「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい

『たまたま「これがニーチェだ(永井均)」を読んでいたら「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにニーチェがどう答えたかという話があったので一部引用してみます。』
という小野ほりでいさんのツイートに対し、「ニーチェの答えがすごい」というコメントがいくつも寄せられています。

その小野ほりでいさんのツイートで引用されたのは永井均『これがニーチェだ』の以下の部分です:

この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかないー きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。 それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか、と。だが、この原理は、それ自体が道徳的原理であるがゆえに、究極的な説得力を持たない。
二つの応答の可能性が考えられる。一つは「私には愛する人などいないし、自分自身もいつ死んでもかまわないと思っている」という応答である。この応答に強い説得力があるのは、自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力であることを、それが教えてくれるからである。何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではないー それが ニーチェ の主張である。 だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということ を、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとつ ては、あらゆる倫理は空しい。この優先順位を逆転させることはできない。
(永井均『これがニーチェだ』P.22-23より引用)

もちろん、これは「永井均先生の理解するところのニーチェの答え」です。
僕自身は哲学研究者ではないし、ドイツ語も読めず、ニーチェの原著の日本語訳を数冊読んだ程度ですから、「ぼくの理解するところのニーチェの答え」など書いてもしょうがないです。
そこで、この記事では、あくまで「永井均先生の理解するところのニーチェの答え」について書きます。
(永井均先生は哲学研究者かつ哲学者です)

小野ほりでいさんが「一部引用してみます」と言っているように、これは、(永井先生の理解するところの)ニーチェの答えの「一部」でしかありません。
残りはどうなっているのでしょうか?

少し長くなりますが、(永井先生の理解するところの)ニーチェの答えに相当する部分を『これがニーチェだ』P.28-30より引用します。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」---だれも公共の場で口にしないとはいえ、 これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。
世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ 一度だけ生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。
だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分のその悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人は、まずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。これは、世の中で確固たる地位を持ち、そこで問題なく生きている多くの人々には決して---少なくとも公的には---受け入れることができない見解であるかもしれない。しかし、それでもこの見解には究極的な正しさがあるのではないだろうか。「正しい」という語のある特別の意味において、それは決定的に正しいのではあるまいか。少なくとも私にはそう感じられるのである。
社会の健全さ、いやそれどころか社会の存続それ自体と本質的に矛盾するような価値というものがある、と私は思っている。その視点を考慮に入れていない倫理はむなしい。だから、これまでのあらゆる倫理学説は本質的にむなしい。殺人という例が極端すぎるというなら、いじめの場合で考えよう。人生が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった子供が、あるとき友達をいじめることで、はじめて生の悦びを感じることができたとする。それはよいことだ、とは誰も言わない。だが、それでも、それはよいことなのではあるまいか。その子は、以前よりもよい人生を生きているのではあるまいか。共存の原理に反しているからといって、そのよろこびは偽物だとか、ほんとうのよろこびは友達と仲良くするところにあるのだ、といった道徳イデオロギーによって、その子を断罪すべきではないと私は思う。その子は、そういう言説が〈嘘〉であることを、身に染みて知っているはずなのだ。

このニーチェの考えは不道徳だと思いましたか?
しかし、「この考え方を不道徳だとすること」が不道徳であることを明らかにしたのが、ニーチェのやった仕事なのです。

『これがニーチェだ』P.25では、以下のように書かれています。

ニーチェは、人が道徳に服従する根拠を他の誰もがなしえなかったほど正確に捉えている。「人が道徳に服従するのは道徳的であるからではない。---道徳への服従は君主への服従と同じく、奴隸根性からでも、虚栄心からでも、利己心からでも、断念からでも、狂信からでも(中略)ありうる。それ自体では、それらはなんら道徳的なことではない」(『曙光』九七)。
「道徳的理想の勝利は、あらゆる勝利と同じ『不道徳な』手段によって得られる。すなわち、暴力、嘘、誹謗中傷、不公正によって」一八八六年末 - 八七年春、7〔六〕)
<略>
それにしても、なぜ、他の人々は誰もこうした明白な真理を、口にしようとしなかったのか。いまもしないのか。---それは彼らが不道徳で恥知らずだからである。これがニーチェの答えである。つまり、このようなことをあえて語るニーチェだけが(その道徳自身の基準に照らして)道徳的である、という逆説がここで成り立つ。

ニーチェ曰く「道徳それ自体が不道徳の一つの特殊形態」なのです。

私が思うに、「(道徳的な)正しさ」は、元をたどると、次の2つのいずれかに立脚していることが多いです。

(1)社会の多数派にとって損でない。(損得勘定由来)

(2)嘘をつかない。(誠実性由来)

(1)の損得勘定由来の道徳は、長い時間をかけて内面化されているため、多くの人は、それを単なる損得勘定だとは感じず、道徳だと思っています。

「人を殺すのは(道徳的に)正しくない」と言われるのは、(1)損得勘定由来の正しさに反するからです。
実際、「人を殺すのは正しい」ということになったら、いつ殺されるかわからないから、社会生活がとても不便になります。
だから人を殺すことは悪いということにしよう。そうじゃないとみんな困るから。実際に悪いかどうかはともかく、そういうことにしとかないと、不便でしょうがないから。
というのが実情でしょう。
しかし、それは本来、単に人々の損得勘定の話であって、「人を殺すのは悪い」ということが真実かどうかとは関係ない話です。「都合上、悪いということにしている」ということと、「本当に悪い」ということは別の話なのです
これが原因で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、欺瞞になってしまうことが多いです。
それについて、『これがニーチェだ』P.26-27では以下のように記述しています。

さて、このようなニーチェの視点からすれば、多くの子供たちが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを立てないのは、誇りによってではなく、奴隸根性と断念によってであることは明白である。もちろん、「聖人」たちはその奴隸根性や断念や、虚栄心や利己心や臆病さを、誇り、尊厳、真の自由、……といった言葉を用いて称賛する。その種の隠蔽工作がすなわち、「暴力、嘘、誹謗中傷、不公正」である。 道徳哲学者や倫理学者も同じである。彼らは「なぜ人を殺してはいけないのか」をはじめとする道徳の根拠の問題に答えようとするとき、結局、それは道徳に反するからだ、というトートロジーしか与えることができない。なぜ道徳的であるべきなのか、という問いに、その方が道徳的であるからだ、と答えることの無力さを感じている彼らは、そこに誇り、尊厳、真の自由、等々の嘘を忍び込ませるのである。

「道徳的に正しい」ことは、それを「道徳的に正しい」ということにした方が、社会の多数派の人が得をするから、それが「道徳的に正しい」ということにしただけであって、それは「真実かどうか?」というと、嘘なことが多いのです。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問に答えようとすると、トートロジーになるか、「多くの人がそのような質問をしないのは誇りがあるからだ」とか「道徳的に生きることこそが真の自由なのだ」とかの嘘で隠蔽工作せざるを得なくなるのです。
しかし、それは嘘ではあるけれども、それが嘘であることを、みんなで忘却することによって、この社会は成立しています。
つまり、道徳というのは、嘘と欺瞞で作られた、便利で有益な装置なのだけど、それがそういう装置であることをみなが忘却することによって成り立つ装置なのです。
それが「道徳」の正体です。
そのへんは、永井均さんの『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』も合わせて読むと、わかりやすいです。

『これがニーチェだ』という本は、結果的にニーチェという毒を巧妙に無害化する解毒薬になっています。
また、ニーチェの本を読んで「この社会は嘘と欺瞞によって成り立っている!」という真実を知ってしまってイキっている中二病患者たちも、『これがニーチェだ』は批判しています。ニーチェのロジックを使って。
その意味で、この本はとても「道徳的に正しい」です。
そしてそれは、この本を出版するために必要なことです。
なぜなら、「道徳的に正しい」本にしないと、「道徳的に正しい側」に立って「道徳的に悪い側」を安全地帯から一方的に叩きのめすのが楽しくてしょうがないという卑劣で醜悪な人たちが集まってきて、道徳棍棒で袋叩きにされてしまうからです。

ニーチェは(2)「誠実性」由来の道徳的な正しさを追い求めた人ですが、そうすると結果的に(1)「損得勘定」由来の道徳の欺瞞を暴くことになり、不道徳だという誹りを受けがちです。
すると、道徳棍棒の振り下ろし先を探して舌なめずりしている「道徳的に正しい」人たちの餌食になりやすくなります。
そして、ニーチェについて誠実に語ろうとする本もまた、その宿命を背負っています。

このジレンマを切り抜けるために、『これがニーチェだ』は、先ほどの(1)と(2)の両方の道徳的正しさを同時に満たすというアクロバティックなことを、絶妙のバランス感覚でやっています。
つまり、できるかぎり嘘をつかずに、社会の多数派にとって不都合にならないような落とし所に、話を持って行っているのです。

と、道徳的に正しいオチがついたところで、この記事を終わりたいと思います。


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※この記事は、文章力クラブのみなさんにレビューしていただき、ご指摘・改良案・アイデア等を取り込んで書かれたものです。

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