天日鷲命調べが拡がり過ぎました。
「調べメモ」はブログ投稿文のバックデータ(手元残し)です。毎回、相当数の、バックデータが出ますので、今回は、未整理の儘ですが、「県犬養氏の調べメモ」をご参考に供します。
目次 1 県犬養氏の調べメモ
(1)「86系譜」の改訂
<1> 第一資料:新撰姓氏録
<2> 第二資料:日本書紀・続日本紀・新撰姓氏録・姓氏家系大辞典
<3> 橘氏考・橘氏系図1・2・3とその他の資料
(2) 修正「県犬養氏系図」
<1> 修正「県犬養氏系図」
<2> 「県犬養氏系図」の注記
<3> 県犬養氏・橘氏と天皇家との婚姻
(3) 県犬養氏の祭祀社を探す
<1> 県社
<2> 犬飼神社+
1 県犬養氏の調べメモ
(1) 「86系譜」の改訂
これまで「86系譜」を使用してきましたが、多くの問題点を含むことが判りましたので、諸資料を参照して新たに「県犬養氏系図」を作製しました。
注 86系譜:「神別系譜」(国立博物館デジタルライブラリー)86コマ
幾つかの情報を総括(比較・対照・系譜化)すると、「86系譜」は修正できますので、系譜の再構成ができると判断しました。次に修正「県犬養氏系図」を示します。
注 次の情報を基に組立て直しています。「続日本紀」は未だ完全にスキャンし終えていません。
「橘氏考・日本書紀・続日本紀・新撰姓氏録・公卿類別譜・世界帝王事典」
<1> 第一資料:「新撰姓氏録」
図表2 修正「県犬養氏系図」1新撰姓氏録
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◇県犬養:神魂命八世孫阿居太都命の後裔という。
380左京神別天神 県犬養宿祢 神魂命八世孫阿居太都命之後也
381左京神別天神 大椋置始連 県犬甘同祖
589摂津国神別天神 犬養 神魂命十九世孫・田根連之後也
397左京神別天神 伊勢朝臣 天底立命孫天日別命之後也
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<2> 第二資料:「日本書紀・続日本紀・新撰姓氏録・姓氏家系大辞典」
先ず、日本書紀・安閑天皇2年に登場する三人の屯倉税司の任命記事があり、その一人に県犬養連が登場します。、
○県犬養田根:安閑天皇2年9月3日、桜井田部連、県犬養連、難波吉士らに詔し、屯倉税を司らせた。
<3> 「橘氏考・橘氏系図1・2・3」とその他の資料
次に、ネット上の「橘氏考・橘氏系図1・2・3」が優れていますのでこれを主情報源とし、「AI01 県犬養田根 - 系図コネクション」及び「公卿類別譜・世界帝王事典」の情報も採り入れ、系譜骨格を創ります。「ウイキペディア」も援用します。
これに、「続日本紀」を中心とする「六国史」情報を組み入れました。
(2) 修正「県犬養氏系図」
<1> 修正「県犬養氏系図」
県犬養氏の大和朝廷での最終の地位役職を赤字で記入したのが、図表2です。
注意点1「県犬養」の頭書き部は省略していること
2 赤字は身分・地位役職を示す。
3 天皇朝を参照にする時代感覚として、県犬養三千代(661~733)、県犬養広刀自(710?~762)、
県犬養田根を始祖とし、県犬養東人が県犬養宿禰の祖、三千代は4代目です。
特記すべき人々としては、
・3大伴:壬申の乱(672)の初期、決起した大海人皇子の東行20人余の舎人従者の一人で、
乗馬を差し出し、大いに前途を明るくした有功の故、病を得た時には、天武天皇が
見舞いに訪れたと「日本書紀」は伝え、天武天皇の殯宮(686)では誄を奏上する
一人に選ばれています。
贈・正広参(諸臣48階の第6位)は後の「従三位」相当と見ます。
・4石次:742・天平14年10月3日 参議右京大夫・従四位下、卒去
・4唐 :
・5広刀自:
<2> 「県犬養氏系図」の注記
この図表に登場する人物の注記は次の通りです。
注記の出所資料を記入すべきだとの持論に従っている積もりです。
人名の前の数字は[世代ー人名番号]を示し、左から右へ番号付けしてあります。
・新撰姓氏録:県犬養宿祢・380左京神別天神 県犬養宿祢 神魂命八世孫阿居太都命之後也
381左京神別天神 大椋置始連 県犬甘同祖
589摂津国神別天神 犬養 同神十九世孫田根連之後也
・「姓氏家系大辞典」アノ条:伊勢の安濃県造・安濃宿祢
「多気窓」古記を引用
「安濃府生兼光は伊勢の人にして、安居太都命の廿九世安濃宿祢の裔なり」
・置染神社(津市大字産品、安濃郡・延喜式内社)、爪工氏もまた同族で、いずれも神魂系統の氏なり、
・爪工連:安濃県造の後裔か
・新撰姓氏録:爪工連・391左京神別天神 爪工連 神魂命子多久都玉命三世孫天仁木命之後也
・707和泉国神別天神 爪工連 神魂命男多久豆玉命之後也
・紀伊国造系図:同国造の祖・天道根命の弟・天枝命の子・仁木命(爪工連の祖)、
その子に胆津根命(大田祝山直の祖)。
・新撰姓氏録:549大和国神別天神 大田祝山直 天杖命子・天爾支命之後也
・天日別命(天底立命孫・天日別命の後裔):伊勢朝臣
・新撰姓氏録:397左京神別天神 伊勢朝臣 天底立命孫天日別命之後也
注記:六世孫吉足日命。磯城瑞籬宮御宇[謚崇神。]天皇御世。天下有災。因遣吉足日命。 令斎祭大物主神。災異即止。天皇詔曰。消天下災。百姓得福。
自今以後可為宮能売神。仍賜姓宮能売公。然後庚午年籍注神宮部造也
図表 注記:県犬養宿祢の系譜作成のための下調べ
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1 県犬養田根
2子:2-1 黒比古
2-2 多比(真人)
3孫: 3-1 東人(県犬養)
3-2 大伴(県犬養連)
・壬申の乱(672・天武天皇元年)での県犬養連大伴の活躍:
6月24日の出発の時、大海人皇子は馬がなく徒歩で出発した。たまたま途中で県犬養連大伴
の馬に遭遇し、大海人皇子はそれに乗った。皇后は輿に乗って従われた。
津振川(吉野町津風呂)に至って、始めて乗馬が届き、これに乗られた。
・この時、始めから従った人々は、天武天皇の二皇子(草壁皇子、忍壁皇子)、及び、舍人 (朴井連雄君、県犬養連大伴、佐伯連大目、大伴連友国、稚桜部臣五百瀬、書首根摩
呂、書直智徳、山背直小林、山背部小田、安斗連智徳、調首淡海)ら20人余、女孺10
人余だった。
・伊勢国司・尾張国司以下は参軍した。
・680・天武天皇9年7月5日、天皇は犬養連大伴の家に出向いて病を見舞った。
・684・天武天皇13年10月3日、伊勢王らを遣わして、諸国の境界を定めさせた。
・685・天武天皇14年9月18日、天皇は大安殿にお出ましになり、王卿らを前に召して博戯
この日、処王、難波王、竹田王、三国真人友足、県犬養宿禰大侶、大伴宿禰御行、
境部宿禰石積、多朝臣品治、采女朝臣竹羅、藤原朝臣大嶋の合わせて10人に、ご自身 の衣と袴を賜わった。
・天武天皇薨去の後、
27日、平旦寅の時多勢の僧尼が殯で発哀をして退出した。この日、初めて奠を奉って、
誄を述べた。
第一に大海宿禰蒭蒲が壬生のこと(天皇をお育てした幼時のこと)を誄し奉った。
次に浄大肆の伊勢王が諸王のことを誄した。
次に直大参の県犬養宿禰大伴が、宮内省関係のことを誄した。(直大参:従五位上相当)
次に浄広肆の河内王が左右の大舎人のことを誄した。
次に直大参の当麻真人国見が、左右の兵衛ことを誄した。
次に直大肆の采女朝臣竺羅が内命婦(五位以上を帯する婦人)のことを誄した。
次に直広肆の紀朝臣真人が膳職のことを誄した。
・701・大宝元年7月21日条、県犬養宿禰大伴に100戸を封じられた
3-3手糨(県犬養連) 県犬養連手糨タスキを大使とし、川原連加尼を小使として耽羅に遣わした。
・天武天皇12年 12月2日、県犬養氏ら50の連姓の諸氏に宿禰を賜姓。
大伴連、佐伯連、阿曇連、忌部連、尾張連、倉連、中臣酒人連、土師連、掃部連、
境部連、桜井田部連、伊福部連、巫部連、忍壁連、草壁連、三宅連、児部連、
手糨丹比連、靱丹比連、漆部連、大湯人連、若湯人連、弓削連、神服部連、
額田部連、津守連、県犬養連、稚犬養連、玉祖連、新田部連、倭文連、氷連、
凡海連、山部連、矢集連、狭井連、爪工連、阿刀連、茨田連、田目連、少子部連、
菟道連、小治田連、猪使連、海犬養連、間人連、舂米連、美濃矢集連、諸会臣、
布留連の五十氏に、姓を賜わって宿禰といった。
4-1石次イワスキ(県犬養)参議右京大夫・従四位下 742・天平14年10月14日死去
・720・養老4年正月甲子[11日]叙従五位下。10月戊子、為弾正少弼
・721・養老5年6月辛巳[6日]中衛士佐。従五位上
・732・天平4年9月乙巳[5日]右少弁
・734・天平5年12月庚申[27日]任少納言
・737・天平9年9月己亥[28日]叙正五位下 従四位下。
・739・天平11年4月19日 任参議〔続日本紀作21日〕、兼式部大輔
・742・天平14年10月3日 参議右京大夫・従四位下、卒去
4-2古麻呂
・764・天平宝字8年10月庚午、従五位上県犬養宿祢古麻呂正五位下
・764・天平宝字8年12月癸亥、正五位下県犬養宿祢古麻呂を中務大輔と為す。
4-3八重(葛井広成室)
葛井広成:氏姓は白猪史、後、葛井連。官位:正五位上・中務少輔。
元正朝・719・養老3年、遣新羅使(従六位下・大外記)。
・720・養老4年、一族と共に白猪史から葛井連に改姓する。
聖武朝・729・天平2年、大宰帥・大伴旅人の邸宅で擢駿馬使・大伴道足に対する饗応の
際、宴に参加した人々の要望を受けて詠んだ和歌あり。
・730・天平3年、外従五位下に叙せられている。
・735・天平8年、雅楽寮の官人らが広成の家で宴を行った際に詠んだ和歌あり。
・743・天平15年、新羅使として金序貞が日本到来に対して、遣使対応のため多治
比土作と共に筑前国に派遣さる。従五位下(内位)・備後守に叙任。
・748・天平20年2月、従五位上に昇叙、
8月、聖武天皇や群臣を迎えて自邸で宴会を開催する。
日没のため天皇は広成邸に宿泊することになり、妻の県犬養八重と
共に正五位上に叙せられた。
・749・天平勝宝元年、孝謙天皇即位後まもなく、中務少輔に任ぜられている。
4-4人上(内礼正)
・731・天平3年、勅命により病の大伴旅人を看護し、その死後に詠んだ哀悼歌
が「万葉集」巻3にあり。
万葉集:見れど飽かず座(いま)しし君が黄葉(もみちば)の移りいぬれば悲しくもあるか
4-5 筑紫(官位は従四位下・造宮卿、贈正広参・県犬養大伴の孫、県犬養祢麻呂の子)
・706/慶雲2年12月,従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵。
元明朝から元正朝
・711・和銅4年、従五位上、
・715・和銅8年、正五位下、
・716・霊亀2年、志貴皇子の薨去の際、六人部王と共に葬儀監護のために派遣さる。 ・719・養老3年、正五位上と昇進。
4-6 唐(県犬養):(生没年不詳)は、名は大唐とも記される。姓は宿禰。官位は従五位下・讃岐守。
聖武朝・726・神亀3年、従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。
・744・天平16年、安積親王薨去の記事に、安積親王の母は夫人正三位県犬養宿禰宿 禰広刀自で、唐の娘とあり。
・762・天平宝字6年、広刀自の薨伝は「夫人は讃岐守従五位下の唐の娘だ」と記す。
4-7子人 記事なし
5 姉女
淳仁朝 763・天平宝字7年、従六位下から従五位下に叙、
764・天平宝字8年9月、藤原仲麻呂の乱直後、一族の内麻呂らと共に大宿禰の姓を賜る。
・765・天平神護元年、従五位上に、
・769・神護景雲3年、「称徳呪詛事件」*により、犬部と改姓させられ島流しに処された。
*忍坂女王、石田女王、不破内親王らと共謀して塩焼王の子・氷上志計志麻呂を天皇
に擁立しようとし、称徳天皇を呪い殺そうとしたとの嫌疑を受ける。
・771・宝亀2年、前の嫌疑は丹比乙女の讒言だとして本姓に復す。
・772・宝亀3年、再び従五位下に叙せられた。
◆諸説あるが、父の造宮卿筑紫は県犬養祢麻呂の子とする系図によれば、系譜は「神魂命? … 阿居太都命? … 田根 - 多比 - 大伴 - 禰麻呂 - 筑紫 - 姉女」となる。
5-1内麿:氏姓は県犬養宿禰のち県犬養大宿禰、犬部、県犬養宿禰。
参議・県犬養石次の子。官位は従五位下・下野介。
・764・天平宝字8年、藤原仲麻呂の乱終結後、9月末に、内麻呂を含む一族15名が宿禰姓か
ら大宿禰姓に改姓(この時、官位は正七位下・内舎人)。
同年12月癸亥、県犬養大宿禰内麻呂、正七位上から五階昇進して従五位下に叙爵した。
・765・天平神護元年正月、仲麻呂の乱の論功褒賞で従五位上、
・767・天平神護3年、下野介に任ぜられる。
・769・神護景雲3年、称徳天皇を呪詛した疑いで県犬養姉女が県犬養大宿禰から犬部に改姓 させられた、流罪に処されると、内麻呂も連座して同じく改姓させられ官位剥奪。
・771・宝亀2年(光仁朝)、姉女の嫌疑が晴れ、内麻呂と姉女は犬部から県犬養宿禰に改姓。
・772・宝亀3年、正月に姉女は復位(従五位下)、
・774・宝亀5年、内麻呂は従五位下へ復位を果す。
5-2 安提 記事なし
5-3 吉男:従五位下・県犬養宿祢吉男 伊予介
・738・天平10年、聖武朝、右大臣・橘諸兄の旧宅に集い、息子の奈良麻呂が宴を催した。
・742年、橘諸兄旧宅で紅葉宴。久米女王、大伴家持、大伴池主、橘奈良麻呂、吉男・持男も
共に歌詠む。
・750・天平勝宝2年、孝謙朝、正六位上・但馬掾、
・752・天平勝宝4年、玄蕃助として、大仏開眼の日に引導奉仕
・758・天平宝字2年、淳仁朝、従五位下。その後、肥前守・上野介を経て、
・764・天平宝字8年、藤原仲麻呂の乱直後に、従五位下県犬養吉男を伊予介に任ず
5-4持男
5安麻呂 ○「続日本紀」聖武天皇
5五百依 ・724・神亀4年12月、正三位県犬養宿祢三千代言県犬養連五百依・安麻呂・小山守・
5大麻呂 大麻呂等是一祖子孫。骨肉孔親。請共浴天恩同給宿祢姓。詔許之。
6小山守
5大国 記事なし
5 広刀自 (県犬養宿禰):父は県犬養唐(讃岐守従五位下)。
・762・天平宝字6年、広刀自の薨伝あり、聖武天皇(皇太子首)夫人。正三位。
聖武天皇との間に安積親王(若死)・井上内親王・不破内親王の一男二女あり。
聖武天皇には他に妻として県犬養橘三千代の娘の安宿媛(光明皇后)がおり、
皇后との間には基親王(夭折)・阿倍内親王(孝謙天皇)が生まれた。
5弟足 記事なし
5浄人・755・天平勝宝7年、下総少目の時、,防人部領使として筑紫に赴く。その時、大伴家持に
献上した防人達の歌22首のうち11首が「万葉集」巻20に収められている。
6県犬養 須奈保:姓は宿禰。県犬養五百依の子とする系図あり。官位は従五位下、丹後守。
大蔵少丞を経て、
・745・天平17年正月、石川名人・大伴古麻呂・大伴家持と共に正六位上から従五位下へ
同年9月、丹後守
6鰹魚麻呂:主殿頭 ・延暦4年正月、従五位下の県犬養宿祢堅魚麻呂左衛士佐と為す。
7 清継
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県犬養勇耳:白壁王(光仁天皇)に女嬬として仕え、広根諸勝を生む。
・781・天応元年、従五位下。名は男耳(おみみ)とも。
・787・延暦6年、臣籍降下(桓武天皇の皇子・岡成と共に)、広根朝臣となる。正六位上
・810・大同5年9月、,薬子の変に伴う叙位任官、従五位下・山城介に叙任、
10月、摂津介に転
・814・弘仁5年、嵯峨天皇が摂津国の交野と水生野に行幸・狩猟の際、
山城・摂津・河内国の国司が叙位、諸勝は従五位上に昇叙。
<新撰姓氏録>
・46左京皇別 良岑朝臣 従四位下良峯朝臣安世 是皇統弥照天皇[謚桓武]御宇也。
従七位下百済宿祢之継。為女嬬而供奉所生也。
延暦廿一年十二月廿七日特賜姓良岑朝臣。貫於右京
・47左京皇別 長岡朝臣 正六位上長岡朝臣岡成 是皇統弥照天皇[謚桓武]之御東宮也。
多治比真人豊継。為女嬬而供奉所生也。
延暦六年特賜姓長岡朝臣。貫於右京 続日本紀合
・48左京皇別 広根朝臣 正六位上広根朝臣諸勝 是光仁天皇龍潜之時。
女嬬従五位下県犬養宿祢勇耳。侍御而所生也。桓武天皇延暦六年特賜広根朝臣
・県犬養貞守:平安時代初期から前期にかけての貴族。従五位下・駿河守。
・848・嘉祥元年12月、仁明朝末、渤海使が来朝した
・849・嘉祥2年2月、少内記・貞守は直講・山口西成と共に任・存問渤海客使として
能登国派遣。
3月、渤海国王啓と中台省牒を飛駅により奏上する、
前回の遣使(841・承和8年)から12年の間隔を置くとの規定に
反して来朝したことについて詰問す。
3月末、山口西成と共に領渤海客使として、
4月末、渤海使・王文矩らを率いて入京す。
・855・斉衡2年、文徳朝、従五位下・和泉守。 清和朝、散位頭、
・863・貞観5年、駿河守
・869・貞観11年、「続日本後紀」の編纂に参画、この年に完成。
・県犬養阿野子は平安時代前期の女官。姓は宿禰。
・869・貞観11年1月、従五位下。事績不明。正史にみえる県犬養氏最後の人物という。
・869・貞観11年、「続日本後紀」の編纂に参画、この年に完成。
・県犬養宿祢小成
仁寿元年11月甲午、多数の人が昇叙した中に、外従五位下の県連氏益や正六位上の県犬養宿祢
小成は従五位下に昇叙している。
・県犬養宿祢伯麻呂:延暦4年春正月乙己、従五位下の県犬養宿祢伯麻呂を玄蛮頭と為す。
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<3> 県犬養氏・橘氏と天皇家との婚姻
(3) 県犬養氏の祭祀社を探す
<1> 縣神社
縣神社は各地に鎮座し、する、とウイキペディアは次の7社をリストしています。
縣神社(四日市市平尾町)祭神:大正6年五社合祀して「県神社」と命名した経緯あり、省く。
図表 県神社のリスト
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・縣神社(大網白里市)
祭神:大日孁尊、橘比賣命、譽田別命
由緒:成務朝の縣主が奉仕した神社との伝承あり。
・1488・長享2年、酒井定隆が土気城再建の時、鬼門除けとして北東方向の当地に建てられた。
以後、酒井氏の守護神として崇め祀られた。
徳川氏の治領下に入ってから、天正19年の徳川家康を始めとして、徳川氏代々より5石の御
朱印領を寄進された山武郡内唯一の神社である。
・縣神社(岐阜市佐野町)
・方県津神社(美濃国方県郡式内社の美濃国方県郡式内社)とされている。
祭神:主神・縣大神・・国狭槌尊、天津彦根命、少彦名命などの説がある。
合祀・伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照大御神・菊理姫神・健速須佐之男命・速玉之男命・
熊野久須美神・家津御子神
但し、美濃国方県郡の方県津神社に関しては他にも津神社、方県津神社などの幾つかの論社がある。
岐阜市北西部にあり、美濃国山県郡と方県郡の境付近にある。
・縣神社(下呂市萩原町)
祭神:主祭神・御歳神
合祀神:家津御子神、熊野久須美命、速玉男命、素戔嗚命、大山祇神
由緒:神体は山形の天然石。神社は桜洞扇状地の水田地帯のほぼ中央にあり、神社の由緒書きは「開
拓の初めより里人が里の中央にある当社地を鍬収め、縄収めの所として、遂には田畑の加護神、
穀物守護の霊神である御歳神を奉斎したものと思われる」と記している。
・神社一帯は神田遺跡(縄文遺跡)、石器・縄文土器が多数出土し、住居址や人骨も発見された。
・大縣神社(犬山市宮山)
祭神:大縣大神(尾張国開拓の神)
由緒:尾張国二之宮、創建時期も古く、垂仁天皇27年に本宮山頂から現在地に遷座。
大縣大神の諸説:<1>国狭槌尊説、
<2>天津彦根命(大縣主の祖神)説、
<3>少彦名命説、
<4>大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)説、
<5>武恵賀前命(神八井耳命の孫で迩波縣君の祖)説
大荒田命は丹羽氏の祖であり、その女・玉姫命は、尾張氏祖・健稲種命妃。
境内摂社:姫之宮(祭神:玉姫命)またこの社の背後には「姫石」(女性器そっくりの陰石)あり。
3月の豊年祭には、女陰をかたどった(お多福顔で、口部分が女性器)山車が引かれ、
薄物の布をかぶった女性が練り歩く。
・男性器を奉納する田縣神社と対をなす奇祭。
・田縣神社(小牧市田県町)
祭神:御歳神と玉姫命
社伝:当地は大荒田命の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。
玉姫命は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、母親として立派に子どもたちを
育て上げると共に父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られた。
・縣神社 (伊勢市御薗町)豊受大神宮(外宮)の摂社・宇須乃野神社に同座、外宮末社8社の第2位。
祭神:縣神。
鎮座地:高向の上田(アガタ)の守護神。宇須乃野神社の相殿
・宇須乃野神社の鎮座地周辺の原野は宇須乃野と云う。
祭神:宇須乃女命(五穀豊穣の神)。
由緒:「神名秘書」は「五穀霊神」とし、「伊勢度会郡高向郷高向村高向神社記」では
「御神霊二座宇賀能美多麻神亦宇賀能賣神是也。」、
「神名帳再考」では「一名草野姫命」とする。
・ 縣神社(宇治市宇治蓮華72)祭神:木花開耶姫命)
由緒:当社は天孫天津彦彦火瓊々杵尊の妃・木花開耶命を奉祀し「あがた」の名の通り神代以来当
地の守護神であった。
・1052・永承七年、御冷泉朝、時の関白・藤原頼道が、藤原道長が別業(別荘)を寺院・平等院と
するに当たり、同院総鎮守となり、藤原氏の繁栄を祈誓した。
・明治維新までは大津市の三井寺円満院の管理下にあった。明治の神仏分離令により、その管理
を離れ今日に至る。
参考・「あがた」・・神吾田津姫
・縣神社(阿我多社、出雲市国富町)祭神:若帯彦命(成務天皇)、
・本社・・阿我多社〈神祇官社〉
・合祀・・縣社〈神祇官社〉
・合祀・・縣社〈不在神祇官社〉
・境内社 伊爾波神社・・伊爾波社〈不在神祇官社〉
由緒:860・貞観2年8月、大秦宿祢此雄が宇佐八幡別宮として勧請
社記:若帯彦命は成務天皇の御事である。この神は国県の分ち、村里を分ち、村里を定め、国郡の長
を立て、治を行われた。百姓の居住を安じ、天下無事に治ったその御功を尊び、「あがたの神」
と申し上げた。
・建長年間(1249)~1252)に相殿として八幡宮が勧請された。
(出所) 「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]
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<2> 犬飼神社+夜疑神社
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・犬飼神社(八木村箕土路犬飼)祭神:天手力男命・犬飼宿彌
・県犬養と名乗るまで(安閑朝乃至それ以前)は、一族は犬飼の技能をもって、単に「犬飼、犬甘」
と名乗っていたと見られ、「姓氏録」摂津神別には「犬養」氏を田根連の後と記される。
(出所)「県犬養三千代の祖系」宝賀寿男
1和泉国茅渟県説 黛弘道氏 ・・「犬養氏及び犬養部の研究」 黛弘道
2河内国古市郡(大阪府羽曳野市)説・・「」太田亮博士
3和泉国和泉郡八木郷犬飼村(犬養神社も鎮座)箕土路村(岸和田市箕土路町)説
・吉田靖雄氏の論考「行基集団と和泉国」([新版古代の日本6 近畿Ⅱ]所収、1991年)
1289年書写の「和泉国国内神名帳」
・大鳥郡条・・「従五位上県犬甘秋松社」、
・和泉郡条・・「従五位上河内川県犬養社」
「和泉志」に「在箕土路村」(岸和田市箕土路町)とありと指摘。
・ここを本拠とする県犬養氏は久米田寺・久米田池・同池溝の造営に関与していたことが
想定されるとし、「久米田寺が、県犬養氏を母とする橘諸兄を大壇越と伝承し、現在も
古墳時代の小古墳を諸兄塚と称して祭っているのは故のないことではない」ということ も、併せて指摘する。
→ここまで具体的な根拠を示されれば、箕土路村辺りが県犬養氏の本拠地としてよいと考える。
・夜疑神社(大阪府岸和田市中井町2-7-1)
祭神:布留多摩命(布留多摩乃命)・・・・八木造の祖神、海神、祓い・航路安全の神。
豊玉姫命 大綿津見 神玉依姫命 穂高見命 布留多摩命 天忍人命
配祀:八幡大神 春日大神 菅原大神
合祀:品陀和気命 菅原道真 天照大神 天手力男神 犬飼宿祢 狹依毘売命 保食神 素盞嗚命
武甕槌神 経津主神 天児屋根命 比咩大神 栲幡千千姫命 少名毘古那神 水分神 伊弉那美命
・式内夜疑神社略記
・新撰姓氏録・右京神別 八木造、和多罪豊玉彦命児布留多摩乃命之後也、
・安曇族の海神、豊玉彦の子、布留多摩乃命を祖神とし、八木一族が奉祀したのが当社の起源
・同族の神としては、「安曇犬養・安曇山背・犬養・海犬養・凡海、等がある。
安曇族の本拠地は筑前粕屋郡阿曇郷で、この地は「卑弥呼」時代の「奴国」に当る。
<配祀>品陀和気命・元八幡神社(小松里・荒木)・春日神社(池尻)・菅原神社(吉井)・
産土神社(北出)
菅原道真:元菅原神社 箕土路・大町・額原並北額 下池田・高月
厳島神社 (酉大箪)
天照皇大神:元菅原神社(下油田)・伊勢神宮内宮の祭神、
犬飼宿祢・天手力男神:元犬飼神社(箕土路)
由緒:当社の創建は不詳、延喜式神明帳に登載の和泉郡28座の中の古社、由緒文書はない。
延喜式神明帳・新撰姓氏録・その他の傍証により、古くより現在地に鎮座していた。
・明治5年、村社に列す。
・合祀1:明治41年11月25日、
・村社・春日神社(池尻持木)、・八幡神社(小松里宮前)、菅原神社(小松里、額原立合風呂尻)、
八阪神社(大町福知山)、豊受社(大町里井)、菅原神社(大町宮内)、厳嶋神社(西大路土井)、
犬飼神社(箕土路犬飼)、菅原神社(箕土路宅地)、菅原神社(下池田24の坪)、
八幡神社(荒木24の坪)、
・合祀2:明治42年10月19日、7月16日。
・菅原神社(吉井宮前)、菅原神社(高月高畑)、産土神社(北出前)
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