とおくの、おくの細道

読書して起こった現象を書き連ねます

レジスタンスはむずかしい

 「今の日本でそんな指導法をしていたら大問題だろう」、とぼくが中学の頃にも耳にしたので、これは常套句。「昔と比べてやさしくなった」は錯覚で、一握りの現場の変化は脚光を浴びるから関わりのない現場は全てそう、と知らぬうちに均してしまう。生活のキャパがあるから。僕はヤクザとか政治家とか遠い職業の世界を思い浮かべろor Dieと突然言われれば、まずはあるステレオタイプに則って思い浮かべてしまうだろう。

 小島信夫は1942年に岐阜の中部第四部隊へ入隊した時に、「何時帰ってくるか 分からぬが 僕は 死んでも 生きても 自身はある」と、死という恐怖の終着駅で捉えたのだと伺える実存の様を手記に残したが、戦後、軍隊のことを材にして書いた小説には死や殺人や飢えや暴力といった「戦争」に伴うイメージと離れた菜園を作る兵士のことや「スモールアイランド」と小島を呼び、肉体を交えない慰問婦と恋以前の机を隣り合わせた小学生同士のような会話を書いた『燕京大学部隊』といった短篇がある。

 実際にその場に身を置き続けた者にしか見えないユーモアや歓びは私のような一般人が身を置くことを怖がるような、ヤクザとか集団生活している新興宗教の世界にはあるのだと思う。平凡でのほほんとした生活もかれらからすれば、いびつで酷なものと映る可能性は多いにあるのだろうと、サリン事件が起こった後のその後のオウムを映した『A』シリーズや『ヤクザと憲法』といったドキュメントを観ると思う。

 ああいうものを観ると、生活にまつわりつく苦労や歓びの計量化ができるとしたら、どれも大した差はないのではないかと思う。自分の良心が本当にそう望むなら一日中グータラしててもいいし、大衆に白眼視される職や生活も私にはNOという権利はないのだが、例えば、私に子供ができたとして、私の良心とはかなり違った子の良心に従って子が生活を立てようとした時、私は全く嫌な顔もせず、文句の一つも言わない自信はない。二人の良心があまりにもかけ離れていた場合、私は生きてきた時間の多さを持ち出して、子の良心を疑うかもしれない。

 クッツェーの『恥辱』という小説では元大学教授の男が、農園を経営しそこで採れた作物を売ることで自給自足をしている娘としばらく居を共にする。娘はある日、その土地の掟を刻みこまれる形でレイプを受ける。加害者の一人には農園の手伝いをしている作人の子供がいて、男は娘に告発するか土地を離れるよう言うのだが、娘としてはこの土地で生きることが第一であり、許しがたいことだけれども被害を波立てることなく、作人の子は障碍を持っているのだからと身の世話さえするのだ。

 男は、蓄積された知識を持ち出して、説得を試みるが、土地での生活から滲みでる娘の言葉との対話は、正しくきこえる論理も不思議と浮き足だち、父の知らぬ間に建てられた娘の「見えない壁」をつるつると引っ掻くのみだった。

 この部分を読んで思ったことを言ってみる。良心とは万人にとって一つなのかもしれないが、それは死から見た観点であって、生きてきた時間と身の回りの世界への観察から醸成される良心への志向はどれも途上であり、生者はどのようにしても他人から不完全と見える良心しか持ちえない。父の莫大な知識から導かれる良心への方程式はそれ自体、死であり、彼自身にも娘にもそれを真として指し示すことはできないのは、我々はまだ死んでいないからだ。

 

 話を広げすぎてしまったので戻す。

 「人生ぼーっと生きてる」とか言われる人には、自分の感情や思考が相手へのレスポンスとして生々しく表現できた時、もうすでに遅く、話題の渦中にいる人は誰もなし。枕に顔を埋め、絶叫するより仕方なし。

といった苦労があるのではないか。

 私は中学二年に上がる間際の春に辞めたバスケ部の三年生を送る会になぜか参加した。ほとんど喋ることがなかった先輩に「辞めたって聞いたけど、おまえ何でいるんだよ」と聞かれ、「はあ、一応先輩たちがいた時分には部員だったので」と言うと、「真面目か」と初めて私へ笑い、「もう会わなくなる先輩となんで最後の日に仲良くなれるかも、って希望がわくんだ!?」と、元々先輩と仲が良かった残り組とは逆コースの寂しさにあふれた。

 昼からあみだくじでチーム分けして部内トーナメントをし、夕方にはお菓子やジュースの用意された視聴覚室で少々の懇談が行われたあと、コーチへメッセージを送るコーナーになった。

 コーチはいつも不機嫌な表情をしていたが、この日ばかりは口元が弛む。トリは、女バスのキャプテンだった。女バスのキャプテンは冒頭に言った、今ではかなり問題になるような罰をよく受けていた。

 その彼女が「本当にバスケ部の練習が嫌で、練習に向かう道で、私馬鹿だから、隕石降ってきて学校が粉々にならないかなと思っていました」と言った。僕はおんなじことを思っていた!と目を見開いた。

 のだが、視聴覚室の空気は朗らかなままで、当のキャプテンも「本当に嫌でした」とポップな口調で言い直し、コーチは渡された手紙を読んで、にやけながら「おまえ、これなんだよ」と文面の側をみんなの方へ開くと、女バスキャプテンが赤ん坊の頃の写真が貼られていた!

 「ちょっと、見せないでください!」と女バスキャプテンは公開された写真を手でおおい、周りもアハハ、アハハと、いろいろあったよね的なエモーショナルに流されて、私の反応したレジスタンスの気配は尻すぼみになってしまったのだった。

 私はこの時の空気をふと思い出し、その場にいた人間の全員へ怒ったのだが、もう当の女バスのキャプテンは名前も知らないし、その場にいた誰とも中学を卒業してからは一言も交わしていない。

 突発的な遅すぎる怒りの発露は「どうすればよかったのか?」という問いをぽつねんと残す。

 衝動のままに怒ってる私は、「罰が始まったら急に奇声を発し、コーチに飛びかかる」といった血で血を洗う解答しか思い浮かばない。

 また、前から「隕石落ちろ」と彼女がおもっていることを知ったとして、共感する。と呼びかけても、変な顔をされただろうと思うのは、

 「体育館に隕石が落ちて粉々になり、練習がなくなればいい」と、お別れ会の言葉として発され、笑いに包まれた時点で、「嫌だったけれど思い出」とシュガーコーティングされ、少し嘘の方へ曲がった。

 悪夢や他の形象を借りて罰の恐怖が思い起こされることはあるかもしれないが、その女バスキャプテンが今でもしつこく具体的にコーチをムカつき続けているとは思い難い。

 女バスキャプテンはコーチの一振る舞いがとてつもなく嫌だったのだ。私はもっと深くコーチというか、コーチからつながれるあの部の部員一人一人から父兄にいたるまでの連帯を嫌っていた。あのお別れ会会場に隕石が落ちて粉々になればいいのに、と感じたのは私だけだっただろう。

 

 ベンチ部員はプレイヤーではなくもうほとんどチームのサポーターである。

 冬の大会で、都大会ベスト8へ念願のコマを進め、市民体育館でコーチは思わずガッツポーズの姿勢で項垂れ、「考える人」みたいになっていたが、一サポーターであった私は、「まーた、来週も何時間と応援せんといかんのかい、めんど」と、このバスケ部に対して愛情なんてもんこれっぽっちもないわ、と自覚したので部をやめた。

 ファンを抱えたプレイヤーへ問いたい。熱い戦いを繰り広げ、危機からなんとか生き延びたその時、「なーんだ、まだ続くんかい、はよ終わらせえ」と思われてたら悔しくないのか?

 ベスト8止まりの要因は私も含めたベンチ部員の気持ちを熱くできなかったからではないか?

もしも私が今後調子にのって独りよがりの勝ちに執着した時の訓戒も込めて、

 

……石井健太郎忘れるなかれ

 

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(石井健太郎)