先日、娘とケンカをした。
原因は、ささいな言葉のすれ違いだ。
娘と日本舞踊の舞台について話している時に、彼女が”当然”と思っている業界の常識や専門用語を私に使ったから。
でも、私にはわからない。
そのために、勘違いをしてしまった。
「もっとママにもわかるよう…わかりやすく説明してよ!?」
「そうしようと意識はしているけれど、いつもいつも完璧にはできないよ。ママだって私にわからないところを聞けばよかったでしょう!?」
よくある水かけ論(笑)
でも、このやりとりが私のもやもやを吹き飛ばしてくれた。
連休に千葉へ小旅行に行った時のこと。
千葉駅に「ストリートピアノ」が置いてある。
どこかの高校生?らしき男性が、弾いていた。
誰かが立ち止まるわけでもなく、ただ自分で楽譜を見ながら弾いて…しばらくすると立ち去った。
何だろう…このもの哀しさ…。
場所が広すぎるからか?
いや、それだけじゃない。
聞きたくもないのに‥なぜ彼の練習中のような演奏を私は聞かされなければならないのだろう?
そもそもストリートピアノは何のためにある!?
さまざまな思いが錯綜する。
帰り道、いつの間にか無口になっていた。
娘に「表現(伝える)とは何か」を語りながら、気づいた。
若い頃の演劇経験にはじまって、講演やカウンセリングにおいて私は表現のプロフェッショナルだ。何冊かの著書もそのひとつ。
主張したいコンテンツとは別に、相手の視点に立ったわかりやすさに定評がある。
お金を出してまで観たい・聴きたい・読みたいになるためには、常に研磨研鑽する姿勢とともに消費者目線が大切だ。
ひとりよがりな”自己満足”は、押し付けになる。
公共の場で、そんな演奏を聞いた日には…耳をふさぎたくなるのも当然であろう。
ストリートピアノは、おそらく‥皆で楽しく演奏をシェアする狙いで置かれたものだ。
(けっして自由に練習に使ってもいいよ、みたいなものではないだろう(-_-;))
それなら、ただそこに置くだけではなく、住民が集うような動線と場づくりが必要になる。
勝手に楽しんでください~では、何のための設置か。
出演料を支払ってでも聴きたいプロの演奏というわけでもなく、コミュニケーションの手段でもない中途半端さが私をいらだたせたのだ。
「あなたも芸術を通して自己表現するのなら、中途半端はだめよ!」
と娘に言うと、
「何度も聞かされているから(押し付けだ(笑))、わかっているわよ!」
と返ってきた。
「表現には、ストイックさが必要なのよっ!」
そう言いながらパソコンの前に戻った。
2025年1月31日
今日は今月の棚卸をせねば…帳票をプットアウトしながら。









