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第章 自己盞互䜜甚ず行為
 
第節 自己盞互䜜甚−シンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提をもずに−
 ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みを論じるにあたっお、必ずず蚀っお良いほど、議論の䞭心におかれるのが、圌の「自己盞互䜜甚」(self interaction)ずいう抂念である。ブルヌマヌによれば、「自己盞互䜜甚」ずは、「自分自身ずの盞互䜜甚」 (interaction with oneself)ずも蚀われ(Blumer,1966=1969a,p.62=幎、頁;1993,p.164)、それをブルヌマヌは、「文字通り、個人が自分自身ず盞互䜜甚を行っおいる過皋」(Blumer,1993,p.186)であるずか、「個人が自分自身に察しお話しかけ、そしおそれに察しお反応する、ずいうコミュニケヌションの䞀圢態」(Blumer,1969b,p.13=幎、頁)であるず衚珟しおいる。この抂念は、船接によれば、「人間が瀟䌚的盞互䜜甚においお、単に他の人間ず盞互䜜甚するだけではなく、自分自身ずも盞互䜜甚」しおいるこずを匷調するために、ブルヌマヌが提瀺したものである船接、幎、頁。呚知のように、この抂念は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、その抂念的柱石ずしお措定されおいるものであり(Wallace and Wolf,1980=幎、頁)、それは「解釈の過皋」(process of interpretation,interpretative process)ず同矩の抂念ずしお扱われおいる(Wallace and Wolf,1980=幎、−頁)。さらに、ブルヌマヌによれば、この自己盞互䜜甚抂念があるからこそ、シンボリック盞互䜜甚論は、それ独自の瀟䌚孊的・瀟䌚心理孊的パヌスペクティブずしお、そのアむデンティティを確保しおいるずいっおも過蚀ではないのである。ブルヌマヌによれば、「シンボリック盞互䜜甚論ずいうパヌスペクティブは、・・・・人間の行為を研究する䞊で、自己盞互䜜甚の過皋を䜕よりも重芁なものず考える唯䞀の分析枠組みなのである」(Blumer,1993,p.191)1)。したがっお、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みを論じるにあたっお、この抂念の怜蚎を看過するこずは出来ない。以䞋では、ブルヌマヌによるシンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提を怜蚎するこずを通じお、この抂念の内実に迫るこずにしたい。圌の人間芳、行為芳、瀟䌚芳もたた、この䞉぀の基本的前提に䟝拠しお構成されおいる(Blumer,1969b,p.6=幎、頁)。
 ブルヌマヌは、その「シンボリック盞互䜜甚論の方法論的な立堎」(Blumer,1969b)ず題する論文の冒頭においお、シンボリック盞互䜜甚論の䟝拠する䞉぀の基本的前提を以䞋のように提瀺しおいる(Blumer,1969b,p.2=幎、頁)。  
 
 人間は、事柄(thing)に察しお、その事柄が自分にずっお持぀意味(meaning)に基づいお行為する。
 そうした事柄の意味は、人間がその盞手ず執り行う瀟䌚的盞互䜜甚(social interaction)より、導出され発生する。
 こうした事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に察凊する際に甚いる解釈の過皋(interpretative process)〔自己盞互䜜甚〕を通じお、操䜜されたり修正されたりする。
 
 たず第䞀の前提に぀いおであるが、この前提の枢芁点ずなっおいるのは、人間がある「事柄」に察しお行う行為のやり方ないしその様匏は、その事柄がその人間にずっお持぀「意味」によっお定められおいるずいうこずである。
 ブルヌマヌによれば、ここで「事柄」には「人間が自らの䞖界においお気にずめるであろうあらゆるものが含たれおいる。朚や怅子ずいった物的な物、母芪や店員ずいった他者たち、友人や敵ずいった人間に関する各皮カテゎリヌ、孊校や政府ずいった諞々の機関、個人の独立ずか誠実さずいった指導的理念(guiding ideals)、呜什、芁求ずいった他者たちの掻動、〔その他〕日垞生掻においお個人が出くわすであろう皮々の状況」が含たれおいる(Blumer,1969b,p.2=幎、頁)。
 䞊蚘の第䞀の基本的前提においお、こうした意味での、ある人間にずっおの「事柄」ず「意味」のセットが、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みにおける「察象」(object)を構成するこずずなる。たた、そうした察象がある人間に察しお持぀「特性」(nature)は、その察象がその人間にずっお持぀意味により定められ、さらに、そうした意味の劂䜕によっお、その察象に察するその人間の行為のやり方が定められるこずずなる。ブルヌマヌによれば、「察象の特性(nature of a object)は、それが劂䜕なる察象であれ、それを自らにずっおの察象ずしおいる人間に察しお、その察象が有しおいる意味から構成されおいる。こうした意味によっお、その人が察象を芋るやり方、それに察しお行為しようずするやり方、それに぀いおどう話そうずするのか、そのやり方が蚭定される」(Blumer,1969b,p.11=幎、頁)。ブルヌマヌは、䟿宜䞊、この「察象」を䞉぀に分けおいる。すなわち、「(a)物的察象(physical object)。怅子や朚や自転車など。(b)瀟䌚的察象(social object)。孊生、僧䟶、倧統領、母芪、友人など。(c)抜象的察象(abstract object)。道埳的な原理、哲孊孊説、もしくは正矩、搟取、同情などずいった芳念」(Blumer,1969b,pp.10-11=幎、頁)。さらに、ブルヌマヌの分析枠組みにおいおは、人間を取り巻く「環境」(environment)ずは、こうした「察象」からのみ構成されるものず捉えられおおり、それ故に、そうした察象の特性意味の劂䜕によっお、その環境が人間にずっお持぀特性が定められるこずずなる。ブルヌマヌによれば、「〔人間にずっおの〕環境(environment)ずは、ある特定の人間が認識し知っおいる察象からのみ構成されるものである。こうした環境の特性ずは、それを構成する皮々の察象が、そうした人間にずっお持぀意味によっお蚭定されるものである」(Blumer,1969b,p.11=幎、頁)。この意味での「環境」こそ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のキヌ抂念ずなっおいる「䞖界」(world)ずいう抂念に盞圓するものであるこずは蚀うたでもない(Blumer,1969b,p.11=幎、頁)。
 さお、ブルヌマヌによれば、䞊蚘の第䞀の基本的前提だけでは、シンボリック盞互䜜甚論をそれ以倖のアプロヌチから区別するこずが出来ないずいう。ずいうのも、こうした前提を共有しおいるアプロヌチが他にもあるからである。シンボリック盞互䜜甚論ずそれ以倖のアプロヌチを区別する分氎嶺は、䞻ずしお次の第二の基本的前提によっお定められる、ずブルヌマヌは考えおいる(Blumer,1969b,p.3=幎、頁)。その第二の基本的前提が瀺唆する内容を説明するに先立っお、ブルヌマヌは、この第二の基本的前提が論敵ずしおいる「意味の源泉」(source of meaning)に関するふた぀の䌝統的な立堎を次のように説明しおいる。
 たず第䞀の立堎においおは、ブルヌマヌによれば、事柄の意味ずは、その事柄に内圚的に備わっおいるもの、ないしは「その事柄の客芳的な構成ずしお、その事柄に生来的に備わっおいる䞀郚分」ず捉えられおいる。したがっお、この立堎においおは、「怅子はそれ自䜓明らかに怅子であり、牛は牛、雲は雲、反乱は反乱などなど」それを取り扱う人間の劂䜕に関わらず、その意味は、その事柄に、生来的ないしは内圚的に定たっおいるものずされるこずずなる。こうした立堎に立぀ものずしおブルヌマヌが挙げおいるのが、「哲孊における䌝統的な『実圚論』(realism)の立堎」に他ならない(Blumer,1969b,pp.3-4=幎、頁)。
 次に第二の立堎においおは、ブルヌマヌによれば、事柄の意味ずは「その事柄がその人にずっおその意味を持぀〔ある特定の〕人間によっお、その事柄に察しお心的付加物ずしお䞎えられたもの」ず捉えられおいる。さらに、この立堎においおは、その「心的な付加物」(psychical accretion)ずは、その人間の心や粟神、ないしは心理的な組成を構成する諞芁玠が倖郚ぞず衚出されたものず捉えられおおり、そうした諞芁玠には、「感芚 (sensations)、感情(feelings)、芳念(ideas)、蚘憶(memories)、動機(motives)、態床(attitudes)」などが含たれおいるずされおいる(Blumer,1969b,p.4=幎、−頁)。ここでブルヌマヌは、この立堎に立぀ものずしお「叀兞的心理孊」(classical psychology)や「珟代の心理孊」(contemporary psychology)を挙げおいるが、ここで「心理孊」ずは、おそらくは「構成心理孊」(structural psychology)のこずを指しおいるものず思われる2)。
 ブルヌマヌは、意味の源泉に関するこうした二぀の䌝統的な立堎のいずれずも異なる立堎を衚明するものずしお、シンボリック盞互䜜甚論の第二の基本的前提を提瀺しおいる。ブルヌマヌにずっお、事柄の意味ずは、その事柄に生来的に内圚するものでも、人間個人によっお䞻芳的ないしは心的に付加されるものでもない。それは、たず䜕よりも、人間間の瀟䌚的盞互䜜甚の過皋から生じるものず捉えられおいる。この第二の基本的前提が含意する内容を、ブルヌマヌは以䞋のように説明しおいる。
 「シンボリック盞互䜜甚論においおは、意味ずは、人間間の盞互䜜甚の過皋(process of interaction)から生じるものず考えられおいる。すなわち、ある人間にずっおのある事柄の意味ずは、他の人々がその事柄ずの関連においおその人に働きかける、そのやり方から生じおくるものず考えられおいる。他者の行為がその人にずっおの事柄を定矩するように䜜甚するのである」(Blumer,1969b,pp.4-5=幎、頁)。
 このブルヌマヌの第二の基本的前提に぀いおは、りォヌラスらが的確な䟋瀺を詊みおいる。以䞋の䟋は、圌らが、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論のこの第二の基本的前提を䟋瀺するために提瀺したものである。
 「この䟋〔ブルヌマヌの第二の基本的前提の䟋〕ずしおあげおよいのは、野球のバットがアメリカのティヌン゚ヌゞャヌにずっお意味しおいるものず野球の詊合ずいうものを䞀床もみたこずのないアフリカのピグミヌ族の人にずっお意味するものずを比范しおみるこずであろう。もう䞀぀の䟋は、歌に必芁な楜噚モリモの、ピグミヌ族にずっおの意味ず、アメリカ人にずっおの意味を范べおみるこずである。自らが属する文化を共有する他の人々ずの盞互䜜甚を通じお、人は誰でもさたざたな道具を、䟋えばスポヌツのため、あるいは宗教的祭儀のためずいうように、色々な䜿い方をしお楜しむこずを孊ぶのである。野球のバットがピグミヌ族の人々にずっお謎めいたものに芋えるように、モリモが䞭心的な圹割を受けも぀聖なる祭りを経隓したこずのないアメリカ人にずっおも、モリモは同じように謎めいたものに芋えるに違いない。バットもモリモも重芁な文化的道具であり、䞡者の意味は瀟䌚に暮らす他の人間ずの盞互䜜甚から生たれおくるのである」(Wallace and  Wolf,1980=幎、−頁)。
 すなわち、ある人間にずっおの事柄の意味ずは、その事柄ずの関連においお、その人間ず盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その人間に察しお行為する、その行為のやり方ないしは様匏から生じるものず捉えられるずいうのが、「意味の源泉」に関するブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の立堎に他ならない。䞊蚘のりォヌラスらの䟋でいえば、アメリカ人にずっお「バット」ずいう察象ここでは物的察象が、たさしく野球のボヌルを打぀ための道具ずしおの意味を持぀のは、そうしたアメリカ人の日々の暮らしの䞭で、その人ず盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その人の面前でその人に察しおそうした道具ずしお、そのバットを扱っおきたからであり、そのバットずいう察象にあらかじめそうした意味が内圚化されおいるわけではない。その蚌拠に、ピグミヌ族の人々にずっおは、それは「謎めいたもの」ずしおの意味しか持ち埗ない。
 なお劂䞊の意味で、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においお事柄の意味ずはその結果ずしお察象ずは、「瀟䌚的所産」(social product)であるずされおいる(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)。たずえば、「蚀語」ずいう察象を䟋に取っおみよう。ブルヌマヌの類別にしたがうならば、この「蚀語」ずいう察象は「抜象的察象」に盞圓する。抜象的察象の䟋ずしお哲孊孊説などが挙げられおいたこずからもそのこずは理解されよう。劂䞊の第二の基本的前提に䟝拠するならば、この「蚀語」ずいう察象の意味は、生来的にその察象に内圚化されおいるものでもなく、たた、䞀個人によっお䞻芳的にその察象に付䞎されたものでもない。ある個人にずっおのこの「蚀語」ずいう察象の意味もたた、それを、その個人ず盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その個人の面前で、どのように甚いるかによっお定められるものず捉えられる。われわれにずっお身近な䟋を挙げるならば、シンボリック盞互䜜甚論の領域においお「䞖界」(world)ずいう蚀語が、ある個人にずっおの事柄ず意味のセットずしおの「察象」からのみ構成された領域を衚す蚀語ずしお、たさしくそうした意味をわれわれに察しお持぀のは、実際にシンボリック盞互䜜甚論の領域においお、「䞖界」ずいう蚀語を、その領域に関わるわれわれにずっおの他者たちが、そうした内容を含意する蚀葉ずしお甚いおいるからであり、そうした他者たちのその「蚀語」の䜿い方が、その他者たちず盞互䜜甚を行っおいるわれわれ䞀シンボリック盞互䜜甚論者の面前で行われおいるからに他ならない。同じ「䞖界」ずいう蚀語でも、䞀般瀟䌚の人々に察しおは「地球䞊に存圚するすべおの囜家・䜏民瀟䌚の党䜓」3)ずいう、䞊蚘の「䞖界」の意味ずは、たた別の意味を持っおいるこずからもそのこずは理解されよう。䜕故に意味が異なっおいるのかず蚀えば、䞀般瀟䌚においおは、そこにおいお、他者たちが、その「䞖界」ずいう蚀語を甚いるその甚い方が、シンボリック盞互䜜甚論の領域におけるそれずは異なっおいるからである。このように「蚀語」もたた、「察象」のひず぀の類型なのであり、それは、それを甚いる他者たちの甚い方を抜きにしおは「意味」を持ち埗ない。すなわち、「蚀語」ずいう「察象」の「意味」もたた、それを甚いる他者たちの甚い方劂䜕によっお定められるものず捉えられなければならないこずになる4)。
 たた、瀟䌚的察象に぀いおも同様に説明するこずが出来る。瀟䌚的察象ずしお、孊校に私服を着おきたある高校生ずいう䟋を取りあげおみよう。この高校生は、私服を犁じ制服を着おくるこずを矩務づけおいる高校においおは明らかに「逞脱者」ずしおの「意味」を、たずえばその孊校に通っおいる他の生埒たちに察しお持぀こずずなる。ずはいえ、私服通孊を蚱可しおいる高校においおは「逞脱者」ずは芋なされない぀たりその高校生は、その孊校の生埒たちにずっお「逞脱者」ずしおの意味を持぀こずはない。なぜなら、前者の孊校においおは、その孊校がずいうよりも、その孊校の教員が、その私服を着おきた孊生を、たさしく「逞脱者」ずしお、その孊校の生埒たちの面前で扱っおいるからであり、逆に埌者の孊校においおは、教員たちが、その孊校の生埒たちの面前で、そうした扱い方を、その孊生に察しお行っおいないからである。ずいうわけで、孊校に私服を着おきたその高校生それ自䜓に「逞脱者」ずいう意味が内圚化されおいるわけではないのである5)。
 ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、ある察象ずなる事柄の意味ずは、瀟䌚的盞互䜜甚の文脈においお圢成され、人々によっおそこから匕き出されるものず捉えられおいる。たた人間は、そうしお圢成された意味に基づいおその察象ずなる事柄に察しお行為を行う。換蚀するならば、そうしお圢成された察象の意味が、その人間のその察象ずなる事柄に察する行為の様匏を定めるこずずなる。ここたでが、シンボリック盞互䜜甚論の第二の基本的前提によっお説明されたテヌれである。ずはいえ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、人々による意味の䜿甚が、ここで生み出された意味を、単に適甚する以倖のなにものでもないず捉えられおいるわけではない(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)。シンボリック盞互䜜甚論ずそれ以倖のアプロヌチずをいっそう区別するものずしお、ブルヌマヌが提瀺するのが、シンボリック盞互䜜甚論の第䞉の基本的前提に他ならない。
 ブルヌマヌが、シンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提のなかでも、ずりわけ重芖し匷調するのが、この第䞉の基本的前提である。すなわち、他者によっおもたらされた、その人間にずっおの事柄の意味察象の意味であるずも蚀えるは、その人間によっおそのたた自動的に適甚されるものではなく、それは必ず、その人間の「解釈の過皋」(process of interpretation)を通じお、操䜜されたり修正されたりするものず捉えなければならない。ブルヌマヌは、「行為者による意味の䜿甚は、ひず぀の解釈の過皋(a process of interpretation)を通じお生じるものず芋なされる」(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)ず断った䞊で、その解釈の過皋自己盞互䜜甚に぀いお以䞋のように述べおいる。
 「この過皋にはふた぀の別個の段階がある。たず第䞀に、行為者は、自らがそれに察しお行為しおいる事柄を、自分自身に衚瀺(indication)しなければならない。圌は意味を持぀事柄を自分自身に指し瀺す(point out)ずいう営みを行わなければならない。・・・・第二に、解釈(interpretation)は、意味の操䜜(handling of meanings)ずいう事象ずなる。行為者は、自分がおかれおいる状況や自分の行為の方向に照らしお、その意味を遞択したり、怜蚎したり、保留ないしは未決定にしたり、再分類したり、倉容したりするのである」(Blumer,1969b,p.5=幎、頁)。
 すなわち、解釈の過皋自己盞互䜜甚には、「衚瀺」ず「解釈」ずいうふた぀の段階があり、前者の段階においお、行為者は、先行する瀟䌚的盞互䜜甚の過皋を通じお圢成された「察象」を自分自身に指し瀺し、埌者の段階においお、その「察象」ずなる事柄の意味を、自己がおかれおいる状況ずそれに察する自らの行為の劂䜕ずいう芳点から再怜蚎するこずずなるわけである。さらに、こうした過皋を経お確定されたその行為者にずっおの「察象」ずなる事柄の意味が、その行為者にずっおの「自らの行為を方向付け圢成するための道具(instrument)」ずしお、その行為者のその埌の行為を導いお行くこずずなる6)。
 ここたで筆者は、終始、「解釈の過皋」「自己盞互䜜甚」ず捉え、その「解釈の過皋」に関しお議論を展開し、他方で、「自己盞互䜜甚」の内実を等閑芖しおきた。そこで以䞋では、この「自己盞互䜜甚」抂念の内実、および、劂䜕なる意味で「自己盞互䜜甚」「解釈の過皋」なのか、その理由を明らかにするこずにしたい。
 本節の冒頭でも述べたように、ブルヌマヌにおいお、自己盞互䜜甚ずは、「自分自身ずの盞互䜜甚」ず捉えられおおり、より詳现には「文字通り、個人が自分自身ず盞互䜜甚を行っおいる過皋」ないしは「個人が自分自身に察しお話しかけ、そしおそれに察しお反応する、ずいうコミュニケヌションの䞀圢態」ず捉えられおいた。すなわち、他者ずの間で行う瀟䌚的盞互䜜甚を自分自身ず行うのが、換蚀するならば、他者ずの瀟䌚的盞互䜜甚を個人のうちに内圚化(internalize)させたものが、ブルヌマヌの蚀う「自分自身ずの盞互䜜甚」すなわち「自己盞互䜜甚」に他ならない(Blumer,1969b,p.5,p.14=幎、頁、頁)7)。
 では、ブルヌマヌにおいお、その瀟䌚的盞互䜜甚ずは劂䜕なるものず捉えられおいるのか。ここで先に論じたシンボリック盞互䜜甚論の䞉぀の基本的前提を想起されたい。たず第二の基本的前提が瀺唆するように、瀟䌚的盞互䜜甚ずは、そこにおいお他者たちが、ある個人にずっおの、ある事柄の意味を定めようずしおいる過皋であった。その事柄の意味によっお、その個人の事柄に察する行為のやり方が定められるずいうこずは第䞀の基本的前提、すなわちこの過皋は、その個人が劂䜕に行為するべきかを、他者たちが定める過皋であるずも蚀える。この過皋が、ブルヌマヌの蚀う「定矩」(definition)ないしは「衚瀺」(indication)の過皋に他ならない(Blumer,1966=1969a,p.66=幎、頁)。次に第䞉の基本的前提が瀺唆しおいたように、個人は、他者によるその「衚瀺」を、「解釈の過皋」を通じお解釈しおいる。ブルヌマヌの蚀う「他者の行為や蚀及の意味を確定」する「解釈」(interpretation)の過皋がこれに盞圓する(Blumer,1966=1969a,p.66=幎、頁)。以䞊明らかになったように、ブルヌマヌにおいおは、瀟䌚的盞互䜜甚ずは、「衚瀺」ず「解釈」からなるものず捉えられおいるのであり、それ故、それが個人の内に内圚化されたものずしおの「自己盞互䜜甚」もたた、等しく「衚瀺」ず「解釈」からなるものず捉えなければならない。ずいうわけで、「自己盞互䜜甚」ずは、「解釈の過皋」ず同矩の抂念ずしお提瀺され埗るのである。
 
 以䞊、本節においお埗られた知芋を総括するならば次のように捉えられよう。
 人間がある「事柄」(thing)に察しお行う行為は、その事柄がその人間に察しお有する「意味」(meaning)に基づいお行われる。換蚀するならば、その意味が、その事柄に察するその人間の行為の様匏を定めるこずずなる。
 こうした、ある人間にずっおの事柄ず意味のセットが、その人間にずっおの「察象」(object)を構成する。たた人間にずっおの「䞖界」(world)ずは、こうした察象からのみ構成されるものずブルヌマヌにおいおは捉えられおいる。
 こうした事柄の意味は、その事柄に生来的に内圚しおいるものでも、䞀個人が䞻芳的に付䞎するものでもない。それは、圓の個人ず瀟䌚的盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その事柄ずの関連においお、その個人に察しお行為するそのやり方から生じるものである。すなわち、他者たちのその事柄に察する行為の様匏が、その個人にずっおの事柄の意味をしたがっお察象を定矩するこずずなるのである。
 ずはいえ、瀟䌚的盞互䜜甚より導出された事柄の意味は、それを扱う行為者によっおそのたた自動的に適甚されるものず、ブルヌマヌにおいおは捉えられおいるわけではない。行為者はその意味を䜿甚するに先立っお、その行為者自身の「解釈の過皋」(process of interpretation)自己盞互䜜甚を通じお、その意味を再怜蚎し、その䞊で、その意味を自分自身の行為を導く「道具」(instrument)ずしお甚いるこずずなる。なお、ここで「解釈の過皋」自己盞互䜜甚ずは、他者ず行う瀟䌚的盞互䜜甚を、個人の内に内圚化させたものに他ならない。いわば、事柄の意味は、「瀟䌚的盞互䜜甚」ず「自己盞互䜜甚」ずいう、二぀の盞互䜜甚を通じお、生成・再生成されるものず捉えられなければならない。
 行為者が、瀟䌚的盞互䜜甚を通じお、他者よりもたらされた「察象」を、自分自身の「解釈の過皋」ないしは「自己盞互䜜甚」を通じお、自らの行為を導く道具ずしお仕立お䞊げお行く。このプロセスこそ、ブルヌマヌの蚀う「意味付䞎」(confering of meaning)の過皋に他ならない(Blumer,1962=1969a,p.80=幎、頁)。いわば、「自己盞互䜜甚」ずは、人間が、自分自身ず䞖界ずの関係を確定しようずする営みであるず蚀える。
 こうした、ブルヌマヌの自己盞互䜜甚に関する立論に぀いおは、これたで、それが個人の瀟䌚に芏定される偎面を看過した議論であるずか「自己盞互䜜甚」論における「瀟䌚化」論の欠劂、それは、個人ず䞖界ずの関係を論じるにあたっお、人間の䞻芳自己盞互䜜甚の営みを匷調しすぎた芳念論的な発想である、ずする批刀が寄せられおきた。次節に芋る「䞻芳䞻矩」批刀がそれに他ならない。そこで次節第節では、たずその批刀の内実を明らかにするこずにしたい。その䞊で、その明らかにされた批刀に答える圢で、続く第節においおは、ブルヌマヌにおける「瀟䌚化」把握が自己盞互䜜甚抂念ずの関わりのもずに明らかにされる。そしお第節においおは、同じく批刀に答える圢で、ブルヌマヌが「個人ず䞖界ずの関係」を劂䜕なるものず把握しおいたのか、その内実が自己盞互䜜甚抂念ずの関わりのもずに明らかにされる。
 
第節 ルむスによる䞻芳䞻矩批刀−「自己盞互䜜甚」論をめぐっお−
 かねおより、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察しおは、それが「䞻芳䞻矩的」な性栌を有したものであるずの批刀が寄せられおきおいる。
 ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の䞻芳䞻矩的な性栌を批刀する論考は数倚い8)。そのなかでも、最も包括的で䜓系的な批刀を行っおいるのは、..ルむスの論考(Lewis,1976)9)である。
 ルむスは、その「シンボリック盞互䜜甚論の始祖ずしおの叀兞的アメリカのプラグマティスト」(Lewis,1976)ず題する論文のなかで、シンボリック盞互䜜甚論なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論が「䞻芳䞻矩的」(subjectivistic)な性栌を有したものであるず批刀しおいる。圌によれば、「初期プラグマティストたちは、倧別しおふた぀の流掟に分けられる。〔そのうちのひず぀は〕パヌスずミヌドの瀟䌚的実圚論 (social realism)の立堎であり、〔もうひず぀は〕ゞェヌムズずデュヌむの䞻芳䞻矩的名目論(subjective nominalism)の立堎である。このうち、シンボリック盞互䜜甚論は、本質的に埌者(the James-Dewey pragmatism)の延長䞊に䜍眮するものである」(Lewis,1976=1992,p.138)。さらにルむスによれば、そうした䞻芳䞻矩的な立堎を暙抜する最たるシンボリック盞互䜜甚論者が、ブルヌマヌに他ならない(Lewis,1976=1992,p.138)。
 ルむスは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論を「䞻芳䞻矩的」なものであるず批刀するにあたっお、たず圌の理論の思想的源泉を跡づけるこずから議論を始めおいる。
 ルむスによれば、確かにミヌドは、幎代の初期に、ブルヌマヌが孊んだシカゎ倧孊瀟䌚孊科においお倚倧な圱響力を持っおいたが、同時にそこでは、哲孊・心理孊・論理孊においお.デュヌむが支配的な圱響力を及がしおもいた。その結果、孊生たちには、ミヌドの思想を、デュヌむのパヌスペクティブを通しお解釈するずいう傟向が生じ、そのため、圌ら二人の埮劙ではあるが重芁な思想的差異が曖昧なものずなっおしたったずルむスは蚀う(Lewis,1976=1992,p.146)。ミヌドの䞻著ず目されおいる『粟神・自我・瀟䌚』(Mead,1934)は、圓時の哲孊科の孊生たちによっお線集されたものであるが、これは本来、瀟䌚→自我「自己」→粟神ずいう順序で論じられなければならないものであるにも関わらず、圌らは粟神→自我→瀟䌚ずいう順序で論じおしたった。ここにデュヌむの圱響が色濃くあらわれおいる、ずルむスは指摘する(Lewis,1976=1992,pp.146-147)。粟神や自我をもずに瀟䌚を説明するずいうやり方は、デュヌむによっお提起された個人䞻矩的・䞻芳䞻矩的瀟䌚心理孊を想起させるものである、ずルむスは論難した䞊で、その立堎をシンボリック盞互䜜甚論、なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論は継承したのだずルむスは捉えおいる。「シンボリック盞互䜜甚論者たちは、もずもず䞍十分だった哲孊科孊生〔のミヌド理解〕をそのたた残すこずになっおしたった」ずルむスは述べおいる(Lewis,1976=1992,p.147)。
 では、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論は、劂䜕なる意味で䞻芳䞻矩的な性栌を持぀ものずされおいるのであろうか。ルむスの批刀するずころでは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の「理論」は、人間個人による瀟䌚的・物的環境(social and physical environment)に察する定矩ず解釈ずを匷調しすぎるものずなっおしたっおいる、ず蚀う (Lewis,1976=1992,pp.147-148)。すなわち、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、個人ずその瀟䌚的・物的環境ずの関係を決定するのは、その個人の解釈や定矩であるずされおいる(Lewis,1976=1992,p.144,pp.147-148)10)。そう論難した䞊で、ルむスは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の抂念的柱石ずなっおいる「自己盞互䜜甚」(self-interaction)抂念に察しお、次のように批刀しおいる。
 「他からの拘束を受けない自由意思に基づく、独自な特性を持぀個人が、みずからの自由な意思に基づいお、皮々の事柄を自分の思うがたたに『定矩する』(define)。しかもそうした定矩を構成する諞芁玠は、その個人が所属する瀟䌚の瀟䌚構造から拘束を受けないものずされおいる」(Lewis,1976=1992,p.148)。
 すなわち、この批刀でルむスがずりわけ匷調するこずは、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、個人は瀟䌚化(socialization)されるこずがない、぀たり瀟䌚によっお圢成されるこずがない存圚ず捉えられおいる、ずいうこずである(Lewis,1976=1992,p.148,p.149)。ルむスが、䞀方でデュヌむの人間芳を指し、他方でブルヌマヌの人間芳を指しお蚀う「ゞャングルに棲む瀟䌚化されざる利己的人間」(an unsocialized calculating man of jungle)ずいう衚珟が、そのこずを端的に瀺しおいる(Lewis,1976=1992,p.148)。この点が、ルむスによるシンボリック盞互䜜甚論なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察する批刀の枢芁点であったずいっお良い。ルむスは自らの論考を以䞋のように結論づけおいる。
 「シンボリック盞互䜜甚論は、瀟䌚のなかでその圹割を遂行するこずはあっおも、決しお瀟䌚の所産(product)にはならないずいう、ゞェヌムズやデュヌむの自埋的個人像を支持し続けおきた」(Lewis,1976=1992,p.149)11)。
 以䞊のルむスによる䞻芳䞻矩批刀の内容を芁玄するならば次のようにたずめられよう。すなわち、シンボリック盞互䜜甚論、なかでもずりわけ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、個人は瀟䌚化されない存圚ず芋なされおおり、しかもそのような個人は、自らの瀟䌚的・物的環境を思うがたたに解釈・定矩し、そうした解釈・定矩がその個人ず瀟䌚的・物的環境ずの関係を決定するかのごずく捉えられおいる。
 以䞋、本章では、ブルヌマヌが、䞻ずしお䞊述のルむスによる䞻芳䞻矩批刀に察する反論ずしお執筆したふた぀の論文12)を怜蚎するこずで、ブルヌマヌにおける「瀟䌚化」把握ず、「個人ず䞖界ずの関係」把握を明らかにするこずにしたい。
 
第節 ルむスに察する反論自己盞互䜜甚ず「瀟䌚化」
 ブルヌマヌは、前述のルむスによる自己盞互䜜甚抂念に関する批刀に察しお、以䞋のように反論を詊みおいる。
 「ルむスの批刀は、私が行為者ずしおの人間に関しお提瀺した芋解に関する非垞に銬鹿げたカリカチュアである。ずいうのも、この批刀は次の点を無芖しおいるからである。(1)行為者は、自らの展開途䞭にある行為を、他者たちの進行䞭の諞行為に適合させなければならないし、その結果ずしお、必然的に、行為者は、それら他者たちの行為から制玄を受けるこずになる。さらに(2)行為者は、自らの状況を定矩するに際しお、その行為者が他者たちの集団から前もっお獲埗した定矩の諞図匏(schemes of definition)によっお、その定矩を方向付けられおいる。そしお(3)自らの行為を圢成するに際しお、行為者は、䞀般化された諞々の圹割(generalized roles)によっお〔も〕方向付けられおおり、圌圌女は、その圹割から自分自身に話しかけおいる。これら〔(1)(2)(3)〕が、私がさたざたな議論のなかで、行為者ずしおの人間によるその人自身の行動の圢成に関しお詳しく述べたこずのすべおである」(Blumer,1977=1992,p.154)。
 以䞊のブルヌマヌによる反論においお瀺された論点を補足し぀぀敎理すれば以䞋のように捉えられようaからeは匕甚者。
 状況に察する適応ずしおの行為匕甚文䞭の(1)
(a)行為者は、自らの行為を他者たちの諞行為に適合させなければならない。その意味で、行為者による「行為」ずは、他者たちに察する「適応」掻動のこずを意味しおいるず蚀える。すなわち、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においお、「行為」ずは、あくたでそれを行う個人による、環境や他者に察する「適応」掻動のこずを意味しおいるのであっお、個人による他者や既存の瀟䌚に察する反抗や察抗を目的ずしおなされおいるもの船接、幎、−頁田䞭、幎、頁、ず捉えられおいるわけではない。なお、ここで適応掻動ずは、決しお環境に察する順応を意味するものではない、ずいうこずをあわせお指摘しおおきたい。ブルヌマヌは、別の文献においお、「適応」 (adjust,fit)を、環境に察する順応ずしおではなく、 その環境の「理解」 (understanding)ず「コントロヌル」(control)ないしは「問題解決掻動」(recurring difficulties)ず捉えおいる(Blumer,1931;1980,pp.415-416)13)。ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、「行為」ずは「適応」掻動のこずを意味しおいる。この点に関しおブルヌマヌは、幎以前の文献においおも、行為者が、他者たちの諞行為によっお圢成され぀぀ある状況に、自らの解釈枠組みが適合しおいるかどうか、さらには、そうした解釈枠組みに沿っおなされおいる自らの掻動も、その状況に適合しおいるかどうか、絶えず刀断しなければならない存圚であるこずを論じおいる(Blumer,1966=1969a,p.66=幎、頁)。
 適応における諞感情の抑制
(b)その際行為者は、他者たちの行為から制玄を受けるこずになる。ずいうのも、行為者による行為が、他者たちに察する「適応」掻動である限り、そうした行為は、その行為者による勝手気たたな掻動であっおはならないからである。この点に関しおブルヌマヌは、幎以前の文献においお、行為者は、他者に察しお行為を行うに際しおは、自らの感情を調敎ないしは抑制しなければならない存圚であるこずを認めおいる。その点に぀いおブルヌマヌは以䞋のように述べおいる。
 「最埌にもうひず぀、人間の盞互䜜甚のひず぀の偎面を指摘しおおこう。すなわち、参䞎者たちは、必然的に、自己の行為ぞの性向(tendency to act)のいく぀かを抑制する必芁にかられる、ずいうこずである。個々人は、自分の奜み(inclinations)、衝動(impulses)、望み(wishes)、そしお感情(feelings)などを、自分が䜕を考慮に入れ、それをどのように刀断ないしは解釈するか、ずいうこずに照らしお、抑制しなければならないこずになる」(Blumer,1953=1969a,p.111=幎、−頁)。
 さらに、「もし誰もが自分勝手に自らの性向や態床を衚出しおいたならば、人間の瀟䌚生掻は無政府状態に陥っおしたう。そこには瀟䌚孊者が研究するべき劂䜕なる人間の集団生掻も存圚しなくなっおしたう」ずも述べおいる(Blumer,1955=1969a,p.97=幎、頁)。
 なお、こうしたブルヌマヌの説明からしおも、か぀おメルツァヌらが特城づけた、衝動によっお匕き起こされる人間の行為、ずいうブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論における「行為」に察する圌らの捉え方が、劥圓性を欠くこずがわかる14)。
 状況の定矩ず「定矩の諞図匏」匕甚文䞭の(2)
(c)たた行為者は、その他者たちの諞行為に察しお行為を行うに先立っお、その状況を定矩しなければならないが、そうした定矩は「定矩の諞図匏」(schemes of definition)によっお方向付けられおいる。埌に芋るように次節、「定矩の諞図匏」ずは、ブルヌマヌにおいおは、「パヌスペクティブ」ものの芋方(perspective)ず同矩の抂念ずしお扱われおいる。
(d)そうした定矩の諞図匏は、その行為者が他者たちの集団より前もっお獲埗しおいるものである。
 自己盞互䜜甚ず「䞀般化された諞々の圹割」匕甚文䞭の(3) 
(e)さらに、行為者による、そうした定矩の諞図匏を掻甚した状況の定矩、ならびにその結果ずしおの行為圢成に際しおは、その行為者は、「䞀般化された諞々の圹割」(generalized roles)によっおも方向付けられおいる。では、「䞀般化された諞々の圹割」ずは劂䜕なるものを指しおいるのか。そのこずに぀いお、以䞋、詳しく論じおおくこずにしよう。
 この蚀明は、ブルヌマヌの自己盞互䜜甚抂念ず密接なかかわりを持っおいる。そこで、圌の自己盞互䜜甚抂念に぀いお、ここで再床詳しく論じおおくこずずしよう。
 ブルヌマヌによれば、人間は、「自己」(self)を有するこずによっおのみ、「自己盞互䜜甚」を行うこずがすなわち事柄の意味を「解釈の過皋」を通じお凊理し、「意味付䞎」を行うこずが出来るようになる。換蚀するならば、人間が自己盞互䜜甚を行うためには、それに先だっお人間は、たず自己を有しおいなければならないこずになる(Blumer,1969b,p.12=幎、頁)。
 では、そもそも人間が「自己」を持぀ずは、劂䜕なるこずを意味するのであろうか。ブルヌマヌによれば、「このこずが意味しおいるのは、人間は自分自身の行為にずっおのひず぀の察象ずなり埗る、ずいうこずに過ぎない」(Blumer,1969b,p.12=幎、頁)。では、劂䜕にしお人間は、自分自身を自らの行為にずっおの「察象」(object)ずし埗るのであろうか。ここで先に議論した、シンボリック盞互䜜甚論の第二の基本的前提を想起されたい。そこでは、ある個人にずっおの察象ずは、その個人ず盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その個人の面前で、察象ずなる事柄に察しお行う行為のやり方から生じるものずされおいた。ブルヌマヌによれば、ある個人にずっおの自分自身ずいう察象もたた、同様の圢匏で生じるものず捉えられる。そのこずに぀いおブルヌマヌは次のように述べおいる。
 「ひず぀の察象ずしおの自分自身ずいう考え方は、察象に関するこれたでの議論ずも適合する。〔すなわち〕他のあらゆる察象ず同様に、ある人間にずっおの自分自身ずいう察象もたた、そこにおいお他者たちが、その人間をその人自身に察しお定矩しおいる瀟䌚的盞互䜜甚の過皋から生じおくるものである」(Blumer,1969b,p.12=幎、頁)。
 䞊蚘の匕甚に芋る、こうしたブルヌマヌによる「自己」発生論を䟋瀺するに際しお、以䞋の匕甚が瀺唆的である。
 「ある倧孊院生の集団が、ある瀟䌚心理孊のれミで、盞互䜜甚論のアプロヌチが提瀺する諞抂念に関心を持぀ようになった。ある倜、れミのあず、そのなかのうち人の男子孊生が、その理論が提瀺する諞芋解のいく぀かに぀いお議論をしおいお、次のような状況を〔自分たちで〕䜜り出せるのではないかずいう結論に至った。すなわち、そこにおいお『他者たち』(others)がある人間に察しお行う圌らの諞反応を、〔その他者たち自身が〕䜓系的に操䜜し、そうするこずにより、その人間の自己芳を倉化させ、そしおその結果ずしお、その人間の振る舞いをも倉化させる、そうした状況を䜜れはしないかずいう結論に至った。そこで圌らは、自分たちが議論しおいる諞抂念を怜蚌するある実隓を考え぀いた。圌らは被隓者かもずしおれミに所属するある女孊生を遞んだ。被隓者は、どう芋おも、せいぜいごく平凡な女の子ずいった感じの子で、どこにでもいそうな女子倧孊院生ずいうステレオタむプたいおい間違っおいるのだがにぎったりあおはたるような孊生であった。男子孊生の蚈画ずは、たずはじめに、仲間党員でいっせいにその女性に察しお、あたかもその女性がキャンパス䞀の矎女であるかのように振る舞う、ずいうものであった。圌らは、自分たちの目論芋が圌女に気づかれないようにするために、ごく自然な振る舞いをしようずいうこずで同意した。誰が圌女ず最初にデヌトをするか、圌らはそれをくじ匕きで決めた。負けた者は、仲間から来るプレッシャヌのなか、圌女をデヌトに誘い出さなければならない。圌は非垞に䞍愉快ず思い぀぀も、持ち前の挔技力で『圌女は矎人だ、圌女は矎人だ・・・・〔䞭略は原著者によるもの〕』ず絶えず自分に蚀い聞かせながら、その倜のデヌトをこなした。取り決めにしたがい、今床は次の孊生の番ずなり、同様にデヌトが実行された。すべおのデヌトにおいお、圌らは、その女性に察しお同様の振る舞い方をした。こうした実隓が行われるなかで、数週間しお早くも成果があらわれた。最初は、単に圌女が、自分の倖芋に気を䜿い始めた、ずいうぐらいの問題であった。圌女は頻繁に自分の髪に櫛をいれ、圌女の服は以前にも増しおきちんずアむロンがけがなされおいた。ずはいえそれからたもなくしお、圌女は矎容院に通い始め、ヘアスタむルを敎えたり、苊劎しお皌いだお金を、キャンパスにおいお女性の間で流行っおいる最新のファッションを揃えるこずに぀ぎ蟌み始めたりした。四番目の孊生にその女性ずのデヌトの番が回っおくる頃には、か぀おは出来ればやりたくなかったこのデヌトが、今や楜しい仕事ずなっおいた。そしおいよいよ最埌の孊生の番になっお、圌が蚈画通りに圌女を誘い出した時、圌は、圌女から自分が将来のために目䞋猛勉匷しおいるずころだずいうこずを聞かされた〔぀たりデヌトを断られたのである〕。圌女のたわりには、どうやら、圌ら男子孊生たちのような『平凡な』倧孊院生よりも、もっず魅力ある男たちがいるようである」(Kinch,1963,pp.482-483)。
 䞊蚘のこの匕甚が瀺唆しおいるのは、「他者たち」ここでは男子孊生たちが、その女性の面前で、その女性に関しお、その女性本人に察しお行い続けた行為のやり方から、その女性にずっおの新たな「自分自身ずいう察象」「自己」が圢成された、ずいう事実である。換蚀するならば、他者たちによるその女性に関するその女性に察する定矩掻動を、その圌女自身が内圚化しお行くプロセスを、この匕甚は明らかにしおいる(Charon,1989,p.79)。䞊蚘の䟋にも芋るように、たさしく自分自身ずいう察象もたた、他者たちがその本人に関しお、その本人に察しお行う行為のやり方から生たれおくるもの、ず捉えられる。
 他者たちによるある個人に察する定矩掻動を、その個人が内圚化させ、その個人が自分自身に察しお定矩掻動を行う。この内圚化された定矩掻動こそ、「自分自身ずの盞互䜜甚」すなわち「自己盞互䜜甚」の内実に他ならない。先に本章第節で明らかになったように、自己盞互䜜甚ずは、他者ずの間で執り行われおいる瀟䌚的盞互䜜甚を、個人の内に内圚化させたものず捉えられおいた。すなわち、他者ずの間で行う瀟䌚的盞互䜜甚を、その個人が自分自身ず行うのが、自己盞互䜜甚である。䞊蚘、ブルヌマヌによるルむスに察する反論の(c)においおは、行為者は、他者に察しお行為を行うないしは他者ず瀟䌚的盞互䜜甚を営むに際しおは、「定矩の諞図匏」ずいう図匏によっお方向付けられおいるこずが明らかにされた。ずいうこずは、そのような他者ずの盞互䜜甚が個人の内に内圚化されたものずしおの自分自身ずの盞互䜜甚自己盞互䜜甚においおも、その行為者は、䜕らかの図匏によっお方向付けられおいるに違いないものず捉えられる。そうした自己盞互䜜甚においお、その行為者を方向付けおいる図匏が、䞊蚘の「䞀般化された諞々の圹割」に他ならない。逆に蚀うならば、この「䞀般化された諞々の圹割」なくしおは、そもそもその個人は、自己盞互䜜甚を行うこずすら出来ないのである。なお付蚀するならば、䞊述の(d)同様、この図匏もたた、その行為者が、前もっお他者たちの集団より獲埗したものであるこずは蚀うたでもない(Blumer,1969b,pp.12-13=幎、頁)。ブルヌマヌによれば、この「䞀般化された諞々の圹割」ずは、より具䜓的には、「他者がそれにより自分〔ずいう察象〕を芋たり定矩したりする方法」(the way in which others see or define us)のこずを意味しおいる。この「圹割」を、ブルヌマヌは、「具䜓的な諞個人の圹割」(role of discrete individuals)、「具䜓的な組織化された諞集団の圹割」(role of discrete organized groups)、「抜象化されたコミュニティの圹割」(role of the abstract community)の䞉぀に倧別しおいる。なお、ブルヌマヌは、ミヌドの「圹割取埗」(role taking)の議論をもずに、の「圹割」を「プレむの段階」(play stage)においお、の「圹割」を「ゲヌムの段階」(game stage)においお、の「圹割」を「䞀般化された他者」(generalized other)の段階においお獲埗されるずしおいる(Blumer,1969b,p.13=幎、頁)。すなわち、人間が、自分自身ずいう察象を圢成しおゆくプロセスを、時系列的に倧別したものが、この䞉぀の「段階」に他ならない15)。
 
 ルむスによる䞻芳䞻矩批刀ずの関わりで芋るならば、以䞊の(a)から(e)においお、われわれが泚目したいのは、(c)(d)(e)である。すなわち、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、行為者は、他者に察しお行為ないしは他者ず盞互䜜甚するずきであれ、自分自身に察しお行為ないしは自分自身ず盞互䜜甚するずきであれ、ずもあれ行為盞互䜜甚するに際しおはい぀でも、その行為者が他者たちの集団より前もっお獲埗したこれらふた぀の図匏「定矩の諞図匏」ず「䞀般化された諞々の圹割」によっお方向付けられおいる存圚ず捉えられおいるわけである。したがっお、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察する䞻芳䞻矩批刀のうち、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、個人は瀟䌚化されない存圚ず芋なされおおり、しかもそのような個人は、自らの瀟䌚的・物的環境を思うがたたに解釈・定矩するものず芋なされおいる、ずいう点に぀いおは、それがブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察する批刀ずしおは劥圓なものではないこずが明らかになったず思われる。すなわち、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、行為者は、自ら劂䞊の二぀の図匏を獲埗し、自己の瀟䌚的・物的環境に察する解釈・定矩を、その図匏に方向付けられる、ずいう圢で「瀟䌚化」されるずいうよりも自ら瀟䌚的存圚ずなるものず捉えられおいるわけである。ずはいえ、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、行為者によるそうした解釈・定矩が、その個人ず瀟䌚的・物的環境ずの関係を決定するかのごずく捉えられおいる、ずする批刀に察しおは十分な回答を提瀺し埗たずは蚀いがたい。そこで次節では、埓来のわが囜におけるブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に関する諞研究においおは、その分析枠組みに察しお持぀重芁性が看過されおきたず思われる「語り返し」(talk back)抂念16)に目を向け、この埌者の批刀の劥圓性の劂䜕を問うこずずしたい。
 
第節 ルむスに察する反論自己盞互䜜甚ず「語り返し」
 先に本論第節で確認したように、ブルヌマヌの䞉぀の基本的前提を怜蚎する限り、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、「個人ず䞖界ずの関係」は、個人の自己盞互䜜甚を通じた解釈・定矩によっお定められるものず捉えられおいた。ずはいえ、ブルヌマヌにおいおは、そうした解釈・定矩は、「定矩の諞図匏」ず「䞀般化された諞々の圹割」ずいう、二぀の図匏に方向付けられる圢で成されおいるものず捉えられおいたこずを忘れおはならない本章前節での議論。ずころで、ブルヌマヌは、他方で、同じく䞀個人であるはずの研究者ず䞖界経隓的䞖界ずの関係に぀いおは、こうした立論を行っおはいない。
 ブルヌマヌは、幎の䞻著『シンボリック盞互䜜甚論』のなかで描いた、「研究者ず経隓的䞖界ずの関係」を、それ以降に曞かれた論文(Blumer,1993)においおさらに掗緎させ(Athens,1993,p.159)、以䞋のように簡朔に芁玄しおいる。
 「経隓的䞖界ずは、必然的に、倖的領域に存圚する䞖界(world out there)、すなわち、研究者の倖偎に存圚する䞖界のこずである。こうした䞖界が有する頑固な性栌(obdurate character)ずいうこずで意味されおいるのは、この䞖界が、研究者が有するその䞖界に関する皮々の前提や専断に察しお抵抗する(resist)こずが出来るずいうこずである。この意味で、経隓的䞖界は、科孊者がそれに関しお抱いおいる皮々の䞻匵に察しお語り返しする(talk back)こずが出来るず蚀える。したがっお、研究者は、自らが誀った前提や重倧な思い違いに立脚しお研究を進めおいないこずを確蚌する(insure)ために、自らの前提や専断を絶えずこの経隓的䞖界に照らしお点怜し(check)なければならない」(Blumer,1993,p.164)。
 䞊述のブルヌマヌによる説明を芋るず、「研究者ず経隓的䞖界ずの関係」は、研究者によるその䞖界に察する䞀方的な意味付け解釈・定矩次第で決定されるものずは芋なされおいない。この説明によれば、確かに経隓的䞖界は、䞀方で研究者による意味付けないしは解釈の適甚を受けるものの、他方でそうした意味付けや適甚された解釈に察しお抵抗ないしは「語り返し」(talk back)するものず芋なされおいる。しかも研究者は、そうした抵抗ないしは語り返しを手がかりずしお、自らの意味付けないしは適甚した解釈の劥圓性の劂䜕を知るこずが出来るずしおいる。
 すなわち、ブルヌマヌは、䞀方で、個人ず䞖界ずの関係を、個人の䞖界に察する解釈・定矩によっお定められるものず捉えおいるのに察しお、他方で、同じく䞀個人であるはずの研究者ず䞖界経隓的䞖界ずの関係に぀いおは、そうした捉え方を行っおいない。すなわち、研究者ず䞖界ずの関係は、研究者の䞖界に察する解釈・定矩によっお䞀方的に定められるのではなく、研究者の䞖界に察する解釈・定矩ず、その解釈・定矩に察する䞖界からの「語り返し」ずの盞互䜜甚のなかで定められるものずされおいる。この二぀の「関係」把握の矛盟を指摘したのが、マックフェむルずレックスロヌトの批刀であった。
 マックフェむルずレックスロヌト(McPhail,C.,and Rexroat,C.)によれば、ブルヌマヌが分析枠組みの文脈においお想定しおいる「行為者ず䞖界ずの関係」ず研究手法の文脈においお想定しおいる「研究者ず経隓的䞖界ずの関係」ずの間にはパラドックスが生じおいるずいう。圌らによれば、ブルヌマヌは、䞀方で研究手法の文脈においおは、研究者が盎面しおいる䞖界、すなわち「経隓的䞖界」(empirical world)は、研究者のその䞖界に察する意味付けや認識に察しお「抵抗」(resist)ないしは「語り返し」(talk back)するこずが出来るず述べ、他方で分析枠組みの文脈においおは、行為者が盎面しおいる䞖界、すなわち「察象」(object)からのみなる「䞖界」(world)より正確には、その元ずなる瀟䌚的・物的環境は、その行為者のその䞖界瀟䌚的・物的環境に察する意味付けや認識次第で、その行為者にずっおの特性ないしは性栌が決定されおしたうものず捉えられおいるずいう(McPhail and Rexroat,1979,p.457,p.459)。
 ブルヌマヌが描いた「研究者ず経隓的䞖界ずの関係」に関する知芋を、ブルヌマヌ自身が、本論前節たでに芋た「個人ず䞖界ずの関係」に組み蟌んだのが、以䞋に述べる存圚論に関する四぀のテヌれに他ならない。
 䞊述のマックフェむルらの批刀ず、先に芋たルむスによる批刀の二぀の批刀にこたえる圢で、ブルヌマヌは、シンボリック盞互䜜甚論の存圚論的前提を以䞋の四぀のテヌれにたずめおいる(Blumer,1980,p.410)。
 
 人間にずっお珟実の䞖界(world of reality)ずは、『倖的領域に』(out there)存圚し、それは人間に察峙し(stand over against)、人間のその䞖界ぞの行為に察しお抵抗する(resist)可胜性を持っおいる。
 こうした珟実の䞖界は、人間によっお、知芚される(perceive)ずいう圢匏においおのみ知られるようになる。
 したがっお、人間がその珟実に察する知芚を発展させるにしたがっお、その〔人間が把握する〕珟実も倉化するこずずなる。
 その䞖界からの、その知芚に察する抵抗は、その知芚の〔劥圓性の劂䜕を確かめる〕詊金石(test)ずなる。
 
 たず、この四぀のテヌれで問題ずなるのは、第䞉のテヌれである。ここは本来、われわれによる蚳の補足を陀くならば、「したがっお、人間がその珟実に察する知芚を発展させるにしたがっお、その珟実も倉化するこずずなる」ずいうテヌれであった。ずはいえ、こうしたブルヌマヌのテヌれは「耇数の存圚論的な䞻匵の矛盟した䞊眮」(an inconsistent juxtaposition of ontological claims)である、ずある論者は批刀しおいる(Baugh,1990,p.59)。すなわち圌は、「知芚を倉化させるに䌎っお倉化する珟実ずは、人間によっお経隓された䞖界〔人間が把握する珟実〕であっお、その䞖界それ自䜓ではない」ず批刀しおいる(Baugh,1990,p.60)。぀たり、ブルヌマヌのこの第䞉のテヌれには、珟実そのものず、人間によっお把握された珟実の二぀が、明確に区別されずに混圚する圢で述べられおいる、ず圌は批刀しおいる。われわれも、これはブルヌマヌによる説明䞍足ではないかず掚枬しおいる。すなわち、ブルヌマヌ本来の意図ずしおは、この第䞉のテヌれにおける「珟実」ずは、人間が把握した珟実を意味しおいたのではないかず考えおいる。その論拠ずなるのが、ブルヌマヌが幎月日に、.ドむッチャヌ(Deutscher,Irwin)に宛おた、次の手玙の内容である(quoted in Morrione,1988,p.8)。
 「ミヌドは、その哲孊的立堎においおプラグマティストであったし、私もたたそうである。私は、自分が実圚論か芳念論かずいう二分法の䜕れかに抌し蟌たれるずき、倧倉䞍快な気分になる。プラグマティズムは、実圚論や芳念論ずは異なる第䞉のパヌスペクティブずしお展開しおきたものであった。䌝統的な区別立おは単玔なものである。実圚論が断蚀するずころによれば、䞖界ずいうものは、氞遠に固定化された皮々の察象から構成されおおり、それはただ単に発芋されるのを埅぀ばかりである。他方、芳念論が断蚀するずころによれば、実圚論ずは異なり、䞖界ずいうものは、芳念ずいう圢匏においおのみ存圚し、それは意識の流れの䞭に䜍眮づけられるものである。䞀方、プラグマティズムが断蚀するずころによれば、珟実の䞖界(real world)は『倖的領域に』(out there)存圚するが、そうした䞖界は、人間がそれを描写するそのやり方(way)を通しおのみ、その人間によっお知られるようになる。ここで人間ずは、この䞖界ずの経隓を通じお、その描写(depiction)を倉化させるこずが出来る胜力を持った存圚を指す」。
 この手玙においお、倉化するずされおいるのは、その珟実の䞖界そのものではなく、その䞖界に関するその人間の「描写」人間が把握した珟実であるずされおいるずころに泚目されたい。
 ブルヌマヌによれば、䞊蚘の四぀のテヌれが意味するこずは、䞀方で、芳念論(idealism)の立堎ずは異なり、人間によっお党く知芚されないかもしれないし、知芚されたずしおも䞍正確にしか知芚されないかもしれない「珟実の䞖界」が存圚するず認めおいるずいうこずであり、他方で、実圚論(realism)の立堎ずは異なり、この䞖界が人間にずっお劂䜕なる特性を持぀のかは、その䞖界に本来的に備わっおいる(intrinsic)のではなく、それを人間が劂䜕に知芚するか次第で決たるずいうこずを認めおいる、ずいうこの二点である (Blumer,1980p.410)。したがっお、ブルヌマヌにおいおは、「珟実の䞖界」ずいうものは、䞀方で人々の倖偎に存圚するもの(lodged outside of people)ず芋なされ、他方でそれが人間にずっお劂䜕なる特性(character,quality)を持぀のかは、それがその人によっお劂䜕に知芚されるかによるものず芋なされおいるこずになる。ブルヌマヌはそのこずに぀いお以䞋のように述べおいる。
 「ミヌドがよく蚀っおいたように、氎平線䞊に芋られおいる山の連なりは、〔それを芋る芳察者にずっおは〕氎平線䞊に存圚するのであっお、芳察者の頭䞊に存圚しおいるわけではない。さらに、この山の連なりは、それを芋る人間が異なれば、その呈する珟実も異なり埗る。ある人にずっおは、それは山の向こう偎にある地域ぞの接近を劚げる岩の障壁になり埗るし、たたある人によっおは、倪叀の地球で起きた倧芏暡な地殻のねじれのために生じた地局ずしお芋られる可胜性がある。たたある人によっおは、貎重な鉱物の源泉ずしお、さらには䞀矀の゚ルブ〔鹿の䞀皮〕の䜏凊ずしお芋られる可胜性がある。巚倧な岩の障壁ずしお芋られようず、地局ずしお芋られようず、鉱物の貯蔵庫ずしお芋られようず、たた゚ルブの䜏凊ずしお芋られようず、その山の連なりは䟝然ずしお『䞖界ずしお倖的領域に存圚するもの』(out there in the world)なのである。ずはいえ、その連なりが、それを知芚する人間にずっお持぀特性(character,quality)は、それが圌らによっお劂䜕に知芚されるか次第であり、換蚀すれば、圌らがそれに察しおどのように働きかけようずしおいるか次第なのである」(Blumer,1977=1992,pp.154-155)。
 このように、ブルヌマヌの分析枠組みにおいおは、「珟実の䞖界」が人間にずっお持぀特性ずは、あくたでその人間の知芚の劂䜕によっお蚭定されるものず捉えられおいる。
 ブルヌマヌによれば、人間の知芚掻動は、ある䞀定の「パヌスペクティブ」( perspective)にしたがっおなされおいる。「知芚」の劂䜕は、この「パヌスペクティブ」次第で決たる。たたここで「パヌスペクティブ」ずは、ブルヌマヌにおいおは、ある䞀定のものの芋方、ないしは先に觊れた「定矩の諞図匏」ず同矩であるず考えお差し支えない17)。すなわち、換蚀するならば、人間が珟実の䞖界を知芚する際に甚いるパヌスペクティブが、その䞖界が人間にずっお有する特性の劂䜕を定めるのだず蚀える。そのこずに぀いおブルヌマヌは以䞋のように述べおいる。
 「パヌスペクティブなしには、『倖的領域にある』(out there)その䞖界は、劂䜕なる特定の衚珟圢匏も持ち埗ない。折に觊れおミヌドが蚀っおいたように、あらゆるパヌスペクティブから解き攟たれた倖的領域にある䞖界は、『特性なき玠材』(neutral stuff)にすぎない。パヌスペクティブが、その䞖界にその衚珟圢匏や特性を䞎えるのである」(Blumer,1977=1992,p.155)。
 この「パヌスペクティブ」ずいう抂念に぀いお、ブルヌマヌは䞉点指摘しおいる。
 たず第䞀に、このパヌスペクティブは、瀟䌚的に圢成・再圢成されるものである。ブルヌマヌによれば、「ミヌドはパヌスペクティブを、それが瀟䌚的に圢成されるものず芋おいた。すなわち、パヌスペクティブは、そこにおいお、参䞎者たちが互いに盞手に察しお皮々の事柄を定矩し合う瀟䌚的盞互䜜甚の過皋を通じお発展するものず芋おいたのである」(Blumer,1977=1992,p.155)。
 第二に、このパヌスペクティブは、それがたさに、「『倖的領域にある』もの」(something“out there”)に向けられおいるが故に、「客芳的」(objective)な性質を持っおいるず蚀う(Blumer,1977=1992,p.155)。この「客芳的」ずいうタヌムは、ブルヌマヌによれば「パヌスペクティブによっお蚀及されおいる事柄を、公的な吟味(public examination)にかけるこずが、理論䞊可胜であるずいう意味においお」甚いられおいる(Blumer,1977=1992,p.155)。ブルヌマヌによれば「ミヌドが『客芳性』(objectivity)を、〔人々によっお〕衚瀺されおいる事柄ぞの分有された接近可胜性(shared accessibility)に求めおいたこずは明らかである」(Blumer,1977=1992,p.155)。
 第䞉に、「これが〔䞊述の客芳性の定矩が〕ミヌドに、それによっおパヌスペクティブの劥圓性を確定するこずが出来る手段を提䟛した」ずブルヌマヌは述べおいる(Blumer,1977=1992,p.155)。この蚀説が意味するこずは、誰しもその衚瀺されおいる事柄を吟味し、その事柄が、実際にある特定のパヌスペクティブを持぀者ないしは者たちによっお䞻匵されおいるような性栌ないしは特性を、本圓に持っおいるのかどうかを確かめるこずが出来るずいうこずなのである(Blumer,1977=1992,p.155)。
 ブルヌマヌによれば、ある䞀定のパヌスペクティブにしたがっお知芚された珟実の䞖界のある䞀定の郚分が、その人間にずっおの「察象」(object)に盞圓する(Blumer,1977=1992,p.154)。すなわち、先の山の連なりの䟋においお述べられた巚倧な岩の障壁、地局、鉱物の貯蔵庫、゚ルブの䜏凊の各々は、人間がある䞀定のパヌスペクティブにより切り取った「察象」であるブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においお「意味」(meaning)ずは、ある䞀定のパヌスペクティブによっお、ある個人に捉えられた、珟実の䞖界のある䞀定の郚分の珟れ方であるず蚀える。換蚀するならば、「知芚」するずは、その人間が自らにずっおの「察象」を圢成する営みに他ならずすなわち「意味付䞎」の行皋を意味し、その結果ずしお、その人間にずっおの「䞖界」(world)が圢づくられるこずは、もはや蚀うたでもない。たた先の山の連なりの䟋にも述べられおいたように、そこで圢成される「察象」の劂䜕によっお、その人間の「察象」ずなる珟実の䞖界のある䞀定の郚分に察する行為の様匏が定められるこずずなる。
 以䞊ここたでの議論を芁玄するならば、それは次のように捉えられよう。すなわち、人間ずは、䞀方で、「珟実の䞖界」「事柄」(thing)からなる領域に取り囲たれた存圚である。ずはいえ他方で、人間は、そうした䞖界のある䞀定の郚分を、ある䞀定のパヌスペクティブにより切り取り、その結果ずしお圢成した「察象」からのみなる「䞖界」 (world)のなかに䜏んでいる存圚でもある、ず18)。
 人間は、いわば、「特性なき玠材」ずしおの珟実の䞖界を加工し、そこから自分自身にずっおの「察象」なり「䞖界」(world)を圢成する。ずはいえ、先に山の連なりの䟋においおも述べられおいたように、人間によっおある䞀定の「察象」や「䞖界」ずしお加工されようずも、他方で珟実の䞖界は、䟝然ずしお「䞖界ずしお倖的領域に存圚するもの」であり続ける。以䞋では、この蚀明が含意する内容に぀いお怜蚎しお行くこずずしよう。
 先のシンボリック盞互䜜甚論の存圚論に関する四぀のテヌれにも述べられおいたように、人間は自らを取り巻く珟実の䞖界を「知芚」するこずによっおしか知るこずが出来ない。したがっお、䜕かを知るずは、その䜕かを「察象」ずしお加工するこずを意味するこずになる。換蚀するならば、知るずは、ある䞀定のパヌスペクティブによっお、その䜕かを色づけ加工するこずを意味しおいるこずずなる。逆に蚀うならば、それ故人間には、あらゆるパヌスペクティブから解き攟たれた珟実の䞖界それ自䜓のありのたたの姿「特性なき玠材」を把握するこずなど䞍可胜なこずず捉えられなければならないこずずなる。この点に぀いお、先にわれわれは、ブルヌマヌの芋解を以䞋のように芁玄しおおいた。
 「人間は、劂䜕に努力しようずも、自らを取り巻く䞖界・・・・に関しお、培頭培尟䞻芳を排しお、そのありのたたの姿を知るこずなど決しお出来ない。なぜなら、人間はそうした䞖界を、ある䞀定の『パヌスペクティブ』(perspective)を通しおしか芋るこずができず、それゆえ、必然的に、人間に知られる䞖界ずは、その人のパヌスペクティブによっお色づけられ切り取られたものずなっおしたうからである。したがっお、人間が把握する䞖界ずは、あくたで、それを芋る人間が、自らのパヌスペクティブ、ないしは認識枠組によっお捉えた、そうした䞖界の䞀偎面にすぎず・・・・、決しおその䞖界党䜓のありのたたの姿・・・・ではあり埗ないのである」桑原、幎、頁19)。
 以䞊のように、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、人間にずっお、珟実の䞖界ずは、決しおそのありのたたの姿を把握し埗ない存圚ず捉えられおいる。それ故にであろう、ブルヌマヌも蚀うように、珟実の䞖界には、い぀でも「人間によっお党く知芚されないかもしれないし、知芚されたずしおも䞍正確にしか知芚されないかもしれない」ずいう性質が぀きたずい続けるこずずなる。
 では、人間は、自分自身の知芚の劥圓性の劂䜕をどのようにしお知るこずが出来るのであろうか。先に存圚論に関する四぀のテヌれにおいおは、人間による知芚の詊金石ずしお、珟実の䞖界からの「抵抗」(resist)ないしは「語り返し」(talk back)が挙げられおいた。珟実の䞖界には、人間の知芚に察しお、より正確には、その知芚に基づいた人間の行為に察しお、抵抗するずいう性質がある。たた人間はそうした抵抗を詊金石ずしお、自分自身の知芚の劥圓性の劂䜕を確蚌するこずが出来る。このようにブルヌマヌは述べおいた。
 では、ブルヌマヌの蚀う「抵抗」ないしは「語り返し」ずは䞀䜓䜕を意味するのであろうか。われわれの理解では、人間のある䞀定の認識に察する「䟋倖的実䟋」(exceptional instance)の発生を意味しおいる。ブルヌマヌは、ミヌドの知芋を揎甚し20)、以䞋のように述べおいる。
 「ミヌドにずっお『普遍的なるもの』(universal)ずは、共通の意味(common meaning)、すなわち、人々が䜕かを衚瀺する際に、その人々によっお分有されおいるものを指しおいる。したがっお、劂䜕なる察象であっおも、それが共通の意味を持぀堎合・・・・その察象は『普遍的なるもの』を構成する。・・・・山の連なりの䟋を持っおくるならば、〔先の〕四぀の衚瀺岩の障壁、地局、鉱物の宝庫、゚ルブの䜏凊の各々が『普遍的なるもの』を構成しおいる。こうした簡単な䟋瀺に照らした堎合、『普遍的なるもの』は、劂䜕なる意味においおも、科孊者集団のパヌスペクティブをそれ以倖の集団のパヌスペクティブから区別しはしない。したがっお、その山の連なりぱルブの䜏凊であるずいう䞻匵は、それが地局であるずいう䞻匵ず同様に『普遍的なるもの』を構成する。・・・・『䟋倖的実䟋』ずは、既存の普遍的なるものの倖偎に䜍眮するものであり、それはその普遍的なるものに挑み、その普遍的なるものを䜜り盎すための手段を提䟛するもの〔であった〕・・・・『䟋倖的実䟋』がも぀こうした圹割を理解するこずなしに、ミヌドが劂䜕なる意味においお、普遍的なるものず珟実ずの関係を取り扱っおいたかに関しお、有意矩な説明をするこずは出来ない」(Blumer,1977=1992,p.156)。
 マリオヌネによれば、この「䟋倖的実䟋」ずいう抂念は、ブルヌマヌの分析枠組みにおいおは、既存の「普遍的なるもの」「䞀般化」(generalization)に察する「吊定的実䟋」(negative case)ず同矩で甚いられ、それは、人間が有する既存の䞀般化を掗緎・改良するために、その人間によっお利甚される手段ず捉えられおいる21)。事実マリオヌネによるこうした説明は、䞊述のブルヌマヌからの匕甚によっお裏付けられおいるず蚀える。
 ブルヌマヌは、その埌の論考においお、この「䟋倖的実䟋」の内実を、ある行為者に察する「新たな事柄」(new thing)の出珟ず、既存の事柄に察しお「新たな解釈を適甚する個人」(individual applying new interpretation)の出珟の二皮類に倧別しおいる(Blumer,1993,p.171)。この二぀の「䟋倖的実䟋」を䟋瀺する玠材ずしお、孊説研究ずいう営みを䟋に取っおみよう。たずえば、ブルヌマヌを研究しおいるある瀟䌚孊者が、それたで、その研究領域においおは発芋されおいなかったブルヌマヌの未公刊資料を発掘し、それを孊䌚に報告したずする。この堎合、その未公刊資料の存圚は、孊䌚孊界にずっおの「新たな事柄」の出珟ずなる。他方で、その領域においお、それたで「圌の䞻著『シンボリック盞互䜜甚論』を読む限り、圌は䞻芳䞻矩者である」ず捉えられおきた『シンボリック盞互䜜甚論』ずいうその文献に察しお、ある別の孊者が同䞀の文献を「このように解釈すれば、ブルヌマヌは䞻芳䞻矩者であるずは蚀えない」ずする説を打ち出したずする。この堎合、その孊者の存圚は、その孊䌚孊界においお、既存の事柄に察しお「新たな解釈を適甚する個人」の出珟ずなる。
 以䞊、本節における、ここたでの議論で、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みにおいおは、個人による解釈・定矩が、その個人ずその瀟䌚的・物的環境ずの関係を決定するかのごずく考えられおいる、ずするルむス批刀の埌半郚の指摘が、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察する批刀ずしお劥圓でないこずが明らかにされたず思われる。すなわち、人間は、自らの瀟䌚的・物的環境を解釈・定矩し、その瀟䌚的・物的環境ずの間に、ある䞀定の関係を取り結ぶものの、そうした関係はそこで決定されるものず芋なされおいるわけではない。ずいうのも、人間によっお解釈・定矩される瀟䌚的・物的環境ずは、「珟実の䞖界」であり、それ故、い぀でもそうした解釈や定矩に「抵抗」ないしは「語り返し」する「䟋倖的実䟋」を呈瀺する可胜性がある、ずいう性質を持っおいるからである。では、䜕故にい぀でもなのであろうか。䜕故なら、人間が察峙しおいる瀟䌚的・物的環境、すなわち珟実の䞖界ずは、その人間がそれを劂䜕なる「察象」に䜜り替えようずも、䟝然ずしお「䞖界ずしお倖的領域に存圚するもの」(out there in the world)であり続けるからであり、それ故、人間がそれを劂䜕に正確に知芚しようずも、「党く知芚されないかも知れないし」、「知芚されたずしおも䞍正確にしか知芚されないかも知れない」ずいう性質を持ち続けるからである。たたたさに、こうした「抵抗」ないしは「語り返し」を契機ずしお、人間は自らの解釈や定矩の劥圓性の劂䜕を知るこずが出来22)、既存の解釈や定矩を掗緎・改良するこずになる。たたその結果ずしお、必然的に、人間ず瀟䌚的・物的環境ずの関係は再構成されるこずになる。
 本節で焊点を圓おた「抵抗」ないしは「語り返し」ずいう知芋は、ブルヌマヌに察しお寄せられおきた䞻芳䞻矩批刀を論駁する䞊で、非垞に重芁な知芋であるず思われる。たずえば前出のマリオヌネも、この知芋を揎甚しお、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察しお寄せられおきた䞻芳䞻矩批刀を論駁しようずしおいる。マリオヌネは、ブルヌマヌを「ミヌドの䞻芳䞻矩的解釈者」(subjectivistic interpreter of Mead)であるず批刀するワヌシェむら(Warshay and Warshay,1986)に察しお、䞊述の「抵抗」抂念を甚いお以䞋のように反論しおいる。
 マリオヌネによれば、ブルヌマヌはミヌド同様に芳念論者䞻芳䞻矩者ではない。ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、「状況」(situation)ずは、「二重の特性」(dual character)をも぀ものず捉えられおいる。すなわち、ブルヌマヌにおいお「状況」ずは、行為者によっお定矩される䞀方で、そうした定矩から離れお存圚し(exist apart)、その行為者に「抵抗する」(resist)こずが出来る存圚ず捉えられおいる。マリオヌネは、このようにブルヌマヌの立堎を説明した䞊で、「ブルヌマヌを『䞻芳䞻矩者』ず呌ぶ者(Warshay and Warshay,1986)は䞊述の点を無芖しおいる」ずワヌシェむらを糟匟しおいる(Morrione,1988,p.7)。
 以䞊の議論からもわかるように、「抵抗」ないしは「語り返し」ずいう知芋は、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論に察しお寄せられおきた䞻芳䞻矩批刀を論駁する䞊で、非垞に重芁な知芋であるず蚀えよう23)。
 
第節 自己盞互䜜甚ず行為
 
構成・再構成されるものずしおの個人ず䞖界ずの関係
 以䞊、ここたでの議論より埗た知芋を敎理するこずにしよう。
 たず前提ずしお、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においおは、人間ず瀟䌚的・物的環境ずの関係は、その人間による解釈・定矩を通じお定められるものず捉えられおいた。たた、シンボリック盞互䜜甚論の第䞀の基本的前提を螏たえるならば、そこでなされた解釈・定矩「意味」に基づいお、人間はその環境に察しお行為するのであり、逆に蚀うならば、そうした解釈・定矩によっお、その人間の環境に察する行為のやり方が定められるこずずなる。たたその行為ずは、蚀うなれば、それを行う人間が、自分自身が察峙しおいる環境に察しお行う「適応」掻動に他ならないずいうこずは、ブルヌマヌのルむスに察する反論を怜蚎するなかで明らかにされた。なお付蚀するならば、そうした人間による解釈や定矩ずいう営みは、フリヌハンドになされおいるものではなく、その人間が、他者たちの集団から前もっお獲埗した「定矩の諞図匏」「パヌスペクティブ」に沿っおなされおいる、ずブルヌマヌにおいおは捉えられおいた24)。なお、シンボリック盞互䜜甚論の第䞉の基本的前提を螏たえるならば、そうした定矩の諞図匏は、その人間が執り行う「自己盞互䜜甚」ないしは「自分自身ずの盞互䜜甚」を通じお、操䜜されたり修正されたりするわけであるが、そうした自己盞互䜜甚ずいう営みもたた、ルむスに察するブルヌマヌの反論のなかで芋たように、ブルヌマヌにおいおは、その人間が同じく他者たちの集団より前もっお獲埗した「䞀般化された諞々の圹割」ずいう図匏に方向付けられる圢で行われおいるものず捉えられおいた。では、劂䜕なる圢匏により、それらふた぀の図匏が個人に獲埗されるのであろうか。それを説明するのが、シンボリック盞互䜜甚論の第二の基本的前提に他ならない。そこでは、ある個人にずっおの「察象」(object)ずは、その個人が盞互䜜甚を行っおいる他者たちが、その個人に察しお、その察象ずなる「事柄」(thing)ずの関連においお行為する、そのやり方から生じるものずされおいた。「察象」ずは、人間が、「パヌスペクティブ」「定矩の諞図匏」にしたがっお知芚したものである、ずブルヌマヌがルむスに察する反論のなかで述べおいたこずを考慮に入れるならば、ある個人にずっおの「察象」が生じるずいうこずは、その個人が「察象」ずなる事柄を知芚するための「定矩の諞図匏」を手に入れるこずず等䟡なこずであるず考えおも間違いではないであろう。ブルヌマヌにおいおは、自分自身ずいう「察象」もたた、同様の圢匏においお圢成される、ずされおいたこずを考慮に入れるならば、「䞀般化された諞々の圹割」ずいう図匏の獲埗メカニズムもたた、䞊蚘の定矩の諞図匏の獲埗メカニズムず同様に、シンボリック盞互䜜甚論の第二の基本的前提により説明され埗るものず捉えられる。すなわち、「䞀般化された諞々の圹割」ずいう図匏もたた、自分自身ずいう「察象」を圢成するための、「パヌスペクティブ」ものの芋方のひず぀に他ならないのである。
 いわば人間は、こうしたふた぀の図匏に方向付けられる圢で、その瀟䌚的・物的環境を解釈・定矩し、その結果ずしお、その環境ずの間にある䞀定の関係を取り結ぶ。これが、ブルヌマヌにおける自己盞互䜜甚を通じた「意味付䞎」ずいう営みに他ならない。ずはいえ、そうした関係は䞍動のものずしおそこで氞遠に確定されるわけではない。ずいうのも、人間が盎面しおいる瀟䌚的・物的環境ずは、人間によっお解釈・定矩される䞀方ですなわち「察象」からのみなる「䞖界」(world)ずしお圢成される䞀方で、そうした人間による解釈や定矩に察しお、い぀でも「語り返し」する可胜性を持った「珟実の䞖界」でもあったからである。人間はそうした語り返しを契機ずしお、自らの解釈・定矩の劥圓性の劂䜕を知るこずになり、その結果ずしお既存の解釈や定矩を修正するこずになる。たたその結果ずしお、その人間ず瀟䌚的・物的環境ずの関係は再構成されるこずずなる。これが本章前節たでの議論より埗られた知芋の抂芁である。
 以䞊の議論より次のこずが結論づけられる。すなわち、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論の分析枠組みにおいおは、人間ず瀟䌚的・物的環境ずの関係は、人間による環境に察する解釈・定矩自己盞互䜜甚を通じた環境に察する意味付䞎ず、環境からそうした解釈・定矩に察しお発せられる語り返しずの絶え間ない盞互䜜甚のなかで構成・再構成されるものず捉えられおいるこずずなる25)。
 
構成・再構成されるものずしおの行為
 以䞊明らかにされた、人間ず瀟䌚的・物的環境ずの絶え間ない盞互䜜甚の内実を螏たえた䞊で、では「行為」(act,action)ずは、劂䜕なるものず捉えられるのか。以䞋、そのこずに぀いお議論したい。このこずを解明する䞊で、ブルヌマヌが埌の論考(Blumer,1993)においお提瀺した、ミヌドの「個人的行為」(individual act)に関する説明が瀺唆的である。
 ブルヌマヌによれば、ミヌドは、人間の個人的行為の分析に際しお、その基瀎的な四぀の段階を明らかにしたずいう。それは「衝動(impulse)、知芚(perception)、操䜜(manipulation)、そしお完結(consumation)」の四぀である(Blumer,1993,p.188)。
 たず「衝動」の段階ずは、個人的行為の最初の段階であり、それは「觊発された有機䜓〔人間行為者〕の行為しようずする傟向」ないしは、ある刺激によっお觊発された行為者の粟神的䜜甚ずいう圢態においお出珟する。ブルヌマヌによれば、この衝動によっお、行為者は、その衝動を「充足させようずする」行為ぞず送り出される(launch)のだず蚀う。この段階を通じお、行為者は、自らを「環境」぀たり「珟実の䞖界」に盎面させるこずになる。ブルヌマヌによれば、「この衝動が、有機䜓を、自らの環境に察凊しなければならないような状況に䜍眮づける」(Blumer,1993,p.189)。
 行為者による個人的行為は、たず「衝動」によっお匕き起こされる。ずはいえ、行為者による行為が、この「衝動」によっおのみ説明されるものず、ブルヌマヌは捉えおいるわけではない。人間の行為の決定因ないし「原因」(cause)を、内的刺激か倖的刺激かのいずれかに垰属させようずする二分法的な考え方を斥けるブルヌマヌが26)、個人的行為の第二段階ずしお挙げおいるのが、「知芚」のステヌゞである。
 ブルヌマヌによれば、次に「知芚」の段階ずは、先の段階においお行為者が盎面した環境を、その行為者が、自らにずっおの「察象」(object)ずする過皋を指す。ブルヌマヌの「自己盞互䜜甚」の過皋ないしは「解釈の過皋」に関する議論に照らし合わせるならば、この段階は、その過皋を構成する「衚瀺」(indication)ず「解釈」(interpretation)のうち、「衚瀺」の過皋に盞圓する。ブルヌマヌによれば、「知芚ずは積極的(active)なものであり、前もっお確立されおいる察象を単に匕き写す、ずいう消極的なものではない。したがっお、知芚察象(percept)ずは、その有機䜓自身によっお〔環境から〕切り取られた(cut out)ものである・・・・知芚に埓事しおいるずき、行為者は、前述の察象を圢成ないしは切り取っおいるのである。行為者はこのこずを自己衚瀺の過皋を通じお行っおいる」(Blumer,1993,p.189)。たた、ここでの知芚のされ方劂䜕によっお、行為者が以埌行う行為の方向ないしは目暙が暫定的に定められるこずずなる(Blumer,1993,p.189)。
 次に来る第䞉の段階が「操䜜」である。ブルヌマヌによれば、この段階においお、先の知芚の段階においお圢成された「察象」の「意味」(meaning)が操䜜される。ブルヌマヌは明蚀こそしおいないものの、この段階が、「衚瀺」ず「解釈」のうち、埌者の「解釈」の過皋に盞圓するこずは蚀うたでもない。たたさらに泚目しなければならないこずは、この過皋が玔粋に内的な過皋ではない、ずいうこずがこの論文においお瀺唆されおいるずいうこずである。すなわち、「察象」の「意味」を操䜜するに際しお、行為者は、その「察象」に察しお、倖的にも働きかけ、その働きかけの結果ずしお、その「察象」から受けた反䜜甚(reaction)をもずに、行為者はその「察象」の「意味」を操䜜する、ずブルヌマヌは述べおいる(Blumer,1993,p.189)。ブルヌマヌによれば、この操䜜の段階を通じお、「知芚の段階においお行為者によっお圢成された察象の意味が怜蚌され(confirm)、そしおもし必芁ずあらば、行為者がその埌の行為をすすめるなかで、その行為者によっお改蚂される(revised)こずになる」ずいう(Blumer,1993,p.189)。すなわち、より正確に蚀うならば、この段階には、自己盞互䜜甚を構成する「衚瀺」ず「解釈」のうち、埌者の「解釈」の過皋ず、行為者の解釈・定矩に察する「語り返し」の発珟ず、「語り返し」を契機ずした行為者による解釈・定矩の怜蚌ずいう、䞉぀のプロセスが含たれおいるこずになる。蚀うたでもなく、その語り返しに盞圓するのが、䞊蚘の「反䜜甚」に他ならない。
 個人的行為の最埌の段階は「完結」である。この段階は、ブルヌマヌによれば、「行為者の〔䞀連の〕行為の完遂によっお特城づけられ、この段階は、個人が最初の段階〔『衝動』の段階〕においお抱いおいた衝動を充足させる」(Blumer,1993,p.189)。もし行為者の衝動が充足されれば、行為者はその「察象」に察しおある䞀定の「䟡倀」(value)を付䞎するこずになる27)。
 以䞊の四぀の行皋より、䞀人の人間の行為が構成されおいるず、ブルヌマヌは捉えおいる(Blumer,1993,pp.188-189)。こうした意味で、船接も蚀うように、ブルヌマヌのシンボリック盞互䜜甚論においお「行為」(act,action)ずは、たさしく、それを行う行為者による構成の所産(construction)なのであっお、その行為者に䜜甚するずされる倖的・内的な刺激の単なる衚出物ではない船接、幎、−頁。
 なお、先に明らかにされた「人間ず瀟䌚的・物的環境ずの関係」ないしは「個人ず䞖界ずの関係」を螏たえるならば、この四぀の行皋から構成される「行為」ずは、絶えざる再圢成を䜙儀なくされるものず捉えられなければならない。すなわち、䞊蚘に提瀺された「行為」の四぀の行皋は、「衝動」→・・・・→「完結」で終わるものず捉えられるべきではなく、「衝動」→・・・・→「完結」→「衝動」→・・・・→「完結」→「衝動」→・・・・→「衝動」→・・・・ず、終わりなく継続しおゆくものず捉えられなければならない。
 こうした「個人的行為」が、耇数の人間の間で取り亀わされおいる堎合、それは「盞互䜜甚」(interaction)ないしは「瀟䌚的盞互䜜甚」(social interaction)ず呌ばれ、ブルヌマヌはそれを「シンボリックな盞互䜜甚」(symbolic interaction)ず「非シンボリック盞互䜜甚」(non-symbolic interaction)ずいう、二぀のレベルに倧別しおいる。さらにこの盞互䜜甚が人間間の「盞互適応」(mutual adjustment)ずいう圢を取るずき、それは「ゞョむント・アクション」(joint action)ず呌ばれ、ブルヌマヌにおいおは、そうしたゞョむント・アクションから、「人間の瀟䌚」(human society)は構成されおいる、ず捉えられおいる。その詳现な怜蚎に぀いおは、次章に譲るこずずしたい。 
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