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イチローがようやく乗り越えた悲しい性

スポーツライター 丹羽政善

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変えないために、変えていかなければならないことがある。

こうあるべきだ。この考え方だけは譲れない。

ところが、環境や置かれた状況の変化に伴い、ある価値観を守るためには、同等に大切だった別の信念を捨ててでも、ときに柔軟になる必要がある。やがて考え方の軸となるのは、そうしてそぎ落とされてきたもの。

では、日本のプロ野球から大リーグへ。大リーグでは、不動の「1番・ライト」から4番目の外野手へと、様々な環境が変化するなかで、今年6月に日米通算ながらピート・ローズが持つ大リーグの最多安打記録を更新し、8月には大リーグ通算3000安打を放ったイチローは、なにをよりどころとして来たのか。

3000安打を打った日の試合後、「あるときから(軸としたのは)感情を殺すことですね」と明かし、続けた。

「このことは、ずっと続けて来たつもりです」

アスリートが最高の力を発揮するためには、感情をコントロールすることが必要などといわれる。ところがイチローの場合、それとは微妙にニュアンスが異なる。

「ヒットをがむしゃらに打とうとすることが、いけないことなんじゃないかっていう。僕は混乱した時期があった」

チームメートが襲撃?トラウマに

自分のすべきことに集中し、ヒットを打ち、やがてそれが一つの記録として結実。ところが、それを喜ぶと"イチローは自分のことしか考えていない""イチローはチームの勝ちより自分の記録の方が大切"などと陰でささやかれた。自分自身のパフォーマンスのためというより、イチローはチームメートの目に自分がどう映るかを気にし、身を守る術として、感情を殺すようになった。

では、"あるとき"とはいつなのか。

浮かんだのが、2008年のシーズン終盤、地元紙「シアトル・タイムズ」の、イチローに対するチームメートのゆがんだ感情を暴露した記事のこと。ある選手の証言を元に、イチローを自分勝手なやつととらえ、嫌っているチームメートが多いこと、シーズンが始まって間もないころ、その一部が、イチローを襲うと息巻いていたことなどが、明かされた。

襲撃うんぬんの信ぴょう性は分からないが、嫉妬に端を発し、イチローを否定するようなとらえ方があったのは事実。過去、本人も認めている。

以前も紹介したが、10年9月にイチローが日米通算3500安打に到達したとき、本拠地での試合にもかかわらず、電光掲示板に記録が紹介されることはなかった。依頼したのはイチロー本人。試合後にこう理由を明かしている。

「2年前のことを勉強してますから、僕も。いろいろあったじゃないですか。そういうリスクを僕としては、今回、また負うわけにはいかない。そうやって勉強するのが人間ですから、しょうがないよね。本当はそうしたくないけど」

このときのことはまったく杞憂(きゆう)に終わるのだが、08年に受けた理不尽は長くトラウマとなり、イチローは感情を表に出すことを躊躇(ちゅうちょ)するようになった。

話を暴露記事に戻すと、こんなことさえあったという。

イチローはシーズン半ば、太ももに張りを覚えた。結果的に盗塁の数が減り、守備範囲が狭くなった。そのことで一部のチームメートは"イチローは、記録が大切だから出ている"と疑いの目を向けた――。

彼らなら、さもありなん、といったところか。さすがにその頃、ジョン・マクラーレン監督(現フィリーズコーチ)が、チームメートを扇動していた当該選手を呼び出して話し合ったそうだが、子供のような選手が実に多かった。

あの頃、チームにエリック・ビダードという投手がいた。ポテンシャルは高いが、故障がち。あそこが痛い、ここが痛い――。やがてチームメートは彼に対する信頼を失っていった。どの選手も多少なりともけがを抱えながら、プレーしているんだ、というわけだ。これはむしろ、まっとう。大リーグでは共通した価値観といっていい。ところがイチローが多少のケガにもかかわらず出場すると"あいつは、自分の成績しか気にしていない"となる。イチローが混乱するのも無理はない。

08年の6月、マクラーレン監督が解雇され、チームを去った。それで一気にたがが外れたのかもしれないが、彼は数年後、「ホセ・ギーエンがいなくなったのは、大きかった」と振り返っている。

ギーエンは、ホセ・ロペス(現DeNA)がバットをキャンバスバッグにしまっていると、それを上下逆さまにひっくり返し、ぶちまけてしまうような、面倒な選手だった。一方で、ロペスがエラーをして負けた日の試合後、彼がロッカーでうつむいていると、ギーエンが近寄り、「顔を上げろ。下を向くな」と励ますような選手でもあった。

3000安打への祝福に「特別」を感じた

そのギーエンは、07年のシーズンオフにロイヤルズへ移籍。よって08年のことは知らないわけだが、あるとき、マクラーレン元監督の言葉を伝えると、「厄介には関わりたくない。勘弁してくれ」とはぐらかしたが、やがて、こう口にした。

「こそこそとその選手がいないところで悪口をいうやつが、許せない。そんなやつがいたら、『本人にはっきりいえ』と、いうね」

07年にもギスギスした空気があったよう。しかし、彼のにらみがきいていた。彼が去って、抑止力がなくなった。マクラーレン元監督が、「ギーエンがいたら」と損失を嘆いたのも、分かるような気がした。

さて、そうした経緯があって、イチローは、長く喜ぶことをはばかったわけだが、3000安打を打った後、当然のようにチームメートから祝福されたときに心をよぎったのは、こんな思いだったという。

「いい結果を出そうとすることを、みんなも当たり前のように受け入れてくれていることが、こんなことが特別に感じることはおかしいと思うんですけど、僕はそう思いました」

そしてあの日、こんな心境にたどり着いた。

「この先、子どものときのようにとは……そこまではいくことはプロである以上できない。それは不可能なことですけども、もう少し、感情を無にしてきたところを、なるべくうれしかったら、それなりの感情を、悔しかったら悔しい感情を少しだけみせられるようになったらいいな、と思います」

イチローを縛って来た悲しい性(さが)、価値観が今、変わりつつある。随分、長い時間がかかった。

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