阪神は24日、NPB歴代3位の通算320勝を挙げた小山正明さんが18日午前11時20分に、心不全のため死去したと発表した。90歳だった。
「投げる精密機械」の異名は努力のたまものだった。1953年春に大洋のキャンプに参加したが、財政難で獲得を見送られ、月給5000円で打撃投手兼任のテスト生として阪神入団。当時としては長身だった183センチから繰り出す剛速球を誇ったが、制球に苦しんだ。
藤村らベテラン選手の打撃投手を務め、怒鳴られることは茶飯事。そんな時、渡辺省三のミットに寸分狂わず、収まるボールに心奪われ、技術を吸収した。徹底した走り込みも欠かさず、無四死球試合は歴代2位の通算73試合。その礎は若かりし頃に築かれた。
世界の本塁打王・王貞治との対決にも闘志を燃やした。59年の天覧試合の7回、新人だった王に同点2ランを浴びた。
そこで“王対策”に乗り出し、習得したのが「消える魔球」のパームボール。翌年にカモにされてきた王を被本塁打ゼロに封じ込め、手応えをつかむと、「世紀のトレード」で移籍した東京でも初年度から30勝をマーク。「東京球場は狭かったのでどうしても落ちるボールが必要だった」。西武でコーチを務めた際には石井丈裕に伝家の宝刀を伝え、沢村賞投手に育て上げた。
無駄なことを言わないが、しゃべると核心を突く一言居士。東京時代、ドラフト1位で入団してきた村田兆治さんの野球に取り組む姿勢に疑問を持ち「才能を無駄にするのを寂しく思わないか」と諭した。のちに通算215勝を誇った「マサカリ兆治」の分岐点となった金言だった。