コスプレが自由になるほど、私は窮屈になる──万博に寄せて
「万博でコスプレOKらしいよ!」
SNSでそんな声を見かけたとき、少し胸がざわつきました。
コスプレは、日本が世界に誇る文化です。
誰でも楽しめる表現のかたちであり、自由であるべきものだと思っています。
でも、その自由が“公共の場”に広がったとき、
そこに違和感や不安を覚える声があることも、私は見過ごせませんでした。
誰かの楽しさが、誰かにとっては居心地の悪さになることもある。
そのどちらの感情も同じように尊重されるべきではないでしょうか。
私が感じた違和感、そして願っている「歩み寄り」について
少しだけ言葉にしてみようと思い、このnoteにまとめました。
万博でコスプレOKって、ほんとうに「自由」なの?
2025年の大阪・関西万博で、「コスプレ来場OK」というニュースを目にしました。SNSでは「日本文化の発信だし、素敵!」「撮影もできるなんて最高!」と盛り上がる声も多く見かけます。
でも私は、どうしてもこの流れに素直に乗れないでいます。コスプレが好きだからこそ、そして「場所」や「空気」を大切に思う人間だからこそ、この“自由”がちょっと怖くもあるのです。
ここは日本。TPOを無視したコスプレに感じる違和感
たとえ世界基準でコスプレが広く受け入れられてきたとしても、ここは日本。そして万博は“展示”が主役の場所です。
そんな空間に、自分の好きなキャラクターの格好をして一般人に紛れて現れるという行為に、私はどうしてもモヤモヤしてしまいます。
なぜ、そこまでして「いま、この場でコスプレしたい」のでしょう?「お祭りだから!」「楽しいから!」と言われても、“お祭り”より“自分が主役になること”を楽しんでいるように見えてしまうのです。
コスプレは「非日常」。だからこそ、場を選んでほしい
コスプレって、あくまでも私服の枠を超えた、非日常の装い。それがどんなにクオリティが高くても、異質であることには変わりません。
そして、撮影をともなえば、自然とスペースを占有してしまう場面も多くなります。撮っている人がいれば、まわりは無意識に「写り込まないようにしよう」と気を遣う。つまり、知らず知らずのうちに優先されがちになるんです。
でも、万博はあくまで展示が主役。その空間を作り上げた人たちや、純粋に展示を楽しみに来た来場者を差し置いて、「自分を見て!」という自己表現が前に出てしまうことには、やっぱり違和感を覚えます。
「キャラになりきる」ことへの、ほのかな恐怖
私は再現写真のためのコスプレは好きです。作品への愛があって、空間も演出も含めて丁寧につくられていると感じられるから。
でも、“なりきった状態で一般空間に出て、周囲にふれあいを仕掛ける”タイプのコスプレはどうしても苦手です。
キャラクターとしてふるまい、まわりからの注目や反応を自然に受け入れていく姿を見ていると、それが“演じている”というよりも、まるでそのキャラクターの顔を借りて、現実の中で何かを得ようとしているような感覚に見えてしまうのです。
「信じさせること」が正義になってしまったら
あるコスプレイヤーの方が、こんな発信をされていました。
ミッキーの中に人がいるとわかっていても、振る舞いで人に喜びを与えられるなら、それは“ミッキーそのもの”だと思う。 自分は素顔だったのに、子どもが“本物のマルシルだ”と思ってくれたのは、たらしめる何かがあったのだ。
この言葉を読んだとき、私はふと息が詰まるような違和感を覚えました。
「子どもが信じた=それは本物だった」「私がふるまいで誰かを喜ばせた=だから正しかった」――というような、他人の感情を自分の正当性の根拠として語る構造に強い不安を覚えたのです。
ミッキーの中に人がいるとしても「ミッキーはミッキー」であるのは、ディズニーが演出や契約で明確に管理しているからこそ成立する話です。個人のコスプレはその“公式性”を持たない以上、それを同列に語ることは、境界の錯覚を生みかねないと感じました。
さらに、「子どもが信じてくれたこと」を誇らしく語る裏には、“なりすまし”や“誤認”を善意で許してしまっている空気も感じられました。
コスプレという表現の力は確かに大きいものですが、「信じてもらえたこと=表現が正しかった」という自己肯定は、慎重であるべきだと思います。
表現には責任がともないます。そして、相手が信じたからといって「それは良かった」と正当化してしまうのは、思いやりの不在につながってしまうことがあるのです。
「コスプレを見たくない」という感情にも、居場所があってほしい
私は、自分の中に大切にしまっておきたい作品があります。静かに、そっと心の中で愛していたいキャラクターたちがいます。
そのキャラが、どこか知らない場所で、知らない誰かによって体現されているのを偶然見かけてしまったとき、とても繊細な感情がざわついてしまいます。
それがどんなに素敵なコスプレであっても。どんなに愛を込めてつくられていても。
私にとっては、それが“大好きなものを、自分の望まない形で見せられてしまうようなつらさ”になるのです。
これはわがままかもしれません。でも、そういう感情があることも、どこかで許されていてほしいと思うのです。
コスプレをする自由があっていいように、「そっとしておきたい」自由も、残しておいてほしい。
ルールは“最低限のライン”であって、“最大限の配慮”ではない
「万博がOKと言っているんだから、それで十分」 「ルールを守っているのだから問題ない」 そんなふうに言われてしまうと、反論するのはとても難しく感じてしまいます。
でも私はこう思っています。 ルールって、“最低限のライン”であって、“最大限の配慮”ではない。
ルールに違反していなければいい、という考えだけでは、違和感を覚えた人、不安を感じた人の声は、簡単に封じられてしまいます。
誰かが不安になったとき、「それはあなたが気にしすぎ」と押し返すのではなく、「どうしてそう感じたのかな?」と、少しでも立ち止まる気持ちを持ちたいと思うのです。
「人気者だから許される」ではなく、誰にでも開かれた場であってほしい
この問題をめぐっては、特定のコスプレイヤーが過剰に批判の的になってしまっている現状にも、私は疑問を感じています。
実際、その方は万博のルールに則って行動しており、違反行為をしたわけではありません。それでも矢面に立たされてしまった背景には、発信力の強さや、はっきりと自身の考えを表明する姿勢があったからこそだと思います。
議論が起きたのは、その方が“声を上げられる人”だったから。言葉にしてくれたからこそ、私たちもこうして考える機会を得られたのです。
だからこそ私は、「誰かひとりだけを悪者にするような構図」ではなく、もっと広い視点で、万博におけるコスプレのあり方全体について議論ができたらと願っています。
今回の議論の中心は「万博という展示中心の公共空間で、なぜコスプレが認められるべきか・あるいは制限が必要か」という点にあります。
ですが、SNS上ではこれに付随するように、別の方向へと論点が逸れてしまう場面も見かけました。
たとえば、
「フォロワーが多い人ならOK」
「美しい人なら違和感ない」
「人気のあるコスプレイヤーに嫉妬して叩いているだけ」
といった意見です。
しかし、こうした声が広がることで、本来語られるべきだった「なぜ公共空間でのコスプレに不安を覚える人がいるのか」という素朴な問いかけが埋もれてしまっているのを、とても残念に思います。
私は、フォロワー数や見た目の美しさによって発言の重さが変わってしまう空気が怖い。影響力がある人の行動だけが「模範」とされてしまう風潮の中で、慎重に声を上げていた人たちの想いが淘汰されてしまうのが、ただただつらいのです。
万博におけるコスプレの是非をめぐる話題が、「誰なら許されるか」という人気投票や感情論のようになってしまってはいけない。そう強く感じています。
コスプレが悪いのではなく、説明と配慮がほしいだけ
コスプレは、日本が世界に誇るポップカルチャーのひとつ。そして今回、それが公式に「OK」とされたことについても、私は否定したいわけではありません。
ただ――純粋に万博そのものを楽しみたいと思っている来場者にとっては、突然あらわれるコスプレという非日常が“ノイズ”になってしまう可能性もあるのではと感じています。
だからこそ私は、公式側に明確なメッセージを出してほしいと思っています。
「なぜコスプレを解禁したのか」 「どのような意図でそれを許可しているのか」
その理由をしっかり共有してもらえれば、来場者同士の理解も深まるのではないでしょうか。
また、「この日程だけコスプレ可能」「この時間帯・エリアのみOK」といった形で、“配慮と自由のバランス”が設けられたら、もっとたくさんの人が安心して楽しめる万博になると思うのです。
共存と歩み寄りの文化を目指して
私は、コスプレを楽しむ人や、交流を楽しむ人を否定したいわけではありません。むしろ、その喜びや表現の自由を心から尊重しています。
ただ――意見が違うからといって、対立するのではなく、お互いに少しずつ配慮しあって楽しめる万博であってほしいのです。
人それぞれ考え方が違うからこそ、すべての人の意見を汲み取るのは難しいかもしれません。それでも、歩み寄って中間地点や解決策を考えることは、きっとできるはずです。
それをどちらかが放棄してしまったり、「もう決まったことだから」と、ルールを疑うことなく押し通してしまったとき、この世から“戦い”はなくなりません。
私は、万博がそんなふうに誰かを黙らせる場所ではなく、異なる考えを持つ人同士が、それでも一緒に未来を描ける場所であってほしいと願っています。
追記:2025年4月25日
このnoteを公開してから、たくさんの反応をいただきました。
読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
1日経った今、改めて感じたことがあり、ここに追記というかたちで少しだけ言葉を足させてください。
今回の件は、「誰が正しい/間違っている」という話ではなく、
立場や視点、そして大切にしているものが人それぞれ違っていたからこそ、
すれ違いや戸惑いが生まれてしまったのだと、改めて思っています。
「文句があるなら主催に言えばいい」「嫌なら見るな」「我慢すればいい」
という言葉も多く目にしました。
でも、実際には、ルールの話だけではなくて、
そこにいた一人ひとりの感じ方や想いに、ズレがあったからこそ起きた出来事だったのではないでしょうか。
ルールは、誰かを黙らせるためのものではなく、
みんなが気持ちよく過ごすための“最低限のライン”のはずです。
「ルールに従っていればそれでいい」と思うこともあるかもしれません。
けれど、その“正しさ”が誰かの違和感や心の声を押し流してしまうとしたら、
少しだけ立ち止まって考えてみてもいいのでは……?と、私は感じています。
だからこそ最初のnoteでは、
誰かを責めたり批判したりするのではなく、
自分自身の中にあった小さなモヤモヤをそっとすくい上げて、
「どうしてこんな気持ちになったんだろう?」と見つめ直すように書きました。
そして、「もしこうなったらもっと心地よくなるかもしれない」
そんな気持ちを込めた、ひとつの提案でもありました。
もちろん、読んでくださったすべての方にその気持ちを汲んでもらおうとは思っていません。
人それぞれの感じ方があるからこそ、このnoteもまた「一つの声」として、
そっと受け止めていただけたら嬉しいです。
また、noteのコメントやSNSでのやりとりを通じて、
「モヤモヤが整理できた」「自分の気持ちに名前をつけられた気がする」
そう言ってくださった方々の存在に、私自身とても救われました。
本当にありがとうございます。
なお、誤解のないように補足させていただくと、
私はそもそも、万博でコスプレをされた方の行動そのものを否定するつもりはありません。
ルールの範囲内で、堂々と「好き」を表現されたその姿は、とても強くて素敵なものだったと思います。
ただ一方で、私は今回の出来事をきっかけに、小さな不安も感じてしまいました。
このnoteは、そうした不安や違和感と向き合う中で、
「私自身はどう思ったのか」「どうあってほしいと願っているのか」
を、静かに言葉にした記録です。
誰かを否定するためではなく、
誰かと争うためでもなく、
ただ「こういう感情もあるんだな」と受け取っていただけたら、それだけで十分です。
そして、否定的な意見を持っていた方々の中には、
時に強い言葉や表現で想いを伝えようとされていた場面も見受けられました。
ただ、そのように相手の人格や嗜好を傷つけたり、貶めるような言い方は、
たとえどんな立場であっても決して許されるべきではありません。
それは議論ではなく“攻撃”であり、
対話や理解から私たちを遠ざけてしまいます。
私自身も、今後はもっと丁寧に、優しい言葉を選びながら、
思いを伝えていきたいと感じました。
なお、今回のnoteは、万博やそのルールを否定したいものではありません。
あの出来事があったからこそ、
「公共空間における表現のあり方」や「異なる価値観とどう共存するか」について、
自分なりに考える機会を得ることができました。
そして、否定派と呼ばれる立場の中にも、
さまざまな声や背景があるということも、最後に改めてお伝えしたいです。
私のnoteは、あくまで私自身の経験や感じたことから書かれたものであり、
誰かの代表として語ったものではありません。
すべての声に耳を傾けることは難しくても、
その声のひとつひとつの存在を、丁寧に受け止めていける社会であってほしい。
そんな願いを込めて、ここに追記を終えたいと思います。
読んでくださり、本当にありがとうございました。
SAKU
コメント
19すべての声に耳を傾けることは難しくても、
その声のひとつひとつの存在を、丁寧に受け止めていける社会であってほしい。
自分のお気持ちを、理論武装して、ここまで肥大化して書ける面の厚さにびっくりしました
>>「万博がOKと言っているんだから、それで十分」 「ルールを守っているのだから問題ない」 そんなふうに言われてしまうと、反論するのはとても難しく感じてしまいます。
そりゃあそうでしょう。何せ正論ですから。
それを無理やり反論しようとした結果お気持ち以上の何ものでもないローカルルール(というより何の権利もなく勝手な押し付けられる暗黙の了解と不文律)でやってたかってああだこうだ言ってるのは、はっきり言って常軌を逸しているとしか。
マイルールは自分が守ってればいいだけなのに、なぜ人に守らせたがるのだろう。
自由というものは、本質的にひと迷惑なものです。誰かがコスプレで出歩く自由と、コスプレを見たくない自由は正面から対立します。
それを整理するため、日本では「させない自由(=制限)」より「する自由」が優先だよ、と憲法で明記しています。
あなたがコスプレを見たくない気持ちも自由ですが、満額通ることはありません。でも、ここで表現されたことでいったん区切りが付きました。
そのように考えられてはいかがですか?