パーティーガール


4Kレストア版を特別上映にて観賞。1995年アメリカ、デイジー・フォン・シャーラー・メイヤー脚本監督、ハリー・バークメイヤー共同脚本作品。

「悪気はない、まだ好きだけど、自分の価値を下げたくない」からシャワー中におしっこするあなたのような男とは別れるとメアリー(パーカー・ポージー)はナイジェル(リーヴ・シュレイバー)に告げる。後に彼を突き放して階段を上る姿に表れているように、親代わりのジュディ(サーシャ・フォン・シャーラー)に言わせれば「常識のない母親と良心のない父親の間に生まれた」彼女は常に自身を高めようとしている。それは例えばムスタファ(オマール・タウンゼント)へのレバノン人?じゃあレバノンの料理は?なんて言葉にも表れている。その根にある「人をもてなしたい、役に立ちたい」という気持ちと部屋にさげてあるジーンズの順番をいじられると憤慨する整理好きな精神はパーティーの主催や司書の仕事に活かせ自身を充実させるものだが、自分ではそのことになかなか気付けず、そちらに進んでみてもうまくいかない。

「24にもなって何も成し遂げてない」だなんて、その倍の年齢になった私からすればずっと後からでもどうにでもなると思ってしまうけど(私たち日本の氷河期世代のように取り返しのつかないこともあるわけだけど、それはまた違う話)、人生で最初にそういう焦りに襲われるのがあの時期かもしれないとも思う。エアロビを教えようかな、ベーカリーを開こうかな、投資家になれるかな、役者になれるかな、というのはジョークではない。一方で更年期を「体が次のステージに進もうとしている」とすてきに表現するジュディにとって仕事とは、選択肢のないなか女の職だからとマクドナルドより給料も低いのを頑張ってきた結実なので、「図書館でセックス」して本をダメにするだなんて行為はメアリーのためにもよくないと思い許し難い。この言ってしまえばぶつかり合いは、時代に関係なく女の多くが双方を体験するものじゃないだろうか。だからこそ二人の心が最後のパーティーで繋がるのにぐっとくる。

印象的だったのはメアリーが三人の男とキスするところ。男は女が性的なことをすると盛大に意味づけしてやいやい言うけれど、女にとって行為自体は別に大したことじゃないという訴えだ。ナイジェルへのキスなど自分からキスしておいて「やらせない」なんてと言われそうで、だからこそこういう描写が必要なわけだけど、見ても伝わるかどうかは難しいところだと、30年後の今を生きながら思う。