『女性スペースを守る法案』は制度的整合性を回復するための法案である
井上恵子
イギリス最高裁の歴史的判断から見る法的整合性の重要性
2025年4月、イギリス最高裁判所は平等法(Equality Act 2010)における「女性(woman)」の定義について、「この文脈においては生物学的女性を指す」とする全会一致の画期的判断を下しました。この判決は特定の集団を排除するためではなく、制度設計における「女性」という概念を、目的と文脈に応じて適切に整理するものです。
同時に、重要な点として、性別の変更を意図し移行している人々は、「性別適合[*1](gender reassignment )※手術の有無は問わない」という独立した保護特性によって差別から守られることが明確に示されました。このように、複数の異なる保護カテゴリーを適切に使い分けることで、社会的包摂と実務的な運用の両立が実現されています。
日本の法案──同じ課題に対する合理的アプローチ
現在国会での提出が期待される『女性の安心・安全な施設利用のための環境確保を促進する法案』(通称:女性スペースを守る法案)も、この国際的な議論と同じ方向性を持ち、同様の法的整理を目指しています。
本法案は、女性専用空間において「女性」として扱われる対象を身体的特徴に基づいて明確に定義することで、利用者の安心を確保すると同時に、現場の判断に苦慮する施設管理者に明確な指針を提供します。これは単なる線引きの問題ではなく、公共空間における相互理解と信頼の基盤を構築するための制度的枠組みです。
声なき声を救い上げる法的基盤の必要性
近年、性別の境界があいまい化したことにより、女性が感じる不安や違和感を表明すること自体が困難になっています。「差別主義者とレッテルを貼られるのではないか」「排除的な人間と見なされるのではないか」という懸念が、当事者の正当な声を抑圧しています。
身体的プライバシーに関わる空間で不安を感じた際に、それを率直に伝えられる社会環境の整備は、すべての人の尊厳を守るために不可欠です。そのためにも、空間へのアクセス権を制度的に明確化することは、単なる排除ではなく、相互尊重のための基礎となるのです。
包摂と区別の両立──法案の均衡のとれた設計
本法案では「身体的特徴に基づいて男女を区別する」との条文が明記されていますが、これは性別適合手術を受け、特例法に基づき法的に性別を変更した人々を排除するものではありません。
対象となるのは、身体的には男性の特徴を有したまま女性空間へのアクセスを求めるケースです。現実社会における混乱やリスクが可視化される中、最低限の区分けを明示することで、すべての当事者の権利と尊厳を守る均衡のとれた枠組みを提供するものです。
制度否定論との区別──建設的議論の必要性
他方で、「法的に女性になっても、生物学的男性は永遠に男性である。だから法的性別変更は即時廃止すべきだ」とする極端な立場も存在します。こうした制度否定論者は、現実社会における共存のための調整努力さえも「女性を差別している」と断罪する傾向があり、対話を阻害しています。
そもそも、女湯や女子トイレといった空間において、身分証明も身体的特徴も「女性」と見なされる場合、そこに「生物学的性別による区別」を適用し、法律を執行すること自体が極めて困難であるという現実があります。こうした構造を無視し、「排除のための法案」と誤解することは、かえって現場を混乱させ、公共空間の信頼と安全を損なうことになりかねません。
女性専用空間の保護は「排除の政治」ではなく、むしろ多様な立場にある人々が共存するための制度的枠組みを提供するものであることを、より丁寧に社会に示していく必要があります。
現実社会と制度の橋渡し
本法案は特定の集団を否定するためではなく、「すべての人が尊厳を持って公共空間を共有できる社会」を実現するための制度的基盤です。
国際的な議論の潮流からも、また現場の切実な声からも、「女性とは誰か」という問いに対する制度的回答は避けて通れない課題となっています。感情論や思想的対立ではなく、実務的な制度設計として何が最適か—この問いに真摯に向きい、すべての人の尊厳と安全を確保するための現実的な解決策として、『女性スペースを守る法案』は広く社会に理解されるべきものです。
[*1]
訳語「性別適合(gender reassignment)」について
“gender reassignment” は、イギリス平等法(Equality Act 2010)において、医療的措置の有無にかかわらず、性別の変更を意図し、社会的・生活的に移行している人々を対象とする保護特性です。
翻訳にあたっては、正確さを重視する文脈では「ジェンダー適合」などの訳語が適していますが、専門用語としての普及度や一般読者の理解を考慮し、日本語として定着している「性別適合」を本文中で用いています。誤解を避けるため、適宜原語を併記しています。