厚木5歳児衰弱死事件が示す「法医学の限界」 作られた「残酷な父」というストーリー

2017/03/22 6:00
日本の法医学の問題に迫ります(撮影:今井康一)
2014年に神奈川県厚木市内のアパートで、幼い男の子の白骨遺体が発見された。父親が一審では懲役19年の殺人罪に問われたが、今年1月の二審判決ではその原判決が全部破棄され、懲役12年の「保護責任者遺棄致死罪」となった。
裁判でいったい何が起きていたのか。児童虐待の問題にも詳しいジャーナリストの杉山春氏が、法医学の問題に迫ります。
目次

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極まった孤立

2014年5月30日、神奈川県厚木市内のアパートで、幼い男の子の白骨遺体が発見された。R君。5歳7カ月で亡くなっており、生きていれば中学1年生だった。

当時、居場所のわからない子どもたちが虐待死する事件が続き、全国的に居所不明の子どもが探されていた。そうした中、厚木児童相談所が警察署にR君の行方がわからないと届け、R君はゴミに埋もれた部屋の布団の上で発見された。父親のSは発覚するまで7年以上、ずっと家賃を払い続けていた。

Sは当時、トラック運転手だった。長男のR君が3歳のとき妻が家を出て行った。その後、自分や妻の実家にも勤務先の会社にも、1人で子育てをしているとは伝えなかった。ガス、電気、水道が止まった部屋で、雨戸を閉めきり、真っ暗闇の中で、6畳間の外とつながる掃き出し口と、ふすまの出入り口をガムテープで止め、子どもが外に出て行かないよう閉じ込めていた。

事件が発覚した直後から、メディアは事件をセンセーショナルに報じた。2014年6月18日の朝日新聞朝刊には、「R君は自力で立ち上がれず、パンの袋も開けられなくなっていた。『パパ』。消え入りそうな声を絞り出すのがやっとで、怖くなって逃げ出すS容疑者に追いすがることもできなかったという」とある。

毎日新聞(2014年6月16日)は「母親が家を出た後、父親も交際相手ができ、(R君は)一人取り残された。電気を止められた部屋で、R君は父親が時折持ってくるパンの袋を開ける力もなくなっていた」。読売新聞(2014年6月14日)は「父親は玄関を施錠して週1、2回しか帰宅せず(略)『パパー、どこー』。R君も密室から何度叫んだことだろう」とある。

「残酷な父親」のイメージが社会に広がった。

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裁判員裁判の一審は、懲役19年の殺人罪の判決だった。殺人罪の有期刑の最高刑(20年)に近い。

それが今年1月13日の東京高等裁判所の二審判決では、保護責任者遺棄致死罪に変わり、懲役も12年となった。検察側は上告せず、Sも上告を取り下げ、刑が確定した。

刑事事件の控訴審で、殺人事件で、高裁が一審判決を破棄し、独自に判決を言い渡す例は1割に満たない。いったいなぜ、殺人罪は翻ったのか。

筆者は一審の判決後、父親のSと面会や手紙のやり取りをしてきた。一審の判決後、Sはこんな手紙を書いてきた。

「やはりRのことを考えるとすごくつらいです。取り返しのつかないことをしてしまったと本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。私はRのことを知る数少ない人の1人です。父親として育児は自分なりに一生懸命に頑張ってやっていました。約2年間2人きりで生活をしていましたが、結果として、こういうことになってしまって本当に残念でたまりません。後悔しています。記憶はずっとあいまいなままです」

筆者はこれまでも数件の虐待事件の裁判を傍聴してきたが、この事件の場合、Sの証言は二転三転し、何が起きているかわかりにくい裁判だった。S自身は裁判で、記憶があいまいな理由について、自身の母親が精神疾患を発症し、その母親の行動が嫌で、なんでも忘れるようにしてきたためと証言した。さらに、精神鑑定を行った精神科医も、心理鑑定を行った児童虐待の専門家もSは不適切ではあっても、当人は子育てをしているつもりだったと証言した。 

しかし、裁判ではそうした父親Sの主張は重視されることはなかった。それよりも、検察はメディアで示され社会に広がった「残酷な父」のイメージをなぞろうとした。そのストーリーはわかりやすく、一審の裁判員裁判で支持された。ところが二審では「誘導があった」とし、ひっくり返った。

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食い違う4人の医師の証言

この裁判に大きな影響を与えたのは、医師たちの見解だった。検察側と弁護側で、それらは見事に食い違っていた。

一審の法廷では、検察に死亡時の写真を提示されたと語るA医師が「遺体には、栄養不足から筋肉をエネルギーに変えることで筋肉が萎縮して、関節が固まる“拘縮”が見える。死亡の1カ月前にこの拘縮が始まり、ほほがこけてげっそりするなど、誰が見ても命の危機がわかるほど相当やせて衰弱していた」と証言した。

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続いて、検察側の証人として、小児の放射線科医B医師が証言。解剖時のレントゲン写真を見たB医師は、死後室内に置いておいた骨は、「何年経とうが、基本的に生前の状態が保存される」と語り、「骨濃度、骨密度が低く、緻密骨の骨量は通常の5歳児の半分程度」と証言した。A医師が語るイメージは補強された。

一方、R君の遺体の解剖を担当した東海大学医学部法医学の大澤資樹教授は、弁護人側の証人として出廷。「死因は不詳」とした。「拘縮」については、控えめながら「筋肉もない、骨の中からそういうことを言うのは言い過ぎだ」とした。だが、「残酷な父」のイメージが覆ることはなかった。

Sの記憶はあいまいで、殺意の根拠になる、亡くなる前にどの程度R君に食事をさせていたかについても、証言は二転三転した。ほとんど毎日家に帰っていたという言葉が出たと思うと、1週間に1回程度かもしれないという。自分に有利な証言もひっくり返してしまう。さらに、R君の死亡について「事故のようなもの」と発言し、無責任さを印象づけた。

こうした流れの中で、一審の判決は「通常人であれば誰でも」死の危険性を理解できたはずだったにもかかわらず、医者に見せるなどの措置をしなかったとして、Sの殺意を認定した。

検察はR君が亡くなる前年の2008年秋から、食事の回数は2、3日に1回になり、亡くなる直前には週に1回になったとした。根拠は、1カ月前に「拘縮」が起きたという“事実”に適合するからということが大きな理由だった。「拘縮」は殺意の存在を説明する要となった。

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拘縮があったというのは事実なのか

ところが判決後、私は複数の医師や児童虐待の専門家から、飢餓の際「拘縮」が起きるという意見には異論があることを教えられた。拘縮があったというのは本当に事実なのか。そこで、法医学学会の理事である岩瀬博太郎千葉大医学部教授に会いに行った。

岩瀬教授はこの判決について2つのおかしさがあると指摘した。「(1)飢餓と拘縮は無関係である。(2)仮に拘縮があったとしても、ミイラ化した死体で関節拘縮はわからない」という。

岩瀬教授は「一般的には」と断って、次のように語った。

「ときどき警察や検察は、自分たちのストーリーに合う発言をする医師を選んでしまう傾向がある。そうなってしまうのは、日本の法医学全体が脆弱だからでもある。アメリカやヨーロッパなどでは複数の法医学専門の医師がいる施設で、同僚同士で批判を受けた鑑定結果が裁判に提出される国もある。日本では1人の医師のみで鑑定を行う場合が多い。法医鑑定という、本来は化学的、客観的であるべきものが、時には偏りかねない1人の医師の判断に依拠させるのはどうかと思う。冤罪(えんざい)も起こりかねない」

二審のために、岩瀬医師は意見書を書いた。

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R君の司法解剖を担当した大澤医師も意見書を出した。R君の遺体は「蚕食」という昆虫類が遺体から栄養を摂取する段階を経ていたり、カビにより骨頭部が変形しているなど、亡くなった時点の骨の状態と発見時の骨の状態が大きく異なること、また、遺体のレントゲン写真は歯科用のハンディな装置で撮影したもので、そこから骨密度、骨量、緻密骨の厚さを述べるのは適切ではないと書かれていた。

二審はR君の遺体に対して、「右手首の屈曲が拘縮であると説明しながら、左手首に同様の屈曲がないこと」を挙げ、「A医師の証言の信用性を高く評価できるかについても、疑問が残る」とした。そして、最終的に「大澤医師の証言が説得的だ」と結論づけた。

そのようにして二審で「拘縮」は翻った。Sは「殺人罪にならなくてホッとした」と手紙を書いてきた。ただし、二審でもR君が亡くなる直前の食事の回数は翻らず、「単独犯の保護責任者遺棄致死の事案の中では最も重い部類に属する」として、懲役12年となった。

なお筆者はA医師に、改めて意見を聞いたが、取材は受けないとのことだった。また、小児の放射線科医であるB医師にも、取材を依頼したが、「証言の妥当性の判断は法廷の場に委ねる」とのことで話は聞けなかった。

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育てる力が乏しい親、それを支えない社会

裁判の中で父親のSは、知的能力の低さも示された。だが、一方で職場での評価は高かった。二審の判決文は「1人で養育することに困難があったのであれば、公の援助を求めるなど取りうる手段は多く存在していた」「知的能力が若干通常人よりも劣っていたとはいえ、被告人の養育の点以外は通常の社会生活を送っていた被告人にとって、そのようなほかの手段を求めることが困難であったともいえない」とする。公的な支援を求めなかったことが懲役12年の重さとなった。

弱さを抱えた人間が支援を求めないということは、彼個人の課題なのか。R君の失われた命は二度と戻らない。その事実は重い。だが、それは父親Sを特異な人物として、社会から長期に隔離すれば済む話なのか。Sは「やはり今後、2度と同じような事件は起こしてほしくありません。助けを求めている人はたくさんいると思います」と手紙に書いている。

虐待対応の現場で話を聞けば、知的な力がボーダーと思われる親たちがその意図はなくても、支援を求められずに、結果的に子どもに「虐待」してしまう例は頻発している。社会の中で孤立するのは、力の乏しい親たちだ。

R君が亡くなるまでの2年間、R君の姿は父親のS以外、誰の目にも留まらず、誰も危機感を抱かなかった。なぜ、そのようなことが起きえたのか。

大澤教授の司法解剖によれば、R君の身長は101センチメートル、頭囲、歯の育ちは5歳児相当だった。つまり、父親と2人きりで暮らした2年間、曲がりなりにも成長していた。本格的なネグレクトを受けた子どもは成長が止まることが知られている。

父子の間に何が起きていたのか。司法は、もう一歩踏み込んで、虐待の仕組みも含めた現代の科学に沿って事件を読み解く必要があったのではないか。

杉山 春 ルポライター

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すぎやま はる / Haru Sugiyama

1958年生まれ。雑誌記者を経て、フリーのルポライター。著書に、小学館ノンフィクション大賞を受賞した『ネグレクト―育児放棄 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館、2007年)、『移民環流―南米から帰ってくる日系人たち』(新潮社、2008年)『ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書、2013年)『家族幻想―「ひきこもり」から問う』(ちくま新書、2016年)など。

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