◇2…窓の向こうでは深い藍色の空がうっすらと明らみ始めている。
ゆっくりとベッドに上半身を起こした黒髪の軍主が、淡い光が差す窓から部屋の中へ視線をひるがえせば、隣にはすうすうと小さな寝息を立てる少女。
乱れた亜麻色の髪を、起こさぬようにそっとひと梳きして整えてやりながら、ナギははあ、と深いため息をついた。
(こうもあっさり飛び込んでくるとは、思わなかったんだけどな…)
探るようにこちらを見つめる碧の瞳は、常に不安と猜疑に満ちていた。
好意を寄せている相手である自分にすらそうなのだから、他の者に対しての態度は言うに及ばない。
生意気な物言いも取り澄ました表情も、言ってみれば怯えを隠すためのただのハリネズミのトゲのようなもの。けれどそう言って済ませてしまうには、彼女の振る舞いはあまりに堂に入りすぎていた。実際、周囲にそれと気 づかれることもなく、もともとそういう高飛車で生意気な性格なのだと、あっさり皆を納得させてしまうほどだったのだ。
それほど少女の内にある壁は、固い。
だからこそ、今の時点で自分があんな誘いをかけたところで彼女が乗るはずも無い、と思っていたのだが。
…一体どこで間違ったのだか。
(寝てると随分印象が変わるな)
常にさりげなく張りめぐらされた警戒。決して自分の中に他者を踏みこませまいとする意志。
初めて会った時から、そんな彼女をテッドに似ていると思っていたのだけれど、今こうして見るルックの寝顔の無防備さは親友のそれとは明らかに違っていた。
彼はルックよりずっと用心深かった。どんな時も、わずかな弱みも見せようとしなかった。
ようやく心を許してくれた、その後も。
「いつまでこの街にいられる?」
そう彼に尋ねたのは特に何をしていた時、というのでもなかった。ありふれた日常の一瞬。
本を探しながらだったか、ペンを削りながらだったか。それさえ定かでないが、ある時部屋に二人でいて、何かのついでのようにそう尋ねたら、テッドは幾分こわばった笑顔で「何だよそれ。一人旅なんてもうまっぴらだ。こんなか弱い少年がさ」などとわざとらしくうそぶいたものだった。
「別に。一緒にいられると楽しいと思ったから、訊いただけ」
やはり無造作な口調のままで答えた俺がそれ以上突っ込んで尋ねる気もなさそうなのを見て取って、友人は明らかにほっとしていた。それをちらりと盗み見て、薄情な奴だよ、と顔に出さず思った。
でもとても好きだった。そばにいても見透かせない深さに惹かれていた。
分からないから知りたいという好奇心とは、似ているようで少し違う。
それは深い井戸の中に石を落として耳を澄ませ、やがて届くかすかな音に、遠く水面があることを確かめる時の何とも言えない感慨に似ていた。ただ目に見えぬ世界がそこに在るということに、抑えようもなく心が波立つのだ。
冗談に交えるようにして時折その心の一端を明かされれば嬉しかったし、彼が呪われた紋章を託す相手に自分を選んでくれたことももちろん嬉しかったけれど、もしも薄情な友人がついに自分に何一つ語らず 、何一つ託さずに去ったとしても、きっと自分は変わらずに彼を好きだったろう。
そういうことだ。
(…もしかしたら、言わなかったあいつよりも)
「知ろうとしなかった俺の方が、余程薄情なのかもしれないな」
「うん…」
ぽつりと独りごちたセリフにくぐもった声で応えが返ってナギはぎょっと隣を見返した。
少女はまだ眠っている。
(寝言か)
随分なタイミングの良さに、思わず笑い声がもれた。
「ん…」
覚醒に近づいていた意識にナギの笑い声が届いたのか、今度はかすかな身じろぎと共に長い睫に縁取られた碧の目がしばたいて、やがてぼんやりと開く。
「…ルック?おはよう」
呼びかけても彼女は霞がかかったような表情のままだ。寝起きはあまり良くないらしい。
「朝議があるから俺はもう起きるけど、ルックはまだ寝てていいよ」
ぽんぽんと亜麻色の頭を軽く撫でると、ナギはそのまま寝台から出て衣服を羽織る。――さて、これで良かったのか、悪かったのか。
彼にすればめったにないことに、答えはいまいち不分明なままだった。
だがナギは、持ち前の勘の鋭さで意識の隅に感じ取っていた。自分が、どうやら長いラウンドの大試合を、何の心構えもないままに始めてしまったらしいということを。
これで彼女の扉が開いたなんて到底思えない。
肌を合わせて無防備な姿を晒しながら、それでもまだ本当のところは何も見せていない。
これはもしかしたら、300年生きたというあの親友よりもさらに手強い相手なのかもしれない。
かの親友の壁は長い経験からくる慎重さ、用心深さによってレンガのように丹念に積み上げられたものだったが、彼女の壁は多分、それとはまるで違うもので形作られている。
おそらくは、もっとずっと心の奥底にあるもの――本能に近いもので。
まだぼんやりとした様子のまま、猫がするように丸めた手で寝ぼけた目を擦っている少女を見やり、その無邪気な愛らしさにナギは再び、こっそりと小さなため息をついた。やれやれ、随分厄介なのに手を出してしまった、と。
うあーもう…難産難産。これ一本書くのに一体どれだけ時間がかかったんでしょう。
えっと、2と3の間は年齢制限サイトではないのでご勘弁でございます。私には無理です、坊様のめくるめくベッドテクニックを描写するなんて。(にっこり)
しかも出会い編に続いてまたも坊テドくさいんですけど…いえ、坊ルクです!坊ルク!!(主張)
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