私が稚内支局に配属されて1か月ほどたった2023年9月、初めて海を渡り礼文島へと向かった。
稚内港を出てフェリーで波を乗り越えながら深い緑に覆われた島に近づくと、胸が高鳴ったのを今でも覚えている。初めて足を踏み入れた礼文島には大自然が広がっていた。
島に到着し地元の人たちを取材すると…。
「俵さんを知らないのかい?“伝説のトド猟師”だ」
「1日に3発しか撃たない。その腕は島で1番だ」
どんな人物なのか。この時は会うことができなかったが、季節が冬へと向かう中、私はふたたび礼文島へ足を運ぶことを決めた。
礼文島 海獣のいる海 命と向き合った老漁師 業の終わり
最果ての離島、礼文島。
漁師の俵静夫さん(88歳)は半世紀以上にわたり、厳寒の海で自身と島の人たちの生活を守ろうと、大型の海獣、トドの駆除を続けてきた。
「トドを苦しめず眠るように死なせたい」
彼の言葉には命を奪うことの重み、そして、罪の意識と償いの思いが込められていた。自身がガンと診断されても手術を選択せず、最後まで海と生き続けることを選んだ。
俵さんとの出会いからわずか8か月。その知らせはあまりに突然だった。
胸が詰まる思いで私は彼との最後の日々を振り返り、厳しい海に身を投じ、命を懸けて海とともに生き抜いた俵さんが残した足跡をたどった。
(稚内支局記者 奈須由樹)
漁師の俵静夫さん(88歳)は半世紀以上にわたり、厳寒の海で自身と島の人たちの生活を守ろうと、大型の海獣、トドの駆除を続けてきた。
「トドを苦しめず眠るように死なせたい」
彼の言葉には命を奪うことの重み、そして、罪の意識と償いの思いが込められていた。自身がガンと診断されても手術を選択せず、最後まで海と生き続けることを選んだ。
俵さんとの出会いからわずか8か月。その知らせはあまりに突然だった。
胸が詰まる思いで私は彼との最後の日々を振り返り、厳しい海に身を投じ、命を懸けて海とともに生き抜いた俵さんが残した足跡をたどった。
(稚内支局記者 奈須由樹)
伝説のトド撃ちとの出会い
私が稚内支局に配属されて1か月ほどたった2023年9月、初めて海を渡り礼文島へと向かった。
稚内港を出てフェリーで波を乗り越えながら深い緑に覆われた島に近づくと、胸が高鳴ったのを今でも覚えている。初めて足を踏み入れた礼文島には大自然が広がっていた。
島に到着し地元の人たちを取材すると…。
「俵さんを知らないのかい?“伝説のトド猟師”だ」
「1日に3発しか撃たない。その腕は島で1番だ」
どんな人物なのか。この時は会うことができなかったが、季節が冬へと向かう中、私はふたたび礼文島へ足を運ぶことを決めた。
稚内港を出てフェリーで波を乗り越えながら深い緑に覆われた島に近づくと、胸が高鳴ったのを今でも覚えている。初めて足を踏み入れた礼文島には大自然が広がっていた。
島に到着し地元の人たちを取材すると…。
「俵さんを知らないのかい?“伝説のトド猟師”だ」
「1日に3発しか撃たない。その腕は島で1番だ」
どんな人物なのか。この時は会うことができなかったが、季節が冬へと向かう中、私はふたたび礼文島へ足を運ぶことを決めた。
俺の終わりが撮りたいんだな
稚内から厳寒の海を渡り、礼文島で俵さんと初めて会ったのは2023年12月。“伝説のトド猟師”と言われていた老漁師は素朴で親しみやすい印象を受けた。
そしてトド猟を50年以上にわたって続けてきたベテラン漁師の日々を記録させてほしいと取材を申し込むと快く受け入れてくれた。迫力ある人物像を勝手に想像していた私にとって、その穏やかな笑みは意外だった。
そして、その時に静かに語ったことばは今も鮮明に覚えている。
そして、その時に静かに語ったことばは今も鮮明に覚えている。
「この冬でトド撃ちは引退する。88歳になったら死ぬのを待っているようなものだ」
「俺の終わりが撮りたいんだな」
「俺の終わりが撮りたいんだな」
北海道周辺では深刻な漁業被害を理由に、特別にトドの駆除が認められている。
礼文島では寒さが厳しい冬になると、ホッケやタラなどの漁が最盛期を迎える。この時期に体重が1トンにもなる巨大なトドが魚の群れを追いかけて数多く南下し魚を食い荒らす。
俵さんは漁業被害を防ぐため、50年以上トド猟を続けてきた。
礼文島では寒さが厳しい冬になると、ホッケやタラなどの漁が最盛期を迎える。この時期に体重が1トンにもなる巨大なトドが魚の群れを追いかけて数多く南下し魚を食い荒らす。
俵さんは漁業被害を防ぐため、50年以上トド猟を続けてきた。
命と向き合う独特の流儀とは
礼文島で俵さんのトド猟に密着して強く感じたのは「命と向き合う独特の流儀」だった。
俵さんが狙うのはトドの耳あたりにある脊髄。銃の照準が合うまでは引き金を引かない。1日に使用する弾は3発まで。トドがいても1発も撃たずに帰る日もあった。
その理由を彼はこう語ってくれた。
俵さんが狙うのはトドの耳あたりにある脊髄。銃の照準が合うまでは引き金を引かない。1日に使用する弾は3発まで。トドがいても1発も撃たずに帰る日もあった。
その理由を彼はこう語ってくれた。
「手負いのトドは作りたくない。海のギャングであってもね。トドが苦しんでいるのは自分が苦しんでいるようなもの。それだけの痛みというのは人間で言えば、ガンのような感じじゃないかな。トドの苦しむ姿は見たくない。眠るように死なせてあげたい」
俵さんは駆除の一方で、しとめたトドの頭や胃袋などは研究機関に送り、30年にわたりトドの調査研究にも協力してきた。
北海道大学水産学部にはトドの頭骨が標本化されていて、俵さんの技術をかいま見ることができた。
北海道大学水産学部にはトドの頭骨が標本化されていて、俵さんの技術をかいま見ることができた。
北海道大学 小林由美さん
「俵さんが駆除したトドの骨は、脊髄を一撃でしとめているため傷がなく、とてもきれいな状態です。通常は骨がバラバラになりがちですが、俵さんの射撃は驚くほど正確で狂いは数センチしかない」
「俵さんが駆除したトドの骨は、脊髄を一撃でしとめているため傷がなく、とてもきれいな状態です。通常は骨がバラバラになりがちですが、俵さんの射撃は驚くほど正確で狂いは数センチしかない」
すべてをむだにはしない
俵さんはトドをしとめたあとにも「こだわり」があった。
しとめたトドは4時間かけて、ゆっくり丁寧に皮を剥いで切り分けていく。トドの赤身と白身の肉の部分は島の友人に配り自身も料理に使う。命は骨と皮以外は無駄にすることなく活用する。
またしとめたトドがみごもっていた時、俵さんは自宅で子どもの剥製を作っていた。その剥製は定期的にブラシで手入れされていて、大切に保管されている。
しとめたトドは4時間かけて、ゆっくり丁寧に皮を剥いで切り分けていく。トドの赤身と白身の肉の部分は島の友人に配り自身も料理に使う。命は骨と皮以外は無駄にすることなく活用する。
またしとめたトドがみごもっていた時、俵さんは自宅で子どもの剥製を作っていた。その剥製は定期的にブラシで手入れされていて、大切に保管されている。
「腹の中に入っている子どもには全然、罪もなければ、なんもないわけだ。罪のないものを殺してしまったということで、剥製にして残してある。大人の間違いで子どもが犠牲になるのはうまくないなっていう感じでさ。子供には何も罪がないわけだよ」
自身の命とも向き合う日々
俵さんは進行した肺がんと診断されていた。「手術したら海の仕事に戻れなくなる」と医師から言われて手術は選択しなかった。俵さんは「死ぬまで俺の職場は海だ」と語り最後まで海で生きる道を選んだ。
88歳の俵さんは自身の命とも向き合っていた。
88歳の俵さんは自身の命とも向き合っていた。
「仕事が生きがいで職場で死ぬっていうのは本望なわけだよ。この島で生きるために、金を稼ぐためにたくさんの命を殺してきた。このままの状態で死は死で認めるし、病気は病気で認める。最後まで変わることなく生きていきたい」
ことしで“引退”と語っていた俵さんのトド撃ちが終わった。
本当に引退するのだろうか?
俵さんは口を閉ざしていたが、礼文島の漁師たちはこう話していた。
「俵さんは来年もまたトド撃っているよ」
「あの人は限界までやるよ。引退なんかしない」
ことし5月。私は「俵さんとはまた会える」と信じ、取材の礼を述べて島を離れた。
本当に引退するのだろうか?
俵さんは口を閉ざしていたが、礼文島の漁師たちはこう話していた。
「俵さんは来年もまたトド撃っているよ」
「あの人は限界までやるよ。引退なんかしない」
ことし5月。私は「俵さんとはまた会える」と信じ、取材の礼を述べて島を離れた。
突然の訃報 俵さん逝去
「俵さん、亡くなりました」
ことし8月、礼文島の取材先から訃報が届いた。
出会いから8か月。突然の連絡を受けて鮮明によみがえったのは「俺の終わりが撮りたいんだな」という、俵さんの言葉だった。知らせを受けて私は同僚とともに礼文島に駆けつけた。
その夜、礼文島は厚い雲に覆われていたが、ふと雲の切れ間から満月が姿を現し、白波が立っていた海を穏やかな光で照らした。その一瞬の光景はまるで自然が島の偉大な人を悼み、別れを告げるかのようだった。
通夜と葬儀は島のコミュニティーセンターで行われ、漁師仲間をはじめ、多くの人が集まった。その場には深い悲しみだけでなく、俵さんが島に残した大きな足跡への感謝と尊敬にあふれていた。
彼と過ごした日々を思い返し、今もともにあるかのような温かさが漂っていた。偉大な人を見送った夜、海は一段と深く静かに息づいているように見えた。
ことし8月、礼文島の取材先から訃報が届いた。
出会いから8か月。突然の連絡を受けて鮮明によみがえったのは「俺の終わりが撮りたいんだな」という、俵さんの言葉だった。知らせを受けて私は同僚とともに礼文島に駆けつけた。
その夜、礼文島は厚い雲に覆われていたが、ふと雲の切れ間から満月が姿を現し、白波が立っていた海を穏やかな光で照らした。その一瞬の光景はまるで自然が島の偉大な人を悼み、別れを告げるかのようだった。
通夜と葬儀は島のコミュニティーセンターで行われ、漁師仲間をはじめ、多くの人が集まった。その場には深い悲しみだけでなく、俵さんが島に残した大きな足跡への感謝と尊敬にあふれていた。
彼と過ごした日々を思い返し、今もともにあるかのような温かさが漂っていた。偉大な人を見送った夜、海は一段と深く静かに息づいているように見えた。
最期を見届けた診療所の医師は
俵さんの最期を見届けた礼文島の船泊診療所の升田晃生医師が、NHKの取材に答えてくれた。
升田医師によると、私たちの取材を受けていた時、俵さんの左の肺はほぼ機能しておらず、痛みを訴えずに海に1人で出ていたのが不思議な状態だったという。
その後、がんの転移が進み、俵さんは食事をとることができなくなり、点滴と投薬で体調を維持するような状態になっていたということだった。
升田医師によると、私たちの取材を受けていた時、俵さんの左の肺はほぼ機能しておらず、痛みを訴えずに海に1人で出ていたのが不思議な状態だったという。
その後、がんの転移が進み、俵さんは食事をとることができなくなり、点滴と投薬で体調を維持するような状態になっていたということだった。
礼文島 船泊診療所 升田晃生 医師
「終末期っていうのは、人生模様が結構出るところでその方の歩んできた人生とか、大事にしているもの、信念や考えが表れやすい場面ですが、俵さんは本当に最期まで目の力を失わずにいました。海に出ている時の目つきがやっぱり最期まで、芯となるものを強く持っているお顔立ちでした。俵さんは最期、迫り来る死に対してあらがうことなく、静かに受け入れ、何も言わず、何も求めずに、逝きました。最後に行きたい場所ややりたいことはないかと聞きましたが、『思い残すことは何もない。先生、今までありがとう』と静かに亡くなりました」
「終末期っていうのは、人生模様が結構出るところでその方の歩んできた人生とか、大事にしているもの、信念や考えが表れやすい場面ですが、俵さんは本当に最期まで目の力を失わずにいました。海に出ている時の目つきがやっぱり最期まで、芯となるものを強く持っているお顔立ちでした。俵さんは最期、迫り来る死に対してあらがうことなく、静かに受け入れ、何も言わず、何も求めずに、逝きました。最後に行きたい場所ややりたいことはないかと聞きましたが、『思い残すことは何もない。先生、今までありがとう』と静かに亡くなりました」
升田医師は「虚栄ではなく悟ったような印象を受けました」と最期の様子を話してくれた。
俵さんに指名された“後継者”は
俵さんが生前に“後継者”と言っていた漁師の山内成人さんにも話を聞くことができた。山内さんはトド猟を行う海域が俵さんと同じだった。俵さんをよく知る地元漁師の1人は過去の印象的な出来事について話してくれた。
俵さんが過去に島外の人から「なぜ、生き物の命を奪うのか」と苦情が寄せられた時のエピソードだった。ふだん怒ることのない俵さんはこの時「誰が島の暮らしを守るのか」と怒りを表したという。
俵さんが過去に島外の人から「なぜ、生き物の命を奪うのか」と苦情が寄せられた時のエピソードだった。ふだん怒ることのない俵さんはこの時「誰が島の暮らしを守るのか」と怒りを表したという。
礼文島の漁師 山内成人さん
「俵さんにも葛藤があったと思う。殺したくないものを殺していた。俵さんがやってきたことは昔から、何ひとつ変わっていない。変わったのは世の中なのに。俵さんのように(トドを)苦しめずに、眠るように(しとめる)というのは簡単なことではない。俵さんの気持ちはわかる。手負いのトドは見たくない。誰もやりたくてやっているわけではない」
「俵さんにも葛藤があったと思う。殺したくないものを殺していた。俵さんがやってきたことは昔から、何ひとつ変わっていない。変わったのは世の中なのに。俵さんのように(トドを)苦しめずに、眠るように(しとめる)というのは簡単なことではない。俵さんの気持ちはわかる。手負いのトドは見たくない。誰もやりたくてやっているわけではない」
時代とともに変わったのは
俵さんは生きてきた88年で「礼文島の海は大きく変わった」と語っていた。
「魚が減少し、それに伴ってトドが網の中の魚を狙うようになり、漁業に被害を与えるようになってきた」と。「トドが悪さをするようになったのは食べる魚が減ったからだ。魚が減ったのは人間が捕りすぎたからだ」と、俵さんは心配そうに何度も話していた。
俵さんが生まれ育ったのは、礼文島のさらに北に位置する無人島、トド島。彼が若い頃、この地は人も自然も力強く息づいていたが、トド島は無人島となり礼文島の人口も4分の1になった。
「魚が減少し、それに伴ってトドが網の中の魚を狙うようになり、漁業に被害を与えるようになってきた」と。「トドが悪さをするようになったのは食べる魚が減ったからだ。魚が減ったのは人間が捕りすぎたからだ」と、俵さんは心配そうに何度も話していた。
俵さんが生まれ育ったのは、礼文島のさらに北に位置する無人島、トド島。彼が若い頃、この地は人も自然も力強く息づいていたが、トド島は無人島となり礼文島の人口も4分の1になった。
長年、海を見てきた彼には人とトドが魚を奪い合うようになり、人間が生きていくためにトドをしとめざるを得ない時代に変化したように見えたのだろう。しかしそれはこの最果ての島で人が生きていくためには必要なことでもあった。
俵さんはこの海で人間が引き起こした因果がめぐっていることを自覚しながらトドを駆除していたのだ。島と海への深い愛情とともに、罪の意識や償いの思いも感じながら。
俵さんはこの海で人間が引き起こした因果がめぐっていることを自覚しながらトドを駆除していたのだ。島と海への深い愛情とともに、罪の意識や償いの思いも感じながら。
海獣のいる海
長年、稚内でトドの研究にあたっていた水産試験場の後藤陽子さんは俵さんとの印象的な出来事を話してくれた。
2018年に一度、礼文島にほとんどトドが来なかった時期があった。
漁業被害が一時的に減り、ほかの漁師が喜ぶなか、俵さんは海のことを案じていたという。
2018年に一度、礼文島にほとんどトドが来なかった時期があった。
漁業被害が一時的に減り、ほかの漁師が喜ぶなか、俵さんは海のことを案じていたという。
水産試験場 後藤陽子さん
「俵さんは海全体の状況をいつも気にかけていました。海獣が来るということは『豊かな海の象徴』と考えていて、トドが来ないことを心配していました」
「俵さんは海全体の状況をいつも気にかけていました。海獣が来るということは『豊かな海の象徴』と考えていて、トドが来ないことを心配していました」
俵さんは「死ぬまで海が職場。礼文島が、この海が好きなんだ」と何度も何度も話していた。
俵さんの好きな海には、ちゃんと海獣がいて、人も魚も海獣も共に生きていける海を思い浮かべていたのかもしれない。
俵さんの好きな海には、ちゃんと海獣がいて、人も魚も海獣も共に生きていける海を思い浮かべていたのかもしれない。
取材後記 残した後悔と最後の教え
取材を終えた、ことし5月。番組クルーより一足先に私は稚内へと戻った。礼を述べ、「また冬に来ます。すぐ近くにいますから」と伝えると、俵さんは「あんたは稚内だから近いな。またな」と笑顔で答えてくれた。その言葉が、俵さんとの最後の会話になるとは、このとき思いもしなかった。
まだ聞きたいことは山のようにあった。取材者としての役割を終え、1人の人生の先輩として俵さんに問いかけたいことがあった。半世紀以上にわたって命と向き合い続けてきた彼は自分の死を目前にして何を感じていたのか。その答えを聞きたかったが、今考えれば、俵さんの体調にも気を遣ったのだろうか、私は遠慮してしまった。またいつかその機会があるだろうという淡い期待がどこかにあったのかもしれない。しかしそのためらいが私の二度と取り戻せない後悔へと変わった。
俵さんとの再会はかなうことは無く、今後この後悔は消えることはない。命と向き合い続けた彼は最後、私に身をもって大切なことを教えてくれた。命とははかないものであり、それゆえに重く尊いものであると。
まだ聞きたいことは山のようにあった。取材者としての役割を終え、1人の人生の先輩として俵さんに問いかけたいことがあった。半世紀以上にわたって命と向き合い続けてきた彼は自分の死を目前にして何を感じていたのか。その答えを聞きたかったが、今考えれば、俵さんの体調にも気を遣ったのだろうか、私は遠慮してしまった。またいつかその機会があるだろうという淡い期待がどこかにあったのかもしれない。しかしそのためらいが私の二度と取り戻せない後悔へと変わった。
俵さんとの再会はかなうことは無く、今後この後悔は消えることはない。命と向き合い続けた彼は最後、私に身をもって大切なことを教えてくれた。命とははかないものであり、それゆえに重く尊いものであると。
彼が手術を拒み「最後まで海とともに生きる」と命の終わりを受け入れ、生き抜いた姿はまるでその重みを象徴するかのようだった。彼の哲学や流儀は取材を通じて伝えるべきものだったが、私自身が一番彼から学ばされたのかもしれない。
俵さんともう言葉を交わすことはできないが、彼が教えてくれた命の重みと向き合う姿勢はこれからも私の心に生き続ける。俵さんに出会えたことを心から誇りに思うと同時に、もう一度彼の言葉に耳を傾けたかったという思いが今も胸を強く締めつけている。
礼文島の潮風に乗って響いた彼の銃声は、今も私の心の奥深くに鳴り響いている。
俵静夫さん、ありがとうございました。
俵さんともう言葉を交わすことはできないが、彼が教えてくれた命の重みと向き合う姿勢はこれからも私の心に生き続ける。俵さんに出会えたことを心から誇りに思うと同時に、もう一度彼の言葉に耳を傾けたかったという思いが今も胸を強く締めつけている。
礼文島の潮風に乗って響いた彼の銃声は、今も私の心の奥深くに鳴り響いている。
俵静夫さん、ありがとうございました。
【NHKプラスで配信中】配信期限 :12/15(日) 午後9:49 まで↓↓↓こちらで見られます↓↓↓
NHKスペシャル「海獣のいる海 あるトド撃ちの生涯」
WEB
特集 礼文島 海獣のいる海 命と向き合った老漁師 業の終わり
最果ての離島、礼文島。
漁師の俵静夫さん(88歳)は半世紀以上にわたり、厳寒の海で自身と島の人たちの生活を守ろうと、大型の海獣、トドの駆除を続けてきた。
「トドを苦しめず眠るように死なせたい」
彼の言葉には命を奪うことの重み、そして、罪の意識と償いの思いが込められていた。自身がガンと診断されても手術を選択せず、最後まで海と生き続けることを選んだ。
俵さんとの出会いからわずか8か月。その知らせはあまりに突然だった。
胸が詰まる思いで私は彼との最後の日々を振り返り、厳しい海に身を投じ、命を懸けて海とともに生き抜いた俵さんが残した足跡をたどった。
(稚内支局記者 奈須由樹)
伝説のトド撃ちとの出会い
俺の終わりが撮りたいんだな
稚内から厳寒の海を渡り、礼文島で俵さんと初めて会ったのは2023年12月。“伝説のトド猟師”と言われていた老漁師は素朴で親しみやすい印象を受けた。
そしてトド猟を50年以上にわたって続けてきたベテラン漁師の日々を記録させてほしいと取材を申し込むと快く受け入れてくれた。迫力ある人物像を勝手に想像していた私にとって、その穏やかな笑みは意外だった。
そして、その時に静かに語ったことばは今も鮮明に覚えている。
そして、その時に静かに語ったことばは今も鮮明に覚えている。
「この冬でトド撃ちは引退する。88歳になったら死ぬのを待っているようなものだ」
「俺の終わりが撮りたいんだな」
「俺の終わりが撮りたいんだな」
北海道周辺では深刻な漁業被害を理由に、特別にトドの駆除が認められている。
礼文島では寒さが厳しい冬になると、ホッケやタラなどの漁が最盛期を迎える。この時期に体重が1トンにもなる巨大なトドが魚の群れを追いかけて数多く南下し魚を食い荒らす。
俵さんは漁業被害を防ぐため、50年以上トド猟を続けてきた。
礼文島では寒さが厳しい冬になると、ホッケやタラなどの漁が最盛期を迎える。この時期に体重が1トンにもなる巨大なトドが魚の群れを追いかけて数多く南下し魚を食い荒らす。
俵さんは漁業被害を防ぐため、50年以上トド猟を続けてきた。
命と向き合う独特の流儀とは
礼文島で俵さんのトド猟に密着して強く感じたのは「命と向き合う独特の流儀」だった。
俵さんが狙うのはトドの耳あたりにある脊髄。銃の照準が合うまでは引き金を引かない。1日に使用する弾は3発まで。トドがいても1発も撃たずに帰る日もあった。
その理由を彼はこう語ってくれた。
俵さんが狙うのはトドの耳あたりにある脊髄。銃の照準が合うまでは引き金を引かない。1日に使用する弾は3発まで。トドがいても1発も撃たずに帰る日もあった。
その理由を彼はこう語ってくれた。
「手負いのトドは作りたくない。海のギャングであってもね。トドが苦しんでいるのは自分が苦しんでいるようなもの。それだけの痛みというのは人間で言えば、ガンのような感じじゃないかな。トドの苦しむ姿は見たくない。眠るように死なせてあげたい」
俵さんは駆除の一方で、しとめたトドの頭や胃袋などは研究機関に送り、30年にわたりトドの調査研究にも協力してきた。
北海道大学水産学部にはトドの頭骨が標本化されていて、俵さんの技術をかいま見ることができた。
北海道大学水産学部にはトドの頭骨が標本化されていて、俵さんの技術をかいま見ることができた。
北海道大学 小林由美さん
「俵さんが駆除したトドの骨は、脊髄を一撃でしとめているため傷がなく、とてもきれいな状態です。通常は骨がバラバラになりがちですが、俵さんの射撃は驚くほど正確で狂いは数センチしかない」
「俵さんが駆除したトドの骨は、脊髄を一撃でしとめているため傷がなく、とてもきれいな状態です。通常は骨がバラバラになりがちですが、俵さんの射撃は驚くほど正確で狂いは数センチしかない」
すべてをむだにはしない
俵さんはトドをしとめたあとにも「こだわり」があった。
しとめたトドは4時間かけて、ゆっくり丁寧に皮を剥いで切り分けていく。トドの赤身と白身の肉の部分は島の友人に配り自身も料理に使う。命は骨と皮以外は無駄にすることなく活用する。
またしとめたトドがみごもっていた時、俵さんは自宅で子どもの剥製を作っていた。その剥製は定期的にブラシで手入れされていて、大切に保管されている。
しとめたトドは4時間かけて、ゆっくり丁寧に皮を剥いで切り分けていく。トドの赤身と白身の肉の部分は島の友人に配り自身も料理に使う。命は骨と皮以外は無駄にすることなく活用する。
またしとめたトドがみごもっていた時、俵さんは自宅で子どもの剥製を作っていた。その剥製は定期的にブラシで手入れされていて、大切に保管されている。
「腹の中に入っている子どもには全然、罪もなければ、なんもないわけだ。罪のないものを殺してしまったということで、剥製にして残してある。大人の間違いで子どもが犠牲になるのはうまくないなっていう感じでさ。子供には何も罪がないわけだよ」
自身の命とも向き合う日々
俵さんは進行した肺がんと診断されていた。「手術したら海の仕事に戻れなくなる」と医師から言われて手術は選択しなかった。俵さんは「死ぬまで俺の職場は海だ」と語り最後まで海で生きる道を選んだ。
88歳の俵さんは自身の命とも向き合っていた。
88歳の俵さんは自身の命とも向き合っていた。
「仕事が生きがいで職場で死ぬっていうのは本望なわけだよ。この島で生きるために、金を稼ぐためにたくさんの命を殺してきた。このままの状態で死は死で認めるし、病気は病気で認める。最後まで変わることなく生きていきたい」
ことしで“引退”と語っていた俵さんのトド撃ちが終わった。
本当に引退するのだろうか?
俵さんは口を閉ざしていたが、礼文島の漁師たちはこう話していた。
「俵さんは来年もまたトド撃っているよ」
「あの人は限界までやるよ。引退なんかしない」
ことし5月。私は「俵さんとはまた会える」と信じ、取材の礼を述べて島を離れた。
本当に引退するのだろうか?
俵さんは口を閉ざしていたが、礼文島の漁師たちはこう話していた。
「俵さんは来年もまたトド撃っているよ」
「あの人は限界までやるよ。引退なんかしない」
ことし5月。私は「俵さんとはまた会える」と信じ、取材の礼を述べて島を離れた。
突然の訃報 俵さん逝去
「俵さん、亡くなりました」
ことし8月、礼文島の取材先から訃報が届いた。
出会いから8か月。突然の連絡を受けて鮮明によみがえったのは「俺の終わりが撮りたいんだな」という、俵さんの言葉だった。知らせを受けて私は同僚とともに礼文島に駆けつけた。
その夜、礼文島は厚い雲に覆われていたが、ふと雲の切れ間から満月が姿を現し、白波が立っていた海を穏やかな光で照らした。その一瞬の光景はまるで自然が島の偉大な人を悼み、別れを告げるかのようだった。
通夜と葬儀は島のコミュニティーセンターで行われ、漁師仲間をはじめ、多くの人が集まった。その場には深い悲しみだけでなく、俵さんが島に残した大きな足跡への感謝と尊敬にあふれていた。
彼と過ごした日々を思い返し、今もともにあるかのような温かさが漂っていた。偉大な人を見送った夜、海は一段と深く静かに息づいているように見えた。
ことし8月、礼文島の取材先から訃報が届いた。
出会いから8か月。突然の連絡を受けて鮮明によみがえったのは「俺の終わりが撮りたいんだな」という、俵さんの言葉だった。知らせを受けて私は同僚とともに礼文島に駆けつけた。
その夜、礼文島は厚い雲に覆われていたが、ふと雲の切れ間から満月が姿を現し、白波が立っていた海を穏やかな光で照らした。その一瞬の光景はまるで自然が島の偉大な人を悼み、別れを告げるかのようだった。
通夜と葬儀は島のコミュニティーセンターで行われ、漁師仲間をはじめ、多くの人が集まった。その場には深い悲しみだけでなく、俵さんが島に残した大きな足跡への感謝と尊敬にあふれていた。
彼と過ごした日々を思い返し、今もともにあるかのような温かさが漂っていた。偉大な人を見送った夜、海は一段と深く静かに息づいているように見えた。
最期を見届けた診療所の医師は
俵さんの最期を見届けた礼文島の船泊診療所の升田晃生医師が、NHKの取材に答えてくれた。
升田医師によると、私たちの取材を受けていた時、俵さんの左の肺はほぼ機能しておらず、痛みを訴えずに海に1人で出ていたのが不思議な状態だったという。
その後、がんの転移が進み、俵さんは食事をとることができなくなり、点滴と投薬で体調を維持するような状態になっていたということだった。
升田医師によると、私たちの取材を受けていた時、俵さんの左の肺はほぼ機能しておらず、痛みを訴えずに海に1人で出ていたのが不思議な状態だったという。
その後、がんの転移が進み、俵さんは食事をとることができなくなり、点滴と投薬で体調を維持するような状態になっていたということだった。
礼文島 船泊診療所 升田晃生 医師
「終末期っていうのは、人生模様が結構出るところでその方の歩んできた人生とか、大事にしているもの、信念や考えが表れやすい場面ですが、俵さんは本当に最期まで目の力を失わずにいました。海に出ている時の目つきがやっぱり最期まで、芯となるものを強く持っているお顔立ちでした。俵さんは最期、迫り来る死に対してあらがうことなく、静かに受け入れ、何も言わず、何も求めずに、逝きました。最後に行きたい場所ややりたいことはないかと聞きましたが、『思い残すことは何もない。先生、今までありがとう』と静かに亡くなりました」
「終末期っていうのは、人生模様が結構出るところでその方の歩んできた人生とか、大事にしているもの、信念や考えが表れやすい場面ですが、俵さんは本当に最期まで目の力を失わずにいました。海に出ている時の目つきがやっぱり最期まで、芯となるものを強く持っているお顔立ちでした。俵さんは最期、迫り来る死に対してあらがうことなく、静かに受け入れ、何も言わず、何も求めずに、逝きました。最後に行きたい場所ややりたいことはないかと聞きましたが、『思い残すことは何もない。先生、今までありがとう』と静かに亡くなりました」
升田医師は「虚栄ではなく悟ったような印象を受けました」と最期の様子を話してくれた。
俵さんに指名された“後継者”は
俵さんが生前に“後継者”と言っていた漁師の山内成人さんにも話を聞くことができた。山内さんはトド猟を行う海域が俵さんと同じだった。俵さんをよく知る地元漁師の1人は過去の印象的な出来事について話してくれた。
俵さんが過去に島外の人から「なぜ、生き物の命を奪うのか」と苦情が寄せられた時のエピソードだった。ふだん怒ることのない俵さんはこの時「誰が島の暮らしを守るのか」と怒りを表したという。
俵さんが過去に島外の人から「なぜ、生き物の命を奪うのか」と苦情が寄せられた時のエピソードだった。ふだん怒ることのない俵さんはこの時「誰が島の暮らしを守るのか」と怒りを表したという。
礼文島の漁師 山内成人さん
「俵さんにも葛藤があったと思う。殺したくないものを殺していた。俵さんがやってきたことは昔から、何ひとつ変わっていない。変わったのは世の中なのに。俵さんのように(トドを)苦しめずに、眠るように(しとめる)というのは簡単なことではない。俵さんの気持ちはわかる。手負いのトドは見たくない。誰もやりたくてやっているわけではない」
「俵さんにも葛藤があったと思う。殺したくないものを殺していた。俵さんがやってきたことは昔から、何ひとつ変わっていない。変わったのは世の中なのに。俵さんのように(トドを)苦しめずに、眠るように(しとめる)というのは簡単なことではない。俵さんの気持ちはわかる。手負いのトドは見たくない。誰もやりたくてやっているわけではない」
時代とともに変わったのは
俵さんは生きてきた88年で「礼文島の海は大きく変わった」と語っていた。
「魚が減少し、それに伴ってトドが網の中の魚を狙うようになり、漁業に被害を与えるようになってきた」と。「トドが悪さをするようになったのは食べる魚が減ったからだ。魚が減ったのは人間が捕りすぎたからだ」と、俵さんは心配そうに何度も話していた。
俵さんが生まれ育ったのは、礼文島のさらに北に位置する無人島、トド島。彼が若い頃、この地は人も自然も力強く息づいていたが、トド島は無人島となり礼文島の人口も4分の1になった。
「魚が減少し、それに伴ってトドが網の中の魚を狙うようになり、漁業に被害を与えるようになってきた」と。「トドが悪さをするようになったのは食べる魚が減ったからだ。魚が減ったのは人間が捕りすぎたからだ」と、俵さんは心配そうに何度も話していた。
俵さんが生まれ育ったのは、礼文島のさらに北に位置する無人島、トド島。彼が若い頃、この地は人も自然も力強く息づいていたが、トド島は無人島となり礼文島の人口も4分の1になった。
長年、海を見てきた彼には人とトドが魚を奪い合うようになり、人間が生きていくためにトドをしとめざるを得ない時代に変化したように見えたのだろう。しかしそれはこの最果ての島で人が生きていくためには必要なことでもあった。
俵さんはこの海で人間が引き起こした因果がめぐっていることを自覚しながらトドを駆除していたのだ。島と海への深い愛情とともに、罪の意識や償いの思いも感じながら。
俵さんはこの海で人間が引き起こした因果がめぐっていることを自覚しながらトドを駆除していたのだ。島と海への深い愛情とともに、罪の意識や償いの思いも感じながら。
海獣のいる海
長年、稚内でトドの研究にあたっていた水産試験場の後藤陽子さんは俵さんとの印象的な出来事を話してくれた。
2018年に一度、礼文島にほとんどトドが来なかった時期があった。
漁業被害が一時的に減り、ほかの漁師が喜ぶなか、俵さんは海のことを案じていたという。
2018年に一度、礼文島にほとんどトドが来なかった時期があった。
漁業被害が一時的に減り、ほかの漁師が喜ぶなか、俵さんは海のことを案じていたという。
水産試験場 後藤陽子さん
「俵さんは海全体の状況をいつも気にかけていました。海獣が来るということは『豊かな海の象徴』と考えていて、トドが来ないことを心配していました」
「俵さんは海全体の状況をいつも気にかけていました。海獣が来るということは『豊かな海の象徴』と考えていて、トドが来ないことを心配していました」
俵さんは「死ぬまで海が職場。礼文島が、この海が好きなんだ」と何度も何度も話していた。
俵さんの好きな海には、ちゃんと海獣がいて、人も魚も海獣も共に生きていける海を思い浮かべていたのかもしれない。
俵さんの好きな海には、ちゃんと海獣がいて、人も魚も海獣も共に生きていける海を思い浮かべていたのかもしれない。
取材後記 残した後悔と最後の教え
取材を終えた、ことし5月。番組クルーより一足先に私は稚内へと戻った。礼を述べ、「また冬に来ます。すぐ近くにいますから」と伝えると、俵さんは「あんたは稚内だから近いな。またな」と笑顔で答えてくれた。その言葉が、俵さんとの最後の会話になるとは、このとき思いもしなかった。
まだ聞きたいことは山のようにあった。取材者としての役割を終え、1人の人生の先輩として俵さんに問いかけたいことがあった。半世紀以上にわたって命と向き合い続けてきた彼は自分の死を目前にして何を感じていたのか。その答えを聞きたかったが、今考えれば、俵さんの体調にも気を遣ったのだろうか、私は遠慮してしまった。またいつかその機会があるだろうという淡い期待がどこかにあったのかもしれない。しかしそのためらいが私の二度と取り戻せない後悔へと変わった。
俵さんとの再会はかなうことは無く、今後この後悔は消えることはない。命と向き合い続けた彼は最後、私に身をもって大切なことを教えてくれた。命とははかないものであり、それゆえに重く尊いものであると。
まだ聞きたいことは山のようにあった。取材者としての役割を終え、1人の人生の先輩として俵さんに問いかけたいことがあった。半世紀以上にわたって命と向き合い続けてきた彼は自分の死を目前にして何を感じていたのか。その答えを聞きたかったが、今考えれば、俵さんの体調にも気を遣ったのだろうか、私は遠慮してしまった。またいつかその機会があるだろうという淡い期待がどこかにあったのかもしれない。しかしそのためらいが私の二度と取り戻せない後悔へと変わった。
俵さんとの再会はかなうことは無く、今後この後悔は消えることはない。命と向き合い続けた彼は最後、私に身をもって大切なことを教えてくれた。命とははかないものであり、それゆえに重く尊いものであると。
彼が手術を拒み「最後まで海とともに生きる」と命の終わりを受け入れ、生き抜いた姿はまるでその重みを象徴するかのようだった。彼の哲学や流儀は取材を通じて伝えるべきものだったが、私自身が一番彼から学ばされたのかもしれない。
俵さんともう言葉を交わすことはできないが、彼が教えてくれた命の重みと向き合う姿勢はこれからも私の心に生き続ける。俵さんに出会えたことを心から誇りに思うと同時に、もう一度彼の言葉に耳を傾けたかったという思いが今も胸を強く締めつけている。
礼文島の潮風に乗って響いた彼の銃声は、今も私の心の奥深くに鳴り響いている。
俵静夫さん、ありがとうございました。
俵さんともう言葉を交わすことはできないが、彼が教えてくれた命の重みと向き合う姿勢はこれからも私の心に生き続ける。俵さんに出会えたことを心から誇りに思うと同時に、もう一度彼の言葉に耳を傾けたかったという思いが今も胸を強く締めつけている。
礼文島の潮風に乗って響いた彼の銃声は、今も私の心の奥深くに鳴り響いている。
俵静夫さん、ありがとうございました。
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