戦艦「大和」のふるさととして知られる広島県呉市は、かつて「東洋一の軍港」として栄えた歴史を持ちます。しかし、太平洋戦争中にはアメリカ軍の攻撃目標となり、激しい空襲にさらされました。呉市に住む大之木精二さん(90)は、空襲の恐怖を「紅蓮の炎というような光景」と話します。終戦から80年を迎える今、呉市は大きな転換点を迎えています。
長年、呉の経済を支えてきた日本製鉄・瀬戸内製鉄所。おととし9月に閉鎖した跡地に、防衛省の「複合防衛拠点」を整備する案の検討が進んでいます。
先月、初めて開かれた説明会では、防衛相の担当者が「防衛力の抜本的強化のためには、多機能な防衛拠点を整備することでこの実現を図っていくこととしております」と説明していました。
参加者からは、「このゾーニングを見て大喜びです。もうね、ここらは自衛隊がおらんかったらつぶれる町です」という声も上がりました。
80年前は、軍港として栄えた呉市。1941年には当時、世界最大の戦艦「大和」が建造されるなど、最先端技術が集結した街でした。この街で80年前、何があったのかー。当時を知る男性を訪ねました。
「もう賑やかだった。土日になるとお祭りみたい」。90歳の大之木精二さんです。80年前の呉市の町並みを懐かしみながら振り返ります。
大之木精二さん
「海軍の人も多いし、海軍工廠で働いている人も多くてね。土日は、みな楽しみに中通りに出るものだから、ものすごい人出だった」
当時、呉市の人口は最大で40万人。現在の倍にあたります。東洋一の軍港だったため、太平洋戦争中アメリカ軍の攻撃目標とされました。1945年3月19日から14回にわたり、空襲を受けました。
当初の攻撃対象は呉湾に碇泊していた海軍の艦艇や海軍工廠など軍の施設でした。その後、アメリカ軍は攻撃目標を呉市街地へと変更。1945年7月1日深夜から2日未明にかけて、焼夷弾による市街地への無差別攻撃が行われました。
市街地は山と軍の施設に囲まれていました。大之木さんが当時暮らしていたのは、呉市街地の中心部でした。迫り来る火から逃れるため、北方向に逃げたことを記憶しています。
自宅から家族と防空壕へと避難した大之木さん。防空壕は、近所の親戚の家の庭にあったといいます。
大之木精二さん
「向こうの橋の方にね、かなり大きな防空壕があった。15人ぐらい入れたんじゃないかな」
しかし、この防空壕にも火の手が近づいてきました。
「僕が防空壕入ってしばらくすると、だんだん焼夷弾攻撃が激しくなった。だんだん近づいてくるように見えたもんだから、母親たちが『ここにいたら危ないから逃げよう』と」
防空壕から避難するようになりましたが、真夜中でもあり、家族と離ればなれになりました。それでも、別の親戚の家がある山側を目指し、1人で逃げ続けました。
「ただどんどん火の手があがってくるという恐怖心があったけども。とにかく逃げることで必死でね。もう、本当に紅蓮の炎。まさにその通りという光景」
翌日、バラバラになっていた家族と再会することができました。
「おやじが親戚につらって入ってきたときにね、僕の妹がまだ3歳か4歳。『生きとったか』って抱きついて泣くわけ。僕はその光景を見て大泣きしたね」
一方で、変わり果てた街の光景も脳裏に焼き付いています。一夜にして焼野原となった呉のまち。犠牲になった市民は1800人以上。2万戸を超える住宅が全焼全壊し、12万5000人もの市民が家を失いました。中には逃げ遅れ、防空壕の中で熱や窒息のために亡くなった人もいたそうです。
大之木精二さん
「焼死体を結構見た。黒焦げだけどね、まるきり人形が倒れている感じだった。一歩、間違えていたら逃げ遅れて、防空壕でね。蒸し焼きになっていたかも分からんね。焼夷弾が直撃で、何発か落ちていてね、まさにそのままいたら大事だった。生きてなかった」
先月、初めて開かれた防衛省の「複合防衛拠点」案についての住民説明会。参加した住民からは不安の声もあがりました。
参加者
「自衛隊がある時点で、すでに(ミサイルが)飛んでくる可能性は秘めている。その中で基地を大きくしたら、可能性が大きくなる」
呉市・大森和雄総務部長
「住民の方の安全と、経済的なメリット、これを必ず両立させていかなくてはならないことであると思っております」
重要な軍事・防衛の拠点として発展してきた呉のまち…。呉空襲が伝えるのは、そこに住む人たちも否応なく巻き込まれ、犠牲となった戦争の事実です。
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