第1回運転士は焦った「まけてくれへんか」 電車脱線で遺族が抱いた疑問
4月のよく晴れた月曜の朝。兵庫県宝塚市に住む浅野陽子(当時62)は、親戚のお見舞いに出掛けた。自宅をでる時、結婚38年で仲の良い夫に「日帰りだから軽装で行ってくるわ」とほほえみかけた。そして、JR西日本宝塚線(福知山線)の快速電車に乗った。
この電車のハンドルを握っていたのは、23歳の運転士。
朝から、ミスを重ねていた。兵庫県宝塚市の始発駅に入る際に電車を非常停止させ、三つ目の停車駅、伊丹駅ではホームで72メートル行きすぎ、定刻より運行を遅れさせた。
10カ月前も京都府内の駅で停車位置を行きすぎて「懲罰的」とされる同社の日勤教育を受け、給料を減らされていた。「今度ミスをしたら運転士を辞めさせられる」と知人女性に漏らしていた。
「まけてくれへんか」虚偽報告を車掌に依頼
「まけてくれへんか」。伊丹駅を出た直後、運転士は、最後尾の7両目にいる車掌に車内電話をかけた。行きすぎた距離を総合指令所に短く報告してほしい――。車掌はそう受け取ったが、応じるかどうか明確に答えず、窓をたたく乗客に対応するため受話器を置いた。
直後、運転士はブレーキをかけ遅れ、制限速度を46キロ上回る116キロでカーブに入り、陽子ら約700人の乗客を乗せた列車が脱線した。
1両目は線路脇のマンション1階の駐車場に突っ込み、2両目は左側面がマンションの角にぶつかって「く」の字に折れ曲がった。3両目は反時計回りに140度回転した。
発生時、陽子は2両目後方の窓際に、同行していた次女や義妹と立っていた。脱線によって、車内は「『クシャクシャ』とねじりつぶされるアルミ缶の中のよう」(2両目にいた男性の証言)になった。最後の生存者が救出されたのは22時間後。乗客のうち106人が死亡し、562人が負傷。運転士も遺体で見つかった。
陽子より一つ年上の夫、弥三一(やさかず)は、宝塚市の自宅から会社に向かう車のラジオで事故のニュースを聞いた。発生時刻から「もしや」と思い、妻の携帯電話に何度もかけたがつながらず、負傷者が搬送された病院をいくら当たっても見つからない。
事故の2日後、遺体安置所の体育館。ようやく会えた妻の遺体の顔は腫れ上がり、大きなあざができていた。
事故前日に「夫婦の時間増やそう」
陽子は、人前に出たがるタイプではないのに、いつの間にかみんなの輪の中心にいる陽気な人柄。弥三一が33歳で開いた、従業員2人の都市計画コンサルタント会社で経理を担当し、「24時間一緒にいて、嫌にならないの」と子どもたちからあきれられるほど、仲が良かった。事故の前日には、弥三一が10年間取り組んだ神戸の震災復興の仕事が一段落し、「夫婦の時間を増やそう」と話していた。
悲しいはずなのに、何の感情もわいてこない。そんな日々が続いた。
次第に、疑問が膨らんだ。「なぜ、女房が死ななければならなかったのか……」
=敬称略
JR史上、最悪の惨事となったJR宝塚線脱線事故から25日で20年になる。妻を奪った事故の原因を追究し続けた男性は「命の代償として、教訓を社会に根付かせてほしい」と願う。遺族やJR西関係者への取材、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会の報告書などに基づき、事故はなぜ起きたのか、教訓は生かされているのかを追った。
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