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京成と合併で消えゆく「新京成電鉄カーブ式会社」。会社消滅もやむを得なかった理由

京成松戸線の車両

 都心から千葉県へ路線網を持つ私鉄大手「京成電鉄」と、千葉県西部の宅地を縫うように走る「新京成電鉄」が4月1日に合併。新京成の鉄道路線は「京成松戸線」として今後も走り続けるが、会社としての新京成電鉄は同日付で解散(法人格消滅)となり、その歴史を閉じた。

 すでに120年以上の歴史があり、成田空港への輸送を担う京成電鉄と、高度成長期に発展した住宅街が沿線に広がる新京成電鉄。会社の成り立ちは違うものの、京成は新京成電鉄の株式の4割以上を所有しており、連結決算の対象ともなる「持分法適用会社」であった。

 両社の合併は何度か検討されていたにもかかわらず、これまで実現しなかった。なぜ京成・新京成はこれまで別々の歩みを続けてきたのだろうか。そして、なぜ今になって合併を決断したのか。鉄道会社・開発事業者としての、それぞれの歩みを振り返ってみよう。

新京成は「地道にコツコツ」、京成は「ドカンと一発」明暗が分かれた高度成長期

京成本線・勝田台駅
成田空港

 京成電鉄は、「お不動さん」の愛称で親しまれる成田山新勝寺へのアクセス鉄道として、1912年(大正元年)から順次開業。第二次世界大戦前には「東京・上野~千葉・成田」を軸にした、現在に近い路線網が完成した。

 戦後になって、成田市に「新東京国際空港(成田空港)」建設構想が持ち上がる。京成は「国際空港へのアクセス鉄道」、首都圏近郊にあることから「ベッドタウン・宅地化」が見込まれたうえに、川崎千春社長(当時)が推し進めた「ディズニ-ランド誘致」など、将来は明るいかに見えた。

 ただ、これらの実現には「空港新線建設」「ベッドタウンへの3セク鉄道の投資」「浦安での土地確保・ディズニー建設資金捻出」といった、各方面への莫大な投資を必要とした。まだ沿線開発は進んでいなかったものの、それでも経営上の攻めの姿勢を崩さなかったのは、よく言えばチャレンジャー、もしくは「ドカンと一発」体質ともいえる。……ただ、このドカンと一発のもくろみが外れてしまった。

 成田空港はターミナルビルへの乗り入れを拒否されたうえに、空港建設への猛烈な反対運動で開港が遅れ、完成した鉄道を数年間も塩漬けせざるを得なかった。さらに、宅地開発とセットで行なわれた第三セクター鉄道への参画はことごとく不調に終わり、千葉急行電鉄(現在の「京成千原線」)にいたっては「沿線人口が計画の10分の1以下」で鉄道利用が伸びるはずもなく、開業からたった6年で破綻。京成には450億円の負債と、利用者が少ない「千原線」だけが残った。

 経営難のため「1978年時点で、鉄道部門の収入不足が約25億円になる」という事態に陥った際には、運賃の大幅値上げが利用者の離反を招いた。もともと京成は成田方面で成田線、千葉方面に総武本線が並行しており、のちに東葉高速鉄道、JR京葉線といったライバルが加わったことで、鉄道路線はそこまで盤石ではなかった。

 この状況のなかで、京成は1977年には無配転落、1980年には人員削減を余儀なくされた。経営難に加えて、1980年代の時点で「車両の冷房化100%」「船橋市内の連続立体化」が実現できていなかったことからも、京成が鉄道会社として“詰んだ”状態であったことが伺える。もちろんディズニーの建設資金を捻出できるわけもなく、状況を見かねた日本興業銀行(現在の「みずほ銀行」源流の一つ)が各方面に協調融資を呼び掛けていなければ、のちにディズニーが京成の経営を救うという、一発逆転のシナリオもなかったかもしれない。

常盤平駅。背後の団地も駅併設
右はイトーヨーカドー津田沼店、左はイオン津田沼店

 一方で新京成は、旧日本陸軍の「鉄道連隊」(鉄道大隊)の演習線(軍事訓練のための鉄道)として戦前に敷設された。戦地での物資輸送を想定し、あえて厳しいカーブを入れて線路を敷いたとも言われ、戦後の旅客化後に「新京成電鉄カーブ式会社」と呼ばれる線形のもととなった。

 開業後も沿線に大きな都市はなく、一面に広がる湿地帯を歩いてきた利用者のために、駅に下駄箱が設置されるよう環境だったという。沿線に「成田山新勝寺」「成田空港」のような収入源がない新京成は「沿線のコツコツ開発」で収益を上げざるを得なかった。

 その布石として、新京成は1970年代から高根公団駅・上本郷駅などに細かく駅ビルを設置。なかには常盤平駅のように、住宅公団(現在のUR都市機構)と手を組んだ団地開発と一体型の開発も手掛けていった。また、新津田沼駅の駅ビル(津田沼12番街ビル)に1977年に開業した「イトーヨーカドー津田沼店」は長らく「全店で売上1位」をキープ、新京成にテナント収入をもたらすだけでなく、「津田沼戦争」とも呼ばれたパルコ・西友・高島屋などとの競争で、津田沼エリアや新京成の沿線ににぎわいをもたらし続けたのだ。

 鉄道会社としても、京成だけでなく常磐線・総武本線などとも接続する首都圏近郊路線として、「1500V車・長大編成で関東初の本格的VVVF車導入」などの改良を重ねていった。

 このころの両社の構図は「ドカンと一発の後遺症に苦しむ京成、コツコツ開発で利用者・テナント収入増の新京成」だったといえるだろう。ただ、このときに合併が実現できていたとしても「苦境の京成を子会社が救う」状態で、経営規模が違い過ぎる京成を、新京成が救うメリットがない。両社とも関係性は変わらず、時が過ぎていった。

コロナ禍でも新京成は黒字に復調。なぜ合併?

 世界中がコロナ禍に見舞われた2020年、京成電鉄は売上高2077億円(-24%)、赤字302億円、新京成が売上高174億円(-18%)、赤字10億円と、両社とも赤字転落してしまう。しかし、新京成は「利用者の減少」「テナント収入の陰り」といった、コロナ禍とは別の構造的な課題を抱えていた。

 1994年の「約1億1700万人」をピークに利用者が減少した主な原因は「沿線の高齢化」だ。首都圏に通勤してきたサラリーマンが次々と定年退職、街から出なくなったとあっては、鉄道利用だけでなく、沿線人口の減少も織り込まなくてはいけない。

 また、あれだけ買物客でにぎわっていた「イトーヨーカドー津田沼店」も、至近距離に開業したイオンにすっかり顧客を奪われ、老朽化によって2024年に閉店を余儀なくされた。ほか各駅の駅ビルも老朽化・陳腐化が続き、これまでどおりに「テナント収入を得て、駅ににぎわいを生む」ことができなくなってしまったのだ。

 一方で京成は、2010年に「成田スカイアクセス線」開業で所要時間が大幅に短縮、空港アクセスの「スカイライナー」は安定した収入源となっている。会社としても2023年度は経常利益515億円、2期連続最高益と順調だ。

 新京成は2022年3月期で売上高188億7100万円(前期比8.4%増)、営業損益6億300万円(前期は-6億8900万円)、経常損益8億6100万円(前期は-3億6400万円の赤字)と余力はある。新京成に余裕があり、京成が好調なタイミングで、合併という選択肢を選んだのだろう。

 なお、京成・新京成の合併に先立って、2024年には京成電鉄と小売業大手「イオン」の提携が発表された。新津田沼駅ビルもイオンのテナント入居が決定しており、ライブハウス・映画館設置で、郊外の「ららぽーとTOKYO-BAY」などから若者を引き戻したい考えだ。こういったテナント物件の再活性化も、イオンを味方につけた京成が手掛けた方が、なにかとやりやすいだろう。

 京成・新京成は幸いにして、鉄道会社・デベロッパとしての性格がまったく異なったため、車両の共通運用や、イオンを巻き込んだ不動産・小売部門の再構築だけでも手早くシナジー効果が得られる。そう考えると、コロナ禍をきっかけにして走り出した「京成・新京成の合併」は、理にかなったものと言えるだろう。

「新京成電鉄カーブ式会社」記憶はいつまでも

 新京成電鉄が78年の歴史に幕を閉じた翌日から、駅名標や運賃表示などの表示はいっせいに「京成」表記に変わっていった。沿線地域からは「ジェントルピンク色の車両だけでも存続を」との要望もあったが、京成との合併のメリットが「共通化によるコスト押し下げ」であった以上、カラーリングの維持は難しいという。

 あらゆる面で「新京成らしさ」は失われていくだろう。それでも、大きく曲線を描いて習志野市、船橋市、鎌ケ谷市、松戸市を結ぶ「新京成電鉄カーブ式会社」ならではの線形は変わらない。先頭車の車内から後ろの車両を振り返ると、カーブでぐねぐね曲がっていて見えない……ちょっとワクワクする“乗り鉄体験”ができる「京成松戸線」を、今後とも事あるごとに利用していきたい。