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嫌疑不十分により、釈放。
その言葉に、また一緒に過ごせるんだって、胸を撫で下ろしたのに。淡い喜びは、手渡された紙切れ一枚によって打ち砕かれた。
高専にある談話室のソファに腰掛けた男の、黒い輝きが俺を地面へと縫い付けた。
「自己満足だとは、重々承知の上だ。いくら別の形で人を助けようと、犯した罪への贖いにはならない」
ひくっと口の端が震えた。喉がからからで良かったと心底思う。そうじゃなかったら、俺は高専に引き留める言葉をたくさん言っていただろうから。
だって、日車自身が裁かれたいって切に願っていたことを、俺が一番知っていたんだ。それが果たされなかったことの苦しさは、痛いほど分かってしまう。
だから、俺は。
お前とよく似た俺だけは。
これから紡がれるであろう言葉を、おめでとうって受け止めないといけない。
談話室の古い空調が、ぎしぎしと耳障りな音を立てる。頬を伝う一滴の汗が、紙面へぽたりと落ちた。
「それでも、俺は。……また弁護士として働くことにしたよ」
迷いも淀みもない声だった。ただ断罪を待つ身の俺には、その潔い選択が眩しくて仕方がなくて。体の中心にぽっかりと大きな穴が空いたように、すうすうと生ぬるい風が通り抜けてゆく。
ああ、なんて最悪のタイミングで自覚してしまったんだろう。
熱の失せた指先で、採用を知らせる紙をぐっと握りしめ、覚えたばかりの愛想笑いを浮かべた。
「俺は、その選択を尊重するよ。応援してっからな、日車弁護士!」
「君にそう呼ばれると、何だか落ち着かないが……。ありがとう、虎杖」
俺がわざわざ後押しなんかしなくたって、日車はどこへだって行けるんだ。未来に進もうとする人間に、この感情は重荷になる。
でも、どうか。冗談に紛らわせるくらいのお遊びは、見逃してほしい。
「あーあ、憧れの一級呪術師は晴れて卒業かぁ」
「……なに、この一年強で繁忙期は把握した。月数回程度にはなるが、高専に顔を出すよ」
「兼業すんの? アンタの真面目なとこ結構好きだけど、それで体壊したら元も子もないからな」
頑張り過ぎんなよと付け足して、角のよれた紙を日車に返した。五条先生へと報告しに行く背を見送り、ぼすんとソファに座り込む。薄っすらと残る体温に、自嘲気味な笑みが溢れた。
何も言わずに自首したなら、何も言わずに弁護士に戻ればよかったんだ。
わざわざ報告しになんて来なければ、蓋をし続けていた気持ちに、気づかずに済んだのに。
「本当、……嫌な弁護士にも程があるだろ」
二年前の、互いの罪を溢したあの日。
俺という個を見て、否定することなく寄り添ってくれたあの瞬間から、どうしようもなく惹かれている、だなんて。
寄る辺を失った手のひらで、胸をぐっと掴んだ。三度目の別れともなるのに、変わらず訴え続ける痛みを誤魔化すように。日車の温もりが完全に引くまで、目を瞑ったままでいた。
高専三年目の夏。日暮の鳴き声だけは変わらずに、どこまでも遠くまで響き渡っていた。
□
俺の胸に巣食うこの感情は、日車の矜持に泥をつけるものだから。厳重に蓋をしたつもりだったのに。
「ああー、ついに買っちゃった……」
俺の自制心、弱すぎじゃない? いや、むしろ半年もよく耐えたほう?
自室の机に、先程購入したばかりの紙袋が二つ並んでいる。濃いブラウンカラーに、紫色のリボンのかかった長方形の箱は、この時期なら誰でも感づくもの。
「お返しにだってこんなん用意したことねぇよ」
バレンタインまで、あと僅かに迫った夜。小さな弱音が部屋に響いた。
任務が早く終わったから、買ってみたんだ。
釘崎に頼まれたついでっていうか。
甘いもの、結構好きみたいだし。
いつも奢ってくれるお返しってことでさ!
「これなら、アリか……?」
ルーズリーフに書き連ねた言葉に、まあまあの及第点を送る。釘崎が聞いたら「私をダシにするな」と怒りそうだけど、これ以上は脳みそが働かないから勘弁してな。
早上がりしたはずが、外はすっかり暗い。伏黒の安眠を妨げないように、文面を小声で口ずさんだ。
「言い訳にしては、上出来だろ」
こねくり回した思考の渦を丸める。屑籠へ入れようとして、ぎゅうぎゅうに詰まった中身に手が止まった。
どんだけ書いてんだよ。日頃のお礼な、の一言で済むことに、なにやってんだか。
呆れてしまうけど、小さなきっかけを手放すことは出来なかった。
いつでもいいお礼をわざわざ形にして、バレンタインを選んで渡すのは、打算的な理由。
一時でいいから、頭の片隅で俺のことを考えてほしかったんだ。
俺が贈れば、義理堅い日車はホワイトデーのお返しをすると言うだろう。そんなのいらないよって断れば、小さなわだかまりが胸に残るかもしれない。一週間と保たないだろうけど、ほんの少しでいいから心の内を独占したかった。
それが、今の俺に許される精一杯だったから。
あの別れから半年が経つ。
当然だけど、顔を合わせる機会はがくんと減った。それでも胸にくすぶり続けてしまうのは、月に一度は任務で同行するから。顔を見てしまえば、何度も捨てようとした想いがいとも容易く蘇ってしまうのだ。
それに、一仕事終えた後にカフェで過ごす時間も、これまた好きに拍車を掛けている。
新作か定番にするか。その二択で毎回迷う俺に、日車はいつも俺が頼まない方を注文するのだ。「いつ気が変わってもいいようにな」と言われた日には、これが大人かと思わず項垂れてしまった。
甘いものを一緒になって啜りながら、他愛のない話をして、またなと手を振って別れる。それがどれだけ俺の救いになっているか、きっと日車は知らない。
ささやかな楽しみへのお返しなんだ、これは。物言わぬ箱をつんとつついた。
気持ちを伝える機会でもあるバレンタイン。これが来年も訪れるとは限らない。
いつ死ぬか分からない世界で、俺たちは生きているのだから。
伝えるべきか、伝えないでいるべきか。迷いはしたけれど、その答えはもう既に出ている。
次来る予定の日まで指折り数えて、紙袋を机の下へと隠した。視界に入った屑籠の処分は、また明日考えよう。
きっと先生なら、片手間で燃やせるんだろうな。
□
今日は巻きで任務を終わらせる。その目論見は見事大成功で、予定よりも早く高専へ戻ることが出来た。
なんたって今日はバレンタインデー。渡すには会うことが大前提なのだ。頃合いを見ながら、一階の待合まで降りてゆく。遠目でも分かる背格好に、軽やかに階段を駆け降りた。
「あれ、珍しい人がいる!」
「……君か。今日も元気だな」
「応! 任務お疲れ、日車!」
偶然を装って声をかける。
あいも変わらず仏頂面だけど、元気そうだ。いよっと手を上げて、日車の手元に釘付けになる。白の紙袋に、胸がどくんと高鳴った。
いや、まさかな。そんな手土産を用意するような人じゃないだろ。
「ど、うしたん? それ」
体がじわっと熱を帯びたせいか、不自然にも声が上ずってしまう。でもそれを気にした様子もなく、日車はこともなげに告げた。
「ああ、職場の女性陣からの頂き物だよ」
あ、やばい。うまく、返事できねぇ。
一番可能性の高い線だろ。そう思うのに、さざなみのように体温が引いていく。
「君、甘いものは得意だろう? 一緒に処理を手伝ってくれると嬉しいんだが」
ずい、と差し出された紙袋を、黙って受け取ることは出来なかった。
だって、俺、分かるんだよ。
チョコレートの山の中に、ひとつだけ本命があるってことが。
男の俺が贈ってもおかしくない価格帯の物を、一生懸命探したんだ。他のものより値段が張ることも、気合いの入り方も違うことも一目で察してしまう。
それに、何よりも。
華やかな箱は、俺が選びたくても選べなかったもの。込められなかった、好きという想いが一目で分かるもの。
誰かが日車のために選んだものを、アンタはこんな片手間に――。
そこまで考えて、血の気がざあっと足元へ落ちていった。
受け取ってもらえることばかり、考えていた。渡せるだけでいいって、本気で思っていたんだ。その先の想像すらせずに。
日車は、きっと俺のこの気持ちも義理として処理してしまえる。誰かと一緒に食べて、それでお仕舞いにしてしまう。
迷って買ったなんて、考えもせずに。
込められた本意を理解することもなく。
事務的に、淡々と。
そんなの。
「……虎杖?」
そんなのは、いやだな。
部屋に置いてきた紙袋は、新品同然のはずなのに。もう、ぐちゃぐちゃに潰れているような気がしたんだ。
俺を訝しげに見つめる日車に、笑顔を貼り付けて言葉を放つ。
我ながら愛想笑いもうまくなったよな。
どこか冷めた自分がいるのを感じながら、呼吸が続く限り言葉を吐き出した。
「えー? んなこといったっけ? 俺別に、甘いの得意じゃないよ」
好き嫌いなんて本当はない。
「でも、五条先生は甘いの大得意だから、多分喜んで食うんじゃないかな」
品評会みたいに、好きの形を並べて楽しく食べなよ。
「だから、――ごめんな、日車」
アンタが他人行儀に処理できるものを、俺が後生大事に持っていて。
すいすいと飛び出るセリフは棘だらけ。喉に突き刺さって出来た傷が、秘めてきた気持ちをどんどん嫌なものにしていく。
これ以上一緒にいたら、全部ダメになる。
だから、伸ばされた腕を振り払った。惚けた顔を笑う余裕なんて、なかった。
「ごめ、ん、この後も任務あっから! 本当は俺が、先生のとこまで案内したかったけど……っ」
言い切る前に駆け出していた。静止の声はない。当たり前だ。だって俺たちは、ただの同僚でしかないんだ。
廊下に俺の走る足音だけが響く。規則的なリズムは自室の前でぴたりと止んだ。
任務と比べても大したことのない運動量なのに。胸は熱くて、喉を駆け上がる呼吸はひりひりして、からからに乾いた口とは対照的に、視界はどんどん歪んでいく。
告白もしてないのに、失恋なんてするんだな。
部屋に入り、机を一瞥すれば、潰れたと思った紙袋は小綺麗なままだった。それでも、俺には汚いものに思えてしまう。
無造作に手を突っ込んで、長方形の箱を取り出す。紫色のリボンを引きちぎり、指先で無理やりこじ開けた。
中に並ぶ五個入のチョコレートを見て、堪えていた何かが決壊した。
赤いハートはちょっと攻めすぎたかな、とか。
あんまり甘くないやつのほうがいいよな、とか。
不自然にならないように、勘違いされないように、気軽に渡せるようにって。
好きなんていえなくても、よかったんだ。
なのに、なぁ。
たくさん考えて、選んだんだけどなぁ。
「う、ぅ、う――……っ」
一息に口に詰め込んだ。二月とはいえ陽に当たるところに置いていたから、柔らかくて。すぐにカタチが解けていくのに、喉に絡まって飲み込めない。
馬鹿みたいに苦いのに、吐きそうなほど甘ったるい。
やっぱり、こんなものあげなくて良かったんだ。
胸の奥がずきずきと締め付けられて、ままならない呼吸がさらに荒くなる。
この気持ちを伝えるほうが、俺はずっと後悔する。それが分かっただけで、御の字だよ。
鬱陶しいほどに絶えず流れるそれを、手の甲で拭った。次点で渡そうと思っていたものを手にして、それでもその箱は開けられなくて。薄い青色に歪みが入り、慌てて手を離した。机の上に転がったミントブルーの箱に、ぼたぼたと大きな粒が落ちていく。
あの時、もう一つ手にしたのはチョコレートのクッキー菓子。向日葵をモチーフにしたそれを、気づけば手にしていた。日車の名前でもあって、弁護士バッジの意匠でもあるそれに、一目で惹かれてしまった。
綺麗だと思ったんだ。
犯した罪から目を逸らすことなく向き合い、それでも背筋を伸ばして生き続ける向日葵のようなアンタが、俺は。
「おれ、は……っ」
言っては、汚れてしまう気がした。このひび割れた気持ちでは、日車の矜持さえも阻んでしまう。
断罪を待ち、項垂れる俺では、きっとこの手は届かない。今にしか目を向けられない俺では、並び立つには遥か遠く。
夕暮れに木霊す泣き声を、静寂だけが慰めた。
□
失恋の痛みは時間が癒してくれる。なんて言うのは、嘘だと心から断言できる。
陽の落ちかけた教室で、書けども減ることのない書類の山を前に項垂れた。
「あと何枚書けば終わるんだよ……」
「溜め込んだのは誰だろうね?」
「先生は押し付けてるじゃん」
「僕は最強だからいーの!」
じゃあね、とひらひら手を振って退室する背中を見送って、ため息をついた。いい加減今日は事務処理をしてねと、あの五条先生がわざわざ言いにきたのだ。流石に観念して机に向かうしかなかった。
「出来るんなら、とっくにやってるつーの」
事務作業は、頭を使うから苦手だ。任務の時は考えないで済むことを、どうしたって思い返してしまうから。
忘れられていた、バレンタインのことを。
目まぐるしく舞い込む任務に忙殺され続けて、もうそろそろ一ヶ月が経とうとしている。
あれから日車とは会っていない。いや、見かけていないと言うのが正しい。そもそも依頼がある日自体が不定期なのだ。俺が都合を合わせなければ、会うことなんてそうはない。
ぺらり、ぺらり。紙の擦れる音だけが響く。捲った先の報告書を見て、シャープペンシルを動かす手が止まった。
なんてことのない任務で、特に思い入れはない。呪霊の発生源がチョコレートを買ったデパート近辺ということだけで、無意識に力んでしまう。
物にも場所にも罪はない。あるとするなら、俺の心持ちだけ。
「いってぇなぁ……」
ぽきんと折れた芯を手で払い退ける。俺も潔く諦められたらいいのに。
梅の香りが漂う教室に、春の訪れを想起しながら。時間でさえ癒えない喪失感を埋めるように、白紙に文字を書き連ねた。
鴉が鳴いて、ばさばさと飛び立つ音ではっと正気に返る。もう事務員さんが帰ってしまう時間帯だ。進みは芳しくないけど、出来た分だけ提出しよう。
一階にある窓の人専用の教室目指してぼんやりと歩けば、ひゅうと冷たい風が頬を撫でる。扉の閉め忘れかなと視線を向けて、息を呑んだ。
「虎杖、久しぶりだな」
「っ、ひぐる、ま……」
特徴的な髪型は、見間違うはずもない。いつも首に下げている来館証がたなびいている。部外者の立ち入りを許されている玄関口だから、いても何もおかしくないけれど。
こんなことなら、予定確認しとけばよかった。
きゅっと靴底のゴムが鳴る。何も悪いことはしていないけど、無意識に体が後ずさっていた。
「少し話せないか」
「あー……悪い。報告書、溜めちゃっててさ」
小脇に抱えた書類をこれでもかと見せつける。
日車には出来ない自慢はしたくなかったけど、仕方ない。大人だって認められたくて、肩肘張って頑張ってたんだけどな。これまでの努力は一瞬で水の泡だ。
「そんな訳だから、ごめ――」
「なら、終わるまで待とう。それか手伝うか? 守秘義務に反しない所までにはなるが」
「いいって、悪いし。つかもう遅いんだし、……また、今度に」
「不明瞭なのは、好みではない」
コツン、と足音が迫る。一歩一歩距離を狭められて、真っ黒な瞳が俺を射抜く。すくみ上がりそうなほどに、熱い眼差しだった。
「いつなら、俺に君の時間をくれる?」
冷え切った指先が手首を掴んで離さない。脈の速さに気づかれてしまいそうで、振り払いたいのに。
俺が本気で抗えば、すぐに解けるであろう拘束に囚われた。諦めようとした心が、軽やかに転げ落ちる。
「ら、来週の夕方、なら」
「……ちょうど一週間後、この時間帯で平気か?」
こくこくと頷くと、冷たい温もりが遠のいてゆく。助かった。いや、何にも助かってないけど。日車は小さな用紙にさらさらと何かを書き込むと、俺の手のひらに重ねた。長い指先が、焦らすように紙面を撫でる。切り揃えられた爪先を目で追って、意図を理解してしまう。
この、数字の連なりって。
「詳細は、メッセージで。……待っているからな」
ふっと笑ったその顔に、書類を持つ手に力が籠る。一瞬で普段の仏頂面に戻った日車は、踵を返した。ダークグレーのコートを翻す背を見送りながら、バクバクと高鳴る心臓を抑えた。
絶対に教えてくれなかったのに。どうして、今になって――。
「何サボってんの、悠仁」
「うおっ、先生?! まだ休んでなかったん?」
紙を反射で握りしめる。先生は目線の先にいる日車を見て、「お勤めご苦労さまでーす」と気のない声を溢した。それじゃ聞こえてないと思うけどなぁ。大人にもポーズが必要ってことなんだろうか。
そそくさと立ち去ろうとしたけれど、フードを掴まれてぐえっと声を上げた。
「はい逃げない。進捗は?」
「ゔっ、半分終わったとこ」
「まぁまぁだね。今度からは溜めないように。癖になるよ」
それは実体験から? という視線はすげなく躱される。わざとらしく咳払いした先生は、そうだと浮かれた調子で言葉を続けた。
「悠仁もさ、あの弁護士のマメさを見習いなよ」
「……先生がいうほどなん?」
「こんな辺鄙な所に、郵送でもいい書類まで手渡しにくるんだもん。職業柄にしたって、行き過ぎなくらいでしょ」
僕なら絶対無理、というかいい加減データ化しろよ。というぼやきに、俺は上手く返せたのだろうか。全く自信はない。
でも、無意識にでも自室に戻れているんだからその心配はないはずだ。やりかけの報告書も回収してるし、俺って意外と帰巣本能高いのかも。
多少は減った書類を机に置くと、鮮やかなミントブルーが自己主張し始める。あの日渡せなかった、角の潰れた箱にひとりごちた。
「少しは、……期待していいんかな」
日車も、俺と会う機会を作ってくれたのかなって。
「虎杖です!」というシンプルなメッセージを送れたのは、夜更けになってからだった。
□
約束の日は、計らずもホワイトデー当日。迷いはしたけれど、手ぶらで行くことにした。服もいつもどおり制服で、待ち合わせ場所へと赴いた。
指定された公園には、遅い時間帯だからか誰もいない。見晴らしはいいから、きっとどこに居てもすぐ分かるだろう。ブランコの支柱に寄りかかっていれば、ざり、と乾いた砂が舞った。
「虎杖、待たせてしまってすまない」
声のした方向を向いて、ほんの少し頬が強張った。腕に下がる小さな手提げ袋に、保とうとした平常心がぐらりと揺れる。
「や、いーって、仕事だろ? 待つのは慣れっこだから」
頬をかいて見上げる。今度はうまく笑えたはずなのに、みるみる不安が広がっていく。首を傾げようと、日車は黙したままだった。
「話、しにきたんじゃねぇの」
「それは、……そう、なんだが」
「いつも端的に言ってんのに、珍しいこともあるんだな」
こんなに言葉に詰まる姿は、およそ見たことがなかった。初めて会ったときと、立場が逆転してるみたいだ。ふっと息を吐きだした日車は。一歩俺へと近づいた。
「……これを、君に受け取って欲しかったんだ」
「これ、って……」
突き出された紙袋と、日車の顔を交互に見つめる。一ヶ月前の苦い記憶が蘇り、反射的に首を振ろうとして、留まった。街灯に照らされた日車の頬が、薄く色づいていた。
「弁護士は言葉を武器にもするが、基本は物証で論ずるんだ」
言い淀みながら、そっと紙袋から物証とやらを取り出した。
それは――可愛らしいブーケだった。白、黄、橙色の三本の薔薇。じいちゃんへの見舞いでよく買ってたから分かるけど、本物の花じゃない。多分これ、お菓子だ。
今日はホワイトデー。鈍い俺でも、流石にこうされては理由は分かる。どうしてかはさっぱりだけど。
正直、花には疎い。けれど、店員さんの言っていた言葉を思い出して、俯いてしまいそうな心を奮い立たせた。
「本数に、意味あんの?」
受け取って終わりになんて、したくない。
だから俺は言わせることを選んだ。
日車は何度も躊躇いながら唇を開いては閉じる。観念したように、ぽつんと感情を落とした。
「……君を、愛している」
「へ……っ?」
「本来、死罪の俺に未来はない。だから、伝える気はなかったんだが……。すまない、困らせたな」
愛よりも先に言うことがあるだろ、とか。
普段は弁が立つ癖に、回りくどすぎんだろ、とか。
言いたいことをたくさん押し込めて、下げようとした手に触れた。口では敵わないと思っていたけれど、そんな俺でも一つだけ教えられるかも知れない。
こういうのは、一言でいいんだってことを。
両手で小刻みに震える手を包み込み、今度こそ偽りじゃない笑顔を浮かべた。
「俺も、日車が好きだ」
ざあっと、春を知らせる風が通り抜ける。沈黙の果てに、ぼすんと肩に重みが被さった。
「……俺、は。領域展開が出来るんだ」
「知ってる。初っ端からしたもんな」
「領域では、冗談も誤魔化しも通用しない。……君を、殺めたくは……」
「信じらんねぇなら裁判してもいいよ。証拠は胃の中だけど」
あっけらかんとそう言えば、日車は肩に乗せていた頭を上げて、俺の顔をまじまじと見つめた。弁護士の観察眼に本来なら気圧されるんだろうけど、俺は至って無実だったから。求められている物証をそっと語った。
「俺も、バレンタインに渡そうと思ってたんだよ。まあ、……アンタがたくさん持ってきたから、食べちゃったけどね」
「俺が君に渡さなければ、貰えたのか」
「いや、あれは譲渡でしょ。貰い物とはいえ、あんな処理は可哀想だよ」
唇をきゅっと引き結んで、ブーケをそっと胸に抱え込む。自由になった手のひらを彷徨わせた日車は、違うと声を震わせた。
「全て、君のために用意したと言ったら……信じてくれるか?」
「今更ご機嫌取りしなくていいって」
胸が痛かったのは本当だけど、俺に気持ちが向いていると分かったからそれでいい。これで充分だと笑えば、黙って木槌を取り出した。
なんだこれ、逆脅迫じゃん。
冷や汗がじわっと湧き出した。帳も下ろしてないのに、領域出したなんて知られたら先生に叱られる。
「ジャッジマンは必要か?」
「いや本当にいい、分かった、信じる! 頼むから、物証より先に言葉で語ってくれよ!」
「……親子ほど年の離れた君と接触するには、色々と口実が必要なんだよ」
しょげた様子で木槌を消す日車に、緊張が緩んで自然と笑いがこみ上げた。
ああ、やっぱりどこまでも似ている。
未来が約束されていない俺達は、必要な言葉の代わりに時間を共にした。
手を伸ばすことも出来ないのに、それでも想いを込めることは諦められなくて。
きっと、惹かれてしまった瞬間も同じなんだろう。
背中を向けられて初めて、行動を起こすところまで似なくても良かったのにね。
不器用なアンタに、不器用な俺は黙って手を差し出した。花咲く物証を胸に抱いて。
「一番大事な口実、期待してもいい?」
汗ばむ冷え切った手は重なり、灯る熱さが混じり合う。
「俺と、交際してくれるだろうか」
「応! もちろん、喜んで!」
晴れて、両思いってことか。
じわじわと心に喜びが広がり、表情が馬鹿になったみたいに締まらない。ブーケで緩んだ唇を隠して、薄く目元を綻ばせた日車を見上げる。
ちょっと背伸びしたら届きそうな距離に、慌てて視線を逸らして、あっと声を上げた。
「そうだ、ごめん! 俺、アンタに少しだけ嘘ついた」
「あまり穏やかではないな」
「用意したチョコ、一つは食べちゃったんだけど。……本命は、まだ残ってる」
痛いくらい握り締められた手が緩む。深呼吸して、じっと見上げた。
「遅れちゃったけど、今度はちゃんと渡すから。受け取ってくれる?」
「無論だとも。俺も、未だにチョコレートの山が残っているんだ」
ぶわっと頬に熱が広がる。これ以上暑くなんてならないと思ってたのに。日車の部屋の片隅に、俺への想いが残っているなんて、嬉しいやら、気恥ずかしいやら。
「じゃあ、次はチョコ渡さねぇとな。……いつにする?」
「……デートのお誘いは有難いが、その前にすべきことがある」
ほわほわとした空気が、見せつけられたスマホの画面によって一瞬で固まった。
「え、ちょ、なんでなんでなんで……っ?!」
俺の静止なんて物ともせずに、日車は悪い顔をして自身の耳に当てた。
人差し指を唇に押し当てた様さえ格好良く見えてしまうのは、恋人の欲目なのかな。
□
ぴんぽーん。約束五分前にブザーを押すと、Yシャツにスラックスという日頃と代わり映えのしない格好をした日車が出迎えた。
「よく来たな、虎杖。朝からぶすくれてどうした」
「……どうしたもこうしたも、アンタが一番よく知ってんだろ」
「そう拗ねるな、善は急げだろう」
あ、これ、ぜんっぜん悪びれてないな。五条先生とは違った質の悪さだ。
お邪魔しますと靴を揃えて、日車の自宅であるマンションの一室に足を踏み入れた。
促されるままにソファに座れば、すぐ横に詰められる。膝に触れる温もりに、かけられたテレビのニュースなんて、頭に入ってきやしなかった。
虎杖と呼ぶ声につられ、渋々顔を向ける。ほんの少し眉尻の下がった表情に、途端罪悪感が込み上げた。
「そんなに、……嫌だっただろうか」
「嫌とかじゃ、ないけど。色々と段階すっとばしてるっつうか」
「君はまだ未成年だ。保護者に了承を得るのは、初歩中の初歩だろう」
「~~だとしても、俺にも羞恥心くらいあるんだって!」
つい先ほど出くわした五条先生のにやけ面がよぎり、思わず顔を覆った。
無事恋人となったその日。日車は交際を認めて欲しいと、許諾を取るべく五条先生に電話を掛けたのだ。
スピーカーにもしてないのに伝わる大きな笑い声に、顔を青ざめさせたのは言うまでもない。後日、菓子折りを携えて行われた、絶望の三者面談はもう二度とごめんだ。
まあ、お堅すぎる彼氏だねぇと笑う様子に救われたのは確かだし。大手を振って、外出する名目は出来たけれど。
「一八になったからって、羽目を外しすぎちゃダメだよ」
なんて言われて、のこのこ出てきた俺の気持ちにもなって欲しい。
「……虎杖」
「なぁに?!」
「きっと、五条さんから何か言われたんだろうが、そういったことをするつもりはない。安心しろ」
見上げれば、頬をするりと撫でられた。念押しなんだろうけど、今の俺には逆効果で、豊かな想像が頭の中に一瞬で広がってしまう。
ぼぼぼ、と熱の集まる俺に、楽しそうに口角を上げて笑った。
「今はまだ、な」
「か……っ、からかうのも大概にしてくんねぇかな?!」
これ以上日車のペースに乗せられたら、たまったもんじゃない。照れ隠しに、忘れず持ってきていた紙袋を胸に押し付けた。
「これが、例の本命か?」
「……そーだよ。遅くなったけど、ハッピーバレンタインってやつ」
「向日葵か。いいセンスをしているな」
取り出した個包装に視線が向いて、ほっと胸を撫で下ろす。意外と賞味期限は長く、書い直す羽目にならずに済んだのだ。
日車はミントブルーの箱を大事そうに眺めた後、目の前のローテーブルへ置いた。お返しだと紙袋を手渡され、喉がひくりと鳴る。
「珈琲を淹れてくる。君も、気になるものから手をつけるといい」
「いや、分かっちゃいたけど多すぎん?」
ずしりとした重さに、ツンとしていた心が緩んでしまう。一つ一つ、どんな顔をして選んだんだろう。さっき受け取った時みたいに、嬉しそうな顔をしてたのかな。
袋の半分ほどのチョコレートを並べた頃、日車は珈琲片手に戻ってきた。
俺のはカフェオレっぽいけど、日車はブラックだ。ミルク入りじゃないなんて珍しい。
「実を言うと、……甘いものは不得手なんだ」
「そんな見え透いた嘘つかんでいいのに。毎回、俺が選ばないやつ頼んでたじゃん」
思わず首を捻れば、気まずそうな咳払いが落ちてきた。
「君と共に食べるものに、甘さなど感じなかったんだよ。……デートのようだと思ったら、緊張してしまってな」
そんなの、おくびにも出してなかったのに。
いつもスマートだと思っていた人の内心に触れて、収まっていた火照りが蘇る。
「いい歳をしているというのにな、全く」
自嘲気味に笑った日車は、有り難く頂くよとお菓子を一口齧った。「やはり俺には少し甘いな」と微笑む顔に、ぎゅっと拳を握りしめる。
「おれ、も」
「……うん?」
「俺も同じだって言ったら、……笑わない?」
ごく限られた二人きりの時間を、叶うはずのないデートだと夢見ていたんだ。
冷たい炭酸を頼んで、一息に飲んでしまうことも出来たけど、しなかった。アンタといる時間を少しでも引き伸ばしたくて、温かい飲み物を注文していたんだ。
「……あまり、煽ってくれるな」
「煽るよ。俺だって、もう大人の仲間入りしたんだし」
これまでは、一緒にいられるなら子ども扱いでも良かったんだ。
歳の差は覆せないし、経験の差もすぐには埋まらない。そういったことへの揶揄いにも、まだ上手く返せないけど。
それでも、俺はもうただの同僚じゃない。
恋人に、なったんだから。
痛いほど注がれる視線を返し、きゅっと唇を引き結ぶ。日車の胸元を、ぐいっと引き寄せた。
初めての感触を堪能する余裕なんてない。それでも、歯が当たらないだけマシなはずだ。
あまりに拙い精一杯の口づけを交わして、Yシャツに顔を押し付ける。ばくばくと聞こえるお揃いの心音を破るのは、ほんの少し呆れた声。
「君は本当に、想像を超えてくるな」
「嫌だった?」
「まさか。……いくらでも、したくなってしまうよ」
「俺としては、……お口直し、上等なんだけど?」
そうっと見上げれば、熱の孕んだ瞳とかち合う。垣間見える余裕の無さに思わず笑って、静かに目を閉じた。
命の消費期限が訪れるその時まで、日車の側にいられるようにと願いながら。
ほろ苦いカカオの口溶けを重ね合った。
本編から二年後。
告白する前に失恋した虎杖くんが、恋した相手とチョコを食べる話。
アンハッピーバレンタイン!からのハッピーホワイトデーです!