pixivは2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴
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卒業も間近に迫った冬の日の談話室で、ソファで大口を開けて大福を頬張った五条先生が、「ふぉういえは(そういえば)」と口を開いた。
「口に入ったまま喋らないの」と笑うと、「ふぉめん(ごめん)」ともごもごする口元には、白い粉がついてる。それを何となく親指の腹で拭ってると、先生の白くて長くて綺麗な指が、俺の指先をきゅっと握りこんだ。
ごく、と大福を飲み込んだ先生が、ニヤニヤと俺に向き合う。……なんか嫌な予感。
チェシャ猫みたいに鋭い笑みの形にした薄い唇が動く様が、いやにゆっくりに見えた。
「……そういえば、日車さんって今度結婚するっぽいね」
ガツンと頭を殴られたような衝撃に、咄嗟に言われた言葉が理解できない。
日車って、あの日車寛見? 日車が結婚?
世界が急速に狭まっていく感じがして、音が遠くなる。表情が無くなって、体液がざっと落ちていく感じがした。
「え……?」
顔色も表情も取り繕うことができないままの俺を、指先を握りこんだままの先生が、ソファの背もたれに肘をつきながらニヤニヤと見つめている。
「悠仁知らない? 仲いいから何か聞いてるんだと思ってたよ」
「いや……何も聞いてないよ」
追い詰めるみたいにジリジリと近づく先生は、薄く長い舌でペロリと唇を舐める。もう大福の粉なんてついてないのに。
怖いのは、何か狙っているみたいな雰囲気の先生なのか、この話の先を聞くことなのか。……きっと、その両方だ。
「この前恋人いるのかって話になった時にさぁ、『ずっと心に決めた人がいる』って言っててね」
「……」
「春からその人と一緒に住むから引っ越しもするらしくて……その住所変更の件で事務所に問い合わせてて、そこで話のついでに聞いたんだ。引っ越すってことは、もう結婚するってことでしょ?」
いやぁ、おめでたいよねえ。
何がそんなに面白いのか、大きく笑い始めた先生の声が、やけに耳元で響く。
「そうだね」と小さく答えた俺の声は情けないほど震えていて、ソファに置いた手はいやに汗ばんでいる。それをぎゅうと握りしめて、俺は深く深く俯くしかできなかった。
日車に、恋人がいる。
それを聞いてから、どうやって自室に戻ったのか分からない。
ただ、ひたすら動揺して……この恋が終わったことや、これまで過ごしてきた日々に確実なピリオドが打たれる事実に、ひたすら打ちのめされていた。
そうだ、俺はずっと恋をしている。
日車が高専で公式に呪術師になってから、時々誘ってくれる『やっちゃいけないと思い込んでたこと』を一緒にやる仲になって、俺からも色々誘うようになった。特に次の約束を決めるわけじゃないけど、何となく毎回誘ってるような、そんな曖昧な温度で。
俺達はお互いに、取り逃して、あるいは諦めてきたことが多かったから、それらを取り戻すみたいに遊ぶのが楽しかったのかもしれない。
それがあまりにもクセになって、『こんな日々がずっと続けばいいのに』と思う気持ちが恋に変わっていったことは、自分でも気付くのが遅れたくらいには自然な流れだった。
でも、その好きな人はどうやら恋人がいたらしい。
恋人の存在なんて、何も知らなかった。そういえば一度も恋愛の話なんてしたことが無かったから、当然といえば当然か。
あんなに魅力的な人だから、前からずっと恋人がいたのかもしれない。俺には言わなかっただけで……。
高専の卒業と同時に、日車との遊びも、この初恋も卒業しなければならないらしい。青春らしい青春の終わり方のような気がして、思わず苦笑が零れた。
◇◇◇◇◇◇◇
いつも通りの任務後の、いつも通りのファミレスは、木曜日の夜だというのにガヤガヤと賑やかだった。
俺は食べ終えたイチゴパフェのスプーンを置いて、目の前でコーヒーゼリーを食べ終えて口元を拭いている日車を静かに見つめた。お互いにメインディッシュを食べたあとにデザートを食べるのは、もはや習慣化している。
……少しでも長く一緒に居る時間を増やしたくて、そんなに好きでもないデザートを毎回注文してたなんて、日車はきっと知らないだろう。
そして多分、日車は俺に付き合うためだけに、デザートを食べているはず。毎回、サイズが小さくて甘味の少ないものを選んでいる姿を見れば、何となく分かってしまう。
席のすぐ横の廊下を赤ちゃんを抱いた母親と2歳くらいの男の子の手を引いて歩く父親がレジに向かう姿を何となく見送って、俺には得られない未来だろうとぼんやり思ったところで、内心「よし」 と心を決めた。
「……もう、『やっちゃいけないこと』すんのやめよ」
コーヒーを飲もうとした日車の動作が途中で止まり、視線が一瞬だけ右に流れた。
がやがやと賑やかな喧噪が、ここだけ切り取られて少し遠のいた気がする。
「……理由を聞いても?」
結局口に運ばれなかったコーヒーカップが軽い音を立ててソーサーに戻され、ぴたりと俺を上目遣いに見つめる。
日車が人を見る時のくせだ。上目遣いで、どこか探るような、観察するような目線。
「だって……ほら、その……俺が任務続きで忙しくなりそうだからさ」
「そうか」
「うん……」
嘘だってバレたな。きっとバレバレだ。
現に、日車はまだ話の続きを待っているような、聞く姿勢のままだ。弁護士の名は伊達じゃないし、何なら俺も嘘だとバレていいと思いながら、適当なことを言った自覚がある。
つまり、『真実を言う気はない』と伝われば、それで良かったわけだから。
しばらく日車は俺を見ていたが、ついと視線を落とす。
時間が戻ったみたいに動き出して、コーヒーを一口飲んだ。
「……それなら仕方ないが、残念だ」
「はは、うん……俺もだよ」
残念なのは、心から同意するよ。今日だって、恋人とか引っ越しとか、結婚の話なんてまるでしてくれなかった。
五条先生から聞いたあの日から、俺にも結婚の話をしてくれるんじゃないかと思っていたけど、日車は全く以ていつも通り。もしかして、最後の最後まで話すつもりが無いんだろうか。
結局、そうしてその日もいつも通りにレジで「割り勘だ」「年下に出させるわけにはいかない」の攻防戦を繰り広げて、結局日車が全額カードで払う形に落ち着いた流れまで、何もかもいつも通りだった。
『やっちゃいけないと思い込んでたことをやる仲』が終わったこと以外は、すべていつも通り。
◇◇◇◇◇◇◇
……俺達の仲は、あの木曜日に終わったはず。だった。少なくとも、俺はそう思っていた。
だというのに、あの日から逆に不思議な習慣が始まってしまった。
ダラダラとベッドで動画を観ていて、さり気なく時計を見ると、22時49分。
有名ゲーム実況者の動画を止めて、起き上がる。部屋が急に静かになった気がして、ふう、と無意識に息をついた。
この時間を待っていたような気がするし、「もうやめてくれ」と突っぱねて、拗ねているような気もする。
今日は水曜日。きっと、そろそろだろう。
ちら、とスマホを見やれば、タイミングを見計らったように『日車寛見』の文字を表示しながら、細かく震えだした。
ぼんやりと手に取って、震えるスマホをしばらく見つめる。
はぁ、と息をついて、胸の高鳴りと呆れみたいなものをひっくるめて、『応答』にスライドした。
「……もしもし?」
『俺だ。今、時間は平気か?』
「うん、平気だよ」
『俺だ』なんて一昔前に流行った詐欺かよ、なんて軽く笑いながら、クッションを抱えてベッドに座り込む。
耳元で響く気だるげな声は、いつもより少し疲れているように聞こえて眉尻を下げた。
「なんか、今日疲れてる?」
『大きい案件がなかなか片付かなくてな……今日はまだ少しかかりそうだ』
日車が疲れたときにやる、目頭をごしごし擦るような仕草が見えるようだった。
カーテンの隙間から見える暗い空を見ながら、こんな時間まで仕事をしている、煌々と電気のついた事務所に1人でいる彼を想う。
「あんま無理すんなよ? こっちの任務だって、無理して出てくる必要ないんだからな」
弁護士なんて仕事がどれだけ忙しいのかは分からない。ただ、人の人生を左右する責任の重さと、時々疲労が色濃く浮かんだ横顔を見ていれば、何となく察することができた。
それと呪術師なんていう命がけの仕事を両立するなんて、きっと生半可なことじゃないはずだ。
『どちらも大切な仕事だ……俺に出来ることがある内はやるさ』
「そっか……日車らしいな」
そこから、ぽつぽつとお互いのことを話した。今日あったこと、天気のこと、新しく開拓した駅前のカフェの雰囲気が良かったこと。卒業後はどこに住みたいか……そんな、なんてことのない話。
そして何となく話が途切れた頃に、おやすみを言い合って通話が終わる。時間にしたら、10分ちょっと。
暗くなったスマホの画面を見て、何ともいえない気分で肩を落とした。
……なんで恋人がいて、もう一緒に暮らすような状況なのに、俺に毎週電話をしてくるんだろう。その人に電話をしたらいいのに。
何度も電話の理由を聞こうとしてるのに、なぜかいつも聞けない俺も俺だ。
最初に電話があった時は、ついに結婚の話でも打ち明けられるのかと思ったけれど、話すのは毎回、本当に何てことの無い話だ。
ここ一週間であった任務や仕事の話から始まり、今まで行ったお店の話とか、どんな景色が好きだとか、都内だったらどの街が良いとか……。
ファミレスで『悪いことをする仲』を終えた翌週から、今日のように週に一度、電話がくるようになってしまった。
いつも決まった、水曜日の23時頃。なんでこの時間なのかは分からない。ただ、毎週必ず連絡があった。
しかも質の悪いことにきっちり3回に1回はご飯を誘ってくれるけど、俺はやっぱり断った。とても普通の顔ができる自信がなかったから。
だって、恋が砕け散ったと知ったあの日から、見るもの全部に日車がいる。
夕方の環七に、国道沿いにあるファミレスに、どこの駅前にもあるチェーンの牛丼屋に、「学生の頃に見て印象的だった」と話してくれたゴダールの映画の中に、いつか行こうと話した繁華街の岩盤浴施設にさえ、日車の思い出がある。
それを見る度、粉々に砕けて血を流したはずの恋は、それでもまだ息をして生きていると分かってしまう。
電話で声を聴くたびに、まだ好きだと分かってしまう。
でも、次こそ……次こそは「なんで毎週電話するんだ」と、「こういうのは恋人にしてやって」と言おう。
そう決めて眠るのに、次の水曜日になると言えなくなってしまう。
恋を捨てきれない意気地なしの自分と、理由が分からない着信を増やし続ける日車に、日々言いようのない気持ちが募った。
そんな翌週の水曜日のことだった。
『君ももうすぐで卒業だな』
「……うん」
部屋に飾ってあるカレンダーは、もう2月になろうとしている。
そういえば去年のバレンタインは任務後にさり気なくチロルチョコをあげたら、ホワイトデーに大袈裟なお返しをもらって驚いたっけ、と懐かしく思い出す。
……きっと今年は、そんなイベントはないんだろうな、とチクリと胸が痛む。
『卒業後はどうするつもりなんだ』
「え? んー……まぁ俺、こんなだし、監視対象だからしばらくは高専の近くで住んで、呪術師続けるよ」
『そうか』
卒業後、か。最近しばしば話題に上がるそれは、俺にこの恋の卒業を促すように感じられて仕方がない。
実際、卒業したら今までのように任務以外でさり気なく高専で会うことも無くなるし、一緒の任務でもない限り顔を合わす機会は少なくなる。
そうしてどんどん距離ができて、互いの顔が薄れて、思い出が遠くなって……そうしたら、この恋も薄くなっていくだろうか。
ぽつりとそう思うと同時に、声に出ていた。
「日車は、」
自分でも分かるほど、固い声だった。一体何を続けようとしているのか、考えるより先に言葉が出てくる。
「もう……俺に連絡すんのやめた方がいいよ」
言ってしまった。ついに言ってしまった。
するりと口から出たそれは、今まで言えなかったのが嘘みたいに簡単に零れて落ちる。電話口の向こうで、一瞬だけ日車が黙り込む。
『……迷惑だったのか?』
「ううん、迷惑っていうか……」
その言い方はズルい。迷惑だなんて思ってないし、言えるわけない。
言葉を濁して、なんて言えばいいのか分からずに唇を噛む。
迷惑なんかじゃない。ただ……理由の分からないこの習慣を続けていたら、いつまでも恋が捨てられない。
なぜ電話するのか聞こうと口を開きかけたところで、んん、と日車が咳払いする音が聞こえた。
『じゃあ、最後の、悪いことに付き合ってくれないか』
『俺が一番、やってはいけないことに』
◇◇◇◇◇◇◇
高専から近い駅前まで車で迎えに来た日車は、いつもと少しだけ違った。
俺が車に乗り込んだときから、少しだけ緊張気味に言葉が少なく、ソワソワしている。
「……待たせたな」
「ううん、時間通りじゃん」
黒に近いダークグレーのスーツに、ピカピカに磨かれた革靴。鈍く光る向日葵と天秤のバッジ。そのどれもがいつも通りのようで、少し違う。
ただ、俺としては何より……助手席に乗り込んだ時に見えた、後部座席に置かれた物を見た瞬間に、その理由が分かった気がした。
コートと一緒に置かれた見慣れないブライダルショップの白く艶やかな袋と、その中にぞんざいに入れられた沢山のパンフレットと何かの書類。
きっと、今日こそ遂に俺に恋人の話をするつもりなんだろう。大方、『最後の悪いこと』というのも、それに関するものに違いない。
俯きがちになる顔を無理やり上げて、どんな話をされても笑顔でいようと決めた。自分の恋の終わりは、せめて笑顔でありたい。日車のためじゃなく、俺のために。
覚悟を決めて、ひたすら流れる街の景色を眺めた。
ぽつぽつと近況報告をしているうちに、車はふ頭内にある公園の駐車場に駐められた。
無言で出るように促されて、シートベルトを外す。
なんてお誂え向きの場所なんだろう。告白でもされるんだったら良かったのにな、と苦笑を漏らしていると、コートを着た日車は後部座席から例のブライダルショップの袋を出しているところだった。
公園自体は木に囲まれて静かなのに、その向こうには海と、海の向こうに星より眩い光を放つビル群が見えて、それをゆっくりと遮るように巨大な船が横切っていく。
躊躇うことなく先を歩いていく日車のコートが、冬でも少しだけぬるい海風に靡いた。そういえば、今日は2月なのに妙に暖かい。
闇に紛れそうな後ろ姿を追って歩いていくと、夜景が一望できるベンチに座るように促された。
「すげーきれい……」
はあ、と息をついて目の前に広がる光の洪水に、出てきた言葉はすごく陳腐で、でもそれ以外に言いようがなかった。
静かで、ロマンチックで……恋を終わらせるにはうってつけの場所。
「ああ」とはっきりしない声でぎこちなく言った日車も隣に座って、しばらくそのまま無言の時間が流れる。
居心地が悪いものではなくて、ただただビル群の光が海に反射してゆらゆらきらめいて、まるで別世界を作り出す様を見ていた。
辺りにほとんど人影は無くて、時折後ろを通り過ぎるカップルの楽し気な笑い声が遠く聞こえるだけだ。
目の前じゃない遠くを見ながら、無意識に力の入った冷たい手を握りしめる。ああ本当に、今日終わる。終わってしまうんだ。
「……日車、恋人いるんだろ? 近々結婚するって、聞いた」
明るく言おうしたのに、失敗して少しだけ声が裏返ってしまった。
震えそうになる両手を組んで、脚の間にぎゅっと挟みこんだ。どうか寒いだけの仕草に見えますように。
「幸せになれよ。 ……俺、ずっと……ずっと日車が幸せであること祈ってるよ」
歪みそうになる唇を何とか笑いの形にして、目を細める。きっと笑顔に見えるはずだ。
そうだ、笑え。笑ってくれ。もうこれで、最後なんだから。
それなのに、見つめた日車は酷く無表情で……むしろ、いつもより鋭く、観察するような上目遣いだ。何か様子がおかしい、と気付いた時には、日車の言葉が先に紡がれていた。
「それは誰から聞いたんだ?」
「五条先生から……その人と暮らすから、今度引っ越しするんだろ?」
自分の口から言うには辛い未来を、何てことない風に話して、ぽっかり浮かぶ月を見上げる。柔らかく雲にぼやける三日月は優しく見下ろしていて、最後の思い出を綺麗に彩ってくれているようだ。
恋人って、どんな人なの? どのくらい付き合ってんの? 出会いはどこだったの?
そんな世間話の延長みたいなことを聞こうとして、でも一つも言葉にならない。だって、そんな話は何一つ聞きたくない。
結局、カラカラに枯れた喉は一度唾を飲んでから、全く別の言葉を選んでいた。
「……今日会ってやりたいことって、何だったん?」
滲みそうになる月をひたすら見つめていたら、不意に左の腕を取られて、弾かれたように顔を向けた。
日車は取った腕から手を滑らせて、冷え切った手を両手で包み込んでいる。視線はじっと、どこか焦りを含んだような熱を孕んで、ひたすら俺に注がれている。
「君と、ずっと『やってはいけないこと』を……幸せに続けていたい」
取られたままの左手の指に、冷たく透き通るような何かがすっと通されて、指の途中で止まる。
ぱっと両手が離されて見えたそこには、左手の薬指の途中で止まった、星のように輝く銀色の指環。
「驚かせようと思っていたんだが……慣れないことはするものじゃないな」
やはり、サイズが合わない。
苦笑して言った日車が、薬指の第二関節で止まった指環を愛しそうに撫でた。
分からない、何もかも分からない。ただ薬指から広がった熱が、体中をどくどくと巡る。
「え、え……? なに、これ」
寒さが理由じゃなく震える左手を見つめる間、日車は持って来ていたブライダルショップの袋から、軽く数十枚はありそうな書類をいくつか取り出して見せてくれた。
部屋の間取りと家賃が書いてあるそれは、どう見ても物件の案内だけど……なんで?
信じられないことが続き過ぎて、ただ奇跡みたいな左手をそっと抱えて、おろおろと日車の様子を伺う。
「君は住まいにこだわりがある方か? 君が何を喜ぶのか、分からなかったからな……とりあえず、君が以前言っていた条件に合致する場所をピックアップしてみたんだが」
そういえば、電話する習慣が始まって以降は、さり気なく卒業後はどんな場所に住みたいか、どんな部屋が好きか、どんな風景が好きか、よく話していた気がする。
今、日車が見せる間取りも、住所も、全てそれと合致しているから、まさかあの電話で聞いていたのは、ぜんぶ……。
「ちょ、ちょっと! ちょっと待って……だって、日車には恋人が」
「俺は五条さんに『心に決めた人がいる』とは言ったが、『恋人がいる』とは一言も言っていないぞ。これから、『恋人』で『婚約者』になってもらう予定の人物なら、いるが……」
俺の言葉を遮るように言って、焦がれる瞳が俺を射貫く。普段の冷静さをかなぐり捨てたように熱を持つ瞳が、刃物みたいに俺に向けられている。それは確かに今、ここで、俺に愛を伝えようと瞬きすらせずに視線をぶつけてくる。
「……卒業後は、俺と結婚を前提に暮らさないか」
震えた低い声は、俺と同じく恋に藻掻いて、焦がれ、苦しんでいたことが透けて見えるようだった。
「俺にとっての一番の禁忌は……まだ学生である君に想いを告げること、だったんだ」
それが日車の望んだ、最後の『やってはいけないこと』。
こんなことが、あっていいんだろうか? あの日から、日車が結婚すると聞いてから、色を無くしたみたいな世界を生きていたのに。突然こんなことをされて、何も受け止められない。
震える左手をそっと取られて、中途半端な位置の指環にそっと口づけが落とされた。
何も言葉にならない。ただ、喉が熱くて、遠くにある光の粒も日車もぐにゃりと歪んでしまう。
「…………お、おれ、日車のこと……諦めなきゃって……」
心の中にただ浮かんだ言葉だけが、ぼろぼろと零れ落ちていく。空いてる右手が、今にも何かが溢れそうな胸元をぎゅうと握りしめる。
「つらかったよ……すげー辛かった……」
ひどく散らかったそれは、もう自分でも止められない。喉も胸も詰まって、息が苦しい。
「………ずっと、好き……好きだよ……!」
どちらが先に腕を伸ばしたのかは分からない。きっと同時だった。
ベンチの上で広げたままだった物件の紙がぐしゃりと潰れるのも構わず、夢中でその身体に手を伸ばした。
コートを汚してしまうと一瞬頭を過ぎったものの、構わず首筋に頬を寄せると、頭を抱き込む手の力が強くなる。
ドキドキして熱くなった身体を押し付けるみたいにすると、互いの身体に渦巻いて出口の無かった『好き』が通じ合うみたいだった。
ああなんて、信じられない。ここに来たときはもう終わりだと思ったのに。
静かな海の音だけが響くなか、胸を叩くような鼓動を感じていると、ふいに風が揺らいで、日車の髪から澄ましたような大人の香りがした。その香りまで残さず感じたくて、いっそうぎゅうっと抱き着いた。
きっとこの夜を永遠に忘れないだろう。
肩ごしにぼやけるキラキラの夜景の中、一粒だけ涙が零れた。
すん、と鼻をすすってから、ちょっとだけ腕を離して、けれどこつんとおでこをくっつけ合う。
「……ねぇ、聞いていい?」
「なんだ」
近すぎる距離で吐息が混じり合ってくすぐったい。それに小さく笑いながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「なんでいつも、水曜の23時に連絡くれたの……?」
「ああ、あれか……週の半ばに君の声を聞いて、平日を乗り切っていたんだ」
平日を乗り切る……?
どういうことだろうと視線で問いかけると、気まずそうに頬を染めて視線が逸らされた。
「……月曜と火曜は君の声を楽しみに仕事ができるし、木曜と金曜は、君の声を糧に頑張れるだろう? それに、さり気なく君の希望を聞ける」
今度はこっちの顔が熱くなる番だった。まさか、こんな知的で理性的な人が、俺の声なんかを糧にしていたなんて。
「俺を避け始めたタイミングからして、どうせ五条さんあたりから適当な噂話を吹き込まれたことは分かっていたが……会えないのは、正直堪えたよ」
どうやらほとんどの事情はお見通しだったらしい。だったら俺の勘違いももっと早く解いてくれれば良かったのに。でも、もういいんだ。
「これからは、毎日やんなるくらい俺の声聞けるよ」
「そうか……なら、ずっと頑張れるな」
絡み合うみたいに自然と互いの指を繋いで、見つめ合って、笑いあった。
この日、俺達は初めて約束をした。今度の土日は指環のサイズを直して、物件を回る約束を。
なんだけど、日車が結婚するという話を聞いてしまって、連絡を断とうとするけれど。なお話です。