持続したフェミニズム社会の実例、読書感想文 ~ 女たちの王国: 「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす~|匿名用アカウント|note

アーカイブされた 2022年12月15日 13:19:40 UTC
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持続したフェミニズム社会の実例、読書感想文 ~ 女たちの王国: 「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす~

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フェミニズムを正しく評価する物差し

 フェミニズムとは、いったい何だろうか?
 それは有用で有益な思想なのか。それとも、一部の人達が述べるように、むしろ有害で破滅的な考え方なのか。
 論争は常にある。
 だが、その議論はあまりに非建設的だ。
 アンチフェミニストは、しばしばフェミニストの論理的矛盾を指摘する。それはダブルスタンダードであるとか、一種の逆差別であるとか。しかし、論者の未熟さをもってフェミニズム自体の価値を決定することができるだろうか?
 フェミニズムは雄弁術ではない。仮にフェミニストがディベートに勝つことができないにせよ、それだけではフェミニズムの価値を否定することはできない。
 フェミニズムは論理学ではない。社会運動である。ならば理屈はどうあれ、それによって社会が好ましい方向に変革されるのであれば、有用であると評価できよう。
 だが、アンチフェミニストは、ここでまた、異論を差し挟むことだろう。
 現にフェミニズムの弊害は明らかだ。日本を見ろ、いや韓国を見ろ……対馬を挟んだ向こうの半島では、男女二人から生まれる子供の数が一人以下にまで下がったぞ、と。フェミニズム国家と呼んで差し支えない北欧諸国はどうだ。フィンランドは三十代の女性首相を旗頭に据えているが、出生率は依然、危機的な水準にあるではないか。
 だが、ここに至ってもなお、フェミニストには抗弁の余地があろう。なぜなら、継続されたフェミニズムによって社会がどうなるかを、今の時点では誰も評価できないからだ。
 今、先進諸国で出生率の低下が起きているのは、あくまで社会の過渡期だからではないのか。もしさまざまな不利益が生じているとすれば、それは古い家父長制の文化との摩擦が原因ではないか。社会が完全にフェミニズムによって置換されれば、アンチフェミニストが述べるような諸問題はおのずと解決するとしたらどうか。
 実際、フェミニストの反論は、そのような文脈において行われることが多い。男性のつらさの構造はフェミニズムの影響ではなく、既存の家父長制社会に原因があるのだとされる。
 とすると、フェミニズムを正しく評価するには、実際に完成されたフェミニズム社会というものを目にするまでは、判断できないことになる。
 しかし、そうなると大きな問題が出てくる。
 それはあまりに壮大な社会実験だからだ。
 もしフェミニズムの理想の実現が甚大な被害をもたらすものであったとすれば、どう始末をつければよいのか?
 そこで名案がある。過去に具体的な事例があれば、実際に社会を変革せずとも、結果を観察できる。
 だが、残念なことに、私達がよく知る社会の数々は、どれもフェミニストに言わせれば、程度の大小こそあれ、どれも家父長制社会なのだ。
 広大な中国大陸の大部分は、長らく家父長制の支配下にあった。儒教を国教とするようになって以来、二千年にわたって歴代王朝は男性の優越を認め、女性は嫁ぐまでは父、結婚後は夫の管理下に置かれた。
 もちろん、女性の権力者も存在はした。武則天は中国史上唯一の女帝だ。だが彼女も、あくまで男性社会の女性指導者であったに過ぎない。太平公主という娘がいながら、次期皇帝に据えることもなかった。上官婉児のように、政務に携わった形跡の垣間見える女性もいたが、彼女に与えられたポストはあくまで女官のもので、宰相を務めたのは狄仁傑である。
 古代ローマも、家父長制に基づく社会だった。共和制末期までは、女性の家父長権は結婚前には父、結婚後は夫に属するものとされた。それが帝政期に差し掛かる少し前から、結婚後も父に属するものと改められ、これが自由な富裕層女性の存在を生むようになるが、それでも原則、彼女らは父という男性の支配下に置かれる存在だった。
 売春婦の値段も安かった。現代に換算するならば、せいぜいのところワンコイン以下のコストしか必要ではなかった。それでいて十分に楽しめるものだったらしく、火山の噴火で壊滅したポンペイの遺跡からは、とある風俗店を激賞する香料商人の落書きが見つかっている。
 多くの近代社会もまた、家父長制かそれに近い形態をとっている。そこでは女性の人権は大幅に制限されていたし、その立場は軽視されていたといえる。
 実際、十九世紀まで、ヨーロッパでは女性の地位が低かった。例えば、あの『三銃士』の時代、リシュリュー統治下のフランスにおいては、実に気軽に強姦が繰り返されていたらしい。『強姦の歴史』には、こんな事例について述べられている。
 時計職人のメネトラは、友人のゴンボーと一緒に公園を散歩中、逢引するカップルを見つけたので、二人を襲って女性を強姦した。あまつさえ、それを悪びれもせずに日記に書き残した。このような女性、つまり人目を忍んでの自由恋愛を楽しむ女性というのは、夫なり父なりの家父長権の下に保護されているとは考えられず、自らそれを放擲したがゆえに、その性的権利を尊重する必要がなかったためだ。
 窃盗や強盗には即座に縛り首だった時代でも、山羊飼いの娘への強姦は「治安維持上、やむを得ない犠牲」などとして黙認された。
 問題はむしろ、男性が女性と正しくセックスしないことだった。かつてカリブ海の島々にヨーロッパ人が渡航したとき、カトリック教会は二千人規模の売春婦を派遣することさえ検討した。というのも、深刻な女性不足に見舞われた現地では、バッカニア達が男性同士でのセックスをするしかない状況に置かれていたからだ。牛肉を燻製にする彼らは見た目にも薄汚れ、それが互いに「醜悪な行為」に耽っていたというのだから、教会としては目を覆わんばかりだったに違いない。けれども、そんなところに送り込まれる売春婦達にしてみれば、まったくそれどころではなかった! 幸い、計画は実現しなかったらしいが。
 このように、豊富な歴史的資料を有する巨大な社会の数々は、多かれ少なかれ、どれもある程度の男性優位がみられるのであり、フェミニズムの達成された社会のモデルとしては機能しない。
 しかし、辺境に目を向ければ、例外に出会うこともできる。
 そこで今回、私が紹介したいのは、モソ人の社会だ。
 モソ人は、家父長制ならぬ「家母長制」を敷く、世界でも珍しい民族集団である。そして大変喜ばしいことに、彼らについての詳細な記録を日本語で読むこともできる。といっても翻訳だ。しかし、フェミニズムの是非を論ずるためとなれば、これほど好ましい書籍もあるまい。
 著者のワァイホン(本書の表記に従う)は中国系の女性で、フェミニストを名乗っている。シンガポールで弁護士をしていた経験もあり、十分に教養もある。彼女は、少しモソ人の取材をしただけのジャーナリストとは違い、まさしく彼らの社会に溶け込み、彼らのように暮らした人物でもある。本書の中でも「半分モソ人」と言われるようにまでなっている。
 彼女は学者ではないので、その記述が定量的に正しいかどうかについては、確認が取れない。しかし、少なくとも見聞した事実については、ありのままに記述しているものと考えられる。もし本書において語られる内容にケチをつけようと思うのであれば、その人自身が中国の雲南省にまで乗り込んでいって、実際にモソ人の暮らしぶりを目にするしかないだろう。
 このような貴重なサンプルがあるのなら、参考にしない手はない。
 しかし、本書の紹介と説明、評価に移る前に、先に片付けておかなくてはならない問題がある。
 それは「フェミニズムとは何か」「家父長制とは何か」という問いだ。

合法レイプ社会

 話を分かりやすくするために、端的に述べよう。
 フェミニズムの目的は、徹底して女性の性的自由にある。そしてフェミニストにとっての家父長制社会とは、合法レイプ社会である。
 もっとも厳密な形での家父長制社会を思い浮かべてみよう。娘は父の管理下に置かれ、自由恋愛など許されない。そのような機会をもつこと自体が罪悪とされ、これを避けるために外出の自由も制限される。また、服装にも制限がかかる。結婚相手は父が決定する。結婚後は、夫の命令に従わなければならない。
 このような状況を維持する目的もあって、女性には生活上のさまざまな制限が課せられる。まず、教育を受ける機会を制限される。これによって就業可能な職種も限られてくる。自立して生計を営めない彼女らは、夫に依存するほかない。
 身体能力に制限を受ける場合もある。中国では長らく纏足の習慣があった。アラビアでも、特に身分の高い女性ほど、まともに歩くことができなかった。千一夜物語の中の一場面では、婚礼の夜、ずっと花婿のために我慢して立ち続ける花嫁の苦痛が描かれている。
 だから、彼女らは、女性の仕事として認められた仕事だけをこなし、夫からの性的欲求に応じて、やっと生き延びることができる。
 このような社会においては、女性には性的自由は一切ない。一方的に分配され、消費されなければならない。
 では、現代日本は家父長制社会と呼べるだろうか? フェミニストの視点に立つならば、不完全な家父長制社会であろう。
 女性にも教育の機会が与えられる。能力に応じて、就業の自由もある。働いて得た賃金は、彼女自身のものだ。服装も自由であり、外出も自由である。恋愛や結婚もまた、本人の自由意志に基づく。
 これだけみれば、既に女性は解放されている。では、何が不満なのか。
 自由ではあるが、不自由な部分が残っているからだ。
 一つには、結婚制度がある。もし女性が結婚したら、夫以外の男性とはセックスできない。また、彼女自身は独身でも、恋愛の相手が既婚者であれば、これも許されない。また、最近では夫が相手でも強姦が成り立つ場合もあるものの、正当な理由のない性交渉の拒否は、離婚事由になる。つまり、妻は夫の要求を不当に拒絶してはならない。
 だからこそ、例えばフェミニストの上野千鶴子は「性的自由を手放すなんて恐ろしい」と述べ、生涯結婚しないのだ。
 また、結婚制度は別の面でも女性の性的自由を奪っている。
 というのも、夫婦は生計を一にするからだ。となれば、当然、女性はハイパガミーを選択したくなる。より収入の高い男性と結婚することで、生活水準を高めることができるからだ。これは売春に似ている。売春とは、金銭を手に入れるために性交渉に応じることだ。これをフェミニズム的文脈で言い換えるとすれば「経済的価値と引き換えに性的自由を奪われる」ことだと表現できるだろう。
 しかし、現に男性は働くし、その経済力の程度はさまざまながら、実際に経済的価値を有している。男達がお金を持っている以上、そして女性の性的価値に魅力がある以上、お金とセックスの交換は起こり得る。だが、それを公平な取引と認めるのは、フェミニストとしては我慢ならないだろう。男達は、女性が欲しくて欲しくてたまらないお金をちらつかせることで、自由意志を奪っているのだ。
 要するに、男性の側に交渉権が残されている状況では、どうしても女性は、場合によって自分の性的自由を諦めざるを得なくなる。性的不自由即ちレイプであり、この性的不自由を容認する社会は合法レイプ社会である。
 ゆえにフェミニストは、たとえ法的に男女平等が達成されていようとも、なおも闘争を続けずにはいられないのだ。
 では、どうすればフェミニストを納得させることができるだろう?
 その答えが、モソ人の社会にある。

歴史と文化のタイムカプセル

 では、遅まきながら、モソ人とは何者かについて、簡単に説明しよう。
 モソ人は、中国の少数民族で、ナシ族の一部とされている。
 ナシ族は、中国の南西部、雲南省や四川省に居住している。三国志に詳しい方に説明するなら、という一文字があれば足りるだろう。山がちな地域だ。モソ人も、雲南省や四川省の境、ルグ湖の畔に居を構えている。
 モソ人とナシ族の間には共通点も少なくない。言葉も六割がたは通じるという。だが相違点も大きい。後述するが、モソ人には通い婚の習慣があり、ナシ族にはない。そしてモソ人は、自分達をナシ族だとは考えていない。あくまで中国政府の分類によって、そう定められているに過ぎない。
 ナシ族には麗江という大都市があり、そこはチベットとの茶馬交易の拠点となっていた。明代には中国に服属し、その文化を受け入れてきた。
 それと比べてモソ人はというと、長いこと外部との交流をあまり持たずに暮らしてきた。ルグ湖は辺境にある。麗江から馬で一週間という辺鄙な場所なのだ。それも高原地帯の山道を二百キロ。事実上、文化的にも隔離されてきたと言っていいだろう。
 本書の記述に従うと、十三世紀のモンゴル軍の襲来によって、ルグ湖の東岸はモンゴル化し、父系社会に切り替わったという。だが、西岸の集落は、それ以後もずっと母系社会を守ってきたのだそうだ。
 モソ人は、母系社会を構成している。そして、結婚という制度がない
 家族は祖母を頂点として構成される。女性は夫を持たず、通い婚する男を受け入れる。これを走婚(セイセイ)という。だからモソ人の女性は、全員シングルマザーであるといえる。
 ではさぞ困窮するだろうと思うところだが、そこは問題ない。財産の相続権は女性だけにある。つまり、家も農地も、すべて祖母から母へ、母から娘へと譲渡される。男達には分配されない。では男達はどうやって生活していくかというと、祖母なり母なりに養われるという形となる。もちろん自身も働くが、その収入は基本的に母の手に渡る。
 男達には、政治的権力もない。村長を選ぶ権利は、女性だけにある。ただ、被選挙権は男にもあるらしく、男性の村長が選ばれないわけではない。
 要するに、男性の側には、ほぼ一切の交渉権がない。
 例えば、お金と引き換えに結婚を迫ることはできない。そもそも男には財産がないからだ。
 結婚を命じることもできない。村長を選べるのは女性だけだからだ。
 だから女性は、自分がセックスしたいと思ったときだけ、すればよい。
 そして、経済的にも政治的にも、女性は男性から一切の制約を受けない。
 なるほど、フェミニストの理想が体現された社会であるといえそうだ。
 では、本書を読み解きながら、詳しくモソ人の世界を見ていこう。

モソの世界観

 神々の姿には、その社会に生きる人々の価値観が反映される。例えば、シュメール人の太陽神はウトゥ、月神はナンナで、いずれも男神だった。メソポタミア地方は早くから発展し、ヒトやモノの交流が激しく、また紛争が繰り返された地域だから、神々にも力と権威が求められたのかもしれない。
 では、モソ人にとっての神々はどんな姿をしているのか?
「今日は転山節、ゲムの山の女神様をお祭りするこの日を祝うためにここに集まったんです。この日がくるのを一年中待っていました」と答えてくれた。(本書29ページ目、以下p29のように略す)
 モソ人の宗教は複雑だ。
 彼らがまず崇拝しているのが、山の女神ゲムだ。ゲムは美しい人間の女性として生まれたが、そのあまりの美貌ゆえに鬼神すら夢中になってしまい、ついに彼女を連れ去り、独り占めにしてしまった。それを悲しんだモソの人々が天帝に訴えると聞き届けられ、ゲムはモソ人のところへ返された。ところがどういう手違いか、人としてではなく、山の女神になってしまった。以来、彼女はモソ人を見守り続けているのだという。
 ゲムはモソの女そのものだ。近くに聳える山々は彼女のアシア……つまり愛人で、彼女は特定の相手にとらわれることなく、気の向くままに愛を交わす。お祭り騒ぎが大好きで、ギャンブルにも熱くなる。
 それにしても、ではゲムを救った天帝とは誰だろう? 中国の神話に出てくる天帝だろうか? その辺、本書の中では説明がないので判断できない。
 神はゲムだけではない。モソ人は多神教で、太陽神も月神も存在する。これらはいずれも女神だ。また、ルグ湖も女性である。本来の名前はシェナミ、つまり母なる湖なのだから。
 本書の中では、性別が語られない神々も登場する。新居を建てたら囲炉裏に火を入れ、祈りを捧げる。火の神や、東西南北の方位にも、それぞれ対応する神々がいるらしい。
 この点、ナシ族と似通ったところがある。ナシ族も自然崇拝的な多神教で、数えきれないほどの神々を崇めている。日本人には理解しやすい感覚かもしれない。
 このモソ人固有の宗教をダバ教という。これがナシ族の宗教と同じものか、少なくとも起源を同じくするのかどうかは判断できない。ただ、ナシ族の経典がトンパ文字という固有の文字で記述されているのと同様に、ダバ教にも経典があったらしい。
 今でもダバ教の文字は形としては存在するが、誰にも解読はできない。伝説によれば、昔、二人のダバの祭司がいて、旅の途中で空腹に見舞われた。他に食べるものもなく困っていたところ、持参していた経典が目についた。豚の皮でできたその経典には、モソ語の最後の文字が刻まれていた。彼らはそれを茹でて食べてしまい、こうしてモソ人は文字を失ったのだとか。
 しかし、モソ人の宗教はダバ教一つではない。
 少なからぬ男性がチベットに留学し、ラマ僧になる。チベット仏教の儀式は、いまや彼らの生活の一部だ。その影響もあってか、モソ人の名前にも、チベット風のものがたくさんある。
 では、次は彼らの生活に目を向けよう。まずは家から。
 ワァイホンはモソの村を一目で気に入ってしまい、モソ人の建築業者ジュアシに話を持ち掛けられて、モソ風の別荘を作ってしまった。
通常、祖母の間は一階に置かれ、その家の主室となっている。
私の家でも主室中央に石で囲った囲炉裏が置かれる予定だった。
花楼はモソの娘が成人に達すると与えられる自室だ。
高台にあるチベット仏教寺院を祭るため、モソではどの家にも経堂が設けられているのが普通だ。
モソの家屋ならではの中庭がなかった。
(p50~51よりいくつか抜粋)
 全文をそのまま掲載するわけにはいかないので、読み取った内容を要約するしかない。
 モソ人の家には、次のものがある。
・祖母の間
・花楼
・経堂
・中庭
・女柱と男柱
 なお、一般的な家屋にはトイレがない。
 では説明しよう。
 モソ人は母系社会を構成している。従って一家の家長は祖母だ。当然、一番立派な部屋が割り当てられる。この祖母の間は、家の中心である。囲炉裏の周りは厨房であり、食堂であり、暖房でもある。また、そこには女柱男柱がある。より太いのは女柱で、囲炉裏を囲んで座るとき、女柱のすぐ横に年長の女性がいるのなら、敬意を払うべきだろう。というのも、彼女がこの家の主人だからだ。
 花楼は、モソの娘が成年に達した際に与えられる個室だ。祖母の間ほどの広さはなく、通常は寝台と、来客にお茶を出すための小さなテーブルだけでいっぱいになる。男達が夜這いにやってくるのもここだ。
 では男には個室はないのかという話になるが、特定の役割を与えられた男には、やはり個室が与えられる。それが経堂だ。普通はどの家にも経堂があり、一家の中でラマ僧になるよう祖母から命じられた男性が、そこで祈りを捧げることになっている。
 ワァイホンの別荘は狭かったので中庭がなかったが、普通の農家なら中庭を備えているし、たくさんの居室がある。成人女性の数だけ花楼が必要で、それに経堂、家族の男性がともに過ごす部屋、更に家事などの作業に用いる部屋が二、三ある。
「私たちモソの者には、十三歳で大人になるこの日は、人生でもっとも大切な日なのよ。私たちはこの儀式を“成人式”と呼んでいる」と教えてくれた。(p34)
 昔、創造神が生き物たちにそれぞれ異なる寿命を与えると決めた。神が寿命を読み上げ、それに応えた生き物がその年数、生きられるようになった。例えば雁は、神が「千年」と言った時に返事をしたので、千年の寿命を与えられた。
 六十年、と神が呼びかけたときに返事をしたのが犬だった。人間の女は寝惚けていて、十三年という声が聞こえたとき、慌てて返事をした。しかし、こんな短命では納得できない。彼女は神に寿命を延ばすように頼んだが、神は「他の生き物と寿命を取り替えてもらえ」というばかりだった。
 それで女はさまざまな生き物に話を持ち掛けたが、応じてくれたのは犬だった。大切にしてくれるなら十三年の生涯でも構わないということで、人と犬は寿命を交換した。
 こうした経緯があるために、モソ人は犬を大切にする。と同時に、成人式を祝う際には、自分達の本来の寿命を思い出す。
 成人した女性は、大人の女としての権利を授かる。花楼を与えられ、民族衣装を身に着けることを許される。もちろん、アシアを招いても構わない。
 成人の儀は、男にも女にも行われるものだ。それは女柱と男柱の近くでなされる。
 丸太は一本の松の幹から切り出され、下半分の太い部分は祭壇を背にして右側に置かれている女柱、上半分の細い部分は男柱として左側に置かれる。家屋の構造にもジェンダーをめぐるヒエラルキーがさらにはっきりとシンボライズされている。(p49)

モソの女

 続いて、まずは主権者、ゆくゆくは家長となる女性の暮らしについて述べたい。
「お金はグミの係だ。作物や家畜を売ったお金はグミが手にしている。木こりで稼いだ手間賃もぜんぶグミに預けている。小遣いはグミからもらっている。お金についてはグミの決めたことにまかせるしかないんだ」
 女性が一家に君臨するグミの立場になれるなら、中国の女はどのような犠牲も厭わないだろう。(p86)
 この一文を目にした時の私の感想だが、ワァイホンは何も雲南省まで飛んでいく必要などなかった。日本で主婦になれば、自動的に夫の給与を管理できるのに……
 それはともかく、モソ人の社会では、経済的な権利も、政治的な権利も、すべて女性の手に握られている。
 上記のコメントを残した男性、ギジは、グミのアシア(愛人)だ。グミは独立にあたって母から農地を譲ってもらった。そこでどんな作物を育てるか、家畜は何を飼育するかを、すべて一人で決めている。なお、重い荷物の運搬など、女の手にあまる力仕事は、ギジが引き受けている。もちろん、近代文明の中心地から遠く離れた雲南省の高原地帯だから、グミ自身も手を動かさないわけにはいかない。
 なお、このギジのケースは、そこまで一般的ではない。基本的には、男が属するのはその母の家系だ。つまり、働いて得たお金を受け取るのは、普通は彼らの母親であり、姉妹であるべきだ。男が責任を負うべき家庭はアシアのそれではなく、母と姉妹の血筋にある。
 もし、財産管理について揉め事があった場合、話し合いに加わるのは母系の血統に連なる人間だけだ。そのアシアが出張ってきて口出しすることはない。そして、祖母には絶大な権力があり、最終決定権を有している。
 田植えの季節になると、グミを含む女達は、他の家から手を借りる。ある時は自分の田畑を、またある時は助けてくれた人の田畑を管理する。労働の貸し借りをするわけだ。
 田舎にはありがちだが、この手の共同体精神には、際限がない。ワァイホンは自動車を買ったが、購入の際には男達が目の色を変えてついてきた。そしていったん知り合いにキーを貸したが最後、誰がどこで乗り回していても不思議ではなくなった。管理しきれないと悟って、結局彼女は車を手放した。
 ではいよいよ、彼女らの性生活について述べなくてはなるまい。
 モソの女性はことさら女らしさを誇示したりしない。とりたてて着飾ってもいない。ブレスレットかあるいはお守り代わりの質素なネックレスを別にすれば、装飾品を身に着けることもない。女同士で競うように飾り立てるほかの文化の女たちとは異なり、その点ではモソの女性は控え目だ。化粧もしておらず、自分の見た目についてあまり人の注意を引きたいとは思っていない。(p140)
 まさかのノーメイクである。
 近年のフェミニストは「ハイヒールをなくそう」「化粧もやめよう」この手の美容やオシャレは女性に性的魅力を求める男性の押し付けであるとして、反発を強めているが、モソの社会では、別に女性達は特に力むこともなく、ノーメイクのままに日々を過ごしている。
 彼女らが着飾らずに済んでいるのは、ひとえに経済的な権利が女性だけに属するからだろう。美しく装って媚びたところで、男が何をくれるわけでもない。
 なお、その肉体は、確かに健康的ではあるものの、先進国の男性にとっては、好みの分かれそうなものだ。
老人ながらアマゾネスばりの体つきを目の当たりにして私は感服していた。一糸まとわぬ齢六十六歳のアハ家の祖母は、無駄な肉など一つもない引き締まった体をしており、腹筋はなんともうらやましいシックスパックだ。(p142)
 有り余る体力、そして経済的自由もあって、彼女らはよく宴会を楽しむ。酒も遠慮なく飲む。
 さて、ここでやっと性に関する話が出てくる。
 私たちはただちにダンスフロアに出ていき、夜を徹して歌ったり、踊ったり、飲んだりしていた。十六時間飲みっぱなしという、わが生涯最長のパーティーだった。
 モソの女たちのパーティーは際限なく続いて容赦がないというだけではない。私は、彼女たちは女同士でいるのが本当に好きなのだと気が付いた。娘たちの夜遊びとは女同士のパーティーに出向くことだ。女だけの外出に趣向を添えようと、場のとりもちが好きな男友だちを連れて席を盛り上げている参加者もいる。同伴について違和感を覚えるのは、皆無ではないとはいえ、自分のアシアをめったに連れていかない点だ。(p147-148)
 つまり、恋人を、自分が気に入って花楼に招いた男を、女同士の飲み会には連れていかないというのだ。そして、その理由について、ワァイホンは「さっぱりわからない」と述べている。
 とりあえずこの問題は措くとして、では彼女らはどのようにアシアを選んでいるのだろうか。
 したがって、種子が大きくて力に満ち、しかも美しく育つためには、生命の水は見た目という点でも十分優れていなくてはならないのは言うまでもない。赤ん坊を望む女性の目からすれば、水をもたらしてくれる男性はなによりもまず見た目に秀で、体格も立派でなくてはならないのだ。(p153)
 女性が持つ種子は、天から注ぐ雨を浴びることによってのみ緑の草地になるという考え方だ。その雨は良質でなければならない。何をもって良質とするかは、つまり、肉体的な逞しさ、美しさによって決定される。すがすがしいほどのルッキズムである。
「背が高くて体は頑丈かしら」
「どんな顔立ちなのかしら」
「手は大きくて力持ちなのかしら」
「力仕事に耐えられるくらい元気かしら」
 女子会の夜でも、男性に関するもっとも明け透けな冗談や判断基準のランクについては嫌というほど聞いたので、私もこの手の話にはすっかり通じている。
「ねえ、あの人なんかどう」。男性が近くを通りかかると決まって誰かが聞いてくるが、もちろん本人の耳には届いていない。
「あんまりいい男じゃないわね」と一人が答えて、一同大爆笑である。(p153)
 あまりといえばあんまりだが、こういう話は年長者や異性の前ではしてはいけないことになっているという。
 女同士で集まって相手のアシアについて冷やかすぶんにはいいのだが、それでも私は「シィーッ」と何度も注意された。私がこのルールを忘れ、居合わせた友人たちがたまたま姉妹や兄弟、あるいは性を違えるいとこ同士だったりした場合にこの種の話を口にしたときである。(p199)
 いずれにせよ、モソの女性は相手を選ぶとき、条件に縛られずに済む。
 相手が金を持っているかどうかは問題とならない。相手もモソ人ならまず財産などない。よって誠実さという基準も意味をなさない。一文無しも同然の男が永遠の愛を誓ったところでうざったいだけだ。モソの女性は、その気になれば毎晩違う相手を招くことだってできる。そうしたところでなんらマイナスにはならず、むしろ多くのアシアを夢中にさせたと自慢するほどだ。
 少々長くなったが、纏めるとこういうことになる。
・財産の相続権は女性だけにある
・財産を管理するのも女性であり、男は労働力を提供するが、利益分配は女性の側、特に祖母に決定権がある
・労働力も、自動車のような便利な道具も、しばしば共同体によって信用で貸し借りされる
・女性はあまりオシャレをしない
・女性は自由にパーティーを楽しむ
・女性はパーティーに自分のアシアを連れていかないし、その手の話は女同士でしか許されない
・女性は男を容姿で選ぶ
・相手を一人に絞る必要はなく、基本的には自由に関係を結べる
 なるほど、フェミニストにとっての理想郷ではありそうだ。

モソの男

 では、男達の生活はどんなものだろうか?
 ワァイホンは、モソの社会は男女平等で、家母長制の下で暮らす男達は幸福であると力説する。
 女性と男性、女性と女性、男性と女性、男性と男性、老人と若者――程度の差はあっても、モソではすべての者が等しく扱われているようである。(p150)
 つまり「重女不軽男」だ。文字通り、この言葉が意味するのは「女の子を甘やかし、(しかし)男の子は軽んじない」である。(p165)
 だが、現代の先進国の男性からみると、とてもそうとは思えない。
 以下、男達の生活を説明していく。
 まず、既に述べたように、男には財産の相続権がない。家も土地も、すべて祖母と母と姉妹のものだ。彼らは彼女らに養われる身分だ。といって、チョウチンアンコウのオスみたいな気楽な生活が待っているわけではない。
 彼らには、彼らにしかできない仕事が割り当てられている。まず男達は、その体力を生かして、女性よりも過酷な労働を引き受けなくてはならない。
 だが、話はそれでは終わらない……
「鶏をつぶすのに、どうして彼の帰りを待っていたの」
「私たちモソの女は生きものを決して手にかけてはいけない。死んだ人の体にも触れてはいけないし、火葬の準備にもかかわってはだめ」(p82)
 モソ人は高地に暮らす。冬の寒さが厳しい地域だ。だから、肉がなければ生きられない。ラマ僧ですら、肉を食べるのだ。
 しかし、食べるために動物を屠殺し、解体するのは男の仕事だ。その間、女性は目を閉じて席を外し、すべてがきれいに終わって、あとは肉を調理するだけという段階になるまで出てこない。
 同じ理由で、男達は野生の肉の調達……つまり狩りをする。それは女性達の胃袋にも入るのだが、獲物を捕らえ解体するのは、専ら男達の役目だ。
 葬式も男達の仕事だ。
 八人も生んだ子供のうち六人が息子だったア・マは運がよかった。息を引き取ったときから最後の火葬にいたるまで、亡骸に触れる仕事にかかわれるのは、ジュアシとジズゥオと四人の息子だけだからだ。(p226)
 人がなくなると、息子達は手順通りの儀式を執り行う。
 死後硬直が始まる前に遺体を清め、定めに従って七つの椀に入った水を、個人の顔と体に注ぐ。父親の葬儀の場合は、椀の数が九つになる。遺体が清められている間、ダバの祭司が最初の祭文を唱える。火葬されるまでの間、故人の魂を導くためにいろいろな祭文を読み上げることになっている。
「身は不浄なれど、先祖が住まうシナ=アナワに帰りいたれば、その身も清められよう」(p226)
 シナ=アナワとは伝説上の場所で、モソ人の魂の故郷で、死ぬとここにまた魂が帰るとされている。
 葬儀は二週間以上にわたって続けられる。そして、もうすぐ火葬という夜になると、死者の魂がシナ=アナワの近くまで辿り着いたと考え、最大最後の危険に対応する。
 中庭に立ったダバは、待っていた個人の縁者や友人の男性にこちらにくるよう促した。最初のひと組が前に出る。革でできた古式の鎧と羽がついた頭飾りを二人が身にまとうのを手伝うと、ダバは古い時代の刀と短剣をそれぞれに手渡した。古代の戦士に扮した二人は恐ろし気な所作の踊りをその場で演じ始めた。(p230)
 死が男達の領域である以上、悪霊と戦うのも男達の役目となる。
 こうしてダバが死者の魂を故郷へと送り返そうとしている間、ラマ僧もずっと読経を続けている。
 最後の通夜が終わると、いよいよ火葬となる。その際にも、死者の遺体を見せないよう、男達は葬儀に参列する女達の前に、布張りの衝立を置く。遺体が焼かれた翌日に、男達はまた戻ってきて、散骨をする。
 肉体労働と汚れ仕事だけやればいいわけではない。
 子供達の教育にも責任がある。
 モソの男に差し出されたもうひとつの地位とは、自分の姉妹が産んだ子供全員の指導におじとして接することだ。(p166)
 似たような光景を何度も目にしたので、モソの男性にとって、子守り役として弟や妹、幼い親戚の面倒を見るのはごく自然なことなのだろう。家の赤ん坊やよちよち歩きの子供の面倒を見るという“女性的な”役割を分担しろと小さなころから教えられている。(p183)
 モソ人には走婚という、通い婚の習慣がある。通い婚というか、女性が気分次第で、それこそずっと同じ相手を選び続けることもあれば、毎晩違う相手を招くこともあるので、「婚」の字を使うのが適切とは思えないのだが……とにかくフリーセックスだ。
 で、生まれた子供はその母親の子なので、「水を注いだだけ」の男には何の責任もない。しかし、自分の実の息子には責任がなくても、姉妹の産んだ子供達の面倒はみなくてはいけないのだ。
 しかし、これのどこが平等なんだろうか。
 男でもちゃんと役割があり、地位があるじゃないか、だって?
 だが、その決定権はすべて女性側に握られている。これもまた、れっきとした差別だ。
 これを平等とワァイホンが主張するなら、私は彼女に「紅楼夢を読み返せ」といってやりたい。
 あれは男性社会そのものの清代中国が舞台の小説だが、賈家で一番の権力者は男性でなく、女性で、しかも他所から嫁いだ史の奥方だ。だからといって女性差別はありません、とはならないだろうに。
 それから、特に選ばれた男性は、祖母の命令によってラマ僧になる。
 そうなったら走婚もできない。一生、女性を諦めなくてはいけないのだ。
 そして、どの家にも経堂があることを思い出して欲しい。
 性的な話や、人間関係についても述べておこう。
 モソの男は一生独立しない。だから、ワァイホンは彼らを「マザコン」であるとしている。
 そして、小さな頃から「女性を庇う」ようにと教え込まれる。
 茂みの小高い枝で森の道がふさがれている場所に出くわすと、すばやく脇に退き、枝が道に被さらないように押さえてくれる。
「押さえているからこのまま行ってください」と、まだ声変わりしない声で促した。
 私がそこを通るまでのあいだトゲだらけの枝を押さえていた。(p167)
 フェミニスト、という言葉の意味として、日本では「女に甘い男」というものもあるそうだが、モソの男こそ、そのフェミニストだ。
 まだ十歳の少年が、離婚歴のある三十代の女性を、このように庇うのだ。他にも、山道の険しい場所に差し掛かれば先行して手を差し伸べ、荷物は決して女性に持たせない。
 モソの世界では、こういった気遣いは、しかし、男達にとっては必須の「テクニック」なのかもしれない。
 彼らがセックスしようと思ったとき、武器になるのは自分の魅力だけだ。まずは逞しく美しい肉体が必要だが、話を盛り上げ、相手を楽しませる気遣いもできなくては、到底、走婚の成功などおぼつかない。
 地元の市場に行くと、尋常ではない数でマッチョな男たちがこれぞ雄のクジャクといった調子で闊歩している様子に私はいつもびっくりする。若い男性がすれちがいざま、私と目線を合わせてくるのはしょっちゅうだ。
(中略)
 これ見よがしの男ぶりに私は目をそらせない。(p171)
 そして実際、クジャクのように身を飾るのは、女よりむしろ男だ。
 モソ男は根っからの宝石好きだ。ほとんどの男が少なくとも二つの大きな指輪を一方の手もしくは両手にして、更にフェイクの象牙か骨で作った腕輪をつけている。
(中略)
 モソの男たちは部族の平均的な女性より自分を飾り立て、宝石をきらめかせる。(p183)
 今はどうか知らないが、モソの恋愛にデートはない。
 そもそもデートスポットもろくにないし、財力を誇示する必要もない。モソの女性は遠慮なく性欲を露わにするので、男性の側もひたすらナンパするばかりなのだそうだ。
 さて、あなたはモソの男になりたいだろうか?
 ナンパのテクに自信があるなら、それもいいだろう。しかし、そうでなければ、ただ重労働に耐えるばかりの日々が待っている。もちろん、運が悪ければ一発でラマ僧だ。
 しかし、女達にしてみれば、こんな都合のいい話はない。
 イケメンにしてイクメンが当たり前、たくさん働くのも当たり前だが、家計はすべて自分の管理。特定の夫に縛られることもなく、好きなら愛し合い、飽きたら別れればいい。

モソの社会を成り立たせる力

 さて、この長い長いドキュメントが推理小説だったとすれば、そろそろ探偵による答え合わせをするべき段階に差し掛かっている。
 このようなモソの社会は、なぜ存続し得たのか?
 いや、もっとはっきり言おう。男達はなぜ、反逆しなかったのか?
 ワァイホンなら、それは「女にとっても男にとっても居心地がいい社会だから」と述べるだろう。だが、私はそれに異を唱えたい。
 なぜなら現在、モソの社会は解体の危機にあるからだ。
 モソの独特の文化が観光資源になると知って、中国人が殺到した。ルグ湖近くに空港もできたので、二百キロの道程を七時間かけてバスで移動する必要もなくなった。急速に先進技術と貨幣経済が流れ込んできて、モソの人々は変容しつつある。
 もし、既存の社会がそれほどまでの完璧だったのなら、外部のヒトやモノが流入しようとも、社会制度をみんなしっかり守って暮らし続けるに違いないのだから。
 結論から言うと、モソの社会は女性による男性への支配に全力を注いだシステムだ。そのために、いろいろなものを犠牲にしている。だが生粋のフェミニストであるワァイホンには、その問題点がどうしても見えないのだ。
 彼女はこう述べている。
 モソという母系社会で、自分が置かれている特別な地位に女性が自信を覚えているなら、男性もまたお祭り騒ぎが好きなこの社会で、色男たる自分の役割を果たすことに自信を抱いている。彼らは社会におけるおのれの地位をわきまえ、自分たちのマスコットである物言わぬクジャクのように男らしくあることを受け入れているのだ。彼らは実に堂々としている。(p185)
 労働者にして教育者にして狩人にしてナンパ師……その身分に喜んで甘んじているかのような言葉だ。
 しかし、彼女はこんな出来事があったとも記している。
 ある日、グミと連れ立って市場に行くと、同じ集落に住んでいるというあまり風采のあがらない三十代の農夫を紹介された。私に近づいてきた相手は、笑みを浮かべながら握手しようと手を差し出した。その手をとった。手の平の中央を指で三度なぞられたのには本当にびっくりした。この仕草の話はすでに聞いている。「つき合わないか」というモソ人たちの合図だ。同じように三度なぞって返すと「イエス」という意味だが、私は返事をしなかった。それから数か月後、この男性がグミに私宛の伝言を頼んだ。
「自分と結婚してほしいと伝えてくれと頼まれた」とグミは笑いながら教えてくれた。
「で、なんて答えたの」
「『自分で言いなさいよ』って返事しておいた」とまたしても笑いながらグミは答えた。(p181-182)
 ワァイホンは、彼女が本書の中で述べている通りであれば、決して美貌の持ち主ではない。それを会ったこともない私が指摘するのは大変失礼であるというのは、重々承知している。が、彼女自身がそうはっきり書いている。離婚歴のある三十代の女性で、モソの民族衣装を着せてもらったときには体が太くて、なかなか入らなかった。
 そんな彼女に、必死でアタックする男達がいる。一度、面会して合図を送って、無視されても諦めきれず、今度は人伝に結婚を希望する。結婚だ。結婚だって? みんな一晩限りの恋愛を楽しむモソの村で、結婚したい?
 残念ながら、モソの男がみんなクジャクになれるわけではないらしい。女性の目には、上位二割の男性以外、異性としては映らないという。ワァイホンが夢中になって眺めたマッチョ達のステージの裏には、売れ残った男達が大勢いるに違いないのだ。重労働を課されるだけで、誰からも愛されず認められず、性欲も満たせず、財産を手にすることもないままの男達が……。
 しかし、不満はあっても反乱を起こすことはできなかった。
 理由はいくつもある。まず、もしモソの社会に逆らおうと思ったら、最初の敵はママになる。いきなり最悪の強敵が出てくるわけだ。だが、モソの社会にある安全装置は、何もママだけではない。
 上の記述をもう一度見返して欲しい。女達のパーティーでは、彼女らが自分のアシアを連れてくることはない。ただの知人男性ならいいが、性的関係にある男は呼ばない。また、男を品定めする噂話はしてもいいのだが、年長者や異性の前では口を閉ざさなくてはいけない。
 何のためか、もうピンときているかと思う。誰からも相手にされない男達が格差を実感して、キレるのを避けるためだ。恐らくだが、過去にはそうして見下され、実際に逆上した男達もいたのではないか。
 そこまでいかなくても、彼らには家出すら難しい。最寄りの街は麗江で、険しい山道を二百キロも歩き通さなくてはいけない。そして、財産はすべて母と姉妹のもの。勝手に家畜を連れ出して出発すれば、きっと追手がかかるだろう。
 それに首尾よくモソの社会を逃れても、辿り着いた先はナシ族の土地だ。言葉は半分くらいしか通じない。
 だが、極めつけはこれだ。
 どの家にもある経堂
 よくもまぁこんな恐ろしい装置を備え付けたものだ。
 ラマ僧になれば、一生性交渉はできない。それが一家に一人だ。一家といっても祖母を頂点にした大家族だから、日本の核家族をイメージするとちょっと違う。それでも、祖母が三人の子を生み、うち二人が娘として、その娘達がそれぞれまた三人ずつ生んだとしたら? 家の中には合計十人。孫世代の男児は、三人としようか。二世代目が男児を一人と二人産んだ計算ということだ。女六人、男四人の家だ。
 その中で、最初の年長の男がラマ僧になったとする。孫世代はラマ僧になった叔父を見ながら育つわけだ。
 だが、想像してみて欲しい。私の家にも、お隣さんにも、その向こうにも、どのおうちにも必ず礼拝堂があって、玄関をノックすれば最低一人は神父さんが出てくる。そんな世界だ。いくらなんでも多すぎやしないか?
 単純計算で、4~5人に一人、男はラマ僧になる。或いは家族の規模がもっと大きいかもしれないので、この比率は絶対ではないが、少なからぬ男達が、社会的に去勢される。
 これこそ、モソの女達が外来の宗教たるチベット仏教を積極的に受け入れた理由ではないか。モソにおいて、男性は紛れもないマイノリティー……
 いや、一種の家畜なのだ。

脆弱な社会

 それでも当事者達が納得しているならいいじゃないか。そういう声も聞こえてきそうだ。
 もちろん、モソ人の社会と文化はモソ人のもので、外野があれこれケチをつけるものではない。彼らの未来は彼らが決めるべきだ。
 ただ、モソの社会は今、凄まじい勢いで崩壊に向かっている。
 走婚王子の異名をとるジュアシは、自分達の文化はあと三十年のうちに消えてなくなっていると述べている。
「ボーイフレンドはいるの」
「いいえ、まだですよ」
「セイセイ(走婚)か、それとも結婚のどっちにするつもり」
「ほぼ間違いなく結婚のほうを選ぶと思います。家庭を始めるなら、走婚はふさわしい方法とは思いません。いずれにしても、モソの人と結婚はしないつもりです。いつも違うアシアとつき合っているから、モソの男性は感心しませんよ」(p244)
 何が起きたのか。
 資金力でも技術力でも人口でも、すべてにおいてモソを圧倒する、強大な中国社会という怪物が、ついにルグ湖の西岸から上陸してきたのだ。するとどうなったか。
 昔ながらの貧しい暮らしを続ける気にはなれない。観光客は「女人国」を珍しがって、どんどんお金を落としていく。苦しい農作業を続けるよりも、観光客の相手をしたほうがずっと楽だし、儲かる。
 外部の中国社会の裕福さを目の当たりにして、若い世代は憧れを抱く。彼らは、そして彼女らは、外の世界に受け入れてもらおうと考え始める。
 モソの価値観ではどうあれ、いろんな異性と関係をもつ走婚は、中国人男性にとっては不潔で淫らな振舞いだ。なら、その価値観に合わせたほうが、自分の利益も大きくなる。何より、夫に生活の責任を負わせることができるのは、嬉しいことだ。その夫がモソ人ではなく、裕福な中国人なら。
 そして女達は、一日中汗水たらして働くモソの男達を尻目に、中国人の男達に色目を使いだした。
 しかし、近隣にはもう一か所、スカーフの織物と売春で経済を成り立たせている村がある。ウェンジュエン(温泉)という名の村で、ここの丘はモソの名湯として知られる。
「ウェンジュエンではどこの家の娘も売春をやっている」と親友の一人が教えてくれた。「家族も別に恥じていない。家のために大金を稼いでくれるので、むしろ自慢に思っているぐらい」(p160)
 愛してやまないモソ人の、好ましからざる出来事についても、あえて率直に書き記したワァイホンに、ここは敬意を表したい。
 こうなると男達も、そのままではいられない。
 その彼が最後にものにした女性は、隣接する四川省の省都成都からきた離婚歴のある資産家で、彼は正式にこの女性と結婚した。女性のほうは自分の新しい男に惜しみない愛とお金を与え続け、レストラン建設の資金を融通し、彼の母方の実家を民宿に改造したばかりか、車を二台買い与えた。
(中略)
 女家長の世帯がものをいう社会では、男は家の財産をみずから直接管理できず、独立して自分でやってみたいと願えば、どこか別の場所を探そうという思いに駆られる男もなかにはいる。種に水を注ぐという役割を生かし、外の世界の女性に自分を受け入れる支持者が見つかれば、彼女を足掛かりにすることができるだろう。(p184-185)
 できるナンパ師にも、もはやモソの女を口説く暇などなくなった。それよりカネをくれる女と仲良くなったほうがいい。
 しかし、どうしてこんなひどいことになったのか。
 言うまでもなく、中国の強大な社会と、モソの狭小な社会とでは、規模が違い過ぎた。では、その規模の差は、どうして生じたのか。ここまで差がつく前に、どうして少しでも距離を詰められなかったのか。
 それは、モソの社会が存続できた理由と背中合わせなのだ。
 ルグ湖は辺境にある。空港ができるまでは、つづら折りの山道を二百キロ、七時間もかけてバスで移動するしかなかった。まさに秘境だ。現代の技術をもってしてもそうで、これが十九世紀以前となれば、馬に乗って一週間も旅をしなければ、麗江に辿り着けない。
 この地理的隔離があればこそ、モソの男達は女の支配に屈していたのだ。もし、すぐ隣に中国人の大都市があったら、とっくに彼らはもっと楽しい人生を見つけに出かけてしまっていた。
 現実にはほぼ孤立していたので、彼らの興味関心はひたすら女達に向けられた。走婚を極めることが最大の利益になる。モソの社会で評価されるのが、どういう男だったかを思い出して欲しい。逞しくて美しい男、だ。できれば面白い男。そこには誠実さや勤勉さなど、含まれない。ましてや「お勉強のできる男」なんて、論外だ。
 しかし、そのお勉強のできる生真面目な男達こそが、ちまちまと勉強して技術水準を高め、社会にイノベーションをもたらしてきた。もしくは欧米列強から先進的な技術を学んで広めてきた。それは、彼らがプレイヤーだったことを意味する。
 全財産を母や姉妹に握られるモソの男は、プレイヤーになれない。自分の意志で取引ができないのだから。そもそも彼らから交渉力を奪い去るからこそ、モソの女性支配が成立していた。
 しかし、男性に財産権がありプレイヤーになれる社会では、外見的魅力以外のところでも努力すればチャンスにありつける。彼らはより広い範囲に協力者を求め、知識と技術のコラボレーションを起こし続けた。そして、モソの男達には、彼らと同じことをするメリットがなかった。
 要するに、広くて大きな集団が二馬力で頑張っているのに、狭くて小さな集団は一馬力で走っていたのだ。これで差がつかないはずがない。
 その結果が、あの飢えたダバの祭司達の物語だ。
 文字というのは、別に宗教のためにあるのではない。もともとは経済ありき、記録を残すための手段だ。そして文字というのは、直接コミュニケーションをとれない誰かとやり取りをするための道具だ。時間的にも空間的にも隔てられた相手がそれを利用する。顔も名前も知らない者同士が協力関係を取り結ぶ。そういう大きな社会のための道具が文字なのだ。
 だが、雲南省の辺境に落ち延びたモソ人には、もはや不要のものだった。だから忘れ去られた。取引の輪は小さくなり、狭い共同体内の労働の交換のレベルにとどまった。イノベーションの可能性は打ち捨てられ、彼らは失われた故郷をただの伝説にしてしまい、狭苦しい山奥で静かに暮らし続けるしかなくなった。
 そして……
 モソの家母長制社会は、まるで氷室の氷が、真夏の太陽の下に置かれでもしたかのように、みるみるうちに溶けて消え去っていこうとしている。
 モソの女達は、新しい流儀をもう身に着けた。ウェンジュエン村の女達の売春もそうだし、結婚制度に乗っかろうと考える若い世代も同じだ。フェミニズム的な伝統を擲って、性的価値を取引する側への転身を果たしつつあるのだ。
 かつてモソの女達は、社会のすべてを手にしていた。性的価値を持ち、血筋を継いでいける特権階級であったがゆえに、男達からすべての権利を剥奪し、目と手の届く世界のすべてを掌握した。だが、そこに外部の世界が割り込んでくると、それまでの生き方を捨てて、彼方へと飛び去っていってしまった。同族の男達はもはや相対的弱者でしかなく、魅力的な強者は外部の中国人男性だ。だから彼女らは、新しいお金マッチョの胸に飛び込んでいこうとしている。
 それはまるで、羽虫が地を這うに似ている。負の走地性を持つ昆虫は、地面から突き立つストローの先端目指して登り続ける。そしてついに頂点に辿り着くと……しばらく躊躇するような仕草を見せつつも、いきなりパッと翼を広げるのだ。そして上へ上へと飛び去ってしまう。
 ……いや?
 それこそがもしかしたら、フェミニズム的な選択なのかもしれないが。
 それと、本書の著者であるワァイホンにも苦言を呈しておく。だが、そこには私なりの同情も込められている。
 やはりそうだった。とうとうここまできたのだ。私はモソのひとつの村全員の義理の母親になっていたのである。(p120)
 彼女には大きな功績がある。それは、モソの伝統である転山節の祭りを復活させたことだ。そのために彼女は奔走し、自ら資金を提供もした。シンガポールで弁護士として働いていた彼女には、それだけの資産があったのだ。
 そうして彼女は「半分モソ人」と呼ばれるまでになった。少数民族の貴重な文化を守る活動をした彼女は、称賛されるべきだ。
 だが、彼女がモソ社会の一員になれたのは、「誰のおかげ」だ?
 ワァイホン自身が憎みぬいている家父長制社会、それこそが彼女に富を与えたのではなかったか。もし彼女がお金持ちでなかったら、ここまでモソの人々に歓迎され得ただろうか。
 皮肉にもほどがある。

母権化のレール

 本論を終えるにあたって、私は一つの疑問を提起しておきたい。
 家母長制というのは、本当に古来からの人間の自然なありかただったのだろうか?
 また一方で、フェミニズムとは、人類史にこれまでなかった革新的な思想なのだろうか?
 私は、どちらについても「違う」と考える。
 社会のフェミニズム化、そしてバックラッシュは、世界中のいろいろな地域や時代において、繰り返されてきたのではないか。
 それはこういうことだ。
 人々が未開拓の荒野に降り立つ。するとそこは危険に満ちた場所だ。迫りくる自然災害、人間をつけ狙う野生動物。これらを相手取るのに、女性にとって、男性は有用な戦力だった。だから原始的な社会は、フェミニストが考えるより、遥かに父権的だったと考えられる。
 狩猟採集時代において、女性は性交渉をどこまで拒否できただろうか。分業のない世界だ。誰もが狩人で、一人でも生きられるスキルを持っている。となれば、同じ集団の中の異性から相手にされない男性は、もしかすると集団を去ったり、裏切ったりしたかもしれない。このようなリスクに直面し続けている狩猟採集民が、果たして女性の性的自由を確保しただろうか。
 恐らく、初期農耕が始まった頃から、家父長制社会が更に強化された。狩猟採集時代と比べて、明らかに栄養状態が悪化した遺骨が見つかっている。女性は毎年のように子供を産んだ。産まされた。そのほうが、社会としては強くなった。
 しかし、古代の技術水準では、場所によっては開拓の限界に行き当たることも少なくなかった。古代メソポタミアは周辺の世界に向かって開かれていたのでそうならなかったが、そうでないところではすぐに住民が環境に対して飽和したはずだ。古代社会の国家規模は、人が歩いて行ける範囲にとどまっていたから、せいぜい半径二十キロ程度とも言われている。
 そうなった時、男達の役割は小さくなっただろう。もはや危険な自然環境も、害獣もいない。平和と安定が当たり前になった今、女達には、これまで通り男に傅くメリットがなくなってしまった。
 そういう状況で、女権の強化が始まるのではないか。
 古代ローマにおいても、家父長権の執行者が変わったのは、ローマが地中海の覇権を握った共和制末期からだった。これによって夫の支配を受け付けなくなった女性が、自由に活動するようになった。特に富裕層女性は生涯未婚を選ぶことが多くなった。
 ローマは少子化に苦しんだ社会だったが、その皺寄せは下層階級に押し付けられた。これも現代のフェミニズムと似ている。現代において、エリート女性に代わって家事労働や育児を引き受けるのは、途上国からの移民だ。それと同じように、富裕な女性が未婚無子を選ぶ一方、貧しい女性は若すぎる妊娠を強いられて、短い人生を終えていった。ローマ時代の女性の平均寿命は、男性より十年も短かったのだ。
 中世イングランドにしてもそうだ。ノルマン・コンクエストの頃には慎ましい恰好をしていた女性達が、百年戦争前夜には、我が物顔で権力を振るっていた。女性の城主も実在したし、妻が不倫しても「相手は高名な騎士」だといえば、夫はそれ以上追及できなかった。イングランドという、決して広いとは言えない領域に権力が行き届き、フロンティアがなくなったがゆえの現象ではないか。
 いちいち男を盾にするより、自ら前に出たほうがいい状況になれば、フェミニズムは強化される。社会が安定し、治安がよくなればなるほど。
 では、モソの場合はどうだったろうか。
 真実は歴史の闇に隠されてしまっている。ただ、彼らの葬式の儀礼から垣間見えるのは、彼らは本当に故郷を失った人々であろうということだ。
 モソの伝承と、このイ族の伝承には共通点がある。
 霊魂の帰る場所というのは、恐らく彼らの祖先が実際に居住していた場所だ。そして霊魂がシナ=アナワに辿り着く直前に、男達が架空の戦闘を繰り広げるところに、歴史の事実が隠されている。恐らく、モソ人は戦争に敗れて故郷を失い、ルグ湖まで逃げてきたのだ。
 ここからは想像するしかない。もしかすると、既にその当時のモソ人は、かなり女権の強い社会になっていたのではないか。そして辿り着いた辺境には外敵がおらず、すぐに山間の狭小な環境は飽和した。多分、逃げのびた時点で、モソの男性はかなりの数が死んだか、はぐれたか、立ち去ったものと考えられる。最初から圧倒的に男性がマイノリティーだったからこそ、こういう社会になっていったのではないか。
 近縁のナシ族との関係も、謎に満ちている。
 いろんな可能性が考えられるだろう。ナシ族は明代に漢文化を受け入れているので、その時点で男性社会化したのか。つまり、ナシもモソも、最初は母系社会だったのか。それとも、ナシもモソも父権社会だったが、故郷を失う前からモソはだんだんと女権が強化され、ディアスポラの後に本格的に女性支配の仕組みが出来上がったのか。
 なんにせよ、世界中に母系社会は散在しているが、実際に存続しているものは、いずれもこういう辺鄙な場所にあるものだけだ。そうでなければ生き延びられなかった。なぜなら、外の世界と容易に接続できる場所にあっては、モソの社会にみられるような女性による抑圧、そして停滞は、すぐさま社会の解体を招いてしまうからだ。
 もっと広い環境で女権の拡張が起きたケースでは、だいたいイングランドのように激しいバックラッシュに繋がっている。現在、世界中には強烈な女性差別がいくつも生き残っているが、英語での女性蔑視の言い回しには、私も顔を顰めざるを得ないほどだ。
 そして、女性支配の社会構造を保ったまま、広大な地域を手中に収めた勢力は、歴史上、恐らくは一つも存在しない
 さて、ここで最初の問いに戻りたい。
 フェミニズムは、それを社会制度として採用した人々に幸福をもたらすだろうか?
(異論、反論は受け付けます、ただできればワァイホンの著書に目を通してください、買わなくても図書館などにもあります)

2020/07/31追記

 モソの暮らしを伝える動画を見つけたので、紹介しておく。
 もし、モソ人の暮らしに興味があるのなら、一度見てみるといいかもしれない。あの、異性を誘惑する際に掌を指でなぞる仕草も見せてくれる。
 但し、彼らが話していることをすべて鵜呑みにしてはいけない。
 例えば、16分前後のところで、年配の女性達から毛沢東をやたら褒め称える言葉が出てくるが、あれは絶対に嘘である。
 しかし、文化大革命が中国を席巻すると一夜にしてすべてが変わる。はるばるルグ湖までやってきた紅衛兵は、封建主義的社会習慣の残滓は一掃すべしという命令を携えていた。モソ人が結婚をしないまま性交渉の相手を持っていることを知ると、古くから伝わるモソの習慣を野蛮で原始的だと非難した。
(中略)
 激動の時代のさなか、モソの人たちは言い含められ、圧力をかけられ、最後は強制的に結婚させられて一夫一婦制に変わっていった。これというアシアがいたほかの多くの若者たち同様、ア・マと彼女のアシアも渦中に飲み込まれ、大した騒ぎを起こすことのないまま公的に認知された妻と夫になっていた。
(中略)
 ほかの六人の子供全員が文字の読み書きはできないものの、一九六〇年代、七〇年代、八〇年代、貧しさにあえぐこの時期に成長期を迎えたモソの世代の大半がその点ではみな変わりはない。
(p102-104)
 彼女らがいかに共産党政府を恐れているかが、これでわかると思う。現代になっても、モソの人々は口を滑らせたりはしないのだ。
 今でも政府の監視の目が、彼らの昔ながらの生活を妨害することがある。
「これ、どうやって捕まえたの」
「湖の浅瀬にちょっとした罠を仕掛けておいたんだよ。今晩のご馳走にしておくれ」
(中略)
「昨日、野鴨を捕まえて殺した罪で、罰金をとられたものがいたらしい」。鴨を持ってきてから数週間したころジズゥオが教えてくれた。「鴨を捕まえるのはもうやめることにするよ」
(中略)
「雉を追うようにしつけた犬を連れ、雉狩りにはよく行ったもんだ」と言ってから、しばらく間を置いて「雉も保護されているかもしれないな。この話はもう忘れよう」と口にした。
(p128)
 男達の仕事にして娯楽である狩猟にも、このように、政府の制約がかかってきている。
 それから、動画を見ると「男性は怠けている」ように思われるかもしれないが、そんなことはない。
 成長したモソの男性なら自分に課された家の主な務めは、祖母の農場で過酷な肉体労働だと誰もがわきまえている。たくましい肉体は人に貢献するためにあり、家族に用立てるために筋肉を使うことが求められている。
(p168)
 もちろん、不真面目なモソ人もいるだろうから、家族を放り出して働かない男もいるはずだ。
 しかし、それが一般的であるというのは誤解、ないし演出ではなかろうか。「女人国」のイメージを観光客に見せつけるため、男達はわざとそういうことを言うのかもしれない。或いは、観光客相手の仕事が生活の中心になったような村では、本当に農作業が放棄され、モソの男達の仕事もなくなってしまったのかもしれないが。そこはもう、実際に現地に行って、ワァイホンに尋ねるしかない。
 それに、もし一般的な男性が不真面目で働かないのであれば、フェミニストであるワァイホンがそのことを記述しないはずがない。むしろ嬉々として「男は役立たず」と書き散らすのではないか。本書の中には、家父長制に染まった中国人男性への悪口雑言がいくらでも書かれているのだから。ゆえに、モソの男はより過酷な労働に身を置いているとするワァイホンの記述は信用できると、私は考える。


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一般人は、武装して歩くわけにはいきません。
技術の進歩は、いざ有事にあっては死傷者を拡大させる結果を招きました。
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匿名用アカウント
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そうでないことくらいはわかっているでしょう。
だから、あなたはあくまで今の自分の利益を最大化したいだけなのです。
しかし、それがあなたの子供達の破滅を招くでしょう。

そして、それを論理で理解できても、あなたは自分を止められないでしょう。
だからフェミニズムは抑制されるべし、女性は差別されるべし、ということになってしまうのです。
女性から尊厳を奪ってきたのは、まさにフェミニスト達だったのです。
匿名用アカウント
あなたがおいくつかはわかりませんが、もし30前後だとすると、フェミニズムが終わる時代を目にできると思います。
どんなに頑張っても、あと半世紀も持続できません。

日本は20~40年程度の間に、限界を迎えるでしょう。
人口の推移は予測通りになるものですから、私の予見も高い精度で的中すると考えます。
盤石に見える社会システムが、いとも簡単に崩壊していくのを目の当たりになさるでしょう。

ただ、あなたはその時点で既に老境に差し掛かっています。
どうなっても構わないのかもしれませんね。

残念ながら、フェミニストの横暴を止める方法はありません。
ツケを払うのは次世代です。
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持続したフェミニズム社会の実例、読書感想文 ~ 女たちの王国: 「結婚のない母系社会」中国秘境のモソ人と暮らす~|匿名用アカウント|note
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