田中希生

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田中希生
@kio_tanaka
大学教員。歴史学者(近現代史)。著書に『精神の歴史』2009、『存在の歴史学』2021(いずれも有志舎)。
奈良fragment-group.com/kiotanakaBorn May 20, 1976Joined March 2010

田中希生’s posts

死にまつわる議論は配慮がいるが、学者としてあえて切り込んでいえば、戦後社会のひとつの特徴は、若い人が死ななくなったことである。かつて、すくなくとも戦前であっても、若者が最初に経験する死といえば、兄弟姉妹の死がほとんどだった。だが、いまでは最初の死はおよそ老人のものである。
さて、この方をダシにするようで申し訳ないが、流れてきたので。「感謝からナショナリズムへ」の右翼か、「愚劣な作戦からの犬死」の左翼か、この二者択一以上のものを、学生は知覧に行けば感じていると思うよ。言葉にするとそうなるのは、学生はもちろん、大人も言葉が足りないから。
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Simon_Sin
@Simon_Sin
特攻隊員に対して抱くべきなのは感謝じゃなくて「愚劣な作戦で無駄死にさせられて可哀想」「君らを犬死にさせやがった軍と政府の連中のことは語り継ぐから安らかに眠って」である。そもそも特攻隊を顕彰する資料館は隊員に感謝するふりをしてそれを命じた連中の無能と杜撰を糊塗するための施設だしな x.com/Sankei_news/st…
さて、コロナ禍で日本はあきらかに全体主義社会に陥った。恐ろしいのは、一部研究者も、国家による強制でなく《自発的な》「思いやり」ならば、全体主義ではなく、国民主体の望ましい民主主義社会だと考えている節があることだ。「思いやり」を強制される、「自発的服従」について考えてみよう。
さて、コロナ禍。「あのときは仕方なかった」というかつての戦争を思い出させる論調が現れているが、あのときは「終戦」宣言があった。いまはその宣言もなく、対策を訴えてきた専門家もしれっとマスクを外し始めている。いつか終わると思って対策を続ける一般国民について、どう考えているのだろうか。
さて、コロナ禍から4年。あのときの大学1回生は4回生になり、コロナ禍が過ぎ去っても、マスクを外す機会を持てないまま卒業を迎える学生が何人もいる。いまさら外せないし、いまさらわざわざ仲良くなる必要も感じられない、というわけだが、側で見ていて、淋しさや苦しさはよく感じられる。
さて、100%マスクの昨年と50%マスクの今年。同じ時期に来た波は、昨年より大きくなることなく引いていった。日本社会こそ、マスクの効果に否定的な事例を提供したわけだが、一部の医師や学者のプライドを守るためだけに、修正しないまま、無意味な対策を続けさせるのだろうか。悲しくなってくる。
ウイルスのことだけを考えている科学者なら、マスクを推奨すればいいだけですが、人文学者としては、しかも近代史家としては、それがもたらす負の側面を指摘しないわけにはいきません。人文学者がここで沈黙するなら、そもそも日ごろしている研究はなんだったのか、という話になってしまいます。
さて、いまだにコロナの脅威を語る言説が出てくるのをみると、コロナ禍とは対策禍だったと言わざるをえなくなる。未知の危機に対して対策の過不足は理解するが、なくならないものをなくせると考える行き過ぎた科学主義と、人間存在につきまとう《不安》についての洞察の浅さが、これをもたらしている。
さて、第9波・感染拡大してきたからマスクを、というのがわりといて、まいっている。オールマスクで8回同じことが繰り返され、9回目はノーマスクが原因だ、と考えるのは科学なのか。この程度の屁理屈でもとに戻したら、今度は第10波に怯えながら、もう1年ユニヴァーサルマスクをやることになる。
さて、風邪をこの世からなくしたい、というつぶやきを見かけてしまった。そうやって自然と戦いたい人間がいるのだが、この目標のためにどれだけの人間が苦しむか、想像ができない。というのは、この病気は《伝染する》ものだからである。なくす過程で《社交》は制限されて当然、というわけだ。
アングラで活動してきた人間が、国家主義的な催しに音楽を提供することより、彼が行った40年前の非人間的な扱いを知り、憤った民衆が彼をその場から引き摺り下ろすことの方が、はるかにアートである。アートは、彼を救う。彼を国家主義的な場所から引き離すことによって。
さて、自分がいつからコロナ「対策」禍を問題にしていたか。別のところで二度聞かれたのでいえば、ほとんどはじめからである。どんな理由であれ——つまり命がかかっているときでさえ、「自由」を制限するものについては注意を払う。それは人文学者としてとるべき最低限の態度と思ってきたから。
さて、「マスク着用」がまだ右の柱にトレンドとしてあがっている。マスクはもうできるだけ外す方がいい。風邪など病気でもないのにするのは、人としていいことではない。それはけっして思いやりではない。ワクチンもそうだ。思いやりでするものではない。しなくていい。
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結論をいえば、老人を攻撃する言説は完全に間違っているのだが、ならばなにが起きているのか。現代日本を覆うのは、一言で言って、「生命」主義である。生きるよりも「生命」を重視するこの主義のために、社会的配慮から老人は病院の近くで息を潜めて生きることを強いられるのだ。
さて、唾液の飛沫について。料理屋の店員にマスクをしてほしい向きがある。だが、彼らも同じ人間である。客である自分の唾液のついた皿を洗うわけだ。自分は店員にマスクは求めない。唾液をわざわざ吹きかけるのでなければ、常識の範囲で、自然にしていてほしい。それより笑顔が見たい。自分はね。
僕はこのやりとり、中川淳一郎氏に、心の底から共感する。中川氏のようにはうまく言葉にできず、震えてしまうだろう。
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杉原航太
@kota_sugihara
『思いやり』トレンド入り。 新型コロナ最大の闇『思いやりワクチン』。こんなもの絶対に思いやりではないと国民全員が認識するまでこの動画はアップし続ける。無惨に若者や子どもが死ぬのを黙って見てはいられない。 忽那賢志は子どもたちに思いやりワクチンを推めた。
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The media could not be played.
さて、「ただの風邪」をコロナと同じ5類にするようだ。病気にばかり敏感になり、その一方で生きることを忘れていく日本社会。病気の元をたどって病気を増やしつづけ、社会保険料はますます上がり、増税につぐ増税で社会全体が疲弊している。未知のウイルスが登場するたびに社会を止めるつもりなのか。
さて、最近はワクチンのリスク/ベネフィット論をよく見かける。要するに「リスクをベネフィットが上回る」という言い方のことである。もちろんリスクを正しく公開している、という前提だが、こうした統計的/経済的言い方ほど無責任なものはない。このリスクには「死」が含まれているからである。
さて、今回の大地震予知を受けての自粛ムードが明らかにしたことがある。想像はしていたが、大衆のこの自粛行動の大半に科学は関係ないということである。コロナ禍になされた科学者の主張は噛み合っていない。つまり疫病や地震を怖がっているのではない。《怖いものを怖がっている》のである。
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80を過ぎようと、90を越えようと、好きな旨い酒を飲むべきだし、生命主義のためにそれを控える必要もない。自分が老人なら、妙な気を回して孫がマスクを外さない、などという目にはあいたくない。孫でも子供でも、赤の他人のでも、笑顔が見たい。どうせ死ぬなら笑顔が見たい。
さて、コロナの第9波も収まったようでなにより。マスク50%でも、100%の去年と同じように収まっていくのだから、僕の中では答えが出たね。マスクは波と関係しない。ヘラクレイトスは言った。「山火事の火を消そうとするより、その火事を消せると思うあなたの傲慢の火をまず消しなさい」と。
さて。日本人の思考が神経症的になっている傾向は、ずっと感じている。ここで僕がいう神経症とは、ひとつのパラメータだけを気にするような生き方のことだが、このパラメータが他の変数を蹴散らしてしまい、唯一のパラメータを上昇させることに思考が費やされてしまうような状態をいう。
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いまは反対に、老人は生きなければならない。それは、死を避けるべきという常識にしたがったまでだが、死に近い分だけ老人にはその配慮が圧倒的に必要とみなされる。老人の生は、いわば、今日の生命主義の象徴であり、この生命主義のために、老人は、医療の粋を尽くして生きねばならない。
さて……当初からいやな予感はしていたが、ウイルスにかかわらず、日本社会に「マスク」が残ってしまいそうだ。こんな日本では困る。視線の哲学・イメージの哲学の決定的な欠落。見られることからの逃避衝動があり、それがマスクをする、という行動につながっている。
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真に「生きる」ということについての哲学の不足。「生きる」ことを医療言説に奪われて「生命」に変質させる、言い換えれば医療なしには生きられないというような転倒を転倒と思わない日本社会。これをもう一度反転させるような哲学が、求められているのだと思う。老人こそ生きねばならない。
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戦前と戦後にある、こうした死の配分の圧倒的な変化と格差は、望むと望まざるとにかかわらず、ひとつの社会的な変化と権力を生み出してしまう。かつて、若い「きょうだい」たちの命の軽さは、戦争を可能にし、また戦争に非常に重点を置いた権力構造を可能にしていた。いまはどうか。
自分がほんとうに恐ろしいと思うのは、未知のウイルスに対する恐怖からとはいえ、その未知の対象に対する人間の即席の対処には疑いを持たなかった(とりわけ学者が)ことだ。学者が学者を盲信したら(批判を封じたら)歯止めがなくなる。学問は疑うことから始まるのではなかったのか。
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くろのす社長
@MasukuShac87060
計9031件の健康被害が認定され、うち死亡事例は998件。凄まじい数でもう完全に失敗している。 接種後健康被害9千件認定 救済制度、新型コロナワクチン(共同通信) #Yahooニュース news.yahoo.co.jp/articles/d2eec
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「なにかあったらどうするのか」——津波が来たら逃げる、である。風邪を引いたら休む、である。困っている人がいたら助ける、である。夏が来たら海で泳ぐ、である。しかし、今日の日本人はこの言葉を非-行動のために用いる。なにかあってからでは遅いのであり、したがってなにかあってもなにもしない。
なぜひとは歴史に学ばないのか、という嘆きをよく耳にしますね。その嘆きの主は、けっきょく歴史に学んでいないのです。というのは、いままでひとは、一度たりとも歴史に学んでこなかったからです。肝心なときにはいつも忘れている。それをこれだけ繰り返しても、まだ歴史に学ばない、と嘆いている。
「マスクを外すのは恥ずかしい」という意見が出ている時点で、社会的には副作用がまちがいなく出ているのだけどね。これは無視されてしまう。
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自分はこれは間違った生き方だと思っている。むしろ老人こそ、労働から解放されて《遊ぶ》こと、あるいは自分のためだけに真に《走る》が求められているのに、彼らは社会によって、方々からの——多くはもっぱら医療的な配慮により、生きさせられているのである。
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この変化は、死の言葉をひとが避けるために表に出にくいとしても、ひとが意識的に思っているよりも非常に重い。年齢的には20代後半くらいから、祖父母の死を経験する、それが身近な人間の最初の死のケースになることが多いと思う。
さて、疫病にかかわる人間の行為が、「正義」の名のもとに全体主義・ファシズム傾向をもつことは、発生直後に論文でも書いたように自分を驚かせていた。しかしそれ以上に驚いたのは、左派知識人の沈黙や扇動である。全体主義の吹き荒れた第二次大戦期の社会についての彼らの理解は、自分と異なっていた
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5年経っても医療崩壊と言っている。予防には人一倍気を遣いながら、罹った人間を救う準備はついにしてこなかった。震災も同じ。これから起こるらしい南海トラフは気にかけるが、能登や宮崎は気にしない。日本人の「思いやり」は、苦しむひとに向けられているというより、社会的視線を気にすることだ。
コロナのみならず、毎年かならずやってくるインフルエンザにまで、たとえば12月には全国民的にマスクするような、そんな民族になりたい? なにかおかしいと思って欲しいけど、もう無理なのかな?
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知念実希人【公式】
@MIKITO_777
インフルエンザ、完全に天井を突き抜けました。 想像を絶する感染爆発で、5年ぶりの警報レベルです。 どうか、適切にマスク、手洗い等の感染対策をお願いいたします。 (ちねん)
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さて、コロナ対策を推奨するひとへの雑感。彼らは往々にしてその批判者の0/1思考を非難する。完全に防がなくとも、少しでも効果があれば対策すべき、という考えだ。何度も言っているが、この発想では、効果を測る段階では0/1の間を思考できていても、行動は0/1になる。0でない限り1である。
さて、マスクを外せる世の中になって随分経つ。若者の一部は——若者だけではないが——定着したようだが、人としては外す方が自然。そちら側にがんばって自分の精神を持っていこう。一部医者がなんと言おうと、マスクを日本ローカルにするのはよくない。そう言わない医者もいる、というので十分である。
この四年を考えると悲しくなりますが、マスクは若者の精神に一定の傷を与えていると思います。まだ若者の置かれた境遇に思い至るだけマシですが、軽い対策と思われていたらしいマスクには、顔を隠すことによる精神上の重い問題があると考えて欲しかった。
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大阪に住む唯の男
@Tqbz0adPzjIOdGT
「青春時代を楽しめなかった若い世代には、ありがとうという気持ちでいっぱい」 よく言えましたね。
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さて、奈良は海外の観光客につられてか、日本人のマスク姿も減りつつある。経済的停滞下の日本で、さまざまな《不安症》が高まっていたところに疫病があった。この不安症に乗って、マスクはよく浸透した。不安症のもたらした全体主義のほうを、ぼくはこのウイルスより恐れる。歴史家として当然と思う。
さて、残念ながら、マスクを外せない学生も多い。もう4年目に突入だが、これまでの3年の歳月は、重く学生にのしかかっている。急に「顔」を晒して自己同一性を破壊する、その勇気が持てない。マスクを通した付き合いしかしてこなかったのだから、いまさらと、面倒にも思うのだろう。
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こういう不安の波を抑えるべく、文系の知識人がいると思っていたが、まったくそうならなかった。これでは、なにか外から刺激があるたびに萎縮していく、そういう社会になってしまう。異物を排除しながら小さな平等を実現する衰弱傾向をどうにかして変えなければならない。
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「あなたのおかげで今がある」論は、別に特攻兵でなくてもよく、「政府による愚劣な作戦での犬死」論も、べつに特攻兵でなく日本の全兵士に言えることだね。結局、どちらも国家に結びつけ過ぎているのだが、知覧に行った若者を国家論に回収する必要はまったくない。もっと異様なものを感じている。
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要するに、「自発的服従」するかしないか、しないなら「反逆者」すなわち「反ワク」や「反マスク」のレッテルを貼る、ということを、《科学信仰》の名で行ってきただけなのである。この一連の流れのなかに、ほんとうの意味での科学は無関係である。たんに《全体主義社会》だったというにすぎない。
ぼくが若いころは、マルクスを古いマルクス主義を乗り越えて、どう読み替えていくか、というアルチュセール以来の課題の延長上にあって、そこで思考するのが出発点だったから、88歳の伊藤隆はともかく、ぼくと同世代の研究者がマルクス主義を執拗に攻撃しているのをみると、奇妙な気持ちになる。
四年も子供や若者が人前で顔を隠して過ごす。子供が黙って、団欒なしに食事をする。そんなのいいわけないのです。たとえコロナがあったとしても、その脅威がどれほどかを見極めながら、闇雲に顔を隠さなくて済むよう、若い人の可能性は最大限に生かす。当たり前のことだと思うんですけど。
マスクを外したから疫病が蔓延したという、原因と結果に強い相関を主張する根拠不明の言説は、子供からマスクを外す選択を奪ってます。外したら発生源とみなされちゃいますから。子供も大人も、教室や職場でのいじめを避けるべく生きています。ある意味、いじめをウイルスより恐れていますからね。
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あまり「犬死」論をぶつと、あれを見て、心中なぜか奇妙な負い目を感じる若者は反発を感じ、ほどよい「あなたのおかげ」論を寄生木にするようになる。これが一番よくない。若者はかならず右でも左でもないなにかを感じる。たとえば、原初的な「死にたくない」感情など。そこにとどまらせるのが大事。
さて、醜悪な弁明をつづける科学者に科学者としての責任があるのは間違いない。彼らはウイルスに立ち向かうよりも国民の死の恐怖に向かって話しかけていた。ウイルスの実態を見極めるよりも国民の行動変容が目的と化していた。それは科学ではなく政治だ。しかし政治だったから、左派が乗ってしまった。
さて、自分はこの意見に完全に賛成だよ。^^ 繰り返すが、学問に素人も玄人もない。真理に「正しく」たどりつこうとしていれば、それはすべて学問。この「正しく」も、真理に照らしてそう言われるのであって、手続きの正しさではない。その意識は、ほんとうの学者なら、つねに持っておかないと。
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倉田真由美
@kuratamagohan
Replying to @kuratamagohan
学問に素人も玄人もない。
さて、NHKの偽報事件。これはあまりに露骨であったため、声を失ってしまったが、とんでもないことだ。映像は周到に編集されていたが、その盲目的な、ある意味では喧嘩を売るかのような専制的周到さが恐ろしい。分断しか生まないそのやり方の意図はどこにあるのだろうか。
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「自発的服従」の反対は「反逆」である。服従するかしないかなので、服従しないものは反逆者なのだ。したがって、「反マスク」「反ワクチン」なる言葉が定着する。彼らは「全体」から排除していい異教徒であるか、もしくは彼らが改心して「思いやり」に目覚め「全体」に帰順するかのいずれかしかない。
端くれさんは正しい。病を避ける、ということだけが幸福にいたる道ではない。幸福は単純ではなく、複雑なもの。それが日常であり、自由である、ということ。僕は、日本で蔓延っている事大主義にうんざりしている。
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内科医の端くれ
@naika_hashikure
2024年の今も続く面会制限は大問題だと思うので書きます。 私の義母は、昨年末から末期癌で自宅療養しています。 この度いよいよ体調が悪くなって先週入院しましたが、妻が面会できないと言われて驚きました。 面会できるのは「緊急連絡先に登録されている家族2名までだから」だそうです。
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巨大地震に備えてJR運休・徐行? もともと、自分は地震の予知はできないか、予知をしても社会的に実行できない、という意見だった。しかし、そうでもなさそうである。社会に対する恐怖、あるいは恐怖に対する恐怖から、それは実行される。日本は何十年かかけてそういう社会にしたわけだ。
さて。見かけたので……。僕は医療にはさほど文句はなく、人文学に文句がある。ただ、こうした《医者に文句を言えばいい》というようなヒロイズムは幼稚と思う。「世の中が傷ついた」式の言い方は問題を矮小化している、と思うし、やはり人間をその水準でしか見ていないのだな、と思う。 t.co/lj9lbZWTlF
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ちなみに、医療を否定しているのでは、もちろんまったくない。人文学者として、あまりに高度化した医療の浸透がもたらす社会的・精神的変化を指摘しているわけだね。それが「生命主義」(「生命」という観念が「生きる」ことの前提になってしまう)というわけだ。
さて、マスクがたんなる科学の対象でないのはわかりきっていた。顔、厳密には表情を隠すのだから、人間の社交性を部分的に遮断する。それでマスクをめぐって社会に分断が生じ、科学者が人格にかかわる語(思いやり……)を使用したり、あるいは人格攻撃にいたるようなことも生じている。
さて、人文学者ならば、たとえ大地震や疫病のクラスターがあろうと、まだなにも起きていない段階で吐かれる「なにかあったらどうするのか」という言葉には批判的でなければならない。それはひとの行動を足止めするが、社会を恐れているのか、自然を恐れているのか、区別がつかないからである。
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ただ「生命」を長引かせるような生き方ではなく、若い男女を眺めて思い出に浸りながら、どこかの居酒屋で旨い酒を飲み、ときには旅をして、あるいは何かを学んで、新しい世界に足を伸ばす。足が痛いなら家で飲めばよく、あるいはストア哲学を学べば水でも酔うことができる。生きることである。