決してケチだったわけではない

第二次臨時行政調査会の会議では洋食弁当や大きな折詰めが出されたが、土光は量が多すぎて全部食べられないと思った時には、パンと牛乳を用意して、弁当は事務局の若い人に譲ってしまった。これを見た他の出席者は、土光の目を気にして無理してでも残さず食べたという。

しかし土光は決してケチだったわけではない。常識にとらわれずに無駄なことを嫌っただけだ。

興味深いことに、彼の質素な生活ぶりは、母親から強い影響を受けていた。母親は「国の基盤となる人を育てたい」と願い、70歳を超えてから周囲の反対を押し切って「橘学苑」という女学校を設立した人物だ。

土光は母親の死後、理事長に就任してその遺志を継ぎ、会社勤めで得た給料のうち、わずかな生活費を差し引いて残りをすべて学校運営に充てた。お金を貯めるのではなく、社会に還元していたのだ。

橘学苑は現在も神奈川県横浜市鶴見区に校舎を構え、創立者の教育理念「実践躬行」(知識だけでなく実行することの大切さ)を掲げて教育活動を続けている。土光は理事長として学校経営に携わるだけでなく、自らも講師として生徒たちに人生哲学を説いたという。彼の死後も、その精神は学校の校風として脈々と受け継がれている。

橘学苑中学校・高等学校
橘学苑中学校・高等学校、2007年3月24日(写真=Hykw-a4/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

余ったお金は教育に

「生活はごく普通で、無駄な贅沢はしていないが、よく『土光さんみたいに、日本人がみなつつましい生活をしたら、日本経済は不況になり、失業者が増える』と言われる。カネをためてタンスの引き出しにしまい込んでいるのならともかく、使うべきところには使っている。余ったお金は、母親から継いだ橘学苑のほうに回している」(同前)

「無私」の心で、人を育て、良い世の中をつくりたいという理想を掲げ突っ走る。これは何も著名な経営者になってからのスタイルではなく、土光の場合、一貫している。

土光は石川島造船に入社後、純国産船舶用タービンの開発に没頭した。それこそ、睡眠時間を削りに削り、眠る以外の全ての時間を開発に捧げていた。そうした中でも唯一、土光が時間を割き続けたことがある。教育だ。

仕事が終わると、やる気のある少年工を集めて、機械工学や電気工学を教える「夜間学校」を手弁当で開校したのだ。少年たちがお腹が空けば自腹でごちそうした。

少年たちに対する気配りや愛情もあっただろうが、ひとりひとりの技術力が上がらなければ造船所全体、国全体の技術力も上がらないという土光なりの考えがあった。