当時、私は中学1年生で入ったばかりのフリースクールにいた。その大きな揺れは終礼の時に起こり、だんだんと強度を増していった。私は東北ではなく、関東の埼玉にいた。

揺れがおさまり、避難経路を先生たちが確保して、みんなで校舎の目の前にある公園に集まった。そこで点呼をとり、全員がいることを確認した。なかには、状況がわからず泣いている子もいたが、私は緊張感をひしひしと感じていた。

しばらく、公園で待機していると携帯が鳴り、画面を見ると祖母からだった。とっさに出ると「おばあさんだけど、そっちは大丈夫か」と声が聞こえ、「今、みんなで公園にいるよ」と返した。

祖母からはTVでのニュースの情報が少し伝えられて、「ママからは電話あった?」と聞かれた。「ママ、仕事中だからまだないよ」と返すと、「いつママから電話あるかわからないから電話きるで。先生たちの言うこと、聞くんだよ」とたった数分で祖母との電話は終わった。電話をきった瞬間、自分の置かれている状況を少し理解し怖くなり、泣いた。

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余震も少しずつおさまったころに学校の全体ホールに中等部の生徒たちが集まって、先生からの言葉をみんなが待った。

先生の口から出た言葉は、電車が動いてないこと、親が迎えに来るまで帰れないこと、いつまた大きな地震がくるのかわからないため靴に履き替えて全員ホールで過ごすことであった。ほとんどの生徒が電車通学であったので、ほぼ全員がホールに残った。

夕飯を確保するため近くのコンビニまで街灯の少ない道を友達と走った。私はその途中、道路の基盤が崩れ、地面が盛り上がっていることに気づかず、転んで膝を擦りむいた。走ってはいけないとはこういうことかと思いながらも、目の前で走っている友達を必死に追いかけた。

コンビニにはほとんど食品がなく、パン1つだけ手に入れた。そこで見た駅の光景は公衆電話に向かって行列をつくる人たちと、とにかくタクシーを待つ人たちであった。こんなに人で溢れている駅を見るのは初めてで心臓が鳴った。

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学校に戻り、しばらくすると夜20:00くらいに公衆電話からの着信があり、出ると母からであった。「ママだけど、大丈夫?通信障害で携帯からかけられなくて、公衆電話からかけてるんだけど、人すごくてやっと順番まわってきて、まだまだ人いるから早くしなきゃ」と早口で言う母に「学校で待機してるよ。1番最初におばあから電話があったよ」と伝えた。「もう切らないといけないんだけど、ママも今から帰るから、一旦お家に帰ってから迎えに行くね」と告げられ、「わかった、ママも気を付けてね」と電話をきった。親と連絡がとれたことを先生に報告し、ホールに戻った。

夜が更けて、先生たちがどこからか毛布を引っ張り出してきた。みんなでそれを共有したり、イスを並べて寝ている生徒がいたりと、だんだんとみんながホールで夜の過ごし方をはじめた。私はなかなか眠れず、余震があるたびに学校の外に出たり入ったりを繰り返していた。
両親が迎えに来たのは、翌日の14:00すぎであった。そこから3人、電車で帰ったがいつもの3倍くらいの時間がかかった。

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しばらく学校は休みになり、そのまま春休みになった。
TVでは福島の情報がよく入ってきたが、パソコンで埼玉がどうだったのかを調べたら、埼玉でも震度5弱あった。

その状況の中、建築設計関係の仕事に就いてる父が仮設住宅の現場監督に選ばれ、福島へ行った。計画停電がある中、母との2人暮らしが始まったが3か月に1回1週間ほど父が帰省してくる。

最初、帰ってきた父を見たときは衝撃的だった。長袖、長ズボン、ヘルメットで現場に出ているはずなのに、首や顔が赤くなっていた。父は帰省するたびに福島のお土産と一緒に赤くなっていた。皮膚科で塗り薬をもらっていたが、なかなかよくはならなかった。
仮設住宅の任期を終えて、私が中学3年の時に父は完全に帰ってきた。父が帰ってくると同じくらいの時期に学校にも福島からの転校生が1人か2人きた。
父はしばらくは有給休暇をとっていたが、休暇が終わると普段の現場に戻っていった。福島から帰ってきてからも薬は塗っていたが、最低限までしか消えなかった。

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いまだに父の首には跡が残っている。
今年で還暦を迎える父を私は誇りに思うとともに、私も誰かの力になれる人になりたいと思う。