神話というものは、非常にわかりにくく書かれている。神の名も多種多様で、それだけでも、手がつけられないような印象を与える。
これは敢えてそのように記述しているのであって、なぜなら、わかりやすくすると、軽い気持ちで近づいてくる人も増え、安易に歪めて解釈され、消費されてしまうからです。
神話が、今日まで伝えられている理由は、謎のことが多いゆえに、時代を超えて人々の心をとらえ続けているからでしょう。
さらにもう一つの問題として、過去からの伝承には、新しい体制に対する批判的な内容も含まれているから、あからさまにすると、罰せられる可能性があります。
だから、律令時代開始の頃の神話から中世芸能まで、過去からの伝承を伝える様々な手段が発達しましたが、含みをもたせる知恵とテクニックが向上しました。見る側も、その含みがわかることが、ものを見る目があると判断され、わかりやすくストレートなものは野暮とされた。そのように、日本の文化は、洗練されていきました。
このたび、京都から東京に移動する時に、立ち寄った佐久奈度神社。
日本の古層の探求を始めて間もない頃にも訪れましたが、その時は、日本の古代を解くうえで需要な鍵が秘められていることは察しられたものの、わからないことだらけで、その先には進めなかった。
ここは、琵琶湖から流れ出す宇治川(瀬田川)が真南から真西へと直角に曲がるところに鎮座しており、瀬織津姫が祀られています。
この宇治川をくだっていくと、宇治平等院の近くに宇治橋が架かっていますが、この橋に祀られている橋姫とは、瀬織津姫のこととされ、伊勢神宮の宇治橋にも、この橋姫が祀られています。
さらに、この宇治橋の橋姫は、『平家物語』の中の「剣巻」にて、京都の貴船神社の丑の刻参りとの関係が記されています。
嵯峨天皇の時代、「自分を捨てて後妻を娶った男」によって心狂わせた女性が、貴船神社に7日間こもり、「貴船大明神よ、私を鬼神に変えてください。殺したい女がいるのです。」と祈った。
貴船大明神は、「鬼になりたければ、姿を変えて、宇治川に21日間浸かりなさい。」と告げた。娘は髪を5つに分けて結び、角にみたて、顔には朱をさし、体に丹を塗って全身を赤くした。さらに、三脚の鉄輪を逆さにして頭に乗せ、その鉄輪に3本の松明を差し、両端を燃やした松明を口にくわえた。
夜になると、その鬼のような姿と形相で走り、宇治川を目指し、21日間宇治川に浸かると、娘は鬼になった。
鬼になった橋姫は、妬んでいた女やその縁者、相手の男の親類を殺してしまい、次第に都では、「夜は鬼が出るから外に出てはいけない」と噂が立つようになった。
そして、源頼光の四天王の筆頭で鬼退治で活躍する渡辺綱が、一条堀川の戻橋で女性と出会い、「夜道は危ないですから、家まで送りましょう。」と、馬に乗せたところ、これが橋姫の鬼だった。
鬼は、渡辺綱を掴み上空へと連れ去ろうとするが、菅原道真という祟り神を祀る「北野天満宮」の上空に差し掛かった時、渡辺綱は、髭切の太刀(北野天満宮所有の重要文化財)で鬼の腕を斬り落した。腕を斬られた鬼は、住処にしている愛宕山に逃げ帰った。
この鬼のもとが、宇治橋の橋姫、そして佐久奈度神社の瀬織津姫へとつながっていきます。
これは一体どういうことなのでしょう?
瀬織津姫は、古事記や日本書紀に登場しないので、スピリチュアルなことが好きな人のあいだでは、藤原不比等によって消された縄文スピリットを継承する神とみなされています。
藤原不比等によって消されたかどうかはともかく、古事記や日本書紀に記載がないのは、単純に、それまでは存在していなかった(もしくは存在意義がそれほど高くなかった)神だからでしょう。
日本で一番多い神社である八幡神も、古事記や日本書紀には記録がありません。
瀬織津姫は、大祓詞のなかに登場する神ですが、ある歴史的段階において、この神が、穢れを祓う神のなかで重要な位置を占めるようになりました。
それがいつなのか、実証するための証拠がないのなら、洞察するしかありません。
瀬織津姫は、東京の聖蹟桜ヶ丘の小野神社(武蔵国一宮)の祭神ですが、小野系の神社によく祀られており、小野氏と関わりが深い。
京都市で瀬織津姫が祀られている処は、周山街道で京北に向かう途中の小野郷に鎮座する岩戸落葉神社と、加茂神社だけです。
小野氏には、小野妹子や小野小町など著名人も多く、これは和邇氏の末裔です。
宇治を代表する古くからの聖域は、宇治上神社で、この神社の祭神は、菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)。この「うじ」が宇治の地名のもとになっていますが、この人物は、和邇氏の祖の日触使主(ひふれのおみ)の娘が産んだ子。
菟道稚郎子命は、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺をした美談で知られる悲劇の皇子です。
同じく悲劇の皇子であるヤマトタケルの母親の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)も和邇氏の娘。
また、コノハナサクヤヒメを祀る全国の浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社の神官をつとめてきた富士氏は、和邇氏の後裔で、コノハナサクヤヒメの別名が、神吾田津姫。和邇氏の祖は、吾田片隅命。ともに、南九州の海人勢力の「あた」と関わりがあります。
これ以外にも、記紀に、和邇氏の娘は数多く登場しますが、彼女たちは、コノハナサクヤヒメのように、川や海岸で織物をしていて、マレビトと交わる巫女なのです。
マレビトと交わることは、自らが犠牲となる可能性もあり、それを覚悟で、新しい時代との架け橋になる存在でもあります。
和邇氏というのは、古代において、どうやらそうした役割を担っていた勢力だったと考えられ、それは、もともとこの島国日本にいた海人勢力でもありました。
だから、和邇氏の末裔である柿本氏や小野氏からは、過去と現在の紐帯である文学(柿本人麻呂や小野小町など)や、他地域との架け橋となる外交(小野妹子など)関係者が多く輩出されています。
そんな彼らは、犠牲的な役割を担い、その人生は、柿本人麻呂などもそうですが、悲劇性を帯びています。
それが神話にも反映されており、これを伝えたのは、おのずから、和邇氏関係者ということになる。
菟道稚郎子命やヤマトタケルが実際に存在したかどうかはともかく、こうした悲劇や英雄神話などは和邇氏が作り出し、後世に伝えた。あえて、そこに和邇氏の名前が添えられているのは、和邇氏が担った役割を伝えるためでしょう。
瀬織津姫もまた、その流れのなかにあります
かつては、各地方に、様々な名前の巫女がおり、マレヒトと交わっていました。
しかし、ある時から事情が変わった。各地域の巫女は、采女として、朝廷に集められたのです。
采女というのは、主に天皇の食事の際の配膳が主な業務とされていますが、天皇の側に仕える事や、諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多かった。その発祥がいつから始まるのか詳しくはわかりませんが、『日本書紀』によれば、飛鳥時代には地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があったと記録されています。
瀬織津姫というのは、その名前のとおり、瀬や津で織物をする姫であり、これは天孫降臨のニニギと交わったコノハナサクヤヒメのように、海岸や河岸で織物をしてマレビトと交わった巫女たちの総称であり、小野氏が、時代の流れのなかで、その古代巫女の一元化をはかったのだと思われます。
瀬織津姫は、官僚体制以前の古い世界の価値観を象徴する神ですが、これは、新しい体制にまつろわぬ=服従しない者にとっては、心の拠り所となります。
しかし、それがゆえに新しい官僚体制側にとっては、討伐すべき鬼となるのです。
ところが、日本という国の面白いところは、御霊会とかアラハバキ神という、鬼を丁寧に祀ることで守神にするという転換の発想を備えていること。
アラハバキ神というのは、瀬織津姫と同じく、なにか特別の一神を指すのではなく、別名が門客神であるとおり、門を守る客神です。客神というのは、後からやってきた勢力にとって、元からいた地主神のこと。
その、新しい勢力に取って変わられた神を丁寧に祀ることで守神として、邪霊が入ってくる門を守らせる。これがアラハバキ神です。
門とか橋というのは、こちら側とあちら側の境界であり、この場所を、鬼に守らせる。なぜなら、鬼は強い霊力をもっていると信じられていたからです。
霊力というのは念であり、恨みでもある。だから、これを鎮めて、邪を祓う力とする。
その結果、瀬織津姫は、官僚体制のなかで、祓いの神というポジションを得ました。
神道の祭祀に用いられる祝詞の一つ、大祓詞(おおはらえのことば)は、穢れを祓うために唱えられる祝詞ですが、この祝詞のなかで、速川の急流におられる瀬織津姫が、穢れを、大海原へと運んでくれると唱えられています。
しかし、穢れを祓う神に転換させられた神の本質は、鬼神であり、だから、瀬織津姫の別名である宇治の橋姫は、鬼になって京都の都に出没するのです。
そして、この鬼の橋姫の元は、貴船大明神に対して、自らが鬼となることを祈った女性。それが能の「鉄輪」となり後世に伝えられますが、この貴船参りの女性は、「自分を捨てて後妻を娶った夫に、報いを受けさせるために」鬼になるのです。
このことが単純に「女の嫉妬心」として矮小化されていますが、そもそもの本質はそこではないでしょう。
「自分を捨てて後妻を娶る」という言葉の裏に深い意味があり、これは、上に述べた巫女の終焉という歴史的な転換が象徴化されているのです。
現代社会は、「わかりにくい」ものは多くの人の心に届かない、商業的にうまくいかないという理由で、避けられる傾向にあります。
その結果、おしなべて表現物は、大勢が、とくに深く考えることもなく理解されやすいものとなる傾向が強く、深く考えるものは、考えすぎだよと嘲笑されることもある。
深く考えなくても生きていける時代だからでもあります。
誰かが決めたこと、立派な肩書きを持つ人が、これが正しいとしたことを右から左に流すだけで、特に大きな問題になることはないですから。
しかし、そうした状況のなかで、過去と現在と未来のあいだが断絶されます。
一時的に、世間で大勢に評価されたと騒がれても、すぐに消費財のように消えていき、誰の記憶にも残らないからです。
このような時代ではあるけれども、過去から現在、そして現在から未来に架ける橋となる表現は、現状の体制において不要とされる側に潜んでいる可能性が高い。
これは、古代においても、現代においても、同じなのです。
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京都と、東京でワークショップを行います。
<京都>2025年5月31日(土)、6月1日(日)
<東京>2025年4月19日(土)、4月20日(日)
*いずれの日も、1日で終了。
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