marsytのブログ

死ぬ前に終わらせたいです

幼稚園に乗り合いバスで通っていた日々(2)~「幼稚園児、任務失敗につき猛反省」

幼稚園の話の続き

ところで、わりとませてたのかなあ。女の子のことをいつも意識してました。記憶にあるのは、髪の毛が茶髪というよりも赤毛の子がいてその子のことがすごく気になってました。幼稚園のなにかの集会で体育館みたいなところにみんなが集まった時に、列の後ろの方でその子と話して?(会話になっていたかは謎)たりしてた記憶がある。あとは、何となく仲良くなったりする子が何人かいました。

そんなふうだったけど、どこかに優しい気持ちはあったのかも知れない。いや、どちらかといえば下心があったような気がする。だって、子供のころから少しえっちなところがあって、女の子には関心があったもん。

そんな風だから女の子が関われば、断ればいいものを断れず、悲劇を生むことになるのです。

ある日、幼稚園の帰りに先生からバスターミナルで年少の女の子をちゃんと目的のバス停で降りるまで、面倒を見てほしいと頼まれたことがありました。僕と同じ方面のバスに乗って帰るから、下りるバス停を間違えないようにみてあげてねとのことです。

ところが、僕はその子と一緒に急行バスに乗せられてしまったのです。彼女が降りるバス停は急行は止まるけど、僕の降りなきゃならないバス停は普通バスしか止まらない。そんな事情を先生が知ることもなく。僕が「急行はダメ!」っていう間もなく、バスは出発してしまいました。

乗ったらもう、運命の歯車はもう止まらない。

僕には、その子をちゃんと決められたバス停で降りるまで見届けなければならない。だから、バスが走っている最中はその子の傍でずっと見守ってました。その子のことを小さくてかわいいなあなんて思いながらも、何もしゃべらずにいました。やがて、目的のバス停に着いてその子をちゃんと見送りました。

それからが大変。バスはどんどん僕が降りるべきバス停に近づいていくけど、どうしたらいいのか考えが浮かばない。僕はおバカちゃんだから、どうすればいい?なんて全く思いつきません。

とうとう、自分が降りなくちゃならないバス停を通り過ぎてしまいました。

ここは、もう小さい子供がとれる最後の手段、バス停で降りられなかったことを理由に大泣きし始めました。そうしたら、しめたもの、車掌さん(この時代ではまだワンマンカ―なんてなかった)が僕の定期を見くれて、降りられなかったことに気づいてくれて通り過ぎた次のバス停で止まってくれました。

それで、車掌さんは僕が無事帰れるように、反対方向へ行く道路の反対のバス停で、一緒に次のバスを待ってくれたのです。ようやく、バスが来ました。その車掌さんが、ちょうど来たバスの車掌さんに説明してくれて、僕が降りるべきバス停で降ろしてもらえることになりました。

良かった。

でも、その間それまで乗っていたバスをどれくらい止めてしまったのか、さっぱりわかりません。間違いなく、他のお客さんにはいい迷惑だったと思う。ごめんなさい。

世の中はまだ寛容性があったのだと思います。

 

幼稚園に乗り合いバスで通っていた日々(1)

幼稚園は小学校入学の2年前からちゃんと通ってました。

今では、ほぼいないと思うけど、乗り合いバスで自分の定期を持って一人で通ってました。同じ地域から別のバス停から乗ってくる子は3人くらいはいました。僕がバスに乗る停留所からは僕ひとりだけでした。

今は幼稚園の送迎バスが当たり前だけど、当時は乗り合いバスで幼稚園に通う子供はそれなりにいました。

バスでは8km離れた市の中心街、駅近くのバスターミナルまで。20分くらいだった?

僕が乗っていたバス会社の路線は、バス停すべて止まる普通バス、それと、いくつかのバス停を通過する急行、特急なんてのがあって、僕が乗るバス停は普通バスしか止まりませんでした。だから、いつも普通バスにしか乗りませんでした。でもそのことで、あとでちょっとした事件が起こりました。

バスターミナルでバスを下りたら線路沿いを歩いて、線路のアンダーパスを通り抜けた先に幼稚園はありました。今は、駅は高架になっているから幼稚園までは割と近くに感じると思う。

カトリック系の幼稚園で、当時の先生はみんな修道服でした。

毎日、どんなふうに過ごしていたかなんて覚えてないけど、弁当をもって行ってました。

あとは、運動会やクリスマス会があったと思います。たまに、教会みたいなところでお祈りの時間がありました。

教会は暗くて寒かった。だいたい、前を見ると、正面になんか十字の棒に張り付けられたほぼ全裸の人が磔られていました。そんなの見せられてお祈りをしていました。

僕は他の子供達と比べて、性格や行動面はかなり違っていたから先生方は手を焼いていいたと思います。

学校も含めて幼稚園のような集団生活するような場所には向いてなかったと思います。とにかく、わがままでじっとすることができない、落ち着きのない子供でした。

それに僕は、当時吃音があってちゃんと喋れないもんだから周りの子たちから「ぎーぎー」って呼ばれてからかわれてました。

幼稚園では、気に入らないことがあるとかんしゃくを起こして、おもちゃを窓の外へ放り投げたりすることもありました。そんな時は、先生から思いっきり怒鳴りつけられて「なんてことするの!」と外に拾いに行かされました。

まあ、まともな子供じゃなかったのは確かだと思う。

それとあんまり楽しかった思い出も記憶にありません。

今、思えば、よくもまあ、2年間も幼稚園にバスに乗って通っていられたのか不思議でなりません。

でも、ある日一緒の地域に住むだいたい僕の次のバス停から乗る子らと示し合わせて、「明日、遠足があるということにして、おやつを持って、行きのバスの中で一緒に食べよう。」なんて話になりました。

次の日の朝、突然、朝になって母に「遠足があるから、おやつを持っていくんだ。」なんて話をしたら、大変。急いで、バスの時間の前にお菓子を買いに行って、しっかりおやつを手にしてバスに乗っていきました。

行きのバスの中で、友達と一緒におやつを食べて幼稚園に行きました。心苦しいけど、ちょっと楽しかった。

ごめんなさい。お母さん。

(続く)

最近の出来事から思うこと:組織の論理と正義の行方 —— 私が見つめた現代の構造

ある極限の想像をしてみた。仮に、死刑囚が男女合わせて1万人存在し、近く死刑が執行されることが決まっていたとする。だが突然の出来事により、地球上に善良な市民がたった一人しかいなくなった状態となってしまったとしたら――この状況では、たとえ死刑囚であっても死刑の執行はできなくなる。

なぜなら、仮に死刑を実行してしまえば人類は滅亡してしまうからだ。ここに、私は“組織の論理”というものの原型を見る。

個人が多少犠牲になっても、それによって「組織が守られる」「全体が維持される」のであれば、それが正しいとされる――今の社会には、そんな前提が静かに、しかし深く根付いているように思う。

組織を守るという論理。それは、時に「真実」や「正義」よりも優先される。ひとたび組織のイメージや信頼が損なわれれば、内部に属する多数の人々の生活や地位、関係企業や社会全体に波及する恐れがある。そのため、組織防衛は最優先事項となり、逆に言えば、個人の苦しみや訴えは“些細なこと”として扱われてしまう。

しかし、果たしてそれでよいのだろうか?

個人の痛みを無視して成り立つ組織は、果たして健全なのだろうか?

私は、正義とは単に「大多数にとっての利益」ではなく、「少数であっても真実を尊重すること」だと思う。けれど今の社会では、組織と個人を天秤にかけ、組織のほうが重ければそれが正義であるかのような錯覚が常識化してしまっている。

それは静かな暴力であり、倫理の摩耗だ。

声を上げた者が排除され、沈黙する者が守られる構造が温存される限り、私たちは“正義”の顔をした組織の中で、自らの感覚を麻痺させながら生きることになる。

私は、そうはなりたくない。

だから、私はこの文章をここに記す。たとえそれが誰かに届かなくても、今この時代に、個人が正義を問い続けていたという記録が残れば、それでいいと思っている。

最近のメディアを賑わせている事件とは、そういうことなのだとおもう。

 

「新聞少年だった頃」第7話(最終話):「正月午前2時の新聞配達」「明けない夜はない…と信じて生きていく」「得意なことを伸ばして生きていこう」「人生は不公平。でも、生きていれば何かが変わるかもしれない」

正月の朝刊は午前2時頃から配達です。

 

みそかは、紅白を見て終わったら、ゆく年くる年を少し見て、早速、町の神社に初詣です。ついでに、お寺にも寄って真夜中に勝手に鐘をついて楽しんだこともありました。

そんなことも束の間。

正月最初のお仕事、午前2時、新聞配達の開始です。

正月の新聞は皆さんご存じのとおり、普段の数倍以上ある重量級の分厚さです。当然、襷にかけて配達なんかできません。

そこで活躍するのがスノーボート(プラスチック製のそり)です。たいてい2回に分けて配達です。一度に新聞を全部載せることができない(非常に重いし、運んでいる最中にひっくりかえって大変な目にあう)のです。

ひとまず、販売所から近いところを一通り回ったら、次の2回目に遠いところまで配達に行きます。

明かりの点いた家もあるけど、たいていは寝静まっています。誰の姿も見えない、新鮮な正月の空気を吸って、暗い夜道をスノーボートを引きながら配達です。広い道路を歩くことは少なかったから、背後からやってくる車の心配はなかった。でも、区域によっては1km以上国道の端(雪で歩道は無い)を歩くので、車の気配を感じたら端っこによってやり過ごします。大型車が通ると雪を舞い上げて行くので、風と共に粉雪を被るので、これには参った。

一人歩くのは心細いので、小型のラジオをスノーボートに積んでそれを聞きながら配達してました。深夜ラジオはお友達でした。

一軒一軒、丸太のような新聞をポストにねじ込んで回ります。

ポストに入らないときは、仕方なく玄関前に置いていきます。

最後の家の配達が終わると5時くらいだけど、外はまだ真っ暗闇です。

帰ったら、重装備の外套を脱いで寝ます。初日の出は見ません。

数時間寝たら、朝のお雑煮を食べて本格的に新年を迎えます。

元日は嬉しいことに、翌日の新聞は休み。なので、いつもより夜更かしして正月の特番を見て家族で過ごします。

そうやって、新聞少年の1年がまた始まるのです。

当時の新聞休みは年に2回くらいだから、1月3日からはしばらくは毎朝の配達は続きます。

だからって、サボらず、朝起きて各家庭に新聞を配るのです。

春先は、雪解けで幹線道路じゃないところは深い轍(高く積もった雪の上に雪道ができてしまうので、昼間のうちに同じところを通る車で雪が掘れてしまうのです)ができてしまいます。気温も上がってきているので雪の上に水たまりができていたりします。そんなときに、新聞配達中に通りがかった車がスタックしていて、脱出できないから車を押すのを手伝いました。勢いよくエンジンをふかして脱出を試みます。昔の車はFRが多いので、後ろタイヤが勢いよく回転するので、後ろから車を押す僕めがけて大量の水を噴き上げるのです。脱出できたからって、もう止まるわけにはいかない。そのまま車は去って行ってしまいます。残された僕は、大量の水を浴びてびしょ濡れ。感謝の言葉もない。

春先はほんとに、足元が不安定で転びやすいのでこれにはまいりました。

さて、僕はいつ勉強するのでしょう?だいたい、学校では部活で野球をやってたから、雨の日と冬場以外はちゃんと練習してました。ヘタクソだったけど。3年生の時はレギュラーにはなれました。

英語は、ビートルズが好きだった影響もあって、中3までに英検3級はとれた。

ギターも女の子にもてるために弾けるようになって、学校祭のときは仲間とグループで演奏したりもした。

本当は、ピアノをやりたかったんだけど、当然家にピアノはなかったし、もちろん習わせてもらえる訳ないから、弾けませんでした。学校のピアノを弾きたくてもドレミファソラシドもちゃんと弾けない。「弾けるようになりたいなあ。」って願望はあったけど無理でした。

そんなこんなで、英語で点数を稼げたので偏差値50より上の高校には入学出来ました。

ただ、ちょっとした努力はしました。英単語は覚えられるまで何度もノートに買い移したし、好きな英語の曲は歌詞を書き写したりもしてました。

何が言いたいのかというと、仕事をしていたって(まあ、長時間じゃないけど)勉強ができなくなる訳じゃないんです。

時間を大切に使いましょう。好きなことには熱中しましょう。

自分が得意とすることや一番好きなことをするのが、成功の近道です。点数が取れないからと言って、嫌いな勉強は無理にしなくてもいいんです。時間の無駄になります。

僕は、ひどい人間で、苦手な科目は、先生に怒られても全く勉強しなかった。美術、音楽なんかは”1”や”2”ばっかりだった。最悪だったのは、大学入試前の古典は評定が”1”だった。調査書をこっそり見たら古典のところだけ”1”になってて、但し書きに、「今後“2”乃至”3”への改善が見込まれる。」って書かれてました。

それでも、ちゃんと大学には入学できたんで、ラッキーでした。

今、あなたがやるべきことはなんでしょう?

やりたくないことを、頑張ることよりも得意なことを伸ばしてください。

あなたが将来すべきことは、苦手なことを苦しんでやることではなくて、得意なことをすべきなのです。苦手なことを克服するために、得意なことができなくなっちゃたら不幸です。

好きなことをやりましょう。それで一番になれたら、それでいい。

あと、人には成長曲線があるのだと思います。今は、それができなくてもそのうちにできるようになる。人より、覚えが悪くても時間とともにできるようになる。そういうこともあります。だから、諦めないでください。

今は、うまくいかなくても続けることができればチャンスが回ってくるかもしれません。必ずではないけど、何かきっかけがあるかもしれません。

一生、チャンスは来ないかもしれません。それも人生です。

毎日が苦しくて苦しくて暮らす人がいます。それでも、明日は何か起こるかもしれません。いいことがやってくるなんて、、、でもそんなの約束なんかされてません。

何のために生きているのかわからなくなってしまうこともあります。

毎日が辛くて、いつまでも抜け出せなくてもがいています。

私もその一人です。

苦しいことを楽しめる訳なんかありません。それでも生きている。

生きていれば、世の中が変わることも、もしかすると変えることもできるかもしれません。

真面目に生きている人が正しく評価されるなんてことも、そうじゃないことが多いのです。

でも、投げ出さないで。今、起きていることに向き合って生きていきましょう。

それが、私が小5から新聞配達をした経験で言えることです。

新聞少年の話題はこれで終わりにします。

ありがとうございました。