恨み節番外編 ~自己満足! 投げろ匙! 1D6!~
- yorubityou
- 2024年12月31日
- 読了時間: 12分
誤字。
誤るに字と書く。
見たままの通り、字を間違えてしまう事を指す。
私達が、自分らが生み出した道具すら満足に使いこなせていないことの証明である。
なんと情けない単語だろうか。
ただでさえ見た目から滲み出るほど情けない事柄なのに、「ごじ」という読みのせいでさらに惨めさが際立っている。
わさわざこんななっさけない単語の読み二文字に使われる羽目になった濁点君の事を考えるだけで毎晩枕を濡らさずにはいられない。
更にその行いの愚かさから、字書きの間では許されざる大罪とされており、古来より一度でも誤字をしてしまった字書きには、罰として2つで1セットの何かの片割れを紛失してしまう呪いがかかけられる、と言われている。
靴下とか。
このように、七つの大罪全部の元ネタとも噂される誤字。
そんな誤字を、私はしてしまったのだ。
このブログの一つ前、恨み節の最初の記事の序盤。
「賽は投げられた」を、「匙は投げられた」と。
この誤字、別にそのままでも意味が通ってしまうので違和感に気づきにくいというところが最高にクソだ。
幸い字書きではなかったため私の靴下は無事であるが、記事が記事なこともあって、許し難い屈辱を味わう羽目になった。
おのれ……クソみたいな記事の分際で私に恥をかかせおって……
と、ここで気付く。
別にこれ、間違いではないのではないか? と。
いや、間違いではある。間違いである事には違いないのだが……
匙でも賽でも、正確には間違いではなくすことができる。
だって、匙も賽も物質なのだから、投げさせれば良いのだ。
彼に。
……物理的に。
もちろんあの文脈の「賽は投げられた」も「匙は投げられた」もそういう意味ではない。それを理解していない訳では無い。
しかしここで一度、日本語を学んで3秒、グーグル翻訳を相棒に来日したスティーブン君(24)の気持ちになって考えてみて欲しい。
「賽は投げられた」の意味は「サイコロコロコロ」であり、
「匙は投げられた」の意味は「スプーンぽーい!」である。
これの一体何が間違っているのだろうか?
これを間違っていると、得意げにグーグル翻訳の画面を見せてくるスティーブン君に、あなたは真正面から言えるだろうか。
つまりだ。
今からでも他ならぬ奴の手によって匙を投げさせれば、私は誤字をしていないという事になる。
ついでに賽も投げさせればパーペキである。
この事実に気づいてしまった、自分の才覚が恐ろしい。
しかし、聡明な読者の皆様ならお気づきになられるだろう。
理論は完璧だが、実行する方法がないではないか、と。
現在、彼との関係は0どころかマイナス。
「へっへっへ、先生、ちょっとこの匙とサイコロ投げてみてくださいよぉ」
とすり寄ったところで、無視されるのがオチである。
そんな状態で、一体どうやって奴に匙を投げさせるのか。
ここで一旦、「投げる」の定義について考えてみよう。
「投げる」とはいったいどういった事なのだろうか。
この単語を見て、少なくない数の皆様がキャッチボールなど、ボールを投げる光景を想像したと思う。
あれは間違いなく「投げる」に該当する動作だ。
ではその動作を分解してみよう。
まず、腕を後ろに引いて勢いをつけ……ええい分かりづらい!
とにかく、どのくらい勢いをつけようが、どのくらい力をこめようが、手から対象を射出することがメインの動作になってくるはずだ。
射出した対象物は一般的には空中を通り、地点nに到達する。
地点nは壁だったり床だったり、はたまた誰かの手だったり……特に制限はない。
たとえ手から地点nの距離が1cm程度だったとしても、以上が為されているのであれば投げるに該当すると思う。
ほら、キャッチボールめっちゃ下手な人が直下にボールを叩きつけたとしても、それがその人にとっての投げるってことで間違いないし……
「投げる」という動作に含まれているのは、一般的には多くともここまでだと思う。
これを見て、何か感じたことは無いだろうか。
そう、判定がガバすぎるのである。
要は手から対象物が物理的なベクトルを持った力を加えられつつ離れれば成り立つ。
この定義であれば、日常生活のありとあらゆるところで「投げる」が発生し得る。
わかっていると思うが、多分「投げる」の完全なる定義にはもっと要素が必要だ。
だが、定義がガバい事、そこまで悪いことだろうか?
今回はこの定義のガバさを利用していこうと思う。
この定義であれば、床に荷物を置くのも、ゴミ箱にゴミを捨てるのも意図せず投げているという事になる可能性を秘めている。
つまりこの定義を適応した場合、奴の手に渡すことさえできれば投げられるということになる。高確率で。
そう、奴の手にさえ渡れば勝ちなのだ。
そして何とも都合のいいことに今は年末である。
用意した賽と匙を奴の手に渡らせることのできる、都合のよい時期であった。
これらを踏まえた上で私の考えた作戦はこうだ。
①賽と匙を調達する。
②コミケで名乗らず差し入れを押し付ける。
③帰る。
実に単純でありわかりやすい、完璧な作戦である。
奴がこちらの顔をいちいち覚えているはずがないので、名乗らなければとりあえずは受け取られるだろう。
そして仮に受け取られなかったとて、その差し入れがその後どうなろうが構わないわけである。
ぞんざいな扱いをするにしても捨てる、もしくは押し返すくらいの事しかできない上、それらをやろうとすれば確実に上記の投げるの定義には引っかかるのだ。誰かに譲るにしても、それまでの過程で投げ判定チャンスはいくらでも発生する。
サークルの机の隅っこにでも乗っけてダッシュで逃げれば何とでもなるだろうと思った。
万一この賭けに完全に負ける可能性があるとするのであれば、奴が私の予想に反し、差し入れをとてもとても丁寧に扱ってしまう事だろうか。
その場合、奴は嫌いな人間から渡された差し入れを貴重なガラス細工でも扱うかのように扱っているという事になり、それはそれで滑稽なので良しとする。
……もっとも、彼が嫌いな人間達からもらったものを大切にする人間だとは到底思えないのでないとは思うが。
私が遠い昔に頼まれて譲ったものも、きっと捨てられているか、タンスの裏あたりで埃を被っているだろうし。
……おやぁ?
今、声が聞こえた気がする。これをお読みの皆様方の声だ。
「賽も匙も用意するのにはお金がかかる。そんなことのためにわざわざ貴重なお金を使うのか」
確かにお金は大事である。
賽も匙も、まともに良いものを贈ればそれなりの値段がする。
それをたかだか誤字をなかったことにするためだけに買うのはもったいないと、そういう考えだろう。
わからなくもない。
しかし、ここは日本。わが国にはあの庶民の味方がついているではないか。
この世の全てが100円+税という、アーケードゲーム一回分のお値段と大して変わらない金額でお買い求められるあのお店。
ダイソーである。
ここでなら賽も匙も、包装などを含めても全部で500円くらいで買えるだろう。
しかもそのお値段でありながら、商品は全て高品質。
株式会社大創産業の企業努力の賜物である。素晴らしい。
差し入れという名目で渡したとて、全国展開チェーン店で買えるお安めの商品を贈り物に使うべきではないとの非難こそあるかもしれないが、内容物自体は決してゴミと謗ることなどできやしないだろう。したらそれこそ炎上するだろうし。
それにどのみち、人に渡す商品をくっしゃくしゃのビニールに陰毛付きで渡してくるよりは常識的ではなかろうか。まあいいか。
このように、日本の庶民の味方ダイソー様のお力を借りることによって、圧倒的低予算での実現が可能なわけだが。
されど、500円である。
これをするのに、私のお財布から大体500円程度の損失が出るのだ。それすらももったいないと思う方もいらっしゃるだろう。
確かに1円を笑うものは1円に泣くというし、500円を笑ったらその500倍は泣くことになる。
ただ、500円なのだ。
皆様は500円で幸福を味わえ、と言われたら、いったい何に使うだろうか。
一般的なのはお菓子類だろうか。小さいケーキなら500円でも買えるだろう。
アーケードゲームなんかもいいかもしれない。100円で1プレイのものが5回遊べる。
アーケードに限らず、丸1日くらいは遊び続けられるクオリティのちょっとしたゲームなら最近では500円程度で買える。
どれがあなたを幸せにするかはわからないが、500円で買える幸せというのはそのくらいである。
では、その500円を今やろうとしていることに使った場合、得られる幸福はどのくらいだろうか。
まず、誤字を無かったことにできる。
それだけでは大して楽しくも何ともないが、他人の誤字の責任を取らされ賽と匙を投げさせられる奴がいることに想いを馳せることもできると考えれば、それはとても楽しい気持ちになれるだろう。
そして、賽も匙の差し入れもそれだけでは嫌がらせとは程遠いが、どことなく嫌いなやつの所業である事は察すると思うので、少々嫌な顔はすると思う。とても良い事だ。
……最高だな。もう500円の元が取れてる。
よってこれは無駄遣いではない。
まあ、仮に無駄遣いに見えたとしても別にあなたの金を使っているわけではないし良いのではないだろうか。
そういった思想の下、出来上がったものがこちらになる。
ふむ。我ながらよくできている。100点満点中3点といったところか。
投げやすいよう箱に詰めた。
サイズ的にかなりギリギリだったが、ちょうど良い箱がこれくらいしかなかったためこの箱になった。
柄がやかましいし投げるならしっかり蓋を固定できるようにラッピングペーパーで梱包しようと考えていたが、ラッピングペーパー自体は家にあったはず……と思い込み、買わなかった。無かった。
固定の役割を求めない予定だったリボンを細いものにしてしまった事を後悔しながら、苦渋の策で二十に巻いた。
それでもそれなりにしっかり固定されたので良かったと思う。
しかし、少なくとも片方は外れると困るのでシーリングスタンプで固定しようとしたが、柄付きの箱に赤いリボン、しかも片方にリボンを結んでしまったので、下手にデコレーションを重ねると見た目が騒がしくなってしまう。
それを避けるために半透明のワックスを使い、柄も主張が控えめなものを銀で塗ることにした。
なかなか作らない組み合わせのものなので新鮮だった。
中身はこんな感じ。
取り出そうとした際に中身がぶちまけられるタイプの緩衝材を特に意味もなく詰めているため、取り出そうとしようものならちょっと不快な思いをしていただけること請け合いだ。匠の粋な心遣いである。
見てのとおり内容物は普通の……と言いたいところだが、内容物もちょっと変わり種を用意した。
え?どう見ても普通のものにしか見えないって?
サイコロはね。
サイコロというものは使用用途なんて本当に限られているため、デザインによる個性などがあまり出ない代物である。
まあ絵柄がかわいらしいものだったり、ちょっと珍しい面数のダイスもあるが、そこまで変わったデザインのものはそういったものを取り扱う場所にしかない。
少なくとも、そこらへんの小さなダイソーには置いていない。
なのでサイコロはごく一般的なサイコロである。
サイコロはね。
変わり種は匙である。
これは私も行くまで知らなかったのだが、ダイソーには匙がめっちゃ置いてある。
キッチン用品売り場に行ったら、ベーシックなものからちっちゃいもの、1セットにやたらくっついているもの……匙だけで10種類近くあった。
なるほど確かに衣食住の食に関連する器具なのだから、求めている人の母数がサイコロなんかとは桁が違う訳だ。そりゃあバリエーションも増えるだろう。
ここまで種類が多くあると、どうせならこだわりを持って選びたくなる。
とてつもなく便利なものを用意してしまえばそれはただのプレゼントである。
一般的な贈り物としてはそれでいいのだが、これは自己満足を主目的とした贈呈物である以上、素直に喜ばれるようなものではこちらの興が醒める。
しかし何という事だろうか。匙はそのままでも有用なものであった。
大前提匙が有能である事でここまで頭を悩ませる日が来るとは一度も思ったことがなかった。人生何が起こるかわからないものである。
長考の末、私が選んだのはこれだ。
「多機能計量スプーン」。
これは勝手な推察であるが、おそらく奴はこういうの好きじゃない。
ちなみに私も好きじゃない。
一見便利そうであるが、匙なんてずっと昔からある以上、長い年月をかけてデザインが洗練されてきているわけで。
今のオーソドックスな形が究極の完成形、先人たちの英知の結晶なのである。
それにあえての機能の追加……一つ一つは便利に見えるが、蛇足感がある。
最初は積極的に機能を使っていこうとするが、だんだんとめんどくさくなり使われなくなるオチだと思う。
本当に全ての機能が無駄なくあまりにも便利すぎるなら、匙コーナーの片隅などではなくもっと大々的に売り出してるだろうし。
ただ、今回の趣旨が趣旨である以上、これほどまでに適した匙もない。
プレゼントというものは自分では絶対に買わないものを貰えるからこその面白みというものもあるしまあ……差し入れとしても適格だろう。
……ちなみに先程から「匙を投げる」の匙はこの匙ではなく薬匙であると脳内のうんちく垂れ小僧が主張しているが、これだって匙は匙である。文句言うな!
これらを梱包し、手提げの紙カバンに詰める。ついでにおちょくる用の色紙もぶち込む。
これがコミケ前日の話。
今、私は完成した賽匙ぶん投げセットを持って、コミケの待機列に並びながらこれを書いている。
このブログが無事上がっているのなら、賽匙ぶん投げセットは奴の手に渡ったという事だ。
後は投げ判定にひっかかっている事を祈るばかり……まあ正直もうそこまで興味は無いのだが。
実は差し入れを選び梱包までする行動自体に予想以上に満足感があった。まだ目的は果たしていないのに、既にそれなりの達成感すら感じる。
相手に喜んでもらえるプレゼントを考えるのは楽しい、という概念は私も持っていたが、相手が地味に嫌な顔をしそうなプレゼントを考えるのも楽しいというのは新たな知見だった。
「何かのテーマに沿って普段では絶対にしないような買い物をする」という事自体が特別感を芽生えさせて楽しく感じるのかもしれない。
それが悪感情によるものであったとしても。
……それにしても待機列が長い。
しんどい。人の群れの中にいるのでさほど寒くはないが、しんどい。
かれこれ1時間半は並んでいる。おかげで結構筆が進んでしまった。ゆっくり更新と言いながらも、今回だけはスパンが短くなりそうだ。
行きたいところは回りきれるだろうか。
ついったらんど君を見ると、午後入場の方々の嘆きの声がすでにトレンドに響いていた。
まあ、午前入場の待機で今12時を超えているのだから、午後入場なんていつになるかもわからんよな。
新刊在庫に思いを馳せて、現場の私からは以上である。
もしこれに関し何か聞きたいことがあるのなら早めにお願いしたい。
どうでも良すぎて多分すぐ忘れるから。
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