「麻布に合格も“大学受験では3浪”」 なぜ落ち続けてしまったのか? 今の仕事にも生きる《浪人の学び》

4/13 9:02 配信

東洋経済オンライン

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか? また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか?  自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は3浪で麻布高等学校から早稲田大学理工学部(現・先進理工学部) 応用物理学科に進学した大北あきやさんにお話を伺いました。

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■3浪で早稲田大学に合格

 今回お話を伺った大北あきやさんは、麻布高等学校から、3浪で早稲田大学理工学部(現・先進理工学部)に合格した方です。彼は4年間、医学部を目指して受験するも第1段階選抜で足切りに遭い続けました。

 しかし、その浪人で経験した日々が現在の仕事につながっているようで、浪人の3年間は彼の人生にプラスに作用している部分もあるそうです。

 浪人が彼の人生をどう変えたのか。大北さんの浪人の日々を深掘っていきます。

 大北さんは1979年、神奈川県横浜市に慶応義塾大学出身のサラリーマンの父親と専業主婦の母親のもとに生まれ、教育熱心な家庭で育ちました。

 大北さん自身は、幼稚園のころは普通の子どもでしたが、小学校に進学すると学力が上がり始めました。

 「小学校に入って算数を勉強し始めると、早い段階で成績が上がりました。当時の僕は授業態度がよくなかったので、たびたび怒られていたのですが、小学校1年生のときの担任がいい先生で、家庭訪問のときに『この子は天才だから、勉強の先取りをしたほうがいい』と親に言ってくれたのです。

 その一方で、小学校時代の成績はだいたいトップだったと記憶していますが、今思うと頭のよさをひけらかすような嫌な子どもでした」

 小学4年生からは日能研に通いはじめ、中学受験に向けて勉強していた大北さん。母親に「自由ですごくいい学校だよ」と勧めてもらった麻布中学校を第1志望にして勉強した結果、合格圏内の成績を記録し続け、無事に合格することができました。

「家では勉強していませんでしたが、塾に行くのが楽しくて、成績がどんどん上がっていきました。麻布の受験日に高熱が出て、受験中もつらすぎて合格を諦めたのですが、無事に合格することができました」

 こうして成績優秀なまま、麻布中学校に合格した大北さん。しかし、進学を機に「人生の転機が訪れた」と大北さんは語ります。

■麻布に無事に合格したが……

 「今までゲームを持っていなかったのですが、進学してからスーパーファミコンを買ってもらったんです。それでまったく勉強しなくなってしまいました」

 ゲームにはまって勉強から遠ざかってしまった大北さんでしたが、それでも高校1年生の実力テストでは学年300人中50番を獲得し、その後も上位3分の1〜真ん中くらいの成績をキープしていました。

「勉強していない割には成績がよかったので、大学受験は余裕だなと思っていた」と当時を振り返る大北さん。

 高校1年生のときは東大志望でしたが、高校2年生〜3年生の時期に心理学の本を読んだことから精神科医になりたいと思い、医学部志望に変更しました。

 しかし、高校3年生に入ってからは一気に成績が下がってしまいました。

 「高校2年生までは駿台の模試を何度か受けて、偏差値50は超えるけど、70はいかないというような、当たり障りのない成績だった気がします。

 麻布では実力テストが年に3回あって、その成績がよければ志望校に受かると聞いていたので、高校2年生くらいまで学年で2桁の順位の自分は大丈夫だと思っていました。

 でも、高校3年生の実力テストや模試に理科が入ったことによって、一気に成績が落ちてしまいました。そのころになるとみんな大学受験のために真剣に勉強し始めていましたが、僕は高校3年生になっても勉強量が増えなかったので、解けない問題もどんどん増えていきました」

 現役では横浜市立大学の医学部を志望したものの、センター試験で800点満点中600点程度に終わってしまい、第1段階選抜で足切りに終わります。滑り止めで受けた私立大学も不合格で、浪人を決断しました。

■当時の夢は「宅浪」

 浪人しようと思った理由を大北さんに聞いたところ、「単純にどこも受からなかったから」と答えてくれました。

「大学に入らないというのは当時の自分の人生プランにはありませんでした。高校生活が終わると大学生、大学生が終わると社会人になるので、朝早く起きて夜まで学校や会社にいるという生活がずっと続くと考えていました。

 それを打破できるのが、1年間の宅浪だと思っていたので、浪人をネガティブなものとは捉えていなかったです。そのため当時の夢は宅浪をすることでした」

「1年間時間があるし、そこそこ勉強して大学に合格して、1年を満喫しよう」と思った大北さん。

 しかし、結局家で勉強するのは難しく、「まったく勉強しなかった」と振り返ります。成績は少し上がったものの、現役と同じくセンター試験は600点台で、どこかの医大の第1段階選抜の足切りにあったことだけは覚えているそうです。

 早慶も何個か受けて、慶応の経済学部は補欠だったものの正規合格にはならず、全落ちで1浪目が終わりました。

 さすがに宅浪は向いていないと反省した大北さんは、2浪目からは駿台予備学校市谷校舎に通うことに決めます。

 しかし、家から1時間半かかるという立地がまた、授業から大北さんを遠ざけてしまいました。

「家から近かったのは横浜校ですが、僕の中では『医学部といえば市谷』という認識がありました。しかし、もともと不真面目な人間が、通学時間が長い授業に出るのは難易度が高かったですね。

 駿台に通い出して2〜3週間すると、出席する授業がほぼゼロになり、予備校でできた友達と市ヶ谷のドトールで勉強する日々になりました。勉強は喋りながら、合間にちょこちょこする程度で、1日1時間やっていたかどうかという感じですね」

 このころ受けていた駿台模試も判定ははっきりと覚えてないそうですが、60を超えていた数学以外は、偏差値50〜60程度だったようです。

「現役のときは理科が手つかずでしたし、数学もやってない分野があったので、そう考えるとちょっとは勉強が進んだかなという感じです。ただ化学は最後まで全部終わらなかったですね」

 この年もセンター試験では600点台。国立大学は第1段階選抜で不合格。私立大学も受験したかどうかは記憶にないそうですが、どこにも受かっていないことだけは確かでした。

■3浪突入で危機感を抱く

 3度目の全落ちで、3浪に突入した大北さん。この結果を受けて、「さすがにまずい」という危機感が芽生え始めました。

「2浪のときもやばいとは思っていましたが、一緒に3浪する高校の友達が1人くらいになってしまったのでとても焦りました。勉強しなければならないとずっと思ってはいたのですが、勉強習慣が身についていませんでした」

 大北さんは、自身が落ち続けた理由を、「難しい問題をやりたがっていたから」と分析します。

「予備校に通っている周囲のレベルが高かったですし、使う参考書も『トップを目指すならこれくらいしなきゃ』と基礎もできてないのに難しいものばかりやっていました。勉強が続かなかったのは、それが大きな理由だと思います。

 模試も難しい駿台模試しか受けてなかったのですが、ほかの模試も受けていい判定を取り、成功体験を積むのが勉強を続けるうえで重要だったなと思います」

 勝負の3浪目は、再度駿台予備学校の市谷校舎に通うことを決めたものの、また授業に出れなくなってしまいました。しかし、さすがにこのままではまずいと思った彼は、後期から代々木ゼミナールの単科コースを受講します。これが彼には合っていました。

「代ゼミの単科コースは最後まで受講することができました。好きな授業を選べましたし、授業時間もそんなに多くなかったのがよかったです。特に、物理の為近和彦先生の授業は僕に合っていたと思います。為近先生の物理の1日に90分×2回の授業は、僕の人生で唯一、すべて出られた授業ですね」

■この年こそ医学部に受かると思ったが……

 予備校に加えて、高校のときに通っていた塾の物理の先生にも1浪のときから3浪の終わりまで3年間見続けてもらったこともあり、物理の成績は大きく上昇。この年最初に受けた5月の駿台模試でA判定を取ってから、A判定は取れなかったものの、成績も安定し出したそうです。

 3浪目は勉強時間が10時間に到達する日が増え始め、この年こそ医学部に行けるかもしれないと思った大北さん。しかし、センター試験本番では、例年200点中140点ほど取れていた国語で大失敗をしてしまいました。

「この年は物理100点。数学もI+AとII+Bどちらも9割といい成績でした。ほかの科目もいい点数で、今年こそ医学部を受験できると思ったのですが、最後に採点した国語が78点しかなかったのです。

 それまでフィーリングでなんとか解いていた科目なので、緊張もあって問題文にないことを勝手に想像してしまったことが大きいかもしれません。結局、センター試験の点数は覚えていませんが、東大の理3に前期試験で出願して足切りになったのは覚えています。ショックでしたから」

 こうして4年連続で医学部を受験して第1段階選抜の足切りにあった大北さん。しかし、さすがにそろそろ大学生になりたいという気持ちもあり、この年は例年対策をしなかった早稲田の理工学部の過去問を、合格しやすそうだと思って4〜5年分解いて挑みました。

 こうして併願した慶応の理工学部は落ちたものの、早稲田大学の理工学部応用物理学科に唯一合格をもらったため、3浪で大学生になるという決意を固めました。

「自分の学力が低いというより、これから何年かけてやっても、『また今年のように勉強できないんじゃないか?』と感じていました。当時は4浪もなかなかいませんでしたし、親も世間体を気にするタイプで『早く大学を決めてほしい』という感じだったので、早稲田の理工なら行ってもいいなと思い、進学を決めました」

■浪人の経験が今の仕事につながっている

 こうして浪人生活を終えた大北さん。浪人してよかったことを聞くと、「他人を見下す性格がなくなったこと」と答えてくれました。

「レールから一旦外れたことで、いろいろな人生があって、それぞれいいことがあると気づけたのは、自分の人生においてよかったことだと思います。また、予備校の授業を受けたことで、予備校業界に行きたいと思うようになりました。浪人していなかったらこの仕事に就いていないという点でもよかったと思います」

 早稲田大学に入った大北さんは、塾講師のアルバイトがとても楽しかったため、2年留年をするも、無事卒業します。

 卒業後、学校でうまく生きられない子をスクールロイヤーとして支援したいと思い、弁護士を目指します。しかし、上智大学のロースクールに2〜3年通って、体調を崩してしまいました。

 その後は塾講師をしながら、教員免許を生かして2つの学校で非常勤講師として指導をしていましたが、いずれの学校でも放課後に生徒に熱心に教えていたことが、逆に学校側に評価をされなかったことで、塾講師一本に絞りました。

さまざまな予備校で指導をした後、現在は成増塾で数学の講師をしながら個別指導や学習マネジメントを行うオンライン学習塾ゴウカライズを立ち上げ、代表取締役をしています。

 「大学生が自身の成功体験をベースに勉強法や使用した参考書を安直に勧めることがよくありますが、大事なのは生徒ごとに指導方法を変えることです。優秀な学生も、経験がないと上手く教えられません」

■「浪人時代に通いたかった塾」を作った

 「僕はもともといろんな塾や予備校でコーチングに近いことをしていたので、これまでの指導経験を強みとして生かせると思っています。そのため、ゴウカライズでは、入塾した方の学習内容は僕が自分で考えて、その指導は優秀な大学生が行う仕組みを作りました。

 勉強の仕方を間違えて成績が伸びない子や、頑張りたいけどやるべき勉強を見失ってできない子の成績を上げられる塾を作りたい、自分の浪人時代にこの塾があれば入りたいと思える塾を目指して起業しました」

 浪人の経験を現在の事業や生徒指導に生かしている大北さんの塾講師・予備校講師としての人生はまさに、浪人時代が作り上げたものなのだと思いました。

大北さんの浪人生活の教訓:過去に失敗した経験も、今の自分の糧になっている

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最終更新:4/13(日) 9:02

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