2009年08月10日

『日月神示』が説く「善と悪の役割」とヤハウェの恐怖

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『日月神示』が示す善悪に関する記述を抜粋しよう。

「悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ」

「まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ、悪の大将は光り輝いているのざぞ」

「人の心から悪を取り除かねば神に通じないと教へているが、それは段階の低い教であるぞ」

「大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが」

「悪を悪と見るのが悪」

「悪も御役であるぞ。
この道理よく腹に入れて下されよ」

「罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方、神のやり方はその罪をも憎まず」

「悪も神の御働きと申すもの、悪にくむこと、悪ぢゃ。
善にくむより尚悪い。何故に判らんのか」

「悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ」

「悪で行けるなら悪でもよいが、悪は影であるから、悪ではつづかんから早う善に帰れと申すのぞ」

「善でつづくか悪でつづくか、この世に善と悪とがあって、どちらで立って行くか、末代つづくか、得心ゆくまで致させてあったが、もう悪ではつづかんことが悪神にも判って来るのであるから、今しばらくのゴタゴタであるぞ」

「悪もよいなれど、悪も神の用(ハタラ)きであるなれど、悪が表に出ること相成らん。
悪を食ふて暮らさなならん時近づいたぞ、悪を噛んで、よく消化し、浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶっていること多いぞ、だが悪も大神の中に生まれたものであることを知らねばならん」

「善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。
故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の善悪となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」

「すべての善は、・より起こり、・に還るのと同様、すべての悪もまた・より起こり、・に還る。
故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。
殊に地上人はこの善悪の均衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善はなくなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。
この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。
悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。
所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである」

「地上人は絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。
この場合、この平衡を破るようなことになってはならない。
その平衡が、神の御旨である。
平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超大平衡にと進み行くことを弥栄というのである。
左手は右手により生き動き、栄える。
左手なき右手はなく、右手なき左手はない。
善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。
神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。
新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生まれ、神に育てられつつある。
始めなき始めより、終わりなき終わりに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである」

「霊人に於いては、善悪の両面に往することは、原則として許されない。
一時的には仮面をかむり得るが、それは長く続かず、自分自身絶え得ぬこととなる。
地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。
しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。
悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。
何故ならば、それがある為に弥栄し、進展するからである。
悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである」

「悪魔の仕組はこの方には判りているから一度に潰す事は易いなれど、それでは天の大神様にすまんなり、悪殺してしまうのではなく、悪改心さして、ミロクの嬉し嬉しの世にするのが神の願いざから、この道理忘れるでないぞ」

「悪の総大将よ、早よ改心なされ。
悪の神々よ、早よ改心結構であるぞ。
いくら焦りてあがいても神国の仕組は判りはせんぞ。
悪とは申せ大将になる身魂、改心すれば、今度はいつまでも結構になるのぞ」

「悪も御苦労の御役。この方について御座れ。
手引いて助けてやると申してあろが。
悪の改心、善の改心、善悪ない世を光の世と申すぞ」

「悪も善に立ち返りて御用するのざぞ、善も悪もないのざと申してあろがな」

「悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ。
悪も元を正せば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりてくるぞ」

「悪神よ、今までは思う通りに、始めの仕組通りにやれたなれど、もう悪の利かん時節が来たのであるから、早う善に立ちかえりて下されよ。
善の神まで捲き入れての仕放題。
これで不足はもうあるまいぞや」

「今日までの御教は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、これが悪魔の御教ぞ。
この御教に人民は、すっかり騙され悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ。
三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪はますます増えるのみ、悪殺すてふそのことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄ぞ。
本来悪も善もなし、ただ御光の栄ゆのみ、八岐大蛇も金毛も、邪鬼も皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪抱きませ善も抱き、あななふ所に御力の、輝く時ぞ来るなり、善いさかへば悪なるぞ。
善悪不二と云ひながら、悪と善とを区別して、導く教ぞ悪なるぞ。
ただ御光のその中に、喜び迎へ善もなく、悪もあらざる天国ぞ、皆一筋の大神の、働きなるぞ悪はなし」


聖書では、アダムとイブが「知恵の樹の実」を食べたことで人類の堕落が始まったことを伝えている。
この意味については、人類が右脳型から左脳型になっていったことだという旨を、スウェデンボルグは説いている。
「知恵の樹」は「善悪を知る知識の樹」とも呼ばれているが、ヤハウェは何故この実を食べる事を禁じたのか。
それは、「生命の樹」の実も食べるのではないかと、ヤハウェが恐れたからだという。
つまり、善悪を知った人間が「生命の樹」を知ると、「絶対神」としてのヤハウェの地位が失墜するからである。
何故かと言うと、「知恵の樹の実」と「生命の樹の実」を食べると、ヤハウェの正体を知る事になるからだ。
詳細は「善悪逆転論」で述べるが、『日月神示』には次のように示されている。

「生命の樹の実は美しくおいしいぞ、食べてはならんが食べねばならんぞ。
肉体慾が先に出るから生命を失う。
心でとりて実を喜ばせて食べるとよいのであるぞ。
食べないで食べる秘密」


これは、一言で言えば、右左脳をバランス良く働かせることが重要だという意味にも受け取れる。
posted by 夢蛇鬼-mujaki- at 12:25| Comment(1) | サタンと黒い貴族の正体と役割 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ヤハウェは何故この実を食べる事を禁じたのか?=====>解答=神の御意に基づく命令を破って、善と悪とが相克する苦難の歴史を歩むことになったアダムとイブに始まる人類の帰結が、生命の樹、即ち、イエス・キリストと再び合致するまでは、「悪魔サタンの主張が正しいのか、それとも、神の御意が正しいのか」という判断を下すことを保留したからです。ちなみに、「ヤハウェ=イエス=聖霊」であって、バビロン宗(竜神ベル・マルドゥク崇拝)に淵源を持つ「父母子」または「太陽月金星」という三位一体神(トリニティ)ではなく、一位一神の唯一神(ワンネス)です。
Posted by NSM at 2015年01月07日 05:50
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