脳は難しさを楽しんでいる チャレンジ精神の科学
「難題に直面するとやる気になる」——そんな心境になるのは漫画やドラマの主人公だけではない。ゲームでも仕事の課題でも、私たちは手応えのある方が楽しいと感じることがある。近年の神経科学の研究で、こうしたやる気の高まりに対応する脳活動が発見された。私たちの脳には、神経レベルでたしかに「チャレンジ精神」に相当する機能が備わっているようだ。(文中敬称略)
私たちには、金銭や物品といった外界からの報酬によらず、自己の内側から生まれるモチベーションが存在する。純粋に「それをやること自体が楽しいからやる」という心の働きは「内発的動機づけ」と呼ばれ、好奇心とも関係が深い。
こうした内発的動機づけの性質を詳しく見られないだろうか。そう考えた玉川大学脳科学研究所教授の松元健二と独テュービンゲン大学教授の村山航らは、「ストップウオッチを5秒きっかりで止めるゲーム」をMRI装置内の被験者にプレイしてもらうことにした。fMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いて、被験者の脳のどこが活発に働くかを調べた研究だ。
実験内容を簡単に紹介する。ゲームには初級・中級・上級の3段階の難易度を設けた。時刻の表示が進む速さや、5秒きっかりで止めたかどうかを判別する「当たり判定」の幅が異なる。なかでも上級は、クリアするのが実は不可能な設定だ。被験者は、ゲームをクリアした分だけお金がもらえるグループと、そうではないグループに分けた。2グループの被験者には、MRI装置の中で続けざまに様々な難易度のゲームを遊んでもらう。後から本人に「どの難易度が楽しかったか」を尋ね、その結果とプレイ時の脳活動を比較した。
その結果、お金をもらわないグループではゲームの難易度が上がるほど「楽しかった」という回答が得られたのに対し、クリア状況とお金が結びつくグループでは難易度が変わっても楽しさはほぼ変わらなかった。ゲームが難しいとお金がもらえなくなるため、外発的動機づけによって内発的動機づけが相殺されたと解釈できる。
次に、お金がもらえる条件下でゲームが自動的に進むギャンブルモード(ストップウオッチを止めるタイミングはコンピューターが決め、本人は追随してボタンを押すだけ)で実験したところ、難易度が低い初級ゲームほど楽しく感じる結果になった。「お金がどれだけの確率でもらえるか」という外発的動機づけが優位に働いた結果だ。
興味深いのは、上級のゲームは誰もクリアできなかったのに、ゲームが難しいほど楽しいと答えた人がいた点だ。経済学的な観点でみた「期待効用理論」などの人間の意思決定モデルでは、低確率でも一定の外的報酬があることがモチベーションにつながる、と説明されることが多い(宝くじを買う動機はこれに似ている)。外的報酬のないところにモチベーションはないということだ。
「でも、実のところ外的報酬がなくてもモチベーションが高まることはあるんじゃないか、というのが元々の私たちの考えだった」と松元は話す。実験結果は松元らの予測の通りだった。一度も成功できない課題が一番面白いと感じるこの結果は、限りなく不可能な課題においても人はそれに挑戦しようとする内発的動機づけを持つことを示唆している。
被験者のアンケート結果は、線条体の一部(腹側線条体)から腹側淡蒼球という部位にかけての領域の活動とぴったり相関していた。本人が主観的に楽しいと感じた時ほど、これらの部位の活動は活発だった。腹側淡蒼球は、ヒトのfMRI実験でもサルを用いた動物実験でも、報酬を予測してモチベーションの生成に関わることが報告されている部位だ。行動レベルで見ても神経レベルで見ても、私たちには「チャレンジ精神」とも呼ぶべき内発的動機づけが確かに備わっているらしい。
fMRIを用いて人の脳活動を調べる研究は2000年代後半から盛り上がりはじめた。当初は食べ物やお金といった"ごほうび"を与えて人や動物の行動と脳活動の関係を調べる研究が多かった。しかし近年は脳活動の知見が積み重なり、より抽象的な私たちの心の特性を具体的な脳活動に落とし込めるようになってきた。科学者の好奇心はいま、好奇心そのものに向かい始めている。
(日経サイエンス編集部 出村政彬)
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- 著者 : 日経サイエンス編集部
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