「金嬉老事件」と進歩的文化人 [2012年03月12日(Mon)]
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寸又川の峡谷に架かる夢の吊り橋 言われは、夢に出そうな幻想的な橋とも渡るのが怖くて夢に見そうな橋ともいわれている 「金嬉老事件」と進歩的文化人 若い諸君は知らないかもしれないが、昭和43年2月、在日韓国人の金嬉老は静岡県で2人を射殺したあと、寸又峡の「ふじみや旅館」にライフル銃とダイナマイト72本を持ち、経営者家族と客13人を人質に88時間にわたり立てこもった。その間、マスコミを通じて在日韓国人差別への怒りを訴え、大きな話題を呼んだ。 その舞台であった「ふじみや旅館」が近く廃業届を出すとの新聞記事を目にした。 ふじみや旅館 当時は進歩的文化人(現在は死語)が世間を跋扈(ばっこ)し、左翼にあらざればインテリにあらずの時代であった。それらの人々が、現在、至極真っ当な言説で活躍されているのには驚かされる。戦前、右翼的な発言をしながら、その反省もなしに当時の時流に乗った「教科書裁判」の家永三郎などは、特にたちが悪かった。 戦前の共産党幹部であった佐野学や鍋山貞親のように、はっきりと転向声明を出した人はわかりやすい。戦後でも清水幾太郎や西部邁のような著名人の転向はどこかの書物で読んで“そんなものか”と理解できたが、困るのは多くの進歩的文化人といわれた方々で、ソ連への絶賛、非武装中立論、毛沢東の大躍進的政策や文化大革命を礼賛し、当時は北朝鮮まで絶賛していた。特にソ連邦崩壊後もマルクス経済学を教えていた東大をはじめ各大学の教授陣は、現在如何お過ごしであろうか。マル経の限界を感じて教授を辞任したという話は一向に聞こえてこない。あるいは仮の姿で環境、人権、市民運動へと活動を変更し、いずれ時来たらばと臥薪嘗胆しているのか。転向したのかどうか、わからないところが薄気味悪い。 進歩的文化人から転向された中嶋嶺雄氏は、私の尊敬する学才の一人である。氏の古傷に触るようで誠に申し訳ないが、最近読んだ「革新幻想の戦後史」(竹内洋著・中央公論新社)に表題の金嬉老事件と中嶋氏の関係が書かれていたので、以下、引用してみる。 中嶋嶺雄氏などが銀座東京ホテルに集まり、「金さんへ」という呼びかけで始まる次のような文書をまとめた。 「あなたの声は私たちのところに届きました。(略)あなたの行動は民族の責任を衝きました。私たちは、まさに日本民族のため、あなたの声を真っ向から受けとめたいと思います。」 その場にはいなかった日高六郎(東大教授)、中野好夫(評論家)、宇野重吉(俳優)なども署名に名をつらね、翌日、文化人と弁護士の5名がこの文書を吹き込んだテープを持って寸又峡の「ふじみや旅館」に向い、金嬉老との会見は夜9時から午前2時まで続いたという。翌日の昼、この一行が旅館を後にし、午後3時、金嬉老は逮捕され人質は解放された。 逮捕後、呼びかけ文書に署名した文化人のかなりが金嬉老問題とのかかわりを避け、知らぬ半兵衛を決めこんだ。竹内洋氏は「金嬉老を弁護し闘うという初期の呼びかけはどこえやらとなる」と、厳しく批判している。かつて進歩的文化人であった中嶋嶺雄氏と極悪殺人犯の奇妙な友情?がどうなったのか、その後のことは知らない。 *文中、進歩的文化人は文化大革命を礼賛とありますが、中嶋嶺雄氏は文化大革命を批判するなど、現代中国研究の第一人者の一人です。 |