ありがとう、米原の駅弁
- 2025年4月23日
それは、突然の撤退発表でした。
ことしの元日、米原駅で駅弁事業を営んでいた「井筒屋」のホームページに、挨拶文が掲載されました。
「食の工業製品化が一層加速し、手拵え(てごしらえ)の文化も影を潜めつつある。
そのような環境に井筒屋のDNAを受け継いだ駅弁を残すべきではないと判断した」
その理由を尋ねようと取材を試みましたが、「最後の期間は営業に専念したい」と、直接話を聞くことはかないませんでした。しかし、比較的値段が安く画一化された弁当が広まる中で、地元の食材を吟味し、丹精込めて手作りする会社の方針を貫くことが難しくなったことが要因だったことは明らかでした。
駅弁を作り続けて130年
「井筒屋」はもともと幕末に、現在の滋賀県長浜市で旅館業を始めました。明治になり、鉄道の東海道線が新橋から神戸まで全線開通するタイミングで米原に拠点を移し、明治22年に駅弁事業に参入。その後、米原駅は関西・東海・北陸から路線が乗り入れ、さらに新幹線の駅も加わる重要な接続点となり駅弁事業は拡大しました。米原特産の「鱒」や近江牛、それにカレーなど多くの駅弁を展開し、明治から令和まで130年以上駅弁を作り続けてきました。
行列が絶えなかった名物駅弁「湖北のおはなし」
元日の撤退発表以降、井筒屋の駅弁を購入できる西口の本店、在来線と新幹線のコンコースにある売店では、最後に思い出の味を食べておこうという人が急に増えました。
その中でも特に人気が高かったのが、名物の「湖北のおはなし」。国鉄からJRに民営化された昭和62年に販売が始まりました。
香辛料が効いた「鴨のロースト」。ワカサギの甘露煮。赤かぶの漬物。いずれも地元の名産をふんだんに使った、まるで“おばあちゃんが作る”どこか懐かしい味わいが特徴の一折。四季折々の旬の食材も楽しむことができ、ごはんの下には春を感じさせる「桜の葉」が敷かれていました。「湖北のおはなし」を買い求めようという客は日に日に増えていき、最終的には購入できるのは1人1個となり、各売店には長い列が毎日のように出来ていました。
「地域の関わりを第一に」
井筒屋と20年来の交流があった京都市立芸術大学の畑中英二教授も撤退を惜しんだ多くの人の1人です。畑中教授は、歴代の社長に話を聞いたり、資料を集めたりして去年(2024年)、井筒屋の歴史を160ページからなる冊子にまとめたばかりでした。
陶磁器が専門の畑中教授が井筒屋と出会ったのは、駅弁のお供として販売されていた、お茶を入れる陶器「汽車土瓶」でした。「汽車土瓶」は明治から昭和にかけて販売され、そのほとんどの期間、信楽で作られ、一時は児童福祉施設に制作を発注していたほど「地域との関わり」を大切に考えていました。
畑中教授は「弁当づくりにもその姿勢は見て取れた」と振り返ります。歴代の社長に話を聞く中で、「湖北のおはなし」はどのような食材を使うのか、どのような味付けをすると食べてくれる人は喜んでくれるのかなど、地元出身の従業員たちと議論して完成させたというのです。
「湖北の良いところを ぎゅっと凝縮したような、そんなお弁当。地域との関わりなしに、あのお弁当は語れないかな・・・」
別れを惜しむ声は、地元米原でも
米原の歴史を紹介する伊吹山文化資料館の学芸員、高橋順之さんも、取材に応じてくれました。米原市と合併した旧伊吹町で生まれ育った高橋さんは、駅弁に加えて井筒屋が駅構内で営業していた立ち食いそばの店で、高校生の時に食べた味が忘れられないと言います。
「在来線の各ホームにそばの立ち食いがあったので、サラリーマンの人たちが、おいしそうに食べていた。なかなか、大人たちにまじって高校生が食べることも出来なかったが、何度か思い切って学校の帰りに食べたこともあります。特別おいしかった印象があります」
資料館では去年(2024年)、井筒屋の歴史を紹介する企画展を開催して以降、弁当の掛け紙の複製や昔の写真などを常設展示しています。掛け紙は、伊吹山をはじめ地元に伝わる祭りの様子など、さまざまな種類を目にすることが出来ます。
「本当に米原の味と景観を駅弁を通じて全国各地に広げてもらった。そういう貢献、感謝ですよね」。
「唯一無二の弁当だった」
撤退を惜しむ声はネット上にもあふれ、多くの人が名残を惜しみました。
「湖北のおはなし」を買うためだけに米原へ来た/なくなるの悲しすぎる
これ以上何かを足しても引いても成立しない絶妙なバランス、唯一無二
すごいお弁当だわ。長年、ありがとう
取材後記
米原駅を利用する人たちに“滋賀の味”を届け続けた井筒屋の駅弁の販売は2月末で終了しました。販売の終了直前に放送したテレビ放送の後、米原の人たちから、「懐かしかった」とか「終了を教えてくれてありがとう」など、多くの反応を頂きました。
そして、その多くの人が、井筒屋で働いた経験があったと話してくれたのです。
「高校生の時、私もアルバイトをさせてもらった。木製のかごにたくさんの弁当を持って駆け回り、販売した。本当に忙しかったけど、家計の足しになってありがたかった」
「立ち食いそばも、電車の窓まで持って行き買ってもらった・・・今でもとても良い思い出だよ」
在来線のコンコースにあった弁当を販売していた小さなブースは今はもうありません。新幹線のコンコースにある弁当を販売するスペースには、別のお弁当が販売されています。
しかし、井筒屋の駅弁を食べながら旅をした人、米原を経由して全国を行き来したサラリーマン、それにお昼ごはんがわりに駅弁を食べていた地元のみなさんなど、多くの人の思い出の中に、井筒屋の弁当はいつまでも生き続けると思います。