desperate act
◇1開けろ。ここを開けろ、と。
叫ぶナギの声が薄靄のかかった意識の向こうに聴こえていた。
けれど力が入らなくて。ほんの少し、ほんのすぐそこにある場所へ跳ぶことが、できなくて。
歯噛みして閉ざされた扉に拳を叩きつける、そんな初めて見る彼の姿を、ただ開いた両の瞳に映していた。
行かなくては。あの扉の向こうにいる人を助けなくてはいけないのに。
簡単なことだ。ほんの少し、壁一つ向こうに跳んで、一人連れて、戻ってくるだけ。
なのにどうして、動けないのか。
(駄目なのに…助けなくちゃ……)
しかし焦燥のうちに彼女の意識は抗いがたく暗い闇に呑まれていった。激しい戦闘による疲労と、命には関わらないものの決して軽いとは言えない負傷は、彼女にこれ以上意識を保つことを許さなかった。それが、ルックがソニエール監獄を見た最後だった。
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「ああ、気が付きましたか」
目を開けたルックの視界に映ったのは、隙間なく組まれたあのソニエールの石壁ではなく医療班の若いスタッフの顔だった。
「…ここは…」
「レイクレスト城ですよ。ソニエールでは…大変、でしたね。でも、もう大丈夫ですよ。あなた方はマッシュ軍師が指揮する一隊に救出されたんです」
「救出…?じゃあ、あの人は。グレミオさんは」
ふ、と目の前の青年の表情が曇ったのを見て、聞かずとも答えは分かった。
「グレミオさんは…駄目でした。こんなこと、許せませんよ。みんな怒ってます。次の戦で必ずあのふざけた花将軍に思い知らせてやるんだって」
真面目に言いつのる彼の言葉は半分も彼女の耳に入っていなかった。
あの人は助からなかった。
(わたしには、助ける力があったのに)
戦慣れしていなくて、歩き回る行軍に慣れていなくて、少しばかり体力が足りなかったばっかりに。つまらない敵に傷を負わされて、肝心のところで役に立たなかった。彼にとって誰より近しい人を、見殺しにさせた。
「ルックさん?どうしたんです?あの…」
呼びかけに応えることもせず、ルックは掛かっていた毛布を押しのけて起き上がり黙々と靴をはいた。
そして唖然として見ていた青年に、うつむいたままぼそりと礼を言うと、まだ少し重い体を無理矢理せきたてて病室を出て行こうとする。
「あ、ちょっと!駄目ですよ、すぐ先生を呼びますから、ちゃんと検診を受けてから行って下さい!二日も眠っていたんですよ!」
少女の細い体を何とかベッド脇の椅子に押し戻して、青年はすぐ医師を呼ぶ。やむをえず大人しく座ったルックが目を上げると、医療班の人間たちが立ち働く向こうに、せわしなく指示を出している神医、リュウカンの姿が映った。
それを見て、ルックはあのソニエール潜入の任務が終わったのだということを実感した。
…もう取り返しようもなく、終わってしまったのだと。ルックが目を覚ましたのは、青年が言ったとおり一行がソニエール監獄から救い出されて既に二日が経った日の夜だった。 帰城直後はさすがに疲れた様子でしばし休息を取っていた軍主も、もう昨日のうちから執務に就いているという。ルックは簡単な検査を受けた後、問題なし、と解放されたが、自室に戻るより先に医務室を出てすぐのところでいきなりビッキーに捕まった。
「あーっ、ルックちゃん!大丈夫??もー、私すっごく心配したんだよ。あんなぐったりしてるルックちゃん、初めて見たもの」
「…どうも」
「ふふっ、もういつものルックちゃんだね。よかった」
無愛想な対応を気にすることもなく平気で話しかけてくるビッキーは正直苦手な相手の一人だったけど、 決して嫌いというわけではなくて…どうやら、ルックにとってここで一、二を争うくらい親しい人間だったりする。
「ビッキー」
ふと思い立って、めずらしくルックは自分から話しかけた。
「え?なあに?」
「あの…ナギは。帰ってきた時、どうだった?」
「どうって…うーん、普通だったよ?疲れてるみたいではあったけど、いつもどおり。まわりの人たちの方が、みんなすっごく心配してたかな。…グレミオさんが、いなくなっちゃったから」
「…でも、ナギは普通だったんだ」
「うん。普通」
ビッキーの言うことは多分、本当なのだろう。彼女はいい意味でも悪い意味でも、周りの雰囲気にとらわれない。彼女がそう言うのなら、ナギは本当に普通に見える状態だったのだ。
普通であるはずなんてないのに。
「…ありがと」
一言返し、ルックはいきなり早足にその場を歩き出す。
「え、ちょっと!ルックちゃん?…行っちゃった。なーんか…怖い顔。何でだろ?」
かわいらしく首を傾げてちょっと不思議に思ったが、ビッキーは彼女らしく、深く考えないことにした。-----
ココン、と硬質なノックが響く。どこか苛立ちを含んでいるような音だった。
そう思って、デスク上の書類の山と格闘していたナギはふっとかすかに自嘲する。単なるノックをそんな風に感じるのは自分がいまだにどこか神経をとがらせているからに違いない。情けない話だ。
「開いている」
書類に目を落としたままそっけなく応えると、遠慮がちにドアが開かれた。
てっきりマッシュかレパントあたりだろうと思っていたのだが、ドアの開け方でそのどちらでもないということにすぐ気づき、ナギは意外そうに顔を上げた。
硬い表情で入ってきたのは、星見の魔女からの預かりものである少女。
「ルックか。目が覚めたんだな、良かった。どうした、何か用が?」
笑みを浮かべ、幾分柔らかな口調で話しかける。
表情のとぼしさのせいで分かりづらくはあるものの、見る者が見れば丸分かりなくらいあからさまに自分に好意を寄せている彼女に、ナギは割と甘い。本人に言えばがっかりさせるだろうからもちろん口にしたことは無いが、妹がいたらこんな感じかな、と思うのだ。
「あ…まだ、仕事中なんだ」
「構わないさ。何?」
「…いつ頃、終わる?」
「時間のかかる用事なのか?」
「そういうわけじゃないんだけど…」
妙に歯切れが悪い。
「終わらせようと思えばすぐ終わらせられるよ。少し部隊分けの検討をしていただけだから。それより、病み上がりだってのにわざわざ来たんだから、用があるのなら遠慮しなくていい」
そう言ってうながしても彼女はまだ少し逡巡していたが、ナギが書きかけのペンを置いてまっすぐに目を合わせてやると、意を決したように口を開いた。
「ナギ、私のこと殴って」
……。
何だそれは。-------
ルックは軍主に向かって淡々と訴えた。
「あの時、わたしが万全だったらあの人を助けることが出来た。ちょっと扉の向こう側に跳んで戻ってくればいいだけのことよ。だけど実際にはわたしは情けなくのびてて、役に立たなかった。だからあの人が死んだのは私の責任だし、あなたにはそれを責める資格があるわ」
一発や二発殴ったところで気が済むようなことではないかもしれないが、それでも何もしないで済ませるよりはいくらかましだろう。
よってナギに自分を殴ってもらいたい。
…つまりそれが、どうやら彼女の主張の内容であるらしかった。
(まったく、何がどうしてそうなるんだか…)
彼女の中では筋の通った理論なのだろうが、はっきり言ってめちゃくちゃだ。
正直、彼女の怪我はナギにとって予想外のものではなかった。まだ前線に連れ出すのには経験も体力も足らないということは分かっていた。だが、魔法を使うモンスターを多く飼っているというソニエールに魔法使い無しで挑むわけにもいかなかったし、他に人材がいなかった。
途中で戦線離脱せざるを得なくなる可能性は初めから考慮して、それでもフォローするつもりでいたし、実際そうなったわけで、ルックのことに関して言えば自分の目測は誤っていなかった。
見誤ったのは、ミルイヒの行動力と扱う毒の方だ。既に一度、リュウカンを目の前で攫われる失態を犯していたというのに。
「グレミオが死んだのはルックのせいじゃないし、そういう風に考えるのならマッシュがもっと早くに応援に来てくれれば良かったとか、そもそもソニエールに無策に突っこんだ俺が悪かったとか、責任は誰のものにでもなり得る。お前は確かに途中で怪我を負ったけど、それまで充分役に立ってくれた。何も気に病むことはないさ」
口先のなぐさめでなく、本心からナギはそう言った。
だがいつもなら素直に彼の言葉を聞くはずのルックが、この時ばかりは引き下がらなかった。
「そうかな。そんなのただの誤魔化しじゃないの。誰かに責任があるはずでしょう。でも、わたしはナギやマッシュ軍師のやり方がまずかったとは思わない」
「いつでもどんな事態にも誰かに責任があるってのはおごりだよ。最善を尽くしても力が足りなくて事を成せないことってのはある。俺はソニエールでの一件を誰かの失敗やミスだとは思っていない」
「…あれでよかった、って言うの?」
ぴくり、と細い眉を跳ねあげルックが問い返す。
「ああ、そうだ」
ナギは言いながら自分の声が冷ややかになるのを自覚した。
――これじゃ駄目だ。
(情けない)
理性が完全に感情を抑え込めていない。
いついかなる時も理性的でなければならないわけではないが、今、目の前の少女に責任が無いことをさとすためにはそれは必要なことなのだというのに。
理性ではグレミオの犠牲があの時点での最小の被害であったのだと分かっていても、心がそれを否定する。
何か方法があったのではないか、助けられたのではないか、と。そんな風に悔やんで、未だに自身に苛ついているから、こんな小さな少女一人納得させられないのだ。
ルックが黙ってこちらをにらみつけている。その顔いっぱいに『嘘つき!』と書いてあった。
(…どうするかな)
思わず、ため息がもれた。…ナギはめずらしく困惑をおもてにあらわしていた。
無意識の内にだろう、彼の右手が肩口に垂れたバンダナの先をもてあそんでいる。それが彼が考え事をする時に見せる癖のひとつだということをルックは既に見知っていた。
(何で困るのよ。殴ってくれればいいのに)
悲しいくせに、寂しいくせに、何でお前のせいじゃないなんて言うんだろう。優しくわたしをなだめたりするんだろう。
わたしが子供だから?責任を負えるほど強くないから?
ため息をひとつ吐いて黙り込んだナギをルックはしばらくそのままおとなしくにらんでいたが、不意に思いついて言った。
「じゃあ、別にわたしが悪いと思ってなくたっていい。それでも、あの人のことで誰にもぶつけられない気持ちはあるでしょう?それをわたしにぶつけてくれればいい。そうすれば一石二鳥 じゃない。わたしはわたしで、自分が許せなくて何かの形で罰してほしいんだから」
そうだ。何も無理に自分のせいだと認めさせる必要なんてないのだ。
それはもちろん、きちんとした形で罰して責任を取らせてもらえば一番すっきりするのだけれど、それが駄目だと言うなら八つ当たりということでもいい。結局のところ、少しでもナギの気が済めばルックはそれで満足なのだ。
「あのなあ…」
どうだ!とばかりに真剣な顔で言いつのる少女に、ナギはいいかげん頭を抱えたくなった。
ここにある痛みは己のものだ。誰かにぶつけようなどとはナギは思わない。
誰かにぶつけてどうにかなるものではないのだ。取り返しのつかないものを喪ったのは、自分の力が足らなかったからに他ならなくて。
けれど過ぎた時間を責めてうじうじと落ちこむほど情けなくもないつもりだから。
たが、自分の失態だと思いこんで傷ついているこの少女にそれを納得させるのは、かなり難しそうだった。
(…よし)
こういう時は方便の出番だ。
ナギはバンダナの先をいじっていた手を戻して机の上に軽く組むと、心中を窺わせない軍主の表情になってルックに告げた。
「悪いけど、女を殴る趣味は無いんだよ。殴ったって後味が悪いだけだ。全然嬉しくない」
「…じゃあ、それ以外でもいいよ。何か、罰代わりになるような仕事を言いつけるとか…わたしに出来ることなら、何でもするから」
(それじゃ結局お前に責任があるって認めたことになるだろうが)
そんなことはさせない。
彼女に罰を受けさせたのでは意味が無いのだ。
「…そうだな、どうしても何かしたいって言うなら寝室の相手でもしてくれるか」
軽く笑ってわざと何でもないことのように口にした内容に、目の前の少女がぴきりと目に見えて固まった。
発言の効果を見てナギは内心胸をなでおろしながら、立ち上がってぽんとルックの頭をひとつはたいた。
「何でもするなんて気軽に言うな。ほら、もう遅いんだ。気が済んだら自分の部屋に帰れ」
「分かった。それじゃそうして。わたしのこと、好きにして構わないわ」
「…な」
ちょっと待て、と思ったが気迫に満ちたルックの目はまっすぐにこちらを見据えている。
(思いっきり目が据わってるぞ、おい…)
…こう切り返せば少女がいくらなんでも引き下がるだろうとナギが思ったのは、どうやらミルイヒの行動力を侮った以上の大間違いだった。
この展開は、まずい。
断わることは出来る。バカを言うなと一言、そのまま部屋へ返してしまうことは簡単だ。
だが問題は、それが彼女を傷付けてしまうということだ。ここで拒絶すれば、間違いなく彼女は自分がナギ・マクドールにとって魅力の無い相手なのだと判断するだろう。自分は彼になぐさめを与えられるだけの価値の無い人間なのだ、と。
それはうまくなかった。
ナギは星見の弟子であるこの少女が他人に対してひどく心を塞いでいることを知っていた。
ちょうど栗色の髪をしたあの友人が自分と出会った頃、そうであったように。興味を持ってこちらをこっそり見つめるその瞳をまともに見返してはいけない。
警戒させてはいけない。
そして向こうがそっと一歩近づいてきたなら、それが当たり前のような顔をして受け容れてみせる。
決してこちらから近づかずに。
じっと知らんふりを決めこんで向こうが近づくのをただ、待つだけ。
…一度間違えたら、その扉はもう開かない。ナギには上手く彼女の扉を開く自信があった。少女がこちらに好意を抱いているのは分かりきっていたのだから。
スタート地点としては上々、まして自分が軍主で彼女が解放軍に属する以上、 ナギ・マクドールはルックにとって否応無しに関わらなければならない相手だ。そういう大義名分がある方が彼女も心を開きやすい。条件は決して悪くない。
別に彼女の心を欲していたわけではないけれど、ルックの態度を見ていると、人に懐かない猫が自分にだけ興味を示しているようで悪い気はしなかったから、この世間知らずな少女に自分が教えられることは教えてやりたいと思っていた。
人との話し方、付き合い方、心の開き方。そういったものを。
…だからこの展開は、とてもまずい。
それがたとえ恋に恋するような幼い気持ちであったとしても、せっかく"ナギ"という他人に彼女は心を開きかけていたのだ。ここで他ならぬ自分から拒絶されたら、以前より一層固い殻にこもってしまうであろうことは火を見るより明らかだった。
(かと言ってこんな年下の女の子を…グレミオがいたら間違いなく「坊ちゃん、お気は確かですか!」とか何とか、泣いてさとされるぞ)
ナギはついうっかり現実逃避して自分を置いて逝ってしまった付き人の反応などに思いを馳せてしまう。
…黙ったままのナギに、ルックの碧の瞳が段々不安に揺らいでくる。
鬼気迫るがごとき形相だったのが、今にも泣き出しそうな張り詰めた表情へと移っていく。
(もしかして俺…追いこまれてる…?)もしかしなくても追いこまれていた。