創作ではなくて翻訳、……訳者の自由な筆削や補訂の多分に加わった、翻案的抄訳とでも呼ぶべき作業の産物」である。すなわち、「鷗外の二つの処世哲学的箴言集は要するにクニッゲ作『交際法』の抄訳に他ならなかった」のであり、「鷗外の旧蔵書、つまり東京大学図書館の鷗外文庫中には古いレクラム文庫本のクニッゲが遺されており、その手沢本中には感想の書き入れや、翻訳に関係があるらしい符号等の書き入れもそのままに遺っている」のであるが、「虚心にこれに対するときは、まさにすてがたい人間知宝庫として今なお我々をひきつける」というのである。
” ※着色は引用者
中略
]
最終更新 2022年2月22日 (火) 02:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
本訳書が成立したのは、小堀桂一郎教授のお勧めによるもの。小堀について調べたら、青組の人だ(笑) クニッゲは赤組の先祖なのに勧めるんだと思ったが、小堀は森鷗外の研究者なので、鷗外の研究の資料として和訳が欲しかったんだろうな。『人間交際術』は分量が多いので、自分で訳すのは大変すぎるからな。
あとがきが1993年なので勧めたのは1992年かそれより前だろう(さすがに1年で翻訳は完成しないと思うので)。
小堀桂一郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A0%80%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E
『森鷗外の「智恵袋」』(講談社学術文庫 1980)は、『森鷗外の世界』(講談社 1971。訳・解説)を改訂したものだ。
統一教会の関連団体「世界平和教授アカデミー」の機関紙『知識』1984年7月号に寄稿するよりも前だ(『知識』彩文社、1984年7月号)。
小堀は、統一教会の関連団体「教科書正常化国民会議」の発起人であり、これの根拠が、青木慧『パソコン追跡勝共連合』(汐文社、1985年10月)。こちらも、『森鷗外の世界』の方が先だ。
ドイツ文学者の小堀が
①元々は赤組だから鷗外研究をしていて青組に鞍替えしたのか、
②もとから青組だったのか
③上記以外
かどうかは不明。
日本会議副会長であり、今も副会長だ。
日本会議(にっぽんかいぎ)の成立は1997年5月30日なので、『森鷗外の世界』(1980年。後に『森鷗外の「智恵袋」』)が先だ。
役員名簿 日本会議
https://www.nipponkaigi.org/about/yakuin
”令和5年6月1日現在・50音順
[顧 問]
久 邇 朝 尊 神宮大宮司
鷹 司 尚 武 神社本庁統理
[会 長]
田久保 忠 衛 杏林大学名誉教授
[副会長]
小 堀 桂一郎 東京大学名誉教授
田 中 恆 清 神社本庁総長
[代表委員]
秋 本 協 徳 新生佛教教団最高顧問
入 江 隆 則 明治大学名誉教授
打 田 文 博 神道政治連盟会長
大 原 康 男 國學院大學名誉教授
岡 野 聖 法 解脱会長老
桶 屋 良 祐 念法眞教燈主
小 野 貴 嗣 東京都神社庁庁長
城 内 康 光 元ギリシャ大使
九 條 道 成 明治神宮宮司
小 柳 志乃夫 (公社)国民文化研究会理事長
齊 藤 郁 雄 神宮少宮司
佐 藤 和 男 青山学院大学名誉教授
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
志 摩 淑 子 (株)朝日写真ニュース社会長
住母家 岩 夫 NPO法人持続型環境実践研究会会長
関 口 慶 一 佛所護念会教団会長
千 玄 室 茶道裏千家前家元
高 橋 伸 彰 崇教真光管理局長
竹 本 忠 雄 筑波大学名誉教授
中 野 悦 子 オイスカインターナショナル総裁
長谷川 三千子 埼玉大学名誉教授
廣 池 幹 堂 (公財)モラロジー道徳教育財団理事長
古 庄 幸 一 英霊にこたえる会会長
保 積 秀 胤 大和教団教主
丸 山 敏 秋 (社)倫理研究所理事長
水 尾 寂 芳 比叡山延暦寺代表役員
水 落 敏 栄 日本遺族会会長
火 箱 芳 文 公益財団法人偕行社理事長
森 勉 (社)日本郷友連盟会長
山 口 建 史 靖國神社宮司
渡 邊 毅 日本教師会会長
[監 事]
澁 木 正 幸 日本会議経済人同志会会長
[理事長]
栗 田 勤 明治神宮崇敬会理事長
[事務総長]
椛 島 有 三 日本協議会会長
[事務局長]
松 村 俊 明 日本会議常任理事
以上の役員を始めとする中央本部役員約400名、
47都道府県本部役員約3100名がご就任です
” ※着色は引用者
黒表(こくひょう。ブラックリスト)だな。
日本会議の人脈と、世界連邦の人脈は一部がかぶるので、小堀にはふさわしいといえる。青組だろうけど、研究対象が赤組であろう鷗外なので。
日本会議の人脈と、世界連邦の人脈は一部がかぶっていることから、おそらく、日本会議(青)が、最終的に世界連邦(赤)を助ける計画があると思われる。日本会議(青)は悪役なんだろうな。
世界連邦運動 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%80%A3%E9%82%A6%E9%81%8B%E5%8B%95
”世界連邦日本宗教委員会
1967年結成。立ち上げた朝比奈宗源はのちに「日本を守る会」(現在の日本会議の前身の一つ)にも関与した。会長の田中恒清は日本会議副会長を務め、メンバーである北白川道久神社本庁統理や鷹司尚武・伊勢神宮大宮司、渡邊惠進前天台座主は日本会議顧問である。
(略)
最終更新 2024年11月2日 (土) 03:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
】
p.3から
原著第三版まえがき
注意深い読者ならば、初版・第二版とこの第三版を比べてみて、私がどれほど多くの変更を加えたか(項目の順番を並べ換えた箇所もあれば、内容を書き換えた箇所もある)に気付かれるであろう。本書を改訂するに際し私は、私自身の判断で行った部分もあれば、尊敬に値する何人かの人々の意見に従った所もある。
ハノーファーにて。一七九〇年一月
p.7から
原著初版・第二版まえがき
十八年間の不在期間の後、私は再び、祖国ハノーファーに戻ってきた
ハノーファーにて。一七八八年一月。
序論
p.71から
〔注一〕当時ドイツは分裂状態にあり、約三百の小国家が存在していた、
〔注二〕正当の貴族であることを証明するには、自分の父方と母方の合計十六人の先祖が皆貴族であることを示す系図が必要とされた。
〔注〕約三百あった当時のドイツの「国家」には、(国王をいただかずに)皇帝に直属する都市が含まれた。これを「帝国都市」という。ハンブルクやケルン、フランクフルトなどがこれにあたる。
〔注七〕ドイツの宮廷人の間では、(ドイツ人同士でも)フランス語で会話することが流行していた。
第一章 人間交際術についての一般的規則と注意事項
p.94
十三 自分のことに興味を持ってほしいと思うのであれば、貴方の方でも相手に対して興味を持つべきである。
”
自分のことに興味を持ってほしいと思うのであれば、貴方のほうでも、相手に対して興味を持つべきである。人との交際を好まず、友情や親切心や愛情のセンスに欠け、自分だけで生きて行くような人間は、他人に助力を望んだとしても、相手にしてもらえないものなのだ。
”
(引用符は備忘録者による。正確な引用のために、何度も確認したという意味だ)
p.97
十六 内容のあること、あるいは快適なことをしゃべらなければならない。お世辞について。
(ここからp.98)
”
人と出会ったならば、内容のある言葉を言うか、あるいは親切な言葉を言うことだ。しかし、内容のある言葉にしろ、親切な言葉にしろ、相手のためになるような言い方をしなければならない。相手をしりごみさせないように、またいかにも準備してきたというような観を与えないよう、言葉の使い方に注意しなければならないのである。貴方のそばで送るひとときが、時間の無駄であると相手に感じさせないようにしなければならない。貴方が、相手の人格そのものに興味を持っているのである、と当人に思ってもらえるような態度をとらなければならない。心をこめて振る舞うことが必要である。十把ひとからげに、誰彼の区別なしに貴方の前を通り行く人すべてに親切を売り歩く、ということはしないほうがよい。
”
p.101から
十八 噂話について。
人から聞いた噂話を、軽々しく他人に言ってはならない。とりわけ、悪口に当たるような噂話をしてはならない。噂話の中には、しばしば事実無根のものがある。何人もの人間の口から耳へ伝わるうちに、誇張されたり、一部だけが伝わったり、もとの形とまったく違う話になっていることがある。根拠のない噂話を他人に伝えたばかりに、罪のない善意の人々をひどく傷つける、ということがしばしばある。そしてそれ以上にしばしば、噂をしゃべった当の自分が、手ひどいしっぺ返しを受けるということがあるのである。
p.102から
二十 非難や反論をするときには慎重に。
非難したり、反論したりする時には、慎重さを失ってはならない。二つの面を持たないような事柄は、この世には少ないのである。先入観は、しばしば、賢明な人間の目を曇らせる。他人の立場になって考慮するということは、きわめて難しいことだ。とりわけ聡明な人間が行なっていることを判断するときには、性急になってはならない。どれほど貴方に謙虚さがあるとしても、性急に判断を下してしまっては、貴方は当の聡明な人間よりも自分の方が賢いと、思い違いをしてしまうかも知れないのである。このような思い込みは、不適当な場合が多い。聡明な人間は、多くの場合、他の人よりも活気がある。不正をゆるさぬ烈しい感情を持ち、大衆の判断を気にすることがない。自分の良心の正しさを証明するとき、何か大きな権威の力を借りようなどとは思わない。いずれにしても、聡明な人については、「あの男は、他人のためになるようなことを何かしているか」と問うてみるだけでよい。彼が他人の役に立つようなことをしているのであれば、少々、情に駆られた行動をとったとしても善行に免じて忘れてやることだ。なぜなら、このような欠点は、ただ単に彼本人にのみ迷惑がかかるという程度のものだろうし、そうでないとしても、せいぜいのところ、すぐに消えてしまうような些細な害悪しかもたらさぬものであるからだ。
他人の善行の動機を、あれやこれやとでしゃばって憶測しようとしてはならない。そのようなことをすれば、ひょっとすると今度は、貴方自身の立派な行為の多くが、疑いの目で見られ、ちっぽけなものと見られるかも知れない。およそ善行というものは、どのような結果をもたらすのかという面で、世間から判断されるものだ。
p.107
二十三 エゴイズムについて。
心の通いあった友人どうしであれば、一人の持っている話題が、皆の話題になる。このような場合を例外として、貴方は自分自身のことについて、多くを語りすぎてはならない。そして、親しい間柄においてさえ、あまりに自分を出しすぎないよう、注意しなければならない。親切な友人が貴方に敬意を払い、貴方自身のことや、貴方の書いた文章などを、話題の中心にしてくれたような場合(人は、このような場合にしばしば遭遇するものだ)でさえ、決して自分自身について語りすぎてはならない。謙虚な心は、最も愛すべき性格のひとつなのだ。
p.111から
三十一 宗教の話題について。
分別のある誠実な人間ならば、重要な宗教上の教説について――たとえ不幸な経験に見舞われて、その教説が真実であるなどとは信じられなくなっている場合でも――決して、これを鼻で笑い飛ばすといった態度は取らないものだ。私の思うに、このことは当たり前のことだ。また、教会の諸々の制度や、いくつかの宗派で守られている信仰内容、さらには多数の人々が重要だと見なしている宗教上の儀式などについても、社交の場では、決してこれを嘲笑してはならない。
他の人が尊重しているものは、自分でもまた尊重することが大切である。自分が言論の自由を求めているのであれば、他の人の言論の自由も認めるべきだ。私たちが啓蒙と名付けている当のものが、別の人には、ひょっとすると蒙昧そのものと思われているかもしれない、ということを忘れてはならない。自分にはひとつの偏見としか思えないものが、他の人には心に安らぎを与えるものであるかも知れないのだ。だから貴方はこのような偏見をも尊重すべきである。他の人が大切にしているものを奪い取るのであれば、貴方はこのような偏見をも尊重すべきである。他の人が大切にしているものを奪い取るのであれば、貴方はその代りにより素晴らしいものを相手に与えなければならない。嘲笑は、相手のためにならない。この世では、私たちの理性はまだ十分に発達し切ってはいないのである。だから理性は、色々な事柄について、過ちを犯すことがある。欠点のある体系といえども、その上にすぐれた道徳の基礎が置かれることがある。だから、安易に体系を破壊してしまうことは出来ない。もしそのようなことをすれば、その上にある建物をも土台から崩してしまうことになるからだ。そして最後に忘れてならないことは、右に述べた様々な事柄は、社交の場であれこれと論ずるような性質の話題ではない、ということである。
p.114から
イギリスでは様々な先入観が退けられているが、ハノーファーはそのイギリスと縁が深い都市である〔注1〕。
〔注1〕 1714年ハノーファー公ゲオルグがイギリス国王ジョージ一世として即位した。以来1837年まで、ハノーファーはイギリスと同一の君主によって統治された。
p.161から
第二章 自分自身との交際について
一 他人との交際にかまけて自分自身との交際を疎かにしてはならない。自分自身との交際は有益で興味深いことである。
自分自身に対する義務は、第一の最も重要な義務である。それだから、自分という人間との交際は、決して無用のこと、つまらないことなのではない。いつでも他人の間をうろつき人と交際してばかりいて、自分との付き合いを疎かにしたり、自己の陶冶もせず他人との用件にかまけ、まるで自分自身から逃避するかのようにしているのなら、それは赦しがたいことである。毎日あちこち走り回っている人間は、我が家では赤の他人となる。常に気晴らしのなかで生きている人間は、自分の心にとっての他所者となる。閑人たちの雑踏のなかで、自己の内部の倦怠を滅却する他なくなってしまう。自分に対する自身を失い、ひとたび自分と顔を突き合わせる段になると当惑してしまうのだ。耳ざわりのよいことを言ってくれる仲間だけを求める人間は、真実の声に対する嗜好を失い、しまいには、自分の内部からの真実の声にすら耳を貸さなくなる。それでもなお、良心がなにか不愉快なことを囁いてくると、善意の声がかき消される雑踏のなかへ逃げ込んでしまうのだ。
二 自分にとって自分こそが最も必要となる瞬間がやってくるものである。
それゆえ、自分の最も忠実な友人である自分自身をつれなくしすぎて、一番必要な時に背を向けられてしまうことのないよう、用心せねばならない。そうである。たとえ全ての人間に見捨てられても、自分は自分を見捨ててはならないという瞬間があるものである。自己との交際が唯一慰めとなる瞬間である。だが、この時に、己の心と平穏に暮らせないとしたら、己の心からも慰めや助けが一切拒まれているとしたら、いったいどうなるだろうか。
(地獄だよ)
三 他人同様、自分に対しても、注意深く、繊細、誠実、公正に付き合わねばならない。
だが、自分自身との交際の中に、慰めや幸福、安らぎを見いだそうと思うなら、他人に対してと同様、自分に対しても、注意深く、誠実に、繊細で公正に付き合わねばならない。ひどい目にあわせて、怒らせたり落ち込ませてはならない。疎かにして軽く見たり、おだてて堕落させてはならないのである。
第三章 様々な気性・気質の人々、様々な気分の精神・心情を持つ人々との交際について
p.217から
二十六 熱狂家、風変わりな人間、夢想家、天才、常軌を逸した人間。
不幸なことに、夢想は、鼻風邪と同様に伝染して行く。それゆえ、非常に活発な想像力を持つ者、また、それを知性によって制御する確固とした自信のない者は、どんな種類の夢想家との付き合いにも用心するようお勧めする。秘密結社は、ほとんどはこの種の妄想がその基礎である。秘密結社への熱狂がかくも世に広まった今世紀において〔注〕、人間は、宗教的、神智学的、科学的、政治的な、あるいはその他なんであれ、あらゆる種類の妄想を体系化する手段をあみ出しさえした。私は、これらのうちどれが一番危険なのかを決めつける気はない。しかし、政治的で、半ば空想的、半ばイエズス会的な計画をめざす種類の夢想、世界の改革を指向する種類の夢想は、少なくとも、まったく無害なドン・キホーテ的行動とは言えないと思う。
〔注〕十八世紀にはフリーメーソンなどの秘密結社が盛行した。
[
神智学といっても、ブラヴァツキーの神智学ではないよ。おそらくヤーコプ・ベーメ(1575-1624年)系の思想のことだろうな。
魔術人名録
Boehme, Jakob
http://www.elfindog.sakura.ne.jp/BHOME.htm
”彼の思想は theosophy という言葉で表されるようになり(この場合、「見神論」と訳す)、19世紀末にブラヴァッキーの神智学協会が出現するまでは、theosophy と言えばベーメの教義を示すものであった。
”
https://x.com/MuseeMagica/status/1328846100506189825
”西洋魔術博物館
@MuseeMagica
暦。11月18日(或は17日)はドイツの神秘主義者ヤーコプ・ベーメの命日です。この日の朝、ベーメには不思議な音楽が聞こえていたとのこと。お昼過ぎ、家人に「今何時か」と尋ねて「三時です」と言われ、「まだ早いか。あと三時間ほどだ」と言い、午後六時に息を引き取ったと伝えられています。
画像
午前8:42 · 2020年11月18日”
https://x.com/MuseeMagica/status/957769270762459136
”西洋魔術博物館
@MuseeMagica
雑。そんなわけでせっせと銀器を磨いておるわけですが、磨くという行為と金属系反射光によるヴィジョン体験はベーメの得意とするところ。当方は到底あの域には達しえないのですが、片鱗なりともと思います。図はメルクリウスのカドケス。
画像
午前9:16 · 2018年1月29日”
]
p.221から
二十八 理神論者、無神論者、宗教を愚弄する人間について。
偽善者の対極、すなわち、よく見かける種類の理神論者〔注〕や無神論者、瀆神家(とくしんか)といった人間は、偽善者ほど他人に寛容ではない。キリスト教の真理性、神聖性、必要性について確信を持てぬような不幸な人間は同情に値する。こうした人間には、なくてはならぬ幸福、生と死における力強い慰めが欠けているからである。だが、この人間が、すべき限りでの市民・人間としての義務を忠実に果たし、他人の信仰を惑わさぬのなら、同情以上のもの、愛と尊敬に値する。ところが、頭脳や心情の倒錯や悪意によって宗教を軽蔑する人間となり、あるいは、それをうわべで気取って、至る所で折伏して回り、他の人間が唯一の希望とする、時と永遠における幸福の拠り所となる教えを気の抜けた機知やヴォルテールばりの修辞で公然と嘲笑する――もしこんな人間がいて、自分と同じに考えない人間すべてを迫害し、軽蔑し、誹謗し、偽善者、隠れイエズス会士呼ばわりするのなら、それは邪悪な愚者であり、軽蔑せねばならない。たとえ、この人間が、依然としてきわめて高潔であったとしても同じである。その無駄話に真剣に根拠を挙げて反論しても仕方ないと思われるなら、少なくともその冒瀆的な口を可能なかぎり封ずるがよい。
〔注〕超越的な神は認めるが、創造以後の世界に神が介入することを認めない立場。奇蹟は否定される。ヴォルテールもその一人。
(イエズス会士は悪口だな。クニッゲはヴォルテールが嫌いらしいな。
クニッゲはキリスト教を否定しない。理神論を否定。無神論を否定。
理神論を否定しているが、クニッゲの思想は理性重視で啓蒙主義的系の思想だ)
第二部
p.329から
十七 遊び女との付き合い方
ここで一言、男遊びの好きな女性との交際方法について述べてもよいだろう。
不幸にもこの種の罠に引っかかった男性は、あんな女に近付く前に私の本を読んでおく、などという冷静さを持ち合わせていなかった人であろう。ソロモン王〔注〕は、私よりもはるかに巧みに、このことを警告している。
〔注〕 ソロモンは智者として知られたイスラエル・ユダの王。その博識と機知は「ソロモンの知恵」として知られ、旧約聖書の『箴言』『伝道の書』『雅歌』などの作者に擬せられている。
(メイソンはソロモンを重視する。なので本書でも登場する(笑))
第三部
第一章 身分の高い人、君侯、貴族、財産家との交際について
p.440
三 身分の高い人や財産家には、決して近づかないこと。
どんな場合にも当てはまる普遍的規則をひとつ述べよう。もしも貴方が、軽んぜられたくないのならば、身分の高い人や財産家の所に、自分から近づいて行かないこと。あれこれのお願いをするために、彼らの所に足繫(あししげ)く通う、などということはしない方がよい。そんなことをすれば「また君か」と思われ、貴方の姿を見ただけで、彼らは逃げ出してしまう。むしろ、彼らの方から貴方に会いに来るように仕向けることだ。彼らの前に、あまりに自分の姿を現してはならない。もちろん、貴方の意図するところが何であるかが読みとられてしまってはならない。また、いかにも無理をして姿を現さないでいる、と思われてもならない。
(クニッゲはケツ社員の活動において、できるだけ相手の方から会いに来るようにしてきたんだろうな)
第六章 市民社会における様々な身分、職業の人々との交際
第六章
p.571から
八 ユダヤ人について。および、彼らとの付き合い方。
ユダヤ人に対して我々がとるまったく無責任な軽蔑的態度。彼らが暮す国々の多くで彼らに加えられている圧迫。高利貸し以外に生計をたてる可能性が閉ざされていること。――こうしたことすべてが、彼らを道徳的に劣った者とし、彼らを卑劣な行為や詐欺に誘い込むことに少なからず寄与している。だが、こうした様々な事情にもかかわらず、彼らのなかには、高潔で善意があり、寛大な人間もいるのである。――
これらは、よく知られ、また、よく言われている事である。だが、ここでは、彼らが異なった環境に置かれたらどうなりうるかではなく、また彼ら一人一人がどのような人間なのかではなく、平均的に言って彼らの民族性は現時点ではどう判断せねばならないか、という点を考察することにしたい。
彼らは、利益を得られる所には、至る所に、飽くことなく存在している。
自分の利害がからむことについては、彼らは口が堅い。
ユダヤ人にとって、金銭を手放すことは、極度に困難なことである。
普通のユダヤ人と取り引きする際には、中味(原文ママ)をよく確かめるようお勧めする。
(クニッゲは、ユダヤ人を見下している感じだが、非常に敵対的とまではいかないな。
なのでユダヤ人嫌いの人ではなさそうだ。当時の人の中では、ユダヤ人に好意的な方の人なのだろうな)
第七章 様々な生き方や生業の人間との交際について
p.585から
四 神秘を利用する詐欺師、視霊者、錬金術師の類、および、現代の神秘主義信仰について。
カリオストロやサン・ジェルマンのような連中、また、シュレプファーとその同類から、かの哀れなマシウスに至るまで〔注〕、この種の山師が皆同じ一つの動機で動いていると断言する確信は、私にはない。
霊が見えようが、黄金を造り出せようが、そんなことを言う人間は放っておくがよい。反駁の余地なく明確に反論できるのでなければ、反論せぬがよい。習慣上認められているにすぎない前提に基いた証明では、説得されようという気のある人間しか説得できないからである。また、可能性を根拠として現実性を結論づけたり、道徳的な行為の拠り所を形而上学的な立脚点に求めてはならない。人間が多数の不可視の存在に囲まれている可能性について、論証によって納得することがあったとしても、行為において愚かであってはならない。目に見える生身の人間が、その行為を、現実に周囲に存在する実直な人間の作法に合わせるのではなく、周囲に存在するのかもしれない見えざる社会に合わせるとしたら、それはどう言ったところで、愚行に他ならない。
それゆえ、言葉においてにせよ行為においてにせよ、思弁よりも、有益な結果を生み出す活動の方に力を入れるがよい。そうすれば、神秘家の面々が我々の仲間となることは困難となるだろう。
だが、詐欺師、錬金術師、あるいは視霊者に付け入られて、彼らに一定の期間弄ばれることとなったらどうであろうか。――ああ。私以上にこの様な目にあった人間は果しているだろうか。こうした悪人の正体をついに見破ったなら、他にもいる実直で信じやすい人間に警告するためにも、ためらわず、その欺瞞を公にするがよい。たとえそれがあまりこちらの名誉とならないとしても、そうするのが義務であると考えるがよい。
〔注〕 いずれも、当時の山師、降神術師の類い。
(クニッゲはオカルトに否定的だな。啓蒙思想だもんな)
(第三部)
p.590から
第八章 秘密結社について、および、その成員との交際について
一 秘密結社は無益で有害である。
科学的な世紀たるこの十八世紀が没頭している有害あるいは無害な数多くの戯(ざ)れ事(ごと)の一つに、多種多様な秘密結社の大群がある。今日、どの身分の人間であれ、好奇心や活動への欲求、社交、あるいは知ったかぶりなどの動機で、少くとも一定期間、この種の結社の成員とならなかった者は希であろう。だが、ついに今や、無用で愚かしくもあり、また社会生活にとっても危険でもあるこの種の結社をやめにする時期が到来したのではあるまいか。私は、この種の事には、長すぎるぐらいの期間関わってきた。その経験からすれば、若者は、時間を大切に思うなら、どんな名前のものにせよ、秘密結社の成員にはならない方がよい、と言いたい。こうした結社は、全てが同程度にとは言わないが、いずれも例外なしに無益で危険である。
無益という理由は、まず第一に、我々の時代においては、どんなものにせよ重要な知識の
(ここからp.591)
伝達を秘密にくるむ必要はないからである。キリスト教は、きわめて明快で満足のゆくものであり、古代異教徒の民族宗教まがいの、秘教的解釈や顕教・密教の二元論などは不要である。また、学問においては、最新の発見は、世の福祉のために公表されている。否、専門知識を持つ誰もが吟味し、検証できるように、公表されねばならないし、されるべきなのである。ただし、いまだ暗黒と迷信が支配している幾つかの国々では、来たるべき日を期して待たなければならない。拙速は禁物である。中間の段階を飛び越そうとすると、しばしば、益よりも害がもたらされることとなる。個々人が啓蒙の時代の到来を早めようとしても、何の益も生まれない。またそれは、不可能なことでもある。もし可能であるとしても、それを公然と行うことが義務である。そうすれば、その国や他の国々の理性的な人間は、啓蒙主義者の活動や彼らが売り込もうとする知的商品の価値を判定できるようになる。彼らが説くものが本当に啓蒙なのか、ひょっとしたら彼らは、彼らが非難する相手以上にひどい貨幣を鋳造しているのではないか、ということを判別できるようになる。この点からいっても、彼らが公然と活動することは義務なのである。
第二に、秘密結社は、その有効性から言っても無益である。彼らの大部分は、瑣末な事やつまらない儀式に没頭し、その語る言葉は、様々な解釈が可能な比喩的な言語である。行動の計画は杜撰であり、成員の選択もいいかげんである。そのため、すぐに堕落が始まり、最初のうちこそその組織に一般社会より勝れた点もあったのかもしれないが、やがて、世の人
(ここからp.592)
が嘆くのと同様の、あるいはそれよりもっとひどい欠陥がはびこることとなるのである。何か偉大で有益なことを志すのであれば、一般社会や家庭生活のなかに、その機会――しかもまだ誰も十分に活用したことのない機会を数多く見出せるはずである。国家の認めない特殊で密かな活動の世界を創ることが許されるのは、公認の方途によって出来ることはもはや何も残されていないこと、善を熱心に実現しようとしても克服し難い障害に阻まれていることを証明してからである。善行に神秘的な外皮は無用である。友情は自由意志によるべきだし、秘密の手段によって社交性を促進する必要もない。
だがまた、秘密結社は、社会にとって有害なものでもある。その理由は、以下のようなものである。――隠れて行われることは、何であれ、疑われて当然である。社会を監督する者は、様々な人間が結束して行う活動の目的を知る権利がある。隠されたままであると、そのヴェールに隠れて、高潔な意図や賢明な知恵のなかに危険な計画や有害な思想が入り込んでくることとなる。きわめて美しい外観の陰に時に隠されているこうした危険な意図は、結社の成員ですら、必ずしも全員が知らされているわけではない。そんな苦しみに耐えられるのは、凡庸な人間だけである。ましな人間は、やがてやめてしまうか、破滅するか、あるいは堕落して誤まった方向に向うか、他人を犠牲にして支配権を握るかである。多くの場合、誰も知らない上層部が背後で糸を引いているが、自分が見通せない計画に従って活動せねばならないということは、思慮ある人間にはふさわしくないことである。計画が善いものであり
(ここからp.593)
重要であることを保証する人間を、我々は知ることができないのである。にもかかわらず、この人間に対しての責任は負わなければならない。かといって、彼らがこちらに責任を負ってくれるわけでもない。こちらが責任を負ったのに彼らが何もしてくれなくとも、訴える所もない。堕落した人間や悪人は、これを利用して、知られざる上層部を僭称し、私的な目的のために成員を悪用することとなる。人間誰しも情念を持っているが、それが結社のなかに持ち込まれると、秘密の仮面の陰に隠れて、日の光の下以上の勝手放題の跳梁を始めることにもなる。この種の結社は皆、成員の選択が知らぬ間に杜撰になることによって、こうした堕落に陥ってしまうのである。また、秘密結社には、金も暇も必要である。市民としてのまじめな仕事から外れて怠惰に陥るか、無目的の仕事に忙殺されるかになる。それはやがて、山師や無為の徒の溜まり場となり、ありとあらゆる政治的、宗教的、哲学的妄想の温床となる。坊主臭い党派性が根を張って、様々な害悪をもたらすことにもなる。――そして、最後に言っておきたい。秘密結社は、その成員でない――少くとも同じ党派の成員でない――善良な人間に対する不寛容と不正、策謀や争い、迫害のきっかけを生み出すのである。
以上が、秘密結社に関する私の信念の告白である。こうした様々な欠陥の多くを持たない秘密結社があるとしたら、それもよいだろう。例外もあるということである。だが、私の知る限りでは、これらの内の少くともいくつかの病いを持たない結社はないのである。
(p.593は終わり)
(ここからp.594)
二 秘密結社に関して用心すべきこと。
それゆえ、目下流行のこの愚行には手を出さぬよう、重ねて忠告しておきたい。秘密結社の組織、成員、動静にはできる限り気をとめないことである。彼らの書いた論争の書を読んで時間を空費しないことである。また、不愉快な目に会いたくなければ、この種のテーマを話す時には用心した方がよい。この種の組織の奥底は深く隠されていることが多いから、それについての判断は、肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、口に出さないことである。
三 秘密結社員としての振る舞い方。
だが、誤まった活動欲、知ったかぶり、好奇心、他人からの説得、虚栄心その他の動機にそそのかされて、この種の結社に入ることとなったらどうであろうか。――その時には、同様の愚行や妄想に冒されないよう、同様の党派(セクト)的精神に取り憑(つ)かれないよう、用心するしかない。偽装した悪人の傀儡とならぬよう、彼らの道具とならぬよう用心するがよい。子供ではないのだから、組織の全体についての明瞭な説明をあくまでも要求せねばならない。それが完全に分るまでは、他の人間をその結社に誘ってはならない。謎めかした外観、大げさな約束、人類の幸福のためと称する結構な計画、その意図の見かけだおしの純粋性、神聖性、無私に幻惑されてはならない。むしろ、行動による証しと全体の見通しを示すよう求めるがよい。その際に、まだお前はそれにふさわしくないとか、受けとめるまでに成長してはいないと非難されたなら、上層部が求める規準(原文ママ)が何なのかを説明させるがよい。そして、上層部から一切の虚飾を取り去ってなお残るもののうち、自分と比べて遜色のない価値のものとして何があるのかを、この規準に従って吟味してみるがよい。だが、どんなにもっともらしい理由が述べられようと、会ったこともない上層部に忠誠を誓うなどは論外である。また、どんな言葉にせよ、組織活動において書面に書くものには用心が必要である。誓いその他をして義務を引き受ける際はなおさらである。支払わされた金については、その使途の報告を求めるがよい。――だが、こうした幾重もの用心にもかかわらず、義務を果すのに疲れたなら、あるいは、組織の方から愛想をつかされたなら、争わずにひっそりと脱け出て、以後は二度とその事を話題にせぬことである。そうすれば、どんな迫害も受けずに済むはずである。それでもなお、組織の方がうるさく言ってきたら、他の人々に警告を発するためにも、ためらわずに、その欺瞞や愚かさ、邪悪さを公の場で衆人の前に明らかにするがよい。
[
極めて重要なので、上記の秘密結社の箇所は全文をメモした。
「不愉快な目に会いたくなければ」の「会」は原文ママ。会(原文ママ)って書くと読むのに邪魔だからやめた。「不愉快な目に遭」ではなく「会」は原文準拠だと書いておかないと、私の写し間違いだと思われてしまうかもしれない。上記の秘密結社の箇所は、通常のメモよりもしっかりと誤字がないか確認した。
秘密結社への見解の箇所が、本書で最も読みたかった箇所だ。
インゴルシュタットの一教授(ヴァイスハウプト)に学生扱いされるつもりはないクニッゲは、最終的にボーデの仲介を経て 1784 年7月1日付で正式に啓明結社を脱退した。
クニッゲはその後、秘密結社の有益性を否定したりした。
が、公的宣言したのに、クニッゲは秘密結社と関わり続ける。
『人間交際術』が出版された 1788年に、クニッゲはすでに次なる秘密結社活動の場を求めてカール・フリードリヒ・バールトの「ドイツ同盟」との接触を開始する(出典後述)。
クニッゲは元祖イルミナティを脱会した後に、『人間交際術』で秘密結社を批判したが、秘密結社活動は諦めていない。理想の秘密結社を作りたい情熱はずっとある人だったのだろう。
つまり、『人間交際術』には保身の目的もあるということなので、文字通りに受け取ってはいけないのだろうな。秘密結社叩きには本音と、保身用の個所が混ざっているのだろうな。
「こうした様々な欠陥の多くを持たない秘密結社があるとしたら、それもよいだろう。例外もあるということである。だが、私の知る限りでは、これらの内の少くともいくつかの病いを持たない結社はないのである」なので、病いを持たない結社を諦めてなかったのだろうな。「例外」を諦めてなかったのだろう。
]
(講談社学術文庫版のメモは終わり。ワクワクさんに感謝。
次が、イースト・プレス版『人間交際術』)
イースト・プレス版『人間交際術』
2010年6月12日 第1刷発行
イースト・プレス版『人間交際術』を読むきっかけ↓
https://x.com/uxskf/status/1820103128810967146
”
[画像は
p.110から
宗教心には寛大に接する
多くの信者が大切にしている宗教的儀式や、いくつかの宗派が信仰の実体とみなしている慣習を、人前でこきおろすのも無作法です。人が崇拝しているものは尊重すべきですし、あなたが求める自由なら、仲間が享受するのも認めましょう。私たちが啓蒙と思っているものも、他人の目には暗愚と映っているかもしれません。このことを心に留めておきましょう。たとえ偏見であっても、心の弱い人たちがそれで安らぎを得るなら、寛大な目で見てあげましょう。人から何かを取り上げるなら、それ以上に価値のあるものを与えるべきです。あざけりでは人を屈服させることはできないことを、忘れないでください。
]
(上記の続き:)
パリオリンピックの開会式のことだ。
画像1は
p.70から
人を笑い者にしない
人が集まっている場では、たとえ相手がどんなに欠点だらけの人物であろうと、決して笑い者にしてはいけません。相手が愚鈍な人間であれば、そんな人に皮肉の刃を向けたところで、誰も褒めてはくれません。さらに、万が一相手が思ったほど愚かな人間でなかったら、あなたが物笑いの種にされてしまいます。もし相手が高潔で繊細な心の持ち主だったら、あなたはそんな人を傷つけてしまうことになります。よこしまで執念深い相手だったら、遅かれ早かれ、復讐をしかけてくるでしょう。他人のことをとやかく言っても世間が何も言わないなら、私たちは平気で人前で善良な市民を笑い者にして傷つけることでしょう。そして、人の欠点を暴露して嘲笑の的にして不名誉な思いをさせ、弱い人を落ちこませて野心の炎を消したり、芽を出しかけた才能をつんでしまうことでしょう。
画像2は
p.232から
無神論者
宗教において一般に理神論者(*訳注…理神論とは、神を世界の創造者としては認めるが、人格的存在としては認めず、預言・奇跡・啓示は否定する学説)、無神論者、涜神(とくしん)家と呼ばれる人たちは、その対極にいる熱心な信仰者ほど寛容ではありません。なぜなら、この人たちは本質的な幸福や、生と死についての強力な救いを知らないからです。ただし、彼らが人として、市民としての義務を最大限に果たし、他人の信仰を邪魔しないなら、私たちは同情どころか、敬愛のまなざしを向けなければなりません。しかし、考え方が屈折しているためでなく精神の堕落から涜神家となった人、あるいは宗教を軽視するふりをして人に改宗を説いてまわる人、自分と考え方の違う人はすべて迫害し、軽蔑し、非難し、偽善者の焼印を押す人――こうした下劣な輩は、軽蔑してしかるべきです。
(本書は、読者視点で右側のページに題名があり、左側に文章がある形式。
なので、p.232では「無神論者」とのみ書いている。
文章はp.233に書いている)
]
https://x.com/uxskf/status/1820113601656766926 と続き
”
”
[画像1
p,26から
人の失敗を吹聴しない
人をダシにして自分の評価を上げようという卑劣な魂胆で、他人の欠点を吹聴してはいけません。また、自分が注目を浴びたいがために、人の失敗を暴露するのもやめましょう。
画像2
p.84から
うわさ話を広めない
人のうわさを広めるのは、できるだけ避けましょう。とくに、当人の印象が悪くなるような話はすべきではありませんし、人から聞いたうわさならなおさらです。くだらない作り話である場合が多いですし、人から人へと伝わっていくうちに、誇張されたり削られたりして、元々の話とは違ったものになっていることもよくあります。こうしたうわさを流すと、罪のない立派な人をひどく傷つけることになりますし、何よりも自分が窮地に立たされてしまいます。
画像3
p.82から
軽蔑されないために
会話を面白くしようとして、中傷、あざけり、陰口を交えたり、野次という卑しむべき慣習を使ったりするのはやめておきましょう。こうしたことを喜ぶ人種もたまにはいますが、他人あるいは真実を犠牲にしてまで座を盛り上げようとする人は、最終的には遠ざけられ、軽蔑されます。それは自業自得というものです。情と分別のある人なら、他人の失敗を目にしても何も言いません。悪気のない、ほんのからかいのつもりで口にしたひと言でも、どれほど人を傷つけるかをよくわかっているのです。そんな人は、もっと内容のある有益な会話を切に望んでいて、くだらないことを言い立てる輩には我慢ができません。
画像4
p.114から
人の容姿を小ばかにしない
他人の肉体的、知的、精神的欠陥を話題にしたり、特定の主義主張を小ばかにしたような逸話を紹介したり、ある階級の人々を非難したりする場合は、まず、それによって感情を害したり、その非難やあざけりが自分や自分の親族、友人に向けられたものと感じたりする人が、その場に一人もいないかどうかを確認しなくてはいけません。
人の容姿、体形、顔立ちを嘲笑してはいけません。誰にもそれを変える力は備わっていないのです。
不運にも人目に立つ容姿を持つ人にとって、それが人の嘲笑や驚きの対象となっていると気づくことほど、悲しく、つらく、不快なことはありません。世間を広く知り、さまざまな外見を持つ人々を見てきた人なら、言われるまでもないことでしょうが。
]
[画像1
p.72から
悪い冗談は言わない
たとえ親しい友であっても、にせの情報や下手な冗談などで脅かしたりからかったりして、一瞬でも不快な気分や不安にさせるのはよくありません。この世界には、ただでさえ不愉快で不安に満ちた、気が滅入るような瞬間が多いのですから、現実のものであれ架空のものであれ、わざわざそんな話をして、不快指数をわずかでも上げるのは避けましょう。それが友人としての務めです。また、浮かれた気分で面白おかしく作り話をして、友人につかの間の快楽を与えるのも、分別のない行動です。楽しいはずの社交上の会話に趣を添えるどころか、苦々しいものにしてしまうのは、むごい仕打ちだとさえ言えます。また、みだりに好奇心をかき立てたり、何か言いかけては途中でやめて、相手を不快な気分にさせたりするのも非常識です。最後まで話すつもりがないなら、初めから口をつぐんでいるほうがよほどましです。
画像2
p.116から
苦痛ではなく楽しみを与える
会話の相手に、必要もないのに不愉快なことを思い出させることがないよう気をつけましょう。不謹慎な関心に駆り立てられて、何の援助もできないくせに、相手の経済状態などデリカシーに欠ける質問をしてくる人が結構います。その結果、愉快な気分になろうと思って参加した集まりのなかで、忘れたい問題を思いめぐらすことになってしまいます。話しかけた相手が苦痛や悲しみを強めることなく、むしろ心が休まり、元気づけられるという確信もないのに、こうした話題を持ち出すのは、きわめて無作法で、不謹慎で、思いやりのない行為です。
画像3
p.152から
人は行動によって判断する
人は言葉ではなく、行動によって判断しなさい。観察するのは、相手がそれに気づいていないときにしましょう。
食べ物や飲み物の好みも調べなさい。シンプルな料理をたっぷり食べるのか、それとも味の濃い、手の込んだ料理が好みでしょうか。歩く様子も観察しなさい。一人で歩くのか、それとも誰かの腕にすがって歩くか。まっすぐ歩いているか、それとも連れのほうへよろめいたり、人にぶつかったり、足を踏んづけたりしているか。なぞめいた行動が好きで、よく人を脇へ呼んで、その耳に何ごとかささやいていたりしませんか。その場で検討されたことは、何でも自分が決めないと気がすまない【たち】でしょうか。また、筆跡にもその人の性格がにじみ出るものです。
このように、人を注意深く観察してみるのはいいことです。しかし、こうしたいくつかの特徴だけで、その人の全人格を判断するのは公正とは言えません。
(【 】は傍点の代役)
]
ゆーちゃん
@yamyam113_
おはようございます🌞これは何の書籍ですか!
知りたいです。教えてください〜
さらに表示
午前7:31 · 2024年8月5日
·
152
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
イーストプレスのクニッゲ 人間交際術です
午前7:32 · 2024年8月5日
·
660
件の表示
ーーーー
https://x.com/uxskf/status/1820226478556262641
”ワクワクさん
@uxskf
下にぽちぽち画像載せたのはイーストプレスのクニッゲ人間交際術本
一番読みやすいしまずこれ読むと良いよ
ただ秘密結社関係や宮廷関係が現代ではあまり意味がないってカットされてるから講談社のもあわせてどうぞ
巷の品格本なんか読むよりタメになる
午前7:33 · 2024年8月5日
·
2,762
件の表示”
(講談社学術文庫版よりは読みやすい。ただし、内容が省略されている。秘密結社の個所が省かれている。
本ブログや、私の呟きや、ご支援用記事の読者なら、ケツ社の個所を読みたい人が多そう。
なので、本記事の講談社学術文庫版の解説と、クニッゲの秘密結社についての記述の個所や、講談社学術文庫版とイースト・プレス版の比較の個所を読んで決めたらいいと思う)
https://x.com/uxskf/status/1820226974134259995 と続き
”ワクワクさん
@uxskf
イルミナティ流人間交際術を学ぼうという事で読んでみるのもアリなんじゃないかな
一応言っとくけど怪しい陰謀の要素とか全くないよ
ただのイルミナティ流処世術の本
実際役に立つというかそうだよなという内容も多い
クニッゲが有能なのがよく分かる
午前7:35 · 2024年8月5日
·
2,336
件の表示
これで実際に一気にイルミナティを巨大組織にしちゃったからね
現代でも使えると思うよ
午前7:38 · 2024年8月5日
·
824
件の表示
イルミナティ流女性や友達の付き合い方とか普通に面白い
怒りっぽい、野心家、気が弱いとかのタイプ別の人間への対処法とかもあるよ
午前7:43 · 2024年8月5日
·
905
件の表示
Shiro Usagi
@znTqdOXhnfi4FHw
怒りっぽい人、野心家対処法は面白そうですね
本の名前教えてもらってもいいですか?
午前10:55 · 2024年8月5日
·
113
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
これ
画像
午後4:16 · 2024年8月5日
·
318
件の表示
(イースト・プレス版の人間交際術の表紙の画像)
https://x.com/uxskf/status/1824397770066887155
”ワクワクさん
@uxskf
ブラバッキーのアセンション本やヴァイスハウプトのオカルト批判本より
クニッゲのコミュニケーション本の方が圧倒的に役に立つんだよなぁ笑
午後7:48 · 2024年8月16日
·
1,119
件の表示
”
書籍詳細 - 人間交際術|イースト・プレス
https://www.eastpress.co.jp/goods/detail/9784781603896
”“智恵の贈り物シリーズ”
ヨーロッパで百年以上、読み継がれてきた本書が、あなたの人づきあいを楽しく愉快で負担のないものにすることでしょう。
【著者紹介】
アドルフ・F・V・クニッゲ(Adolph F.V.Knigge(1752-1796))
ドイツの作家。1752年に貴族の父の家に生まれ、19歳でカッセルにあるヘッセン方伯の宮廷に奉職する。ここで君主フリードリヒに認められて、事業経営や農業教会の設立など若くして活躍。ハーナウの宮廷へ移り、1780年には宮廷から身を引く。その後、クニッゲは流行作家として名を馳せる。
著作に『わが生涯のロマン』『魔の城』『ブラウンシュヴァイクへの旅』など。なかでも『人間交際術』は処世術の書としてだけでなく、哲学書としても読み継がれている。森鴎外が本書をもとにして著書『森鴎外の「知恵袋」』を発表するなど、国内外へ強い影響カを誇る。
服部千佳子(はっとり・ちかこ)
同志社大学文学部卒。翻訳家。訳書に『ウィキッド』(ソフトバンククリエイティブ)、『虚妄の帝国の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『リーダーになったら悪口は家のネコに話せ!』(中経 出版)、『毎日をいい気分で生きる小さなノート』(三笠書房)などがある。
”
智恵の贈り物……って元祖イルミナティすぎる(笑)(啓蒙主義なので)。
森鴎外も影響を受けたんだよな、元祖イルミナティのクニッゲに。
イースト・プレス版『人間交際術』
はじめに
p.3
『人間交際術』の原書では、現代人は使わないであろう宮廷での交際術も多分に含んでいました。というのも、これが「あらゆる人間同士の交際についての規則」だからです。本書では現在、不要であると思われるこれらの箇所を削ぎ落し、現代における「あらゆる人間同士の交際についての規則」として編纂しました。
(なのでかなり省略されているから、本書がクニッゲの意見だと受け取るのは危ない)
第1章
人づきあいが楽になる智恵
他人の評価を気にしすぎない
人を信じる
〝おかげ様〟だと考える
自分の苦境を訴えない
成功を見せびらかさない
p,26から
人の失敗を吹聴しない
人をダシにして自分の評価を上げようという卑劣な魂胆で、他人の欠点を吹聴してはいけません。また、自分が注目を浴びたいがために、人の失敗を暴露するのもやめましょう。
目立たないで、相手を立てる
相手の話とのつきあい方
冷静沈着であれ
ときには頭を下げる
人はなるべく頼らない
自立するために欲望を抑える
親切は熟慮のうえで
約束は守る。これさえ守れば尊敬される
自分に厳しくあれ
p.46から
人に関心を持つ
自分に関心を持ってほしいなら、まずあなたが人に関心を持ちなさい、仲間意識を持たず、友情、思いやり、愛情に欠け、自分のことしか考えずに生きている人は、援助してほしいと思うときがきても、誰も手を差し伸べてくれず、自分で何とかするしかありません。
p.48から
もめごとは自分で解決する
個人的なもめごとに、人を巻きこんではいけません。誰かと敵対関係にあるとき、知り合いに自分の味方をしてほしいと頼むのはやめましょう。
こうしたルールの多くは、この古い格言に言い表されています。「絶えず人の立場に立って想像力をはたらかせ、自分の胸にこう尋ねなさい。『もし自分がこんな要求をされたら、こんな扱いを受けたら、こんな面倒を押しつけられたら――こんな場合、人からどんな援助や説明をしてもらったらうれしいだろう』と」
(何でもかんでも自分だけで解決しようとするのは駄目だけどね。上手に人に頼るのも大事だよ)
他人の行動は〝どうでもいいこと〟
信条は曲げない
言動は首尾一貫させる
良心に従う
気分屋にならない
気分屋に深入りしない
人づきあいに〝差〟をつける
自分が完璧だという顔はしない
第2章
自分も周りも愉快になる会話
洗いざらい話さない
p.70から
人を笑い者にしない
人が集まっている場では、たとえ相手がどんなに欠点だらけの人物であろうと、決して笑い者にしてはいけません。相手が愚鈍な人間であれば、そんな人に皮肉の刃を向けたところで、誰も褒めてはくれません。さらに、万が一相手が思ったほど愚かな人間でなかったら、あなたが物笑いの種にされてしまいます。もし相手が高潔で繊細な心の持ち主だったら、あなたはそんな人を傷つけてしまうことになります。よこしまで執念深い相手だったら、遅かれ早かれ、復讐をしかけてくるでしょう。他人のことをとやかく言っても世間が何も言わないなら、私たちは平気で人前で善良な市民を笑い者にして傷つけることでしょう。そして、人の欠点を暴露して嘲笑の的にして不名誉な思いをさせ、弱い人を落ちこませて野心の炎を消したり、芽を出しかけた才能をつんでしまうことでしょう。
p.72から
悪い冗談は言わない
たとえ親しい友であっても、にせの情報や下手な冗談などで脅かしたりからかったりして、一瞬でも不快な気分や不安にさせるのはよくありません。この世界には、ただでさえ不愉快で不安に満ちた、気が滅入るような瞬間が多いのですから、現実のものであれ架空のものであれ、わざわざそんな話をして、不快指数をわずかでも上げるのは避けましょう。それが友人としての務めです。また、浮かれた気分で面白おかしく作り話をして、友人につかの間の快楽を与えるのも、分別のない行動です。楽しいはずの社交上の会話に趣を添えるどころか、苦々しいものにしてしまうのは、むごい仕打ちだとさえ言えます。また、みだりに好奇心をかき立てたり、何か言いかけては途中でやめて、相手を不快な気分にさせたりするのも非常識です。最後まで話すつもりがないなら、初めから口をつぐんでいるほうがよほどましです。
愉快な気分で
穏やかな表情で
気の利かせ方
適切なお世辞
p.82から
軽蔑されないために
会話を面白くしようとして、中傷、あざけり、陰口を交えたり、野次という卑しむべき慣習を使ったりするのはやめておきましょう。こうしたことを喜ぶ人種もたまにはいますが、他人あるいは真実を犠牲にしてまで座を盛り上げようとする人は、最終的には遠ざけられ、軽蔑されます。それは自業自得というものです。情と分別のある人なら、他人の失敗を目にしても何も言いません。悪気のない、ほんのからかいのつもりで口にしたひと言でも、どれほど人を傷つけるかをよくわかっているのです。そんな人は、もっと内容のある有益な会話を切に望んでいて、くだらないことを言い立てる輩には我慢ができません。
p.84から
うわさ話を広めない
人のうわさを広めるのは、できるだけ避けましょう。とくに、当人の印象が悪くなるような話はすべきではありませんし、人から聞いたうわさならなおさらです。くだらない作り話である場合が多いですし、人から人へと伝わっていくうちに、誇張されたり削られたりして、元々の話とは違ったものになっていることもよくあります。こうしたうわさを流すと、罪のない立派な人をひどく傷つけることになりますし、何よりも自分が窮地に立たされてしまいます。
他人の家庭に意見しない
p.88から
反論する際の心得
人の意見に反論したり、非難したりするときは十分注意しなさい。この世界では、ほとんどのことが二つ以上の面を持っているので、先入観を持ってしまうと、賢明な人でも判断力が鈍り、他人の状況を公正に見ることが難しくなります。また、どんなに謙虚に考えても、批判の対象である人より自分のほうが賢明だと思えない限り、分別ある人の行動を軽率に判断しないよう、とくに注意しましょう。
人への批判を口にする前に、「この人はどんな善行をしているのだろう。みなの役に立つ人だろうか」と考えてみるといいでしょう。そして、もし役に立っているなら、勇み足でちょっと失敗をしたくらいは大目に見てあげなさい。どうせ本人以外に被害は及んでいないでしょうし、及んでいたとしても、その場限りの取るに足らないものでしょうから。
[
講談社文庫版だと:
p.102から
二十 非難や反論をするときには慎重に。
非難したり、反論したりする時には、慎重さを失ってはならない。二つの面を持たないような事柄は、この世には少ないのである。先入観は、しばしば、賢明な人間の目を曇らせる。他人の立場になって考慮するということは、きわめて難しいことだ。とりわけ聡明な人間が行なっていることを判断するときには、性急になってはならない。どれほど貴方に謙虚さがあるとしても、性急に判断を下してしまっては、貴方は当の聡明な人間よりも自分の方が賢いと、思い違いをしてしまうかも知れないのである。このような思い込みは、不適当な場合が多い。聡明な人間は、多くの場合、他の人よりも活気がある。不正をゆるさぬ烈しい感情を持ち、大衆の判断を気にすることがない。自分の良心の正しさを証明するとき、何か大きな権威の力を借りようなどとは思わない。いずれにしても、聡明な人については、「あの男は、他人のためになるようなことを何かしているか」と問うてみるだけでよい。彼が他人の役に立つようなことをしているのであれば、少々、情に駆られた行動をとったとしても善行に免じて忘れてやることだ。なぜなら、このような欠点は、ただ単に彼本人にのみ迷惑がかかるという程度のものだろうし、そうでないとしても、せいぜいのところ、すぐに消えてしまうような些細な害悪しかもたらさぬものであるからだ。
他人の善行の動機を、あれやこれやとでしゃばって憶測しようとしてはならない。そのようなことをすれば、ひょっとすると今度は、貴方自身の立派な行為の多くが、疑いの目で見られ、ちっぽけなものと見られるかも知れない。およそ善行というものは、どのような結果をもたらすのかという面で、世間から判断されるものだ。
(なのでかなり省略されていると分かる)
]
p.90から
言葉や知識は小出しにする
長々と退屈な話をして、聞き手をうんざりさせてはいけません。格言や警句を連発するのも、ひと言ひと言を慎重に吟味するのも困りものですが、会話にはある程度の簡明さが必要です。たとえば、少ない言葉で多くを語り、枝葉末節は省略して聞き手の集中をそらさず、また折を見てその部分を取り上げて、面白おかしく話して聞かせる力量こそ、本当の話し上手というものでしょう。
あまり長々としゃべるのはよくありません。話の種がすぐに尽きてしまわないように、言葉や知識は小出しにしましょう。そうすれば、話すべきでないことや、話すつもりではなかったことを、うっかり口に出さないですみます。他のメンバーにもどんどん発言してもらって、会話を和気あいあいとしたものにしましょう。
[
講談社文庫版の対応する箇所だともっと長い。
しかも、題名は、
「二十一 しゃべりすぎないように、また退屈させないように」(p.104)なので題名も原著に忠実ではない。
原著にこのような見出しがあるのかどうかについては、講談社文庫版の解説にて
「一、各項目は、原著本文中において番号だけが与えられていて、項目の表題が示されているのは目次においてのみである。本訳書では、読者の便をはかって、本文中に表題を示した。 」
とあるので、見出し(表題)は原著にもある。
]
話題にすべきこととは
謙虚であれ
慎重さを持って断定する
同じ話を何度もしない
うわっつらで盛り上がらない
決まり文句は控える
質問攻めにしない
反論されても冷静に
話題は場所をわきまえて
p.110から
宗教心には寛大に接する
多くの信者が大切にしている宗教的儀式や、いくつかの宗派が信仰の実体とみなしている慣習を、人前でこきおろすのも無作法です。人が崇拝しているものは尊重すべきですし、あなたが求める自由なら、仲間が享受するのも認めましょう。私たちが啓蒙と思っているものも、他人の目には暗愚と映っているかもしれません。このことを心に留めておきましょう。たとえ偏見であっても、心の弱い人たちがそれで安らぎを得るなら、寛大な目で見てあげましょう。人から何かを取り上げるなら、それ以上に価値のあるものを与えるべきです。あざけりでは人を屈服させることはできないことを、忘れないでください。
宗教的な話題の取り扱い方
p.114から
人の容姿を小ばかにしない
他人の肉体的、知的、精神的欠陥を話題にしたり、特定の主義主張を小ばかにしたような逸話を紹介したり、ある階級の人々を非難したりする場合は、まず、それによって感情を害したり、その非難やあざけりが自分や自分の親族、友人に向けられたものと感じたりする人が、その場に一人もいないかどうかを確認しなくてはいけません。
人の容姿、体形、顔立ちを嘲笑してはいけません。誰にもそれを変える力は備わっていないのです。
不運にも人目に立つ容姿を持つ人にとって、それが人の嘲笑や驚きの対象となっていると気づくことほど、悲しく、つらく、不快なことはありません。世間を広く知り、さまざまな外見を持つ人々を見てきた人なら、言われるまでもないことでしょうが。
p.116から
苦痛ではなく楽しみを与える
会話の相手に、必要もないのに不愉快なことを思い出させることがないよう気をつけましょう。不謹慎な関心に駆り立てられて、何の援助もできないくせに、相手の経済状態などデリカシーに欠ける質問をしてくる人が結構います。その結果、愉快な気分になろうと思って参加した集まりのなかで、忘れたい問題を思いめぐらすことになってしまいます。話しかけた相手が苦痛や悲しみを強めることなく、むしろ心が休まり、元気づけられるという確信もないのに、こうした話題を持ち出すのは、きわめて無作法で、不謹慎で、思いやりのない行為です。
辱めには同調しない
p.120から
口は慎むべき
自分自身や他人の秘密を口外するという軽率な行動が、多大な害悪をもたらしているのは間違いありません。それとは別に、とくに秘密というわけでなくても、口外しないほうがよいこともたくさんあります。話したところで誰の役にも立たず、下手をすると誰かを傷つける可能性があるからです。という訳で、口は慎むべきではあるのですが、いきすぎた秘密主義に堕すのもばかげています。
(元祖イルミナティの秘密結社員でしかも重鎮だったので重みが違うな)
自分をよく研究し、改善する
さりげなく気遣う
相手の話がつまらなかったら
第3章
一歩抜きん出る人づきあいの秘訣
なじみのない雰囲気に自分を合わせる才を持つ
過大な自尊心は捨てる
中心にいようとせず、期待を少なくする
服装は身分相応のものを
「もっと会いたい」と思われるように
他人との間に距離をおく
どんな会話からでも学ぶ
自分より賢明な人とよく話す
手紙を送る
手紙を受け取る
他人による他人の評価はあてにならない
p.152から
人は行動によって判断する
人は言葉ではなく、行動によって判断しなさい。観察するのは、相手がそれに気づいていないときにしましょう。
食べ物や飲み物の好みも調べなさい。シンプルな料理をたっぷり食べるのか、それとも味の濃い、手の込んだ料理が好みでしょうか。歩く様子も観察しなさい。一人で歩くのか、それとも誰かの腕にすがって歩くか。まっすぐ歩いているか、それとも連れのほうへよろめいたり、人にぶつかったり、足を踏んづけたりしているか。なぞめいた行動が好きで、よく人を脇へ呼んで、その耳に何ごとかささやいていたりしませんか。その場で検討されたことは、何でも自分が決めないと気がすまない【たち】でしょうか。また、筆跡にもその人の性格がにじみ出るものです。
このように、人を注意深く観察してみるのはいいことです。しかし、こうしたいくつかの特徴だけで、その人の全人格を判断するのは公正とは言えません。
(【 】は傍点の代役)
p154から
自分自身と対話する
自分自身に対して果たすべき義務は最も重要であり、自分自身との対話は、無用でもなければ、面白味のないものでもありません。自分とのつきあいを軽視し、いつも外をうろついて他人とばかりつきあい、自分から目をそらし、自己を磨こうともせず、それでいて他人の問題には絶えず口を出すというのは、許しがたいことです。
家の外のことばかりにかまけていると、家庭内で居場所がなくなってしまいます。気晴らしばかりしていると、自分の心がわからなくなってしまいます。そうなるとすっかり自負心を失い、たとえ自分と向き合う機会がおとずれたとしてもただ悲嘆にくれるしかありません。自分をおだて、いい気分にさせてくれる仲間としかつきあわない人は、真実の声を避けるようになり、ついには自分の心が発する声にも耳をふさぎます。それでも良心の叱責がつづくと、ありがたい忠告の声をかき消すために、世間の雑踏に逃げこんでしまうのです。
p156から
自分自身を大切にする
あなたにとって最も誠実な友である自分自身を軽んじてはいけません。さもないと、最も必要とするときに、背を向けられてしまいます。世界中の人から見捨てられても自分だけは自分を見捨てるわけにいかないときが、自分との対話だけが慰めになる日がいつかやってくるでしょう。そんなとき自分の心と不仲になっていたら、最後のそして唯一の友である自分からも慰めや援助を一切得られないとしたら、どうするつもりですか?
p.158から
自分自身に誠実であれ
もし自分との対話に慰め、幸福、平安を見出したいと願うなら、他人とつきあうときと同じくらい、自分自身に思慮分別、誠実さ、礼儀、公正さを示しなさい。自分を軽んじて憤慨させたり、落ちこませたり、お世辞を言って心を腐敗させたりしてはいけません。
心と体の健康に気を配る
自分自身を尊敬する
自分の長所を自覚する
p.166から
自分自身が好ましい伴侶となる
自分自身にとって、好ましい伴侶になりなさい。ずっとほったらかしではいけませんが、頭のなかに蓄積した知識に頼ってばかりいるのもよくありません。つねに書物や人から、新しい知識を仕入れましょう。気に入った考えばかり巡らしていると、自分に対しても他人に対しても、きわめて退屈な人間になってしまいます。そして、自分がいつも考えていることと異なる意見を拒絶することに、あっというまに慣れてしまうのです。
自分に対して厳しくする
他人と自分を比べない
第4章
どんな人ともうまくつきあえるコツ
p.174から
尊大な人
尊大な気性の人は対応がきわめて難しく、有効的な社交の場にはまったく不向きです。いつでも中心人物でなければ気がすまず、どんな場合でも同調を求めます。自分が指図しなかったことは、気に入らないだけでなく、破壊できるものは破壊してしまいます。しかし、いったん自分が先頭に立つと、あるいは少なくともそう思いこむと、あくなき情熱を持って事に当たり、途中に立ちはだかる困難をすべて克服します。尊大な人間が二人、同じ目的を達成するために手を組むと、ろくなことにはなりません。内なる激情に駆り立てられ、自分の邪魔をするものはすべてぶち壊すからです。ですから、こうした人が集まる社会で暮らさねばならなくなったとき、どう振る舞えばよいかはすぐわかるでしょう。
p.176から
野心家
野心家の場合も、尊大な人と同じくらい慎重に対応しなければなりません。尊大な人の多くは野心的でもあるのですが、野心的な人がすべて尊大な気性を持っているとは限りません。それで有能な人間だと思われるなら、従属的な役割を演じても満足しますし、屈服することに誇りを感じる場合もあるようです。しかしながら、人からこの弱点を突かれると、手がつけられないほど激怒します。
虚栄心の強い人
傲慢な人
神経質な人
強情な人
けんか腰の人
p.188から
怒りっぽい人
怒りっぽい人は、故意に人に不快感を与えるわけではありません。みずからの激情をコントロールできず、しばしばカッとなって我を忘れ、大切な親友でさえ傷つけてしまうのです。あとで自分の軽率さを悔いても、どうにもなりません。
もし相手に他の長所があって、機嫌を取るだけの価値があるなら、思慮深く話を聞き、穏やかに応対してあげなさい。それが理性を取り戻させる唯一の方法です。ただし、やる気のない冷淡な態度で応対すると、どれほど激しく反駁するよりも、相手の怒りに火を注ぐことになります。馬鹿にされていると思って、相手はさらに逆上するでしょう。
執念深い人
怠惰で無気力な人
社交的ではない人
嫉妬深い人
けちな人、浪費家
恩知らずな人
p.202から
陰謀好きの人
策略や陰謀をめぐらす人間に対しては、つねに率直で寛大な態度でつきあいなさい。そして、自分は策略、陰謀、欺瞞と名のつくものは一切、断固として憎むという意志を言葉と行動で示すのです。あなたによからぬたくらみをしたならどれほど損をすることになるか、思い知らせてやりましょう。
あなたをあざむくようなことがあれば、その不誠実さをいい加減なことですませてはいけません。相手が悪の第一歩を踏み出したところで最大限の憤(いきどお)りをあらわにしましょう。しかし、こうして手を尽くしても、彼らが更正せず、あなたをあざむきつづけるなら、一番いい対処法は、彼らに軽蔑という罰を与え、完全に改心するまでその言動の一切を信用しないと伝えることです。ただし、いったん策略をめぐらせたり、ひねくれた方法で人とつきあったりする習性が身についてしまった人が、まっとうな道に戻ってくることはまずありません。
ここで述べたルールは、うそつきとのつきあい方にも当てはまります。
(元祖イルミナティの重鎮だった人が言うと重みがある)
p.204から
ほら吹き
ほら吹きは、作り話をしたり、事実を誇張したりしますが、それはひとえに自分をよく見せたい、人から注目され評価されたいという思いからです。そして、真実を犠牲にしてでも、出来事や逸話や文章を、装飾したり誇張したりする習慣がいったん身につくと、自分のほらや自慢話を自分で信じこみ、すべてのことを拡大鏡を通して見るようになります。
あまりに誇張が過ぎるようであれば、ささいなほころびを捕まえて質問攻めにし、相手が自分で張った網に自分でかかるように仕向けましょう。すると、相手はにっちもさっちもいかなくなり、赤面するしかありません。あるいは、相手がほら話をするたびに、さらに輪をかけたこっけいなほら話を返して、そんな話を真に受けるほどバカではないとわからせてやるか、相手がほら話をはじめたら、さっさと会話を切り上げるのもいいでしょう。そういうことが度重なると、相手も気をつけるようになるはずです。
厚かましい人
悪党
小心者
軽率でおしゃべりな人
詮索好きな人
注意力が散漫な人
変人
気まぐれな人
p.222から
気が弱い人
性格はいいのに気が弱い人とつきあう場合、その人の周りには弱い者いじめをせず、意地悪な行為を評価しない、善意の人々が集まるように気を配りましょう。
何か頼まれたら、面と向かって断ることができない人がいます。また、あまりに人がいいために、誰でも信用して損をする人、一見誠実で親切そうな人なら誰かれかまわず真の友だと思いこむ人、あるいは、当然要求していい便宜が得られなくなるのに、何ごとも人に要求できない人がいます。
弱い者いじめはしてはなりません。要求する権利もないのに、気の弱い人から利益や贈り物や援助を取り上げてはいけません。また、他人が弱い者いじめをしないように気を配りなさい。臆病な人を励まし、力を貸してあげなさい。気が弱くて自分の権利を主張できない人の代弁者になってあげなさい。そういう人が助けを必要としていれば、いつでも応じてあげましょう。
皮肉屋
悪習にそまっている人
熱狂のうちにある人
偽善者
p.232から
無神論者
宗教において一般に理神論者(*訳注…理神論とは、神を世界の創造者としては認めるが、人格的存在としては認めず、預言・奇跡・啓示は否定する学説)、無神論者、涜神(とくしん)家と呼ばれる人たちは、その対極にいる熱心な信仰者ほど寛容ではありません。なぜなら、この人たちは本質的な幸福や、生と死についての強力な救いを知らないからです。ただし、彼らが人として、市民としての義務を最大限に果たし、他人の信仰を邪魔しないなら、私たちは同情どころか、敬愛のまなざしを向けなければなりません。しかし、考え方が屈折しているためでなく精神の堕落から涜神家となった人、あるいは宗教を軽視するふりをして人に改宗を説いてまわる人、自分と考え方の違う人はすべて迫害し、軽蔑し、非難し、偽善者の焼印を押す人――こうした下劣な輩は、軽蔑してしかるべきです。
(本書は、読者視点で右側のページに題名があり、左側に文章がある形式。
なので、p.232では「無神論者」とのみ書いている。
文章はp.233に書いている)
心を病む人
第5章
友人や家族、隣人、異性とのつきあい方
さまざまな世代の人とつきあう
無理して若づくりしない
老人を敬う
子供とのつきあい方
結婚相手は慎重に選ぶ
結婚相手とは価値観が違ってもいい
愛されるためにする努力
浮気されないために
浮気をしないために
相手の心を独占しない
夫と妻、どちらが裕福なほうがよいか
男女間の溝を埋める
恋人のことしか頭にない人
恋の喜びは口にしない
安易に結婚の約束はしない
離婚について
健康体
p.272から
服装で異性への印象は変わる
もう一つ言っておきたいのは、清潔で趣味のよい服装は女性に気に入られるための重要な要素だということです。女性たちはこの項目における手抜きをなかなか見逃してはくれません。
p.274から
女性を褒めるなら
自分には優れた才能があると自負している女性の前で、同じ才能を持つ他の女性をあまり褒めてはいけません。ライバル視している場合はなおさらです。
美貌、趣味、才能、その他何であれ、自分の長所を意識し、注目されたがっている人は、自分だけが称賛されたいという願望を持っていて、しかも、女性はとくにその傾向が強いです。
また、女性と話をしているとき、本人の子供であれ他人であれ、誰かに似ていると感じても、それを口にしてはいけません。
(男性も当てはまる内容だ。性別はあまり関係ないと思う。クニッゲが生きていた頃の、今でいうドイツ地域の女性は上記の傾向だったのかもしれない)
女性に花を
p.278から
秘密をあえて打ち明ける
女性の際立った特徴の一つに、好奇心が強いことがあります。女性とつきあうときはこれを念頭におき、必要に応じて好奇心をかきたて、楽しませ、満たしてあげるといいでしょう。女性の好奇心の強さは、まったく驚くばかりです。また、悪意や妬みからではないにしろ、他人の秘密を探ったり、隣人の行動を詮索したいという願望を持つ人も多いようです。チェスターフィールド卿(*訳注…一七世紀のイギリスの政治家・著述家)はこう言っています。「女性に取り入りたいと思うなら、秘密の一つも打ち明けるといい」。
(元祖イルミナティの重鎮だった人が言うと重みが違うな。
重大な秘密ではなく、漏れても別に良い秘密を打ち明ける方が良いだろうな)
勝ちを譲る
女性は本心を隠す
幼なじみ
友人は多くなくていい
友に敬意を払う
友人には不運を話さない
友人を励ます
偽装のないつきあい
友の友情を喜ぶ
p.298から
好意を押しつけない
必死になって人に友情を求めたり、いい人だと思ったら誰かれなしに好意を押しつけたりするのはよくありません。押しつけがましい態度を見せたら、相手の疑念を招くだけです。誠実さと分別が示す道をもくもくと歩み、慈悲深く思いやりのある心を持っていれば、人が放っておくはずがありません。遅かれ早かれ、その内面的な価値をわかってくれる、波長の合う友と出会うことができるでしょう。
友人がいない人
p.302から
家族間の誤解はすぐ解決する
同じ家に住んでいる人との間に誤解が生じたときは、すみやかに解決に向けて努力しなさい。分別のある人にとって、ひそかに反感を抱いている人と同じ屋根の下に暮らさねばならないことほど、苦痛なことはありません。
酔っぱらいとのつきあい
p.306から
アドバイスをする際に
誰かがあなたにアドバイスを求めてきたら、率直な意見を言っていいものかどうか、あるいは相手は本気であなたの意見を求めているのかどうか、よく見きわめないといけません。もし、すでに心を決めているくせにあなたの意見を求めたり、ただお世辞や褒め言葉がほしくて相談している場合は、きっぱり断るに越したことはありません。相談に乗ったためによけいな悩みを抱えこみたくないなら、あるいは恩を仇で返すような目に合いたくないなら、周囲の人々のことを十分に知っておく必要があります。
(「目に合い」は原文ママ。
クニッゲ存命の頃にも、すでに心を決めているくせに助言を求める人っていたんだね)
身分の高い人、金持ちについて
身分の高い人、金持ちとのつきあい
権力者のもとへ押しかけない
狭く厳しい道をいけ
能力を見せびらかさない
ふさわしい扱いを
嫌なことはきっぱり断る
威厳を保て
本とのつきあい方
[
イースト・プレス版『人間交際術』の備忘録は以上だ。
こちらの方が分かりやすい。が、講談社文庫版の方をお勧めする。本ブログの読者なら、クニッゲとケツ社の関係についての解説と、クニッゲ自身によるケツ社への言及に興味をお持ちだろうからだ。謀議追及的にも重要な箇所だから読んでおいた方が良いよ。
犬飼孝夫 INUKAI Takao
@takaoffice
「順風満帆なときも、それをあまり声高に話してはいけません。成功、富、才能を見せびらかすのはやめましょう。自分より優位にたっている人を、文句も言わず、嫉みもせずに受けいられる人はまずいません」 -- ドイツの作家:アドルフ・F・V・クニッゲ『人間交際術 (智恵の贈り物)』
さらに表示
午後1:41 · 2010年6月28日
犬飼孝夫 INUKAI Takao
@takaoffice
「人は相手が望んでいない親切や、自分が与えることができない奉仕なら大安売りするものです。浪費家は金銭を、能なしは助言を与えたがります」 -- ドイツの作家:アドルフ・F・V・クニッゲ『人間交際術 (智恵の贈り物)』
さらに表示
午後1:43 · 2010年6月28日
犬飼孝夫 INUKAI Takao
@takaoffice
「仲間の目にはあまりよくできた人だと写らないよう気をつけなさい。彼らはあなたに多くを求めるようになり、たった一度要求を断ったなら、たちまちそれまでに受けた数え切れない恩を忘れてしまうでしょう」 -- ドイツの作家:アドルフ・F・V・クニッゲ『人間交際術 (智恵の贈り物)』
さらに表示
午後1:42 · 2010年6月28日
nakai
@nnakai
アドルフ・F・V・クニッゲ「人間交際術」を読んでいるけれど、200年以上前に書かれた本なのに、一切古びていない…というか人間って全然進歩しないね。読んでいて感じたのは、「これ四コマ漫画付きで出したら売れるんじゃないか?」もしくは「もし女子高生が、うにゃうにゃ〜」なタイトルで。
午後9:07 · 2011年2月27日
ファウスト
@JAPANSHINEWORLD
副島隆彦『本当は恐ろしいアメリカの思想と歴史』より
この秘密結社には、ヴァイスハウプト自身の他に、カール・アウグスト大公(ザクセン・ワイマール大公、ゲーテを尊敬した庇護者)、ゲーテ、ヘルダー、アドルフ・クニッゲ男爵たちがいた。極めて質の高い知識人たちの思想運動である。
午後6:52 · 2020年11月20日
たけ/りり/Lilyes
@Lilyes_take
“しかしながら、人は相手が望んでいない親切や、自分が与えることができない奉仕なら大安売りするものです。浪費家は金銭を、能なしは助言を与えたがります。 ” by アドルフ F.V. クニッゲ
さらに表示
午後0:32 · 2010年6月27日
]
森鷗外についての軽い考察と、クニッゲについて
ワクワクさん
@uxskf
森鴎外と言えばクニッゲ
智恵袋
さらに表示
午後8:59 · 2023年11月2日
·
1,135
件の表示
MitNak
@Mit3279
詳しく聞きたいです。ちょうど医学者としての鴎外を調べてるので。ちなみにこの男は💉の狂信者です。
午後9:04 · 2023年11月2日
·
310
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/department/037002/Departmental%20Bulletin%20Paper/p/21/item/45015
ここが詳しいかと
イルミナティの重要人物のクニッゲを森鴎外が翻訳したりしてたって話ですね
午後9:06 · 2023年11月2日
·
430
件の表示
[
森鴎外って西周と親戚って時点で怪しいよね。この名前がまさに「西」をあまねくせんみたいな名前通りに、日本語を誤訳で破壊し続けている。目イソンってマジ迷惑だな。
2人とも津和野人脈だよ。
島根の津和野=山陰の小京都。
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)の出身地。玉松操(元・真言宗醍醐寺僧。岩倉具視の腹心)も大国隆正門下。
リンク先は、
「お探しのページを表示できません
リクエストされたページが見つかりませんでした。
URLが間違っているか、ページが削除されています。」
なのでリンクを張りなおした↓
水内透
山陰地域研究(伝統文化)第三号 一九九五年三月
森鴎外研究 アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鴎外の『智恵袋』との関連において―
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/45015
からダウンロードして下さい。
]
山陰地域研究(伝統文化)第一一号 一九九五年三月
水 内 透
森鷗外研究 アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において―
”
鷗外のドイツ三部作の一つ『うたかたの記』の中に、女主人公マリイが女家庭教師の蔵書を借りて、独学で教養を身につけたと語るくだりがあり、そこに『クニッゲが交際法』の名が出て来る。いきなり私事で恐縮だが、筆者がかつてドイツの学生寮で暮していた時、同室のドイツ人学生に、君は本をよく買うようだが、ドイツの家庭で聖書の次に最も多く置かれている本が何か知っているか、と聞かれたことがある。その時初めて上記の『人との交際について』(Über den Umgang mit Menschen 1788)の名を聞いた。その時彼が皮肉っぽくニヤニヤしながら、ただしまた最も読まれない本だが、とつけ加えたのも記憶している。彼の説明が事実なのかどうかは判らない。というのが実はその後数人のドイツ人に尋ねてみて、私は持っていないが、そう言われている、という答えしか得ていないからである。
この時は実物を見たわけではなかったし、何となく俗流警世家の書物だろうという印象で、そのまま打ち捨ててしまったのだが、その後『うたかたの記』を読んだ時にクニッゲの名を見出して、ハタとその時の記憶がよみがえった。そして何かの折に、或るドイツ人の口から出た冗談から、この名が今では普通名詞化して(Der Knigge)、一般に礼儀作法の書を意味することを知ったのである。そして更に後に、鷗外の『智恵袋』の講談社学術文庫版(1)に付せられた小堀桂一郎氏の解説で、同氏が筆者と同じような経験をしていること、またどういうわけか鷗外が同書を翻案であると断りながら、原典の作者名をどこにも挙げていないために、長い間、創作と同じような扱いを受けていたこと、だが実は原典がこのクニッゲであることを同氏が突き止めた経過などを読んだ。
鷗外はこの他に同じような書物として『心頭語』『慧語』も書いている。この後者の原典はスペインのイエズス会士バルタザール・グラシアンで、こちらについては鷗外は、日本でも厭世哲学家として有名なショーペンハウエルのドイツ語訳を利用したのだが、また最近、直接スペイン語原典から日本語に翻訳されてもいて(2)、我が国でも知る人ぞ知るといったところであろう。それに対して、クニッゲの方は現在でも、小堀氏の指摘の如く、ドイツ文学史にその名を見出すことも希だし、まして知る人はほとんどない。
そこでクニッゲについては、先に挙げた小堀氏の解説が今のところ唯一の、まとまった紹介ということになる。しかし啓蒙主義思潮を基軸に据え、その系譜に彼を位置づけた説明は明快なのだが、恐らく頁数の限界から、ささやかで、何よりクニッゲの生涯に大きく影響したフリーメーソンに全く触れていないのは、やはり片手落ちではないかと思われる。そこでこれに少々補足を加えてみたい、というのが本稿の意図である。
二百年以上に亘って人気を保っているとはいえ、唯一『交際法』によってのみ知られ、しかも前記のように敬して遠去けられている作家だから、参考文献は少ない。その上、大部分は前世紀、あるいは今世紀の始めに発行されているから手に入れ難いのだが、ただ最近ペーター・ケーディングによる『アードルフ・フォン・クニッゲ―或る自由な紳士との出会い』(一九九一)(3)が出版された。筆者が主として依拠するのはこの書で、その巻末の文献表に「クニッゲ男爵は本当に死んだのだろうか?アードルフ・クニッゲ男爵生誕百二十五年記念展覧会」の記載があるから、今でも関心を寄せている人が相当いるものと推測される。作品集の方は、全二十四巻の全集が一九七八年よりサウル社から出版されて、昨年完了したらしく、(4)また十巻の選集が一九九一年にファッケルトレーガー社から刊行され始
(5)
め、これまでに六巻が出ている。恐らく鷗外の利用した『交際法』のレクラム版も健在である。(6) 他に、筆者の知る限り、これまで日本ではほとんど書かれたことのないフリーメーソンに関する文献が、余り詳細ではないが、最近数点出版されていて、(7) これにより特にクニッゲが関係した啓明結社について、ある程度のまとまったイメージを得ることが出来る。つまり啓蒙の精神こそが人間を幸福にすると信じて疑わぬまま、四十三才の若さで世を去った宮廷人・作家の生涯を形成する太い軸がフリーメーソンとしての活躍であり、脱会後もその影がずっと尾を引いて、フランス革命後の上流階級に属する人々の不安と疑心暗鬼の中で、逮捕命令が出されたものの、実は
死によって危うくそれを免れたといういきさつがあり、彼の果たした役割の重要性を保証するであろう。
クニッゲ、正式には(Adolph Franz Ludwig Friedrich von Knigge)は、ハノーファーからほんの数キロのブレーデンベック(Bredenbeck)で一七五二年誕生、ゲーテより五才年長で、兄弟は姉が一人だった。家系は代々高級官吏で、ハノーファー選帝公国で
最も名門の一族であり、父親は0ずゆ昏曾又§言言ユエ0週Φ二n三巽昇
だったというから、現在の検事のような役職であろうか。だからその息子のアードルフは何不自由ない環境で育てられ、貴公子殿金円工豊〕仁臭円)と呼ばれていた。むろん家庭教師がつけられ、少年時代には虚弱な体質で、気紛れ、傷つきやすい性格だったという。将来は官吏に、と期待していた父親の目からすると、余り才気のある息子とは映らなかったようで、可愛がってはもらえなかったらしい。
しかし息子は父を尊敬し、父の寵愛を得たいと望んだ。特に父親がフリーメーソンのフリードリッヒ・ロッジの親方であったことに非常に関心を持っていたようである。彼の後年のフリーメーソンヘの熱意は明らかにこれに起因するから、ここでそれについて少々触れておこう。
十八世紀は啓蒙思潮の色濃い時代として知られるが、「理性は神様とその聖者たち全てを瑚笑しながら表口から追い出したが、同時に
(8)
悪魔とその一味をひそかに裏口から再び招き入れる」ことになって、霊魂の呼び出し術とか錬金術、神秘めかした秘密結社の活発な時代でもあった。フリーメーソンもその一つで、ゲーテ、レッシング、ヘルダー、あるいはモーツァルトらが会員だったことは有名で、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』に登場する「塔の結社」 が、あるいはモーツァルトのオペラ『魔笛』の構成がフリーメーソンをモデルとすることもよく知られている。
とはいえ、フリーメーソンとは一体何か、という問いに一義的に答えるのは困難である。何故ならこの結社は元来明確な思想体系
を持っていたわけではなく、社交クラブ的要素を基調として、啓蒙主義、理神論・科学主義的で、同時に神秘主義的傾向をも帯びつつ、そこに集まる人物たちの顔ぶれによって、ロッジの思想と性格が決定されたといってよいからである。いわゆる近代フリーメーソンが一七一七年六月二十四日にロンドンで創立を見たことは歴史的に著名な事実なのだが、それはそれまでに存在した四つのロッジ(Freimaurerloge)を統括する機関としてグランドロッジを発足させた日付なのであって、その各々のロッジには前史がある。つまりフリーメーソンの発生起源に関しては様々な説があって、中世の
ギルド
石工職人組合説(中世における大聖堂修道院等の建築は数十年、数百年に亘る年月を要する場合が多く、職人のギルドが構成され、親方と呼ばれる指揮者のもとに作業を行った。その集合所がロッジ(Loge)と呼ばれ、職業上の秘密伝達、あるいは相互扶助を行う場所でもあった)、あるいは聖堂騎士団説(9)(中世十字軍の遠征に際して巡礼者の保護を目的として結成され、長年月活躍し続けて、巨大な組織にまで発達したが、一三三四年、最後の大総長ジャツク・ド・モレーが処刑されて、崩壊した。その残党がスコットランドに逃れ、組織を再編したといわれているが、それがフリーメーソンの母体である)、あるいは薔薇十字団説(10)(ルネッサンス時代に存在したといわれる神秘主義的結社だが、実際には存在していなかったのだ、という説もある)等々十数説あるが、いずれも決定的な根拠を欠いでいる。しかしその各説を信ずる会員がそれに合わせて、性格づけ、あるいは色づけを行う傾向があり、人集めの口実に使われもした。
彼らの組織は後には細かく彩しい段階に別れるが、基本的には徒弟(Lehrling)、職人、(Geselle)親方(Meister)の三段階があり、それぞれの段階で高貴な知識を得て昇格してゆくものとされている。しかしこの知識の具体的内容については、どこにも記載されていない。それはロッジ内での技(わざ)を通して、全人格的に悟られるものということになっていて、この技は、会員以外には秘密とされ
ているからである。この秘密性は思想的内容のみならず、組織その他にも見られるフリーメーソンの大きな特色だが、口の悪い研究家の言い方を借りれば、十八世紀の人間は「秘密をただ秘密そのもののために求めたのだ。彼らは「無」の回りに無数のヴェールを幾重にも巻き付けた後このヴェールを突き破ろうと、むきになって努めたのである。」(11)という面も否定し難いであろう。
イギリスに発生したフリーメーソンは、急速にヨーロッパの他の国々に入り込んで行く。ドイツに最初のロッジが創設されたのは一
七三七年で、ハンブルク、マンハイム、ライプチッヒ等の各都市に広がって行き、ほぼ啓蒙主義と同義の脈絡で理解されるようになっていた。だから啓蒙君主の代表であるプロイセンのフリードリッヒ大王は、はやくも一七三八年にブラウンシユヴァイクで加入して、
一七四四年にはグランドロッジ「三つの地球」を創設している。その著作で有名なのはレッシングで、『エルンストとファルク』で、フ
リーメーソンを主題として取り上げ、寛容の精神を説いている。
ところでクニッゲに最も関係が深いのは啓明会(Der Illuminatenorden)なのだが、これはもっと後のことなので、暫くその成人期を追って行こう。
父親のもとには様々な人が出入りしたが、特に幼いクニッゲにとっては、あらゆる国々でフリーメーソンが兄弟として結び合って、
人間性と人類の完成、そしてまたかつてのソロモンの寺院建築の時のように、、永遠の調和に定められた世界の完成のために働くという思想が非常に魅力的だったらしい。彼もその一員となり、賢者の石とか、
エリツクシーレ
生命の霊液とか、または秘密の心理について知りたいと願ったのである。父親は時折、人と共に錬金術まがいのこともやっていたらしく、一層、彼の好奇心をそそったようである。
母親(Freiin Knigge)の早期の死(一七三六年十一才)も、父と息子の関係に変化はもたらさなかった。しかし父の生活のおかげで、
社交性は身につけていたようである。そしてこの頃の貴族の子弟に通常であったヨーロッパ旅行をするには若すぎるとして、父は息子をコペンハーゲンへの旅行に連れて行き、そこで宮廷の華やかな生活をかいま見せたりした。七年戦争の影響をものともしない、全く優雅な生活だった。
だが母の死後三年、クニッゲ十四才の一七七六年に、この優雅な生活も突如として崩壕以後の彼につきまとう苦労が始まる。父親までもが死んだのである。死後判明したところでは、恐らく錬金術の失敗で多額の借金が残っていた。そこで荘園は差し押さえられ、
未^年の息子には、年^五百ターラーが支^されるだけになった。
以後彼の生涯をつらぬく三つの願望の一つがこの時点に始まる。
つまりこの荘園を取り返したいという願望である。結局、達成され
ないままに終るのだが。
一夜にして彼の環境は急変したわけだが、この時彼は父親が仕事熱心でも、誠実でも、家族思いでもないことを知った。そこで息子
の生き方は恐らく意識的に対照的な性格を帯びることになる。
当座は内閣秘書官のもとに預けられた彼は、やがて一七六九年
ゲッチンゲン大学の法学部に入学後見人の要請で、債権者たちが
百五十ターラー増加してくれた。ゲッチンゲン大学は英国王にして
ブラウンシユヴァイク・りユーネブルク選帝公であるジョージⅡ世
の一七三七年創立にょる、当時は最も新しい大学で、寛容なイギリ
スの気風の支配する、つまり例えばプロイセンのハレ大学で哲学者のヴォルフが追放されたような、異端を中傷したりする空気のない大学だった。また同じ中部ドイツのイエーナ大学では、学生の放縦な気風甚だしく、市民との敵対関係が有名だったのに対して、非常に穏やかな雰囲気の支配する大学でもあった。(12)
クニッゲは講義にはきちんと出席したが、ただ熱心に法学を勉強したというわけでもなかったようである。むしろ自由を満喫し、貴
族の子弟との交際を楽しみ、学生団体「協調と沈黙」の言貝となっ
ている。この大学は上記のように、当時としては寛大な気風の支配
する所だったが、それでも実はその三年前峡すべての学生団体に
禁止令が出て、解散させられていた。しかし逆にそれだけ秘密の結
社の魅力を高めることになったらしく、後年の結社での活動の基礎
をここで養ったことになる。むろん彼にも当時の学生らしい、騒ぎ
回る愚行の時代もあったが、ただこの頃ようやく時代の波に、即ち、
啓蒙思潮フマニスムス、寛容の精神等の洗礼を受けたことを特記
しなくてはなるまい。ジャン・ジャック・ルソーの一者作を宗教的啓示のように受け止め、教会で語られる声高な説教よりも、自然の素
朴と清純を信じ始めたのである。この頃後にゲッティンゲン森林同
盟と文学史に記載されることになるへルティーやミユラーが同大学
で神学を学んでいたのだが、全く彼らには近づいていない。ひたす
ら勉学、結社と愚行に明け暮れたのであろう。彼には結社が最も居
心地の好い場所であったらしい。真剣に会員の行動を律し、人類への奉仕の理念を抱いて、組織の強化を説いたから、間もなく彼は人の尊敬を集め、会長となった。
しかしやがて学業を終わる日がやって来る。一七七一年の初め、
ヘッセンの大臣アルトハウゼンと結婚している叔母をカッセルに訪
問した折に気に入られた彼は、ヘッセン方伯に職を求めるよう勧め
られる。初めは学生であるというだけで疑いの眼を以って迎えられ
たのだが、如何にも宮廷人に生まれついたような如才のなさが、こ
のいわば入社試験に合格させた。そこで一七七二年、カッセルの
レジヂンツ アツセソール
居城に試補として出入りする身となった。二十才であった。以
来その宮廷人としての天性にもかかわらず、不思議なことに、彼は各地を転々とする運命を辿った。だから生涯をつらぬく願望の二
番目は、安定した宮廷人の勤め口を見出だすこととなるのだが、その第一歩をこのへッセンーカッセルで踏み出したのである。
功名心に温れた青年貴族にとって、この町は合っているように思われた。この首都を小パリに変えようという考えにとりつかれてい
た領主の方伯フリードリッⅡ世(1720-85)は、七年戦争の終結以来町並みの整備に力を入れ、町に華やかさを生み出すために、
市民の住宅建設に援助金を出した。ロココ様式の最盛期だった。ルイ十五世を尊敬してやまない方伯は、フランス語フランス的な華麗さとか、フランス文化を盲目的に偏愛して、当人の身は小国にあっても、精神的には大きな世界に生きている、と誇った。そしてそのためカトリックに改宗すらしたのである。(一七四九)そしてまた、
その派手好みから芸術や学問の支援者であったばかりでなく、国の経済の向上にも並々ならぬ熱意を示した。この町は元来羊毛産業が盛んだったが、それを更にビロードやサージ、フランネル等の織物、あるいは帽子、靴下等に製品化して輸出を促進した。その他手袋革製口叩、銅、真録等の金属製品も世に知られるようになっていたが、中でも磁器製品に大きな希望がかけられていた。
ただ白取近再婚したばかりの、はるかに若い妻フィリッピーネは
すでに結婚前から、行状に不身持ちの峰があった。とはいえ、この世界に入ったばかりの若者にとっては、このような話しに巻き込まれるのは危険だから、身を乗り出さない方がよいと思ったのは当然である。後に「気軽に人の噂を、特に誰かにマイナスのイメージを負わせるような話を、単なる人聞きに基づいてするな。そういう話はしばしば全く根拠のないものか、多くの手を経て、少なくとも誇張され、こま切れにされているものだ。」(交際法十八)と記すように。
宮廷のわざとらしい雰囲気、気取った振る錘いやら言葉使いなどには、慣れるより仕方がなく、クニッゲはその中で異質なものを感じつつも、努めて気にしないよう心掛けた。その上、宮廷では実際に有能である必要はなく、一局位者の寵愛を得れぱよいのだということが飲み込めて来た。そして孤独を感じながらも、功名心に濫れた
この若者は、次第に目立ち始め、精神の敏活さで周囲に一目置かれるようになった。
例えばカッセルの町をフランス風に整備するには無論金が必要だったから、先に述べたように、様々な新しい産業が開拓され、輸
出もされて一{疋の成果を挙げていたが、当時流行し始めていたコー
ヒーは事情が逆で、輸入がどこでも増大し、諸侯はこれを抑制する
のに躍起になっていた。カッセルでは遂には健康にょくないとの口
実で一七七三年に禁止令が出されたが、余り効果はなかった。これ
をクニッゲは、その頃プロイセンとブラウンシユヴァイクで発見さ
れたチコリ(N-n亘ゆ巳に代えることを提案し、その栽培を力説した。更にまた気泡パイプをトルコやウィーンから輸入せず、当地で
製造せよ、とも説いた。こういう積極性が領主の目に留まり始めた
のである。
時とともにクニッゲはこの世界に適合し始めた。罪のない冗談で貴婦人を笑わせ、気に入られるようにもなった。伯爵のみならず、
伯爵夫人の受けもよかったという事実は、彼の外交的性格の天性を証明するものであろう。何故なら、すでにその頃領主夫妻の仲は冷
え始めていて、宮廷内の人間は厭応なく、この両派のどちらかに属
するという状況だったからである。そして夫人はクニッゲを夫の側
の情報の探り役として利用した。彼はこれを巧みにやってのけはし
たが、むろん面白いものではなかった。しかし彼は女官たちの一座では常にふざけ、からかいの種を見出して楽しむことが出来た。そ
の中でへンリエッテ・フォン・バウム (工含二ゆ牙ぐ0=
則郡§畜今)は特別に美しくはなかったが、少々素朴なところがあっ
て、からかい易かった。宮廷の人間に特徴的な、生半可な教養と自
惚れ、虚栄心が読み取れたからである。
今や彼は宮廷生活を享受し、義務をも果していた。それなりの自
由もあり、物質的生活にも不自由はなく、君主の覚えも目出度かっ
た。それにもかかわらず、いつしかそうした生活の中で、いつもあ) )
し し
る種の不満足感が残るようになった。それはいつも「人間にはより
高次の使命がある筈だ、という大学時代の教えを思い出させたのだ
それがどういうものなのか、彼には漠然とした予感で掴むしか゛>、
力なかった。実^に^み出すには^りにも范漠としていた。そうなる
と浮かび上がってくるのは、父親の姿から知らされた、あの結社、
つまりフリーメ】ソンの存在だった。その言貝となれぱ、自分の求める意味深い活動のイメージが明瞭な輪郭を帯びるはずだった。そこでそれに^入出来る年^になることを、彼はひたすら待つようになったのである。
そうして一七七三年、遂に彼はフェルディナント・フォン・ブラウンシユヴァイク公のもとに赴き、受け入れてくれるよう頼み込んだ。フェルディナント公はその前年に「厳しい戒律の儀礼」(Strikte Observanz)のグランドマスター(Großmeister)に選ばれて、会そのものに栄光を与えたぱかりであった。
「厳しい戒律の儀礼」とは、先にも述べた聖堂騎士団後裔説を強く主張する派の一つで、ヨーロッパのほぽ全体にフリーメーソンが普及し始めた頃ラウジッツ出身のフント男爵(Karl Gotthelf von Hund)がパリで聖堂騎士団が密かに存続している事実を知った、と主張したことに始まる。ドイツへ帰国すると、
スペリオレス・インコグニティ
未知の上位者
から秘儀への手ほどきを受け、かつ、その組織をドイツで広めるよう義務を負った、と強調した。帝国直属貴族で、豊かでもあった彼は、エルべ河とオーデル河間のドイツの第七地区の
マイスター
親方として一七五四(13)年、数人の貴族および高級官吏を周辺に集め、自分への絶対服従と「尊い騎士団」の密かな存続と再建に従うことを義務づけた。ロッジでは名誉を重んじ、秩序を尊重し、時間厳守とともに、寛大に慈善事業を行う気風が支配的だった。使われる言葉もフランス語でなく、ラテン語である。そして会員たちは、一局い秘密の知識へ達
し得る道を辿りたがった。つまり生命の霊液とか賢者の石、錬金の
術の発見などが抵抗し難い魅力を発揮したのである。これは今から
見れば、逆に教義そのものの浅薄さを裏書きしているともいぇる。
しかし詰まるところ、彼らはロッジや魔術、ミスティークに、当時の硬化した政治的状況が彼らに拒絶したものを求めた、というのが
真相かも知れない。そして先に述べたように、ブラウンシユヴァイクのフエルディナント侯がグランドマスターに選ばれた時この派
のロッジは、多くの著名人をも、ましてやクニッゲをも惹きつける新しい輝きを放つことになったのである。
ただクニッゲがここへ赴いた時、彼にとってはこの結社は、大勢の人間が高貴な目的のために集まる所であり、人類愛、人間性、美徳、宗教的寛容へと努める所を意味していたにすぎなかった。だから今やそういう集まりに出席出来る身分となった彼は、宮廷でも従来のような生活態度を変えなくてはならないと思うようになったの
である。敏感な伯爵夫人はこの変化に気づかないではいなかった。
そうしてそのまま放ってはおけないと思ったのであろう。自分たち
の秘密にも或る程度通じているクニッゲが、伯爵にそれを漏らすよ
うな事態が生じてはならなかった。そこで一計を案じて、うかつに
もクニッゲはそれにはまってしまったのである。或る朝いつものよ
うに彼は同席している宮廷の男たちやら、女官たちに愛嬌を振りま
ミ笑わせていたが、やがてもっぱらへンリエッテに向かうと、様々
な話で楽しませたり、不安にしたり、得意の境地へ引っ張り込む。
そして気がつくと、大勢に取り囲まれて、傍らで伯爵夫人がこう一言っ
ていた。「ムッシユー・クニッゲ、あなたは私の人の好い女官のバウ
ムバッハがこんなにもお気にめしたようですから、もうこの人と結
ばれるお積もりだと見てもよいのでしょうね。しいつもなら当意即妙
な返答で応ずる不遜なクニッゲが、この時ばかりは不意を打たれて、
困惑しきったままだったという。そして結局何度も身を屈めて切り抜ける他はなかった。それへ伯爵夫人は「皆さんへ新しい幸福な
ペアーを御紹介出来て嬉しく思います。」とおっかぶせて、ことは決まってしまったのである。夫人の苦肉の策が成功した。クニッゲが、これまで寵愛を受けたのと同様にまた犠牲にされたのだと気がつ い
た時は遅かった。一週間後には伯爵夫人の費用で結婚式が行われた
のである。裕福な男との結婚を夢見たばかりに、元をかけて宮廷に
娘を出したへンリエッテの母親は不満だったが、ヘンリエッテ自身
は、宮廷で人気のある男との結婚に満更でもなかったらしい。
しかしクニッゲにとっては、この出来事に象徴されるような宮廷の空気が耐え難くなりかけていた。なるほど煙草工場の長にされる
など、君主の彼への評価は高くなり、人々はもはや彼を新参者とは
見なさなくなったどころか、へつらいすら浮かべ始めていたのだが、
至る所で彼は王権神授の仮面の下に専制の匂いを嘆がずにはいられ
なかったのである。この領主も自己の主権が神からでなく、ジャン・ジャック・ルソーのいうところの人民との契約に由来することを忘
れていた。彼はプロイセンの啓蒙君主を模範とする気はなく、街の
風景に身分の差が反映されることを好み、衣服にすら秩序をもうけ
た。毛皮、縄銀等を禁じたのである。
しかもフリーメーソンのロッジでは、クニッゲの宮廷での位置を全く顧慮する様子はなかった。彼と同時に入会した連中はとっくに昇格しているのに、彼は依然として見習いだった。そこで尋ね回ったあげく、彼の現在の収入では、昇格に必要な五百ターラーは払えないからだ、という理由が判明したのである。高貴な秘密に近づく道は閉ざされていた。これではフマニスムスと寛容への彼の努力は
途中で挫折する。深く傷ついた彼は苦悩した。そして出てきた結論がカッセルを去ることであった。無論驚いた方伯は将来を約束して
引留めたが、ハノーファーの親戚のもとへ向かうとの口実で、密か\
ノ
にプロイセンの啓蒙君主を頼りとしながら、カッセルを去った。一
七七五年三旦娘のフィリッピーネの誕生一箇月後である。二十三才であった。
その後彼と家族はバウムバッハ夫人の住むへッセンの小村、ネンタースハウゼンに二年近く住み'圦の就職先を探しながら、フリー\
ノ
メーソンの会に出席したり、ドラマとか詩、時には小説を執筆して暮した。その頃彼は宗教問^で悩んでいる。正確には信仰と不信仰
の間で揺れていた。一方で啓示された真理を疑いつ?他方で理神論は彼を不安にさせた。彼はより高次の超自然的な啓示に憧れて いたのである。フリーメーソンの秘密は、それを満たしてくれるかも知れなかった。しかし就職ははかばかしく進行せず、最も期待をかけたプロイセンからは受け入れてもらえなかった。妻に促されて、
就職口を求める旅に出る。ワイマールでゲーテと知り合いになったのもその頃である。しかし力ール・アウグスト公は彼に侍従章を送って来ただけであった。もっともワイマールも多くの教養人が夢見るような国とは言えなかったが。
そこへ思いがけなく一度に二箇所から就職の誘いが来る。カルル
スルーエとダルムシユタットである。この両者の間で迷った彼は結
局へッセン・ダルムシユタットに決める。その直前に訪れたハーナ\
ノ
ウが気に入っていたためであった。こうして一七七七年夏から、後
にグリム^弟で^名になるハーナウに^むことになった。その頃に
〔75〕
八
は先の宗教問題に「宗教とは心の高まりであり、全感情だ」と一つの結論を出している。悟性にのみ由来する宗教は、完全な、真の宗教では有り得ない、と。
ハーナウの皇太子ヴィルヘルムは歓迎の表情で彼を出迎えてくれた。クニッゲは今やっと「理性が支配し、カッセルと異なって、陰謀の支配しない宮廷で生活してよい」(15)幸福を味わう。そして間もなくここの生活に溶け込み、最も楽しい社交家で、繊細な神経の宮廷人であり、貴婦人たちの感じのよい、謙虚な、礼儀正しい友となる。すでに宮廷での談話にはなくてはならぬ人物の一人であった。この頃彼は演劇に力を入れている。一座を作り、これはカルル王子が熱心に援助してくれたこともあって、一応成功の部類であった。
しかし宮廷では、逆に段々と娯楽や催物に対して慎む気分が充ち始めていた。プロイセンとオーストリーの間の戦争が目前に迫っている状況が人々の気持ちを重くしていたのである。その上、クニッゲにとって宮廷の生活スタイルは出費が大で、経済的には苦しかった。こういう雰囲気の中で仕事を越えて世界へ働きかけたいという彼の願望は、次第に意義を失っていった。誰も彼の能力に期待をかけてはいなかったのだから。この頃、金のないフリーメーソン会員の昇格は問題にならないとの噂が伝わって来て失望を大きくした。しかし逆にそれだけ彼の心には、フリーメーソンの存在が重要性を増して来ることになって、より高い叡智への抑え難い渇望を静めたいと願った。彼はフリーメーソンの思想が思慮に富んだ人たちに
よって生み出されたと信じていたのだ。神と自然との一致の中で暮
らしていた人たちが直接に、このフリーメーソンの源泉から聖なる
英知を汲んだのだと。だからこの源泉を再び人の目に明らかにする
ことほど大切なことはないと思われた。それによってフリーメーソンの本来の使命を認識し、人類をこの政治的、倫理的、経済的な貧窮から導き出すのだ。
そういう探求の中で彼は偶然に、もう一つのフリーメーソンの支流に突き当たった。黄金・薔薇十字団(Gold-und Rosenkreuzer)である。この会の組織は聖堂騎士団のそれに酷似していたから、彼は表面的には種々の異なった形態の背後に、あらゆる体系に共通の真理が潜んでいると確信することが出来た。クニッゲは、この会のメンバーの一人であるマールブルク大学の教授F・J・シユレーダーと知り合う。シユレーダーによると「厳しい戒律の儀礼」は、「聖堂騎士団を再建する使命を与えられていたのだが、現在は堕落して、その神秘性を失ってしまった。薔薇十字団はその過誤を除去するために作られたものである。」(16) しかし彼は、それにもかかわらず、クニッゲには「厳しい戒律の儀礼」を去るべきではなく、むしろそれを改革せよ、と説得した。
この頃、クニッゲはまたヴォルフェンビュッテルのフリーメーソンの大会に出かけて、レッシングに会っている。レッシングは机の上に『エルンストとファルクの間のフリーメーソンのための対話』を置き、フリーメーソンの起源を探る試みを子供っぽいと評した。その起源が人の心、市民社会にある、というだけで充分ではないかというのである。その活動は国のためではなく、個人の幸福のためにあるのだからだと。しかし位階が上昇するにつれて次第に聖なる真理に近づいて行くのだと信ずるクニッゲにとっては、源泉を知らずに、その知識なしに目標に到達出来るとは思えなかった。彼にはレッシングより、むしろシュレーダーの方に共感出来るものを多く見出していた。
それから余り経っていなかった頃、思いがけなく彼を昇格させようとの話しが上位者から届いた。しかし、あの上位への燃えるよう
な期待は、彼にはもうとっくに消えてしまっていた。結社の上位者たちが身分の差に異常なほどの価値を与えていることを知ってし
まった彼には、今や結社の改革にしか関心がなくなったのである。新しい祭式を提唱したいという希望が湧いて来た彼は、この頃こう言い切っている。「信仰とは、我々の知性の思わず知らずの行為だ。」(17) だからクニッゲの構想は、「民衆のための、あらゆる認識の基礎づけとなり、あらゆる国家、身分と宗教の人のための普遍的な組織の建設」(18) だった。キリスト教徒ユダヤ教徒、イスラム教徒など、あらゆる宗教を統合し、宗教をめぐる戦いは終了させる。宗教はただ一
つしか存在しない。その掟は健全な理性と人間愛を切り離さないこと。そして創造主が設定したあらゆる関連に従って、人間に課された聖なる義務の総括を行う。人間は原初において純粋であったから、創造主の存在を感じ取ることが出来たが、文化の発達とともに、次第に高次の世界を瞑想する時が奪われてしまった。これへ再び導き帰すのがフリーメーソンのつとめである。(19) こういう論旨の著作をクニッゲはこの頃出している。ただし、その内容は薔薇十字団の色彩が濃すぎるとの批判を浴びた。
一七七九年、プロイセンとオーストリーの争いは休戦となった。
当然、それに従軍していた皇太子が帰還して来たのだが、その際あ
る薬剤師の娘を伴って帰って来たのが騒ぎを惹き起こすこととなっ
た。というのが、こういう問題から極力、身を遠ざけていたのにも
かかわらず、女官たちに人気があったぱかりに、クニッゲはこのスキャンダルの憤激の渦に巻き込まれ、不愉快な交渉をさせられるは
めになったのである。そして複雑な力関係の中で、彼は結局、伯夫
人と女官たちの嘱笑を受け、更には皇太子自身の不興を買っく暫
時宮廷への出入りを禁じられることとなった。そして孤独な生活を余儀なくされる。
ところが、こういう状況の中で彼の生涯を決定する転機が訪れた。七月に「協調」ロッジヘバイエルンから一人の会士が現れ、これと知り合ったクニッゲが改革について尋ねられて、自分の意図を述べたところ、それをすでにほとんど実現している結社があるとして、「啓明会」の存在が伝えられたのである。ドイツにまだ自分に未知の結社が存在することにひどく驚いたクニッゲは、ただちに入会の手続きを取った。それぐらい秘密が保たれていたからには、完壁に組織されているのだろうと考えたのである。そうして或る人気のない場所で、この会士コンスタンツォ伯爵によって入会の儀式が行われた。そこで伯爵はクニッゲにピロ(Philo)という名前を与え、結社の「植物学校」(Pflanzschule)の「ミネルヴァ・クラス」の書類を手渡した。会員の秘密を守るための暗号が古代趣味に基づいていて、後に判明したところでは、会の創始者ヴァイスハウプトはスパルタクスと称して、その所在するインゴールシユタットはエレウシスと呼ぱれていた。(20)オーストリアはエジプト、ウィーンはローマである。「植物学校」とは会の見習いを養成する生徒結社で、カルルスルーエのカルル・オイゲン公も作らせたことが知られている。シラーが後に二ーチェに「自由のラッパ卒」と渾名されるほど憧れた自由の概念は、ここでその萠芽が養われたという。(21)そして今後クニッゲは当会においてアテネと称するバーダー教授の指示を受けることになる。ピロのいる場所はエデッサである。そしてこの時以来クニッゲは全力をこの会の形成に捧げるのである。
啓明(Illuminat)という名称の団体は本来一つだけではない。神や人間について内的な啓示を得たいという神秘家とか形而上学者たちもしばしばそう名乗っている。しかし現在では、上記のヴァイスハウプトの創設した結社を指すのが普通である。アーダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)は、一七四八年二月、インゴールシュタット生れだから、クニッゲより四才年長、一八三〇年にゴータで亡くなっている。七才で父親を失ったので、その名付け親であるイックシュタット男爵は、甥の息子に当たるこの少年をイエズス会経営の学校で教育させた。そういう宗教的環境にもかかわらず、一つには時代の影響を受けたのであろうが、彼はイエズス会の教義に対して次第に疑念を抱くようになり、それに対する解答を皮肉にも、男爵の所有していた理性派に属するフランスの哲学者たちの著作の中に見出したといわれる。
インゴールシュタット大学で家庭教師や伝導師として働きながら法律学を学んで、一七六八年に卒業すると、この大学の学長であったイックシユタット男爵のひきで、ただちに助講師に採用された。一四七二年に創立という歴史を持ち、一八〇二年にはランツフートへ移され、更にはミュンヘンへ移されることになるこの大学は、ルネッサンス期にはロイヒリーン等の人文主義者たちによる輝かしい経歴を持っているのだが、一五八〇年代からは神学部と哲学部はイエズス会士に占められてきて、当時バイエルンにおける反宗教改革の牙城となっていた。しかしその中でクリスチャン・ヴォルフの弟子で、啓蒙主義者であった男爵の庇護のもとに、ヴァイスハウプトは順調に経過して、一七七二年には教会法講座の教授の席をイエズス会士の手から奪いかえすことに成功、更に二年後には二十七才で法学部長となった。一七七三年に結婚したが、男爵の反対を無視したことから、その後両者の仲は割れたままだったという。
しかし彼らはイエズス会士らによって手厳しく白眼視され続けた。イエズス会そのものは、度々、俗界と衝突事件を起こすことから、一七七三年に法王クレメンス十四世によって解散命令を受けるのだが、事実上は陰に陽に権勢を振い、ヴァイスハウプトはその陰謀に悩まされ続けた。そこで先に述べた当時流行の秘密結社の結成による対抗措置に至ったのである。まず「完全者同盟」を結び、次に一七七六年五月に「啓明会」の創設となっている。(22)当初は四人の学生会員と彼自身とで出発したが、その目的のみが明確で、方法につ いてはまだ暖昧であった。そこで翌年ヴァイスハウプトはフリーメーソンに加入、「思慮深いテオドール・ロッジ」に入会した。このロッジは間もなく、事実上「啓明会」に吸収された形になったという。このミュンヘンの会員たちをアレオパギテンと呼び、それを中心に一七七九年には会の教則を作った。位階はイエズス会の模倣で、
ノヴィーツエ
修練士、ミネルヴァ、悟ったミネルヴァという三段階となる。先のクニッゲに手渡された書類上の名は、これに基づいていたわけである。そして秘密性を高めるために、下位者は上位者から常に監督を受け、誰であるか明瞭でない上位者に服従するという規律を設定した。
クニッゲが入会したのは、丁度この頃であった。彼は会の義務を熱心に果した。規定にある啓蒙的な文書を研究し、知人、友人が会に対して好意を持ち得るか、あるいは敵意を持つかを観察して、特別の日記に記入し、毎月ミユンヘンへ送って監査を受けた。彼と同時にコンスタンツォによって勧誘された三人の商人たちと協力し、喜んで匿名の監督に従ったのである。
しかし最初の感激は急速に冷却することになった。というのが指導される教育内容が余りにも、年端もゆかぬ生徒のための学校の教材じみていたからである。更にミュンヘンから送られてくる書簡の文体が粗雑で、命令口調であるのが彼らの神経を逆撫でした。クニッゲもヴィーラントやポウプ、ヘルヴェティウスらの、新教国なら誰にでも手に入る啓蒙的な書物を読むことにどんな意味があるのか、自問することになった。詐欺にあっているのではないか、との不安も湧いて来た。そして脱会を考え始めていたのである。
するとそこへインゴールシユタットの会士スパルタクスから
オーべレン
上位者より指示を受けた、との前置きとともに、今後は自分がピロと文通する、との連絡があった。この書簡に漂う雰囲気、そこから
読み取れる精神はこれまでと全く異なっていて、クニッゲの気に
入った。そこで危うく彼は踏み留まったのである。それどころか、
スパルタクスはこの会が、「極めて精緻で、確実な手段によって、無知蒙味と悪意に対する勝利を世界の美徳と叡智にもたらし、学問のあらゆる分野で最も重要な発見をするという目的に到達しようとす
露)
る結社」として描いて見せたのである。クニッゲにはこの会の目的
が、彼の考える組織と一致するように思われた。「厳しい戒律の儀礼」に失望し、黄金・薔薇十字団には詐欺の匂いを嘆ぎとった彼だった
か、ようやく^想の結社を見出したことになる。しかしそれにもか゛)、
かわらず、まだ彼には一抹の疑祭拭い切れなかった。まだ最終的
な確信が持てなかった彼は、それをスパルタクスに率直に告白した
のである。そこですでにクニッゲの熱心さと有能を腎ていたス パ
ルタクスは、自分のもとから彼が離れて行くのを恐れて、秘密を打
ち明けた。実はこの会は、「まだ存在してはいないのだ。しと。自分
の頭の中にあるだけに^ぎない。幾つかのカトリックの地方に下級
の「植物学校」が設置されているだけなのだ。しかし上位について
は、もう素晴らしい考えが幾っかある。どうか私心のない詐欺を許
して欲しい。組織の心臓にまで入り込んで来た彼のような素晴らし
い協力者とは初めて知り合ったので、どうか会のために尽くして欲
しい、とスバルタクスはクニッゲを古参△吾貝つまりアレオパギテ
ンの言貝として扱い、頼んで来た。
クニッゲが色々と想い描いていた、この会の美しいイメ】ジは幻像だったのだ。この時彼は心底から怒りを覚えたらしい。当然であ
ろう。脱会も無論考えたようである。しかしそこでまたもや彼は踏み留まるのである。脱会をしなけれぱ、今や会の運命は彼の手中に
あった。こうなると、どこかに自分の理想を実現している既成の結社の存在を期待するよりも、むしろそのような会を設立する方がよいのではないか。かなり早く冷静になった彼は、スパルタクスの招請に応じて、ミユンヘンに赴く。上級位の位階体系を作るためである。そうして一七八一年、アーダム・ヴァイスハウプトと直接に知り合う。これが初めての出会いであった。
ここで規約に詳細に目を通すことの出来た彼は、自分の期待が満たされそうな予感を持った。「啓明会員は人類愛と公共の福利への敬意の思想を広め、世界の様々な邪悪な意図を抑制し、不正に対抗して、困窮する美徳に助力を惜しまない。そして重要な人物の援助に配慮する。公益に資することを歓迎する。学問、芸術と産業を育成する。会員相互間の身分の差は除く。」(24)更に「黄金の中庸」を守ること、飲食や衣装の贅沢を避け、市民としての仕事への忠実、かつ熱心な従事も更なる義務である。
イエズス会がその邪悪な目的遂行のために用いるのと同じ手段を以て世界に善をもたらす、という理念にヴァイスハウプトは自信を持っていたが、クニッゲはこれを危ぶんだ。青年たちが今後も永続的にヴァイスハウプトの要求に従うとは考えられなかったのである。そして実際に、クニッゲが会った限りでは、彼らはヴァイスハウプトの専制的な態度に大きな不満を抱いていた。この会長は彼に、見知らぬ上位者に委託されて派遣されたような態度を取るように、と指示したのだが、彼はこの両者の和介の労を取る役割を引き受けたつもりだった。
ミュンヘンに帰ると彼は会長に、フリーメーソンの中に入り込んで、ロッジの色々な指導的職務を啓明会員で占めるよう提案した。そうやって会員をこちらの組織に移してしまうのである。そして実際、この方法で約五百名もの会員の加入に成功した。更に
オルデン
結社を三段階に分類することにヴァイスハウプトと意見の一致を見た。つまり基礎位階はミネルヴァ連士たちのクラスで作られる養成級(Pflanzschule)で、修練士(Novize)からミネルヴァ練士(Minervalis)へ、更に小啓明士(Kleiner Illuminat)へと昇進して行く。第二位階はフリーメーソン級、つまり従来の組織で、二つの部門に別れる。まず徒弟(Lehrling)、職人(Geselle)、親方(Meister)の三段階より成る象徴的フリーメーソン(Symbolische Freimaurerei)、その上にスコットランド修練士(Schottischer Novize)と騎士(Schottischer Ritter)より成るスコットランド・フリーメーソン(Schottische Freimaurerei)が置かれる。そして第三位階として小密儀(Kleine Mysterien)と大密儀(groß Mysterien)があり、前者は啓明祭司位(Illuminatischer Priester)と啓明統轄位(Regentengrad)から成り、後者はマギ(Magier)と王(König)で、これが締め括る。
クニッゲは遂に一つの結社の中に安定した位置を見出だして、幸福を感じていた。この結社は諸民族を成熟へと導き、自由と専制との永遠の循環を打破するであろう。人間には啓蒙精神と自由があれば、国家と君主は不要である。君主と国家は暴力を用いないでも、地上から消滅すると思われる。人類は将来一つの家族となり、この世界は理性的人間の住むところとなる。そうして啓明会は、人類の普遍的な秘密の英知の学校となろう。当時このような思想や発言が容易に危険視されたであろうことは、いうまでもない。しかし差し当たりはまだ会は拡大し続けた。特に一七八二年七月十六日から九月一日までの五〇日間、ヴィルヘルムスバートで世界フリーメーソン大会が開催され、その際、この会は一見、「厳格派」の会に見える様相を呈していたのにもかかわらず、そのうちの多数が啓明会に移って来たのである。しかも高潔な人格と教養の深い精神の持主で、クロップシュトックらの文人と結びつきがあり、高い社会的名声を得ている作家のJ・J・クリストーフ・ボーデ(一七三〇- 一七九三)の勧誘に成功した。以後啓明会はヴァイスハウプト、クニッゲ、ボーデの三人によって基礎が固められ、数多くの著名人を入会させた。ただ一説によると二千人を越えたことはなかったという。
しかし同時にこの頃からクニッゲは、小説の売れ行きも好調で、その執筆に忙しくなって来たことを理由として、各地区の長に仕事
を任せる案を提出している。このこと自体は問題にならなかったが、しかしそういう考えが出て来る原因つまり会員数の増大は、実は必ずしもヴァイスハウプトの喜ぶところではなかった。それによって本来の会のイメージが損われる懸念を持ったのである。他方でクニッゲの方は、会長がこのような成果の絶対的条件と見なしているイエズス派の方法の模倣を、心から納得して肯定していたわけではなかった。このような亀裂がこの頃から少しづっ大きくなり始めていた。クニッゲは会の拡大に主眼を置きヴァイスハウプトは、下からの会の強化をまず第一に設定した。
余談だが、『うたかたの記』にマリーの教養書としてクニッゲの著書と並んで、フーフェランドの名が出て来る。この名は鷗外の他の作品にも出現するし、幕末の日本では医学書の翻訳を通じて有名だつたが、その彼もこの頃入会している。彼と親交のあったゲーテの入会もほぼ同時である。
一七八三年三月、物価高を理由にクニッゲ一家は、フランクフルトからハイデルベルクに引越をしている。それから間もなくクニッ
ゲを驚博させる文書が届く。ミユンヘンのシユレッケン・シユタイン侯爵が、ヴァイスハウプトの意向を受けたとして、規約と位階体系の変更を通知して来たのである。規約の啓蒙の精神自由と人間の成熟を説いた箇所が全て、煽動的な響きが強すぎるという指摘であった。そしてまた各人に授けた位階を取り消せ、との指示もあり、それはクニッゲが余りにもフリーメーソン風な色彩を濃く出し過ぎているから、というものであった。ヴァイスハウプトには自分の造り上げた世界をクニッゲが壊そうとしているように見えて来る一方、クニッゲにはヴァイスハウプトに潜む、他人の無条件の服従を望む専横な性格が強くなって来たと映るようになっていたのである。傷つき、失望して、彼は実務から手を引き始める。そうでなくても著作や批評に忙しかった。小説を書き、オペラ『フィガロの結婚』について書く。そうして遂に一七八四年、あれほど心身ともに打ち込んだ会を正式に退団する。三十三才になっていた。当時の彼の家計は出版と年金だけで、充分とはいえなかった。その上に結石症を病んでいた。以後この病気で苦しむことになる。
他方でこの問、啓明会を取り囲む社会的状況も厳しくなっていた。一つにはフリーメーソンに似て非なる黄金・薔薇十字団が反啓明会運動を強めて来たことにあったが、それよりもカトリック教会特にイエズス会が、この結社の社会的平等主義と会員の徳性の高揚による社会改革の方向を急進主義と見て不安を抱いた方がはるかに大きかった。彼らは様々な画策の後、ついにはバイエルン選帝公を動かす材料として、カール・テオドール公の妹であるマリア・アンナ公女を通して、啓明会士のリストを提出したのだが、その際添付してあった文書が会の運命を決定してしまった。つまりオーストリア皇帝ヨーゼフⅡ世によるバイエルンの一部とオーストリア領オランダとの交換計画に、啓明会士が参画しているという「反バイエルン国際主義的陰謀」がでっちあげられていたのである。そこで一七八四年六月、一七八五年三月および八月の三回に亘る勅令により、啓明会は禁止されるに至った。
これで多くの啓明会士は公職から追放され、あるいは投獄され、ヴァイスハウプトも大学から解職されて、当時バイエルンのただ中に位置しながらプロテスタントで自由帝国都市であったレーゲンスブルクに逃亡する身となった。この大打撃にもかかわらず、会の活動は以後も暫くバイエルンの外で続けられるが、その上に次々と打撃が加えられる。その一つが、啓明会がフランス革命に点火剤の役割を果たしたという説で、このため脱会していたクニッゲにまでも嫌疑がかかり、以後生涯圧迫され続けられることになるのである。
注
(1)小堀桂一郎訳・解説「森鷗外の『知恵袋』」講談社学術文庫 昭和五十五年
(2)バルタザール・グラシアン著「賢者の教え」 J ・レナード・ケイ編 加藤諦三訳 経済界 一九九三年
(3)Peter Kaeding : Adolph Freiherr von Knigge, Begegnungen mit einem freien Herrn Verlags-Anstalt Union 1991
(4)ンル0一号ぐ号ズヨ鴇ゆ一仂仲ヨ=-n=ゆ乏ゆ牙ゆゞ如ユゆ.工誘四ぐ含
ヤN三夘墨ずゆ.仂N賃、ズ0.一器
(5)ンル0一でずぐ含ズヨ鴇ゆ一ン誘兇乏讐一ゆ乏ゆ牙ゆ一=岩如獣=ル含
司N6欠Φ一姦⑩円ぐゆ二N四工曾=0ぐ円一中中一
(6)ンル0一号ぐ0=ず一器Φ一手曾ユ含 dヨ⑳N晨ヨ=三含mnず含
工誘四ぐ0コズ讐一,工ゆ一=N n舞ゆ二閃ゆδ一Nヨ言.仂三姦巽二追一
(7)赤間 剛「フリーメーソンの秘密」 三一書房 一九八三年
マンリー・ P ・ホール、吉村正和訳「フリーメーソンの失われた鍵」 人文書院 一九九二年第五版
吉村正和「フリーメーソン、西洋神秘主義の変容」 講談社現代新書 一九八九年
湯浅慎一「フリーメーソンリー その思想、人物、歴史」中公新書 一九九〇年
セルジュ・ユタン、小関藤一郎訳「秘密結社」文庫クセジュ 一九九一年
(8)マックス・フォン・ベーン「ドイツ十八世紀の文化と社会」 三修社 一九八四年 一二四頁
(9) Allain Demurzer : Die Templer. Aufstieg und Untergang
=N冒ゆ↓ゆヨで一円.ン鳳仂二ゆ⑯言含 d具円N讐⑩
昌伽,-W一心ぐ円一N如 nl.則円欠冨雪nずゆ三途一 m.N器
筱田雄次郎「聖堂騎士団」 中公新書 昭和五十一年 一七二頁
(10)ロラン・エディゴフエル、田中義廣訳「薔薇十字団」 文庫クセジュ 一九九一年 一〇六頁
種村季弘「薔薇十字の魔法」 河出文庫 一九九三年 七二頁
(Ⅱ)冨.ぐ:ベーン三四頁
(口)潮木守一「ドイツ大学への旅」
一七頁
(玲)マンリー・ホール三 0頁
(N)ヤズミヨ如一 00頁
(而)ヤ.ズミヨ的一 0四頁
(M)「.ズミ品三六頁
(Ⅱ)ヤ.ズ器ル冨三四頁
(那)「.ズN巴冒輿三四頁
(玲)ヤ.ズN巴冨一三0頁
(加)吉村四九頁
(包湯浅六六頁
(記)湯浅七八頁
(器)如.ズ§ヨ如一五一頁
(N)ヤ.ズN巴冒⑩一六四頁
リクルート昭和六十一年
水内透 一ナ
〔6力
” ※明らかにちゃんとコピペされてない箇所があるが一部しか修正していない。
※※着色は引用者
※※※引用元(論文)の誤字は原文のまま記した(訂正はしていない。例えば「いずれも決定的な根拠を欠いでいる。」はそのままである。「で」を「て」に訂正しない。原文はできるだけそのままの方が良いので)
※※※※
上記の論文の「『うたかたの記』にマリーの教養書としてクニッゲの著書と並んで、フーフェランドの名が出て来る。この名は鷗外の他の作品にも出現するし、幕末の日本では医学書の翻訳を通じて有名だつたが、その彼もこの頃入会している。彼と親交のあったゲーテの入会もほぼ同時である」(「だつた」は原文ママ)と書いていることについて。
『うたかたの記』で、クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(Christoph Wilhelm Hufeland)は登場しない。
クニッゲ以外に登場する人名はクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントの別表記ではなくて、別人だ。
「フムボルトが長生術」(『うたかたの記』)とある。
「フムボルト」[フンボルト(Humboldt)]の候補には2人いて、2人とも医者ではないので、長生術って本を出すかなあ。
フーフェラントの著作の1つが『長命術(Makrobiotik)』なので、長生術は鷗外なりの和訳なのだろう。
おそらく、論文の執筆者は、鷗外はフンボルトとフーフェラントを間違えたと判断しているのだろう(単にマリーの知識が不正確であることを示すため記述という解釈もできる[仮にこれが目的だとしても、クニッゲの方は正確なんだよな(笑))。
論文では「クニッゲの著書と並んで」なので、離れた箇所でフーフェラントが登場するという意味ではない。
鷗外が、「フムボルト」[フンボルト(Humboldt)]の「フ」だけ記憶していて、「フ」ーフェランドと結びつけてしまったのかもしれない。
森鴎外 うたかたの記
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.html
”「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟の櫂取ることもかなはず、レオニのあたりに、富める英吉利人の住めるに雇はれて、小間使になりぬ。加特力教信ずる養父母は、英吉利人に使はるるを嫌ひぬれど、わが物読むことなど覚えしは、彼家なりし雇女教師[#「雇女教師」の左に「グェルナント」のルビ]の恵なり。女教師は四十余の処女なりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、三年がほどに多くもあらぬ教師の蔵書、悉く読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。またふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゆしてキョオニヒが通俗の文学史を繙き、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」
”
超有名人の作品なので、現代語訳が複数ある。
【現代語訳】森鴎外『うたかたの記』(中)
由良瓏砂
2020年2月22日 05:52
https://note.com/yurarosa/n/na03c143bfe45
”そういうわけで漁師の娘になったんだけど、か弱いこの体では舟の舵を取ることもできず、レオニの辺りに住んでいる裕福なイギリス人に雇われて、小間使いになったの。
カトリックの信者である養父母は、イギリス人に雇われるのを嫌がったんだけど、私が読書などを覚えたのは、その家の家庭教師のおかげよ。
彼女は40歳くらいのオールドミスだったけど、その家の高慢な娘よりは私を愛してくれて、三年ほどの間に、そう多くもない彼女の持っている本はみんな読んでしまったわ。
読み間違いもさぞ多かったでしょう。それに、文章の種類もいろいろでした。
クニッゲの交際法もあれば、フンボルトの長生術もありました。
ゲーテやシラーの詩抄を唱えたり、ケーニッヒの文学史をひもといたり、ルーブルやドレスデン美術館の写真集を広げて、テーヌの美術論の翻訳書を漁ったりしたものよ。”
https://note.com/yurarosa
”女優/他
https://www.youtube.com/@yurarosa1114
◎YScompany所属
◎アートサロン《哲学者の薔薇園》
◎創作人形工房アトリエ・アスフォデル
◎アンティーク・レトロ雑貨店ロサアンティカ
◎猫被/CALメンバー
◎ゴールデン街瑠璃”
アトリエ 3 - <現代語訳> うたかたの記(@yzkzk) - カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16818023212303375276/episodes/16818093073198233925
”「こうして漁師の娘とはなりましたが、ひ弱な身では舟の舵をとることも叶わず、レオニの近くに住んでいる裕福なイギリス人に雇われて小間使いになりました。信心深いカトリックの養父母は、イギリス人に雇われることを嫌いましたが、私が本を読むことができるようになったのは、この家の雇われの女教師の親切心のおかげです。
女教師は四十余りの貞淑なオールドミスで、尊大な態度の家の娘よりも私に深く目をかけて、三年ほどのうちに、多くはありませんが教師の蔵書はことごとく読んでしまいました。読み間違いも多いでしょうし、読んだ本の種類もまちまちでした。クニッゲの人間交際術があれば、フンボルトの国家福祉論もありました。ゲーテ、シラーの詩抄をきっかけにしてケーニッヒの通俗の文学史をひもとき、あるはルーブル、ドレスデンの美術館の写真集を繰りひろげて、テーヌの美術論の訳書を読み漁りました」”
<現代語訳> うたかたの記
@yzkzk
https://kakuyomu.jp/works/16818023212303375276
”教科書にも載る「舞姫」に続く、森鴎外のドイツ三部作の一編「うたかたの記」を現代語訳しました。
マリイの儚き人生を美術留学生の巨勢の目線からえがきます。
現代にも分かりやすいように、できるただけ平易で、大胆な意訳や補足を入れています。
”
フーフェランドの間違いって訂正していないな。
前掲論文
「『うたかたの記』にマリーの教養書としてクニッゲの著書と並んで、フーフェランドの名が出て来る。この名は鷗外の他の作品にも出現するし、幕末の日本では医学書の翻訳を通じて有名だつたが、その彼もこの頃入会している。彼と親交のあったゲーテの入会もほぼ同時である。」(「だつた」は原文ママ)。
フーフェラントが元祖イルミナティに入会したのは英語版ウィキによると1783年。
ゲーテが元祖イルミナティに入会したのは「啓明結社とフリーメイソン : アドルフ・フライへア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II)」によると1783年2月11日入会。
フーフェランドの医学書の、緒方洪庵による和訳の題名が『扶氏経験遺訓』(ふしけいけんいくん)。1857年(安政4年)に出版されたので、確かに江戸末期。
フーフェラントとは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%81%B5%E3%83%BC%E3%81%B5%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%A8-3185959
”
フーフェラント
Christoph Wilhelm Hufeland
生没年:1762-1836
ドイツの内科学者,宮廷医。その著書が日本に伝えられ,医学,医倫理の面で影響を与えた。バート・ランゲンザルツァに生まれ,イェーナ,ゲッティンゲンの両大学で学び,イェーナ大学教授,プロイセン宮廷医兼シャリテ病院医長,ベルリン大学教授などを歴任し,内科および外科学会を創始した。ゲーテ,シラーらを患者にもち,ジェンナー種痘法をドイツに入れ,チフスの予防に尽くし,研究は統計学に及んだ。ベルリン学派の雄として医学,医学教育の指導的立場にあり,その著《Encheiridon medicum》は日本でも青木周弼,緒方洪庵,杉田成卿により,それぞれ,《察病亀鑑》《扶氏経験遺訓》《医戒》という邦題で抄訳された。また《長命術Makrobiotik》もヨーロッパで広く読まれた。
執筆者:長門谷 洋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フーフェラント」の意味・わかりやすい解説
フーフェラント
Hufeland, Christoph Wilhelm
[生]1762.8.12. ランゲンザルツァ
[没]1836.8.25. ベルリン
ドイツの医師。当時の最も有名な内科医であった。緒方洪庵が安政4 (1857) ~文久1 (61) 年に訳した『扶氏経験遺訓』 30巻の原著"Enchiridion Medicum" (36) の著者。また同じ頃,青木周弼の訳した『察病亀鑑』,山本美致が訳した『扶氏診断』は,彼の診断学を日本に紹介したものである。イェナ,ゲッティンゲン両大学で医学を学び,ワイマール公夫人の侍医であった父のもとで開業。ゲーテ,J.シラーらを患者にもち,「ゲーテ家の会」の講演が好評で,1793年にイェナ大学教授。 1801年プロイセン宮廷医兼シャリテー病院長としてベルリンへ赴任。 10年のベルリン大学創立に努力し,初代内科学教授。種痘の普及にも努めた。 33年7月 24日全プロイセン医師の記念寄金によってフーフェラント慈善財団が設立された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
” ※着色は引用者
ドイツでフンボルトといえば、フンボルト兄弟。
兄である ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは言語学者で政治家であり、シラーやゲーテなどとも親交を結んだ。バスク語とインド語の文法を研究した。ベルリン大学(現ベルリン・フンボルト大学)創設者の1人。この人も怪しいな(笑)
弟であるアレクサンダー・フォン・フンボルトは博物学者、探検家、地理学者(近代地理学の創設者の1人)。主著は、百科全書派の影響を受けた『コスモス』 (5巻。1845~62) 。 こちらも怪しいよ(怪しい人しかいない(笑))。
この兄弟って2人とも現在の分類だと赤組だろうな。正確には今の赤組の先祖。
以下でどんな人なのかと、著作を確認しても、長命術(長生術)やそれに似た著作は見つからなかった。
フーフェラントは医者だけど、フンボルト兄弟は医者じゃないからね。
フンボルト(ふんぼると)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%81%B5%E3%82%93%E3%81%BC%E3%82%8B%E3%81%A8-3167605
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
アレクサンダー・フォン・フンボルト - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
先に、フーフェラントの英語版ウィキの和訳(DeepL和訳を私がかなり修正した)を示す。
”
1823年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。
やがて彼は、母国でゲーテ、ヘルダー、シラー、ヴィーラント(Wieland)と同じくらい有名になった。
[中略]
彼はまた、「1783年にゲッティンゲンでフリーメイソン(freemasonry)に入門し、この時期にイルミナティ結社(Illuminati order)に加わった」。また、中国の錬金術や寿命を延ばす方法に興味があるとはっきり言っていたようだ。
彼の多くの著作の中で最も広く知られているのは、『Makrobiotik oder Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern』(マクロビオティック、あるいは人間の寿命を延ばす技術)(1796年)という論文で、1828年にウィーンでヨヴァン・ステジッチによってセルビア語を含む多くの言語に翻訳された。
”
(Makrobiotikは文字通りマクロビオティック。現代の長寿法[マクロビオティック]の起源の一つは元祖イルミナティ会員だ(笑)
現在のマクロビオティックは厳格に実践するとまずい健康法であることに注意ね)
Christoph Wilhelm Hufeland - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Christoph_Wilhelm_Hufeland
”In 1823, he was elected a member of the Royal Swedish Academy of Sciences.
In time he became as famous as Goethe, Herder, Schiller, and Wieland in his homeland.
[中略]
He also "joined the Illuminati order at this time, having been introduced to freemasonry in Göttingen in 1783."[2] He also seems to have professed an interest in Chinese Alchemy and methods of extending longevity.[3]
The most widely known of his many writings is the treatise entitled Makrobiotik oder Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern (1796), which was translated into many languages, including in Serbian by Jovan Stejić in Vienna in 1828.
[中略]
This page was last edited on 10 April 2025, at 15:29 (UTC).
”
マクロビオティックのドイツ語版ウィキのDeepL和訳(私が修正):
”
マクロビオティック(古代ギリシャ語μακρός makros「偉大な」、βιοτικός biotikos「生命に関する」)という言葉は古代に生まれ、健康で長生きするための生活様式を指す。
現代のマクロビオティックは「長寿の教義」として、1797年にクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントの研究によって本質的に造語された[1]
マクロビオティックの歴史と発展
マクロビオス(μακρόβιος)という用語は、ヘロドトスやコスのヒポクラテスによってすでに使用されていた[2]。アリストテレスや他の古典的著者は、マクロビオティックとして、シンプルな食事に基づき、健康と長寿を約束するライフスタイルを記述した。ドイツ語圏では、この言葉は1796年にクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントの主著„Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern“(『The Art of Prolonging Human Life』、『長命術』)に登場した。
より新しい形のマクロビオティックは、基本的に日本人のジョージ・オーサワ(Georges Ohsawa。桜沢如一)によって創始された。道教の教えとアジアの伝統に基づいた食事と生活の方法であり、第二次世界大戦後、ニューエイジ・ムーブメントの一環として欧米にも多くの信奉者を見出した。大沢の死後、彼の教えは弟子たちによって修正され、さらに発展した。
” ※着色は引用者
Makrobiotik – Wikipedia
https://de.wikipedia.org/wiki/Makrobiotik
”Der Begriff Makrobiotik (von altgriechisch μακρός makros „groß“, und βιοτικός biotikos „das Leben betreffend“) entstand in der Antike und bezeichnet eine Lebensweise, die zu einem gesunden, langen Leben führen soll.
Die neuzeitliche Makrobiotik als „Lehre von einem langen Leben“ wurde im Wesentlichen 1797 durch das Werk von Christoph Wilhelm Hufeland geprägt.[1]
Geschichte und Entwicklung der Makrobiotik
Der Begriff makróbios (μακρόβιος) wurde schon von Herodot und Hippokrates von Kos verwendet.[2] Sie bezeichneten damit Menschen, die gesund sind und sehr alt werden. Aristoteles und andere klassische Autoren beschrieben einen Lebensstil als Makrobiotik, der auf einer einfachen Ernährungsweise fußt und Gesundheit und ein langes Leben verspricht. Im deutschen Sprachraum taucht die Bezeichnung 1796 in Christoph Wilhelm Hufelands Hauptwerk „Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern“ auf.
Eine neuere Form von Makrobiotik wurde im Wesentlichen von dem Japaner Georges Ohsawa begründet. Sie ist eine auf taoistischen Lehren und asiatischen Traditionen basierende Ernährungs- und Lebensweise, die nach dem Zweiten Weltkrieg im Rahmen der New-Age-Bewegung auch in der westlichen Welt zahlreiche Anhänger fand. Nach dem Tod von Ohsawa wurde seine Lehre von einigen seiner Schüler modifiziert und weiterentwickelt.
[中略]
Diese Seite wurde zuletzt am 9. Oktober 2024 um 10:52 Uhr bearbeitet.
”
マクロビオティック - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%93%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF
”マクロビオティックは、マクロとビオティックの合成語である。語源は古代ギリシャ語「マクロビオス」であり[9]、「健康による長寿」「偉大な生命」などといった意味である。18世紀にドイツのクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントが長寿法という意味合いで使いはじめた[1]。
[中略]
出典
1. ^ a b クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント 『長寿学-長生きするための技術』 井上昌次郎訳、どうぶつ社、2005年1月。原著 Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern: Makrobiotik, 1797
[中略]
最終更新 2024年5月8日 (水) 20:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
思いもよらないことを明らかにしてしまった(笑)
フーフェラントとフンボルトを鷗外が間違えているか、作中キャラの知識の不正確さを示すための意図的な誤りかは分からないが、以上を書いた後、小説の注釈でフーフェラントが正しいなどと書いているかどうか確認した。
角川文庫版の『舞姫・うたかたの記』での、『うたかたの記』への注釈にて、
「フンボルト フフェーラントの誤り。(略)ドイツの内科学者、宮廷医で、その著書『長命術』は広く読まれた。」(p.154)とある。
フフェーラントは原文ママ。
隣にはクニッゲについての注釈もあるのだが、メイソンや元祖イルミナティについては一切書いていない。
啓明結社とフリーメイソン : アドルフ・フライへア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II)
(以下を開くと勝手にダウンロードされるので注意)
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00660001-0178.pdf?file_id=71114
”Title 啓明結社とフリーメイソン : アドルフ・フライへア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II)
Sub Title Illuminaten und Freimaurerei : "Aufklärung und Geheimnis bei Adolf Freiherrn Knigge (II)"
Author 斎藤, 太郎(Saito, Taro)
Publisher 慶應義塾大学藝文学会
Publication year 1994
Jtitle 藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.66, (1994. 7) ,p.161(18)- 178(1)
[中略]
1780 年 7 月 1 日に啓明結社員となったクニッゲに対し、アダム・ヴァイスハウプトは自分の結社創設者という立場を隠し,「上司による命令」を装って書簡による接触を開始した。彼は啓明結社を「遠方の地」に本拠を構える「結社の最高指導者たち」の指揮の下「人間と世界を新たに改造する組織」として描き出し,クニッゲに結社への「忠誠心の証を立てるため」に結社員の勧誘をおこなうよう指令する(37)。
[中略]
*
こうした組織の外的枠組みが整備されてゆくのと平行して,結社の目標理念の構築も進められた。その結実が,『新たに採用される監督啓明士に告ぐ』 10)である。 1782 年にヴァイスハウプトによって起草され,クニッゲによる僅かな補筆を経て最終的には『第一の部屋における教授』 の題で「司祭」位階への参入儀礼に組入れられたこの文書においては,結社の政治的,社会的,宗教的な最終目標が展開されている。その内容は多くの結社員によって啓蒙主義精神の神髄と賞賛される一方で, 1787年の『啓明結社原典資料集補遺』の公刊によって世に出ると,敵側陣営からは宗教と君主国家にたいする謀叛を企てる「啓明主義」の動かぬ証拠であると見なされ,フランス革命勃発後は,反革命陣営によってジャコバン派を準備する思想とされた。この文書の概要は以下の通りである。
人類の歴史は「神と自然の計画」 に従って原初の自然状態(幼年期),専制主義の時代(青年期),理性と道徳の時代(成人期)と段階的に完成へ向かう。この歴史的発展の原動力は人間に内在する欲求である。「新たな欲求の一つ一つはいわば新たな変化,新たな状態,より良い状況を芽ばえさせる種子なのである。欲求は人間を活動へと刺激し,人間の中に,この欲求を満たし,消し去りたいという活力を生み出すからだ」 充足さるべき欲求が最小限であるがゆえ,原始においては全ての人間の聞に平等と自由が保たれている。だが,人口が増加し,新たな欲求が発見され,私有財産が導入されると,文明とともに自由と平等の喪失が始まる。弱者は庇護
(6) ―173―
への欲求から強者に服従することを選ぶが,まだ人聞の自由と独立はかろうじて保たれている。ところが強者が「自然を超えた存在」,「神の使者」を僭称し,人類が多くの民族,国家へと分裂するに及んで,世界はもはや「巨大な一家族,唯一の王国であることを止め,自然の大いなる絆は裁ち切られてしまう」エゴイズムと国家主義が人間愛にとって代わり,自由と平等は失われて隷属が支配するようになる。国王はついには国家を私有財産と見なすに到り,他の国家に対して戦争を起こし,奴隷制を導入する。この歴史段階において人聞の行動の動因は恐怖のみである。だが,こうした状態が続く中で君主は,国家と君主自身の利益のためには支配下の国民が盲従するばかりの愚民に留まっていることは得策ではないと知る。自分の「征服欲を満たし,他国を屈伏させるため」には理性の活用が不可避である, との認識と共に「とてつもないメタモルフォーゼ」が起こる。君主のエゴイズムに起因しながらも,理性の支配は学問や産業の開花をもたらし政治的抑圧を減少させ,自由の復活を招くことによって「人間精神の革命」を準備する。これによって人類史の第三期が始まる。「啓蒙専制君主」 による改革の成果を保持し,過去への頽落を防止するために,社会の「選ばれし最良の者たち」,すなわち啓蒙主義者は自己組織を始める。彼らの目的は,専制主義によって破壊された人間の諸権利を自然の法則に適った形で回復し,啓蒙と道徳の促進を通じて「君主と国家が不要な」 体制を築き,最終的には理性が「人間の唯一の法典」であり,全人類が再び「一つの家族となって,世界が理性的人間の住処となる」 ような状態を実現することである。
この歴史哲学において秘密結社(ヴァイスハウプトは「叡知の秘密養成所(geheime Weisheitsschule)」という語を用いている)には,神の救済計画の担い手という世界史的機能と共に,キリスト教の正統な嫡子としての意義が与えられている。すなわち,結社が伝道すべき啓蒙主義の精髄とは「イエスとその使徒たちの神の教え」に他ならない。なぜならイエスが目指したのは「人間たちにその本源的な自由と権利を再ぴもたらす」ことであり,その意味でキリスト教は理性宗教そのものだからである。しかし
―172― (7)
ながら,世俗世界において君主の支配が自由と平等を破壊したように,精神世界においては教会の専制主義が,イエスの本来の意図を誤解し,人間精神の隷属化を招いてしまった。本源的なキリスト教はそれゆえ「フリーメイソンの衣装を纏って」 秘密の裡に保存きれ,伝承きれた。しかしフリーメイソンもまた,次第に本来の使命を忘却して,錬金術や党派聞の抗争に明け暮れている。こうした状況において,「選ばれし者たちの同盟」である啓明結社だけがイエスの教えの理想的体現者である。
後の反啓明結社陣営による攻撃の矛先は,結社の政治的目標として「君主と国家が暴力行為を経ずして地上から消滅する」11)ような体制が掲げられていた点に向けられたが,これと並んで最も声高な非難は,結社が理神論の唱道によってキリスト教の破壊を画策していたというものであった。12) クニッゲは『フィロの説明』の中で,こうした告発に対して潔白を証明しようと試み,彼が作成した「スコットランド位階」が「キリスト教に対する心の底からの温かな崇敬が光りを放っている」(106)ことをその例証として挙げている。しかしながら,彼が「キリスト教の保持に努めることが重要である」( 105 )と主張するとき,彼が念頭においているのは奇蹟,復活,三位一体,悪魔,天地創造などの超自然的真理に立脚する正統的キリスト教ではなしその教義が「自然に適」っているもの,つまり理性的根拠に裏付けされた宗教である。
[
注:
元祖イルミナティは無神論でもないし悪魔崇拝でもない。
『新たに採用きれる監督啓明士に告ぐ』は、 1782 年にヴァイスハウプトによって起草され、クニッゲが僅かに補筆。
最終的には『第一の部屋における教授』の題で「司祭」位階への参入儀礼に組入れられた。
この文書には結社の最終目標が書かれている。その内容は多くの結社員によって啓蒙主義精神の神髄と賞賛される。
この文書は、 1787年の『啓明結社原典資料集補遺』の公刊によって世に出た。
元祖イルミナティ思想は、ルソー(1712年6月28日 - 1778年7月2日)思想の影響下だな。
ルソーは、文明によって人間が毒されなければ、人間の素質は自然に発達すると考えていた。ルソーは人間が未開から文明に到達するとともに、不平等が生まれ、人間は堕落すると考えた。つまり、ルソーにとって、文明以前の状態が善で、文明は悪である。
中略。
↓「彼」はクニッゲのこと。
]
彼がここで構想している,段階的な人間性の陶冶と秘密の開示,上部メンバーの監視による不適格者の結社からの排除は実行に移され,結社の運営担当部門と研究担当部門の分離は「摂政位階」と「司祭位階」の並立によって実現された。他方, 「新しい結社組織図」においてヨハネ三位階に続く二位階が,「スコットランド修練士」 ,「スコットランド騎士」という,「厳格な服従」の位階を思わせる別称を有している事実は両義的である。この措置には,一方で、は両結社の類似性によって「厳格な服従」の会員を抵抗なく啓明結社に導くという戦略的意図が見てとれ,その限りにおいてはヴァイスハウプトの意に反するものではない。しかし他方では,このフリーメイソン制度に特徴的な疑似カトリック
(10) ―169―
的儀礼もまた同時に流入することになった。クニッゲは,「スコットランド・フリーメイソン風の簡素で、感動的な儀式」を導入することによって,結社員がイエスの教義の正統な継承者であるとの自覚を高めることが出来ると説明している(105)。しかし,ヴァイスハウプトにとってこうした儀式の導入は,啓明結社が排除すべき宗教的迷信の侵入に他ならなかった。クニッゲの仕上げた位階に見られるこうした傾向についてヴァイスハウプトはこう述べている。「しかし,正直に言って,これらの位階のどれ一つとして私の気に入るものはない。すべてはひどく無味乾燥で,心や情念に訴えるものが乏しいのだ」19) 「スコットランドの騎士ごっこは私の趣味ではない」 20) ヴァイスハウプトの考えでは,啓明結社は影響力と有効性を失いつつあったフリーメイソンに取って代わるべき存在であるがゆえにこそ,フリーメイソンと啓明結社との異質性は断固として保持されねばならなかった。彼にとってフリーメイソンは自分の結社の隠れ蓑として有用な組織に過ぎず,その価値は徹底してこの機能的側面に限定されていた。これに対し,クニッゲは自ら『フィロの説明』の中で告白しているように,「なおも『厳格な服従』に一種の愛着」を持っており,これと啓明結社の「両組織を合体」させたいとの願望を抱いていた( 83 )。フリーメイソンに関する両者の見解の相違は,疑似宗教的儀礼の導入の是非のみならず,「厳格な服従」の中心メンバーである君侯の結社への勧誘の可否とも連動して,彼らの関係を次第に悪化きせてゆく。それが一挙に表面化するのがヴィルヘルムスバートの国際フリーメイソン会議であった
[
注:
ヴァイスハウプトの口が悪すぎて笑ってしまった(笑)
中略
]
ディトフルトはヴイルへルムスパートの会議の翌年,様々なフリーメイソン流派のゆるやかな結合体である「折衷同盟」 (Eklektischer Bund)を組織する。この同盟は「象徴的三位階(ヨハネ位階)についてのみ同ーの形式で活動」する他は「高位階を承認することも(…)他の秘密結社において自分の幸福を築くこと」26) も個々のロッジの裁量に委ねるという方針を取ったため,啓明結社にとって多様な体制のフリーメイソンに潜入し,これを内部から占拠するための理想的な可能性を開いた。ヴァイスハウプトは1783 年 1 月 11 日のツヴァック宛書簡のなかでティトフルトの計画を賞賛してこう書いている。「われわれの最大の関心は,フリーメイソンに折衷同盟を導入することだ。これが成就したなら,われわれはすべてを恣いままにすることができる」27) この一節は,結社のフリーメイソン戦略における指導的地位がクニッゲからディトフルトに移ったことを如実に表している。
― 166― (13)
クニッゲはディトフルトとヴアイスハウプトのこうした動きに対し,「厳格な服従」の指導者たちを獲得することで密かにこの組織を啓明結社の影響下に収めようと試みる。なかでも大きな成果となったのが,ワイマールの宮廷顧問官で「厳格な服従」の財務長官の任にあったヨーハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデの結社への参加であった。これも後に啓明結社員となるザクセン=ゴータ公エルンスト二世の代理として会議に参加していたボーデは,これ以後クニッゲと並んで北ドイツおよび中部ドイツにおける最も熱心な結社活動家となる。レッシングの『ハンブルク演劇論』やクロップシュトックの『頌詩』の出版者として知られ,ニコライを中心とするベルリンの啓蒙主義者とも盛んな交流を持っていた彼は,フリーメイソンの世界においても,フリーメイソン関連の膨大な蔵書の所有者とし
て,また「厳格な服従」の改革論者として極めて高名であった。彼の活躍により,ワイマールには啓明結社のさらなる重要な拠点が築かれ,ゲーテ(1783 年 2 月 11 日入会),へルダー( 1783 年 7 月 1 日入会),ザクセン=ワイマール公カール・アウグスト( 1783 年 2 月 10 日入会)など,政治的・文化的影響力を持った人物が数多く結社員となった。28) ボーデの指揮の下に上部ザクセンの啓明結社は, 1780 年代半ばにバイエルンで啓明結社が禁止され,消滅したのちも 1790 年代にいたるまで活動を続けることになる。
クニッゲはボーデの協力を背景に北ドイツにおけるフリーメイソン・ロッジに対し完全な支配権を確立しようと活動を続け,ついにはブラウンシュヴァイク公フェルディナントとへッセン=カッセル方伯カールという「厳格な服従」最高指導者であるこ人の君侯の勧誘に成功する。しかしヴァイスハウプトにとってこの一歩は,結社における自己の指導的地位だけでなく,結社の存立基盤そのものを危うくする行為と映った。ヴァイスハウプトは『管区長に与える訓令』の中で, 「君侯の入会は極力避けるべき」であり,仮に入会したとしても結社の「政治的最終目標」 が開示される司祭位階への昇級はさせぬよう指示している。「彼らを自由にしたならば,服従を拒否するばかりでなしこの上なく気高い意図すら自分の利益のために利用するであろうから」 29) 「君主と国家が不要な体制」の実現を
(14) ―165―
目指す結社と君主の結社員という原理的な不整合に加えて,ヴァイスハウプトはディトフルトの影響の下,この二人を「厳格な服従」の非合理的・神秘主義的体質の典型と見なしていた。30)
ヴァイスハウプトのクニッゲに対する非難は,彼の作成した位階に見られる「宗教的狂信」の要素に始まり,さらに下部結社員に対する統率力の欠如にも向けられて(「彼の担当地区はどうしようもなく混乱している」 31))激しさを強めていたが,この二人の君侯の入会を機に,彼が「われわれに秘密の活動をおこなって,何か別の組織を築いている」という疑惑を抱くに至る。「フィロはまだしても呆れた愚行に精を出している。これではわれわれは『厳格な服従』に売り飛ばされたも同然だ。今後はわれわれにフェルディナント公の完全な支配下に入れというのだが,私の目の黒い内はそんなことをさせはしない」 32) 実際クニッゲはヴァイスハウプトの絶対的指導性に制限を加え,結社の指導体制を「専制主義」から「共和主義」に移行させるという意図が「厳格な服従」の指導者勧誘の動機の一つであったことを述べている。33) これに対しヴァイスハウプトは結社中枢部からクニッゲを排除することを決意して,その結社活動をこう総括している。「彼は多くの重要な人聞の獲得を通じて結社に優れた功績を残したが,その他の点では私の力にならなかった。(…)彼はいくつもの無意味な位階を挿入することで私の計画の統一性を台無しにした。長いあいだ彼に譲歩してきたが,もはや彼のやることは度が過ぎている」 34 )一方クニッゲもまたヴァイスハウプトの自分への絶対の服従の要求に「人聞の独裁的支配」を意図する「イエズス会的専制主義」の現れを見て,彼に対する全面的対決の姿勢を明確にする。自分は「イエズス会総長の命令に盲目的に従う」ような人間ではなく,「インゴルシュタットの一教授に学生扱いされる」つもりはない, 35 )と宣言したクニッゲは,最終的にボーデの仲介を経て 1984 年7月1日付で正式に啓明結社を脱退するのである。
クニッゲは『フイロの説明』の中で,啓明結社脱退以後「あらゆる秘密結社活動から手を引いた」( 140 )ことを明言し,『人間交際論』中の一章
-164- (15)
『秘密結社員との交際について』においては秘密結社の有益性を否定する「信仰告白」を行っている。36) そこで展開きれている秘密結社批判には,ヴァイスハウプトとの抗争を通じて得た認識「スパルタクスが意図するようなやり方で人々を悪用し虐げる結社は,人々をイエズス会よりも酷い隷属状態に追いやるものだ」 37 )が明確に反映している。しかし,こうした公的宣言にもかかわらず,クニッゲの生涯における「秘密結社員との交際」の章はとじられない。『フィロの説明』と『人間交際論』が出版された 1788年,クニッゲはすでに次なる秘密結社活動の場を求めてカール・フリードリヒ・バールトの「ドイツ同盟」との接触を開始するのである。
注
[中略]
(28) ゲーテ,へルダー,カール・アウグストの結社参加については長らく疑いがもたれていたが,ボーデの遺稿に基づいたW.ダニエル・ウィルソンの最近の研究( W. Daniel Wilson : Geheimräte gegen Geheim-
bünde,Stuttgart 1991 )によって改めて実証された。
” ※着色は引用者
(「1984 年7月1日付で正式に啓明結社を脱退」は原文ママ。1784年の間違いだろう。
クニッゲは元祖イルミナティを脱会した後に、『人間交際術』で秘密結社を批判したけど、秘密結社活動は諦めていない。
つまり、『人間交際術』には保身の目的もあるということなので、文字通りに受け取ってはいけないのだろうな。秘密結社叩きには本音と、保身用の個所が混ざっているのだろうな)
以上より、フーフェランド自体の解説内容は正しい。
論文については終わり。
ワクワクさんが紹介してくれた素晴らしい論文だ。紹介してくれたワクワクさんに感謝。
「啓明結社とフリーメイソン: アドルフ・フライヘア・クニッゲにおける「啓蒙と秘密」(II) 」は自力で見つけた、素晴らしい論文だ。以下↓の動画をきっかけとする考察もマジ重要だからオススメ。鷗外の陣営の考察を含む内容だ。
【ゆっくり解説】天才文豪「森鴎外」!軍医の頂点を極め、舞姫や高瀬舟など傑作小説を残した彼の激動の生涯を振り返る!
https://www.youtube.com/watch?v=IGhq_13hDqM
”2022/06/11 #森鴎外 #歴史 #ゆっくり解説
ご視聴いただきありがとうございます。
今回は森鴎外の激動の生涯を振り返っていきます。
ぜひゆっくりしていってね!
0:00 オープニング
1:02 森鴎外の概要
3:10 森鴎外の生涯の振り返り
35:03 エンディング
※参考文献と引用サイト
・山崎 一穎 森鴎外―国家と作家の狭間で
・小堀 桂一郎 森鴎外―日本はまだ普請中だ (ミネルヴァ日本評伝選)
・山下 政三 鴎外 森林太郎と脚気紛争
・志田 信男 鴎外は何故袴をはいて死んだのか―「非医」鴎外・森林太郎と脚気論争
・国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/ )
・Wikipediaコモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/Ma... )”
[動画の解説の一部を私が要約(なので動画の文章そのままとは限らない)。
・翻訳家としては、「ファウスト」や「アンデルセン」などのヨーロッパ文学を訳し、西洋文学を日本に広めた。
・軍医としては、衛生学の調査と研究を目的にドイツ留学を命じられる等、将来を期待された。
・最終的に軍医の最高位である、「軍医総監」まで登りつめている。
・文久2年(1862年)2月17日、石見国津和野町(現・島根県津和野町)で誕生。
(津和野は支配層的に重要な場所だろうな)
・生家は、代々津和野藩に仕える医者の家柄。
(地位が高い家)
・オランダ語も学んでいた林太郎(後の鷗外)は、明治五(1972)年6月、10歳で父と上京。
8月に東京に到着し、旧幕臣で明治政府の官僚、西周の元に身を寄せる。
西は林太郎の曽祖父の次男が西家を継いで生まれた人物で、森家と縁戚にあった。
若き林太郎は、西家から本郷の進文学社という私塾に通い、ドイツ語を学ぶ。
(オランダ語。医者の家系だし、蘭学者人脈だったのかも。オランダといえばメイソン。
親戚が、オランダ系メイソンの西周。鷗外はケツ社員にならない方が難しい運命の下で生まれている)
・林太郎は漢学に蘭学と様々な学問を下地にし、日本に浸透していない概念を、既存の言葉や造語に当てはめる事に腐心。
様々な童話や戯曲などを翻訳。詩情、空想、女優などの言葉を生み出した。
(翻訳と造語はケツ社員の重要な仕事の1つ。西周の造語は一部が有害だ[演繹、帰納、観念は有害な訳語])
・林太郎は明治十七(1884)年6月、22歳で衛生学の研究と、ドイツ軍の衛生制度を調べる為、ドイツ留学を命じられる。
(ケツ社員になった時期の候補の1つがドイツ留学時。留学より前に、西周の紹介で既にケツ社員になっているかもしれないけど。
クニッゲの著作に言及されるうえに、舞台がバイエルン王国(バヴァリア)で、「ミネルヴァ」ってカフェが何度も登場する、あまりにも元祖イルミナティすぎる『うたかたの記』を発表する1890年8月より前にはケツ社員になっていると考えている)
・ゲーテやバイロンが詩に込めた浪漫的心情は、鷗外によって日本語に見事に翻訳された。『於母影』(おもかげ)は日本近代詩の形成に大きな影響を与えた。
(『於母影』は、 森鷗外や落合直文ら新声社同人の訳詩集。1889年発表。ゲーテ・バイロンなどの西欧の詩を訳した。
鷗外は元祖イルミナティのゲーテの『ファウスト』も訳している。)
・明治二十三(1890)年1月に発表した処女作が『舞姫』。
『舞姫』の後、同年8月に留学時代の友人・原田直次郎をモデルにした『うたかたの記』を発表。
明治二十四(1891)年に、ザクセン王国帰りの若き日本軍将校を主人公にした『文づかひ』を発表。
これら3作品は「ドイツ三部作」と呼ばれ、留学時代の浪漫的な体験が色濃く反映されている。
(処女作の『舞姫』はケツ社要素が全然出てこない印象だ。2作目の『うたかたの記』で急にクニッゲ本やらミネルヴァやらバイエルンやらを強調しだす(笑) おそらく、処女作ではケツ社要素抜きで物語を書けるか本人と他のケツ社員が確認するのが目的だろう。
実力確認。
問題なく小説を書けることが分かったので、次作からケツ社要素を入れたのだろうな。
ほら、今でもいるじゃん。最初はケツ社要素が全然なかったのに、急にケツ社度が上がる人(笑) 例えば、『仏滅の刃』の人だよ。初期短編集と『仏滅の刃』を読み比べれば一目瞭然。隠れキリシタンの呼吸なんて初期短編集には登場しないからな。
連載作品になると急に尻社要素が濃くなり、赤い右目側の意向が強く反映されているという大変不自然な作品。
詳しくは以下をどうぞ。
ご支援用⑧(無料公開は危険な『仏滅の刃』考察)
https://yomenainickname.booth.pm/items/3874217
)
・恋の悩みを理性の力で乗り越える青年の成長を描いた、『青年』という作品を1910年3月から連載。
かつての鷗外は『舞姫』という浪漫溢れるドイツの情景と、失恋の末に発狂するエリス(エリーゼ)という浪漫主義的な作品を描いたが、長年の経験を経て、「恋という本能に翻弄されるのではなく、人間が持つ理知的な生き方を描く文学作品こそが優れている」という境地に達する。
(思想が、元祖イルミナティ的な、啓蒙主義的な理性重視思想になっている(笑)
理知:理性と知恵。論理的に考え判断する能力。)
・鷗外は大正六(1917)年12月、57歳で現在の東京国立博物館の前身にあたる、宮内省帝室博物館の総長と図書頭に就任。
(元祖イルミナティ強調の小説、理知的な生き方を良しとした思想、博物館という、今現在の分類だと赤組だな、鷗外)
・大正十(1921)年6月に鷗外は、臨時国語調査会長にも就任し、常用漢字や仮名遣いの修正や改定案についても議論している。
・鷗外は「明治」「大正」という年号に否定的だった。明治と大正は過去に他国で使われていた経緯があり、鷗外は「不調べの至り」と調査不足な政府を批判した事があった。
(「明」が「治」める元号に否定的だったのは意外だ。ケツ社的すぎる元号なのにな)
・鷗外は、樋口一葉をいち早く激賞し、与謝野晶子や平塚らいてうも早くから高く評価するなど、女性への偏見もなかった。彼の作品には女性を主人公とした作品も多く、自宅で多くの人を交えたサロンなども開催した。
(有名な文学者って本当に怪しいよね。鷗外もケツ社員なんだろうな。
そりゃ『舞姫』が教科書に採用されるよね。学校教育というまさに啓明会[イルミナティ]の重要活動にて、元祖イルミナティのクニッゲの著作を『うたかたの記』で紹介したり、クニッゲの著作を元に『知恵袋』を書いた鷗外が採用されるのは当然といえる。
紹介した論文の「どういうわけか鷗外が同書を翻案であると断りながら、原典の作者名をどこにも挙げていない」の理由は、クニッゲと同様、自分もケツ社員だからなんだろうな。クニッゲの作品を元にしたと明かすと、自分のケツ社的立場が明確になってしまうからな。『うたかたの記』に「クニッゲが交際法」だけでなく「カッフェエ・ミネルワ」が登場する(笑) 「カッフェエ・ミネルワ」は実在するカフェだよ。
しかも、「ミネルワ」が何度も登場する(笑) 元祖イルミナティの象徴がミネルヴァのフクロウだし、一部の階級の名前にミネルヴァが含まれる。つまり、鷗外は元祖イルミナティについて、象徴または階級名までも知っていたのだろう。
ドイツ・バイエルン王国が舞台だからバヴァリアは何度も出るのどうみても狙ってるでしょ。
カッフェエ・ミネルワは美術学校の近くにあるので、芸術の神としてのミネルヴァの意味だろうけど、鷗外はそれに元祖イルミナティの意味も付加しているのだろう。掛詞は基本]
森鴎外のドイツ留学を辿ってみよう
https://tannoy.sakura.ne.jp/moriougai.pdf
” ミュンヘン大学の北側に、アカデミー通りがある。凱旋門から西に延びる道である。
この凱旋門は、1814年のバイエルン解放戦争での勝利を記念して、ルードヴィヒ1世が作らせたもので、1852年に完成した。門の上には、バヴァリア女神像が立っていて、ライオンが引く車に乗っている。この像は、後述のように、森鴎外の『うたかたの記』の冒頭に紹介されている。
アカデミー通りを西に歩くと、ミュンヘン美術アカデミー(Akademie der Bildenden Künste München)の壮大な建物が見えてくる。ミュンヘン美術院と訳されることもある。
設立されたのは、1770年頃に絵画学校として作られた。1808年にバイエルン国王のマクシミリアン1世によって、王立美術アカデミーへと格上げされた。マクシミリアン1世は、ミュンヘン大学でも中興の祖であった。1850年~1918年までカウルバッハとピロティが校長をつとめ、ミュンヘン派という画風を作り出し、ヨーロッパ中に知られた。1946年に芸術工芸学校と絵画学校がアカデミーに統合された。美術大学でもあり、多くの学生が学んでいる。
アカデミーの建物は、1886年に完成したルネサンス・リバイバル様式の建物である。前に騎馬像が立っていて印象的である。西側には2005年に建てられた新しいビルがある。
森鴎外の『うたかたの記』の舞台
このミュンヘン美術アカデミーは、森鴎外の『うたかたの記』(1890年、明治23年発表)の舞台として有
名である。
その冒頭は次のようである。
幾頭の獅子の挽ける車の上に、勢よく突立ちたる、女神バワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世がこの凱旋門に据ゑさせしなりといふ。その下よりルウドヰヒ町を左に折れたる処に、トリエント産の大理石にて築きおこしたるおほいへあり。これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。校長ピロッチイが名は、をちこちに鳴りひびきて、独逸の国々はいふもさらなり、新希臘、伊太利、デンマークなどよりも、ここに来りつどへる彫工、画工数を知らず。日課を畢へて後は、学校の向ひなる、「カッフェエ・ミネルワ」といふ店に入りて、珈琲のみ、酒くみかはしなどして、おもひおもひの戯す。こよひも瓦斯燈の光、半ば開きたる窓に映じて、内には笑ひさざめく声聞ゆるをり、かどにきかかりたる二人あり。
出典:森鴎外 うたかたの記 - 青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.h
tml
この文章は古語なので難しいが、現代語訳しているサイトを見つけたので、引用する。
ライオンが引く車の上で、勢いよく立つバヴァリア女神像は、ルードウィヒ一世がこの凱旋門に建てたもので、 ここから下ってルードウィヒの町を左に折れたところにトリエント産の大理石で築かれた荘厳な建物がある。ここはバイエルンにある有名な美術学校である。
校長のピロッティの名は諸外国にも鳴り響き、ドイツだけではなく、 ギリシャ、イタリア、デンマークなどからも彫刻家や画家をめざす学生が大勢集まっていた。
学生たちは授業が終わると学校の向かいにある「カフェ・ミネルバ」という店で、 コーヒーや酒を飲み交わしながらくつろいでいる。
今夜もガス灯のあかりが半分開いた窓に映り、そこから外にこぼれた笑い声が一段と大きくなったころ、店のかどまで来た二人づれがいた。
出典:鴎外作品(現代語訳) 『うたかたの記』 http://www15.plala.or.jp/joe2622cool/utakata_jo.htm
ここに出てくる「バイエルンにある有名な美術学校 」こそがミュンヘン美術アカデミーである。バイエルンにある有名な美術学校
「ルードウィヒ一世がこの凱旋門に建てた 」「バヴァリア女神像 」については、前述のとおりである。
「学校の向かいにある「カフェ・ミネルバ」という店 」は、実在した(後述)。
最後に出てくる「2人づれ」とは、エキステルというドイツ人画学生と、巨勢という日本人画学生である。
『うたかたの記』は、巨勢と恋人マリーの悲劇であるが、ここに国王ルードヴィヒ2世が登場して、物語は、ルードヴィヒ2世の非業の死の謎を解く歴史ミステリーとして進んでいく。
基本は、狂王ルートヴィヒ2世 (1845~1886年)が、1886年に水死した謎を解くという歴史ミステリーである。ルートヴィヒ2世は、恋をした女の娘を見て、近づこうとして水死したのだという謎解きである。
しかし、娘が日本人と知り合って、湖に行き、そこでたまたまルートヴィヒ2世と出会って事件がおこり、王も娘も死んでしまうというストーリーである。国も民族も時空も超えた荒唐無稽のファンタジーである。
こんなぶっとんだ話を鴎外が書いていたのはびっくり。
この巨勢のモデルとなったのが、画家の原田直次郎である。
[中略]
カフェ・ミネルヴァのあった場所
[
画像略。カフェ・ミネルヴァと美術アカデミーは本当に近所だな。
中略
]
『うたかたの記』に出てくる「カフェ・ミネルヴァ」は、アカデミー通りとアマリエン通りの東側の角に
あった。今から130年前のことであるが、今でもその場所はわかる。
右側の写真は、アカデミーから南のアマリエン通りを見たものである。左側の角にミネルヴァがあった。
現在は別の建物が建っている。
このカフェの2階に原田が下宿していた。原田は、妻子あるにもかかわらず、このカフェに勤めていたマ
リイに手をつけたのである。
” ※着色は引用者
制服を脱いだ森林太郎 ―鷗外のミュンヘン―(Y. Birumachi)[J]
https://www.jgg.jp/pluginfile.php/310/mod_folder/intro/0085.pdf
”鷗外が描き分けるミュンヘンとベルリンの二つのカフェは、そのまま芸術都市ミュンヘンと世界都市ベルリンの性格を反映するものでもある。ヨーロッパでは 19 世紀末に、アーティストやボヘミアン達が集う芸術家カフェ(Künstlercafé)が流行した。先に鷗外は、蓬髪でラフな格好をした若者たちが「あながち卑しくも見えぬ」さま、つまり、ミューズの名のもとに集まった美大生たち特有の、高踏的な気配とその生態に言及していた。アカデミーの学生が集う『うたかたの記』のカフェ・ミネルヴァは、おそらく日本にこのタイプの喫茶店が紹介された初めての例に違いない。その後のカフェ文化史をひもとけば、東京にも芸術家カフェのような場を求めた「パンの会」の活動、その結果として、1911 年、銀座における日本初のカフェ、プランタンの開業などが挙げられる。明治・大正期の芸術家たちの交流に深く関わるカフェ文化に、鷗外が果たした影響はかなり大きいのではないだろうか。余談だが、鷗外の死の翌年、1923 年にミュンヘンに留学した斉藤茂吉は、カフェ・ミネルヴァの残像を求めて冬の街をさまよい歩き、その経験を、エッセイ「カフエ・ミネルワ」に記している。
およそそんな内容を話して講演を終えると、懇談の際に、一人の婦人が私のほうに来られた。名刺を見ると Andrea Hirner 博士とある。彼女は、バイエルンと日本との史的交流をテーマとした本、Japanisches Bayern を著した研究家であり、鷗外にも造詣の深い日本学者であった。彼女は私に一枚の写真を見せ、「これはカフェ・ミネルヴァですよ」と言った。私は驚いて写真を手に取り、そこに映っている建物を見つめた。カフェ・ミネルヴァは、場所こそ美術学校の斜め向かいのアカデミー通り沿いとされているが、営業した期間が短いのか、私が調査した当時のどのミュンヘン案内書にも載っておらず、むろん写真などはこれまで見つかっていなかったのだ。
” ※着色は引用者
青空文庫
森鴎外 うたかたの記
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.html
【朗読】森鴎外「うたかたの記」【プロ声優】
2022/11/14
https://www.youtube.com/watch?v=4x_ILpLy5PY
”ミュンヘンに留学中の画学生・巨勢と、数奇な人生を辿り美術学校のモデルとなっている少女マリイとの、儚い物語。
日本画学生の巨勢はドイツ・バイエルン王国の首都ミュンヘンで、六年前に出会った花売り娘のマリイと再会する。巨勢はマリイの面影が忘れられず、自作のローレライのモデルとしていた。マリイはいきなり巨勢に接吻する。驚く巨勢に、同行していた友人は「彼女は美術学校のモデルだが狂っている」と言う。
「うたかたの記」は、森鷗外のドイツ三部作と呼ばれる、主にドイツを舞台とした初期作品、異国情緒ある物語を森鷗外の流麗な文語体で書かれた儚い悲恋物語です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
森鴎外は1862年(文久2年)島根県に生まれました。森家は津和野藩の典医を務めました。10歳の時、父と上京し、官立医学校に入るためにドイツ語を学びます。1873年、東京大学医学部に12歳で入学。卒業後は陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務し、ドイツの衛生制度を調べるためにドイツに留学。1889年「小説論」、翻訳戯曲を発表するなど軍医でありながら文筆活動をしてました。「陸軍省医務局長まで務めたが、1916年に退官。その後、東京国立博物館に就任。1922年に60歳で死去。
主な代表作は『舞姫』『うたかたの記』『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』。アンデルセン、ゲーテ、シェイクスピア、シラー、ハウプトマン、ショーペンハウアー、フォン・ハルトマンなど海外の作家から多く影響を受けています。
” ※着色は引用者
【読み聞かせ】うたかたの記(現代語訳版)
https://www.youtube.com/watch?v=C_4DqfKoEi0
【原田直次郎】油絵でなぜ観音様を描いた?【明治の洋画家シリーズ第2弾】
2021/12/03
https://www.youtube.com/watch?v=ZGF4d-z5R20
うたかたの記 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%AE%E8%A8%98
原田直次郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%9B%B4%E6%AC%A1%E9%83%8E
森鴎外が訳したゲーテの戯曲「ファウスト」~ご入居者さまの作品特集♪~ | 【エレガリオ神戸】神戸市内の介護付き有料老人ホーム
https://elegario.com/blog/7908.html
”こちらの記事は以前、会報誌でご入居者さまが森鴎外について書かれたものです。
お書きになられたご入居者さまは数年前にお亡くなりになられたのですが、生前よく可愛がっていただきました。よくお部屋で楽しくお話させていただいたり、パソコンのお教えしたりなど、たくさんの思い出があり、本当にお世話になりました。
今回のブログでは、生前ご入居者さまが会報誌でお書きになられた作品をご紹介します♪
はじめに
平成二十七年四月号の「海岸通之風」に森鴎外が翻訳したアンデルセンの「即興詩人」について述べたが、鴎外最後の和訳はゲーテの長編戯曲「ファウスト」であった。この戯曲の和訳が完成したのは大正二年(一九一三)であったが、その和訳を発想したのは鴎外が二十三歳の陸軍軍医としてドイツへ留学中の明治十八年(一八八五)のことで、それは留学地ドイツのライプチヒの酒亭「アウエルバッハスケラー」でのことであった。この日のことは鴎外の留学記録である「独逸日記」に次のように記されている。
“明治十八年十二月二十七日 (前略)夜井上とアウエルバッハ店(Auerbachskeller)に至る。ギョエテの「ファウスト」(Faust)を訳するに漢詩体を以てせば如何などと語りあひ、巽軒(註)は終に余に勧むるにこの業を以てす。余もまた戯に之を諾す。“
(註;巽軒(そんけん)井上哲次郎、一八五六~一九四四)。哲学者。福岡大宰府に生まれ、東京開成学校を経て東京大学で哲学を専攻、一八八〇年卒業、大学助教授となり、ドイツに留学、一八九〇年帰国、東京大学文学部教授となった。一八九八年文科大学学長、学士院会員。在独中に森鴎外と親しくなった。)
現在、この酒亭にはドイツ留学時代の若い鴎外、井上巽軒と翻訳が完成後の晩年に近い鴎外、それにファウスト博士やメフィストフェレスを描いた絵画が掲げられているという(図)。本稿ではこの絵画を中心に「ファウスト」翻訳に至る経過について一望したい。
一.鴎外のドイツ留学
すでに述べたように、津和野生まれの森鴎外(林太郎、一八六二~一九二二)は十歳で父とともに上京、年齢を偽って帝大に入り、一八八一年に十九歳で医科大学を卒業した。陸軍軍医副に任ぜられ、二十二歳のとき衛生学研究のためドイツ留学を命じられた。鴎外は一八八四年(明治十七)八月二十三日に横浜を出航、マルセイユ、ベルリンを経て十月二十二日に最初の留学先ライプチヒへ着き、この地の大学衛生学教室でホフマン教授に学んだ。滞在中ドレスデンでドイツ陸軍演習などに参加し、一八八六年三月七日にミュンヘンへ移り、ペッテンコーファー教授に学んだ。さらに一八八七年四月十五日ベルリンへ移って衛生試験場で研究したのち、一八八八年帰国の途に就き、七月三日ベルリン發、各地訪問ののち、マルセイユを七月二十七日出航、九月八日に横浜へ帰着した。この間の鴎外の経験は「独逸日記」に詳しいが、最近、私の高等学校時代の同級生・武智秀夫医学博士が詳しい資料に基づいた「軍医森鴎外のドイツ留学」(二〇一四)を出版した。
ライプチヒ、ミュンヘン、そしてベルリンでドイツの衛生学を学んで一八八八年、二十六歳のとき帰国した鴎外は直ちに陸軍軍医学校教官を命じられ、以後、日清・日露戦争などに従軍、陸軍軍医の最高位である陸軍軍医総監・陸軍医務局長まで昇進し、軍医として功をなした。ドイツから帰国後の二十八歳の一八九〇年、鴎外は「舞姫」、「うたかたの記」、翌年「文づかひ」のいわゆるドイツ三部作を発表した。面白いことに、鴎外はこれらドイツ三部作や「即興詩人」を「文語体」で書いている。詳細は省くが、これら三部作以後、文筆家としての活動も目覚ましく、三十九歳で「即教詩人」の翻訳、四十九歳で「ファウスト」の翻訳に着手、翌年脱稿した。
森鴎外の天才ぶりに大いに力になったのはその語学力であろう。幼時にはオランダ語を学び、以後はもっぱらドイツ語の勉強に集中し、読み書きはもちろん会話にも不自由なかったという。鴎外は「独逸日記」でもドイツ語をしばしば用いているが、彼のドイツ語については植田敏郎(一九九三)が詳しく論じている。鴎外はさらにドイツ留学中に英語も学んだ。幼時から漢文にも親しんでいたので、即興で漢詩を作ることもできた。
二.「ファウスト」について
ドイツに十五世紀から十六世紀に実在したといわれるドクトル・ファウストの伝説を下敷きにしたのがこのゲーテの代表作である。「ファウスト」最古の人形芝居が一七四六年、ハンブルクで上演されたというが、以後も演劇などでしばしば取り上げられたようである。ゲーテも子供のころからこの伝説に並々ならぬ興味を持ち、旅回り一座の人形劇を見たという。
ゲーテ畢生のこの大作は二部からなる長編戯曲で、その第一部を一八〇八年、第二部を一八三三年に発表した。書き始めてから完成まで三十年の歳月を要した。その内容を簡単に述べたい。この戯曲の内容は奇想天外であるが、当時のヨーロッパにおける政治、社会の混乱を背景として考えなければならない。宗教改革後の三十年戦争(一六一八~四八)はプラハに始まり、戦争は全ヨーロッパ中を巻き込み、ドイツ全土は戦場となり、ドイツの国土も人々の心も荒廃した。その後、十四~十六世紀にイタリアで興ったルネサンスがドイツへ流入、人びとを自由にしたといわれる。しかし小栗浩(一九七九)はそれを肯定していない。つまり、「ファウスト」はこの動乱時代の冥暗の中から不気味な姿を現すものだという。
主役はファウスト博士とマルガレーテ(グレートヘン)、それに悪魔メフィストフェレスである。主人公ファウスト博士は錬金術や占星術を使う魔術師であるとされ、悪魔メフィストフェレスと契約し、最後には魂を奪われるという話で、「プロローグ」、献辞と前戯」、「天上の序曲」、のあと、第一部、第二部が続く。そのあらましを述べたい。ファウストはメフィストに導かれて街の酒亭(つまりアウエルバッハ酒亭)に出掛けるが、酒飲みの乱痴気騒ぎが彼を満足させない。「ファウスト」第一部に「ライプチヒなるアウエルバッハの穴倉」とする章があり、「面白げなる連中の酒宴」という部分で学生たちの乱痴気騒ぎが描写されている。ここで暫くファウストとメフィストは
「御覧なさい。自由の民だ。あれが鼓腹の楽だ」。これに対しファウストは
「己はそろそろ行きたいがなあ」と不満を述べている。
メフィストは五十歳のファウストを若返らせ、街の娘マルガレーテに会わせる。ファウストは彼女を愛するあまり。彼女の母や兄を死なせてしまう。グレートヘン(マルガレーテ)はファウストの子を産むが、彼女はこの不義の子を殺して獄に繋がれる。ファウストは彼女を救うため牢へやってくる。しかしグレートヘンは、メフィストから離れられないファウストの助けに応じようとしない。彼女は神の裁きに身を任せる。彼女の巳は破滅したが、心はあくまでも純潔であった。ファウストはメフィストとともに姿を消す。愛する者のもとに留まろうとする心と、愛の神と絆を敵視する本能と、一人の人間の胸に宿る二つの魂の葛藤がここに描かれている。第一部では文学的な詩の形式は自由に述べられているという。第一部の終わりで、グレートヘンを捨てたファウストは「おのれは生まれてこなければよかった」と叫ぶほどの痛恨の思いに駆られた。第二部でファウストは新しい生に蘇えって宮廷に入り、古典ギリシャに憧れ、美女ヘレナと結婚し、戦争で手柄を立て、国土を経営した。ファウストは百歳で盲目となり、死んで行くが、彼の霊はメフィストの手をすり抜けて天上に迎えられる。
ゲーテの「ファウスト」は当時のヨーロッパで多くの人々に知られていたようで、音楽にも取り入れられている。例えば、グノーのオペラ「ファウスト」、ベルリオーズの「ファウストの業罰」、シューベルトの「糸を紡ぐグレートヘン」、ワーグナーの「ファウスト序曲」、あるいはリストの「メフィストワルツ」、ヨハン・シュトラウスのワルツ「メフィスト地獄の叫び」などが知られている。また、演劇や映画でも「ファウスト」はしばしば取り上げられた。
三.ゲーテについて
ゲーテ(Johann Wolfgang Goethe, 一七四九~一八三二)については多く知られ、ここで繰り返す必要はないだろう。彼は詩人だけでなく、物理学者、生物学者、それに政治家でもあったという天才である。その長い生涯は常に女性との恋に彩られ、十代のときライプチヒ大学から移ったシュトラスブルク大学でのフリーデリケとの恋から「野薔薇」が生まれた。小栗浩(一九七九)の年表を見ると、ライプチヒ時代のアンナ・カタリーナに始まり、最後のシュタイン夫人まで十指に余る女性と恋をした。一八三二年に八十三歳で亡くなるまで、ゲーテの創作活動には女性との恋が不可欠だった。
ゲーテは一七四九年、フランクフルトの裕福な家庭に生まれたが、十歳のとき、一七五九年の七年戦争でフランクフルトがフランス軍に占領されるという試練に遭った。ゲーテは一七六四年、ライプチヒ大学で法律を学んだのち、一七七〇年、エルザスのシュトラスブルク大学でさらに法律を学んだ。その後フランクフルトで弁護士を開業、一七七二~七五年に「若きヴェルテルの悩み」、戯曲「鉄腕のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を完成し、創作活動の傍らスイス旅行をし、一七七六年には枢密顧問官に任ぜられ、一七八二年には貴族に列せられ、財務長官となった。フランス革命後のナポレン戦争の際に彼のいるワイマルが占領された時にナポレオンと会見した。翌年「ファウスト」第一部が完成、この頃に光学・色彩論の研究をする。一八一二年にはベートーヴェンに会う。一八二六年に「ファウスト」第二部ができ、翌年完結し、一八三二年三月二二日にワイマルで永眠した。ゲーテの自然科43学的な業績については省略したが、まさに天才の一生だったといえよう。その生涯はファウスト博士のそれと相通じるように思える。
四.アウエルバッハ酒亭
「ファウスト」博士が悪魔メフィストフェレスに連れられて行ったアウエルバッハスケラ3ー(註)では学生たちが乱痴気騒ぎをしている。一七六五年から六八年までライプチヒ大学学生だったゲーテはこの酒亭に通い、ここで「ファウスト」の発想を練ったのであろう。百年余りのち、この酒亭にドイツ留学中の森鴎外も通ったらしい。そして、井上巽軒と出かけた日に「ファウスト」の翻訳を思い付いたという。ライプチヒ市の中心部にある歩行者天国メドラー・パッサージュにある地下酒亭アウエルバッハ店の地上入り口には「ファウスト」登場人物のブロンズ像があり、店の所在がすぐわかる。私もライプチヒを訪ねる度にこの店で食事をした。この酒亭は一五二五年創業で、古い伝統を持っている。私が訪れた頃にはまだ無かったが、F.ポーレンツによって描かれたフレスコ画(図)が二〇〇九年にこの酒亭に掲げられたという。
(註:Kellerは本来「地下室」の意であるが、しばしば酒亭やレストランという意味に使われる。それはアウエルバッハ酒亭もそうだが、レsトランが地下にあるからである。例えば各地の「市役所レストラン」は“Rathauskeller”という)
この画を見て不思議に思うのは、留学時の森鴎外(軍服姿、左)と老年の紋服姿で完成した「ファウスト」の訳本を手にした鴎外(右)が同時に座っている。鴎外の訳本が出版されたのは一九一三年で、それから鴎外の死の年一九二二年までの間に井上巽軒とこの酒店を訪れたとしか思えない。この十年間に鴎外がライプチヒを訪れたため、この画が出来たのかと思った。しかし、記録を調べても晩年の鴎外がドイツを訪れたという証拠はない。私の同業の友人でライプチヒ大学のフロムホルと博士にアウエルバッハ酒亭まで出向いて調べてもらった。店で訊ねたところ、この絵は想像上のものだとのことであった。
おわりに
ライプチヒはザクセン州の首都ドレスデンと並ぶ美しい街で、学問的には一四〇七年創設のライプチヒ大学が知られ(増田芳雄、一九九三)、数多くの優れた科学者や芸術家を輩出した。歴史的にも興味ある土地で、三十年戦争最大の激戦地で(一六三二年)、スウェーデン王グスタフ・アドルフが戦死したリュッツェンは市の西南方にある。また、ロシアから敗退してきたナポレオン軍を迎え撃ってこれを破った(一八一三年)欧州連合軍の勝利を記念する碑がライプチヒ郊外に建っている。音楽ではゲヴァントハウス管弦楽団や歌劇場のほか、一二一二年に創設のトマス教会でバッハが一七二三年から五〇年まで楽長を勤め,同教会にその墓もある。また、一九八九年の非暴力革命による東西ドイツ再統一の端緒となったニコライ教会などがある。近所にはザクセン州都ドレスデンのほか、磁器でも知られるマイセンもある。森鴎外もライプチヒでの学生生活を楽しんだことであろう。
【引用文献】
植田 敏郎(一九九三)森鴎外の「独逸日記」鴎外文学の淵。大日本図書。
小栗 浩(一九七九)人間ゲーテ。岩波新書。
武智 秀夫(二〇一四)軍医森鴎外のドイツ留学。思文閣出版。
増田 芳雄(一九九三)ライプチヒ大学植物園。図書一月号、十三~十七頁。岩波書店。
森 鴎外(一九九六)独逸日記 小倉日記。森鴎外全集十三。ちくま文庫。
” ※着色は引用者
森鴎外記念館で現代アート! Vol.3 「『刹那』よ『止まれ、お前はいかにも美しいから』」
https://moriogai-kinenkan.jp/modules/event/?smode=Daily&action=View&event_id=0000000414
”本展のタイトル「『刹那』よ『止まれ、お前はいかにも美しいから』」は、大正2年(1913)に刊行された森鴎外訳・ゲーテ『ファウスト』の中のファウストのセリフを引用したものです。
長大な詩劇『ファウスト』全体を貫く重要なキーワードであるこの台詞が、単に瞬間の外見の美について語ったものではないことは明らかです。人生の経験の蓄積を通じて、生の充実のなかのある瞬間の感覚が、内面的な充溢とともに新たな光を発しはじめ、永遠のものとも感じられてくる、恩寵のような稀有な時間について語った言葉なのではないでしょうか。文学者で医学者でもある鴎外は、ゲーテの作品を翻訳しながら、この言葉に、人間が癒され、より充実した存在になるところの根源的な状態を見、あるいはそこに、人間の理想への希望と憧憬を込めたのかもしれません。
[…]
<開催概要>
会期:2015年10月3日(土)~12月6日(日)
休館日:第4火曜日
会場:文京区立森鴎外記念館無料ゾーン(エントランス、図書室、廊下、カフェ等)
ディレクション:倉林靖(美術評論家)
出品作家:富岡直子、佐野陽一
開館時間:10時~18時 *11月6日(金)~8日(日)は20時まで開館
観覧料:無料(同時開催特別展「ドクトル・リンタロウ―医学者としての鴎外」観覧の場合は観覧料500円必要)
”
ゲーテの「ファウスト」で一番有名な台詞の取り扱い方法の間違いについて~ゲーテのファウストを翻訳して分かったこと~
水上基地
2019年3月24日 08:38
https://note.com/minakamikichi/n/n80ccef6bf613
”よく知られた名台詞
ゲーテのファウストで一番有名な台詞は
「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」
でしょう。原文では
「Verweile doch! du bist so schön!」
の部分、と言われております。
疑問点
だがしかし、この文には「時」は出てきません。
ドイツ語の単語のちょっとした解説。英語は分かりやすい例で挙げました。
Verweile:滞在、留まる、残る、英語で言えば「stay」あたりが適当
doch:まだ、しかし、はい、いいえ、けれど、それでも(意味はかなり変わるので一概には言ませんので一例を挙げました)
「Verweile doch! 」を直訳すると「しばし留まれ」というような意味。
du:あなた、英語で言えば「you」あたりが適当
bist :です、~であれ、英語で言えば「are」あたりが適当
so:とても、英語で言えば「so」あたりが適当
schön:美しい、英語で言えば「beautiful」あたりが適当
「du bist so schön」を直訳すれば「あなたはとても美しい」というような意味。
切り取られた部分だけで読み解くと
有名な台詞に極力合わせると「止まれ! お前はあまりに美しい!」が限界です。
なので「Verweile doch! du bist so schön!」だけを切り取って「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」とは言いがたいのです。
「時」はどこから来た?
ではなぜ「時」が出てくるのでしょうか。
それは前に「Werd ich zum Augenblicke sagen:」という文があるからです。
werd :期待、予期、英語で言えば「will」あたりが適当
ich :私、英語で言えば「I」が適当
zum :~へ、英語で言えば「to」や「for」あたりが適当
Augenblicke :瞬間、一瞬、英語で言えば「moment」あたりが適当。
sagen:言う、英語で言えば「say」あたりが適当。
「Werd ich zum Augenblicke sagen」を直訳すれば「私が瞬間に向かって言う」というような意味になります。
解読すると
この瞬間(Augenblicke )に向かって「留まれ(Verweile doch! )」と言うため、「時よ止まれ」という文意になります。なので「Werd ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch! du bist so schön!」まで含まれば「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」と言って差し支えない(むしろ良い訳だと思います)のですが、「Verweile doch! du bist so schön!」だけを切り取って「時よ止まれ! お前はあまりに美しい!」とは言いがたいのです。
閑話休題
この後のお前(du)が何を指すのかは議論の余地があるのでここでは割愛します。それだけで本が一冊書けてしまいそうです。
結論
言いたいことは、「切り取られて、一人歩きする名言もある」ということです。「時よ止まれ!」は格好良い台詞だと思いますし、流れで読めば素晴らしい訳だと思います。
しかし、切り取って喧伝する人が多く、いかがなモノかと思ったので少し物申しました。
ちょっと言い訳
私はドイツ語圏に行ったことも無ければ、独文科にも行っていませんし、大学等でドイツ語の単位も取っていません。完全な独学初心者なので誤解や間違いが多々含まれていると思われます。ご容赦ください。
”
青空文庫
ファウスト
FAUST. EINE TRAGODIE
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe
森鴎外訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001025/files/50909_49238.html
”己は「刹那」に向って、
「止まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びたい。
”
1)名作朗読 ゲーテ「ファウスト」(上巻/全二巻)【目次、あらすじ、解説、本文テキスト(森鴎外訳)は、下記概要欄参照】全文朗読:斉藤なお子
https://www.youtube.com/watch?v=h1QcchTerzA
2)名作朗読 ゲーテ「ファウスト」(下巻/全二巻)【目次、あらすじ、解説、本文テキスト(森鴎外訳)は、下記概要欄参照】全文朗読:斉藤なお子
https://www.youtube.com/watch?v=c43OWok8aKM
青空文庫
カフエ・ミネルワ
斎藤茂吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5078_39441.html
【現代語訳】斉藤茂吉『カフエ・ミネルワ』
由良瓏砂
2020年2月12日 03:42
https://note.com/yurarosa/n/n31cc9e7342d4
(フェイド大帝がお勧めしていた「オカルト百科」ってサイトがあって、今は消滅した。記事の1つを全文紹介する)
(ここから)
”
イルミナティ(パヴァリア啓明結社)の興亡
イルミナティは、フリーメーソンやユダヤ陰謀説と並んで、盛んにいい加減なヨタ話の種にされる秘密結社である。
イルミナティは、「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」とも呼ばれ、急進的な社会改革思想を持ち、徹底した自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を唱え、一種のアナーキズムを主張した。そして、原始共産主義的な共和制国家の樹立を主張した。
とはいうものの、この結社は創立当初においては、そんなに過激な結社だったわけではない。また、初期においては政治的な色彩も薄かった。
創立時においては、学者の知的サークル的な色彩が強かったのである。
実際、シンボルによる人間の意識への働きかけを考察し、キリスト教神秘主義者の立場から、魔術、カバラ、ヘルメス哲学を擁護したカール・エッカルツハウゼンも団員だったが、彼は過激な政治的革命思想には批判的だった。
イルミナティの創立者のアダム・ヴァイスハウプトは1748年バイエルン王国のインゴルシュタッドで生まれた。
彼の父親のヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプトは著名な法学者であり、インゴルシュタッド大学に、わざわざ呼ばれて教授となった。
というのも、当時のパヴァリアを支配したマクシミリアン3世は進歩的思想の持ち主で、教育改革を行うためにインゴルシュタッド大学に科学アカデミーを創設し、そこの責任者に進歩的なイックシュタッド男爵を任命した。男爵はドイツ中から優秀な学者を呼び集め、大学改革に乗り出したのである。
彼の父のヨハンは男爵の甥にあたり、法学の硬学として名も通っており、まさにうてつけの人材であった。
当時のインゴルシュタッド大学は、カソリックのイエズス会系学者たちの支配下にあり、この改革は、旧体制的なイエズス会系の学者たちと摩擦を引き起こした。
インゴルシュタッド大学がイエズス会の強い支配下にあったがゆえに、アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会式の教育を余儀なくされた。彼はイエズス会神学校に学び、インゴルシュタッド大学法学部に入学後もイエズス会系の学者たちから教えを受けた。そこで彼は優秀な成績を納めし、わずか20歳で法学の学位を取り、若干24歳にして教授となった。
彼は、当然の如く初期に置いてはイエズス会の強い影響下にあった。
しかし、彼はフランスの啓蒙主義や百科全書派の書を読みふけるようになり、次第に反イエズス会の思想に染まってゆく。
1773年のクレメンス15世によるイエズス会の解散命令は、一つの契機だった。インゴルシュタッド大学では、この事件は逆にイエズス会系の学者達を団結させ、彼らは非イエズス会の学者達に圧力を加えるようになった。
そのため、 アダム・ヴァイスハウプトは一時期、大学での講義を禁止され、ミュンヘンに逃げるまでになる。
彼が自由主義の秘密結社の設立を決心した大きな原因が、このイエズス会による迫害にあったことは、間違いない。
彼は古代エジプト、ピタゴラス学派、ユダヤ教エッセネ派について研究し、さらにはフリーメーソンにも興味を持った。
彼は一時期フリーメーソンに入会することも考えたらしいが、実現はしなかった。本来のフリーメーソンでは、ロッジ内での宗教議論や政治議論を禁止していたので、彼の思想とは相容れなかったのである。
彼の目的は、イエズス会の影響を逃れ、自由な学問追求を目指す学者サークルであった。
1776年、ついに彼は自分の結社を創立する。「完全可能性主義者の会」である。この同年に「パヴァリア啓明結社(イリュミネ)」と改称する。
結成初期の団員は、いずれもヴァイスハウプトの弟子や友人たちであった。
しかし、1778年頃に、多くの市民と下級貴族が大挙入団し、組織は巨大化する。
初期のイルミナティの位階は単純で、新参入者、ミネルヴァル、ミネルヴァル天啓の3つしかなかった。ミネルヴァル以上に昇進した団員は、「戦士名」を授けられる。それは古代古典に出てくる英雄の名が使われた。
例えば、創立者のヴァイスハウプトはスパルタクスを名乗り、彼の弟子で幹部のマッセンハウゼンはアヤックス、友人で幹部のツヴァイクはカトーであった。
参入者は団員の紹介が必要である。そして、「保証人」がつく。保証人は新参入者を観察し、彼が団の規則を守っているか、道徳的に正しい人間であるかを調べ、毎月それを書類にして団の上層部に提出する。また新参入者も、同様に自分の保証人について観察を行い、これを上層部に提出しなければならない。
要するに「相互監視制度」があった。これは実はイエズス会の真似であり、ヴァイスハウプトは反イエズス会を標榜しながら、その影響を強く受け続けていたのである。
新参入者からミネルヴァルに昇進するときは、イニシエーションが存在した。ここで彼は上層部の幹部から祝福を受け、「戦士名」を授かった。
そして、仲間の監視報告の他にも日記の提出が義務付けられた。
ミネルヴァルからミネルヴァル天啓への昇進は、事務的な人事であり、イニシエーションは無かった。
そして、下級団員達には、上層幹部のことは絶対に秘密であり、首領の「スパルタクス」の正体を知っているのは、一部の側近達だけだった。
彼らはしばしば集会を行い、反イエズス会や啓蒙思想の本を回覧したり、情報交換を行った。
そして、独自の暦を作り、これを用いていた。
しかし、この組織の運営はやがて行き詰まった。
団員達がフリーメーソンの方が楽しそうと考え、退会が相次いだからだ。
ヴァイスハウプトは、これを止めるために、新たにゾロアスター思想に基づいた「火の位階」という新位階を設定したが、焼け石に水。
そこで彼が考えたのは、フリーメーソン的なものを取り入れるということだ。
彼はメーソンに忠実な団員を潜入させた。
彼はベルリンの大ロッジにスパイを送り込み、まんまとロッジの認可証を手にれるや、ミュンヘンのロッジを乗っ取る。
さらに、アドルフ・ファン・クニッゲ男爵の入団によって、イルミナティは大きく変貌する。
クニッゲは、もともと高位メーソンであり、フリーメーソンの知識や人脈を豊富に持っていた。そのうえ、思想は啓蒙主義的であり、ヴァイスハウプトと意見があった。
ヴァイスハウプトは、彼にプィロンという戦士名を与え、側近に加え組織の大改革を実行させる。
クニッゲは、組織の位階制を13位階以上から構成されるメーソン風の複雑なものに変えた。これは1782年に正式に認可される。
さらに彼はメーソンの人脈を利用して、ドイツ各地の小ロッジを次々に乗っ取った。貴族、政治家、高級官僚、学者、医者、高位聖職者、軍人等の有力者たちが次々に参入し、確かにこの結社はドイツ全土の政界に馬鹿にできない影響……は持てなかった。
というのも、あまりに成長が急であったために、組織の統一性が思うように計れなかったのである。
また、イルミナティの最盛期の会員は600人とも2000人とも言われるが、実はこうした人数は、イルミナティの正式な団員ではなく、彼らの思想に共感したフリーメーソン内のシンパを入れての数であるらしい。
さらに、この巨大化と共に、イルミナティは政治色を強めてゆく。それも急進的な反王制、反教会的な革命を含んだ政治思想である。そして、イルミナティは次第に政治思想的な秘密結社へと変貌してゆく。
こうなったそもそもの原因は、イルミナティを巨大化させたクニッゲ男爵によるところが大きい。彼は貴族でありながら、反王制・共和主義者であったのだ。
とは言うものの、クニッゲは暴力革命には、はっきりと反対の立場を取っていた。
曰く、本来国家の主権は人民にあるべきなのに、王がその座に居座っている。そして、王は人民を従えるために、他国の人々を憎むように教え(いつの時代も偏狭なナショナリストの考えることは同じということか)野蛮な戦争を起こす
しかし、国家転覆を目指すようなことは考えない。我々はあらゆる暴力を否定する。暴力的な革命はろくな結果を生まない。我々はゆっくりと、政府の高官や支配階級に団員を送り込み、あるいは彼らを教育して同志とし、ゆっくりと国家を改造する。最終的には「国」は消滅し、戦争の無い、人民が一つの家族となる時代が来よう。
それには数千年かかるかもしれないが、それでも構わない。
さらに、クニッゲ男爵は、実はこの既存の国々を統一し、一つの国を作るという発想は、当時バラバラだったドイツを統一する程度のニュアンスしかなく、全人類レベルのような大それたことは考えていなかったらしい。
だが、スケールの大小に関わらず、これは既存の国家政府を否定する革命思想であることには変わりなく、当時の支配者たちからしてみれば危険思想であったことには変わりない。
言うまでも無く、反イエズス会の態度は、教会をも敵にまわす事になる。
イルミナティの成長は早かったが、崩壊も早かった。
1777年にマクシミリアン3世が死去すると、イエズス会が勢いを盛り返した。
インゴルシュタッド大学でも大規模な反動が起こり、廃止されていた本の検閲と禁書制度が復活した。
この結果、イルミナティはパヴァリアからの撤退を余儀なくされ、本拠地をワイマールとウイーンに移す。文豪のゲーテ(戦士名はアバリス)が入団したのも、この頃である。
さらに、ライバル結社との抗争も激化する。フリーメーソンの反撃によってフランクフルト進出に失敗。
そして、ベルリンにおいては、かの黄金薔薇十字団が最盛期を迎えており、彼らはドイツ皇帝を動かしてイルミナティに圧力を加えた。
そして、最悪なことに、この大事な時期に、イルミナティ内部で深刻な内部抗争が勃発した。
首領のヴァイスハウプトは、クニッゲ男爵の影響力が強くなりすぎたことに反発し、男爵から全ての権限を取り上げようとした。当然、男爵はこれに反発し、命令を拒否する。
そして、この両者の決別が、事実上のイルミナティの崩壊であった。1784年のことである。
クニッゲ男爵は退団し、その後はあらゆる秘密結社を否定する論者となったしまう。
とどめは1785年にさされる。まず、「政府の許可無く組織を作ることを禁止する」という禁令である。
さらに致命的なスキャンダル事件が起こる。
国立アカデミーの教授でイルミナティ幹部だったヨーゼフ・ウイッツシュナイダーが、密告を行った。
いわく、イルミナティはオーストリアのヨーゼフ2世と結託し、ドイツを転覆させ、ドイツをオーストリア帝国の支配下に置く陰謀を企んでいる。そのために毒殺や短剣を用いた要人の暗殺を企んでいる。
政府はイルミナティの調査を命令する。結果、反キリスト教的思想、反王制思想、革命思想が発覚してしまう。
同年、2回目のイルミナティを名指しで禁止する法令が出される。
一連の指導者は逮捕され、政府高官は左遷、公職追放。
さらに、団の文書の中から毒薬調合に関する物が発見される。だが、これには胡散臭さがついてまわる。本当に団は毒薬を使う気があったのか? これは謎である。
ヴァイスハウプトはレーゲンスブルクに亡命し、イルミナティの弁護の著書を次々に出したが、無駄であった。この頃、彼は私生児を設け、これを堕胎させた。
これは結果的に赤ん坊殺しのスキャンダルに発展し、終いには「イルミナティでは赤子を生け贄にする黒ミサを行っている」というデマまで生まれた。
さらに、イルミナティの元団員達が裏切り、あることないことを吹聴してまわる。曰く、イルミナティは毒殺と私刑に満ちた恐怖支配の黒魔術結社であり、テロによる政府転覆を狙う陰謀結社である云々。
そして、狂信的な反フリーメーソン論者として知られたバリュエル神父やロビンソン教授らが、イルミナティを悪魔崇拝の政治的陰謀結社とする本やパンフを撒き散らした。
(彼らの撒き散らしたデマを信じる人間が現在もなお居るのは、何ともやりきれない)
政府も世論も完全にイルミナティの敵となった。主な団員は公職追放され、団員達も退会する。
オーストリアとワイマールの支部は、その後も何とか存続しようとしたが、1786年に壊滅する。
イルミナティの寿命は、わずか十年間であった。
ヴァイスハウプトは、その後も、ほうぼうを亡命しなら著作活動続けたが、ドイツ中部のゴータ公領に逃げ込み、彼の支持者だったエルンスト公爵に庇護され、そこで余生を過ごした。1811年に彼は死去した。
彼は社会的な平等を唱え、全ての人間は「王(神?)」になることができ、そのためには自己の意志に忠実に生きなければならないとした。なにか妙にクロウリーを思わせる思想である。
彼の理想は古代の家父長制度による原始共産主義的な社会であり、封建君主や教会制度はそこに至るための過渡的なものと捕らえていた。
こうした制度を排し、一般大衆に「啓明」を与え、先の原始的なユートピアを作ろうと考えた。
これは非暴力によって行われなければならないが、どうしようもないときは革命も仕方無いと考えていたふしも否定はできない。
とはいえ、ヴァイスハウプト自身は、政治活動にはあまり関心がなく、あくまでユートピア建設思想を育むために、団員の徳の向上をはかることがイルミナティ創立の目的であった。
しかし、団は暴走した。
やがて、イルミナティの名の一人歩き、暴走はさらに続く。
かのカリオストロ伯爵がローマで逮捕されたおり、苦し紛れにイルミナティなる国際的巨大な陰謀結社があり、自分はその命令通り動いていただけだ、というホラ話しをする。
さらに、フランスの外交官ミラボー伯がドイツでスパイ活動を行っていたが、彼はここでイルミナティに入団したらしい。彼はその人脈を政治的にも利用したらしい。
さらにミラボーは、フランスのフリーメーソンの実力者をイルミナティに入団させようとした。
そして、ドイツで壊滅状態に陥ったイルミナティの難民としてヨハン・ヨアヒム・クリストフ・ボーデなる男が、ミラボー伯の手引きでフランスに現れる。ミラボーは、彼をフランスのメーソンの顧問的指導者にしようとする。
当時フランスのフリーメーソンはオカルト色が強かった。ボーデはこれを排そうとする。
しかし、カバラの替わりに政治思想を、ヘルメスの大作業のかわりに暴力革命を持ち込もうとする彼らの思想ははなはだ不評であった。
それでも、一部の小ロッジの中には、彼らの影響を受ける者もいたが、やがてそこからはジャコバン党のような連中を生み出し、フランス大革命後の血なまぐさい大混乱のさなか、彼らは多くの人々をギロチンに送り、やがて自分等も自滅してしまうのである。
また、フランスの各地でも、イルミナティを名乗る結社がいくつか作られた。
しかし、言うまでも無く、これらの結社は、ヴァイスハウプトの正統なイルミナティとは何の関係も無い。勝手に「イルミナティ」の名を名乗っているだけだった。
結局、こうしたささやかな団も長続きはできずに消滅した。
しかし、「イルミナティ」の名前だけは生き残り、創立者のヴァイスハウプトの思想とはかけ離れた怪物化がなされ、今もなお一人歩きを続けているのである。
「秘密結社の事典」 有澤玲著 柏書房
「種村季弘のネオ・ラビリントス3 魔法」 種村季弘著 河出書房新社
「秘密結社」 セルジュ・ユタン 白水社
「オカルティズム事典」 アンドレ・ナタフ 三交社
「薔薇十字団」 クリストファ・マッキントッシュ 平凡社
「薔薇十字団」 ロラン・エディゴフェル 白水社
” ※着色は引用者
(ここまで)
教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅲ──森鷗外「舞姫」とその時代 - 日本近代文学館
https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/11971/
”日本近代文学館では、国語教育の現場と文学研究の成果を館が橋渡しする形の企画展「教科書のなかの文学/教室のそとの文学」を2017年度から開催しています。一昨年の芥川龍之介「羅生門」、昨年の中島敦「山月記」に引き続いて今回取り上げる作品は、森鷗外「舞姫」です。
「舞姫」は、1890(明治23)年1月、鷗外最初の創作小説として雑誌『国民之友』に発表された作品です。発表からおよそ130年もの時間が経過したことになります。その「舞姫」が初めて高等学校国語科教材となるのは、1957(昭和32)年のことです。高校生にとって、必ずしも読みやすい文体とは言えないにも関わらず、以後60年以上にわたって定番教材としての位置を保ち続けています。では、その「舞姫」が〈今、ここ〉に生きる私たち(特に若い世代の人たち)に問いかけてくるものは何なのでしょうか。
” ※着色は引用者
紀伊國屋書店
長寿学―長生きするための技術
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784886223272
”フーフェラント,クリストフ・ヴィルヘルム【著】〈Hufeland,Christoph Wilhelm〉/井上 昌次郎【訳】
どうぶつ社(2005/01発売)
(略)
サイズ B6判/ページ数 478p/高さ 20cm
(略)
内容説明
西洋版“養生訓”とも言える本書は、フーフェラントが新進気鋭のイェーナ大学教授であった30歳代なかばに著した一般向けの啓蒙書である。ヨーロッパ近代医学の萌芽期に、真に科学的な健康法・食養生法・衛生法を確立しようとする探究の成果であり、科学史・医学史の歴史的記念碑である。同時にまた、中世以来の迷信・錬金術・占星術の影響の強い一般人に対して、合理精神への転換を呼びかけた思想書であり人生書でもある。医学や薬学を志す人には絶好の医科学入門書であり、老境や死について考える人には知恵の書・癒しの書でもある。
目次
第1部 理論の部(この学問の辿ってきた道;生命力と寿命の探究のあらまし;植物の寿命;動物の寿命 ほか)
第2部 実践の部(寿命を短くする要因;寿命を長くする要因)
著者等紹介
井上昌次郎[イノウエショウジロウ]
1935年生まれ。1965年東京大学大学院生物系研究科博士課程修了、理学博士。米国に短期留学。アレクサンダー・フォン・フンボルト奨学生としてドイツに長期留学、医学部の古風な伝統に触れた。1972年東京医科歯科大学教授、睡眠科学者として脳内の睡眠物質を探究(井上昌次郎著『眠りの精をもとめて』どうぶつ社、1986年参照)。ナイジェリア・ドイツで客員教授。日本睡眠学会理事として睡眠科学、睡眠医学の確立を図った(日本睡眠学会編『睡眠学ハンドブック』、朝倉書店、1994年参照)。世界睡眠学会連合・アジア睡眠学会の創設に携わり、それぞれ理事・会長。2001年東京医科歯科大学生体材料工学研究所長を最後に定年退官、同大学名誉教授
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
” ※着色は引用者
反イエズス会でも啓蒙主義でも反カトリックでも反王政でもないのをイルミナティと呼ぶ奴は全員無知か詐欺師!イエズス会や王侯貴族やバチカンやWASPにイルミナティという間違った名づけをするな!「光=イルミ」もやめろ!最重要マッキントッシュ『薔薇十字団』メモ
Posted on 2017.09.24 Sun 22:21:21
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-229.html
”・p.135から
第七章 黄金薔薇十字団
が開始
オーストリアとのバイエルン戦役で一躍勇名を馳せたプロイセン王家の一員が
1781年に「黄金薔薇十字団」の志願者となる。
薔薇十字団にとって彼は重要な意味を持つ新会員であった。
彼は、叔父にあたるフリードリヒ対応の後を継いでプロイセン王となる
ヴィルヘルム・フリードリヒ二世であったからである。
彼の友愛団への参入は、まもなくわれわれが見るように、
かなり長期にわたる影響を及ぼすことになる。
この段階では、実際には互いに影響しあう二つの黄金薔薇十字団が存在していたことを強調しておきたい。
一つは、前章で説明した広義の錬金術的友愛団である。
もう一つは、「黄金薔薇十字」という名称を引き継いだフリーメイソン系の分派である。
実践的な石工職人の組合とは対照的な、
いわゆる「思弁的な」フリーメイソンのロッジがイギリスで最初に言及されるのは
1646年10月16日にランカシャーのウォリントンで
自分がフリーメイソン・ロッジの会員になったことを記しているイライアス・アシュモールの日誌である。
しかし、スコットランドには
1641年5月20日にエディンバラのロッジにロバート・マリ卿が加入したという信頼できる記録が残っている。
それ以前にもフリーメイソンのロッジが存在していたことは確実と思われるが、
思弁的フリーメイソンのロッジの記録としてはそれが最も古いものである。
(本書は「スン」ではなく「ソン」表記)
フリーメイソンが公的な組織として確定した年代は
ロンドンのグランド・ロッジの創立された1717年である。
グランド・ロッジは急速にイギリスのフリーメイソンを統括する中央組織となり
若干の抗争と分派活動はあったもにもかかわらずそのまま現在に至っている。
中央の権威ある組織が存続していたために
イギリスのメイソンには一貫性と安定性が見られ、
その歴史もどちらかというと直線的に進んできた。
しかし、
ヨーロッパ大陸のメイソンにはそうした中央組織がなく
その歴史は複雑きわまりないものとなった。
メイソンがイギリス以外で最初に足場を築いたのはフランスにおいてである。
フランスにおける最も初期のロッジは1720年代に創設されており、
1756年にはフランスのグランド・ロッジができる。
イギリス生まれのメイソンが発展していった背景には
ヨーロッパにいたジェイムズ二世派のスコットランド人とアイルランド人の助力があった。
そうした人物の一人が
シュヴァリエ【勲爵士】・アンドルー・マイケル・ラムジー【1696 - 1743年】である。
ラムジーはスコットランドのエアシャーで平民の子として生まれ
エディンバラ大学で学士号を取得する。
その後フランス語を習得し
学識ある冒険家としてフランスの貴族社会を自由に動きまわり
あるいはまた「老僭王」〔=ジェイムズ三世〕の子のローマにおける家庭教師となるなどした。
ラムジーはメイソンとしての活躍もめざましく
フランスのグランド・ロッジの高官になっている。
ラムジーはスコットランドには古代のメイソンの伝統が残っており
スコットランド以外の地ではすでに退化してしまった純粋のメイソンが維持されていると
主張した。
こうしてヨーロッパ大陸のメイソン員取って
「スコティッシュ【=スコットランドの】」という言葉は
特別な威光を持つものとなり
革新を正当化しようとする新しいメイソンの儀礼は
しばしばスコティッシュという旗を掲げるようになった。
結果、ラムジーによってフランスのメイソンから
不思議な子孫、スコティッシュ・メイソンが誕生してくる。
スコティッシュ・メイソンは
異国風の儀式と大げさな称号を持つさまざまな儀礼を表すようになる。
パリのグランド・ロッジは華やかに分立していく儀礼を管理できず
自らの権威を弱めていくのである。
正統的なメイソンとともに
スコティッシュ・メイソンはフランスからヨーロッパ全土に広がっていった。
確かにメイソンはもともとイギリス起源だが
ヨーロッパ大陸において最大の規模を誇ったのはフランス版メイソンであった。
メイソンが浸透した国の中で
スコティッシュ・メイソンとその分派が最も肥沃な土壌を見出したのはドイツである。
(ロンドングランドロッジの中枢にフランスのユグノーがいるので
フランス系カルヴァン派の影響は強い。
スコットランド系とフランス系のメイソンのつながりは深く
英米系と対立。
スコティッシュ・メイソンの起源がフランスなのが興味深い。
西洋魔術の本拠地はドイツ。
イングランドではない。
思想の流れで見てもドイツが中心)
ドイツにおけるスコティッシュ・メイソンの儀礼の中で
最も影響力が大きかったのは
1764年にフント男爵カール・ゴットヘルフによって創設された
「厳しい戒律の儀礼」である。
この儀礼はメイソンがテンプル騎士団から派生したことを強調し
ドイツ人は権威あるこの騎士団の伝統を真に受け継ぐ民族であることを主張した。
錬金術的な象徴体系を大いに利用し、
金属変成の秘密を獲得できると約束した。
この民族主義とオカルト学をうまく結びつけることで
「厳しい戒律の儀礼」は多くの人々の支持を得ることができた。
さらに異国風の儀礼は
牧師であったヨーハン・アウグスト・シュタルクによって創設された
「テンプル司祭団」である。
シュタルクは金属変成の術を含む「テンプル騎士団」の秘密の
真の管理者が騎士ではなく司祭であると主張した。
この段階で薔薇十字団とメイソンが出会いそして融合する。
「厳しい戒律の儀礼」や「テンプル司祭団」よりも
さらに深く錬金術の研究を進めようとする人々は
必然的に「黄金薔薇十字団」へと向かっていった。
黄金薔薇十字団は純粋にドイツ的な現象として
より人々を引きつける塚らを持っていた。
かくして薔薇十字的フリーメイソンの新しい儀礼が誕生したのである。
↑
・p.140
↓
新しい薔薇十字結社には錬金術的な知識の探求とは別に、
人々を引きつけるもう一つの特徴があった。
それは結社の政治的立場である。
pp.140-141
”
十八世紀後半の薔薇十字団は、
保守的な見解を持つ人々が結集する場所となっていた。
そうした人々は、ドイツにおいて重大な問題となりかけていた
急進的・理性主義的・反宗教的な傾向に反対する立場をとっていた。
…
アーダム・ヴァイスハウプトのバイエルン結社「イルミナティ【啓明結社】」は、
明らかに進歩的理性主義者の陣営に属している。
しかし、フランスの同時代の著作家が「イリュミネ」という言葉を使用するときは、
反啓蒙主義者たちを指しているのである。
フリードリヒ大王はけっして急進的ではなかったが、
フランス的な平等主義の信念を持つフリーメイソン・ロッジの会員であった。
どちらかというと、フリーメイソンには急進的な意味が含まれ、
新しい薔薇十字団にはそれと対照的に保守的な傾向がある。
…
黄金薔薇十字団の成功の背景には、次の四つの要因があった。
(一)特権的なエリート階級に約束された秘密の知識、
(二)保守派の中心としての結社の機能、
(三)宗教的な代替物としての魅力、
(四)民族主義的な傾向を持つ人々を引きつけたドイツ的性格。”
(黄金薔薇十字は保守でエリート的でヴァイスハウプトのイルミナティと思想が真逆なので対立。
工作員が言うイルミってイリュミネに近い。
啓蒙主義のヴァイスハウプト的思想を受け継ぐ結社は今はフランスの
百科全書・理性主義系。
啓蒙主義で反カトリックで反オカルトで共和主義でない組織に
イルミナティと名付けるのは誤り。
工作員は意図的に誤った名づけをしている。
誤った名づけをしているのはヴァイスハウプトと対立していた黄金薔薇十字系の末裔。
黄金薔薇十字団員が完全に今の支配層の先祖。
ドイツ語文献を読んで研究している人から情報を得ず
黄金薔薇十字vs元祖イルミの歴史を知らない人が
イルミを語っても騙りになる可能性が高い。
)
アルノルト・マルクスは
1929年に出版された黄金薔薇十字団に関する著書において、
黄金薔薇十字団の創設された年代を1757年と特定している。
黄金薔薇十字団はメイソンの影響圏の内側で発展し、
初期の頃には主としてドイツ語圏の南部で栄えた。
その中心地としては、
ヴィーン、
ホーフ、
フランクフルト・アム・マイン、
マールブルク、
カッセル、
レーゲンスブルク、
そしてプラハの居留地である。
最も活動的な中心は、
オーバープファルツのズルツバハ公国であり、
その領主たち、特に
クリスティアン・アウグスト公爵【1622 - 1702年】は神秘的思索に関心を持っていた。
この宮廷には神秘主義者たちが集まっており、
その中にはヘブライ語学者でありカバラ主義者であった
クリスティアン・クノル・フォン・ローゼンロート【1636 - 89年】や、
医師でありカバラ主義者でもあった
フランキスクス・メルクリウス・ファン・ヘルモント【1618 - 99年】がいた。
ズルツバハはまた、オカルト学や神秘的な著作の出版でも一つの中心地であり、
カバラやユダヤ教に関するヘブライ語の出版社があった。
ヘルモントは輪廻転生を信じており、
ローマに滞在していたときには、
そのために異端審問所の牢獄に幽閉されていたこともある。
(年代的に黄金薔薇十字団には属せないが
完全に黄金薔薇十字の先祖)
ズルツバハ公国が十八世紀の後半に黄金薔薇十字団の中心地になるということは
何も驚くことではない。
黄金薔薇十字団の指導者は、
ベルンハルト・ヨーゼフ・シュライス・フォン・レーヴェンフェルト博士【1731 - 1800年】であった。
シュライス・レーヴェンフェルトは七年戦争で軍務についた後、
ズルツバハの宮廷付き医師となり、最後には伯爵となっている。
多くの医学書の他に、薔薇十字団を弁護する著作も二冊書いている。
ズルツバハ以外に薔薇十字団の活動の中心地になっていたのは、マールブルクである。
そこで指導的な提唱者となったのは、
フリードリヒ・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・シュレーダー【1733 - 78年】である。
シュレーダーは大学で医学を教えており、
神秘学と錬金術に強い関心を持つ著名な医師であった。
1764年にマールブルクに移るとすぐにシュレーダーは、
「三頭の獅子」というメイソンのロッジに加入し、
翌1765年にはロッジの内部に薔薇十字団の支部(チャプター)を構成したと信じられている。
錬金術に関する著作の他に、黄金薔薇十字団の会員のための便覧を執筆した。
(医者多いな!
医学と占星術が一体だからオカルト好きも多いのだろう)
すでに述べたように、
南ドイツ、オーストリア、ハンガリー、北イタリアには薔薇十字団の
中心地が点在していた。
北ドイツにおける中心地はベルリンとハンブルクであった。
ハンブルクにおいて、1785年、多くの錬金術に関する挿絵と
黄金薔薇十字団の教義の説明を含む匿名の書『薔薇十字団の秘密象徴』が刊行されている。
黄金薔薇十字団のさらに重要なテクストとして、
ゲオルク・フォン・ヴェリングの『魔術・カバラ・神学論集』がある。
この書物は
1719年にフランクフルト・アム・マインで初版が出ており、
著者はグレゴリウス・アンゲルス・ザルヴィヒトであった。
この名はおそらくヴェリングの偽名であると思われるが、
実名であってヴェリングはその編者である可能性もある。
この本はかなり混乱した内容となってり、
1769年にこの書物を研究したあの偉大なゲーテも、
なかなか理解できなかった。
にもかかわらずそれは、黄金薔薇十字団が使用した最も重要な教科書となった。
1767年の改革は、結社がすでに変動期にあるときに行われた。
前年の1766年10月には、
オーストラリアにおいて薔薇十字団を禁止する皇帝の布告が出ている。
この布告は大ドイツ圏における結社全体に影響を及ぼすことになる。
それまで指導的な立場にあったフィクトゥルトはインスブルックに避難せざるをえなくなり、
その影響力も低下した。
シュライス、シュレーダーなどの新しい世代が指導者となり、
1767年の改革で具体化される新しい考えが登場した。
薔薇十字団の起源がテンプル騎士団にあるとする伝説が消え、
教義においては聖書が中心的な位置を占めるようになった。
黄金薔薇十字団も最終的に崩壊する前に、
その勢力と影響力が最後の盛り上がりをみせた。
プロイセン王が黄金薔薇十字団の会員となるのは、
この幸福な一時期においてである。
フリードリヒ・ヴィルヘルム公を友愛団に導いたのは、
ヨーハン・ルドルフ・フォン・ビショッフスヴェルダー【1741 - 1803年】である。
ビショッフスヴェルダーはテューリンゲンの貴族出身であり、
1754年に亡くなった父親も、
最後はサクス元帥の副官となるなど輝かしい軍歴を持っていた。
ビショッフスヴェルダーは、初め法律を学んだが、
やがて父親と同じ道を歩むことになり、
七年戦争の後半【1760 - 63年】にはプロイセンの騎兵隊の士官となっている。
戦争後、ビショッフスヴェルダーはクーアラント公カールの厩舎監・家令となり、
1764年には「厳しい戒律の儀礼」に加入し、「グリフォンの騎士」という名前を与えられている。
しかし、「厳しい戒律の儀礼」においてはビショッフスヴェルダーが求めていた神秘学の知識は得られず、
ライプツィヒにあるコーヒー・ハウスの経営者ヨーハン・ゲオルク・シュレップファーと知り合いになる。
錬金術師と薔薇十字団員を自称していたシュレップファーは
1774年に自殺しているが、
その前にシュレップファーは霊を出現させる機械と
若さと活力を維持させる霊液をビショッフスヴェルダーに贈っている。
ビショッフスヴェルダーが薔薇十字団に関心を持つようになったのは、
シュレップファーの感化によるのかもしれない。
いずれにしてもビショッフスヴェルダーは
1779年12月24日に黄金薔薇十字団に加入している。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは、
すでに「黄金の鍵」というメイソンのロッジの会員であったので、
黄金薔薇十字団の志願者の資格を持っていた。
一年間の見習い期間ののち、
1781年8月8日にフリードリヒ・ヴィルヘルムは黄金薔薇十字団への加入を承認される。
彼にもオルメスス・マグヌスという特別な名前が与えられた。
友愛団の中ではビショッフスヴェルダーが彼の直属の上司であり、
そのとき以来特別の僚友となった。
ヴィルヘルムが王位についた後、
ビショッフスヴェルダーはプロイセンの外交政策にも強い影響力を及ぼし、
フランスのジャコバン主義に対する反革命十字軍を奨励した。
(黄金薔薇十字は保守だから王侯貴族系で
革命否定は当然)
ヴィルヘルムの参入儀礼において歓迎の講話をしたのが
ヨーハン・クリストフ・ヴェルナー【1732 - 1800年】であり、
ヴェルナーは後にビショッフスヴェルダーより強い影響力を王に与えることになる。
ヴェルナーは平民の出身であった。
ヴェルナーは黄金薔薇十字団に加入し、
まもなく北ドイツの中心的な指導者となり、
総勢200名からなる26支部の最高指揮官となる。
1786年にフリードリヒ・ヴィルヘルムが王位につくと、
ヴェルナーは新王の経済顧問官となり、
貴族に列せられる。
さらに、彼とビショッフスヴェルダーはヴィルヘルムの相談役として、
演説草稿の執筆をしたり、
旅のお供をしたり、
人事問題で意見を述べたりするようになる。
ヴィルヘルムは芸術にも熱心であり、
ベートーヴェンやモーツァルトなどの保護者であった。
ヴェルナーが最も強く影響を与えたのは宗教の分野においてである。
ヴェルナーの「嫌悪の対象(ベト・ノワール)」となっていたのは、
いわゆる「啓蒙主義者」であった。
(ヴァイスハウプト系は啓蒙主義だから黄金薔薇十字と対立)
二人の権勢は、ヴィルヘルムの死とともに終わる。
彼の息子のヴィルヘルム三世が王につくと、
薔薇十字団の徒党は一人残らず宮廷から追放される。
南部でも黄金薔薇十字団は勢力を失っていた。
1785年にオーストリア=ハンガリーで錬金術禁止令が出た後、
結社は休眠状態に入った。
1790年になって新皇帝レオポルト二世が即位すると、
彼が錬金術への関心を持っていたこともあって、
結社はふたたび表面に現れた。
しかし、レオポルト二世の統治も短期間に終わり、
彼は1792年に亡くなる。
その後を継いだフランツ二世の時代になると、
錬金術禁止令が再度交布される。
結社はしばらく地下に潜ったと考えられる。
オーストリア国立図書館にあるアルカリオンの『アーレフ』という錬金術=薔薇十字的写本は、
1802年という年代になっているからである。
その後、黄金薔薇十字団についての噂はまったく聞かれなくなる。
しかし、薔薇十字運動は別の土地において新しい局面を迎える。
(中略)
・p.207から
薔薇十字団の主題を利用した詩人にゲーテがいる。
ライプツィヒでの修業時代を終えて
1768年にフランクフルトに帰ると、
ゲーテは体調を悪くして数か月間病床につく。
ゲーテは、病から回復できたのは錬金術の秘密の「塩(えん)」を服用したからであると考え、
後に錬金術の実験を自分でも試みている。
病床にいるあいだ、ゲーテはヘルメス主義的な話題に関する多くの本を読んでいるが、
そうした関心をゲーテに呼び起させたのは、友人で会ったフォン・クレッテンベルク嬢である。
薔薇十字思想はゲーテが読んだものの中に含まれていたに違いない。
ゲーテは26歳のときに、若きカール・アウグスト公の顧問官としてヴァイマルに移るが、
薔薇十字思想への関心はその時まで続いていた。
薔薇と十字は、彼の未完の詩「秘儀」【1784-85年】の特徴となっている。
pp.208-209
” ゲーテは、一七八五年の春にこの詩を書くのをやめている。
彼はその主題にすでに飽きていたのだが、それを放棄する別の理由があった。
一箇月前に薔薇十字団は、
ヴァイスハウプトの創設したバイエルンのイルミナティ結社を警察に弾圧させることに成功していた。
第七章ですでに指摘したように、
十八世紀の薔薇十字団は政治的に保守的であるのに対して、
イルミナティ結社は急進的であった。
ゲーテは賢明にも、イルミナティ結社の弾圧が真の薔薇十字友愛団の理想にも及ぶことになると察していた。
インゴルシュタットの教会法教授であったヴァイスハウプトは、
バイエルンの薔薇十字集団とは意見が合わなかった。
エッカーという名前の歩兵隊の将校は、
ブルクハウゼンに錬金術研究を目的とする薔薇十字団の支部を設立した。
その支部は代理人をインゴルシュタットに送り込み、
ヴァイスハウプトが自分の結社のためにと注目していた会員を引き抜こうとしたために、
彼の怒りを招いた。
ヴァイスハウプトは、
「若い人々が黄金変成とか同じような馬鹿げたことに参加するなどということは、
私には耐えられない」と書いている。
ゲーテは、黄金薔薇十字団との対立においてヴァイスハウプトに共感を持っていたが、
薔薇十字思想それ自体を非難することはなく、その主題に興味を持ち続けた。”
(
(ヴァイスハウプトは薔薇十字が大嫌いである理由の一つが
薔薇十字に引き抜き攻撃を食らったこと。
ゲーテもイルミナティ結社のメンバーだが
薔薇十字が嫌いではない。
ヘルダーリンもイルミナティ結社員。
私がイルミナティという単語を使うとき基本的にヴァイスハウプトの結社を指す。
ヴァイスハウプトは錬金術の黄金錬成思想を否定。
つまり、薔薇十字思想の根幹の一つの否定。
そうえばシンフォギアでヴァイスハウプトが敵で性格最悪だったのは意図的だね。
日本は実質王政だから共和主義のヴァイスハウプトは叩かれやすいのさ)
p.218
黄金の夜明け教団の会員の一人であったW・B・イェイツはその詩や物語において
しばしば薔薇十字団の主題と薔薇のイメージを使っている。
黄金の夜明け教団の会員であったクロウリーの詩「薔薇と十字」は、
『オクスフォード神秘詩集』に入っている。★11
★クロウリーの使用した便箋の上部には一時期、
自分の称号として名前の下に
「M.D.Damc.」
と印刷されていたことがある。
『名声』においてクリスティアン・ローゼンクロイツがアラビアのダムカル【Damcar】で
医学の知識を修得したことに言及するものと考えられる。
(黒星★=原注
=作者マッキントッシュがつけた注釈。
白星☆=訳注
=翻訳者の吉村がつけた注釈。)
” ※着色は引用者
(「オルタナティブを考えるブログ」というブログあったのが消えてしまった。このブログの元祖イルミナティについての記事を紹介)
(ここから)
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【1】
2009/8/14(金) 午後 6:24 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
イルミナティ結社という18世紀半ばドイツのバイエルン州で設立された組織は、どういうわけか近年の陰謀論には欠かすことの出来ない秘密結社となり、反ロスチャイルド同盟やその他の国際金融資本家の陰謀論にまで登場している。
1776年、ロスチャイルドが資金提供して、インゴシュタット大学法学部長のアダム・ヴァイスハウプトが秘密結社イルミナティ(光明会)を創設します。
アダム・ヴァイスハウプトは、わずか24歳で大学教授になった「早熟の天才」と言われたユダヤ人です。
このイルミナティの共同設立者として、あのヤコブ・フランクが名前を連ねています。
イルミナティは、その目的を「知的に有能な人々に世界を支配させ、すべての戦争を防止させるために、世界統一政府を作ることにある」とし、当時の最も聡明と言われた人々、二千人もの信奉者を集めたということです。
結社を結成した5月1日に、ヴァイスハウプトは『Novus Ordo Seclorum』という本を出版しています。 Novus ordo seclorumはラテン語で、英語ではNew World Order、つまり新世界秩序となります。
反ロスチャイルのサイトより抜粋: http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
何故だろうか?
これは1つ事象に対する陰謀論を支持する者は、ありとあらゆる物事に対する陰謀論を支持するという悲しい特性があるためだ。
国際金融資本の陰謀を信じている人は、おそらくユダヤ人の陰謀だとか、9.11の陰謀なども信じているに違いない。今回の経済危機においても
『どこかできっと陰謀があったに違いない』
と、
ロックフェラーだとか、外交問題評議会やビルダーバーグ会議だとか、目に見えない巨大な力による陰謀があると考えるだろう。
まぁ、それはそれでいい。
彼らは(と言いながらもついこの間までの自分もそうだが)、『自分たちは真実を知ってしまった・・・この真実をみんなに伝えないと・・・』と考え方によっては正義感や善意の塊のような人たちだ。しかし、真実を探しているようで、
実のところ彼らが探しているのは、
「更なる陰謀」 の 「きっかけ」 に他ならない。
ま、
陰謀論は楽しい。
スケールが大きく( ̄o ̄;)
ちょっとワクワクするようなところがある。(・_・;)
誰も知らない秘密を、あたかも自分を含めた少数だけが知っているような気分。
見てはならないものを見てしまった映画の主人公になったような気分になる。
映画が終わり、場内が明るくなって床に散らかっているポップコーンを見た時、ふと現実にかえる。
映画の続きを見たかったら今後このブログは見ないほうが良いかも知れません。
陰謀論の起源
おそらく陰謀論がまかり通った時代は、紀元前のギリシアやローマにも存在してた。陰謀論という言葉そのものは、全く新しいというわけではないが、理論して広がりを見せるのは17世紀に入ってからだ。17世紀に入ると、エリザベス1世の時代に反イエズス会が吹聴したカトリック陰謀事件を発端として、フランス革命ではロベスピエールが様々な外国の陰謀論(つまり”言いがかり”。しかし根拠が無かった訳でもない)を利用しながら公安委員会によって恐怖政治を行ったりもして、陰謀論百花繚乱の時代を迎える。
カトリック陰謀事件
イメージ 1
同時代、大西洋をはさんだ向こう側の大陸でも同じだった。アメリカ独立戦争直後は大英帝国の陰謀論が吹き荒れた。国際金融資本の陰謀論を用いてアレクサンダー・ハミルトンなどの連邦派に対峙したのは他でもないトーマス・ジェファーソンだった。彼自身が理論を展開したわけではないが、国際金融資本の陰謀論の開祖はジェファーソンかもしれない。
そして、19世紀になると啓蒙思想家によるアンチ・キリスト教的な攻撃が大々的に行われ、フランス革命の政犯探しなどの反動から、保守的な理論家を中心に陰謀論の矛先を逆転させる運動が起きた。この急先鋒にたったのが、イエズス会のアウグスティン・バリュエル(1741-1820:Augustin Barruel)だった。まぁ、言ってみれば近代陰謀論者の草分け的存在だ。
アウグスティン・バリュエル(Augustin Barruel)
イメージ 2
アウグスティン・バリュエルの登場までは、イエズス会が陰謀論の中心的存在であった。日本ではフランシスコ・ザビエルで有名なあのイエズス会だ。
イエズス会は近代においてプロテスタント側のみならずカトリック側の人間からもさまざまな陰謀の首謀者と目されることが多かった。「イエズス会員」を表す言葉(たとえば英語のJesuit)がしばしば「陰謀好きな人、ずる賢い人」という意味でも用いられるのはその名残である。イエズス会は「より大いなる善」のためならどんなことでもするというイメージをもたれており、そのため教皇や各国元首暗殺、戦争、政府の転覆などあらゆる「陰謀」の犯人とされた。さらにイエズス会の組織の強力さとその影響力の大きさのゆえに教皇とバチカンを陰から操っているのは実はイエズス会総長であるといううわさがまことしやかに吹聴されてきた。
しかし、バリュエルの登場でイエズス会に向けられていた陰謀論の矛先は突如方向転換をする。
その矛先が向けられたが、他でもない
イルミナティ結社だった。
バリュエルは、1797年から98年にかけてバリュエルが書いたを全4巻からなる大?b>『Mémoires pour servir à l'histoire du Jacobinisme(ジャコバン派の歴史上記憶にとどめておくべきもの(?))』砲�い董△修療��茵璽蹈奪冀罎紡減澆垢襪△蠅箸△蕕罎覬∨渡世療�腓靴燭發痢淵轡鵐董璽次砲鮑遒蠑紊欧拭?br />
全4巻からなるこの超大作は、彼の名を一躍有名にした。
ヨーロッパ諸国の言語に翻訳されたこの本はロングセラーとなり、19世紀前半ヨーロッパで最も売れた本になった。
バリュエルを一躍有名にしたこの本では、どのようにフランス革命が起りえたか?という問題をテーマにまず最初に以下のような記述で始まる。
『フランス革命においては・・・すべて、彼らの恐るべき犯罪行為にいたるまで、予見され、熟慮され、組み合わされ、計画が立てられた。すべて彼らによって準備され導入された最も極悪な作用は、長い間、秘密結社によってじっくりと練られ、彼らの陰謀を確実に成功させるために最も好都合な瞬間が選択され、そして実行された。』
第1巻で彼は反キリスト的な陰謀論はすべて啓蒙主義の哲学によるものだと非難した。
第2巻では詭弁と君主に対する反抗の陰謀として、彼はフリーメイソンなども同類とみなした。
第3巻で、ついに彼はイルミナティをアナーキストもしくは悪魔主義者として描き出し、フランス革命の直接の原因が彼らの陰謀であるとした。
第4巻ではバイエルン州のイルミナティを三世紀近くのペルシアの宗教設立者まで溯らせ、その預言者を異端者としてみなし、その後のあらゆる異端者の起源としている。
この本が出版された当時、イルミナティはすでに解散していた。ヴァイスハウプトは生きていたが・・・。
僕自身この古い文献はまだ読んだことがないのでダイジェストしか分らないが、バリュエルの登場によってイエズス会の逆襲とも取れる陰謀論が理神論者や啓蒙思想家に対して展開されたことは確かだろう。そして彼がはじめた陰謀論は現在に至るまでの陰謀論にある流れを呼び込む布石となった。
それは 「反ユダヤの陰謀論」 だ。
続く・・・
” ※着色は引用者
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【2】
2009/8/17(月) 午後 11:55 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
イルミナティ陰謀論は、イエズス会の出身であるアウグスティン・バリュエルの19世紀前半のベストセラー?b>'『Mémoires pour servir à l'histoire du Jacobinisme(ジャコバン派の歴史上記憶にとどめておくべきもの(?))』砲修發修發糧�爾�△襪海箸倭芦鷭劼戮拭?br />
彼の四巻になる大著がイルミナティをとりまく陰謀論の起源となるわけだが、そもそもイルミナティとはどのような秘密結社であったのだろうか?イルミナティ結社の起源を知るにあたって、当時18世紀頃のドイツ・バイエルン州における精神世界的な時代背景や社会政治の状況を確認する作業というのは、とても大切な作業だ。
18世後半のドイツ・バイエルン州の状況
ドイツ人の著名な歴史家で『Historische Anthropologie(歴史人類学)』という雑誌も発行したザールランド大学の教授リヒャルド・ファン・ドュルメン(Richard van Dülmen)は、イルミナティ結社について1975年の時点で、「イルミナティという結社はドイツの歴史学においては、かつて一度も歴史的意義のあるものとして注目されなかった。」と言っている。
ただし、こうした状況はここ30年ほどで変わり、歴史学者だけでなく、ワイマール秘密委員会の会員リストにゲーテの名前が見つかってからは文学研究者までもが秘密結社を研究し始めた。
そして、イルミナティ結社は啓蒙思想時代に結成された秘密結社の中で最もよく研究される対象となった。
イルミナティが最も研究された理由は単純で、他の秘密結社に比べて資料が豊富で容易に入手できたからだ。なぜ入手しやすかったかというと、それは時のバイエルン選帝侯であるカール・テオドールの警察隊が、1786年にほとんどの結社の書簡を押収することに成功し、政府命令によって1787年に印刷されるにいたったほどだ。
反イルミナティの公表文に対する反応として、ヴァイスハウプトや元イルミナティ会員は多量の釈明・抗議文を公表したので、比較的文章として残っている資料が多い。
当時の啓蒙思想がヨーロッパに与えた影響はすさまじかったのは言うまでもないことだが、
ドイツ・バイエルン州で確認される啓蒙主義の構造的変化と言うべき動きは、3つの局面に分ける考えることができる。
第一局面
バイエルン選帝侯であるマクシミリアン3世ヨーゼフ(1727-1777)は、バイエルン州のカトリック教会に対して決定的な影響を及ぼし、修道院の改革に取り組んだ。彼は非常に進歩的・啓蒙的な思想で知られた人物であった。
彼のカトリック教会の改革運動の頂点は、官僚で歴史家のヨハン・ゲオルグ・ロリ(1723-1787)によって1759年に設立されたバイエルン科学アカデミーと“精神的世界の委員会(Geistliches Rat)”であったとされている。また、ニンフェンブルクに磁器工場を建設するなど経済や手工業の発展に大いに力をかした。
ちなみに彼の卒業した大学はヴァイスハウプトと同じインゴルシュット大学で、所謂ヴァイスハウプトの先輩にあたる。ひょっとしたらヴァイスハウプトのお父さんの講義を受けていたかもしれない。
Max III. Josephマクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)
イメージ 1
第二局面
第二局面は、ジャンセニスム支持者、合理主義者、そして薔薇十字団の論争が激しく展開された局面だ。これらを背景にイエズス会結社が1773年に禁止され、1776年にイリミナティ結社(当初は違う名前で“蜜蜂団”)が誕生した。
ジャンセニスムというのはあまり聞きなれない言葉かもしれないが、啓蒙思想時代に広まった思想の一つである。
以下はWikipediaより引用
ジャンセニスム(Jansenisme)は17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想。ヤンセニズム、ヤンセン主義ともいわれる。人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。低地諸国出身の神学者コルネリウス・ヤンセン(1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス』の影響によって、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。
コルネリアス・ヤンセン(Cornelius Jansen)
イメージ 2
ジャンセニスムは、その行き過ぎた悲観的人間観や自由意志の問題により1653年にローマ教皇庁によって禁止・追放されることになった。しかし、18世紀に入るとケネルという人物がフランス教会の権威からの自由とシャンセニスムを結びつけ、再び論争を巻き起こした。
薔薇十字団という秘密結社の起源については、マルティン・ルターにはじまる宗教改革や、パラケルスス、敬虔主義、錬金術、千年大国説などの理論の発展と結果に不満を持った貴族階級の人々や学者達が神学と科学を融合させるような新しい道を模索していた時期だった。敬虔主義や神智学から派生した様々な幕の内弁当のような思想が、17世紀における薔薇十字団のマニフェストに広がりに重要な役割を果たしたといわれている。彼らの思想のは当時支配的だったキリスト教神学の流れに真っ向から対峙するものであった。
ただし、この名前を持った結社が何であったか定義するのは極めて難しいとされている。クリスチャン・ローゼンクロイツが1614年に匿名の書物1614年に神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで刊行された文書『Allgemeine und General Reformation, der gantzen weiten Welt全世界の普遍的かつ総体的改革』にはじめて登場する。例えば薔薇と十字架の紋章というのは、いろいろな説があるが実はマルティン・ルターも使用していた。薔薇と十字架のコンビネーションというのは啓蒙的な思想と結びつける上でよく用いられていた象徴だった。
マルティン・ルターの紋章
イメージ 3
薔薇十字団の思想的特徴を述べるのは難しく、実際は、錬金術、占星術、神智学、自然哲学などのヘルメス主義、ネオプラトニズム、カバラ、そしてグノーシス主義など様々な哲学的世界が混ざり合わさっていた。
第三局面
第三局面は、イルミナティの禁止によって終焉を迎える事になる。バイエルン州の特異な発展はファン・ドュルメン によると『封建教会の独占的な地位と脆弱な市民という社会的情勢に立ち向かうために、少数の精神論者や官僚などの愛国者によってバタバタと啓蒙思想的な処方箋を描こうとした過程によるもの』だとされている。
次はヴァイスハウプトの生い立ちやイルミナティ設立の歴史をドイツ語サイトの情報ソースを中心に見ていく。
” ※着色は引用者
” 反陰謀論 真実のイルミナティ 【3】 ヴァイスハウプトはユダヤ人か?
2009/8/18(火) 午後 6:33 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
前回の記事→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20688914.html
ヨハン・アダム・ヴァイスハウプト(Johann Adam Weishaupt:1748-1830)は、1748年2月6日にインゴールシュタットに生まれた。彼の父ヨハン・ゲオルグ・ヴァイスハウプト(Johann Georg Weishaupt: 1717–1753)は法律学の教授であったが、彼が5歳の時に亡くなってしまう。
彼の出生にまつわる話において第一の疑問点に突き当たる。
ヴァイスハウプトはユダヤ人か?
彼の略歴を述べるにあたって必ず述べられているキーワードがある
「早熟の天才ユダヤ人」
でも・・・
彼って・・・ホントに
ユダヤ人 ?
(しかし、どれもこれも ヴァイスハウプトをユダヤ人だと言っているサイトや記述はすべて同じ情報源で、書き方を変えようとする努力すら見られない。)
もし、ヴァイスハウプトがユダヤ人でなくなるとどういうことが起きるか?
それは、ロスチャイルド家やユダヤ系の国際金融資本家を中心とした陰謀論の大前提がもろくも崩れてしまう。ロスチャイルドとイルミナティ結社にそもそも繋がりを持たせる必要はないのだが、金融という近代的システムを通じて、世界を支配する陰謀をでっち上げようとすれば、なかなか両者を切って切り離すことは難しい。
副島隆彦がせっかく超スーパー・・・ん~~なんて言ったっけ・・・
・・・そうそう日本人の中では彼しか出来ない「真実読み破り訳」を使って翻訳があったとしても、そもそも翻訳した元の資料がでっちあげだったとしたら・・・
多分 原文が英語であることから見るとヴァイスハウプト自身の文章ではない。
(しかも 結成時の演説って・・・クスッ 笑っちゃうね。← 理由は後日書きます)
まぁ、何だか お疲れ様・・・という感じだ。
(以下リンクより転載→ http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/c-8-2.html)
本当は、もうあと、英文の原著作から数箇所の引用文を挙げることで、イルミナティという団体の秘密が分かります。それは、後日、解説します。あるいは、この本が出版されてから、改めて、取り上げます。それでは、副島隆彦の「真実読み破り訳」をお見せします。
(副島隆彦による訳文を載せる)
アダム・ヴァイスハウプトは、1776年に秘密結社、イルミナティを創設した。その時の、結成の演説(説教)の中で、イルミナティの組織結成の目標を次のように説いた。
「われわれイルミナティは、理性(りせい、reason , vernunft フェルヌンフト)すなわち、利益欲望の思想、金銭崇拝の精神を、われわれ人間にとっての唯一の法典(規則の体系)にするであろう。これこそが、これまで人間(人類)が解明できなかった最大の秘密なのだ。金銭崇拝(利益欲望の精神、すなわち理性)が、人間にとって信じるべき信仰、宗教となる時に、その時に、ついに、われわれ人間が抱えてきた最大かつ唯一の大問題が、解明され、解決されるのである。」
(副島隆彦の訳おわり)
<中略>
私は、5年ぐらい前から、reason リーズンとは、reison レゾン(存在の根拠)と同義であり、さらには、ratio ラチオ、レイシオ 「合理」と同義である、とずっと説明してきました。ですから、rationalism ラシオナリズム、ラッショナリズム、「合理主義」とは、「利益の法則」であり、「損得勘定の思想」であり、「投下した労力に対してそれに相当する利益を得ることである」である、と解読してきた。だから、それが、ユダヤ思想(ユダヤ教とも訳す、Judaism ジュダイズム)の根本の思想だということをずっと、しつこく説明してきた。
ユダヤ教(ユダヤ思想)を知るには、モーゼ五書や、タルムードなどの教典を解読することがユダヤ思想を勉強することだというものではない。それは日本人には困難を極める。そうではなくて、ユダヤ思想の原理は、金儲けの精神であり、ラチオ=リーズンなのだ、ということだ。これを、強欲の精神とか、拝金主義とか、訳してもいい。えー。そんなに簡単なことなのか、と私に聞き返しても、どうにもならない。これで、読み破れたのだから、それでいいのです。
そもそも ヴァイスハウプトはユダヤ人かも・・・
という噂は、
前々回に述べたアウグスティン・バリュエルの著作に関係している。
彼がすべての悪玉としてイルミナティの存在をカトリック教の立場から論じはじめたので、ある程度、反ユダヤ主義やユダヤ陰謀論と結びつく資格はこの時点で十分に出来上がっていたと言っていいだろう。
ただ、実はバリュエル自身、イルミナティについての知識は殆どなく、また彼が結社に興味を持った時点ではすでに解散されていた事も知らなかった。更にその活動範囲をヨーロッパ全土として捉ええるあたりは完全にフリーメイソンと取り違えていたのだろう。イルミナティは最盛期でさえ、その影響力はドイツ国内に限られていた。
彼は全4巻にわたる大著の後半(3巻と4巻)でイルミナティにまつわる陰謀論を展開したわけだが、その出来栄えに比べてあまりにも有名になったことで、彼の死後ある噂が流れた。
この話には どうも 続きがあった・・・
幻の第5巻の存在だ。
1878年のとある新聞にバリュエルがイタリア士官に宛てて書いた手紙の内容が公開された。
彼が1806年に書いた書簡で、イルミナティの黒幕とも言うべき壮大な陰謀組織があるとった内容が書かれてあったという。それは力のあるイルミナティさえもコントロールしていたという存在だ
・・・ ユダヤ人だ。
その疑惑の手紙によると、バリュエルはこのユダヤ人陰謀論を彼の大著の第5巻として明らかにしようとしていたというのだ。そして、それによるとすでに彼は執筆終えていたが、発刊は結局のところ見送ってしまったというのだ。そのあまりにも過激な内容であるがために、大量虐殺をまねきかねないと彼が恐れたからだ。
これが正しいかどうかの確認は出来ない。この書簡はバリュエルの死後1878年のフランスの反ユダヤ主義小冊子である『Le Contemporain』にて公表されたもので、陰謀論的な反ユダヤ主義がおそらく捏造したものではないかという疑いもある。
というか・・・すでに有名になっていたブリューエルの威を借りて捏造されたものとしてまずは間違いないだろう。
この書簡にてヴァイスハウプト自身がユダヤ人であると書かれていたかどうかは分らないが、少なくともイルミナティ結社を動かしている闇の組織なる存在について述べられたモノだ。
このイルミナティとユダヤ人という奇妙な結びつきはやがて、カトリック系や右翼の新聞を中心にヴァイスハウプトをユダヤ人とする論調が19世紀のうちに出来上がってしまうことになる。
さて、次は話をアダム・ヴァイスハウプトの略歴に戻そう。
” ※着色は引用者
” 反陰謀論 真実のイルミナティ 【4】 ヴァイスハウプトとロスチャイルド
2009/8/21(金) 午後 10:52 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
さて、話をアダム・ヴァイスハウプトの略歴に戻そう。
前回 →http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20703727.html
ヴァイスハウプトの成長
アダムが5歳の時、父であるゲオルグが亡くなり、彼の母親は彼の名付け親であり、父親と同じくインゴールシュタット大学の法律学の教授であったヨハン・アダム・イックシュタット(Johann Adam von Ickstatt:1702-1776)に養子として引き取り、当時はまだバイエルンでは普通に行われているイエズス会による教育を受けさせることにした。
ヨハン・アダム・イックシュタット(Johann Adam von Ickstatt)
イメージ 1
さて、このイックシュタットという人物は、当時ドイツを代表する啓蒙思想家で、ドイツ独特の学校システムである実技学校(Realschulwesen)を確立した人物でもある。彼がアダム・ヴァイスハウプトを引き取った時にはすでにインゴールシュタット大学の法学部長となっており、ミュンヘンの選帝侯の法律コンサルタントもしていた。
イックシュタットは、鍛冶屋の息子として生まれ、ヨーロッパ中を点々とする生活を送るが、彼の人生の転機は、彼が苦労しながらマールブルク大学(1725年-1727年)で、ドイツの偉大な数学者にして哲学者クリスチャン・フォン・ヴォルフ(Christian von Wolff)の教えを下に、数学と哲学を学んだ事にある。彼は1730年にマインツ大学で博士号を取得するとヴュルツブルク大学で法律の教鞭をとることになる。
クリスチャン・フォン・ヴォルフ(Christian von Wolff)
イメージ 2
ヴァイスハウプトに哲学や当時の合理主義哲学を教育し、彼の思想形成に影響を及ぼしたのは間違いなくこのイックシュタットだったろう。インゴールシュタットにあるユスティン・ギムナジウム(Jesuiten-Gymnasium:つまりイエズス会の学校)に通い、哲学、歴史、そして政治学を専攻するために15歳にして学校を去り、大学へ通うことになった。
ヴァイスハウプトはインゴールシュタット大学で、予定通り哲学、歴史、法律、そして政治学を学び、1768年20歳の時に哲学のドクターを取得する。彼の博士論文のテーマはちなみに『Ius civile privatum』で多分、“私市民法”とか訳すのかな。
まぁ、これをもって彼を早熟の天才として見る人もいるが、比較的早い・・・ぐらいだろう。彼の生みの親も育ての親も同じ大学の教授であったことを考えれば、それほど特筆すべきのことではないだろう。1772年に彼は大学の法学部非常勤講師となり、大学でも教鞭をふるうようになる。
ロスチャイルとヴァイスハウプトの出会い?
さて 陰謀論者の話に少しもどすと、実は1770年に重要な事がおきている。海外のサイトを見るとロスチャイル財閥の初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルがこの年に会っているというのです。
(『Weisshaupt』、『Rothschild』、『1770』 というキーワードでググれば山ほど出てきます。)
日本語のサイトにも紹介されているます。
(引用先→http://www.h3.dion.ne.jp/~b-free/siranai/siranai-3/d-27-7.html)
1770年、ヴァイスハウプトが22歳の時、26歳のマイヤー・アムシェルに雇われた。
マイヤー・アムシェル
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e3/MayerRothschild.jpg
安部芳裕氏が書いた『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』には、(今手元にないのでなんともいえないですが)、
ロスチャイルドがイルミナティ設立にあたり資金を提供した・・・
とか
「シオンの議定書」を作らせた・・・
とか書いてあったかと思います。
この噂の大元の出典についてはそのうち調査しますが・・・
マイヤー・アムシェルのロスチャイルドがようやく銀行として成功するのは、1789年にヴィルヘルム1世との金融商売にからんでからで、それまでは、フランクフルトにおけるユダヤ人ゲットーの両替屋として細々と商売を営んでいたことだろう。
まぁ、商売が繁盛するようには努力していたし、なみなみならぬ野望も抱いていたかもしれない。1769年に彼は古銭コレクター仲間でヴィルヘルム1世とのコネを持っていたエメリヒ オットー・アウグスト・フォン・エストルフ(Emmerich Otto August von Estorff)に嘆願書を書いた。
彼が嘆願したのは
『宮廷ユダヤ人というタイトルが欲しいです。』
この願いが受け入れられ1769年9月21日にヘッセン=ハナウの紋章が入ったバッジと銘文『M. A. Rothschild, Hoflieferant Seiner Erlauchten Hoheit, Erbprinz Wilhelm von Hessen, Graf von Hanau(ロスチャイルド、彼の尊厳すべき殿下ヘッセンのヴィルヘルム皇太子、ハナウ伯爵の御用商人)』を店につけることを許された。
貴族相手の商売には特に役に立ったそうだ。
1770年は、事実マイヤーにとっては重要な転機だった。
彼はヴォルフガング・サロモン・シュナッパー(Wolf Salomon Schnapper)という宮廷ユダヤ人の娘で、同じユダヤ人ゲットーの中で暮らしていた16歳のグトゥレ・シュナッパー(Gutle Schnapper)と結婚したのだ。
これで読めましたね!
彼が『宮廷ユダヤ人』というタイトルを欲しがったのは貴族との商売を考えてというよりも・・・
グトゥレさんと結婚するためだったんだね。
きっとすっごく 美・・・
グトゥレ・シュナッパー(Gutle Schnapper) マイヤー・アムシェルの奥さん
イメージ 3
え?結構怖い?
自画像では・・・な婦人ですが、参考までに1771年から1792の間にアムシェルとこの奥さんの間に生まれた子どもは全部で20人です。
え? 関係ないか・・・
とにかく とっても忙しかったようです。
しかも、彼の2人の兄弟と家を分けて住まねばならず、彼の持分は8分の3だったそうです。
そんな若いアムシェルがヴァイスハウプトに資金をイルミナティ結成の資金を提供して、シオンの議定書を書かせ、そして世界征服を企んでいた・・・という確率は
多分
0ですね
それにしても イルミナティはどのようにして結成されたのだろうか?
” ※着色は引用者
(このブログからの引用はすべて画像省略だ)
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【5】 たった3人での結成式
2009/8/24(月) 午後 11:38 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
ロスチャイルドから資金提供が無かったとしたら、いったいどやってアダム・ヴァイスハウプトはイルミナティを結成したのだろうか?
前回 →
答えは簡単だ。
そもそも資金なんて必要なかったからだ。
話をイルミナティ結成の歴史にもどそう。
イルミナティ結社の結成
1773年に教皇の命令によってイエズス会の結社が廃止される事になり、これを受けてイックシュタットは同じ年にインゴールシュタット大学のイエズス会組織を解散させると、イエズス会系の教授たちは、この大学を去らなければならなくなった。
それによって空席となったインゴールシュタット大学の教会法と実践哲学のポストにヴァイスハウプトが首尾よく収まり、若き教授が誕生することになった。'''
しかしながら、イエズス会結社の解散をもってその影響がなくなってしまうわけではなく、それまでこの小さな街を牛耳ってきたイエズス会派の役人達の影響力は未だ強く残っていた。
ヴァイスハウプトは、その若さゆえ、インゴールシュタット大学で唯一のイエズス会的な過去を持たない教授であった。当時広がりつつあった啓蒙思想に感銘を受けつつも、彼は教授陣からは孤立した存在であったといえるだろう。
そんな アダム・ヴァイスハウプトにとって、自分の知識を思う存分教えることのができる学生との交流は、唯一の楽しみだったかもしれない。
さて、その頃エッカー(Ecker)という名の士官がバイエルン州ブルクハウゼンにロッジ(おそらく薔薇十字団)を建てると、彼の錬金術などが有名になりあっと言う間に近隣地域へその噂は広がっていった。1776年このロッジの会員の1人が、州の各地方で最も能力のある学生をスカウトするべく、インゴールシュタットにもやってきて、よりによってヴァイスハウプトの優秀な教え子であった学生の1人をスカウトして連れて行ってしまう。
薔薇十字団
イメージ 1
ヴァイスハウプト自身も書いているが、彼にとってはかなりショックな出来事だったようだ。ヴァイスハウプトはますます孤立感を深めて、彼の生徒をイエズス会的な計略や薔薇十字団などの秘密結社から保護するため、そして特に生徒にその時代の精神的とも言える教会批判的な文献を供与するために、秘密結社を設立することを決意することになった。
そして
インゴールシュタット大学の教会法及び実践哲学の教授であったヴァイスハウプトは、1776年5月1日に2人の教え子と、完全主義同盟(Bund der Perfektibilistenラテン語:perfectibilis)というサークルを結成する。
後のイルミナティ結社(ハチの結社とも呼ばれた)である。
このサークルのシンボルとして彼はミネルバというフクロウを選ぶ。ローマ時代における叡智の神だ。
イルミナティのシンボル
イメージ 2
残念ながらプロビデンスの目とかホルスの目とか言われるものではない。日本語や英語のウィキペディアでは述べられていないが、ドイツ語はもちろんのこと、フランス語、イタリア語では常識として掲載されている。
反ロスチャイルド同盟や安部芳裕氏の本には次のように書かれてある。
1776年、ロスチャイルドが資金提供して、インゴシュタット大学法学部長のアダム・ヴァイスハウプトが秘密結社イルミナティ(光明会)を創設します。
http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
そりゃ、銀行家のやることなんて資金提供ぐらいなものだろうが、資金提供なんて必要ありません
もう一度書こう
彼は2人の学生とサークル(後のイルミナティ結社)をつくった。
2人です。
当然。。。ロスチャイルド(当時は両替商)からの資金提供などいるわけもなく、彼の研究室で、ささやかにビールで乾杯でもしたことだろう。それぐらいヴァイスハウプトの給料でもまかなえたはずだ。
結成時にまつわる噂はまだある。反ロスチャイルド同盟サイトには次のように書かれている。
『このイルミナティの共同設立者として、あのヤコブ・フランクが名前を連ねています。』
http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
→残念ながらヤコブ・フランクがイルミナティ共同設立者として名を連ねることはありませんでした。全然。。。 これっぽっちも・・・。
二人の学生とスタートさせたこのサークル結成当時は、まだ組織と呼べるものもなく、理念とか思想的なものはヴァイスハウプト本人の頭の中に存在するだけのものであった。
ヤコブ・フランクというのはそもそも誰だろうか?
イメージ 3
ヤコブ・フランクというのは、18世紀におけるユダヤ教リーダーで自称メシアのサバタイ・ツヴィの生まれ変わりだとかダビデ王の生まれ変わりを自称した。しかしながら、様々な反論を呼び起こした“悪事を通じた浄化”というコンセプト、や新約聖書や啓蒙思想を受け入れるなど、およそ型破りな教義によって彼と彼の弟子たちはユダヤ教から破門されてしまう。
彼はキリスト教とユダヤ教の観点を複合した『フランキスト』と呼ばれる新しい宗教をつくったと考えられるが、その危険な教義のために、1760年2月6日に逮捕されて以来、ロシアに侵攻によって開放される1773年までの13年間はとりあえず、ポーランドのチェンストホヴァという町で自宅軟禁状態になる。
彼はその後オーストリアのウィーンで暮らことになるが、アダム・ヴァイスハウプトとヤコブ・フランクの接点を示す証拠はゼロです。海外のサイトなんかには、1770年代にヤコブ・フランクはヴァイスハウプトが協定をむすんだという記述もあるのだが、検証に値するサイトはほとんどない。
反ロスチャイルドのサイトを見ると次のような事が書かれています。
http://www.anti-rothschild.net/main/06.html
(中略)
もう一人が、ヤコブ・フランク。(1726-1791)
ヤコブ・フランクは、ポーランド出身のサバタイのような“自称メシア”で、ユダヤ教の救世主思想を「この世の悪や不幸を人為的に頂点にまで満たして、この世を破壊し尽し、メシアを到来させる」という危険な思想に転換させたのです。ヤコブ・フランクとその信者(=フランキスト)たちは、正統派ユダヤ教のラビから破門されましたが、フランキストたちは「改革派ユダヤ教」と名称を変え、ユダヤ教の中で一大勢力となっています。
そして、このフランキストがサバタイ派と結びつき、キリスト教徒・イスラム教徒・仏教徒たちの中に紛れ込んで、危険な終末思想を実現しようとしているのです。
さて問題は、世界を支配するユダヤ王ロスチャイルドが、ただの大富豪ではなく、タルムードを信奉していて、しかもサバタイ派=フランキストに属していることです。
ロスチャイルドは、タルムードを信奉しているとありますが、
ヤコブ・フランクは『反タルムード』に属します。
何だかおかしいですよね。明らかに矛盾してます。
結社を結成した5月1日に、ヴァイスハウプトは『Novus Ordo Seclorum』という本を出版しています。
http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_02/index.html
→ 残念ながら出版していません。
彼は結成の際に出したは
『Pythagoras oder Betrachtungen über die geheime Welt- und Regierungskunst』
という報告書のような形の文章は発表しました。出版されたのはイルミナティが解散させられてからですが・・・。
彼の著した本の中で 『Novus Ordo Seclorum』 という名前の本はありません。
それに世界統一政府って・・・
アダム・ヴァイスハウプトが目指した世界は本来 『支配者のいない世界』 を暴力なしに実現することなのにこれでは矛盾してますよね。
それに そもそも 『秘密結社』 であるからには・・・ そんな犯行予告のような本だしますかって。
ここまでは、ドイツの片田舎ですすむ極めてローカルな話である。
” ※着色は引用者
”
反陰謀論 真実のイルミナティ 【6】 最初の組織改革 蜂結社?
2009/10/19(月) 午後 7:16 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
イルミナティとフリーメイソン
1776年に3人でスタートした完全主義同盟(Bund der Perfektibilisten)は、学生を中心に徐々に会員数を増やしていくが、それは決して目立つような変化でもなく、インゴールシュタットという田舎町にある大学の出来事らしくのんびりとしたものだった。
世界征服とか・・・ 世界単一政府の樹立だとか・・
さすがに結成当時のイルミナティには荷が重過ぎるような気がする。
『結社はつくったはいいが・・・この先どうしよう・・・』
・・・なんて悩みをヴァイスハウプトはもっていたのかもしれない。実際、ヴァイスハウプトのつくった完全主義同盟というのは、この頃はまだ組織とよべるようなモノでもなく、また、これといった明文化された組織の主義・思想があるわけでもなかった。
彼の頭の中でしか存在していなかった。
ひょっとしたら彼はそれだけで満足だったかもしれない。。。
ただ、学生とは言え少しずつ会員が増えていく中でそうもいかなくもなってきた。
そこでヴァイスハウプトは1777年にミュンヘンにあるフリーメイソンのロッジZur Behutsamkeitの会員になり「Sanchoniaton(←読み方が分かりません)」というトロヤの伝説的な歴史家の名前を使用した。この結社は、これまでのフリーメイソンの階級構造を改革した事でもすでにバイエルン州では有名なロッジだったそうだ。
秘密の名前
この結社で使う秘密の名前を彼は、バイエルン州でイルミナティ結社の存在があらわになった時にCocyrus(コキュートス)とかScipio Aemilianus(スキピオ・アエミリアヌス)とか変えたりもしている。コキュートスはちなみにギリシア神話の中で、地獄の最下層に流れる「嘆きの川」を意味している。
秘密の名前・・・ ようするにネット上のハンドルネームみたいなものだ。
ちなみにヴァイスハウプトは自身が設立した結社では、ローマの剣闘士であるスパルタクス(spartacus) という秘密の名前を使用していた。
ま、ミュンヘンにあるフリーメイソンのロッジの会員になったのは、結社の組織を研究する、つまり彼の私的なサークルを結社らしくするためにも、当時ヨーロッパ知識人の間で流行していたフリーメイソンの組織構造を真似ようとしたのだ。ただ、ここで言うのは発祥地のロンドン本家フリーメイソンの組織構造ではなく、ドイツでフントによって発展したスコッティッシュライト系の組織構造だ。
そこで、彼の結社設立の時からもっとも信頼のおける学生であり、ヴァイスハウプトの右腕ともいうべきFranz Xaver von Zwack(フランツ・フォン・ツヴァイク)と伴に組織化をはじめることにする。
このツヴァイクという人物は、後年にプファルツ地方の政権トップの座につくほどの人物なのだが、彼は、1778年すでにヴァイスハウプトが会員になっているミュンヘンのフリーメイソンロッジ『Zur Behutsamkeit』に加入している。彼の秘密の名前はいくつかあり、Cato、DanausもしくはPhilipp Strozziだった。
イルミナティという名前に(やっと)決定
組織再編の際、ヴァイスハウプトは新しい組織の名前として蜂結社(Bienenorde)を提案した。なぜなら
女王蜂の下に「叡智」という名の蜂蜜を集めなければならないので・・・
ということらしかった。。。
しかしながら、結局のところ『イルミナティ結社』と名に決めた。
イメージ 1
なぜ、蜂結社がボツになり、イルミナティにしたのか・・・
いろいろな憶測が飛び交うが、実際は
「ハチ結社じゃ 格好悪いっすよ~。イルミナティの方にしましょうよ~」
と、ツヴァイクに言われたのかもしれない。
ところで、「イルミナティ」という言葉はサタン(ルシファー)に由来するという陰謀論者もいるが、まぁ「光」でもルシファーだといわれたらもうお手上げかもネ。そんな言いがかりをつけられるぐらいだったらやっぱり蜂結社にしとけばよかったのかもね。
また、イルミナティという名前がついた結社は実のところヨーロッパのいたるところにあり、このヴァイスハウプトの結社が解散させられた後も、密かに継承されていたとしてしたことが陰謀論の中心となっている。
フランス革命の時には『Les Illuminés』という名のフリーメイソンのロッジがあったので、「イルミナティは地下で活動していて生き残った」とか「フリーメイソンをのっとった」とか言う噂の元にもなった。しかしながら、フランスの『Les Illuminés』というロッジに限って言えば、小さな規模のロッジで、フランス革命に影響を及ぼしたとは考えにくい。
まぁ、何はともあれ少しは組織らしくなり、地元の会員数も徐々に増えていった。ツヴァイクがミュンヘンのフリーメイソンのロッジに入会したあたりから、このイルミナティ結社の主な活動舞台はミュンヘンに移った。
そこでおそらくアドルフ・フライヘア・フォン・クニッゲ(Adolph Freiherr v. Knigges)に出会ったのだろう。
” ※着色は引用者
” 反陰謀論 真実のイルミナティ 【7】 クニッゲ男爵登場
2009/10/28(水) 午後 7:34 陰謀論批判 都市伝説
facebookでシェア
twitterでつぶやく
0
フリーメイソンの改革者クニッゲの登場
アドルフ・フォン・クニッゲ(Adolph Freiherr v. Knigges)男爵が1780年1月にイルミナティ結社に加わると、組織的な大きな転換期を迎えることになる。1781年まではヴァイスハウプトがこの結社をイエズス会指導者のような役割を担っていて、組織の構造もイエズス会のに良く似たものであったそうだが、クニッゲの改革によって権力構造も変化がおきたのだ。
アドルフ・フライヘア・フォン・クニッゲ(Adolph Freiherr v. Knigges)
Freiherr(フライヘア)はドイツで使用された貴族の称号「男爵(バロン)」を少し丁寧にした呼称
イメージ 1
このクニッゲという人物はもともとあちらこちらのメイソン・ロッジ(主に北ドイツ)の会員で、ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)、ヴォルフェンヴュッテル(Wolfenbuettel)やヴィルヘルムスバード(Wilhelmsbad)などで階級制度の改革などを断行してきた。
彼がフリーメイソンの階級制度改革を行うのはそれなりの背景があり、ヴァイスハウプトのイルミナティに参加したのにも理由があった。
フリーメイソンとドイツの関連について少し調べてみた。
フリーメイソンのはじまり
『近代』におけるフリーメイソンが公式に設立されたのは1717年だと言われている。1717年6月24日に、すでにある四つのロッジが合併し、ロンドンのコヴェントガーデンにあるアプルツリー・ターヴァンに集まってグランド・ロッジを形成したのがはじまりだ。
この日は今でも世界中のフリーメイソンにとって最高の祝日として位置づけられているという。ちなみにこの日は洗礼者ヨハネスの誕生日でもある。
『近代』という言葉を使ったのは、それまで石工職人のネットワークやギルドと言われる商人・手工業の団体は、ヨーロッパ各地に存在しておりロッジも数多く設立されており、フリーメイソン自体もそれ以前から存在していたと考えられるからだ。
1717年以前のフリーメイソンは、本当の意味で秘密結社的な存在であった。したがって、会員である事実を認めたり、ロッジでの集会について話題にする事さえ誓いへの冒涜とされていたそうだ。
その起源については諸説あり、カリオストロ男爵が力説したようにエジプト起源説やテンプル騎士団の流れを汲んでいるという説もある。
いずれにしても、近代フリーメイソンの『結社』として登場したのは、もともと石工職人やギルドにある『友愛(兄弟愛)』というのが、啓蒙哲学や宗教革命とあいまってより注目されはじめたことにも起因するだろう。
存在自体が公にされた理由はいろいろ考えられるが、おそらく秘密結社に対する取り締まりが厳しくなったことで、いっそのこと公開してしまい、反逆罪などという名目で摘発される前に、富裕層や貴族、王族なども取り込んでいくことで、そうした結社に対する弾圧から免れようとしたのかもしれない。
フリーメイソンの儀式の様子
イメージ 2
1717年以降、フランスやスコットランドでもロッジも公開の結社として世の中に姿をみせはじめる。
広がるという見方は少しおかしいかもしれない。諸説が示すように近代フリーメイソンには下地のネットワークになる母体がもともと存在していたと考えるのが妥当で、各地域でこれまで秘密にされてきた組織が公開され始めただけということになるかもしれない。
ドイツにおけるフリーメイソンの歴史
ドイツに注目してみると、1729年にターナス(Thuanus)という人物が辺境地(ザクセン地方)のグランド・マイスターに任命されたが、実際の活動に関する記録は残念ながら残されていない。その後1733年に11人のドイツ紳士がロンドンでフリーメイソンに受け入れられると、ハンブルクにロッジを設立するように依頼される。しかしながら、これも成功しなかったと言われている。
ようやく1737年12月6日にドイツのハンブルクに(近代)フリーメイソンのロッジが出来るが、最初のうちはロッジの名前もなく、ましてやグランド・ロッジという位置づけでもなかった。しかしその後1740年に第二の親方がロンドンのグランド・ロッジ・レジスターの番号108として登録され、1743年にようやく『Absalom(アブサロム)』という独自の名前が与えられた。
また、他方で1738年にはドレスデン地方にもロッジがルトウスキ伯爵によってロッジが設立され、その後二年間にさらに2つのロッジが設立されている。
1754年には確認される限りは19ものロッジがドイツに設立された。。。
ドイツ独自の発展 Strikte Observanz
当時のドイツでは、フリーメイソンは独自の発展を遂げる。Strikte Observanz(Rite of Strict Observance:厳守の騎士?)というイギリスの3段階からなるシンブル階級構造に比べて、複雑な階級構造をカール・ゴットヘルフ・フォン・フント(Karl Gotthelf von Hund)なる人物がドイツ全土に広めたからだ。
カール・ゴットヘルフ・フォン・フント(Karl Gotthelf von Hund)
イメージ 3
フントは、元々フランスでフリーメイソンとして受け入れられ、その後パリに滞在中にスコッティシュ・ライトの段位の中に受け入れられた。その際、彼は絶対服従の騎士(赤い羽根の騎士)に会いテンプル騎士団のフリーメイソンになったとか、ならなかったとか・・・。
いずれにしも、彼はフリーメイソンとテンプル騎士団を結びつけ、『未知なる上階位の存在』を説くとともに、スコッティシュ・ライトと似たような階級制度を導入しようとした。
スコッティシュ・ライトというのは、フリーメイソン関連の本や資料には必ずと言ってよいほど登場するのだが、これはフリーメイソンの、会派のようなもので、特徴的なのは「徒弟」、「職人」、「親方」の3位階からなるフリーメイソンの階級システムの上に、更に30位階をもうけて33の位階としてもので、発祥は実はフランスのボルドーとされている。
さて、フントが主張した『未知なる上階位の存在』といのは・・・
本当に未知だった・・・(笑。
誰も知らなかった・・・。
したがって、イルミナティがそのささやかな結成式を挙げた1776年、フントが突然亡くなると、彼の影響を受けたドイツのフリーメイソン社会は混乱に陥った。
「俺たちこれからどうすればいいんだろう・・・」
「いったい誰なんだよ。未知なる上階位の者って・・・」
しかし、フントが指導者と仰いだ『未知なる上階位』なる人物はついに現れなかった。
クニッゲ男爵 イルミナティ結社へ・・・
指導者を失ったドイツのフリーメイソン社会にあって、Strikte Observanzに従い改革を実践していたクニッゲにとって、イルミナティを組織したヴァイスハウプトとの出会いはまさに渡りに船だった。
クニッゲは北ドイツの会員勧誘を任されていた。彼の意気込みには並々ならぬものがあり、数多くの結社会員を獲得した。その中にはヴォルフガング・ゲーテやヘルダーリンもいた。
ヴォルフガング・ゲーテ
イメージ 4
これは確かなようだ。
まぁ、不思議な事ではない。むしろ 陰謀論として論じるのであれば、怪しいのはヴァイスハウプトやイルミナティ結社ではなく、むしろヴォルフガング・ゲーテの方だ。(これについては いつかまた・・・)
さて、このクニッゲがフリーメイソンのコネクションを利用してあまりにもすごいスピードで会員を獲得していくので、イルミナティ結社は間もなく組織力の限界に達してしまう。彼自身の申告によると結果として500人以上の貴族や知識人たちを獲得することに成功したという。
その多くの会員達はこれまでのフリーメイソンの活動には満足しておらず、フント以来ついに『未知なる上階位の存在』を知ることが出来ると思っていた。
しかし、そうした高い要求をもった会員達が急速な拡大していく中で、ヴァイスハウプトは逆に追い込まれる。その時になってもまだ「『未知なる上階位」というものが結社の中には存在していなかったのだ。
困ったヴァイスハウプトは、クニッゲに命じて彼が集めた資料を基にしてイルミナティ結社の組織作りに本格的に着手させた。クニッゲはフリーメイソンの構造を模倣することにした。
1782年7月16日から9月1日までフントと彼の作ったテンプル騎士団方式の階級システムについて話し合う会議がヴィルヘルムバードで執り行われた。イルミナティに参加したばかりのクニッゲとナンバーツーであり非常に急進的な啓蒙主義者であるフランツ・ディートリヒ・フォン・ディトフルト(Franz Dietrich von Ditfurth)が会議に参加し、会議を先導する立場をとった。
テンプル騎士団のシステムについは、薔薇十時団がStrikte Observanzの後継者となるべく裏で動いていたが、結局のところ、ライバルでもあるクニッゲによって薔薇十時団が継承する事を支持する者は少数派にとどまり、イルミナティを代表する2人の勝利となった。
クニッゲとディトフルトは、Strikte Observanzを解散させ、そこに集まった会員を次々に引き抜き、更に、著名なフリーメイソンであり、Strikten Observanzにおける代表格であったクリストフ・ボーデや有力な貴族達をイルミナティ結社の会員として獲得した。
クリストフ・ボーデ(Johann Christoph Bode)
イメージ 5
これでイルミアンティ結社は絶頂期を迎えたようだ。。。
しかし、組織が大きくなると分裂するリスクも高くなるのは古今東西同じだ。
すでに終焉がすぐそこまできていた。
続く・・・
”
※着色は引用者
(以上だ。続くと書いているが続かなかった)
(ここまで)
元祖イルミナティのドイツ語版ウィキの和訳(一部修正した)を先に示す:
”
契約のシンボル: ブナの木に座るミネルバのフクロウ。Print from 1788
[...]
1777年、ミュンヘンの2つのメソニック・ロッジが潜入に成功し、そのうちの1つにヴァイスハウプトが加入した[5] 。翌年、ヴァイスハウプトの元教え子で、後にプファルツ州政府の大統領となったフランツ・クサーヴァー・フォン・ツヴァックによって再編成されたとき、騎士団は、まだ控えめではあったが、さらなる上昇を経験した。ヴァイスハウプトは、会員が女王蜂の指導の下で知恵の蜜を集めることを想定し、「ミツバチの結社(騎士団)」(„Bienenorden“)という新しい名称を提案した。しかし、最終的には「イルミナティ同盟」( „Bund der Illuminaten“ )に決定された。1780年、教団は約60人の会員を擁していた[6]
[...]
クニッゲは、修道会の規約、学位、教えがまだ十分に整備されていないことに強い不満を抱き[21]、新会員勧誘の努力が報われないと感じていた。彼はボーデと組み、修道会の指導権を引き継ごうとした。彼はまた、教団を残りの厳格遵守派と合併させるという計画を追求し続けたが、これはヴァイスハウプトによって厳しく拒否された[22]。[22]クニッゲは手紙の中で、教団の秘密をイエズス会や薔薇十字団に漏らすとまで脅したが、ヴァイスハウプトの不信感は増すばかりであった。ボーデとクニッゲが、ヘッセン公シャルルやブルンスヴィック公フェルディナント、ザクセン=ゴータ公エルンストやザクセン=ヴァイマル公カール・アウグストといった絶対主義権力者の代表を教団に引き入れたことを、ヴァイスハウプトは非常に懸念した。エルンスト2世はゴータ・イルミナティ・ロッジを秘密の影の内閣として利用した[23]
その結果、ヴァイスハウプトとクニッゲの意見の対立は頂点に達し、教団は分裂の危機に陥った。1784年2月、「会議」と呼ばれる仲裁裁判所がワイマールに招集され、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、ザクセン=ゴータ公エルンストが参加した。クニッゲにとって意外なことに、会議はまったく新しいアレオパゴスの結成を決定した。これは妥協案として受け入れられるように思われた。しかし、アレオパゴスの正式な会長職がなくても、アレオパゴスの創設者が影響力を持ち続けることは予想できたので、クニッゲにとっては明らかな敗北だった。沈黙とすべての書類の返還が合意された。1784年7月1日、クニッゲはイルミナティ教団を脱退した[24]。その後、彼は秘密結社を通じて世界を改善したいという「流行の愚かさ」から目を背けた[25]。ヴァイスハウプトは教団の指導権をヨハン・マルティン・グラーフ・ツー・シュトルベルク=ロスラに譲った[26]。
[...]
このページの最終更新日時は 2025年3月16日 (金) 18:03 です。
” ※着色は引用者
Illuminatenorden – Wikipedia
https://de.wikipedia.org/wiki/Illuminatenorden
"Symbol des Bundes: Die Eule der Minerva, auf einem Buche sitzend. Druckgraphik aus dem Jahr 1788
[…]
1777 gelang die Unterwanderung zweier Münchner Freimaurerlogen, in deren eine sich auch Weishaupt aufnehmen ließ.[5] Einen weiteren, wenngleich noch bescheidenen Aufschwung nahm der Orden im Jahr darauf, als er von Franz Xaver von Zwackh, einem ehemaligen Schüler Weishaupts und späteren Regierungspräsidenten der Pfalz, reorganisiert wurde. Weishaupt schlug als neuen Namen „Bienenorden“ vor, weil ihm vorschwebte, dass die Mitglieder unter der Leitung einer Bienenkönigin den Nektar der Weisheit sammeln sollten. Doch entschied man sich für „Bund der Illuminaten“ und schließlich für „Illuminatenorden“. 1780 hatte dieser etwa 60 Mitglieder.[6]
[…]
Knigge war hochgradig unzufrieden, dass Statuten, Grade und Lehren des Ordens weiterhin unzureichend ausgearbeitet waren[21] und sah seine Leistungen bei der Rekrutierung neuer Mitglieder nicht honoriert. Er tat sich mit Bode zusammen und versuchte, die Leitung des Ordens zu übernehmen. Auch verfolgte er weiter sein Vorhaben, den Orden mit den noch bestehenden Resten der Strikten Observanz zu verschmelzen, was von Weishaupt strikt abgelehnt wurde.[22] Brieflich drohte Knigge gar damit, Ordensgeheimnisse an Jesuiten und Rosenkreuzer zu verraten, was nur Weishaupts Misstrauen verstärkte: Dem bereitete es nämlich erhebliche Sorgen, dass Bode und Knigge Vertreter der absolutistischen Obrigkeit wie die Prinzen Karl von Hessen und Ferdinand von Braunschweig sowie die Herzöge Ernst von Sachsen-Gotha und Carl August von Sachsen-Weimar in den Orden gebracht hatten. Ernst II. nutzte die Gothaer Illuminatenloge als geheimes Schattenkabinett.[23]
In der Folge spitzte sich der Dissens zwischen Weishaupt und Knigge derart zu, dass der Orden zu zerbrechen drohte. Im Februar 1784 wurde daher ein „Congress“ genanntes Schiedsgericht in Weimar einberufen, an dem unter anderen Johann Wolfgang von Goethe, Johann Gottfried Herder und Herzog Ernst von Sachsen-Gotha beteiligt waren. Für Knigge überraschend urteilte der Congress, es müsse ein gänzlich neuer Areopag gebildet werden; beide führenden Persönlichkeiten des Ordens sollten ihre Machtpositionen aufgeben. Dies schien ein tragbarer Kompromiss zu sein. Da aber absehbar war, dass der Ordensgründer auch ohne formalen Vorsitz im Areopag weiterhin einflussreich bleiben würde, bedeutete es eine klare Niederlage für Knigge. Es wurde Stillschweigen und Rückgabe aller Papiere vereinbart. Am 1. Juli 1784 verließ Knigge den Illuminatenorden.[24] Er wandte sich danach von der „Mode-Thorheit“ ab, die Welt durch geheime Gesellschaften verbessern zu wollen.[25] Weishaupt gab die Leitung des Ordens an Johann Martin Graf zu Stolberg-Roßla ab.[26]
[…]
Diese Seite wurde zuletzt am 16. März 2025 um 18:03 Uhr bearbeitet.
"
森鴎外と西周:両雄並び立たず? - 時空を超えて Beyond Time and Space
2022年08月12日
https://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/99f84c320960caaffa9ebc35e3c663e8
”(画像略。森鴎外『椋鳥通信 上』の表紙画像)
2022年は森鴎外(1862〜1922年)の生誕160年、没後100年を記念する年となり、多くの行事、出版、報道などが行われている。
ブログ筆者は森鴎外の著作には、戦後の文字に飢えていた頃に惹きつけられ、当時人気だった大部な文学全集などを通して、主要な作品に親しむと共に、鴎外生誕の地、津和野や文京区の記念館などを訪れたりしてきた。
他方、コロナ禍が始まるかなり前から、重く扱い難い文学全集などを整理する傍ら、いつのまにか近年刊行された未読の短編や周辺の資料などを手にとっていた。断捨離どころか、軽くて読みやすい新訳の文庫版などが増え始め、何をしているのか分からなくなってきた。
西周邸に寄寓した林太郎
ここにいたるには、いくつかの動機があった。そのひとつに森鴎外と同じ津和野の出身であり、先輩でもあった西周(1829〜97年、森家の親戚で、藩の典医の家系、血縁はない)の存在があった。西周は鴎外より33歳ほど年上であり、西・森の両家は極めて近い関係にあった。西周は明治日本の啓蒙思想家の一人であり、西洋哲学者でもあった。しかし、(最近の状況はよく分からないが)同じ津和野の出身でありながら、西周の旧居(生家)跡を訪ねる人は少ないようだ。
森林太郎(森鴎外の本名)が上京し、修業時代の一時期、家族から離れ、ひとり西周邸に住み込んでいた時期があったことは知っていた。公務から解放された後、西周と森林太郎の人的関係は実際にはどんなだったのか、知りたくなった。
偶々、筆者は西周が初代校長を務めた獨逸学協会学校の流れを汲む学園で教育・運営の任を負ったことがあった。その折、公務の傍ら、周囲にあった公刊されていた文献のかなりのものは目を通した。しかし、多忙であったため、いくつかあった疑問を探索し、整理・解明する時間はなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*西周は文久2(1862)年、津田真道、榎本武揚らと共にオランダに留学し、法学、哲学、経済学、国際法などを学び、慶応元年(1865)年に帰国し、徳川慶喜の側近となり、明治になってからは明治政府に出仕し、兵部省、文部省、宮内省などの官僚を歴任した。東京学士会院第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校の初代校長を務めた。啓蒙思想家、西洋哲学者。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1872(明治5)年6月、森林太郎は父に伴われ津和野を離れ、東京へ向かった。そして、森家は故郷津和野の家を引き払い、林太郎の母、祖母、次弟と妹共々、上京し、林太郎だけは父が探してくれた獨逸語を学べる「進文学社」(私塾、本郷壱岐坂)に通うに便利な西周宅(神田西小川町)に寄寓することになった。1872年(明治5年)、西周は43歳、林太郎は10歳であった。西邸にいたのはいつまでか正確には分からないが、たまたま同居していた相沢英次郎*1の記憶では、林太郎は明治6年に西家を去ったとあるので、主人の西周との交流は1年程度であったようだ。
林太郎が西邸に住んだ当時、西周は、すでに留学先のオランダから帰国し、兵部大丞として、宮内省に関連し、官僚として多忙な日々を過ごしていたと思われる。その傍ら、家の造作から食生活までヨーロッパでの体験をさまざまに導入していたようだ。西と夫人升子の日常から林太郎を始めとする西邸に寄寓していた住人は、有形無形に多くを学んだことと思われる。西周が『明六雑誌』(1874年3月創刊)で活躍する直前のことである。働き盛りの西周から見れば、10歳そこそこの若者は、対等の話し相手とはならなかったろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*1
ここで大きな情報源となったのが、近刊の宗像和重編に所収の相沢英次郎「西周男と鷗外博士」と題した1章である。西周男とは、西が1897(明治30)年に男爵に任じられていることによる。相沢英次郎(1862~1948年、敬称略)は、宗像編によると、教育者、歌人であり、少年時代に叔母升子が嫁した西周邸に預けられ、森林太郎と起臥を共にした。後に三重県師範学校長などを歴任した人物であった。
相沢英次郎「西周男と鷗外博士」(原典『心の花』1926年6月)宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
林太郎が同郷の親戚としての西周に頼り、東京の西邸に寄寓したのは、西周が43歳頃のことであった。同郷の親戚、年長者などを頼って、書生、家事見習いなどの名目で、住み込んだのは、戦前までは一般に珍しいことではなかった。西周は帰国後、先進国西欧を知る数少ないエリートとして、文字通り働き盛りであった。神田小川町にあった広大な屋敷は、内部は西欧風に設えられていて、生活、とりわけ食生活なども西欧風に変えられていたようだ。相沢がコンデンスミルクやビスケットを味わったのも、西邸であったと記されている。さらに、西は津田真道、加藤弘之、福沢諭吉、神田考平、箕作秋坪などの学者を自邸に招き、料理人を呼んで会食などもしていたようだ(相沢、50〜51ページ)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
相沢によると、林さん(鷗外博士の当時の呼称)は明治5年に西邸に寄寓し、1歳年下の相沢と同じ室に寝起きしていたようだ。さらに同居していた西の養子の紳六郎(後の西紳六郎男爵、海軍中将)は、林さんの1歳年上という間柄でもあった。相沢は西邸に足掛け5年ほど寄寓していたようだ(宗像、50ページ)。三人ともほぼ10歳近辺の少年であったが、現代の同年代と比較すると、やや長じていたようだ。時には悪戯をして、西男爵に叱られたことも記されている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
鴎外と西周の関係に大きな影響を与えたのは、よく知られた林太郎がドイツから帰国した後に起きたドイツ人女性との問題だった。エリーゼ・ヴィーゲルトは、1888(明治21)年、林太郎(26歳の時)の帰国と相前後して来日するが、間もなく帰国している。この出来事が一段落した後に林太郎の結婚を急いだ両親に周旋を頼まれた西は、赤松登志子との関係を取り持った*2。
その後間もなく1890年に、林太郎は登志子と離婚、それが原因で西の不興を買い、絶縁状態になってしまったと推定されている(中島、18ページ)。離婚の原因、経緯は不明だが、いわば仲人役をした西周の心情はほぼ推測できるような気がする。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*2
1889年、林太郎と登志子は結婚、二人は上野花園町(現在の上野池之端)に住んだ。1900年、離婚した登志子が死去。鷗外は翌年40歳で荒木志げと再婚している。
余談だが、ブログ筆者は子供の頃、不忍池周辺に住んだいとこたちとボート遊びなどをした思い出があり、横山大観邸などの記憶を含め、さまざまなことが思い浮かぶ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
森鴎外が評した西周
西周が亡くなったのは、1897(明治30)年、鷗外35歳頃であったと推定される。状況からして、西周と鴎外の関係が冷却していたことは分かるが、当時二人は日本を代表する知識人でもあり、実際にいかなる公私の関係にあったのかは必ずしもはっきりしなかった。しかし、幸い最近刊行された上掲の宗像編著所収の相沢の追憶が、この疑問にかなりの示唆を与えることが分かった。
さらに、新刊の中島國彦『鷗外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)に下記の興味深い記述があることを発見した。
西の没後の1909(明治42)年、鷗外47歳の時、在東京津和野小学校同窓会での講演の際、郷土の先人西周の名を挙げて、鴎外は「あの先生は気の利いた人ではない。頗るぼんやりした人でありました。そのぼんやりした椋鳥のやうな所にあの人の偉大な所があった」と述べている(中島、19-20ページ)。
この時点で、西周は没しており、鴎外も同郷の先人に対しては冷静に畏敬の念を表するまでになっていたのだろう。ここで興味深いのは西周を「ぼんやりした椋鳥のやうなところにあの人の偉大な所があった」と評していることにある。
実は、鷗外が西周を評した「椋鳥のやうな」*3という言葉の意味するものがすぐには浮かんでこなかった。椋鳥と「ぼんやりした」という表現がうまくイメージとして取り結ばなかった。
池内紀*3によれば「椋鳥」は江戸時代によく使われた表現で、「田舎者」を意味しているとされる。鴎外は西周をその言葉通りの意味で評したのだろうか。鴎外ほど多彩な公私に渡る広範な活動ではなかったとはいえ、西周が残したさまざまな社会的活動、論説などから推測すると、やや複雑な思いがする。西周もオランダに学び、当時としては日本屈指の西欧通であり、『百学連環』などに展開されているように広い視野の持ち主であったからだ。
ちなみに、鷗外が西周の死去とほぼ同時に執筆を開始した海外雑録のような膨大な記述には『椋鳥通信』の標題が付けられている。現代に引き戻すと、その内容はあたかも海外情報ブログのような印象でもある。この時期、「椋鳥」の語に、鴎外はいかなる思いを込めたのだろうか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
鴎外は1909年『椋鳥通信』と題した膨大な海外通信を始めた。公務で多忙であった鴎外が、こうした海外雑録通信のようなものを書き出した背景は、同書上巻巻末の池内紀氏の大変興味深い解説に詳しい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
参考文献
森鴎外『椋鳥通信 上・中・下』(岩波文庫)、2014〜15年
ハンディな文庫版とはいえ、3冊の文庫に凝縮された内容は驚くばかりである。編纂、注釈の任に当たられた池内紀氏の適切な解説なしには、とても読みこなせないが、鷗外が楽しみながら書いたと思われる本書は、歴史年表を傍らに時間をかけて読むと実に興味深い。
宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
本書だけでも十分に興味深いが、最近、森鴎外に宛てた書簡が、新たにおよそ400通発見されたと報じられており、いずれ公開されると本書と併せ、鴎外の個人的生活の側面に一段と光が当たるだろう。
中島國彦『鴎外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)
森鷗外に関する出版物は汗牛充棟ただならぬものがあるが、本書は今日、森鷗外に関心を抱く人々にとって、ぜひ一読をお勧めしたい新たな評伝である。多くの貴重な情報が凝縮されており、日常、手元におきたい一冊である。
” ※着色は引用者
goo blog
サービス終了のお知らせ
https://blog.goo.ne.jp/info/close.html
”この度、2025年11月18日をもちまして、
goo blogはサービスを終了することとなりました。
これまで私たちは、「みんなの好きを応援する」ことを大切に、みなさまの想いが世界中に届き、読者の心を動かし、共感を呼ぶ──そんな場を目指して運営を続けてまいりましたが、この度サービス終了というお知らせをすることとなり、心よりお詫び申し上げます。
2004年3月のサービス開始から21年にわたり、ご愛用いただき誠にありがとうございました。”
森鷗外の「鷗外」という号について、その由来や、いつから使われたのかが知りたい。 | レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000344531&page=ref_view
”1 号の由来について
(1)事典、辞典類
ア 『ペンネームの由来事典』 紀田順一郎/著 東京堂出版 2001.09
p.247-249 森鷗外
以下の3つの説が挙げられています。
(ア) 「明治二十三年(一八九〇)『舞姫』を発表するさい、友人の斉藤勝壽から借りたもの」
「当時隅田川の鷗の渡しのそばに住んでいたので、それにちなんだ号」
(イ) 「鷗外が愛した西周家の女中ウメにちなむという。
ウメの連想で深川小梅町は吾妻橋の川向こうにあり、付近に鷗の渡しという場所があった。」
(ウ) 「杜甫の詩「王十二判官に別る」の「柔艫軽鷗の外、悽を含んで汝の賢を覚る」からとった」
イ 『作家のペンネーム辞典』 佐川章/著 創拓社 1990.11
p.417-421 森鷗外
以下の4つの説が挙げられています。
(ア) 「友人・斎藤勝寿の雅号(鷗外漁史)を貰った。」
(イ) 「杜甫の漢詩から「鷗外」と号した。」
(ウ) 「千住に「かもめの渡し」があり、この地名をもじったものである。」
(エ) 「「かもめの渡し」は、吾妻橋の上流にあり、吉原を指す名称でもある。
"鷗外"とは、遊興の地に近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味である。」
(中略)
2 いつから使われていたのか
「鷗外」という名称自体は、ドイツ留学中の明治19(1886)年1月時点で「鷗外漁史」という号で
使用していたという記述が確認できました。
(1)『鴎外研究年表』 苦木虎雄/著 鴎出版 2006.6
p.159 「ギョオテの『ファウスト』全巻(第一部、第二部)を通読し、
所持していたレクラム版ギョオテ全集の『ファウスト』の扉に、
「明治十九年一月於德停府鷗外漁史校閲」と記す」
(2)『森鴎外事典』 平川祐弘/編 新曜社 2020.1
p.482-484 『ファウスト』
「森鷗外は一八八六(明治十九)年ドイツ留学中ドレスデンでGoethe, Faustを読み出した。
レクラム文庫本に「明治十九年一月於徳停府鷗外漁史校閲」とある。」
(3)『評伝 森鴎外』 山崎國紀/著 大修館書店 2007.7
p.57 「鷗外の所有した『ファウスト』の扉に
「明治十九年一月、於徳停府鷗外漁史校閲」とあるのがそれである。」
ドイツ帰国後の著作活動において使用した号については、以下の資料に記載があります。
(4)『近代文学研究叢書 第20巻』 昭和女子大学近代文学研究室/著 昭和女子大学 1963.11
p.125-164 二、著作年表
明治22(1889)年1月3日に、「鷗外」の筆名で読売新聞に
「音調高洋筝一曲」を掲載したとの記載があります。
Webサイト最終確認日:令和5年9月20日
” ※着色は引用者
【文豪の生涯】森鷗外|激動の明治を駆け抜けた軍医の生涯、ドイツでの悲恋、嫁姑戦争などエピソードと作品紹介、偉人たちとの交流を徹底解説!
https://www.youtube.com/watch?v=XgP-JIsM1OI
[11:54~
(森)林太郎は、寄宿舎で同じ部屋を割り当てられたことをきっかけに、賀古鶴所(かこつるど)という人物と親しくなりました。そして 賀古を通じて、緒方収二郎とも友人関係になり、同じ寄宿舎で暮らす三人は、いつも行動をともにするようになりました。
林太郎は彼らとの関係を「三角同盟」と呼び、青春時代の思い出として後年、懐かしく回想しています。
「舞姫」の主人公・豊太郎の友人 相沢謙吉は賀古をモデルにしたとされる
]
参考資料
ワクワクさんさんがリポスト
https://x.com/Tweedle37035313/status/1820221651923165281
”TweedleDee
@Tweedle37035313
Freiherr Adolf Franz Friedrich Ludwig Knigge
人間交際術
かな
開会式は…笑うしかないよね…
無神論ではないと思います
ぱっと見では涜神論だけど、実はそうではない可能性
https://x.com/Tweedle37035313/status/1819167946004160838
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月4日
返信先: @uxskfさん
開会式・・・
画像
画像
午前7:13 · 2024年8月5日
·
1,009
件の表示”
[
引用されている、ワクワクさんの方でない呟きは、
https://x.com/Tweedle37035313/status/1819167946004160838
”TweedleDee
@Tweedle37035313
Phillippe Caterine
開幕式でキリスト??に扮する。
スレッドもまとまっています。
ただ、それとは別に
この開会式のパフォーマンスは歴史的観点から気になることがあるので補足しておきます。
1/
引用
ロシア在住です(松本陽子)
@jupiter_russia
·
2024年8月1日
キリスト教信者の怒りを買ったパリ・オリンピックのパフォーマンス、キリスト扮した俳優がインタビューを受け、「気分を害したら悪かったよ。でもキリスト教の良いところは赦しでしょ。キリスト教徒は優しいから赦してくれるよねー」と話していました。まだ青の染料が残っている臍を見せて有頂天の様子
さらに表示
埋め込み動画
午前9:26 · 2024年8月2日
·
246
件の表示
”
]
https://x.com/uxskf/status/1907041007117676703 と続き
”ワクワクさん
@uxskf
あの開会式はブログに書いてあったはずだからあんま書かなかったけど
ディオニュソス=バッカス的な話をキリスト教がパクったというのを堂々とやったからキリスト教の連中やイランが怒ったわけ
ご存知の通りキリスト教もいろんな宗教や神話から影響されているわけで
午後9:03 · 2025年4月1日
·
1,566
件の表示
水をワインに変えた 死んでから蘇る ワインを飲む
そのままディオニュソスの話をイエスが取り入れた という事に尽きる
ギリシャ神話の研究者やパンワインの神話本にも書いてあるけどね
このディオニュソスの密儀を開会式にメーソンが取り入れて
イエスの元ネタ=ディオニュソスをやった
午後9:07 · 2025年4月1日
·
1,160
件の表示
だから多少神話学や宗教に詳しい人間からすると
「アレは最後の晩餐ではなくディオニュソスです」
という五輪側の言い訳がそのまま答えになってしまっているしメーソン流のブラックジョークで笑うしかないわけ
午後9:10 · 2025年4月1日
·
932
件の表示
そもそもがキリスト教、イエスの元ネタの一つがディオニュソスなんだから
最後の晩餐だろうがディオニュソスの祭儀だろうが
最後の晩餐=ディオニュソスの祭儀としかどっちにしろならんのよw
午後9:15 · 2025年4月1日
·
907
件の表示
このキリストのパクリ問題を堂々と開会式でやったフランス大東社に対して
バチカンにしろ他の連中にしろなんか怒ってますアピールしか出来ないし
他のキリスト教の保守やらがポリコレガーとしか叩かないのはそういう問題がある そもそもの虚構がバレるから
さらに表示
午後9:18 · 2025年4月1日
·
882
件の表示
”
[
ありがたい補足だ! 感謝。
「水をワインに変えた 死んでから蘇る ワインを飲む
そのままディオニュソスの話をイエスが取り入れた という事に尽きる」に当時の私は気づいてなかったよ。
単純に元ネタの1つって当時の分析に書いていないので。
一部のディオニュソス祭で人肉を食べていた説がある。それがミサの元ネタでは?みたいなことも書いていないので、
キリスト教の元ネタとしてのディオニュソスには気づいていない。
ミサの元ネタが人肉食の儀式だと書いたのに、そもそもキリスト教の元ネタだと気づいていない。
こういう抜けがあるから1人ですべての要素を考察するのはほぼ不可能なんだよな。
当時の呟きを確認だ。
https://x.com/kitsuchitsuchi/status/1817930726484140534 と続き
”子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
です。
最後の晩餐において、キリストはパンをとり、「これはあなたがたのために渡される私のからだである」と言い、またぶどう酒の入った杯をとり、「これは私の血の杯、あなたがたのために流される新しい契約の血である」と言って、「これを私の記念として行いなさい」と弟子たちに命じました。”
は
人肉食の儀式が元だと解釈できる。
最後の晩餐が元ネタの場面で、料理の皿の蓋をとると青いディオニュソスが登場。食人(神)を想起させる。青い肌であることで、青組の青や、インド属性をつけられる。青組(アーリア白人妄想)は食われるってことだろう。この青いおじさんの毛の色が金または黄色。
青組が好きな配色の1つが青と金(黄)色。ディオニュソスなのは、一部のディオニュソス祭で人肉を食べていた説があるからだろう。
最後の晩餐の冒涜(既存の伝統的な耶蘇教の否定。イエスの血と肉の儀式は人肉食が元だとする説)、
バッカス(ディオニュソス)祭(人肉食説あり)、
「青組(青と金の人
型存在)が食われる」などの多重掛詞だろう。
なので青組が怒るのは当然だ。青組ではなさそうな人も怒っているけどね。
赤組”ゆうあい”(≼◎≽) 対 青組”とらんぷ”✊
何が悪魔崇拝だよ。分析において、フランスが舞台でグラントリアンや類する表現が出ない時点でダメでしょ。
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年7月27日
ギロチン、マリーアントワネット、フランス革命、レミゼラブル、月世界旅行、海底2万マイル、エッフェル塔、ルーブル、ヴェルサイユ、アサクリ
うーんグラントリアンピック
さらに表示
午後11:49 · 2024年7月29日
·
2,743
件の表示
]
ーーーーーー
江戸っ子
@mer0036
キリスト教系の聖書よりも、ギリシャ神話の方が古くからあるということですね、この辺の時系列は知らなかったので、勉強になります。
さらに表示
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
4月1日
返信先: @uxskfさん
水をワインに変えた 死んでから蘇る ワインを飲む
そのままディオニュソスの話をイエスが取り入れた という事に尽きる
ギリシャ神話の研究者やパンワインの神話本にも書いてあるけどね
このディオニュソスの密儀を開会式にメーソンが取り入れて
イエスの元ネタ=ディオニュソスをやった
さらに表示
午後9:23 · 2025年4月1日
·
471
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
まぁこのイエスとディオニュソスにしろ (誕生日が同じとか言ってる人もいるが)
それより前の地母神と樹木、植物の神の死と再生という神話が影響した話ですよ
エジプトにもオシリスなんてのがいるしメソポタミアにはおそらく最古のタンムズがいる
さらに表示
午後9:35 · 2025年4月1日
·
268
件の表示
ーーーーー
ワクワクさん
@uxskf
シヴァかよみたいな話もインドのディオニュソスって扱いならまぁ分かるんだけどなぁ
さらに表示
午後9:24 · 2025年4月1日
·
682
件の表示
ーーーーー
ワクワクさん
@uxskf
ディオニュソスの話はなかったのか
書いていたように勝手に思っていた
大体この分野の研究は左の方や石屋の方がやっていてそのまんまメーソン側ならダンブラウンの系列とか封印のイエス
共産主義エンゲルスに影響のバッハオーフェンとかメーソン系のゲームでよく使われるバーバラウォーカーとか
午後8:24 · 2025年4月5日
·
1,106
件の表示
バーバラウォーカーの事典とかはサブカル面見るなら把握しといた方が良いよ 学術的にアレなのは前提で
バッハオーフェンやバーバラウォーカーの母権の話とかも含めて男尊女卑キリスト教の再構築という意味ではあそこら辺の連中のは元ネタの題材としてよく使われる
ウイッチクラフト方面とかもか
午後8:26 · 2025年4月5日
·
359
件の表示
象徴魔女がハマってたツァイトガイストとかもか
これらみんな既存のキリスト教はツギハギのパクリでしかないという事が言いたいわけで
そこは支配の再構築というメーソン思想が入ってるわけですが
とは言え普通に表の学者も話してるようにイエスキリストの元ネタの部分とかは嘘もありつつ真実もある
午後8:29 · 2025年4月5日
·
826
件の表示
地母神やディオニュソスの話なんてのはそう
バーバラウォーカーら辺も書いていたと思うけど
さらに表示
午後8:30 · 2025年4月5日
·
670
件の表示
ーーーーーー
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティ陰謀論
初級 ヴァイスハウプト
中級 クニッゲ
上級 ボーデ
午後4:51 · 2023年9月24日
·
1,675
件の表示
フリーメイソンとフランス革命を巡る会話:フランクリン・ゲーテ・ナポレオン/純丘曜彰 教授博士
2021年3月22日 22時36分
INSIGHT NOW!
https://news.livedoor.com/article/detail/19894817/
”
米国独立戦争:フランクリンvsブラウンシュヴァイク侯
「ほら、新大陸のベンジャミン・フランクリンも、凧で天空から電力を取り出しただろ」
「フィラデルフィア市の新聞編集人ベンジャミン・フランクリンなんて、典型的なメイソンだったからな。彼こそが、おそらくフント男爵の計画していたドイツ人大移民団の受け入れ窓口だっただろうね。六五年にスタンプ税問題が起きると、翌年からすぐにドイツやフランス、大ブリテンを訪れ、解決に奔走している。同時に、国境争いだらけの植民地諸州の間の郵便通信網を整え、新大陸新王国の準備を進めている」
「彼も、カトリック・ジャコバイト(ジェームズ派)だったんですか?」
「いや、マサチューセッツ州ボストン市の家の生まれだから、もともとは清教徒(ピューリタン)だろうが、わざわざフィラデルフィア市に移り住んでいるところを見ると、宗教的にはもっとリベラルだったんだろうな」
「そんな人が、カトリック・ジャコバイト(ジェームズ派)の新王国を準備していたんですか?」
「ジャコバイト(ジェームズ派)王のチャールズ三世も、一七七五年には五五歳で、子供がいなかった。かろうじて弟がいたが、ローマ大聖堂首席司祭枢機卿だった」
「つまり、もはや断絶確実ということですね」
「それなら、フランクリンは、誰を王に呼んでくるつもりだったんでしょう?」
「いや、モンテスキューが提唱した、王のいない共和政体だろうね」
「ああ、『法の精神』は一七四八年でしたっけ」
「それまでにも、ヴェネチア島やフランクフルト市などに特権的都市貴族たちによる共和国はあったんだが、モンテスキュー男爵は、古代ローマを研究しているうちに、紀元前四世紀からカエサルが出てくるまでの連邦共和制ことが最強だと考えるようになった。彼は五五年に亡くなったが、その理想を引き継いだのが、フランクリンだよ」
「そのうえ、たんなる理想ではなく、その実現のチャンスを目の前にしていたんだな」
「とはいえ、一七七五年四月に独立戦争が始まるころは、フランクリンは、もう六九歳で、新大陸メイソンでも最長老の一人だった。おまけに、独立戦争を始めたのが、宗教的寛容性のかけらもない狂信的潔癖主義のマサチューセッツ州の清教徒(ピューリタン)たちだったものだから、ニューヨーク州やニュージャージー州、フィラデルフィア州などの新王国の中核となるはずだった東岸中部諸州は、むしろ大ブリテン側についたんだ」
「ジャコバイト(ジェームズ派)が断絶して共和政になったら、領主として認められるかどうかわからないし、大ブリテンに敵対して敗北したら、別のやつが自分の領地の領主として任命されて来るかもしれないからなぁ」
「おまけに、彼が受け入れようとしていたドイツの「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」も、プロシア王の義弟のブラウンシュヴァイク侯に乗っ取られて、独立運動を弾圧する大ブリテン側についてしまったんですよね」
「ついてしまったどころの話じゃないよ。ブラウンシュヴァイク侯の子分、カッセル方(ラント)伯カールが、チューリンゲン(中部丘地)やヘッセンで喰い詰めていたドイツ人の没落貴族や貧窮農民を三万人もかき集めて、大ブリテンの傭兵奴隷として新大陸に送り込んだんだ。これは大ブリテンの正規軍より多い」
「大移民団が大傭兵団に化けてしまった?」
「結果として、そういうことになるな」
「でも、大ブリテンからの独立を夢見る「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」が大ブリテン側の傭兵団になってしまったんじゃ、事実上の創設者のフント男爵の面目が立たないだろ」
「総(そう)帥(すい)ブラウンシュヴァイク侯は、七五年六月に、お膝元のブラウンシュヴァイク市にメイソン大会を招集、フント男爵に中世の聖堂騎士団(テンプラー)と「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の連続性の証明を迫って憤死させた」
「余計な邪魔者は始末するというわけか」
「だけど、そんなことをしたら、ブラウンシュヴァイク侯だって、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の総(そう)帥(すい)としての正当性が危うくなりませんか?」
「だいじょうぶ。代わりにシュタークというやつを拾ってきたんだ。そいつの「聖堂司祭団(クレリキ・オルディニス・テンプラリイ)(クレリカート)」とやらは、中世においても聖堂騎士団(テンプラー)よりも上位に存在したとかで、それがブランシュヴァイク公の地位と「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の正当性を保証した」
「そいつ、どうせイエズス会残党だろ」
「おそらくね」
「フランクリンは、あくまで独立派で、七五年七月四日に独立宣言を出すが、ワシントン将軍の新大陸独立派軍はわずか一万数千。対する大ブリテン正規軍、傭兵軍、新大陸帰順派軍は、その五倍。これじゃ勝てるわけがない」
「新大陸議会の中心フィラデルフィア市も七七年の秋には陥落してしまいますよね。その後も、よく持ちこたえましたね」
「大ブリテンは、勝つ気が無かったんだろうね。本国がほしかったのは、フランスやスペインの握っているカリブ海の西インド諸島の権益で、植民地の方はどうでもよかったんだよ。もともとあんなところはジャコバイト(ジェームズ派)の領土で、先住民たちの際限ない襲撃もあって、なんの利益も見込めなかった。大ブリテンの産業革命に乗り遅れた田舎貴族と、ドイツで喰い詰めた没落貴族や貧窮農民が新大陸を暴れ回っていれば、そのうち、新大陸の連中の方が、跡(あと)継(つぎ)もいないジャコバイト(ジェームズ派)なんか見限って、大ブリテンに帰順すると思っていた」
ドイツの米国支援:ボーテ・カント・ゲーテ
「どうやって形勢を逆転したんだ?」
「その鍵となるのが、ゲーテさ。このころ爆発的な話題になっていたのが、二五歳のゲーテが書いた『若きウェルテルの悩み』。主人公の青年が婚約者のいる娘に恋して絶望し拳銃自殺する、というモックドキュメント風の書簡体小説で、七四年の九月に出版されると、ドイツはもちろんフランスその他でも売れに売れまくり、主人公の黄色いチョッキ、さらには拳銃自殺まで流行してしまった」
「すごい人気ですね」
「ちょうどワイマール公国に十八歳のカールアウグスト公がいて、彼もまたこの小説に心酔していた。それで、その家庭教師がカールアウグスト公とその弟をパリへグランドツアーに連れて行く途中でフランクフルト市に立ち寄り、ゲーテとカールアウグスト公を引き合わせた」
「それで?」
「二人は兄弟のように意気投合し、七六年十一月、カールアウグスト公はゲーテをワイマール公国に招聘した」
「それと、米国独立戦争と、どんな関係があるんですか?」
「この本自体は、ライプツィッヒ市のヴェイガントが出したんだが、その出版を仲介したのが、ハノーファー選帝(クア)公国の中の自由都市ハンブルクの新聞編集人ボーテなんだ。彼はブラウンシュヴァイク侯国の貧しい家の生まれだったが、大学を出て、英語や仏語もでき、港町のハンブルク市にあって内外の情報に通じ、新聞を出していた。七五年の独立戦争開戦当時で四〇歳。じつは、彼は、ドイツで最初というハノーファー市の伝統あるメイソンロッジ「アブサロム」の幹事で、新大陸移住を計画する「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の送り出しドイツ側の連絡係だった。つまり、受け入れ側のフランクリンとは年来の付き合いだったんだ」
「でも、ゲーテって、フランクフルト市の人ですよねぇ」
「メイソンは、街も国も大陸も越えて繋がるらすごいんだよ。そのうえ、ボーテは、面倒見がよかった。売れない劇作家のレッシンクをハノーファー国立図書館長に押し込んだのも彼だし、選帝(クア)侯マインツ大司教領飛び地エアフルト市の哲学教授で作家のヴィーラントをワイマール公国の若きカールアウグスト公の家庭教師に推薦したのも、彼。四七歳になってもいまだ無給私講師として不遇をかこっていたプロシアのケーニヒスベルク大学のカントを見出してきてワイマール公国のイェナ大学に招こうとしたのも彼なんだ」
「あれ? カントってイェナ大学に行っていましたっけ?」
「生活を変えたくないカントは固辞して、代わりに自分の弟子で、パリ市のディドロやダランベールなどの百科全書派を訪れていた二七歳の新教説教師で文芸評論家のヘルダーを、ボーデの出張先のシュトラスブールに送った。そこで、ボーテが、二二歳のシュトラスブール大学の学生ゲーテと引き合わせた。それで、ゲーテは、すっかりヘルダーの敬(けい)虔(けん)主義的な信仰と百科全書的な知識と、それらを凌駕する疾風怒濤の情熱に染まった」
「それで、その三年後にゲーテは『若きウェルテルの悩み』を書くことになったというわけですね」
「ボーデは、クニッゲ男爵という青年も世話をしている。ハノーファー選帝(クア)公国のハノーファー市近くの没落貴族で、かろうじてハノーファー選帝(クア)公国のゲッティンゲン大学を出て、カッセル方(ラント)伯フリードリッヒ二世のところで拾ってもらっていたんだが、こいつは、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の新統帥ブラウンシュヴァイク侯の子分だ」
「チューリンゲン(中部丘地)やヘッセンの若者たちを騙して、傭兵奴隷として大ブリテンに売り飛ばしていたやつですね」
「クニッゲは、独立戦争開戦当時二三歳で、同年代の同胞の青年たちの命をカネに換えて大儲けするカッセル方(ラント)伯やブラウンシュヴァイク侯が気に入らなかった。それで、この問題をボーテに相談し、ゲーテ同様、ワイマール公カールアウグストのところに転がり込んだ」
「それで、ボーテやレッシンク、カント、ヴィーラント、カールアウグスト公、ゲーテ、クニッゲたちが、プロシア・大ブリテンの裏をかいて新大陸の独立を支援した?」
「そう、フランクリンをフランスに仲介したんだ」
百科全書ロッジ・ヌフスール:ヴォルテール
「フランスって、ルイ十五世ですか?」
「いや、彼は七四年に天然痘で亡くなってしまっていた。大ブリテンは、七年戦争以来、天然痘患者が使って汚染した毛布などを新大陸の原住民に贈って、連中を殲(せん)滅(めつ)しようとしていたんだ。その流行が、新大陸中西部フランス領からヴェルサイユ宮殿にまで流れ込んだんだ」
「生物兵器かよ。ひどいことをするなぁ」
「でも、大ブリテンとしては、独立戦争直前に神聖ローマ皇帝になるかもしれないフランス王が亡くなるなんて、思った以上に成功した作戦ということになるんでしょうねぇ……」
「それで、後を継いだのが、例のボンクラか」
「ああ、ルイ十六世。七〇年に十六歳でマリーアントワネットと結婚させられ、七四年に二〇歳で即位。七六年当時でまだ二二歳だからね」
「そんなのにフランクリンを紹介しても、意味が無いでしょ」
「じゃあ、メイソンか」
「そう。五〇年代のドルバック男爵の百科全書サロンを引き継いだ「ヌフスール(九美女神)」。ここでフランクリンは、ヴォルテールらと親好を深めた」
「ドルバック男爵のサロンは、ロワイヤル通り八番地で、あまりに町中すぎましたよね。「ヌフスール(九美女神)」は、パリ市のどこにあったんですか? よくばれなかったですね」
「それは、じつは哲学者で徴税請負人だったエルヴェティウスのサロンだ。オートウィユ通り五九番地。本人はすでに七一年に亡くなってしまっていたが、その友人知人が未亡人のところに集まってきてできた」
「なんだ、こないだ行ったジュリアの家の近くかよ。あんなパリ市のはずれのところじゃ、そりゃ見つからないはずだ」
「でも、今じゃ、目の前がフランス国立科学研究センターだよ」
「百科全書啓蒙主義にふさわしい」
「「ヌフスール(九美女神)」って、九人姉妹っていう意味ですよね」
「ただの姉妹じゃないよ。九人姉妹と言ったら、ヘシオドスに出てくるギリシア神話のムネモシュネ(記憶女神)の娘たち、九柱のミューズ(美女神)のこと」
「あ、それなら知ってます。記憶から生まれた弁論、歴史、叙情、喜劇、悲劇、舞踊、歌唱、讃辞、予言、でしたっけ」
「そう言えば、プルーストの生家もそばだな」
「記憶の娘たちの近くで『失われた時を求めて』というのも、ずいぶん皮肉ですね」
「もっとも、ブラウンシュヴァイク侯やカッセル方(ラント)伯も、ばかじゃない。パリ市の啓蒙主義サロンの「ヌフスール(九美女神)」と違って、リヨン市の「エリュ・コーエン(選良司祭団)」や「レザミレユニ(再結の友)」は、もともとオカルト色が強い。もとより「エリュ・コーエン(選良司祭団)」の創始者のドパスカリは七四年に亡くなっていたところで、錬金術師のウィレルモに組織を乗っ取らせ、七八年には、上位に「聖地善行騎士団(シュヴァリエ・ベネフィシアン・デュラ・シテサンテ)(CBCS)」を創ってしまった」
「フント男爵の騎士団、ローザの騎士団、ロイヒテの騎士団に次ぐ四つめの新聖堂騎士団(テンプラー)ですか」
「いや、実質的には、ドイツの「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」ブラウンシュヴァイク侯派のフランス支部だ」
「えーと、ブラウンシュヴァイク侯は、親プロシア・親大ブリテンだから、反フランス王権は支持する、ということですね」
架空のイルミナティ:ボルン・ミミ・ロスチャイルド
「じつは、まったく別のところで次の動きが起こっていた。カトリック国バイエルンのインゴルシュタット大学は、これまでイエズス会が支配していたんだが、七三年の教皇のイエズス会解散命令を受けて、啓蒙主義者の学長が会士追放を行った。ところが、学長の甥の若き法学教授ヴァイスハウプトが攻撃にさらされた。そこで、彼は、自分の学生五人と啓蒙秘密結社「イルミナティ」というインチキ団体を創設し、薔薇十字友愛団(ローゼンクロイツァー)のように、教会以上の歴史と組織を匂わせ、自分たちの身を守ろうとした。とはいえ、この団体は、実際はせいぜいバイエルンの首都ミュンヘン市周辺しか仲間がいなかった」
「イルミナティって、よく聞くけど、最初はそんなものか」
「ところが、この動きに、イエズス会をこころよく思っていなかった人々も乗っかってきた。たとえば、ウィーン市のイエズス会士だったが、その解散前に辞めてプラハ大学で鉱物学を研究していたイグナティウス・ボルン。彼も、イエズス会のしつこい嫌がらせに辟易して、イルミナティに加わった」
「自分たちが解散させられても、以前に辞めたやつに嫌がらせをするのか?」
「解散させられたから、余計にじゃないでしょうかね」
「ところで、七年戦争中の一七五九年、スローン準男爵(バロネット)の雑多な珍奇コレクションを元に大英ミュージアム(博物館)ができた」
「でも、そういう珍奇コレクションのたぐいなら、イエズス会にどっぷり漬かっていた一六〇〇年ころのルドルフ二世とか、ハプスブルク家の方がはるかに格が上だろ」
「そう、それで、帝太后マリアテレジアは、七六年、ボルンを呼び出し、すでに六五年に亡くなった夫フランツ一世の遺品のメイソン的博物コレクションを加え、ウィーン帝立ミュージアム(博物館)を作らせる」
「でも、自称啓蒙君主の息子の皇帝ヨーゼフ二世は、そういう古くさいのは嫌いそうだな」
「でも、せむしで一生を独身で通した姉のマリアアンナや、ザクセン選帝(クア)公六男アルベルトカジミールと熱烈な恋愛結婚をしたマリアクリスティーナ「ミミ」、そして、その夫のアルベルトカジミールも、ボルンを支援し、ミュージアム(博物館)を充実させ、イルミナティを広めた」
「「ミミ」って、ヴェネチアのナポレオン館にカノーヴァの作ったピラミッド型のお墓のレプリカがあった人ですよね」
「父親のフランツ一世に代わって、彼女が次の世代のヨーロッパメイソンのハブになったんだろう。フランツ一世は政治的には恵まれなかったが、奥さんや娘たち、彼を慕ったメイソン仲間がおおぜいいたんだろうな」
「それと、ちょうどそのころ、ワイマール公のところのクニッゲ男爵が、以前に仕えていたカッセル方(ラント)伯のハーナウ宮廷に逗留していた」
「ハーナウ市って、フランクフルト市のすぐ東だよな」
「カッセル方(ラント)伯国は、一六八五年のフォンテーヌブロー勅(ちょく)令(れい)で追放されたフランス人新教徒移民を常備軍にして以来、傭兵で外貨を稼ぐのが国業。方(ラント)伯フリードリッヒ二世も、若者三万人を新大陸の傭兵奴隷として大ブリテンに売りつけて、大儲けしていた。そうやって稼いだ法外な大金を、息子のヴィルヘルムを通じて、フランクフルト市のユダヤ人金融業者ロスチャイルド家に運用させていた」
「そんなところになんでまたクニッゲ男爵が?」
「表向きは執筆出版活動のため、ということになっているが、実質的にはボーテ派のスパイだろうな。七八年には、すでにパリ市「ヌフスール(九美女神)」でのフランクリンの外交活動で、フランスが新大陸新政府と同盟を組んで参戦を準備していたからね」
「あれ? ロスチャイルド家って、そんな大金、どうやって運用していたんですか?」
「あ、よく気づいたね。このカネの大半は、フランスのオルレアン「平等(エガリテ)」公が借り入れ、「フランス大オリエント社(GOdF)」に注ぎ込まれていた」
「えーと、つまり、カッセル方(ラント)伯の傭兵奴隷の代金として大ブリテンが払ったおカネが、エジプト十字軍の準備資金になっていた、ということですね」
「そういうこと」
1782年の国際メイソン大会:ボーテvsブラウンシュヴァイク侯
「でも、エジプト十字軍がうまくいかなかったら、どうなっちゃうんです?」
「ロスチャイルド家も、それを心配し始めた。それで、オルレアン「平等(エガリテ)」公に言って、庭園を開放させ、その廻りにぐるっと建物を作って、そこでテナント業をやらせた」
「悪名高きパレ・ロワイヤル(王立宮殿)か」
「悪名高い?」
「本人が放蕩三昧だったせいもあって、ろくでもない連中ばかりがたむろってきたんだよ。公営風俗街みたいなもんだ。そのくせ、あくまで公の庭園だから、警察も手を出せない」
「クニッゲ男爵が、ロスチャイルド家をオルレアン公や「フランス大オリエント社(GOdF)」に仲介していた?」
「それはどうかわからない。ただ、クニッゲ男爵は、自由都市フランクフルトで、イルミナティのコスタンツォ侯に会った」
「コスタンツォ侯って?」
「宮中(プファルツ)選帝(クア)伯ヴィッテルスバッハ家の傍系の傍系のビルケンフェルト伯ヴィルヘルムの宮廷官」
「ぱっとしないなぁ。それに、伯に仕えている侯って変だろ。身分が逆じゃないのか」
「落ちぶれて、ぱっとしないから、インチキ組織で一発逆転を狙(ねら)ったんだろ」
「それで、クニッゲ男爵は?」
「これが、イルミナティを本気にしちゃったんだ。それで、彼一人で五〇〇名も集めた。というより、新聖堂騎士団(テンプラー)ボーデ派がごっそりイルミナティに入った、ということかな」
「でも、バイエルンのイルミナティなんて、ほとんど実体が無いんだろ」
「おもしろいのは、ヴァイスパウプト教授が、そのことを正直にクニッゲ男爵に告白して謝罪したことだよ。それで、むしろ組織の完成をクニッゲ男爵に委ねている」
「クニッゲ男爵だって、まだ三〇前だろ」
「もちろん黒幕はボーデさ。八一年には、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の拠点を統帥ブラウンシュヴァイク侯のブラウンシュヴァイク市からヴァイマール市に移してしまっているし」
「そんなことしたら、ブラウンシュヴァイク侯が怒るだろ」
「ああ、怒ったね。それで、翌八二年七月にハーナウ市郊外ヴィルヘルムスバートのロスチャイルド家の豪邸で国際メイソン大会が開かれた」
「そんなに大規模だったのか?」
「いや、各国三六大ロッジの代表による会議だ。大ブリテンも入っていないし、プロシアも親書を送っただけ。問題は「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」内の主導権争いだからね」
「で、どうなった?」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」に近いボーテ派によって、中世聖堂騎士団(テンプラー)起源説は否定された。でも、ブラウンシュヴァイク侯は、代わりに聖地善行騎士団(シュヴァリエ・ベネフィシアン・デュラ・シテサンテ)説を了承させた」
「それ、ブラウンシュヴァイク侯がフランスのリヨン市のウィレルモに作らせた組織でしょ?」
「メイソンも、種々雑多の寄せ集めなんだ。ボーテ派のような啓蒙主義者もいれば、それを批判するオカルト主義者もいる。ブラウンシュヴァイク侯は、その隙(すき)を利用したんだ」
「でも、大陸メイソンは、ウィレルモに従う、ということ?」
「いや、リヨン市の「エリュ・コーエン(選良司祭団)」でも、「聖地善行騎士団(シュヴァリエ・ベネフィシアン・デュラ・シテサンテ)」を騙(かた)って支配するウィレルモに対する反発が生じ、八三年、「レザミレユニ(再結の友)」の王室財宝官ランジェ侯シャルルピエールポールが、パリ市で、聖地善行騎士団とは別の上位組織「フィラレート」を創設する」
「フィラレートって?」
「古代ギリシアの人名だな。真実を愛する者、という意味だ」
「ようするに、「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」の啓蒙主義ボーテ派のフランス支部だよ」
「ただ、八四年にはバイエルン王国がイルミナティはもちろんメイソンを丸ごと禁止してしまった。八五年には教皇ピウス六世もイルミナティを異端として禁止」
首飾り事件:エジプト十字軍の計略
「その間に、フランスでは、例の首飾り事件が起きるだろ」
「ああ、そうだ。それもおそらくイルミナティ絡みだろうな。「フィラレート」の事務局が王室財宝官ランジェ侯なんだから」
「首飾り事件って、ロアン枢機卿がラモット伯爵夫妻とカリオストロ伯爵夫妻にそそのかされて、王妃マリーアントワネットへの贈り物として首飾りを買ったけれど、宝石商に代金も支払われなかったし、王妃にも首飾りは届けらなかった、っていう話ですよね」
「表向きは、ラモット伯爵夫人の単独犯行ということで、マリーアントワネットは、詐欺師たちにかってに名前を使われた、と言っているが、どこまで本当だか」
「マリーアントワネットだからなぁ」
「というと?」
「母親のマリアテレジアが心配して、オーストリアからなんども手紙で諫(いさ)めなければならないほど、彼女の贅沢(ぜいたく)ぶりはヨーロッパ中で有名だった。だけど、米国独立戦争の支援もあって、そんなカネがフランス王室に残っていたわけがないんだ。だから、むしろ王妃は、衣装だの、舞(ぶ)踏(とう)会だの、諸所からの請求に困って、かってにブルボン家の王室財宝の一部を支払いに当ててしまっていたんじゃないだろうか。それで、王室財宝官のランジェ侯は、その買い戻しに奔走していた」
「マリーアントワネット王妃は、なんとかする気は無かったんですかね」
「彼女なりの考えはあったよ。貴族は私一人で十分。ほかの都市貴族に重税をかければいい、って」
「いい案じゃないですか」
「その程度で、どうにかなる状況じゃなかっただろ。中世の十字軍時代と同じだよ。いや、それよりもっと悪い。農業生産に比して人口過剰の上に、産業革命で生産過剰だ。街にはすでに失業者があふれかえっていた。こんな状況で課税まで強化したら、市中経済は死んでしまうぞ」
「そうだよ、だからエジプト十字軍なんだ。ロアン枢機卿は、色狂いで王妃に言い寄ったみたいに言われているけれど、ブルターニュのロアン子爵家の縁戚。王室財宝官ランジェ侯爵やマルタ騎士団連絡役のカリオストロ伯爵らは、彼を財務総監につけようとしていた」
「そんな優秀な人だったんですか?」
「当時のマルタ騎士団の大統領はエマニュエル・ドゥ・ロアン」
「ロアン枢機卿の親族?」
「そういうこと。おまけに、彼らはブルターニュの子爵家だから、これまでの遺恨も水に流して、大ブリテンもエジプト十字軍計画に取り込める。すでにフランスは一七〇一年のスペイン継承戦争でスペインを、一七三三年のポーランド継承戦争でシチリア島・南イタリアを、さらに、一七六九年にコルシカ島を手に入れている。そして、七三年に「フランス大オリエント社(GOdF)」ができて、八四年、オスマン艦隊とベルベル人海賊の拠点アルジェ市を叩き潰している。エジプトまでは、もう一歩だ」
「でも、首飾り事件で、ロアン枢機卿の財務総監就任という人事案は、王妃マリーアントワネットに潰されてしまったんですね」
「そんな遠征のために王室予算の削減をもくろんでいる連中の言うことなんか聞くようなタマじゃないからね」
「カリオストロ伯爵の話は、ゲーテの『イタリア紀行』にも出てきますよね」
「というより、八六年九月にゲーテが行き先も告げず、突然にワイマール市からシチリアまで旅に出たのも、カリオストロ伯爵の問題調査のためなんじゃないだろうか」
「いや、カリオストロは、もう用済みだ。ヨーロッパは、もっと大物を必要としていたんだよ」
「それがゲーテ?」
「いや、ナポレオンだろ」
「その前に、自分で名乗り出たやつがいた。オルレアン「平等(エガリテ)」公だ」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」の大統領ですね」
「それで、ボーデは一七八七年にパリ市に赴いたが、いい印象は持たなかったようだ」
「窮民救済のエジプト十字軍の話を、たんに自分が王位に就くためのクーデタにすり替えたんだろ」
「そんなところだろうな」
フランス革命前夜
「でも、革命前のパレ・ロアイアル(王立宮殿)も、こんなだったんですかね」
「どうかな。パレ・ロワイヤル(王立宮殿)の周辺にたむろっていたのは、大量の売春婦たちや犯罪者たちだぜ。パレ・ロワイヤル(王立宮殿)の中に逃げ込めば、王宮扱いだから、警察も手を出せない。おまけに、オルレアン「平等(エガリテ)」公は独自に「プロ市民」を養成していた」
「プロ市民?」
「売春婦や犯罪者の中で口が立つ連中を引き寄せて、扇動家や連絡係に使っていたんだよ。連中は、もとより反体制的だし、カネさえもらえば、なんでもやるやつらさ」
「そんなの、屋敷の中に入れていたんですか?」
「ほら、ここにも、あちこちに噴水があるだろ。あれが重要なんだ。オルレアン「平等(エガリテ)」公が使った通信手段だ」
「通信?」
「噴水は、屋敷の中から操作できるんだよ。あれでプロ市民たちに指示を出す。やつらは、噴水がどんな状態だったかだけを、地方の同志の都市貴族に伝える」
「会ってもいない、文章も無い、証拠も残らない、途中で連絡係が捕まっても、だれにも意味がわからない、というわけだな」
「ああいう噴水を都市貴族の屋敷前に作らせて、地方の末端の連中まで操作した。噴水暗号は、各階層ごとに組み合わされていたから、下位の連中は上位の連中の暗号がわからない」
「メイソンの暗号儀式の応用ですね」
「で、八九年の七月か」
「もうすこし順を追っていこうよ」
「なら、まず前年の八八年八月末に財務総監ブリエンヌが都市貴族への課税に失敗して辞任したところからですよね」
「そうだな」
「それで、ネッケルの再任となったけれど、そのときに三部会の招集と承認をルイ十六世に条件付けた」
「このあたりまで、王室財宝官ランジェ侯爵の思惑どおりだな」
「それで、問題の八九年五月にヴェルサイユ宮殿内で三部会(エタ・ジェネロ)が開かれた。だけど、地方議会同様に第三身分を倍にしろ、いや伝統的に中央は三身分同数だ、って、運営の仕方で紛糾してしまった。それが昂(こう)じて、六月二〇日の球技場(テニスコート)の誓い、第三身分は絶対に憲法を制定するぞ、ということになった」
「大ブリテン型の立憲君主制が予定のおとしどころだったからね」
「ところが、業を煮やした王妃マリーアントワネットが、ほら、やっぱりネッケルなんかじゃダメじゃないの、って、七月十一日、ルイ十六世にネッケルを解任させてしまった」
「これは予想外だっただろうなぁ」
「それで、今度は、ほらやっぱりルイ十六世なんかじゃダメだろ、って、オルレアン「平等(エガリテ)」公がみずからクーデタに動き出した」
「このあたりから、どんどんランジェ侯爵の軌道を外れて、コントロールできなくなっていったんだろう」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」のランジェ侯爵がめざしていたのは、あくまでルイ十六世下での立憲君主制で、オルレアン「平等(エガリテ)」公には、せいぜい首相になってもらうくらいのつもりだったんだろうな」
革命と国会議事堂建設
「ところが、ここで、やっかいな女が出てくるんだ。ほら、「フランス大オリエント社(GOdF)」、あれ、中心となっていたのは、王室財宝官のランジェ侯爵と政府科学顧問のギヨタン医師、そして、博物学者のビュフォン伯爵。ところが、ビュフォン伯爵は、革命前年の八八年四月に亡くなってしまっていたんだ」
「それで?」
「問題は、ビュフォン伯爵家を継いだ息子。これが、ビュフォン伯爵の広範な博物学研究の中でも最低の生き物と揶揄されるくらいのバカで、その嫁というのが、野望に満ち満ちた町娘、アニェス。うるさい義理の父の大ビュフォンが亡くなったのをいいことに、さっさとバカ息子の小ビュフォンを放り出し、名目上の「フランス大オリエント社(GOdF)」大統領、オルレアン「平等(エガリテ)」公の愛人になって、王位簒奪をけしかけた」
「面倒な時に面倒なやつが出てきたもんだな」
「でも、ワイマール公国のボーデと決裂して、大オリエント社のエジプト十字軍の話はダメになっちゃったんですよね。立憲君主制を建てたって、王様を変えたって、財政破綻は救えないですよねぇ……」
「憲法を作って、議会を開いても、都市貴族への課税承認なんか、どのみち取り付けられないだろうな」
「ちがうんだよ。議会を作ることが重要なんだ、文字通りね。ほら、徴税請負人の壁、あれは、すでに八七年に完成している」
「そのせいで物価が高騰したって、パリの町民が怒っていたんですよね」
「壁のせいというより、その工事が終わってしまったせいで、十万人の建設失業者が出ていた。だけど、大きな徴税請負人の壁ができれば、その内側の古い昔の壁の残骸はいらないだろ」
「昔の壁って? すでにルイ十四世の時代にほとんど撤去したんじゃないか?」
「その一部、大物が残ってたんだよ」
「サンタントワーヌ・バスティーユ(要塞)か」
「そう、西のルーブル・バスティーユ(要塞)は宮殿に改装されたが、それと対で百年戦争期に建てられた東のサンタントワーヌ・バスティーユ(要塞)は、監獄として使われていた」
「国事犯専用で、サド侯爵が中から、ここで人が殺されている! とか、わめき立てていたんで、圧政の象徴とされた、って、聞いていますけれど」
「それは表向きの話。とにかく、あれをぶっ壊して、あそこに巨大な国会議事堂を建てる計画だった。そうすれば、その周辺も、官庁はもちろん、地方議員の事務所だのなんだのができて、ヴェルサイユ宮殿に奪われてしまっていた活気がパリ市に戻ってくる、という、もくろみだ」
「まさにメイソンらしい土建的経済刺激策だな。だけど、それには、最初の呼び水の資金がいるだろ。ただでさえ国庫が破綻しているのに、どうやったんだ?」
「名門生まれのオータン司教タレーランだよ。七三年にイエズス会を解散させたときに、その莫大な資産が吐き出されてきた。それなら、ということで、革命を機会に国内のカトリック教会を全部ぶっ潰し、その土地収益を抵当にアシニャ(割当)紙幣を発行した。タレーランは教皇から破門されたが、自分の方からも司教を辞して国民議会の議長になってしまった」
「貴族にとって、教会なんて、家柄に箔を付けるだけのものだもんなぁ」
「革命と言っても、立憲王政を目指して国王や都市貴族は存続して、ローマ中心主義の一部の僧侶階級が排除されただけというのが本当のところなんですね」
「ところが、これでうまく終わっては困るのが、愛人の小ビュフォン伯爵夫人アニェスにけしかけられているオルレアン「平等(エガリテ)」公だ。彼は、王室顧問会議弁護士のダントンだの、貧乏ジャーナリストのデムーランだの、サディスト高級娼婦のテロワーニュだの、パレロワイヤルの手下のプロ市民たちを使って王室批判を続ける。逆に、よけいなスウェーデン貴族のフェルセン伯爵とやらは、絶対王政に戻そうと、プロシアやオーストリアを反革命でけしかける。そのせいで、九一年六月二〇日、国王一家は国外逃亡を図って、王権停止で立憲王政計画は瓦解。ボルドー市の連中、いわゆるジロンド派が政権を奪取して、干渉周辺国に対する主戦論を展開。もはや国会議事堂建設どころではなくなってしまった」
「ちなみに、三五歳のモーツァルトは、九一年九月末に、ウィーン市のオペラ座の南西のヴィーデン劇場で、メイソンを暗示する『魔(ま)笛(てき)』を上演して、十二月には病死しているな」
「オーストリアの方は、あんまり戦争なんていう雰囲気じゃないですねぇ」
「自称啓蒙君主の皇帝ヨーゼフ二世はともかく、姉のマリアアンナや妹のマリアクリスティーナ「ミミ」、その夫でネーデルランド総督になっていたアルベルトカジミールは、イルミナティで「フランス大オリエント社(GOdF)」の側だからね」
「なのに、ジロンド(ボルドー)派は、なんで主戦論だったんでしょうね?」
「想定されていた敵国は、オーストリアじゃなくて、大ブリテンだったんだろうな。フランス西岸のボルドー市は、十五世紀の百年戦争が終わるまで大ブリテンに支配されていたから、また侵略される、と思ったんじゃないのかな。実際、パリ市のチュルリー宮に幽閉されていた王族は、以前からドイツ兵、つまり、米国独立戦争と同じチューリンゲン(中部丘地)の傭兵奴隷を使っていたし、王族がタンプル(聖堂騎士団)塔に監禁された翌年の九二年七月には、傭兵奴隷の親玉の「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」総(そう)帥(すい)ブラウンシュヴァイク侯が、王家の地位の保全を要求。これは事実上の宣戦布告だ。背景に、大ブリテン王国・ハノーファー選帝(クア)公国やプロシア選帝(クア)王国がいたのは、あきらかだろ」
独立マインツ共和国
「でも、立憲王政でいいんでしょ。王権停止を解除すればいいじゃないですか」
「いまさらルイ十六世を立てても無理だろ」
「九二年九月の国民公会(コンヴェンション・ナシオナーレ)でジロンド(ボルドー)派が圧勝して国王無しの共和政に移行。革命軍を組織。そのうえ、オルレアン「平等(エガリテ)」公も、あくまで主戦論を画策したんだ」
「え、どうして?」
「オルレアン「平等(エガリテ)」公は、ジロンド(ボルドー)派のような共和主義者も嫌いだったからね」
「嫌いなのに、同調した?」
「いや、共和主義者が負ける戦争を仕掛ければ、政権は自分のところに転がり込む」
「ひどい狂言回しですね」
「「フランス大オリエント社(GOdF)」が周到に計画したフランス大革命は、彼とその愛人の小ビュフォン伯爵夫人アニェスの野心のせいで、どんどん迷走していくんだ」
「すでに八七年にオルレアン「平等(エガリテ)」公の「フランス大オリエント社(GOdF)」と決裂したドイツのボーデ派はどうしていたんですか?」
「それで、このマインツ市だよ。当時、このあたりは、領地がぐちゃぐちゃに入り組んでいたんだ。ライン渓谷は、コブレンツの選帝(クア)侯トリエル大司教領、ザンクトゴアールはヘッセン家のカッセル方(ラント)伯だったりダルムシュタット方(ラント)伯だったり。マインツ周辺を取り囲んで、マンハイムの宮中(プファルツ)選帝(クア)伯領。マインツ選帝(クア)大司教領は、フランクフルトより東のアッシャッフェンブルクに住んでいて、ライン西岸の自領は、ほったらかし。そして、東岸のウィスバーデンを含むフランクフルトの裏山のタウヌス山脈は、ナッサウ公領。その南がヘッセン家のダルムシュタット方(ラント)伯領。つまり、マインツ市そのものは、拮抗する複雑な勢力争いの渦中にあって、事実上の自由都市だった」
「ちょうどヴェネチアやモンテカルロみたいなものですか」
「ところが、ブラウンシュヴァイク侯が宣戦布告した後の九二年十月、マインツ大学のメイソン連中がフランス革命軍を招き入れて、独立マインツ共和国を樹立してしまった」
「そう言えば、マインツ市は、市民騎士団創設者の自称ヨンセン男爵が詐欺師時代の五五年に、守鍵官シュパウァ伯をインチキ錬金術で引っかけたところですよね」
「そのころからすでに武装市民革命を組織していたのかもな」
「さらに、北のケルン大学やボン大学、二三歳の若きヘーゲルがいた南のチュービンゲン大学でも同様の動きが広がる。それで、ブラウンシュヴァイク侯がプロシア連合軍八万を率いて、マインツ共和国へ出陣。ワイマール公国のアウグスト公とともに宰(さい)相(しょう)ゲーテもプロシア側で従軍。翌九三年三月から、二万の革命軍フランス兵が残るマインツ市を攻囲。七月にはマインツ共和国を壊滅させてしまった」
「ドイツのボーデ派はブラウンシュヴァイク侯派に寝返った?」
「もともとただの市民や下級貴族で、表立って「厳格(ストリクト)新聖堂騎士団(テンプラー)」総(そう)帥(すい)ブラウンシュヴァイク侯に逆らえるほどの連中じゃないからね」
「そうですよね……」
「でも、ゲーテは、なかなか一筋縄でいくようなやつじゃないよ。彼はもとはフランクフルト市の大商家の出で、同じくフランクフルト市に居を構えるミラノ人銀行家ブレンダーノ家とも親しかった。このブレンダーノ家が、このウィスバーデン市の西のラインガウに別荘を持っていて、ゲーテは昔からよくそこに滞在している。このラインガウの帝国代官がビルケンシュトック家で、ヨハン・ビルケンシュトックは、ウィーン市のハプスブルク家宮廷顧問の重鎮。金羊毛騎士団(オルドレ・デ・ラ・トワソンドール)の一員として同じくハプスブルク家に仕えるハンガリーのエステルハージ侯爵アントン一世は、ゲーテらとともにブラウンシュヴァイク侯の対仏戦争に加わっていたし、その親族のエステルハージ伯ヴァレンティンは、以前からフランス王妃マリーアントワネットのお気に入りの一人で、革命のさなかにあってもフランス王室と外部の連絡係を務めていた。また、ボン市で不遇をかこっていたベートーヴェンは、ハンガリーのエステルハージ侯家に仕えていたハイドンに招かれ、九二年十一月にウィーン市に移り、そこでビルケンシュトックの支援を受けることになる。さらに後の九七年には、ビルケンシュトックの娘アントニアとブレンダーノ家の跡(あと)継(つぎ)フランツが結婚」
「なんなんです、この人たち?」
「ヨンセン男爵、ボーデに次ぐ、ドイツ啓蒙主義者の人脈だよ」
「つまり、イルミナティの本流?」
「そういうこと。ただし、連中は、国粋主義のジロンド(ボルドー)派や恐怖政治のジャコバン(ヤコブ修道院)派には反感を持っていたし、ナポレオンが出てくると中で分裂してしまう」
ロベスピエールの暴走
「でも、それって、もうすこし先のことでしょ」
「いや、マインツ共和国の壊滅がナポレオンを作ったんだ。この敗北で、主戦論のジロンド(ボルドー)政権がガタガタになって、ルイ十六世の処分にも慎重ならざるをえなかったのだが、そこでかのオルレアン「平等(エガリテ)」公はサディスト高級娼婦テロワーニュが指揮する女性騎馬隊なんかを使って世論を沸騰させ、九三年一月の国王処刑へ持って行く」
「で、いよいよ自分の出番だ、と」
「三月にデュムーリエ将軍に反革命クーデタを起こさせたんだけど、失敗して、逆に自分が逮捕されてしまった。テロワーニュも、五月に別の女性たちの暴行を受けて発狂。むしろ六月にはジロンド(ボルドー)派より面倒なロベスピエールのジャコバン(ヤコブ修道院)派が恐怖政治を始める」
「そして、十月には王妃マリーアントワネットも処刑、十一月には黒幕のオルレアン「平等(エガリテ)」公も処刑」
「これで、王族はいなくなった、というわけですね」
「愛人の小ビュフォン伯爵夫人アニェスは?」
「いまさら夫の小ビュフォン伯爵の元にも戻れず、貧窮して死んだらしいよ」
「自業自得だな」
「でも、今度は、三六歳のロベスピエールが暴走する」
「例の有名な恐怖政治ですね」
「翌九四年三月、マインツ市陥落の責任を問うて、三四歳のライン革命軍総将軍ボーアルネ子爵と、その後のライン軍を引き継いだ二六歳の気鋭のオッシュ将軍まで逮捕。また、オルレアン「平等(エガリテ)」公の手下だった三五歳のダントンや三四歳のデムーランを四月に収(しゅう)賄(わい)で処刑。これで、ほとんどのライヴァルを始末して、独裁者に成り上がった。さらに、六月、神がいないなら、それを発明すればいい、と言って、あるじのいなくなったチュルリー宮で、カトリック教会に代えて自分が大祭司になり、最高存在の祭典、なんてものを開いている」
「最高存在って?」
「理性のことらしいよ。それまでにも、革命の翌年の革命記念日から練兵場、いまのエッフェル塔の前に、祖国の祭壇なんていうのを作って、変な儀式を行っているけれど、最高存在の祭典は、それを画家の国民公会議長ダヴィットによる派手な演出でさらに仰々しくしたもので、でかい塚の上に変な「自由の木」を立てて、これに礼拝した」
「およそ理性的とは思えないですよねぇ」
「カリオストロ伯爵やオルレアン「平等(エガリテ)」公に代わって、自分が宗教結社の大統領になろうとしたんじゃないのかな」
「この後、七月にはマインツ陥落の責任を取らされて、ライン革命軍総将軍ボーアルネ子爵が処刑」
「あ、その奥さんが、ジョセフィーヌですね」
「三一歳の彼女は、カリブ海のマルティニーク島に砂糖プランテーション(単作大農園)農場を持つ騎爵の娘。セーヌ左岸(南側)、いまの六区のカルム修道院跡の監獄に収監されていた。ここで、隣室の二六歳のオッシュ将軍と恋仲に堕ちてしまう」
「二人とも、断頭台を待つばかりの身の上ですものね、ちょっとわかるわ」
「いや、だけど、九四年の七月末にテルミドール(熱月)のクーデタだろ」
「そう、ダントン派の残党の三九歳のバラスが国民公会軍を率いてロベスピエールの方を断頭台に上げた」
オッシュ将軍とナポレオン
「じゃ、ジョセフィーヌとオッシュ将軍は?」
「オッシュ将軍は、すぐヴァンデ反乱の対応に向かわなければならなかった。ボルドー市の北、ナント市やヴァンデ地方で、カトリック王党派残党が、徴兵令に反対する農民たちを巻き込んでゲリラ戦を展開したために、その鎮圧にはひどく手間がかかった」
「ジョセフィーヌの方は?」
「総統バラス子爵の愛人になった。汚職と腐敗の巣窟のような政治を繰り広げた」
「潔癖主義のロベスピエールより、さらにタチが悪そうじゃないか」
「でも、なんだかんだ言っても、ナポレオンがひっくり返すまで五年間も持ったんだぜ」
「すごいな」
「まず対外戦争を次々と終結。国内に復活してきた復古派を弾圧。九五年十月のヴァンデミエール(葡萄月)の反乱じゃ、バラス子爵が国内軍総将軍になって、二六歳のナポレオンを副官に抜擢。ナポレオンは、革命広場、いまのコンコルド広場で散弾大砲を復古派の暴徒に水平撃ちして、一日で鎮圧してしまった」
「それで、ジョセフィーヌは、ナポレオンに乗り換えた?」
「そんなところだな。九六年三月九日に結婚して、三月二七日にはナポレオンはイタリア派遣軍総将軍になっている。もっとも、このころ、いちばんの英雄は、ナポレオンより一歳年上で、九六年七月にヴァンデ反乱を終結させたオッシュ将軍だったんだ。アイルランド遠征は失敗したものの、九七年二月、ライン方面に乗り込み、プロシア連合軍を奥地まで追い込んだ。一方、ナポレオン将軍も、四月にはウィーン市まで迫る。八月、オッシュ将軍は、ライン左岸(西側)を完全に手中に収め、ケルン市・コブレンツ市・マインツ市を中心に、オランダ国境からストラスブール市まで、新たにシスレニア共和国を独立させようとした」
「シスレニアって?」
「ラテン語で、ラインのこちら側、という意味だな」
「ところが、九月、オッシュ将軍が、フランクフルト市の北の前線で病死。十月、ナポレオン将軍は独断でオーストリアと講和して、とにかくシスレニアを承認させ、十二月に凱旋」
「このころ、かつてのイルミナティの人たちは何をしていたんですか?」
「七一歳の老カントは、あいかわらず東北の辺境、プロシアのケーニッヒスブルク市にあって、九五年四月のプロシアとフランスの間のバーゼルの和約を一時の気休めに過ぎないと批判し、『恒久平和のために』を書いて、どの国も共和政だったら、国民の意見がバラバラになってしまって開戦の合意に至らないはずだ、なんて楽観的に考えている。一方、その弟子で三四歳のイェーナ大学教授フィヒテは、逆に、九六年には、国家は、国民の自由と権利に担保された絶対意思の表れだ、なんて、言い出した」
「九四年のロベルピエールの「最高存在」よりは洗練されてますね」
「でも、それ、独裁者の正統性の話でもあるぜ」
「南西ドイツのチュービンゲン大学で学生時代に革命に熱狂していたヘーゲルは、その後、革命の現実に失望し、スイス・ベルン市の貴族の家庭教師。九七年に二七歳でフランクフルト市のワイン商家の家庭教師」
「すっかり丸くなっちゃってますね。大物のゲーテは?」
「九六年に『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』を書いただけ」
「それだけ? ベートーヴェンは?」
「時代に不満な、ただの傲慢なピアニスト。ソナタやコンチェルトを書いていたが、難聴の兆候は顕著になりつつあった」
「なんだか、みんな現実逃避的ですね……」
霧月のクーデタ
「ところが、彼らと関係して、また新たに面倒な女が出てくる。スタール男爵夫人。三部会(エタ・ジェネロー)当時の財務長官ネッケルの娘で、八六年、二〇歳でスウェーデン外交官スタール男爵と結婚したものの、すぐに別居。以後、文芸や政治の評論で活躍し、ゲーテらに大いに気に入られた。そして、ロマン主義の小説家、コンスタンと同棲して、四人の子供も生まれている。ところが、ナポレオンが頭角を現してくると、猛烈にアタックをして、風呂場まで押しかける始末。しかし、ナポレオンは、ジョセフィーヌにゾッコンで、スタール男爵夫人には目もくれない。こうなると、今度は愛人のコンスタンとともに、激烈なナポレオン批判を始め、ヨーロッパ中の広い人脈を駆使して、旧イルミナティの連中を反ナポレオンに扇動しようとする」
「ナポレオンも、ずいぶんやっかいな女に関わっちゃったなぁ」
「いや、関わらなかったから、逆恨みされたんだよ」
「ようするに、その人、ストーカーじゃないですか?」
「だけど、父親はとてつもない金持ちだし、本人はイルミナティの人脈に気に入られているし、敵に回すと、まさに面倒だったろうな」
「一方のナポレオン。この女のせいなのか、パリ市を離れて、九八年七月には、念願のエジプト遠征。ところが、この行きがけにマルタ島を襲撃して掠奪。修道騎士団員の大半はロシアに亡命せざるをえなかった」
「あれ? 救院騎士団(シュピタラー)は、むしろ教皇やイエズス会と対立してエキュメニズム(世界教会主義)を計画し、イルミナティや「フランス大オリエント社(GOdF)」を創設して、フランス大革命を引き起こした本体なんじゃないのか?」
「彼らの支援でできた革命政府は、八九年十二月、カトリック教会の資産を抵当にしたアシニャ(割当)紙幣を発行した際に、救院騎士団(シュピタラー)の資産もいっしょにガメちゃったんだよ。それに文句を言っていたら、こんな風に本拠地まで攻め込まれた」
「で、肝心のエジプトの財宝って見つかったんですか?」
「さあ……。七月にエジプトに着いて、現地のマムルーク政権を倒したものの、八月一日にはアレキサンドリア市沖のアブキール湾にネルソン提督の大ブリテン艦隊がやってきて、海戦で大敗。ナポレオンは、エジプトで孤立。その間に北イタリアもオーストリアに取り返され、経済の混乱もさらに悪化。そんな情勢で、ナポレオンは、単身でエジプトを抜け出し、九九年十一月、パリ市に戻って、クーデタを起こし、腐敗政治の元凶で抜擢人事の恩人のバラスを追放し、自分が第一執政(コンスル)になってしまった。で、一八〇〇年一月、彼が最初にやったのが、フランス銀行の創設。金銀複本位制で、アシニャ(割当)紙幣は廃止、旧政府の負債もまるまる踏み倒した」
「持っていたカネが、文字通り紙クズになるなんて、腐敗した政治家や御用商人にとっては散弾大砲の水平打ち以上の破壊力だっただろうな」
「だけど、この時点では、紙幣を廃止できるほどの量の、現物の金銀があった、っていうことですよね」
「やっぱりエジプトの財宝か?」
「まあまあ、それは後で。このころ、北イタリアは、またオーストリア・ロシアの連合軍に荒らされていた。そこで、五月、例のナポレオンのアルプス越えの奇襲だ」
「ダヴィッドが翌〇一年に描いた白馬に乗った英雄だな」
「でも、しょぼくれたナポレオンが雪道をロバに乗って行く絵もありますよ」
「あれは、ドラローシュが半世紀も後に、英国人に売るために描いたもので、最初から悪意に満ちたカリカチュア(戯画)だよ。実際は、雪の消える五月に、先発工兵隊を送り込んで道を整備し、一気呵成に馬と大砲で駆け抜けた。だから、奇襲なんだ。で、六月十四日夕刻、ナポレオンの援軍によって、ミラノ市とトリノ市、ジェノヴァ市の中央のマレンゴで逆転圧勝。七月には、政教和約(コンコルダート)で、没収財産を弁償しない条件でカトリック教会を承認した。また、十二月には、モロー将軍がミュンヘン市の先まで攻め込んで、翌一八〇二年二月、オーストリアとのリュネヴィルの和約で、北イタリアやライン左岸(西側)のフランス領有が確立。三月、大ブリテンとのアミアンの和約で、大ブリテンはマルタ島やエジプトから撤収、フランスはナポリやローマ教皇領から撤収。この二つの和約で対外関係を安定させ、八月、終身執政になる」
「選挙無しの終身身分なんだから、この時点で彼は事実上の王になったということだよな」
「大ブリテンの女王アンを造幣局長官の錬金術師ニュートンが支えたように、八方の戦闘に駆け回るナポレオンを支えたのが、外務大臣のタレーランと内務大臣で財宝官のシャプタル」
「タレーランは、司教のくせに、教会資産を没収してアシニャ(割当)紙幣を発行した人ですよね」
「そもそもナポレオンのクーデタを画策したのも彼だからね」
「すごい策士だな」
「その才能を買って、こんどは外務大臣か」
ミュージアム建設の宝くじ
「シャプタルは?」
「もともと南仏の薬剤師の息子で、モンペリエ大学の化学教授」
「もろに錬金術師だな」
「このころは、すでに産業革命の時代だ。彼は叔父の莫大な遺産で硝酸やアルミなどの化学工場を創設している。そして、大革命の前年には、三〇歳で国王の聖ミカエル騎士団に抜擢されている」
「だったら、王党派じゃないのか?」
「かもな。国王処刑の九三年に『モンターニュ(急進上座)派とジロンド(ボルドー)派の対話』なんて書いて、逮捕された。それで、その後は政治から手を引いて、パリ美術工芸学校の創設したり、ワインの加糖発酵を発明したり」
「なんでもやるんですね」
「彼の中では、化学も、芸術も、農業も、ひとつのものだったんだろうな」
「まさに錬金術というところじゃないか」
「その彼が、ランジェ侯爵の後を継ぐ財宝官として経済再建でやったのが、ミュージアム(博物館)」
「ミューズの館、シャプタルは、まちがいなく「ヌフスール(九美女神)」のメンバーでもあったんだろうな。考えてみれば、ミュージアム(博物館)って、たいてい新古典主義の建物だ」
「ようするに、新時代のメイソンロッジそのものだよ」
「あれ? 私、学芸員だから、メイソンロッジの事務係ということですか?」
「時代が時代ならね」
「でも、ミュージアム(博物館)なんかで経済再建ができるんですかねぇ。どこでもガラガラで、人なんかあんまり来ませんよ」
「メイソンロッジなんだから、それくらい目立たない方が好都合なんだ。重要なのは、巨大な箱物を作ることさ。一七五九年に大英ミュージアム(博物館)を建てるとき、宝くじで莫大な建設資金の調達をしたんだよ」
「シャプタルも、同じ手を使った?」
「教会を潰したら、大量の土地が出てきただろ。同様に、王族を潰したら、莫大な美術品が出てきたんだ。これらをルーヴル宮だけでは収容しきれず、リヨン市、マルセイユ市、ボルドー市、ジュネーヴ市、ナント市、リル市、ブリュッセル市、ストラスブール市、ナンシー市、ディジョン市、トゥールーズ市、カーン市、ルーアン市、レンヌ市、さらには、新領土のライン左岸のマインツ市にミュージアム(博物館)を造らせた」
「宝くじで地元の現金を吸い上げ、巨大建設工事を落とし、経済活性を図った、ということか」
「国会議事堂なんか作って政治議論を沸騰させてしまうより、美術工芸品を祭る神殿を作って静かにさせた方がましですものね」
「大英ミュージアム(博物館)は、奇天烈なガラクタの寄せ集めで、オカルト薔薇十字団(ローゼンクロイツァー)趣味の最後の徒(あだ)花(ばな)だが、シャプタルの作らせたものは、まさに美の殿堂。近代ミュージアム(博物館)の原点なんだ」
「博物館と美術館の違いですかね。神さまや王さまに芸術が取って代わって、そのための教会だか王宮だかを作ることで、街や国家のシンボルにしようとしたんでしょうか」
「でも、わけのわからない理性なんか祭るより理性的だな」
「だけど、エジプト、ぜんぜん関係ないじゃないじゃないですか。やっぱり財宝はなかったんですかねぇ」
「いや、軍隊のほかに総勢二百名もの研究調査団が随行している。ただ、負けイクサだったから、ナポレオンは、なんの成果も持って帰って来られなかった。彼が持ち帰ったのは、これらの美術館の元になる、アレキサンドリア市の図書館の理念だけ」
「でも、宝くじだけで経済復興して、あれだけの大戦争ができるほどの軍資金が調達できたんでしょうかねぇ?」
「うーん……」
『悪魔は涙を流さない』から
” ※着色は引用者
ワクワクさん
@uxskf
新世界秩序NWOにしろイルミナティにしろその言葉の定義をちゃんと出来てないからいつまでも陰謀論なのよ
悪魔崇拝ネタならその悪魔とはなんぞやくらい言ってくれないと分からんし
クニッゲどころかヴァイスハウプトすら出てこないイルミナティ陰謀論もあったよw
午前7:40 · 2023年10月29日
·
566
件の表示
あとはフランクリンが重鎮なの知らなかったり大東社も知らないフリーメイソン陰謀論とかもあったよ
NWO、新世界秩序に関してはウェルズの名前すら出ないから勝手に改憲やら安倍晋三とかロックフェラーと結びつけられたり無茶苦茶だね
午前7:44 · 2023年10月29日
·
228
件の表示
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
名文↓
https://x.com/uxskf/status/1712361589113065755
”Twitterで工作員ぽいのってそもそも世界連邦とかいう陰謀の中心地点すら言わないからなぁ
反ワクチンだからと思って見てみるとスウェーデンボルグに頭を宇宙に連れてかれたりクリスチャンに地球も脳みそも平らにされてたり
”
帰一帰一(キーキー)うるさいよね(笑)
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2023年10月12日
Twitterで工作員ぽいのってそもそも世界連邦とかいう陰謀の中心地点すら言わないからなぁ
反ワクチンだからと思って見てみるとスウェーデンボルグに頭を宇宙に連れてかれたりクリスチャンに地球も脳みそも平らにされてたり
さらに表示
午後7:49 · 2023年10月19日
·
9,506
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
帰一帰一うるさいてマジで笑えるけど笑えないよねw
ほんとにそのまんまスピってる人ばっか
出る言葉はユダヤガァー イルミナティガァーだし
どう考えても✝️のが強いし日本の文化だって🕎より✝️くさい
午前8:31 · 2023年10月29日
·
1,290
件の表示
ーーーー
かきがら書房
@kakigara_shobo
小堀桂一郎訳「森鷗外の『知恵袋』」:「恥は人に見られて初めて恥となるわけではなく、人が見ていないところでも恥ずべきことはやはりひとり自ら恥ずべきなのである」クニッゲ著『交際法』の、鷗外による翻案的抄訳を編纂した一冊。文語体を採る鷗外の文にも訳がついて読み易くなっている。 #積ん読
画像
午前1:26 · 2022年9月19日
ムルのフェア台【本はお魚。大漁もシケも】
@Books_Bartleby
【既刊】 森鷗外の『智恵袋』 http://honto.jp/netstore/pd-book_00186578.html
>「知恵袋」「心頭語」はクニッゲ「交際法」、「慧語」はBalthasar Gracian「Handorakel und Kunst der Weltklugheit(神託提要・処世の術)」の鴎外の抄訳
午前7:39 · 2016年11月19日
Kent Nishi
@kent24hara
森鷗外の処世術箴言集『知恵袋』『心頭語』『慧語』と、その三作の口語訳によって構成される、小堀桂一郎訳・解説『森鴎外の「知恵袋」』を読み始めた。委細を尽くした「解説」によると、『知恵袋』と『心頭語』は、クニッゲ『交際法』の「翻案的抄訳とでも呼ぶべき作業の産物」ということだ。
画像
午前11:53 · 2017年1月4日
森鷗外研究アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において― Ⅱ
山陰地域研究 12 巻 92-106 頁 1996-03 発行
https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/45023
からDLできる論文:
森鷗外研究アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において― Ⅱ
”森鴫外研究アードルフ
1森鴫外の﹃知日恵袋﹄
一七八七年︑クニッゲは父の遺産を少しでも取り戻したいという
希望を抱いて︑ハノーファーに帰った︒そして父親と異なって家族
(1)
思いの彼は︑娘のフィリッピーネの教育に熱心に関わりながら﹃交
際法﹄を執筆し始めた︒啓明会での挫折にもかかわらず︑その後も
人間を成熟へと導き︑同時に公民として教育するという彼の信念は︑
弱まるどころか︑これまでょりも強くなっていたのである︒この前
(3
年に匿名で﹃フリーメーソンの最新の歴史﹄を出版している︒実は
本稿もこれを援用しているのだが︑対話の形でフリーメーソンの由
来や系統を語ったもので︑現代における結社の秘密性の不要や︑そ
の危険性の強謬当時の彼の気持ちがうかがえる︒そして更にこれ
までに数々の過誤を犯している様々な形態の国家制度も︑倫理的世
界改革が進行すれば止揚され︑より高次の段階へ進む︒それは人間
の成熟完成をまって初めて可能になる︑という理念が展開されて
いる︒つまり本来こういう遠い地点に目標を据え︑啓蒙精神への導
入の意図を持って彼は︑後世に名を残すことになる新しい著作にか
かったのだった︒しかも﹁私が何であり︑他人が何であるか︑他人
フォン・クニッゲ
との関連においてー
.
Ⅱ
が何を要求し︑私が何を要求するのか︑を知ること︒私は自分一人
では満足させられず︑仲間の助けがなければ何者でもない︑と知る
こと︒仲間を私の幸福の本質的な部分と見なし︑様々な活動にょっ
て彼らに役立っこと︒人の過誤に対して寛容であり︑他人の意見に
柔軟であること︒自分の運命に満足して生きること︒自分にとって
(3)
余分なものを他人のために役立たせること︒﹂こういう謙虚な日常
生活の知恵がその内容の核であって︑教壇学者が伝える知識とはか
なり様相を異にする︒
この新しい著書は当った︒売れ行きは爆発的で︑短期間のうちに
クニツゲの名はドイツ中に知れ渡った︒その年のうちに第二版が出
されたが︑それでも需要を満たすには至らなかった︒彼が宮廷で公
務を遂行しつっ︑啓明会員として密かに普及に努めた啓蒙の精神に︑
いわば日常性という衣をまとわせて公衆の眼前に具体的に提示した
わけだが︑そういう内{谷のこの書物が︑何故そのように人気を博し
たかについては種々考えられる︒しかし何といっても︑この十八世
紀の末に隣国フランスで起こった大革命が︑いわゆる市民革命と呼
山陰地域研究(伝統文化)第一二号
水内
一九九六年三月
透
〔106〕
森鵬外研究アードルフ クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱフオン.
ばれる性質のものであったことに示唆されるように︑市民階級の社
会的台頭が前提となるであろう︒最初は商工業者たちが︑それから
広範囲に特に都市に居住する市民たちが︑経済的実力を増大させる
と同時に教養を身につけ︑文化の担い手になろうとする傾向を著し
(4)
く帯び始めていたのである︒この時代の精神はもはや社会を階級へ
厳格に分割することを容認しなかったし︑現代にまで一定のイメー
ジを与え続けている︑いわゆる﹁ドイツ的市民性L と名づけられる
市民の日常生活の型が定着したのは︑ほぽこの頃である︒スタール
夫^の^名な﹁ドイツ^洲L は^九^^に^かれたものだが︑これに
紹介される市民的共同体では︑だからすでに前世紀に形成されていた社交界が成熟の段階に入り、その世界特有の感覚や常識が根をおろしていたのであって、そこで生きてゆくためにはある程度それを身につけなけれぱならなかった。そこで道徳を実生活の知恵と結びつけたものと言える『交際法』は、様々の気質、年齢、地位、職業の人との、あるいは親と子との、恋人、友人たちとの、果ては動物との交き合い方まで扱ってある便利な書物となったのであろう。そのことは本書が十九世紀には学校の教科書として用いられることの多かった事実からも想像される。しかしこれから社会に参加しようとする世代に実際的に有用であったぱかりでなく、そこに述べられている様々な教訓と知恵が、経験を積んだ世代にも興味深かったのが人気の理由だったのではないだろうか。
とはいえこの評判と並行して、啓明会への攻撃が︑かっての指導
者層に属する人物としてピロの名を浮かび上がらせ︑その人物を追
跡し︑特定する動きを強めていた︒そこでこの頃彼は『ピロの最終
(5)
的な官亙口﹄という題で︑むろん実名を明かすことなく︑自分の立場
を解説する長文をも公刊している︒しかし啓明会という結社の全体
像については自分の役割ではなく、ヴァイスハウプトの任務だとの認識を持っていたらしい。そうして持病の結石が少しづつ悪化し始めたのに悩みながら、教育問題に関心を抱き、演劇雑誌を出版したりもしている。
そこへフランス革命が起こったのである︒パリの住民が熱狂的な激しさで政府の暴力施設を襲撃して︑彼ら独自の機構を作ろうとす
る動きを見せつつぁり︑それがまた︑またたくまにフランスの各地
方にも伝染したという衝撃的なニユースが︑電撃のようにヨーロッ
パ中に伝わる︒それにょって特に隣国ドイツは震掘した︒数多くの
知識人が︑ドイツにも間もなく波動が伝わって来て︑共震すると期
待したことが知られている︒ Gフォルスター︑ヘルダーリン︑クロッ
プシユトックやシラーは固唾を飲んで︑この国家転覆の経過を見
守った︒クニッゲもむろん深い関心を以てフランスに目を凝らした︒
しかし今多くの人間が浸っている自由の陶酔に彼は巻き込まれはし
なかった︒彼の照準は民衆の熱狂に合わされてはいなかった︒彼に
はもっぱら革命にょって普遍的な啓蒙への道が開けたか︑人間性を
陶冶する法治立憲国家が打ち建てられるか︑という問いだけが重要
だったのだ︒彼の政治的思考の基軸は︑﹁社会契約L にょって方向づ
けられていたから︑信仰と思想の自由だけでは満足出来なかったし︑
それでいて同時に懐疑的でもあった︒すでにこの頃彼は︑小説﹃哀
れなミルデンプルクの人々﹄で﹁ただ旧いものの破壊だけを念頭に置いているあの人たちは︑すべて半世紀経たぬうちにかなりの国々で、かつて独裁者や寡頭政治家たちが民衆の間に惹き起こしたのよ
(6)
りも︑もっと大きな不幸を惹き起こすだろう︒﹂と予一言しているのである。
『交際法』初版の出版は一七八八年で、第二版も内容に変化はないのだが、一七九〇年の最終版となる第三版では、恐らく革命に影響されて、「君候との交際」の章が拡張されている。元来、貴族と金持ちに対する厳しい批判色が基調であるのに、更に彼は「君候が忘れてはならないことは」と書く、「我々の財産と存在は、彼らの所有物ではなくて、彼らの所有している全てが我々の所有物なのである、ということである。何故なら我々はその代りに、彼ら全ての需要を満たし、更にその上に位階、名誉と安全を与え、楽団員に給与を支払ってやっているからである。この啓蒙の時代に、間もなく、たった一人の、ひょっとすると全国民の中で最も弱いかも知れない人間が相続権を主張出来ると信ずる人間はもう全然いなくなるだろう。… (『交際法』 三・一・一) 相当過激な発言だが、こういうことが言えるようになった時代でもあった。
(7)
それから間もなく彼はブレーメンに現代の検事に相当する職を与
えられ︑赴任することになる︒一七九0年の十一且すでに病気が
かなり進行して︑しぱしば発熱に悩まされている︒そしてフランス
非革命の過熱化につれてその余波を恐れる一団が啓明会員の追跡︑
難中傷の動きを一層強化しつつぁった︒特に革命がジャコバニス︑\
ノ
トのテロ体制へと変谷し︑しかもそれが国境を越えて来そうな気配
を呈すると︑各国の体制派は動揺を来して︑うさんくさい存在を血
祭りにあげ︑伝染を食い止めようと企ったのである︒中でもウィー
ン大学教授のアロイス・ホフマンは︑かつてモーツァルトも訪ねた
ことのあるロッジ﹁恩恵﹂のマイスターだったこともあるのにかか
わらず︑今や急進的な反フリーメーソンに変貌し︑﹁ウィーン雑誌﹂
の編集長の立場を利用して︑メイソンがもたらすヨーロッパの危機
的状況を狂信的に説いた︒そして同じ図書館長のホーフシユテッ
ター︑作家のハシユカと共に︑かねてからクニッゲを面白からず思っ\
ノ
ているハノーファーの{呂廷侍医のヨーハン・Gチンマーマンをけし
かけて︑啓明会がフランス革命の精神的点火剤の役割を果たしたの
だと叫ばせたのである︒革命を動かしているミラボー︑ロベスピエー
ル︑ミユラー︑シエース等が属している一ゆmNヨ一m門か仁ヨmというロッ
ジは︑ヴァイスハウプトの抱懐する国際的テロリズムにょって煽ら
れて行動を起こしたのだとして︑その仲介に立っていたのが︑先に
^を^げたボーデだという︒だから^^はオーストリアにいる^ら
の仲間を速やかに排除すべきだと主張した︒
一七八九年のパリには︑三百五十箇所を越えるロッジが存在して、この指摘通り、ジャコバン党員の中に多くのメーソン会員がいた。そしてフランス革命に思想的基盤を提供したディドロ、ダランベール、ヴォルテール、あるいはモンテスキユー等の啓蒙思想家の多くがフリーメーソンであったことも事実である。こうした啓蒙思想は理論的フリーメーソンの思想に極めて近かったのである。しかしこの革命を一七八九年から一八〇四年まで十五年間続くと考えると、その初期に活躍したミラボー、ラファイエット、オルレアン公という三人の有名なメーソン会員の行動は、いずれも絶対王政は打倒するが、立憲王政を目指していて、後期の過激な恐怖政治には参加せず、この段階に入ると、ジャコバニズムから離れて行く。(8) そして啓明会とジャコバニズムは、なるほど共に完全者による自律という無政府主義を説く点では共通しているのだが、ヴァイスハウプトとクニッゲは無論、恐怖政治、あるいは流血騒動によるこの夢の達成など考えてもいなかったから、チンマーマンの非難は全くの中傷に過ぎない。シラーやゲーテのドイツ古典期の代表者たちが政治変革ではなく、道徳的教養によってのみ人間社会は前進すると考えていたのはよく知られ、それを後に青年ドイツ派の作家たちによって痛烈に批判されることになるのだが、(9) クニッゲらもほぽこれと同じ方向を辿っていた。先にクニッゲがフリードリッヒ大王に大きな期待をかけていたことを述べたが、彼らは、領邦諸国の為政者たちは、これまでに行って来ている上からの啓蒙運動を続ければよいのだ、ドイツには革命は不要であって、漸進的改良が適切である、という見解に達していたようである。
しかし先にも述べたように、明確な思想体系を持たない他のフリーメーソンの組織と異なって︑その目的と理想のはっきりとして
いたことが啓明会を特異な存在とし︑また社会的な影響を及ぽして︑
{谷易に攻撃の手掛かりを与えたことは間違いない︒彼らの唱える千
年王国論的ユートピアに敵対する存在としての既成のキリスト教及び僧侶と結びついた君主の
テオクラテイ
神政制との想定が、まず攻撃の対象となる。ヴァイスハウプトの著書によると、歴史の幼年期では人間は自由で幸福であるが、少年期に入ると物質的必要性、つまり欲望から人間的組織が生まれ、国家が成立する。それはもう「自由の墓場」であり、「独裁のゆり篭」である。しかしこの不自由の中で喪失した理想への憧れが強まり、そういう現状について十分啓蒙されることによって理性的認識に至って、必要性から解放されつつ自由が回復する。これが成人期である。ここで人間はより完全な段階へと上昇し、人類として救済されることになるのだが、その時地上には君主も民族もない。各人はキリストの弟子のように自由で、平和である。ここで信仰と理性は融合する、というのである。(10)
つまり一種の歴史哲学が展開されていて、現実論ではないのだが、為政者には存在が否定される危険思想と見える。今や国中にスパイがいて︑窺っているかのような雰囲気になっていた︒チンマーマン
の暗躍に乗って︑ハノーファーでは士官たちがクニッゲを非難し始\
ノ
め︑内閣までもがうさん臭い目を向け始めた︒特に﹃ヨーゼフ・フォン・ヴルムブラントの政治的信条告白﹄に不穏当な箇所があると騒
ぎ立てた︒もちろんクニッゲとしても沈黙しているわけにはゆかず︑
雑誌などで︑フランス革命を啓蒙主義者が惹き起こしたと考えるのは間違いであり︑従って君主は啓蒙の方向を進めなけれぱならない
と論陣を張った︒しかし事態は悪化するばかりで︑特に一七九二年
に入って︑パリーにおける九月の大虐殺は︑人々をヒステリックに
興揚させた︒ホフマンたちは︑あの秘密結社はフランスに点火して
から︑今度はドイツでも同様の状態を画策し︑準備中だと煽り立て
た︒クニッゲにとってホフマンやチンマーマンは何でもなかったが︑
彼の鴛者までもがその煽動に乗って信じ始める傾向が出て来たの
で︑手を打たないではおれなかった︒しかしもう彼の健康状態はか
なり悪化していた︒そういう状態で小説を書ミあるいはマニフエ
ストを執筆して︑自分の立場を弁護しなければならなかったのである。
その間にフランス軍はラインラントに進駐して来て︑ハノーファーやブレーメンでは︑追い詰められた空気の中で︑生け贄をあ
ぶり出そうとする気配が濃厚となる︒ウィーン警察に至っては︑偽
の書簡をクニッゲに当てて︑その返事によってウィーンの同志の所
在を探ろうとすら試みたのである。そこで次第に逮捕の気分が高まってくる中で︑熱に浮かされながらもクニッゲは執筆を止めな
った。そして遂に幸か不幸か逮捕の直前でその死を迎えたのである。一七九六年五月、時に四十三才の若さであった。
以上の紹介は、フリーメーソンとの関わりに少々比重を置き過ぎたきらいがあるかもしれない。クニッゲの名を不朽のものとした『交際法』の成立には、何といっても、まず彼をフリーメーソンの秘儀へと駆り立てた衝迫が、つまり啓蒙の精神、理想主義が決定的な役割を演じている事実の強調に本論の意図があったからである。しかしその代り他の面がかなり犠牲にならざるを得なかった。例えぱ彼の生活は楽ではなく、苦しい家計を主として著作物が助けたのだが、本論では若干しか触れることが出来ず、生存中はむしろ作家としての名の方が高かった事実が明瞭ではなかったかも知れない。G.ユーディングにょれば︑﹁^が^みなかったジャンルはない︒^期に一旦る
文通及び時事評論活動と並んで︑ドラマ︑詩︑及び大部の長編小
説︑経済及び通俗哲学的需︑宗教的教説︑風刺︑音楽需並びに
(H)
旅磊﹂と広範囲な文筆活動を行っている︒しかし今それらを挙げ
るのは余り意味があるとも思われないので︑﹃ペーター・クラウゼン
物語三巻﹄(一七八五)︑書簡体の﹃我が生涯の長編四巻﹄(一七八
一)︑風刺的で皮肉な作品﹃ブラウンシユヴァイクへの旅路﹄(一七
九二)の名に留めておこう︒全体的に文体はヴィーラントの影を色
濃く帯びていて、J.J.ルソー、あるいはスターン︑フィールディングからモチーフとかテーマ設定の上で影響を受けていると一言われる。
その中で唯一後世に有名になった『交際法』は、唐突にクニッゲの手から生まれたのではなくて、こういう、いわゆる処世哲学の書
には、その低流があった。文化史家のブルックハルトが︑﹃イタリア .
ルネッサンスの文化﹄の中で激賞するカスティリオーネの﹃宮廷人﹄
(1)
倉ら又冨曾0巨伽)以来の︑一っの伝統的な流れが形成されてい
て︑本論の冒頭に挙げたバルタザール・グラシアンの﹃神託提要﹄
(0益0三oaN言巴︑てN二Φヤ益仙含含N一鴛)もその一っと言えよう
し︑﹃一父際法﹄もこの流れに乗っていると考えられる︒ただユーディ
ングが﹁ドイツの貴族教育は十七世紀の初め以来ーロマンス圏の宮
廷文学の最初の翻訳は十六世紀の終りに出現する1 ﹃宮廷人﹄の宮
(悲
廷的教養理想なしには考えられない︒しと一言っているように︑こうい
パイヂイア
う教養を意図する書は︑本来全ヨーロッパ的な規模で︑一つの社
会層即ち貴族上流階級に向けられたものだった︒だがクニッゲ
の生きた十八^^は︑先にもフランス革^叩に^れた所で強調したよ
うに︑ドイツのみならず︑ほぽ汎ヨーロッパ的に市民層の非常に興
隆して来た時代である︒例えば︑先にクニッゲの﹁楽団員に給与を
支払っている:・﹂との言葉を引用したが︑後に音楽の国といわれる
ようになるドイツで︑それまで宮廷貴族︑あるいは教会に依存することにょって生活していた音学家たちが自由職業者となって︑芸
山陰地域研究(伝統文化)第ご喜 五一九九六年三月
〔10幻
森鵬外研究アードルフ・フォン・クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Π
術は芸術家の心の表現であり︑個性の具象化であると意識し始めた
のがこの頃である。だから『交際法』が版を重ねたということは、この層の受容を意味する。クニッゲ自身も初版の序文でこう言って
いる。「本書の対象は非常に重要だと思われる。そして私の誤りでなければ、こういう独自の作品であらゆる階級の人間との交際のための決まりを与えようという考えは、まだ新しいのである。」(『交際法』序文) 彼は、新しい時代を担う社会階層の存在を明確に認識していた。そしてこのいわゆる中産階級、市民階級の向上意欲に伝統的な形態で社交の常識を伝える作業が、新しく、意義深い企てであることを充分に自覚していたのである。ただ彼はこの市民意識を一挙に革命にまで高めようとは決して思っていなかったことは、先にも述べた。彼の自覚はあくまで漸進的に社会改良し、有用であることに留まり、それへの希望表明が『交際法』であったと言えよう。
本書は何しろ︑著者の経験に基く一種の人生哲学であるから︑現
代でも実際の役に立っ教訓を多大に含んでいる︒ただそれを大真面
目に受け取るには︑現代人の心理はやや屈折して︑気恥ずかしい思
いになるかも知れない︒それよりもむしろ︑現代人の目から見る本
(U)
書の面白さは︑ピットロフの言うように︑作者の経験を通して時代
の世相が反映されていることにあるだろう︒例えば第二部第十章第
︑
二項は﹁旅行中の態度についてしであるが︑﹁ドイツでは金の両替の際に非常に沢山の鋳貨があるから︑他の国々を旅行する場合よりももっと注意しなければならない︒そしてその際悪質な宿の主人が外国人を胴したり︑金と引替に次の宿泊所ではもう必要でない貨幣を渡したりするのは︑ごく普通のことだ︒﹂(﹃交際法﹄二・十二・二)
などという叙述があって︑十八世紀のドイツの分裂した国情と旅の様子を枋佛とさせる︒
だが鷗外はこの書をどのように見たのだろうか。小ノくとも^相の
反映を主眼に見たわけではあるまい︒むしろその頃すでに出版百十
数年を経て古典的な評価を得ていたのにもかかわらず︑その年輪の
差を感じることなく︑現代的な︑当時の日本の世相に適合し︑必要
な書物という印象を抱いたのではあるまいか。『智恵袋』が時事信報に連載され︑﹃心頭語﹄が二六新報に掲載されたのは明治三十年代の九S十・五︑明三三・ニ・-S三四・ニ八初めだが(明三一 . . .
八)その頃は日本が近代化に足を踏み入れ︑西洋から息せききって
文化を輸入し続けて来て︑いわばほっと一息ついた︑あるいは振り
返ってみる気になった時期だったのである︒鴎外自身にそういう雰
囲気を伝える発言が幾っかあっく例えぱ明治三十五年の講演﹃洋
学の盛衰を論ず﹄で︑﹁すでにして︑この模倣崇拝はやうやく陳套に
帰し︑予の見る所をもってすれば︑今や許多の朕兆の洋学の衰替
を証するに似たるものあるなり︒﹂と西洋化抑制の気配の見えることを注意している。彼は「洋行帰りの保守主義者」(15)を自認しながら、日本はまだまだ西洋から多くを学ばねばならぬと考えていた。だから鷗外はここで西洋人をモデルとする近代人としてのあり方、その社会的存在の自覚に注意の目を向けるよう促すために『交際法』の翻案を思いついたのではないか。つまり国民的啓蒙の思想が丁度その頃の日本に相応しいと思われたのであろう。その際本書を根底から支えているクニッゲの人間への深い信頼、教育の可能性への自信が彼をとらえたのに違いない。
しかしこういう時代の空気への懸念に発する一種の使命感の前に、凡そ一世紀も前の人生案内書のようなものを︑鴎外に取り上げる気
にさせた個人的な動機が︑あるいは惹きつけられた理由が無論考え
られる︒つまり自己の内面がそこに重なって写るような︑互いに響
き合うものがありはしなかったか。その生涯からすでに推察されるように原作者のクニッゲをこの書の執筆へと促したのは、恐らく宮廷生活で一度大きな成功をかち得ながら、能力ではなく、人間関係での失敗によって挫折した苦渋であったし、また啓明会での軋轢であったのは、まず疑いようのないところである。そこでその翻案の執筆とほぽ同時期に高級官吏の世界で小倉左遷を体験している鷗外の人間観に、時代を越えて響鳴させるものがあったとしても、怪しむに足りない。『交際法』の序文にある次のような言葉と同様な趣旨の一節が、『智恵袋』にも見出されるのだが、それは恐らくただの書き替えではない筈である。
「いや、私の言葉は、本当に善良な意志と実直な誠実さを、多方面への優れた素質と、この世の中を切り抜けて行こう、自他の幸福を築こうという熱心な努力と結びつけていながら、それでいてこの全てに認められず、無視され、何事にも到達出来ないでいる人たちにこそ向けられているのである。これは何に起因するのだろうか。これらの人々には欠けていて、真の長所があるわけでもないのに、この世界の幸福な階段を登って行く他の人々にはあるものは何か?―フランス人が「振る舞い方の才能(esprit de conduite)」と名づけるものがこの人々には欠けているのである。即ち、人との交際の技術が。(『交際法』序文)「また同じやうなる男の年
やゝた
稍長けたるが来りて︑われ功名の場に奔走すること既に久しけれど︑長上に用ひ
(だせいはい しの
られず儕輩に容れられず︑常に才おのれより下るもの︑ために凌が
た.)よ
る︑この事何に縁りてか匡し救はるべきと問ふことあらん︒わがこ
かたやひ あらい よ
の類の人に答ふるところは如何なるべきか︒能く頭角を顕はして︑
ねたしか へつらう毛
而も忌まれず妬まれず︑能く人の意を承けて︑而も曲げず謨はざら
たやす
んは︑まことに{谷易からぬ事にて︑・・:・・」(『智恵袋』序言)
それにしても時代の違いのみならず︑国民性とか風俗習慣のどうにもならぬ相違があるし︑あるいはまた対象領域にょって作者自身
の個人的関心の相違などがあるに違いない︒例えぱ先に挙げた旅行
の際の忠告など︑これは取り上げられてはいないのだが︑仮に利用
されたとしても︑日本では全く意味がない︒だから鴎外が翻案とい
う方法で︑幾つかの主題に関して大幅に日本的な内容に変容を行っ
たのは賢明であった︒
さてそうなると、『交際法』と﹃智恵袋﹄﹃心頭証的﹄との比較に移
(玲)
るのが自然であろうが︑小堀氏も指摘しているように︑﹃交際法﹄
の原文はそれぞれかなりの長さであるのに対して︑﹃智恵袋﹄﹃心頭
五如﹄の方は︑全般に割合にかなり短く︑不揃いである︒あるいはまた必ずしも両者相対応し合う関係にはない。一箇条全部が鴎外の創作と考えられる場合もあって︑全体の並列対照という作業はスペー
スから不可能に近い︒だから講談社の注釈本に付されている﹃交際
法﹄と﹃智恵袋﹄及び﹃心頭語﹄との題目対照表︑あるいは内容対
照表の程度で満足する他あるまい︒ここでは屋上屋を架すのを承知
で︑﹃六X際法﹄の内{谷を標題にょって一括しておく︒テキストはイン
ゼル社版である︒全体は三部に分かれる︒
山陰地域研究(伝統文化)第τ喜
ほんモう
一九九六年三月
こネ
七
〔100〕
森鵬外研究アードルフ・フォン・クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Π
第三版への序文(一七九0年一月)
最初の両版への序文(一七八八年一月)
部第一
前置き
第一章
第二章
第三章
四項目
人との交際についての一般的所見と規則六十三項目
自分自身との交際について九項目
精神と心情の様々な傾向︑気質と気分の人々との交際に
ついて二十九項目
第二部
前置き
第三早様々な年齢の人々の間での系について七項目
第二章両親子供と親族の間での藤について四項目
第三章夫婦間の交際について二十二項目
第四章恋人との︑及怠人間の交際について八項目
第五章婦人との交際について二十一項目
第六章友人間の交際について二十二項目
第七章主従間の関係について十項目
第八章家主︑隣人及び同じ家屋に住む人たちに対する態度五
項目
第九章主人と客との間の関係について四項目
第十章恩恵を施す人と受ける人︑並びに先生と生徒及び債権者
と債務者との間の関係について六項目
第十豆早種々の特殊な境遇と状況にある人々に対する態度につ
いて四項目
第十二章人間生活における種々の出来事に際しての態度につい
て六項目
水内透
第三部
前置き
第一章現世の偉人︑君候'貝人及び金持との交際について二
十二項目
第二章低い身分の人々との交際について九項目
第三章宮廷人及びそれに等しい身分の人たちとの交際について
十四項目
第四章聖職者との壽について三項目
第五章学者と芸術家との交際について十一項目
第六章市民生活における様々な身分の人々との交際について
九項目
第七章様々な生き方と生業の人々との交際について四項目
第八章 秘密結社とその会員との交際について 三項目
第九章動物との交合い方について六項目
第十章作家と読者の間の関係について四項目
第十豆早結び
このうちの第二部第三章第一項までが『智恵袋』にほぽ対応し、第二項以下、第三部第一章第十五項までがほぼ『心頭語』に対応する。『交際法』を底本として自由に訳出しているということになるだろうか。自由といっても、原典に話題とか発想素材について示唆を受けたという程でもない。むろん箇所によってかなり異なるのだが、もっと近い関係にあると言える。ここで一つの例を出して︑比較してみよう。
「もし何かうまくゆかないことがあり︑心労とか災難を抱え︑欠乏に悩み︑分別︑知恵も善意も役に立たないような時に︑その悩み
や弱点を助けてくれる人にこぽしてはならない︒誠実な妻に対して
すらしてはならない︒支えてくれる人はほとんどないものだ︒ほと
んど全ての人は荷を重くするだけだ︒大抵の人は︑君には幸運が微
笑みかけてはいない︑と見てとるや︑一歩後ずさりするものだ︒し
かしその上︑君に全く援助の資金がないということ︑密かに保護し
てくれるものがいないということ︑君の世話をする人が誰もいない
ということを認識すると1辛いことだが︑誰も当てにしてはならな
世の中全ての人々に見捨てられた人間の支えになるために唯一)0
し
人で︑し・つかと足を踏みしめ︑公然と歩み出る勇気を持っている者
がどこにいよう?﹁私はあの男をよく知っている︒あの男は私の友
人だ︒あの男は︑彼を瑚笑する君たち全てょりも優れている︒﹂と言
う勇気を誰が持っていよう?仮にそういう人を見出したとすると︑
そういう人は︑自分自身も憐れな人間であって、惨めな状況にあり、絶望から自分の運命を君の運命に結びつけようとしているのに過ぎないから、その保護は君に有用であるどころか、むしろ有害となろ
(﹃交際法﹄一・一・六)0
う ﹂
﹃智恵袋﹄の方を引用する︒
うれへ わぎはい なんじうー︑なんじしりよあた
﹁憂あり禍あり又足らざることありて︑汝が思慮の救ふこと能は
ず︑汝が意志の排すること能はざるときは︑決してそを人に告ぐる
なか いう
こと一昊れ︒親しき友も例外にあらず︑妻子も例外にあらず︒:::憂
くわ
禍不足は汝が肩の上なる重荷なり︒そを人に告げんとき︑汝に厚か
けいふけん
らざるものは︑そを分ち負ふことを敢てせず︒:::若し夫れ軽浮慢
tく うれひた.)
薄なるものは︑畜に汝が憂を分たざるのみならず︑汝が憂の影を見
やうやゆき>
て︑早く一歩を退くならん︒往来は漸く稀になり談話は漸く短くな
おもてま
るべし︒・・:・・汝の友は復た汝の名を知らざるべく汝の面を認めざる
しゆやく なほクリスト にはとり
べし︒基督のその主鎗の弟子に於けるすら猶云はずや︑今夜鶏鳴
なんじ こ)
かざる前に︑爾三たび我を知らずと言はんと︒爰に一事の忘るべか
こと と
らざるあり︑そはか︑る折特さらに汝を訪はんはいかなる人物なる
べきかといふことなり︒:::次にくさぐの下客あらん︒社会に棄
でいねい
てらる︑こと汝より甚しく︑身を泥淳の底に没すること汝より深き
しりぞよ と力く
もの\善き友得つとて来るは︑兎角実情より出づるなれば︑斥く
きくわ
べからざるに似たれど︑心せよや︑:::またこの時汝を奇貨として
きずつ
来るものあらん︒そは悪徳新聞などのいたく汝を傷けんとき︑無頼
ともがら てう
の徒の来り弔せんが如し︒こ︑に下客中の下客あり︑その性極めて
げんぞく はんもん さまま く
狠毒にして︑目のあたり汝が煩悶せる状を見んとて来るなり︒この
たやひ
類の人はあまり多くはあらねど︑また甚だ稀なるにもあらず︒我が
まじは うち
交る人の中にもこれに似たるあり︒相見れば必ず汝の顔色の悪しき
まれ
ことよと云ひ︑汝の評判好からずと云ふ︒その足跡の稀に我庭に至
わぎはひあ しかすなはかへりみ こ
りしときを顧れば︑即ち是れ我が禍に遭へるときなり︒而も我はい
よろこぴ
つもその面に喜の色ありしを記憶するなり︒﹂(﹃智恵袋﹄六独り負
ふべき荷)
原文より長くなっている数少い場合の一つで︑比較してみると︑
敷衍していることが分かる︒原文はおよそ直線的に論理を展開して
いるのに対して︑キリストの場合を例に持ち出したり︑あるいは﹁悪
徳新聞などのいたく汝を傷けんとき︑無頼の徒の来り・・:・・しと具体
山監域研究(伝統文化)第ご喜
モ
九一九九六年三月
四幻
森鴎外研究アードルフ・フォン・クニッゲー森鵬外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱ
的なイメージで分かりやすく強調している︒箇所にょってかなり扱
い方が異なる場合もあるが︑両者の関係が上の例である程度は推測
がつくであろう︒
つまり文自体は古風ながら︑分かり易さを心懸けているのである︒
だから原文で日本人には一般に馴染みのない実例の引用があれば︑
なるべく東洋的イメージに変えている︒例えば第豆早第一項で皇帝
モうしん りう
ヨーゼフ及びカウニッツ候が挙げられているところでは︑﹁宗臣が劉
いつぢやう
一丈に報いる声(﹃智恵袋﹄一自ら定むる値)に置き換えられて
いるし︑同章第二項では標題がすでに﹁みせかけ命今含=)L となっ
ているのを﹁金箔﹂(﹃智恵袋﹄二)とするなど︑巧みな比喩に置き
換えられているだけでなく︑原文にはない幕府行事年代記の﹁玉露
叢﹂からの詳細な引用がされているので︑全体が約二倍の長さになっ
てしる
こういう実例を鵬外自身の経験で補うことがある︒﹃智恵袋﹄第二
かつはじめモれがし
十四節の「寡言の得失」に「われ嘗て始て某大臣に引見せられしこ
とあり……」で始まる某大臣とは山県有朋ではないかと推察される。山県有朋は『舞姫』に登場する天方伯のモデルらしいことで知られるが、鷗外が彼に実際に会ったのは、山県が洋行から帰って来た明治二十二年の末ぐらいらしい。
しかし鷗外の経験といえば何といっても、クニッゲの第二部第三章﹁夫婦間の交際について﹂に相当する﹁百十六つまさだめ﹂に
始まる夫婦間の問題に濃厚に表れていると想像される︒実はこれで
﹃智恵^﹄は終り︑その後から﹃心頭甑中﹄が始まって︑この話^は
そのまま続くのだが︑それはともかく︑鴎外にとって︑この主題は
他よりも比重が大きかったのではないだろうか︒特に第百三十三節
は離婚と題されて︑これには赤松登志子との破局が投影されている
と推察される︒そこでは︑日本社会の慣習では︑夫婦間に不和が生
おほよこれら
ずると媒酌人に訴えるのが常だが︑﹁凡そ此等の問題は夫婦の自ら
ようカモ
決すべき所なり︒﹂と断定し︑﹁断じて他人の容碌を許すべからず︒
か
その夫婦間にて決すべからざるものは唯だ法律の力を藷りて決せん
やぶ かくいやしく を
のみ︒萄も今の社会に処りて名誉を築らざらんと欲するものは︑此
のごとくならざることを得ず︒︑と結ぶ︒この結論は︑鵬外自身が登
志子との間に取った方法そのものであって︑だからその信念に基い
て書いたように見えるのだが︑これが意外なことに︑原典と非常に
趣旨がよく似ているのである︒﹁一般に夫婦間の不和は︑すべてただ
当事者の間で決せられるべきである︒そして危機が白亟局に達したら︑
国の然るべき役所で決せよ︒すべてその間に入る審議は全く無用で
ある︒他人の調停者とか︑悩める者の相談者は事態をますます酷く
する︒﹂(﹃交際法﹄二・三・二十)先に鴎外が﹃交際法﹄を取り上げ
る気になったのは︑自己の内面と重なり合い︑響き合うところがあっ
たからではないか︑と述べたことは︑例えぱこういう箇所で裏圭白き
されよう︒ただこの^^問^は︑クニッゲにはその^^がないだけ
に︑人生における重みが異なっていたと思われる︒
鴎外が自分の経験を語ったもの︑あるいは彼自身の創作になる箇
所は︑他にも幾つかあるが︑特にこの夫婦間の︑あるいは男女間の
在り方が︑当時まだ先進諸国と大きく異なっていたから︑強く彼の
関心を惹いたらしい︒百三十七節から始まる﹁恋愛﹂に相応する部
分はクニッゲにはなく︑ほぽ完全に日本と西洋との比較^討になっ
水内透 -0
〔97〕
ているからである二然らぱ今の東西の俗よりして言ふときは︑恋愛
とくぎ
は^に^りて^^たり︑^に^りて^^たりと一^はんも︑また^^
なることなきにあらずや︒L(﹃心頭証如﹄百三十七)と述べて︑恋愛が
日本では罪悪であるのに対し︑西洋では美徳と義に適った行為だと
へいしゆくぜん
正反対であることを率直に定義している︒あるいは﹁並宿前の恋愛
の西洋に在りては徳義たるが如く︑我国に在りては罪悪たるが如き
をば︑既に説きたり︒今その反面を観察せんに︑並宿前の恋愛なく
とうしよ
して︑頭初より並宿するは︑我国に在りては徳義たること︑これを
こんUやく ちよう
今昔の両家の婚姻に徴して明かなるべく︑その西洋に在りては罪悪
たること︑少しく彼の風俗に通ずるもの>皆知るところなるべし︒
せんあいこうこん せんこんこうあい
宅もく西洋先愛後婚の俗は開明の俗にして︑東洋先婚後愛の
けんがう雌じやく はいき
俗は野蛮の俗なるか︒彼の俗儒弱にして排棄すべく︑我の俗健剛に
よろ
して保存すべきか︒現行の少年男女の教育は我俗を保存するに宜し
はた いうき ゆえん
きものなるか︒将彼の俗に従はざるべからざる風潮を誘起する所以
のものなるか︒﹂(﹃心頭語﹄百三十九)と︑まず愛し合った後に結婚
に至るという風習が進歩的なのか︑あるいは最初に結婚して後に愛
が始まるという東洋の風習が野蛮なのか︑と問うている︒この問い
は現在でも時として投げかけられる疑問だが︑その当時︑この問題
提起は非常に新しかったのではないか︒
恋愛がその頃このように性格づけられていたのは︑むろん女性の社会的地位が西洋に較べて日本では低かったからである︒だから
上記の夫婦間の交際に続く︑女性との交際の節も︑結局︑被我の差
の解説から︑鴎外の独創がほとんどとなる︒本来ならクニッゲの原
文の第二部第五章がこれに相応するのだが︑その第二項の冒頭にこ
んな言葉がある︒﹁青年の教養の仕上げには︑貞節で教養ある女性た
ちとの交合いに勝るものはない︒この過程のうちに穏やかな色調に
よってその気質が染められるし︑粗削りな硬さが柔和で︑繊細な性
向にょってほどよく柔らげられる:::﹂(﹃交際法﹄二・五・二)こ
の発言は︑ヨーロッパの中世宮廷時代以来の︑あるいは考え方にょっ
ては︑それより以前からの伝統を踏まえている︒中世騎士時代の文
学には︑若く︑猛々しい騎士が︑年齢的にも身分的にも上の婦人に
恋をし︑精神的に高められるミンネのモチーフがよく描かれる︒こ
の風習が古典的な伝統として賛美されているのである︒
ところが恋愛は不義であり︑卑しいものと考えられていて︑精神
を高揚させるという発想など凡そ有り得なかった我が国では︑上記
のクニッゲの引用のような内容は︑仮に言葉通り訳したとしても恐
らく奇異にしか響かなかったに違いない︒そこで鴎外の解説は︑ク
ニッゲとは趣旨がかなりずれたものとなる︒日本の上流社会の人物
に︑性格は剛毅だが︑人当たりは柔らかいという真の紳士らしい人
すなはかう
物が一人もいないのは何故か︑という問いを前提にして︑﹁乃ち高
かしやう
尚なる社交の閥けたるが為めなることなからんや︒一局尚なる社交は
はじめ
高尚なる女性の分子を得て始て成立し︑少壮紳士の最後の教育は此
まこと
の如き社交を得て始て終結すと︒われは此の説の信なるや否やを知
らず︒﹂(﹃心頭語﹄百四十一)我国の上流の紳士に女性との高尚な交
際がないから︑粗野で︑行儀が悪いことは否定出来ないと一言いなが
ら︑本当かどうかは判らないが︑と注釈を入れて締め括ってるあた
り︑終りは余り歯切れがよくない︒この場貪仮に西洋風の習慣を
取り入れてみても︑今度はそもそもそれに相応する女性の存在が疑
三一九九六年三月山陰地域研究(伝統文化)第ご喜
〔96〕
クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱ森鴎外研究アードルフ フオン
問になるからであろう︒
それは次の節からもうかがえる︒百四十四節の﹁馬丁車夫L は︑
これも原典とはほとんど完全に︑と一言えるほど異なっているのだが︑
現代の我々から見ても興味深い事実が記されているのである︒﹁我国
ゆえら
上流の女子の自ら択むや︑俳優に之かざれば馬丁車夫に之く︑こは
よ
女子の同等の男子に交る機会を得ざるにも因るべし︒﹂(﹃心頭語﹄百
四十四)つまり日本の女性の男性評価の基準が︑現代風に言えぱ︑
肉体労働者か美男俳優しかない︑と嘆いて︑その原因が男性との交
際の機会の乏しいことにある︑と推察している︒今の我々から見る
と︑鴎外の偏見ではないかと思われるぐらい︑時代の差を感じさせ
るのだが︑考えてみると︑こういう現象はその後も長く続いて︑現
代ほど自由になったのはそれほど前ではないかも知れない︒
﹃交際法﹄と﹃智恵袋﹄乃至﹃心頭語﹄を比較対照して︑男女間
の在り方の解説に鵬外の特色が表れているとすると︑クニッゲの方は、先に述べたように、王候、貴人とかお大尽との交合い方の記述に表れている批判性の鋭さに特徴があるのだが、それに更に、非常に短くはあるが、秘密結社の章の存在を挙げておこう。つまりクニッゲがフリーメーソンという幻像を通して抱いた燃えるような理想主義は、本書がすでにそれへの失望の後に、理性のヴェールを通して抑制されたタッチで書かれたものであるだけに、鷗外にはかすかな残響としてしか聞こえなかったのではないかと思われるが、例えかすかでも、本来それを示唆するのがこの秘密結社の章であろう。だから、「今日ではあらゆる身分の人に、好奇心や行動欲、社交性、あるいは出しゃばり衝動に導かれて、ほんの短期間であっても、そのような秘密の親睦会の会員になったことのない人に会わない方が珍しい。それでもやっと、一方で役にも立たず、馬鹿げていて、他方で社会生活に危険な結合団体を捨てる時が来ているようだ。私は自分の経験を人に話せるだけ充分長く、この件に関わってきたから、時間を大切にしなければならない若い人に、その名称はどうであれ、何らかの秘密結社に受け入れてもらうことなどしないように忠告し
たい。こういう結社はみんな、もちろん程度の差はあるが例外なく無用であり、危険である。無用なのはまず第一に、現代に如何なる種類の教育も秘密のヴェールに包み込む必要はないからである。キリスト教は非常にすっきりしていて、満足出来る宗教だから、古代異教の民間宗教のように、秘密の解釈とか二重の解説などは必要としていない。……これに対して、まだ無知蒙眛が支配している国では、将来に期待しなければならない。そこでは決して急いではならない。もし中間段階を飛び越えようとすると、改善するどころか、かえって壊してしまうことがしばしばある。個々人が啓蒙の時期を早めようと努めても、何にもならないし、また出来もしない。…」(『交際法』三・八・一)と全体的には、なるほど先に挙げた『フリーメーソンの最新の歴史』と同じく、結社については手厳しい酷評を下しているのだが、それでいて「現代では如何なる教育も秘密のヴェールに包み込む必要はない。」と啓蒙への信頼は微塵も揺いではいない。ただ「決して急いではならない」と戒めているのは、自分の失敗についての反省から出た言葉であろうか。いずれにしても、あの結社への幼年期からの幻想は完全に消滅しているらしく、その後の文にも繰り返し「この流行の愚行」に関わりを持つな、と忠告している︒
ところで先に鴎外は﹃一父際法﹄を現代的と感じていたのではない
かと述べたが︑それにしてもその出版以来﹃智恵袋﹄までほぽ百年
も経過しているのだから︑社会的風習に関する地域的な相違に留ま
らず︑その当時すでにその間の時間的経過を感じさせる主題もあろ
う︒つまりさすがに一世紀前の西洋よりは︑現代の西洋化を目指し
つつぁる日本の現状の方が前進しているというケースである︒その
典型的な例が﹃智恵袋﹄の第二百十節の﹁旅﹂で︑旅行案内記とし
てドイツの﹁べヱデッケル﹂(現代ではべデカーと書く方が普通の︑
今なお有名な旅行案内書である)とか参謀本部地図など︑至って近
代的な利用具の名が挙げられている箇所である︒初めは﹃交際法﹄
とほぽ同趣旨となっていて︑旅への注意は洋の東西時代を問わぬ
ものかと思わせる︒﹁つまり町などを歩いている人よりもよい服装で
旅行をすると︑うさん臭い人間とか︑やま師とかに思われ︑:::粗
末な服を着ていると︑一遍歴中の職人のように屋根裏部屋とか汚い
けいせふかつ
ベッドに押し込まれる﹂(﹁交際法﹂二・十二・二)﹁曽て夏時軽捷を
たづさかふりりやうゆかた 生と
愛する故を以て︑一領の浴衣を纏ひ︑行李を携へずして東北に遊
えきりつね かうぶ ごりんせきまうふ しうあいた
ぶ︒駅吏毎に予をして彼の藺席毛布を被るものと伍せしむ︒臭桟堪
ネなネ
ふべからず︒:・:・旅装は又甚だ美ならざらんことを欲す︒白疋れ世に
さぎし
謂ふ詐欺師の徒に似んことを恐る︑なり︒﹂(﹃心頭語﹄二百十)と順
序は逆だが︑ただ外見からだけ人を判断する他人の目の勝手きまま
を嘆いている比喩は︑共通した発想に基いている︒ところが日本で
は明治も三十年代に入ると︑先のモダーンな旅行用具の登場が暗示
するように︑すでに鉄道時代に入り︑東海道線︑山陽線など幹線鉄
ご二
道にょる旅行は馴染みとなっていて︑駅馬車全盛期のクニッゲの時
代とは着眼点が異なってくるのは当然であろう︒
つまり﹃一父際法﹄の方では旅につきまとう苦労として︑駅馬車に
関する話題が大半を占めている︒﹁旅行中には︑相応しくないところ
で倹約をしてはならない︒例えぱ駅馬車の御者には︑過剰に渡すの
はよくないが︑状況次第で豊かにチップを与えるのがよい︒そうす
ると彼らは駅ごとに次から次へとその旨を伝えて︑そうなると車を
早く走らせて︑多くのメリットがあるというものだ︒ドイツの宿駅
長とか馬車組合の親方︑あるいは車夫は︑正真正銘の無頼漢だとの
評判である︒しかし何でも彼らとの交合い方次第なのだ︒ある種の
威厳を伴った真面目な態度とか︑適当な時に親しみの篭った言葉を
かけることが︑この人たちに何等の効果も発揮しないことなぞ︑滅
多にない︒﹂(﹁交際法﹂二・十二・二)そうして﹃心頭語﹄執筆の頃
には︑こういう話題はすでにもう時代遅れの筈であるのにもかかわ
らず︑鴎外の方がどうもこれに合わせている印象が強い︒﹁馬車ある
ひぽくこれ りよてん
地を行くには︑此に由るを利とす︒旅店の主人蝿僕等は人力車の便
ことへんぱいへピ
を説くと難も︑その言偏頗なるを常とす︒:・・・・しなどと馬車を勧め
ているからである︒だから︑当時この見解に従うことが賢明だった
かどうか︑は大いに疑問である︒他方でクニッゲが上記のように︑
駅馬車の従業員の態度をある程度の好意を以て記述しているのに対
いにしへくもすけ
して︑鴎外は﹁今の人力車夫は古の雲助の進化しそこねたるものな
さき痔やと よろ
り︒・・:・・車を雇ふには︑宣しく口を開くに先ちて一切の論理一切
あたひひりやうちなげう
の比量智を拠ち棄て\価を増すにも価を減ずるにも︑彼の偽の理
のぽか まこと
由に耳を借さず︑我の真の理由を口に上さゞるべし︒L(﹁心頭語L二
一九九六年三月山陰地域研究(伝統文化)第三号
四4〕
森鴎外研究アードルフ クニッゲー森鴎外の﹃智恵袋﹄との関連において1Ⅱフォン
百十)として︑車夫の人間性を徹底的に腎ない西洋人の態度を肯
定している意外な勧告が見出される︒旅行する機会の多かった鴎外
は︑その分だけ此の種の人間に憤激することが多かったのであろう
)0
力
西洋では重要な問題であっても︑現代の日本では通常それ程関心
を惹かないのが︑例えば宗教であるが︑当時でも恐らく︑紹介すれ
ば︑もの珍しさという価値はあったものの︑実用書を意図していた
本書にはそぐわない主題が﹁決闘﹂であろう︒鵬外が何故この凡そ
非^実的な^^を^リ^げる^になったのか︑^に原^<には^にこ
の主題を中心にした章がないだけに︑理由がはっきりしないのだが︑
や
本文の中の︑﹁然らば決闘は何故に息まざるか︒・・:・・その全く滅びん
ぷしかたぎ あかつきはさ
は︑中世の武士気質の夢の醒め果っる暁にあるべし︒国に常備兵あ
ようへい かぎり たやす
り天下に擁兵の太平あらん限は︑未だ容易く決闘の全滅を望むべか
らず︒﹂(﹁智恵袋﹂八十一﹁決闘﹂)という言葉から推察すると︑つ
まり国に職業軍人のシステムがあって平和が維持されている限り︑
騎士道的な武人精神の発現張である決闘の条件が存在する︑とい
う論旨からすると︑彼にとっては至極当然だったのかも知れない︒
ただしこの論拠の正当性は別問題で︑どうも怪しく思われる︒これ
に従うと︑軍隊の存在するところには︑すべて決闘の風習が存在す
ることになるからである︒あるいは日本の武士社会にこれに似た風
習があったという観点から取り上げたのだろうか︒いずれにしても︑
余り意味があるとも思えない︒
むろんクニッゲにも︑この語は登場してはいるのだが︑それは﹁喧
嘩好き﹂﹁好んで人と反対意見を提示する人L あるいは﹁怒りやすい
人﹂との関連において語られるのであって︑鴎外のように︑これを
主題とはしていない︒﹁最後に﹃難癖屋﹄と一言われている人たちは︑
意図的に個人的な喧嘩の機会を求めて︑臆病な人たちに︑少くとも
自分たちょりも臆病な人たちに対して一種の凱歌を挙げようとする︒
あるいは刃物の扱い方を心得ていると︑馬鹿げた決闘で誤った勇気
を誇示するのである︒L(﹃際法﹄第一部第三章第八項)そして決闘
はここでは︑徹頭徹尾否定的なイメージである︒
これに対して﹃智恵袋﹄では︑決闘が勇気の誇示に発すると見て
いる点では同じだが︑性格的な関連からの解説はなく︑社会的な啓
蒙度からの説明に終始しているのは︑立場が逆転している観があっ
かうしやうおもむ よ
て興味深い︒﹁国の風俗高尚に赴き民の自由完全に向ふときは︑能く
くわ︑
人をして決闘の快を忘れしむるに至るべきこと期すべからざるにあ
力かん あたた
らず︒唯だ奈何ともしがたきは︑今の時に方りて二人相争ひ︑必ず
ぽうじん よしとゞ
血を見て満足せんと云はゞ︑傍人これを禁むるに由なき事なり︒L
(﹃智恵袋﹄八十一﹁決闘﹂)小堀氏の現代票が﹁傍からこれを強
いて思いとどまらせるだけの^^がまだ^会の中にないのだ︒﹂(ド
イツ人の決闘観)となっているように︑世の中の人がもっと理性的
に物事を考えるようになれば︑この風習もなくなるだろうという︒
鵬外が何故この主題を取り上げたのかは不明だが︑その考え方の底
流にはクニッゲと同じ発想の存在への明白な示唆がある︒
このように対照させながら見て来ると、どうしても、『交際法』とのかなりの親縁性にもかかわらず、『智恵袋』あるいは『心頭語』に何故原作者の名が挙げられていなかったのか、という疑問に帰り着く。特に第八十七節に「クニッゲ(Knigge)のいはく、我に
オランダ
和蘭製の
しよかん
書翰紙
ひとをり
一折を乞はんよりは、其価に数十倍せる金銭を乞へと。」とその名を引用の下に、参照の事実を公開しているだけに、奇妙な感は否めない。そこで以上の比較検討から敢えて推定を試みれぱ、翻訳、あるいは翻案として原作者の名を付すには、自己の経験や見解が濃厚に出過ぎていることを懸念したのかも知れない。特に日本の読者への分かり易さ、当時の国情への適合性が強く念頭に置かれていたようだからである。しかしまた、この程度の俗流世間智の展開に、わざ/\先進国の先達の名を持ち出すのは、いかにも権威づけめかしているようで、気恥ずかしさを覚えたのかもしれない。あるいはまたこの程度の、といいながらそこには鴎外の日常性の真実が露呈され、本質がむき出しになっている部分があって、他人の名を付す気がしなかったのかも知れない。いずれにしても、これは恐らく鴎外にとって決してどうでもよい問題ではなかったのではないか。
注
(1)水内透「森鷗外研究 アードルフ・フォン・クニッゲ ―森鷗外の『智恵袋』との関連において― Ⅰ 山陰地域研究第十一号 平成七年五月 四頁
(2)如ゆて一益如 N兵=ゆ仁ゆm曾 0ゆmn=片ず一ゆ住ゆm 司﹃ゆてヨN三ゆ§ユゆ昂
ン仁m⑩ゆ審簡==ゆ乏円=ゆ如住.↓一づ Nゆ=出如獣=血曾.■Nn片ゆ一姦⑩円
ぐ円一N⑩一途一仂.一中一
(3)ヤゆ一円ズN巴ヨ映ン巨0一号剛昂一ず円﹃ぐ0=ズヨ鴇ゆ︑則ゆ如ゆ⑩=号⑩曾
具ゆヨΦ昌才含ゆ=工ゆヨ︑ぐ円一N暢ーン=m-N= da0三中中]仂.N一中
(4)マックス・フォン・ベーン﹁ドイツ十八世紀の文化と社会﹂
一九九六年三月 一五
三修社一九八四年三頁
(5)﹁豆om 含住一片ずΦ即三脇Z=的女=住ンヨ乏又一︑ン易兇審獣==Φ
乏ゆ牙ゆ則五.↓ N.円.0.︑如.N↓伽
(6)勺.ズミヨ如m.語
(7) 9円ず讐又昆言言ユmδ=0一理δずゆ戸 n{.﹁.ズNゆ区冒⑩め.N認
(8)ヤーコブ.カッツ︑大谷裕文訳,ユダヤ人とフリーメーソン﹂
三交社一九九五年四二六頁
(9)司二曾冨鍵ニヨ一ごゆ巨mnずゆ戸一一ゆ§異兇功nず片三Φ︑ズ§円一中認
m.獣一
(W)湯浅慎一﹁フリーメーソンリーその思想人物︑歴史﹂中公
新書八五頁
(Ⅱ) 0円ル dゆル沙四寸一ゆズ言m一区曾⑩ゆ仂ゆ一一mnケN才二nず含 W円巴,
mNヨ片ゆ一一,ZNδず冬0二讐ズ己器Φmご一m片民m︑︑dず曾ル含 dヨ鴇=⑩
ヨ一一冨含mδずゆ出*.一易巴一Nmnず含ず暑ずN謎︑一呉仂.心N中
(n)︺.則三nX冨区一一■一ゆズ仁=Eユ円えゆ§器習6Φ一==N一一含.叉門今円
一§ m.迭
(B) n.dゆ住冨仂.甑
(H)↓ずoaNmヤ一ヨ0{一ズヨ器ゆmン仁穿一等言⑩二ず円ル含dヨ⑩曾⑩ヨ一一
冨ゆ易n=含.三一ずΦ一ヨ剛一づ片ぐ曾語国曾n=曾一拐φ m.-N
(亜森鴎外﹁妄想L
(M)小堀桂一郎訳・解説﹁森鴎外の『智恵袋』L講談社学術文庫昭
和五五年四五0頁
山陰地域研究(伝統文化)第ご言ぢ
〔92〕
” ※着色は引用者
(「原作者の名が挙げられていなかったのか」について書いている箇所で、メイソンと元祖イルミナティという秘密結社についての言及がないのが不思議だな。メイソンと元祖イルミナティにおける重要人物だって論文執筆者は知っているのにね。元祖イルミナティの重鎮だった人の本を参考にしているって公言したら、自身の身が危ういと判断したってすぐに思いつきそうなんだけどな。
「そのことは本書が十九世紀には学校の教科書として用いられることの多かった事実からも想像される。」。教科書だった頃があるのはすごいな)
※明らかにちゃんとコピペされてない箇所があるが一部しか修正していない。
※引用元(論文)の誤字は原文のまま記した(訂正はしていない)
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティカード新発売してて草
こんなん買うよりヴァイスハウプトの著作かクニッゲの人間交際本買った方が100倍タメになるよ
https://amazon.co.jp/dp/4868010379
ベストラー1位? 高すぎだろ
amazon.co.jpから
午後9:08 · 2024年9月17日
·
3,341
件の表示
大体イルミナティによる予言やら予告を知りたいから買うという目的なら図書館行って初期のSFの名作らへん読めばいいだけね
450枚もあったら数枚はそりゃ当たるだろ
午後9:10 · 2024年9月17日
·
908
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
私はイルミナティ=アダムヴァイスハウプトは基本として
現代に復興したイルミナティ(魔術師+大東社のコラボ)を考える上ではオカルト結社とクニッゲで争ってた頃に囚われて考えない方が良いと思うよ
午前1:51 · 2024年9月2日
·
1,850
件の表示
ルソーのエミールの翻訳出版してた神智学の日本の代理人の三浦関造周りでも分かる話
日本の最も分かりやすい啓明会(イルミナティ)である下中弥三郎こそが神智学ニッポンロッジの元である竜王会の関係者だったのだから
竜王会設立の宣言的な幸福への招待への序文を書いたのは下中弥三郎ですよ
午前1:59 · 2024年9月2日
·
661
件の表示
平凡社から三浦の本が出ているし下中弥三郎の自宅は竜王会、神智学関係者の集会場として提供されている時もある
まぁそんな事を確認するまでもなくこのイルミナティこと啓明会も含めて当時の教育界を取りまとめていた人物=人権ロッジのアニーベサントの神智学協会なんだけどね
午前2:03 · 2024年9月2日
·
516
件の表示
ーーーー
どうしたら良いのかわからぬ人
@momo888bar
😂
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月4日
返信先: @uxskfさん
開会式・・・
画像
画像
午後11:44 · 2024年8月4日
·
171
件の表示
(上記に対して)
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティからの言葉を全然守ってないね
人を馬鹿にしてるし宗教も馬鹿にしてるし
クニッゲってイルミナティの創立者の右腕で何人もメンバー増やした超有能な人だよ
午後11:47 · 2024年8月4日
·
217
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
陰謀界隈の流行語大賞 イルミナティとかニューワールドオーダーもそうだけどね
イルミナティならヴァイスハウプトとかクニッゲ
ニューワールドオーダーならウェルズ
ちなみにどっちともしっかり本人の著作読んだりして語ってる人は見た記憶がない
午後6:06 · 2024年1月10日
·
2,156
件の表示
ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
別にイルミナティ=フクロウ🦉ってのは常識レベルのお話なんですけどね笑
フリーメイソンと混同してる人が多いのじゃないでしょうか
クニッゲはともかくアダムヴァイスハウプトも出てこないイルミナティ陰謀論もザラですよ
午後2:41 · 2023年11月14日
·
437
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
イルミナティの話とかやりたいならクニッゲとかヴァイスハウプトなんて基礎なのにヴァイスハウプトは訳分からん悪魔とかの情報しかヒットしないし
クニッゲに関しては イルミナティ クニッゲ で調べても陰謀論1ミリも関係ない一部の大学の論文しか出ませんからね
午後2:50 · 2023年11月14日
·
394
件の表示
ーーーー
ワクワクさんさんがリポスト
甲斐宗運act4 (早川 数秀)
@KazuNoSaru
どうせ、メーソン陰謀論語りたいなら、留学先のライデン大学に入会の記録紙が残ってる西周から説き起こせよ。即、軍医森鴎外と津和野亀井家が出てくるから。
さらに表示
午後2:38 · 2011年12月19日
ワクワクさん
@uxskf
西周がフリーメイソン
鴎外がクニッゲ
くさいなぁ
午前8:48 · 2023年11月13日
·
1,016
件の表示
[
鷗外って軍医に任官した後、1884年衛生学研究の目的でドイツに留学したので、ドイツ留学中にクニッゲ系つまり啓蒙主義系に入会したのかもしれない
]
人生飽きた勢
@DeQk7n
鴎外は成人した子供4人全員が父親について本を出版してるのが珍しい。
於菟→『父親としての森鷗外』
茉莉→『父の帽子』
杏奴→『晩年の父』
類→『鷗外の子供たち―あとに残されたものの記録』
明治時代に既にドイツに子供服の通販があって、それで娘に服買ったり、娘に激甘、息子には厳しかった。
午後5:07 · 2023年11月13日
·
246
件の表示
ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
http://conspiracyhistoryfacts.blogspot.com/search/label/Karl%20of%20Hesse-Kassel
ヘッセン関連だと外国のこのブログが結構面白い
珍しくヘッセンから薔薇十字ってのが書いてある
というかヘッセンと薔薇十字の繋がりの話って外国の本やブログ等でもほぼないからね
午後11:26 · 2023年12月8日
·
661
件の表示
[
”Kuudere-Kun
I'm a Christian with some unconventional beliefs, and I've become a huge Anime fan. On my blogs don't hesitate to leave comments on old posts.”
アニメキャラの画像は、スクールデイズという、真言立川流の南朝系作品の清浦刹那ってキャラ。
]
書いてるのが
キリスト教徒で、アニメの大ファンになりました。
って人なのでそこは要注意
他にもブーリン家にロックフェラー、チャーチル、ダイアナ、ダーウィン等々が繋がるとか色々あるよ
午後11:28 · 2023年12月8日
·
367
件の表示
http://conspiracyhistoryfacts.blogspot.com/2022/03/lutheran-aristocracy.html
結構頑張ってまとめてるのよねここら辺とか
イルミナティでもヘッセンのとこが割といる
この人もイルミナティ=バリュエルの流したデマではない、オカルト嫌い、クニッゲが黄金薔薇十字を叩いた とかは知ってるようだけど
ナチスのとこはかなり面白い
午後11:32 · 2023年12月8日
·
411
件の表示
http://conspiracyhistoryfacts.blogspot.com/search/label/Wilhelmsbad
イルミナティとロスチャイルドは無関係とまで書いとる
まぁ
型破りな信念を持つキリスト教徒なんだけどね笑
まぁスクールデイズ=南朝アピールは関係ないだろうけど
午後11:55 · 2023年12月8日
·
355
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
ちなみにプロイセン 黄金薔薇十字団の黒幕ヘッセン メタルレジスタンス
って言う薔薇十字団やイルミナティついてのサイトはくにっげの立ち位置がおかしい
午前9:30 · 2024年5月15日
·
1,934
件の表示
ヘッセンのオカルト薔薇十字団を批判する内容をクニッゲは書いてたりしているし間違いなくヘッセン側ではない
どちらかと言うとヘッセンの下についていたはずのロスチャイルドがクニッゲを通じてグラントリアン側に協力していた可能性の方が高い
午前9:36 · 2024年5月15日
·
606
件の表示
今現在ロスチャイルドがオカルト側だろうとイルミナティ側だろうとオカルトも啓蒙結社も協力関係だろうからそこまで変わらんと思うけど
午前9:39 · 2024年5月15日
·
529
件の表示
ーーー
ワクワクさん
@uxskf
ロスチャは結構危ない橋を渡ってたけどもしかしたらここクニッゲ経由の可能性もあるのよね
ヘッセンの宮廷でクニッゲが働いていたわけで(スパイ説もあるが)
そこ繋がりで大東社と繋がっていた可能性があるわけ クニッゲもヘッセン側(に見える)だったわけで
結果的にロスチャはラッキーだったけどね
午前11:35 · 2023年11月17日
·
871
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
ヘッセンにしろロスチャにしろイルミにしろ大東社にしろ
クニッゲの方が超重要なのがなぁ
ヴァイスハウプトもうちょい頑張れ
午後6:24 · 2023年11月17日
·
562
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
西周 ジョン万次郎 森鴎外
小沢一郎 Jロックフェラー クニッゲ
午後7:20 · 2023年11月3日
·
536
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
森鴎外、西周、大国隆正(平田篤胤門下)、福羽美静の出身地って時点で草
森鴎外はクニッゲとかイルミナティでも結構面白いとこ行ったのが不思議
午後8:33 · 2023年11月3日
·
697
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
思想が最上位って本当そうよね
ブラバッキーとかスウェボとかクロウリーとか
ヘーゲル害悪哲学も生きてるしH(・G ウェルズ)本も生きている
こわい
午後8:38 · 2023年11月3日
·
360件の表示
ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
森鴎外は今の基準で言うと赤っぽいですよねぇ
当時の赤傾向ではあると思う
さらに表示
午前0:24 · 2023年11月11日
·
73
件の表示
(普通は、有色人種が「白人至上主義つまり有色を皆殺しにしろ思想」を積極的に支持するとは思えないからね。白人への劣等感[コンプレックス]の程度によっては青に行くことはあり得る。)
ーーーーー
シーア兄貴(来世触手)2023/7/23~8/3と良呟きや記事の保管庫。ワールドSTAP石森メイト。『ゼイリブ』。プロイセン。満鉄。オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会。ライデン大学、ホフマン、西周、津田真道
Posted on 2023.08.04 Fri 19:28:33
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-531.html
”https://twitter.com/aoJvqLcHOrs7UWg/status/1686133348878483457
”来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い
午前6:54 · 2023年8月1日
·
702
件の表示”
ドイツ人であるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは世界で最初の日本語学の教授職が置かれた(1855年)オランダのライデン大学の教授。
ライデン大学だし、西周と津田真道と関係しているので目イソンだろう。ホフマンと西周と津田真道は近所に住んでいた。完全に日本語研究の協力関係にある。
)
[中略]
「オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い」
gorinotsukudani
@gorinotsukudani
シーボルト妻、つづる愛情 オランダに追放後の手紙https://nikkei.com/article/DGXMZO37016000X21C18A0ACX000/
代筆の可能性がある。署名は遊女名の「其扇」となっていた。日本を退去したシーボルトの助手となり、ライデン大日本学科の初代教授も務めたヨハン・ヨーゼフ・ホフマン(1805~78年)が、手紙を管理
午前1:55 · 2018年10月29日
Lan@2023日本語教育能力検定試験受験勉強垢
@2023passthetest
外国語としての日本語教育
③-3 シーボルトが持ち帰った資料はオランダのライデン大学に所蔵されている。
ライデン大学に世界初の日本語学科ができた。
初の日本語学科教授はシーボルトの弟子、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン。
午前9:31 · 2022年10月17日
ホウジ
@_hojojoh_
ちなみに、ライデン大学の日本学科で初代日本語担当教授はヨハン・ヨーゼフ・ホフマン。この人はもともとオペラ歌手を目指してたんだけど、シーボルト事件で帰国したシーボルトに偶然出会って日本のことを聞いたらのめり込んじゃって日本語学の道へ進み大成した人。
午前0:17 · 2014年11月13日
平塚連 L 日本イン🇯🇵🇩🇪🇺🇳🇲🇾🇧🇷🇸🇬🇺🇸🇹🇷🇫🇷🇵🇸
@JapanTeitterINA
16世紀に日本にやってきたキリスト教の宣教師が見聞をまとめたことに始まり、江戸時代には歴代のオランダ商館長(カピタン)たちが研究を進めた。幕末期の1855年にはヨハン・ヨーゼフ・ホフマン教授によってオランダ・ライデン大学に最初の日本学科が設立された。
午後0:57 · 2020年6月15日
[日本学科など、【国名】学科って侵略のためだよ]
来世は工口触手@キール
@aoJvqLcHOrs7UWg
オーアーゲーの創設者メンバーにいるヨハン・ヨーゼフ・ホフマンで調べてご覧
嘘周と津田虚道の案内役やっていやがるし、どうやらフルチンソーメン辺りの伝諸々は相当コイツが怪しい
結局、英米・ユダ公陰謀論は所詮英語止まりのしょうもない連中が流布しているだけのゴミカスが実態臭い
午前6:54 · 2023年8月1日
·
672
件の表示
[時間を見るに上記を読んでから呟かれたのが以下]
多情仏心
@jiangminjp
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 奥田 倫子 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/25571/1/shomotsu0001401190.pdf
日本語文典 https://kufs.ac.jp/toshokan/gallery/50-37.htm
ja.wikipedia.org
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia
午前11:27 · 2023年8月1日
·
23
件の表示
一橋大学
日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 (試案) 奥田 倫子
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/25571/shomotsu0001401190.pdf
によると、
1855年、オランダのライデン大学に、世界で最初の日本語学の教授職が置かれた。
その座に就いたのは、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンである。ドイツ人である。
(オランダの大学にドイツ人。世界最初の日本語学の教授がドイツ人)
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンは、1830年にシーボルトに出会い、彼の助手としてライデンにやってきた。
1825年にパリで出版されたロドリゲス著『日本小文典』の仏語訳を用いて日本語の構造を学んだ。
(ロドリゲスはイエズス会士で中ユ同祖論者であり、日ユ同祖論の源流だ)
シーボルトの中国人助手・郭成章から中国語を習い、中国語の知識を通して日本語文献を読み解いた。
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンはシーボルトの学術活動に寄与した。
1846年には、その中国語能力・日本語能力を見込まれてオランダ政府の公式翻訳官になり、以後、幕末の日蘭関係の一角を支えた。
(ライデン大学だし、西周と津田真道と関係しているのでメイソンだろうな。
『石の扉』p.199の一部を要約。
西(洋)周(くせん)は、ライデン大学から徒歩五分の所にあるラ・ベルトゥ・ロッジNo.7でフリ目に加盟。推薦はフィッセリング教授。入会申し込み書署名の写真がある。要約終了)
以上。
ジョアン・ロドリゲスはイエズス会士で、『日本大文典』、『日本語小文典』、『日本教会史』の著者。
中ユ同祖論の提唱者にして日ユ同祖論の原型を作った17世紀のイエズス会士ロドリゲス『日本教会史』と茶の湯とキリシタン大名とキリスト教人脈と大河ドラマと大日本皇道立教会と鹿児島版田布施の加治屋町
Posted on 2015.07.26 Sun 04:15:39
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-90.html
ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3
”ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン(Johann Joseph Hoffmann、1805年2月16日 - 1878年1月23日)は、ドイツ生まれで、オランダで働いた言語学者である。日本語、中国語の研究を行い、ライデン大学の初代の中国語・日本語担当教授となった。『日本語文典』("Japansche Spraakleer" )などの著作で知られる。西洋においての真の意味の日本学の始祖と考えられる[1]。
生涯
ヴュルツブルクに生まれた。ヴュルツブルク大学[2]で文献学を学んだ後、1830年7月、アントワープのホテルの食堂でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにたまたま出会った(同郷の訛りのドイツ語で東洋の見聞を話す人に「シーボルト博士をご存じないか?」と尋ねると「私だよ」と言われた)[1]ことから、東洋学者としての活躍が始まった。シーボルトの『日本』の著作に協力した。ホフマンの研究は東洋学者スタニスラス・ジュリアンらから注目された。1855年にライデン大学の初代日本学教授に任じられた。1862年に日本のオランダ留学生、西周、津田真道の世話役を務めた。1868年に『日本語文典』を出版し高い評価を得た。日本語研究として『日本研究』『日本書誌』(シーボルトと共著)がある。日本語辞典の編纂にとりかかったが未完で終わった。日本の地を終世訪れることはなかった。
参考文献
飯田晴巳『明治を生きる群像-近代日本語の成立』(おうふう 2002年) ISBN 4273032201
脚注
[脚注の使い方]
^ a b 山東功『日本語の観察者たち』(岩波書店 2013年pp.93-107)。
^ 山東功は『日本語の観察者たち』で「高等専門学校」を出て劇場歌手としてヨーロッパ各地を回っていて、歌手として回っていた時に出会ったとしている。
関連項目
オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会
外部リンク
日本語学者ヨハン・ヨーゼフ・ホフマン旧蔵日本書籍目録 奥田 倫子
” (「最終更新 2021年9月10日 (金) 10:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。」)
「1862年に日本のオランダ留学生、西周、津田真道の世話役を務めた。」があまりにも気になる。
洋学伝習と日本事情
https://www.nier.go.jp/saka/pdf/N12006010.pdf
より。
”
津田の下宿 はホ フマ ンの住 まいの向かい側 にあ りま した。
[注:近所過ぎる(笑) 案内役という情報は正しいだろうな。
中略
(津田の下宿がある通りは昔は運河だった。聖パンクラス教会がある。
「ホーフラントセ大教会」と地図にはある。以上の主旨に続くのが)]
「地 図には記入があ りませんが、西 の下宿 は教
会 の裏手 にあた る hooigrachtとい う通 りにあ りま した。」
”
(ホフマンと西周と津田真道は近所に住んでいる)
(津田真道は、真一郎、行彦とも名乗ったことに注意)
”
2.日本事情 (その一)ホ フマ ンへ の協力
論点 の二 に入 ります。 ヨハ ンヨゼ フホフマ ンは当時 ライデ ン大学 で 日本学 と中国学
の教師 をや って いま した。 ホ フマ ンは四書五経 の始 めであ る 『大学』 の和訓本 を1863
年 の 9月 に刊行 して います。西 と津 田が校正 に当た っています。The Grand Studyと
い う題 の第二部 は ロ-マ字表記本 で、 英蘭対訳 の解説が付 いて います。資料 5を ご
覧下さい。上段 が漢文 の傍 らに和字 により訓を付 した 『大学』の訓読本 です.通常 の
訓点だ けでな く、読 み仮名 が全部振 ってあ ります。
(中略)
ホフマ ンの住まいの向いに下宿 して いた津田
真一郎に native informant として本文を読んで貰い、そのアクセントを記録したとあります。
ホフマンはは漢文訓読体 を日本語における学術文体 と考 え、候文や会話文 へ
の導入 とす る ことを企 てたわ けです。
”
(案内役どころじゃないな。完全に日本語研究の協力関係にある)
Leiden University Office Tokyo ライデン大学東京事務所
https://luot-nrg.jp/
”オランダ国ライデン大学 (1575年設立) は、オランダ最古、ヨーロッパでも最も古い総合大学のひとつであり、欧州研究大学連盟発足時(2002年)からの加盟大学です。
日本とは、17世紀にまでさかのぼる長い関係があり、オランダ東インド会社(VOC)に雇われて長崎の出島に滞在し、日本についての著作を残した人たちも、多くはライデン大学で学んでいます。そして、シーボルトの弟子のヨハン・ヨゼフ・ホフマンを初代日本語教授とした世界初の日本学講座を開設(1855年) しました。幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献する西周や津田真道ら幕府派遣留学生もライデン大学で学び、以来今日まで、多くの日本人留学生・研究者を迎え入れています。
ライデン大学は主として、日蘭関係史研究で重要な役割を果たした財団法人日蘭学会を通じて、1975年に始まり2011年まで日蘭研究のみならず、日本との間にあらゆる分野の学生・研究者の交流を行う数々のプログラムを実施してきました。
”
” ※着色は引用者
シーア兄貴(来世触手)2025/1/29~2/16。新年(旧暦)の挨拶。ブンブン・50ジャー。ふつうじゃない軽音部。ご支援用⑭国号「日本」の変更箇所(意味は不変)。ペルンナ2。ギア巣。ビルド考察まとめ
Posted on 2025.01.29 Wed 23:59:48
”ワクワクさんさんがリポスト
子×5(ねここねこ。子子子子子。五つ子)
@kitsuchitsuchi
増量
随時追加シーア兄貴(来世触手)2025/1/29~。新年(旧暦)の挨拶。ブンブン・50ジャー。ふつうじゃない軽音部。ご支援用⑭国号「日本」の変更箇所(意味は不変)http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-587.html
オランダ東インド会社(VOC)の従業員の約20~30%が(目イソン)会員って書いている(笑) 目イソン会社だ。
yomenainickname.blog.fc2.com
随時追加シーア兄貴(来世触手)2025/1/29~。新年(旧暦)の挨拶。
※しばらくの間、内容が追加されていく。最重要・ブログ10周年記念・新たな固定記事が完成↓初めにお読み下さい。陰謀業界人の宗派リスト(ずっと騙され続けないための最低限の防具)。初学者の人になるべく早く読んでもらいたい、人気かつ、極めて重要な記事一覧http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-586.html冒頭の「陰謀業界人の宗派リスト」だけで...
午前8:37 · 2025年2月3日
·
754
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
自分も教科書でフリーメイソンが登場してるものは一切知らないね
不思議だよね
あらゆる出来事や人物の影にメーソンの足跡が残ってるのに全てスルーされてるとか
午後6:40 · 2025年2月3日
·
301
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
オランダ東インド会社、オランダ商館がフリーメイソンだらけなのは事実として
そこからの蘭学なんで明治維新どころか日本のヨーロッパからの学問なんてフリーメイソン経由だからね
隠れキリシタンで有名な医学者のコンパスとかはまさにそういうものだろうし
午後6:52 · 2025年2月3日
·
308
件の表示
オランダ語の翻訳にしろ確実に日本人だけじゃなくメーソンが関わってるでしょ?
資料提供は当然メーソン天国でお馴染みのカピタンだしw
「望む人がいれば譲るだとさ」笑
絵を描いた小田野直武の師匠の平賀源内も謎の長崎遊学だの蘭学の中心だし
午後7:01 · 2025年2月3日
·
111
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
蘭学=メーソン学
蘭学者=フリーメイソンに入れ知恵された人物
長崎のオランダ商館及びカピタンがヨーロッパの学問や情報を握っていてそれを日本へ選んで手渡していたわけだからね
日ユ論で出てきたケンペルもオランダ東インド会社から長崎への人だよ
午後7:09 · 2025年2月3日
·
129
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
明治維新もフリーメイソンでそれ以前の日蘭交流もフリーメイソンだけど
赤い楯の広瀬隆は文明開化は長崎からって出してたんだよね
それもフリーメイソンの中核は抜いてたはずだけど
さらに表示
午後7:11 · 2025年2月3日
·
135
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
メーソンのオランダ商館の医者シーボルトが地図持ち出したらメーソンのペリーがやってきて開国へみたいなのは当然として
日英修好通商条約のイギリス代表ってテンプル騎士団伝説とかスコティッシュメーソンの大物一族のエルギン伯爵 ブルース家なんだよね
午後7:23 · 2025年2月3日
·
285
件の表示
それでやって来た初代駐日総領事のラザフォード・オールコックもちゃんとフリーメイソン
結局長崎のオランダ商館がフリーメイソンの活動を開始 コンパス蘭学
明治維新メーソン革命やメーソンのペリー来航からさらにフリーメイソンが活動
西周もオランダ商館が手引きしただろうし
午後7:30 · 2025年2月3日
·
85
件の表示
ワクワクさん
@uxskf
ある地域では会社の高官の約6割がメイソンで
全体の3割近くがメイソンとか草
出島で共同生活を営む集団に絶えず2か3人はメイソン
メイソンが歴代の商館長が何らかの関係者
草 教科書に載せとけよ
午後7:45 · 2025年2月3日
·
187
件の表示
ここまで、出島でのフリーメイソンの影響力が強いとすると、新見地
からも含めて様々な所でこの輸出漆器の流れをを見直す必要がありそう
は当然あるんだけどまぁ秘密結社だから秘密にしとくんだと思うよ
ユネスコも日本の教育や教師に大学の流れもフリーメイソン経由だし
午後7:46 · 2025年2月3日
·
110
件の表示
[
メイソンいすぎ(笑)
教科書に載ってないこと自体が、権力を持っている証拠だよね。
オランダ東インド会社(VOC)の従業員の約20~30%が(目イソン)会員って書いている英文のサイト、ライデン大学じゃん(笑)
メイソン大学じゃん(笑) Leiden Universityって思いっきり書いているわ(笑)
神智学もメイソンに影響された組織だもんな。ブラヴァツキーもメイソンだし。女性用の位階をもらったほどに特別扱いだったのがブラヴァツキー(笑)
シーア兄貴(来世触手)2024/12/13~2025/1/10。あのフラワー(対応人物編)。50ジャー。ブラヴァツキーが元ネタのキャラがいる作品集[悪エリアン時代(TCG)等]
Posted on 2024.12.21 Sat 21:51:58
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-583.html
”1877年11月24日付のブラヴァツキーのメーソン証書には、次のように記されている:
「われら、三位一体の神聖なるグランド・マスター・ジェネラルは...われらの輝かしい啓蒙の兄、H.P.ブラヴァツキーが、アプレンティス、コンパニオン、パーフェクト・ミストレス、崇高なるエレクト・スコッチ・レディ、グランド・エレクト、シュヴァリエール・ド・ローズ・クロワ、アドナイト・ミストレス、パーフェクト・ヴェネラブル・ミストレス、そして養子縁組の儀式の戴冠されたプリンセスであることを宣言し、宣言する」
これらの養子縁組の位階は、女性がスコティッシュ・ライト・フリーメーソンの謎を研究し、解き明かすために特別に設けられたものである。旅行、勉強、曽祖父の蔵書へのアクセス、そして多くの著名なメイソンとの親しい交友関係から、ブラヴァツキーはこれらの学位を受ける前から、おそらく当時のほとんどのメイソンよりも多くのことを学んでいたと思われる。」
ブラヴァツキーって、女性なのにスコティッシュ・ライト系の位階持ちなんだ。特別待遇なのは、曽祖父がメイソンなのも理由なんだろうな。
” ※着色は引用者
]
”
六草いちかの気になる毎日💙💛
@rokusouichika
⑥このたび1000円札の図柄に選ばれた北里柴三郎は「細菌学の父」とも呼ばれる医学者。ベルリンに留学しロベルト・コッホのもとで研究。師のノーベル生理学・医学賞受賞に至るまでの研究にも貢献。
留学仲間の身を案じたり、鴎外がコッホ研究所に通えるよう世話したり、人情家でもありました。⑥
画像
午後9:21 · 2019年4月9日
(鷗外の人脈の1つがノーベル賞人脈。赤いなあ)
イタリア猫
@italian_cat
「明治村」北里研究所本館・医学館。『ドイツにおける日本人留学生達』1885年32歳と割と年取ってからベルリン大学に留学した北里柴三郎。コッホに師事し破傷風やジフテリアの血清療法を開発しノーベル賞候補になったという。写真にはジョン万次郎の長男や森鴎外の姿も。
画像
午前7:33 · 2020年1月8日
(参考資料は後日、追加するかも)
お読みいただきありがとうございました。
| 『聖なるロシアの復興』(光の国の本。ブラヴァツキーの曽祖父がメイソンって日本語で書いている本は本書だけだろう。彼関係とイリーン思想[ロシアの動きの理解に必須]だけでもお読み下されば幸いです) »
コメント
コメントの投稿
トラックバック
| h o m e |