People Have the Powerを広島で朗読したパティ・スミスが被爆者との対話で語ったこと
アメリカを代表する伝説的なアーティストで、詩人やシンガー・ソングライターなど幅広い表現活動を続けているパティ・スミスさんが、広島で8歳のころに原爆の被害にあった被爆者の小倉桂子さんと対話するイベントが28日、広島市中区の広島平和記念資料館であった。自身の作品をアカペラで披露したりしながら、「声をあげよう、立ち上がろう」と訴えかけた。
日本滞在中の唯一の休日となったこの日、広島を訪れることにしたというスミスさん。東日本大震災の被災者支援のコンサートを7カ所で9回開催し、1口250円の募金を呼びかけるなど、親日家としても知られている。今年は、次世代のアーティストに大きな影響を与えたデビューアルバム「Horses」の発売から50年という節目の年で、今回の来日期間中、スミスさんはサウンドウォーク・コレクティヴとともに東京や京都での公演を控えている。
「広島は何年ぶりですか、前回訪れたときから何か変化はありますか」。小倉さんにそう尋ねられたスミスさんは、「10年ぶりくらい」と答えた後、広島訪問のきっかけが第二次世界大戦でフィリピンとニューギニアで従軍した父の存在だったと語った。「広島と長崎への米軍による原爆投下について、とても恐ろしい非人道的な行為だと感じていたが、父はそれを乗り越えることができなかった」。大戦終戦の翌年に生まれたスミスさんは、そんな父の姿を見て、「私たちが原爆を投下したこと、凄まじい破壊と人間性の喪失、そしてそれがどんなに恐ろしいことか」と思っていたといい、「だから私はここに来て許しを請いたかった。そして父のために地面にキスをした」と語った。
「アメリカを最初に訪ねたとき、会った人たちに原爆被害について知らないと言われた。ここにいる人も、広島と長崎で何が起きたかご存知ないと思います。わたしの体験を話しますね」。そう切り出した小倉桂子さんは、広島の爆心地から2・4キロメートルの地点で被爆したことを語りはじめた。自宅近くの路上で一人遊んでいると、突然一面が真っ白になり、爆風に吹き飛ばされて気を失ったこと。あまりの衝撃の大きさに、自分の家が標的にされたと思ったが、後に多くの人がそのように感じたと知ったこと。傷ひとつない人々が死んでいく中で、放射線の恐怖に怯えたことーー。スミスさんは真っ直ぐ小倉さんを見つめながら耳を傾けた。
そして小倉さんはこう続けた。「わたしもアジアの国々の人たちに謝罪しなければならない。戦争こそがいけない。あなたが反戦を訴えていることについて聞きたい」。これに対して、スミスさんは、「父が反戦を訴えていた。彼はアメリカ国民として徴兵され、彼の任務を果たそうとした。彼はもともと国家主義者ではなかったが、二つの原爆投下によって、彼はあらゆる戦争に反対する、とても積極的な平和主義者になった」と答えた。
「富める者、強い者、権力者が地域全体、国全体、都市全体を破壊している。現在パレスチナで起こっていることは、戦争でなく、人間の破壊。私たちは毎日、人々が苦しんでいるのを知りながら食べ物を食べたり、他の人々が安全でないことを知りながら安全を感じている。多くの人々が苦しんでいると知りながら、美しいものを享受するのは苦痛だ」。スミスさんはそう語気を強め、核兵器によって引き起こされる恐怖について、若い世代を教育すること、亡くなった人々を追悼し、心に刻み続けることの重要性を訴えた。
対話の中でスミスさんは時折言葉を詰まらせ、「私の父がここにいたら、彼は泣きながら聞いて、あなたにハグをしたと思う」と小倉さんに伝えた。「たとえ私に起こったことではなくても、もうそれは私の一部。あなたも私の一部になっています」
スミスさんは、「原爆にあったころの8歳のあなたに」と、自身の曲「Wing」を小倉さんのためにアカペラで歌った。夫のフレッド・スミスを1994年に亡くした後、当時まだ7、8歳と幼くして父親を失った娘のために作ったものだという。そして、「8歳の彼女は諦めなかった。彼女は復讐を求めず、平和を求めた」と、長く証言活動を続けていた小倉さんの功績を称えた。そして、亡き夫とともに作った「People Have the Power」も朗読した。
「この歌にあるように、私たちが夢見ることはすべて実現できると信じている。そのために、私たちは団結しなければならない。パレスチナのために、私は2003年以来発言してきた。心を痛めているが、諦めるわけにはいかない。戦うことをやめられないし、祈ることをやめられない。愛と共同体の感覚を失ってはいけない」
「あなたのパワーの源はなんですか」。会場の参加者からそう問われたスミスさんは、こう答えた。「皆私に同じことを聞くけれど、あなた方が知っているほど私は知らない。私は、アーティストであり、母親でもある立場で私にできることをする。コンサートを開くたびに、私は自分の声を使って語りかける。でも、それはアーティストや政治家だけがやることではない。立ち上がるべきは有権者である国民。私たちは皆同じ。みんな同じことを望んでいる」
そしてイベントの終わりにこう付け加えた。「小倉さんに10年前と今との変化は、と聞かれたけれど、最初の訪問と今とは違う。最初の訪問は見知らぬ者として来たが、今は友人として来ている。私には友達がいる。ありがとう」