あままこのブログ

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インターネット・サブカルという夢の終わり

米津玄師が「ハチ」と言う名義で出した『砂の惑星』という曲があります。

www.youtube.com
この曲の歌詞には、かつてニコニコ動画というサイトで、VOCALOIDを使って生み出された、数々の名曲のタイトルや歌詞が引用されています。
w.atwiki.jp
僕を含めたインターネット老人会の人らは、この歌詞を読んで「そうだよな、あの米津玄師も、俺らがいたあそこらへんから巣立っていった人間なんだよな」とにやけたりするわけです。

もちろん「同じ界隈にいた」というだけで、それ以外に何の共通点もないわけですが、それでも勝手に仲間意識をもったりするのです。

似たような気持ちは、声優とかVTuberとかにも抱きます。特に今活躍しているVTuberの雑談とかを聞くと、自分たちと同じようなサイトやFlashゲーム・動画を楽しんできたし、自分と同じ様なインターネット黒歴史を抱えていたことがわかって、嬉しくなります。

なぜそのような仲間意識を持つか。そこには、かつてのインターネット、特にその中でも2ちゃんねる・面白Flashテキストサイトニコニコ動画といった、サブカルチャーが表現される場に共通してあった、「空気」が関係しているわけです。

かつて、全てが渾然一体となった「インターネット・サブカル」という夢があった

かつてインターネット・サブカルにあった「空気」は、以下の様な特徴を持つと、僕は考えます。

  • 無階級性―作り手・受け手の区別が重視されない
  • 無価値性―何か報酬を得たり賞賛を得ることが目的ではない。むしろそういう有用な価値を投げ捨てることこそがイキである
  • 無意味性―表現によって何かメッセージを伝えることが目的ではない。むしろメッセージ性なんて何もない無意味な表現こそがよい

このような特徴を持つサブカルチャー表現を、みんなで共有して盛り上がり、「祭り」を行うことを楽しむ、それこそがインターネット・サブカルの楽しみ方だったのです。

ニコニコ動画で花開いたVOCALOID楽曲という文化もまた、このようなインターネット・サブカルの空気に強く影響を受けました。初音ミクにネギを持たせた楽曲が流行れば、初音ミクとネギに何の関係もないのに「初音ミクと言えばネギだよね」みたいな設定が生まれ、そして更にそこで鏡音リン・レンというキャラクターが追加されると、今度はロードローラーを無理矢理鏡音リン・レンと関連付ける楽曲が現れ、そこから「鏡音リン・レンといえばロードローラーだよね」という設定が付与されるという、ナンセンスの極みのような流れが日々生み出されていたのです。

ただここで重要なのが、そのように全く無価値・無意味な祭りだったからこそ、その祭りは、万人が平等に、自分の能力とか地位とかそんなものと関係なく、参加できるものになったという点です。もしそこに「そのサブカルチャー表現を使って何か価値・意味あることを伝えなければならない」という制約が加われば、当然そこでは、より効果的に価値・意味を伝えることが出来る人とそうでない人の間に格差・差別が生まれます。そうではなく、「自分たちはなんか盛り上がってるけど、でもこの盛り上がりになんの意味も無いよねー」という留保があるからこそ、祭りに参加さえすれば、表現能力が秀でていようが劣っていようが、平等に同じ場で楽しむことが出来るわけですね。

「インターネット・サブカル」という夢はなぜ終わったか

しかし、そのような無階級・無価値・無意味によって形作られた 「インターネット・サブカル」は、終わりを迎えます。

最初に、インターネット・サブカルで頭角を現した、作曲者や実況者・配信者といったクリエイターが、メジャーで活躍するようになりました。

ですが、一旦インターネット・サブカルから抜け出せば、当然そこでは否が応でも一般の社会規範に適合することが求められます。インターネット・サブカルの中で認められていた悪ノリの多くは、一般では通用しないものなわけで、そこでは数多くの炎上や怒られが発生したわけです。
news.yahoo.co.jp
そのように、インターネット・サブカルと一般社会の摩擦が生じる中で、一部の人は「一般社会なんてクソだ!」となり、それこそ「恒心教」や「淫夢界隈」というような形で、むしろ反社会的な表現に流れていきます。
digital.asahi.com
note.com
ただ、そのように社会への適応を拒否する人はごく一部で、多くの人は「そうか、今はそういうノリはもう許されないんだな」と思い、インターネットサブカルのノリをまさしく「黒歴史」として、一般社会の倫理規範に適応していくわけです。

一般社会に適応する術をあらかじめ学んでから、公の場で活動する今のクリエイター

そして更に、そういった僕たち世代の失敗を目の当たりにした今のクリエイターは、公の場で活動する前に、専門学校などで、きちんと一般社会に適応し、炎上せず、社会に価値ある表現を行う技術を学びます。
vta.anycolor.co.jp
www.itmedia.co.jp
今の時代、一旦ネットで失敗して炎上でもしたら、それこそ永遠に消えないデジタルタトゥーが彫られ、再起不能となってしまいます。そんなリスクを冒すぐらいなら、事前に専門学校とかできちんと技術・ノウハウを身につけたいと考えるのはごく自然な流れと言えるでしょう。

このように、社会全体で失敗のリスクが高まる中で、「公の場に出る前にきちんと基礎の技術・ノウハウを身につけない」と若者が思うようになっているのは、配信者に限ったことではありません。

例えばアイドルの世界においても、そのような流れは起きています。
qjweb.jp
上記の記事を書いた竹中氏は、日本のアイドル業界においては「未熟さを愛でる」というような価値観が長くあったため、パフォーマンス能力が身についていないアイドルを公の場に放り出すようなことが多々あったが、そういうやり方は徐々に若い人からそっぽを向かれてるようになってきたと書いています。

そしてその代わりに「きちんと基礎の技術・ノウハウをたたき込み、パフォーマンスを高めた上でデビューさせる」韓国のアイドル業界の方が、アイドル志望・アイドルファン双方に魅力的となっていると述べているわけです。

このように「公の場で表現するのなら、表現する前にきちんと基礎の技術・ノウハウを高めるべきだ(そうでなければ、公の場で表現してはいけない)」という価値観は、今の若者にとって支配的となっているわけです。

「持てるもの」と「持たざるもの」が完全に分離された社会

そしてその結果として、今の若者には、かつてインターネット・サブカルに浸っていた人間だったり、あるいはアイドルを「同じ学校の同級生」のような親近感で推していた、昔のアイドルオタクが持っていたような「表現者への仲間意識」は、ないのです。アイドルだろうが配信者だろうが、公の場で表現するものは、自分たちとは全く異なる存在であり、仲間とは思えないのです。

それは、ある意味では「身の程をわきまえ、表現者と適切な距離感を持った態度」として賞賛されることなのかもしれないです。ただ、そこで「自分たちと同じ仲間」ではなく「自分とはかけ離れたスター」という風に表現者を思うからこそ、表現者の持つ痛みや苦悩への共感が薄れてしまうという、負の効果も、あるのではないでしょうか。

表現する能力・スキルを持った「持てるもの」と、そうでない「持たざるもの」が完全に分離され、そこに仲間意識が何もなくなった社会は、一体どうなっていくのか。

ただ一つ言えることは、かつてインターネット・サブカルが夢見た、「みんなで一緒に祭りで盛り上がってりゃ楽しいじゃん」という夢は、もはやないということです。

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  • tennteke

    初めまして、読んで思いだしたことです。
    以下のことはNHKで見た番組で思った事で、私自身が経験したことではなりません。
    1960年代に学生運動とか安保闘争とか政治目的の運動が起こりましたが、文化の世界でもものすごいことが起こっていました。
    現代ではその文化のうねりはサブカルチャーと扱われていますが当時はまさしくカウンターカルチャーで、政治だけでなく各分野の文化の正しいとされていたもの、伝統とされていたものへの異議申し立てでした。
    たとえば演劇で寺山修司や唐十郎といった人たちが独自のスタイルで活動を始めましたが、当時は
    「劇といえば歌舞伎のこと、私たちが演劇と呼んでいるものは当時新劇と呼ばれていた」という常識がありまして、寺山修司も唐十郎も、その劇と新劇に「演劇とはそんな窮屈なものではないはずだ」といわんばかりに縦横無尽に才能を発揮して、そういううねりで「新しい演劇の在り方」を模索していた人たちはまとめて「小劇場(演劇)」と呼ばれましたが、
    学生運動、安保闘争の政治闘争やってた人たちが東大落城とあさま山荘事件で運動が終了してしまった結果、それら尖っていた文化人達の、自文化の体制へのカウンターも、大衆は離れていってしまったのです。
    何故か。
    大資本の「カワイイ文化」に代表される、新デザイン、快適な使い心地、手の届く価格の大量生産品が供給され始め、作家の一品性よりもマスメディアから供給される手軽さにシフトしたんだと思うのです。
    当時のクリエーターたち、自分たちの意識や活動内容は何も変わっていないはずなのに、社会はカウンターカルチャーからサブカルチャーとカテゴリを変えて、さらに離れていったと不条理を感じていたんじゃないかなぁと思うのです。
    そして、
    私が実際に見聞きしたのはフォークソング、シンガーソングライターのブームで、歌手が「この長さが必要だと作った歌が、テレビの歌番組の尺を飛び出すので編曲して削ってくれないかと頼まれたら断って出演を拒否していたのが、その中からメジャー指向の歌手が編曲を了承して出演し始めて、出ない人との二極化になったことがあります。
    そんなことを思い出しました。
    歴史は繰り返したんですかね?