糖質制限せずに1年で12kgの減量に成功…痛風と尿管結石に見舞われた医師が実践した「白米ダイエット」の中身

ストレスなくダイエットを継続するにはどうしたらいいのか。医師の梅岡比俊さんは「糖質制限ダイエットに挑戦し、3カ月で10kg以上痩せることに成功したが、あっという間にリバウンドしてしまった。
無理な糖質制限をやめて『お米を食べるダイエット』に取り組み始めたら、1年で12kgの減量に成功した」という──。
※本稿は、梅岡比俊『医者が教える最高のやせ方 科学的に正しいお腹いっぱい食べられるダイエット法』(すばる舎)の一部を再編集したものです。
■「肥満」は諸悪の根源
実は私は過去、ほぼ同時期に、痛風と尿管結石という2つの大きな病気を経験しています。
人間がかかる病気のなかで、もっとも痛い病気のベスト3と言われているのが「痛風、尿管結石、歯痛」で、そのうちの2つに連続してかかってしまったわけです。私は耐えがたい激痛から逃れるために、どうしたら症状が改善するのか真剣に、しかも早急に考える必要に迫られました。
なぜ私が病気になったのか、振り返ってみると、答えは明らかでした。原因は、自分自身の「不摂生による肥満」にありました。
その当時、私の体重は80キログラムを超えていました。身長173センチメートルの私の適正体重は、67~68キログラム程度なのに!
クリニックを開業してわずか数年、多忙な日々を送っていたのですが、おいしいものを食べることもお酒を飲むことも好きな私は、仕事が終わってから毎日のように、好きなだけ食べて飲んでを繰り返していたのです。スナック菓子もよく食べていたし、お酒を飲んだあと、夜遅くにカップラーメンを食べることもしばしば……。さらに、運動は好きでしたが、医学部を卒業して十数年間、運動らしい運動はまったくしていませんでした。
■糖質制限ダイエットに取り組む
そんな日々を過ごしていたら、当然ですが、体重は徐々に増えていきます。
少しずつ体調が悪くなっていることから目を背けていた私に、ある日、痛みが襲いかかってきたのです。
このとき痛感したのは、「太る」ということはあらゆる面で非常によくない、ということです。
痛風と尿管結石の痛みから逃れるために、私はまず毎日飲んでいたビールをやめました。さらに、体重のコントロールが必要不可欠だと自覚した私は、人気のあるダイエット法で、しかも短期間で体重を落とせるという噂の「糖質制限ダイエット」に挑戦することにしたのです。
「糖質制限ダイエット」のセオリーに従って炭水化物の摂取をやめ、代わりにタンパク質を摂るようにしました。ラーメンやパンは比較的ラクにやめることができましたが、もともと白米が好きだった私にとって、お米を一切食べないというのはかなりの苦痛でした。
■健康的な痩せ方ではなかった
ストレスを感じながらも頑張った結果、3カ月で10キログラム以上やせることができました。しかし、いま振り返ってみるとよくわかるのですが、「糖質制限ダイエット」をしたときのやせ方は、どう考えても健康的なやせ方ではなかったと思います。
まず、筋肉がすごく落ちました。肩幅が狭くなり、胸囲も10センチメートルほど少なくなりました。がっしり感がなくなり、ヒョロヒョロの体型になりました。それから、顔にシワが増えました。

家族や友人たちからもそう言われたし、いまでは笑い話ですが、外来で診察中に患者さんから「先生はがんになったから、やせたのでは?」と心配されるほどでした。さらに、とても疲れやすく、気持ちも落ち着きませんでした。その結果、仕事のパフォーマンスが落ちていたことを、はっきりと自覚しています。
そして糖質制限をやめると、あっという間にリバウンドしてしまいました。もしかしたら読者のみなさんのなかにも、このような経験をした方は多いのではないでしょうか?
私は、取り組むことによって現状よりも心身ともに健康になるのがダイエットの本来あるべき姿だと思っています。そうでなければ、取り組む意味がありません。あまつさえ、取り組むことによって心身に害を与える危険があるダイエット法には、決して手をつけるべきではないと考えます。
このような自身の経験から、私は、「糖質制限ダイエット」は健康的なダイエット法ではないのではないかと考え、改めてダイエットや建康に関する本を読みあさりました。世界中で発表されている医学論文も多数読み、いくつかのダイエット法については自身の身体を実験台にして試みることもしました。
■「お米を食べるダイエット」に辿り着く
その結果、私がたどり着いた健康的なダイエット法が、「お米を食べるダイエット」です。
歴史的にその国の人々が何を食べてきたかを視る「食歴」の視点からも、日本人にとても合っているダイエット法だと確信しています。和食の一汁三菜とごはんを基本の食事にするこのダイエット法は、大きなストレスを感じることなく、ゆっくりとやせていきます。

私自身「お米を食べるダイエット」で健康的に、特にストレスを感じることなく、1年で12キログラムやせることに成功しました。1カ月に1キログラムずつ体重が減っていった計算です。痛風や尿管結石も完治し、現在に至るまで健康状態はすこぶる良好です。リバウンドも、疲れやすさもイライラもなく、心身ともに健康で充実した日々を過ごしています。
ダイエットに即効性を求める人は多いと思います。その気持ちはよくわかりますが、ダイエットは「急がば回れ」です。1カ月に4キログラムも5キログラムも体重が減るのは、単に身体から水分が減っているだけです。だから、簡単にリバウンドしてしまいます。即効性よりも、「ダイエットに取り組むことが、本人の健康レベルの向上につながっている」ことが大切です。
■「お米を食べると太る」は間違い
「お米を食べるダイエット」こそが“正しいダイエット”を実現してくれる方法です。いまだにお米を食べると太ると思っている人が多いのですが、いい加減、この間違った考え方は改めましょう。お米のように安全で、栄養学的にも優れた炭水化物食品はほかにない、と言っても過言ではありません。
たとえばパンには、身体に悪いさまざまな添加物が含まれている商品が多いのですが、お米には添加物はゼロです。
お米は、良質のタンパク質や微量栄養素が多く含まれた食品です。精製した白米を「精白米」あるいは「うるち米」と呼びますが、そこにはビタミB1、B2、B6、ナイアシン、葉酸、パントテン酸、ビオチン、マグネシウム、カルシウム、ナトリウム、カリウム、リン、セレン、モリブデン、亜鉛、銅、マンガン、鉄、脂質、タンパク質、食物繊維などが含まれています。
アミノ酸も豊富で、玄米の段階では体内でつくることができない必須アミノ酸9種類(バリン、ロイシン、イソロイシン、スレオニン、フェルアラニン、トリプトファン、リジン、ヒスチジン、メチオニン)のすべてを含んでいます。
■実は良質なタンパク源
食品にどのくらいの種類の必須アミノ酸が、どの程度含まれているのかを示す指標のことを「アミノ酸スコア」と言い、100までの数字で表されます。このスコアが高い食品ほど、身体が必要とするアミノ酸を漏れなく、豊富に含んでおり、良質なタンパク源とされるのです。
精白米(うるち米)は、このアミノ酸スコアが93です。精製前の玄米では最高値の100です。小麦を調理したパンで51、乾燥パスタで49、うどんで51、コーンフレークが22などと見ていくと、主食として食べられる食品のなかでは、お米が非常に優秀なタンパク源であることがわかっていただけるでしょう。
ちなみにジャガイモが83、ソバが84で、海外では主食とされることもあるこの2つの食品は、アミノ酸スコアで白米に近いものがあります。ただし、日本の食習慣で主食として毎日食べる、というのはなかなか難しいでしょう。
また、白米のアミノ酸スコアが100ではないのは、玄米からの精米の過程で必須アミノ酸のリジンがなくなってしまうためですが、リジンが豊富な納豆などの大豆製品や、付け合せの鶏肉などと一緒に食べることで、必須アミノ酸のすべてを一度に摂れるようになります。

■お米を食べないのはもったいない
このほか、白米には脂質も含まれますが、その量は100gあたりわずか0.9グラムです。100グラムあたりのエネルギー量も、156キロカロリー(炊飯後)とさほど多くありません(炊く前は342キロカロリー)。
ごはんはパンなどほかの炭水化物食品に比べて消化が遅いので、腹持ちがよく、食事の満足感を得やすいという特性もあります。
過去、私が「糖質制限ダイエット」をしていたときには、食事をしてもなかなか満足感が得られず、疲れの回復が遅く、気持ちも落ち着きませんでした。白米のごはんであれば、カロリーはさほど多くないのに、食事をしたあとの満足感はしっかり得られます。
お米は栄養学的にも優秀な食品であり、太りやすい食べ物でもありません。食べないのは、もったいなさすぎるでしょう。
〈ここがポイント〉

お米は栄養バランスも非常によいため、食べない選択は非合理的。腹持ちもよいので、効率的に満足感を得られる
※調査の公表年度によって白米の栄養成分は上下しますが、おおよその傾向は変わらないでしょう。
■「お米を食べるダイエット」の基本ルール
先述したとおり、当初は「糖質制限ダイエット」を試みてうまくいかなかった私が、試行錯誤の末にたどり着いた正しいダイエット法こそが「お米を食べるダイエット」です。医者の立場からも、自信を持っておすすめできる内容です。
ここでは私自身が身も心も健やかなまま合計12キログラムの減量に成功した具体的な方法、特にその食事法についてみなさんにお伝えしたいと思います。

■朝食・昼食・夕食の割合を3:3:4にする
一般的に、朝昼晩のそれぞれの食事量の配分は、1:3:6など夕食の配分が大きくなっているケースが多いでしょう。朝食を抜いている人では、0:3:7など極端な配分になっているかもしれません。
しかし、時間栄養学の見地からすると、こうした夕食偏重の配分は太りやすく、体調も崩しやすい食事スタイルだと言えます。朝に食べるよりも夜に食べるほうが、摂取した栄養素が体内で脂肪に変わりやすいため、ダイエットによくないのは当然の帰結です。夕食にたくさん食べるのをやめて、朝食と昼食の割合を増やしましょう。
あまり神経質にならなくても大丈夫ですが、ざっくり朝食3:昼食3:夕食4の割合にするのがおすすめです。
■1週間単位で食べる量を調整してもいい
もしこの配分にできなかった日があれば、1週間単位で考えて調整してください。これが、「お米を食べるダイエット」の第2ルールとなります。
仕事の都合などでどうしても夕食を遅い時間にしか摂れないため、1日3食ではタイミングが合わない、という人もいるでしょう。そういう場合には、たとえば夕方におにぎりなどで一度、主食を食べておいて、家に帰ってから野菜中心のおかずなどを食べる、という形でも大丈夫でしょう。このように夕食を分けて食べ、朝食3:昼食3:夕食2:夕食2くらいの割合で「分食」すると、胃もたれもしにくく、太ることもありません。
もし、夕方に食べる時間がまったくなく、分食も難しいときには、家に帰ってからできるだけ消化のいいものを食べるようにします。炭水化物ならおかゆや雑炊、それ以外では豆腐や果物などが、胃腸に負担がかからないのでおすすめです。
〈ここがポイント〉

時間栄養学的に、夕食多めの食事スタイルは太りやすい。朝食を増やして夕食を減らすことで、バランスがよくなる。夕食は「分食」してもいい。
■和食の一汁三菜+ごはん1膳が基本
2013年に「和食:日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。登録された理由は、四季のある日本ならではの独特な料理技術、伝統、文化的な意義、健康に対する配慮など多岐にわたります。
健康的で安心して食べられる食事として、和食はいまや世界中で大人気です。私も和食が大好きで、ふだんの食事は和食中心です。私が12キログラムやせた際の食事のメニューも、たいていの場合、主食のごはん1膳(白米約150グラム)に、おかず3品と汁物が加わるいわゆる「一汁三菜」でした。
この伝統的な食事スタイルを、「お米を食べるダイエット」でも基本メニューとすることが最適だと思います。
一汁三菜は、具体的には次のような構成の食事です。
(一汁)

汁物 1椀 みそ汁、お吸い物などのスープ類
(三菜)

主菜 1皿 魚料理、肉料理など、タンパク質がメインのおかず

副菜 2皿 ほうれん草のおひたし、ひじき、切り干し大根、卯の花、煮物、サラダ、酢の物など、野菜や海藻のおかず。主菜に足りない栄養素を補う

■お茶碗1膳程度のごはんを加える
これにさらに、主食のごはん1膳(お茶碗1膳程度、約150グラム。図表3参照)を加えることで、5大栄養素(タンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラル)がバランスよく含まれた、栄養学的にも優れた献立をつくりやすい構成になっています。
仕事が忙しく、毎食のおかずをいくつも用意するのが難しい場合は、必ずしもおかずを三菜(3品)にしなくても大丈夫です。その場合、たとえばおかずは1品で、具だくさんのおみそ汁にするとか、具だくさんの炊き込みごはんにするとかでもいいでしょう。
■日本ならではのスーパーフードも取り入れる
なお、ごはん1膳が食べ切れないときや、加齢・体調などで量が多く感じるときは少なめに盛ったり(100グラム程度)、逆に足りないのであれば多めに盛る(200グラム程度)などして、量の調整をすることも問題ありません。
ただしあまり多く食べすぎると、さすがに栄養過多で太りやすくなったり、糖尿病になりやすくなったりする危険があります。適量を意識するようにしましょう。
このほか、和食には日本ならではの「スーパーフード」と言える食材もたくさんあるので、それらも積極的に食事に取り入れていきましょう。
〈ここがポイント〉

難しく考えなくても、和食の一汁三菜をごはんと食べれば、必要な栄養素をバランスよく摂取できる。スーパーフードも上手に取り入れたい。

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梅岡 比俊(うめおか・ひとし)

医師

医療法人社団梅華会 理事長。予防未病健康医師協会 代表理事。耳鼻咽喉科専門医。奈良県立医科大学医学部卒業。阪神地区に耳鼻科4院・小児科2院・心療内科1院、東京都内に消化器内科2院の計9院を展開。年間患者来院数は約17万人にのぼり、地域に密着した医療を提供している。2024年10月に新規開院した心療内科には、マインドフルネスセンターを併設。現代のニーズに合った医療を提供し、医療の幅を広げている。健康寿命の延伸を目指す全国の医師・歯科医師で構成された予防未病健康医師協会の代表理事も務め、この協会を通じ、連携による包括的な予防医学の概念を広める活動を全国で展開し、自院でもそのサービスを提供している。趣味は読書とトライアスロンで、世界の過酷なレースに参加するアスリートでもある。また、野菜ソムリエやファスティングマイスターの資格を所有し、真の意味での健康を追求し続けている。著書に『医者が教える最高のやせ方』(すばる舎)、編著書に『臨床経験豊富な100人の専門医が教える! 健康医学』(フローラル出版)があるほか、クリニック運営関連の著書も多数。

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(医師 梅岡 比俊)
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超一流の美術館が認めた0.02ミリ「薄すぎる和紙」で大逆転…倒産寸前の高知の町工場が打った「起死回生の一手」

人口約4600人の高知県の村に、倒産寸前の状態から、世界中の名だたる美術館や博物館から依頼が殺到するまでに復活した和紙工房がある。どうやって業績を立て直したのか。
ライターの甲斐イアンさんが取材した――。
■世界中の有名美術館を顧客に持つ高知の和紙会社
ルーブル美術館、大英博物館、オックスフォード大学、メトロポリタン美術館――。パンフレットの「取引先一覧」には世界的に有名な美術館や博物館がずらりと名を連ねる。これらが「高知にある小さな和紙会社のお得意さん」というから驚きだ。
高知市内から車で約30分に位置する高岡郡日高村。青い空と田園風景が広がる村の山裾に、世界中から注文が絶えない和紙会社「ひだか和紙」はある。創業は1949年。従業員はたったの10人ながら、世界37カ国にオーダーメイドの和紙を届けている。
「世界一薄い和紙を漉きます」
パンフレットの1ページ目には英語と日本語でこうキャッチコピーが書かれている。同社が製造するのは、薄さわずか0.02ミリの「世界最薄の和紙」だ。その薄さは一般的なハガキの10分の1以下で、人間の皮膚の角質層と同じという。うしろが透けるほど薄く、別名「かげろうの羽」とも呼ばれる。

■障子、襖の需要減で売り上げは減少し1度倒産
透過性が高く、それでいて丈夫な同社の和紙は、美術品や古文書など文化財の保存修復の分野では必需品とされている。常に数カ月待ちの人気製品を製造するに至ったひだか和紙だが、もとは襖や障子用の紙をOEM生産する田舎の和紙工場だった。1980年代以降、和室の減少とともに売り上げは激減し、倒産を経験したこともある。
「未来はない」と言われた和紙業界に新たなニーズを開拓し、家業の立て直しを図ったのは、5代目社長の鎭西(ちんぜい)寛旨(ひろよし)さん(57歳)だ。
「学生の頃は家業を継ぐ気なんて一切なかったですよ。家には常に反抗していました」
人口約4600人の小さな村を飛び出し、アメリカで金融マンを目指していた跡取り息子。勝ち目も応援もないなかで、いかにして地域の伝統工芸を世界に売り込んだのか。
■家業を継ぐことは考えていなかった
周囲を山と森に囲まれた日高村周辺は明治時代から和紙の生産で栄えた。地域で作られる土佐和紙は当時からその薄さが特徴で、岐阜県の美濃和紙などと並び、日本三大和紙のひとつに数えられる。
ひだか和紙の歴史は、1949年に日高村周辺の紙漉き職人10人が集まり「輸出典惧帖紙協同組合」を創業したことに遡る。1969年にはオリジナルの抄紙機(しょうしき)(紙を漉く機械)を開発して機械化を実現。丁寧な下処理を施すことで質の高い和紙を大量生産できる体制を整え、規模を拡大していった。

鎭西さんは1968年にひだか和紙の5代目として生まれ、日高村で育った。中学生の頃から和紙づくりを手伝ってはいたが、家業を継ぐことには幼い頃から反発していた。
「親族から跡取りとして口うるさく言われるのが本当に嫌で。家族経営だから家では社長の父と専務の母がお金のことでケンカばかり。正直に言うと、家のことは嫌いだったんです」
子どもの頃の夢はパイロット。母方の祖父がカナダ生まれだった影響で幼い頃から海外に憧れた。「いつか世界に行くんだ」と思いながら、中学校と高校では英語のディベートサークルに所属して語学力を磨いた。
■パイロットの夢を諦め、金融マンを目指す
しかし18歳で臨んだパイロット養成学校の入学試験は不合格。アレルギー体質だったことが影響して体格試験をパスできなかった。長年の目標を失った鎭西さんは「パイロットがダメならさっさと海外に行こう」と思い直し、20歳でアメリカに留学した。父からは猛反対されたが、母と祖父が応援してくれた。
「寛旨、アメリカはいいぞ! いってこい!」
祖父の言葉を胸に西海岸のシアトルに渡った。
高校時代に落合信彦などの経済小説が大好きだったこともあり、アメリカでは金融を学ぶことにした。語学学校とカレッジで3年間基礎を学んだ後、ビジネススクールに約3年半通った。
「家業と違って、モノを作って売る以外の方法で稼ぎたかったんです。M&Aなど会社の価値を高めて売却するようなダイナミックな商売がしたいと思っていました」
■「会社が潰れそうだ」実家からの電話
アメリカ生活が6年半を超えた頃、修了が迫っていた鎭西さんに実家から電話があった。「跡取りがいないと銀行が融資をしないと言っている。お願いだから帰ってきてほしい」と、帰国を懇願された。
当時、家業は火の車だった。住環境の変化により和室が減少し、襖や障子用和紙の生産が中心だった同社の売り上げは急激に落ち込んでいた。
鎭西さんが高校生の頃には曽祖父が仲間と立ち上げた組合が破産。経営を続けるために母の親族が負債を肩代わりし、1986年に「ひだか和紙有限会社」に名前を変えて再出発した過去もある。
実家が苦しい状況にあることを知っていた鎭西さんは、両親の願いを無下に断ることができなかった。就職が決まっていたアメリカの金融会社に断りの電話を入れて帰国の途についた。
1995年、27歳の頃だった。
「当時は、日本が嫌だったら会社を売ってアメリカに戻ればいいと思っていました。会社を誰かに譲るにしろ、自分が継ぐにしろ、まずは会社を立て直さないとダメだと思って。気持ちを切り替えて頑張ることにしたんです」
■カップ酒の空き瓶が転がる工房、ちらつく2度目の倒産
帰国後、鎮西さんは業界の商習慣を学ぶために、まず実家の取引先だった包装紙の卸会社に就職した。ひだか和紙は跡取りのめどがついたことで金融機関や得意先とも前向きな話が進められるようになった。大阪で営業マンとして6年半を過ごした後、2002年に34歳で故郷に戻り、ひだか和紙に就職した。社員として戻ってみると想像していた以上に家業は危機的状況だった。
「売り上げは低迷して利益率もすこぶる低い。そしてとにかく工場や事務所が汚い。これは本格的にやばいと思いました」
2000年代に入り、住宅や建具用の和紙の需要はさらに落ち込んでいた。これまで1万枚単位だった発注が5000枚になり、最終的に1000枚になった。大口注文が減って在庫を抱えるようになり、あれよあれよと資金繰りが悪化していった。

日高村は朝晩の寒暖差が激しい。身体を温めるために酒を飲みながら仕事をする職人も多く、工場内には工具が散らばり、床にはカップ酒の空き瓶がいたるところに落ちていた。事務所内には書類が整理されずに積み上がり、水道代や材料費、税金などの督促が何通も届いた。
2度目の倒産は確実に迫っていた。
■「強みを生かせ」で「和紙の薄さ」に再着目
焦りを感じた鎮西さんは、できることをとにかくやった。朝と晩に一人で工場の片付けをする傍ら、空いた時間を使ってビジネスセミナーに通い、片っ端からビジネス書を読み漁った。なんとか突破口を見つけようと必死だった。
「何個もビジネスセミナーに通って、何冊も本を読んで気付いたのは、どれも『強みを生かせ』と言ってるなって。それで『うちの強みってなんだ?』と考えた時に、やっぱり薄さしかないよなって思ったんです」
和紙作りは非常に繊細だ。材料の楮(こうぞ)を煮て繊維を取り出し、不純物を取り除いた後に細かく砕く。それを植物由来の粘り気のある液体「ネリ」と水に混ぜて出来上がった原料を薄く伸ばして紙ができる。
ひだか和紙では、不純物を取り除く作業を従業員の半分、5人がかりで行う。
時には水洗いを20回以上繰り返し、数日から数週間かけて塵や不純物を徹底的に取り除く。この「手漉き以上に手間をかける下処理」と抄紙機の微妙な力加減を研究し続けて、業界でもトップクラスに薄い紙を生産する技術を磨いてきた。
「この薄さが強みになる売り先はどこだろう」
■「薄い和紙」は文化財の保存修復にうってつけ
本や普及し始めたばかりのインターネットであらゆる可能性を模索したなかで、たまたま仏像や絵画、古文書など文化財の保存修復に和紙が使われていることを知った。
例えば古文書などの保存には、経年劣化を抑えるために古い紙の表や裏に和紙を貼って補強する。コピー用紙などに使われるパルプ紙の方が紙としての強度は高いが、50年後、100年後を考えると和紙のほうが強度が持続するのだという。
そのうえ和紙は柔らかく、折り曲げても破れにくいため平面のものから立体物まで対応できる。さらに薄ければ薄いほど透明度が上がり、文化財本来の色や文字の視認性を確保できる。まさに「薄い和紙が求められている市場」だった。
「セレンディピティっていうのかな。書店で偶然、自分に必要な本にパッと巡り合う感覚ってわかります? 何かないかって必死に探していた時にたまたま『文化財の保存修復』に出合えたんです」
■運命を変えた「一本の問い合わせ電話」
文化財の保存修復に可能性を感じた鎭西さんは、すぐに行動を起こした。
黄色い電話帳を開き、関係団体や企業に上から順にサンプルを送った。当時は見本帳も会社案内もなかったため、すべて手作りして封筒に収めた。作業は夜な夜な続いた。
家族からは「すぐに売り上げが上がるところを探してこい」と怒られた。勝算はなかったが「何かしなければ」との想いだけが鎭西さんを動かした。
しかし、全国に300通を超える封筒を送っても、良い反応をくれる企業はゼロだった。「やっぱりダメか」と諦めかけていた2007年の暮れ、鎭西さんが「一筋の光」と振り返る一本の電話がかかってきた。
それは国宝を含む仏像や彫刻などの修復を手掛ける団体からの問い合わせだった。
「東京の浅草にある浅草寺宝蔵門の仁王像の修復を手掛けていて、そちらの和紙を使ってみたい。試しにいくつか送ってほしい」との内容だった。
■売り上げはたったの1000円、でも…
雷門で有名な浅草寺といえば東京のランドマークのひとつだ。鎭西さんは持てるだけの和紙を両手に抱えて、事務所がある埼玉へ飛んだ。家族には「東京の既存顧客へ営業に行ってくる」と嘘をついた。
「最初で最後の希望のように感じていました。電話の後、埼玉にすっ飛んでいって、和紙を見せながら会社のこと、自分たちができることを、これでもかと語りました」
仏像の修復では、色落ちなどの進行を遅らせるために彩色層(色が塗られている層)に和紙を貼り付け補強する技法が用いられる。和紙の質の高さと鎭西さんの熱意を買われ、浅草寺仁王像の修復に、1m65cm四方の和紙を10枚使ってくれることになった。売り上げは当時の値付けでたったの1000円。しかし、鎭西さんにとっては希望の1000円だった。
■「損して得とれ!」の精神
浅草寺仁王像の修復に参加したことがきっかけで、ひだか和紙は翌年2008年に文化財修復学会の協賛会員となるチャンスを得た。関連企業や団体が多く参加する同会に所属できれば、さらなる営業の機会に恵まれる。鎭西さんはやる気に満ちていた。
しかし、会員になるには登録費として3万円が必要だった。当時、水道の支払いさえ滞ることもあったひだか和紙にとっては大金だ。さらに鎭西さんが営業の好機と考えていた学会の展示会参加にはさらに10万円がかかる。
「たった1000円を売り上げただけで、何を言ってるんだ!」

「先に払うべき督促状は山積みだ! そんな金はない!」
両親からは応援されるどころか怒鳴られることも多かった。それでも鎭西さんの気持ちは変わらなかった。
「薄さが特徴の和紙が活躍できるのはその道しかないと思ったんです。確実に売り上げが立つ見込みはない状態で、正直、僕も怖かったですよ。でも『損して得とれ!』の気持ちで、やるしかないと思ったんです」
■文書の最高機関からもらった「お墨付き」
ひだか和紙は幸運にも伝統技術の産業振興を支援する国の補助事業に採択され、ギリギリで活動費を工面することができた。学会員になったことをきっかけに、鎭西さんの取り組みは、家族の予想に反して好転していく。
学会に所属してしばらくして、事務所にまた電話がかかってきた。今度は国立公文書館から和紙を使いたいとの依頼だった。
国立公文書館とは、全国の図書館や公文書館の総本部のような場所だ。日本国憲法の原文や「玉音放送」として知られる「終戦の詔書」など、国の重要な公文書が保存されている。
鎭西さんは電話口で用件を聞き、また親に内緒で東京に飛んだ。
鎭西さん曰く、紙に関しては日本が世界でもっとも古い歴史がある。中国の古い書物は竹が使われていて、ヨーロッパでは羊の皮「羊皮紙」が用いられた。木の繊維から作る紙の利用は日本がずば抜けて長い歴史を持ち、和紙を使った保存技術は世界から注目されていた。
文書や書物の最高機関とも呼ぶべき国立公文書館には、日本のみならず世界中から保存修復技術を学ぶ人たちが集まる。世界の有名美術館にはここで技術を学んだ職人も多い。同館の「お墨付き」をもらったことで、ひだか和紙の評判はじわじわと全国各地へと広まり、徐々に保存修復用の和紙の依頼が入るようになっていった。
■問い合わせはついに海外からも
国内での知名度が少しずつ上がり始めたころ、ひだか和紙にある一通の問い合わせメールが届いた。
「公文書等の保存修復にあなたの和紙を使ってみたい。4、5枚を送ってくれないか」
差出人は「オックスフォード大学」。イギリスの超名門大学からのオファーだった。驚いた鎭西さんはすぐに和紙をイギリスへと送った。5枚分の売り上げは800円。海外取引の勝手がわからず、イギリスからの振り込みと両替の手数料2500円をこちらで負担することになってしまった。完全な赤字だったが「損して得とれ」の精神はここでも続いていた。
続けざまに今度はフランスのルーブル美術館からもメールが届いた。その後もドイツの博物館など、ポツポツと海外からの問い合わせが続いた。
「Louvre(ルーブル)って綴りが最初は読めなくてね(笑)。『え、あのルーブル⁉』ってびっくりしましたよ。国立公文書館経由で知ったのか、ヨーロッパの職人の口コミか、詳しいことはわからないんですが、海外から問い合わせが入るようになったんです」
海外の需要の高さを感じた鎭西さんは、サンプルを持ってヨーロッパに飛ぶ決心をした。渡航費用は補助金や借金でどうにか工面した。国立公文書館の紹介を頼りに美術館や博物館にアポイントをとり、2月のある寒い冬の日、まずはドイツに飛んだ。
■ヨーロッパに飛んで気付いた「これなら勝てる」
世界トップと言われている日本の和紙を使った保存修復技術はヨーロッパにも浸透していた。
ドイツを周り、その後、フランスのルーブル美術館、イギリスの大英博物館など、名だたる施設を巡って現場を観察した鎭西さんは、日本との違いに驚くことばかりだった。
それは鎭西さんがロンドンにある有名博物館を訪れた時のこと。絵画の保存修復を担当する職人に「前任者が買って大切に使っていた和紙がなくなりかけている。新しく購入したいのだが、まずはどんな紙なのか調べてほしい」と言われた。
美術品のなかには、レオナルド・ダ・ヴィンチの直筆スケッチなどもあった。和紙は用途によって必要な厚さや質が異なる。だが、修復予定の美術品に使われていた和紙は、本来求められる品質とはまるで異なるものだった。
「『え、本当に⁉』と驚きましたよ。他の施設でも、使われている多くは普通の障子紙より少し薄いくらいのぶ厚い和紙でした。聞くと、ヨーロッパにも日本の和紙を卸す会社はあるけれど、商品に限りがあったり、対応が遅かったり問題も多かった。海外の現状を見て初めて『ここで商売したら勝てる』と思ったんです」
自分たちには知識と経験、そして何より薄くて丈夫な和紙がある。鎭西さんは英語が堪能だ。直接取引をすればコミュニケーションロスも少ない。鎭西さんは目の前に広がる可能性にワクワクした。
■「2位じゃダメ」世界一薄い和紙の開発に着手
当時、ひだか和紙が作るもっとも薄い和紙は、1平方メートルあたり3.5gのものだった。それでも日本トップクラスの薄さを誇ったが、海外にはもっと薄い紙を漉く職人がいた。「2位では誰にも覚えてもらえない」と思った鎭西さんは、世界一を目指すことを決意する。
「ドイツに『1平方メートル2.0g』の紙を作っている手漉き職人がいるのは知っていました。手漉きだと時間がかかって量産ができない。機械漉きで世界一を超えれば、市場でより目立てると思いました」
こうして世界一薄い和紙を作るプロジェクトが始動した。鎭西さんと若い社員2名の3人で開発チームを組み、業務終了後や土日に集まって開発を行った。親族からは引き続き反対されていたので、秘密裏に動く必要があった。楮を使いすぎるとバレるので無駄使いはできない。深夜の工場でひっそりと活動が続いた。
和紙は、伸ばす力と引っ張る力のバランスで薄さが決まる。原料の粘度、漉くスピード、機械の角度と力加減など、和紙づくりを構成するさまざま要素をミリ単位で調整した。実際に漉いて様子を確認してメモをとる。地道な作業の繰り返しだった。
「薄くしたければ薄くすることはできるんです。でも途中でどうしても穴が空いてしまう。うちの規格は長さ60mでワンロールです。薄さを追求しつつ少なくとも60mは破れない和紙を作ることが完成の条件でした。いい塩梅を探すのに必殺技なんてありません。すべてトライアルアンドエラーです」
■2年間の試行錯誤の末、0.02ミリの和紙が完成
100メートルを走るオリンピック選手が0.01秒を縮めるのに苦労するように、世界一薄い紙を作るには並大抵以上の努力が必要だった。試行錯誤の日々は丸2年続いた。
「大変だと感じたことはないですね。むしろ面白かった。これができたら会社もなんとかなるぞって希望があったし、『お客さんの要望に応えたい』ってことしか考えていなかったです。ついてきてくれたメンバーには本当に感謝しています」
試行錯誤の末、2012年に世界最薄と並ぶ薄さの機械漉きの和紙をついに完成させた。さらにその1年後には世界最薄を上回る厚さ0.02mm、1平方メートルあたり1.6gの和紙が完成した。
■海外の取引が3割を超えるまでに
世界一薄い和紙が完成してからも、鎭西さんの足で稼ぐスタイルは変わらなかった。世界一の冠がついたことで国内外のメディアから取材を受けるようになり、問い合わせが増加。家族からもやっと認めてもらえたことで、それまで以上に全国各地を営業に駆け回った。
会社案内やサンプルは日本語と英語を併記して作成。webサイトもバイリンガルに作りかえた。パンフレットに英語を記載したことで外国でも配りやすくなり、口コミとともに加速度的に認知度が広がっていった。
さらに2014年からはヨーロッパのほか世界各国で和紙のワークショップを開催。営業やコネクション作りと併せて、和紙の作り手と保存修復の職人が相互に学び合う場作りにも挑んでいる。
現地で日本人の修復師によるデモンストレーションを行ったり、和紙を使った修復方法を職人同士で意見しあったりし、会場はいつも活発な議論で賑わった。
「世界中の美術館、博物館の修復師と話をしていると、世界トップクラスの技術を持った人たちのはずなのに、和紙の知識や使い方が正しく伝わってない場合も多いんだなとわかりました。和紙の作り方にしても、機械に原料を流し仕込んだらできると思っている。ひだか和紙では手漉きの紙以上に手間かけて作っているのを伝えると驚いていましたよ」
こうした努力の甲斐あって、鎭西さんが2016年に社長に就任した頃には海外からの取引は全体の3割を超えた。
■「やれることは何でもやる」姿勢
和紙の価値を理解してくれた顧客と、適正価格で直取引ができることで利益率は大幅にアップ。ほとんどがオーダーメイドなため、技術力とともにアイデアや提案力も売値に載せられるようになったことも売り上げ向上につながった。
ワークショップはヨーロッパを超えて、アメリカや韓国、ブラジル、トルコ、エジプトなどでも行われた。数千年の歴史を未来に残す仕事に携わりながら、鎭西さんは和紙を抱えて文字通り世界を走り回っている。
「和紙は薄ければいいってもんじゃない。用途によって適切な薄さや色、質感があります。これまで培ってきたデータと照らし合わせながら、最適解を一緒に考えられるのがうちの強み。『なんでもやれることは精一杯やります』という姿勢がお客様に支持されているんだと思います」
■こだわりがないのがこだわり
2025年1月現在、ひだか和紙の取引先は全世界37カ国にわたる。オーダーは数カ月待ちの人気だ。売り上げは右肩上がりで推移し、全体の4割が海外だ。
ひだか和紙の経営は大幅に改善し、営業利益は大幅にアップ。職人さんへの給与も鎭西さんが入社した2002年頃と比べて倍近い額を払えるようになった。
「成功の秘訣は特にないんですが、強いて言えば、お客さんが求めるものに集中することですかね。特に伝統工芸の作り手って『自分のこだわり』が強い人も多い。うちはね、こだわりがないことがこだわりなんです」
ひだか和紙では薄さのほか、色や質感などを変えて1000種類以上の紙を作ることができる。「お客さんが求めるもの至上主義」と話す鎭西さんのもとには、文化財の保存修復以外にもさまざまな分野からの相談が後を絶たない。
2017年からは有名腕時計ブランドのハイエンドモデルの文字盤に、ひだか和紙の和紙が使われている。東京の新国立競技場のVIPルームや都内の超高級ホテルのスイートルームの壁紙にも採用された。有名アーティストや高級インテリアブランドとのコラボ商品も増えている。
文化財保護の分野では、和紙の役割はいわば「裏方」だ。裏方での仕事ぶりが評価されて、今ではひだか和紙が作る和紙の質感を存分に活かした「前に出る仕事」が多くなっている。
「うちはたまたま薄い和紙が得意だっただけ。大発明や大発見なんてしていません。何かを少し足したり引いたりして、柔軟に考えて工夫してみること。そこが一番大切かなって思いますね」
■反対されても、格好悪くてもやってみる
鎭西さんの今後の目標は「『和紙の辞典』のような会社になること」だという。曽祖父の代から75年間以上培ってきた技術と経験とデータを活かして、どんなリクエストにも応えられる「紙のパートナーになりたい」と話す。
「うちで作る和紙だけでなく、世界中のいろいろな紙をお客様に紹介しながら、求めるものに応じて一番いい提案ができる存在になりたいんです。うちに言えば何かあるんじゃないか、何かできるんじゃないかって思ってもらえたら嬉しいですね」
お客様の要望にどこまで応えられるか。その忍耐力への挑戦だと鎭西さんは話す。
「反対されても、格好悪くても、まずはやることが大事なんですよね。とにかくなんでもやってみる。子どもの時からそういう性格なんです。これはもう一生治らないですね」

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甲斐 イアン(かい・いあん)

ライター

1989年千葉県生まれ。過疎地のPR・地域活性化に携わったのち、フリーライター・イラストレーターとして独立。徳島県在住。特技はバタフライ。

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(ライター 甲斐 イアン)

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