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根拠なし、効果なし、捏造あり……再現性危機に揺れる「行動経済学」のゆくえは? 川越敏司『行動経済学の死』はじめに

ノーベル経済学賞の受賞で脚光を浴び、政策やビジネスにも活用されている行動経済学。だが近年、有名な研究が「追試」で再現されず、問題視されている。行動経済学は本当に科学的に信頼できるのか――。行動経済学会・現会長が相次ぐ疑惑の真相に迫る川越敏司『行動経済学の死――再現性危機と経済学のゆくえ』(ハヤカワ新書)が4月23日に発売します。本記事では発売に先駆け、「はじめに」を公開します。

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はじめに──「行動経済学の死」と再現性危機

経済学に心理学的な洞察を取り入れた行動経済学は、現在、専門の研究者だけでなくビジネスの現場でも不可欠となってきている。行動経済学の知見をビジネスに取り入れる企業が増え、専門のコンサルティング会社もある。書店にはビジネスパーソン向けから専門家向けまで、「行動経済学」をタイトルに冠する書籍が多く並んでいる。

経済学は伝統的に、利己的で合理的な人間(ホモ・エコノミクス)を前提として研究されてきた。しかし、現実の人間は必ずしも利己的とは限らず、ときとして不合理な選択を行う。そのような観点から伝統的な経済学を批判し、代替的な理論を生み出してきた行動経済学は、当初は異端と考えられていた。

だが、行動経済学の生みの親であるダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を受賞し、行動経済学を応用した政策手段「ナッジ」の考案者であるリチャード・セイラーもまた2017年にノーベル経済学賞を受賞すると、次第に脚光を浴びるようになり、伝統的な経済学に受け入れられるようになってきた。実際、行動経済学に関係する論文の出版数は2000年以降、増加傾向にある*1

このように、行動経済学は研究においてもビジネスにおいても、もはや不可欠な学問と言ってもよいように思われるが、近年、その成果に対して疑問も生じている。

行動経済学は死んだ?

「行動経済学は死んだ」。そんな物騒な言葉が経済学界隈をにぎわしたのは2020年のことであった。当時、ウォルマートの行動科学研究グループのリーダーであったジェイソン・フレハが、自身のブログ記事でそのような主張を展開したのだ*2。わが国でも評論家・翻訳家の山形浩生がこの記事を取り上げたことで多くの人の目に留まることとなった。

フレハが行動経済学に投げかけた疑問は2つあった。1つ目は、「損失回避性」という行動経済学の主要な発見には再現性がないのではないか、という点だ。

損失回避性というのは、ある金額を獲得する(利益が発生する)場合の満足度と、それと同じ金額を失う(損失が発生する)場合の不満の程度を比べると、後者のほうが大きいため、人は損失を嫌う傾向があるということを意味する。例えば、宝くじやパチンコなどのギャンブルでもうけた喜びはすぐに忘れてしまうが、負けて損失を出したことへの不満はいつまでも忘れない、といった経験をしたことがある人もいるはずだ。

損失回避性は、ダニエル・カーネマンが提唱した「プロスペクト理論」の重要な構成要素の1 つである。このプロスペクト理論とは、1979年にカーネマンがエイモス・トヴェルスキーと共著で経済学のトップ・ジャーナルに発表し、行動経済学のいしずえとなった理論である。カーネマンによれば、損失回避性こそがプロスペクト理論において最も重要な概念であるということなので、それは行動経済学においても最も重要な概念の1 つだと言っていいだろう*3

これに対してフレハは、プロスペクト理論発表当時、損失回避性を実証するような経験的証拠は示されておらず、最近の研究においても損失回避性を支持する証拠が得られていないことを示す文献を紹介したうえで、損失回避性は再現されていないと結論づけている。

フレハが行動経済学に投げかけた疑問点の2つ目は、「ナッジ」の政策効果についてである。

ナッジとは「ひじで軽くこづく」という意味であるが、行動経済学においては、経済的なインセンティブ(動機付け)を変えないまま、教示の文言を工夫するといった非金銭的な手段を通じて人に気づきを与え、行動変容を導くような政策手段のことをいう。例えば、レポートの提出期限を守らない傾向がある学生に対して、「明日が締め切りです」という文言よりは、「他の人はもう提出済みです」といった文言で催促したほうが、提出をうながす可能性が高いだろう。こうした文言の変更だけでも、災害時の避難勧告などの重要な社会的・経済的状況における行動変容に成功した事例が報告されている。

ナッジは、リチャード・セイラーが法学者のキャス・サンスティーンとともに提唱した考え方である。経済学における伝統的な政策の考え方では、人々に与える金銭的インセンティブを変えて行動変容をうながすのが基本だが、セイラーとサンスティーンは、そこに行動経済学の成果を持ち込んだのである。

その1 つは、「現在バイアス」と呼ばれているものだ。先ほどのレポート提出を例に取ると、計画的に進めることが大事だとわかっていながらも、目先の楽しいイベントに夢中になってレポート作成を先送りしてしまい、提出期限間際になって何もできておらずに後悔するといった経験のある人もいるだろう。同じように、将来のために計画的に貯蓄すべきだとわかっていても、ついつい目先のことのために浪費してしまって貯蓄に失敗するというのもよくある話だろう。いずれもレポートや貯蓄のような「嫌なこと」を先送りし、遊びや浪費といった「目先の快楽」を優先した結果の悲劇である。

こうした現在バイアスにとらわれがちな人々に対して、ナッジが有効であったという事例が報告されている。イギリスなど諸外国だけでなくわが国においても、こうしたナッジの成功事例を収集整理し、その活用を支援するナッジ・ユニットが政府内に設立されている。これに対してフレハは、こうした成功例に隠れて、ナッジが効果を発揮しなかったり、あるいは効果があるにせよ微々たるものであったりした事例を対置する。実際、ナッジは介入初期には効果があるが、時間の経過とともにその効果が薄れていくという事例もしばしば報告されている。そのため、フレハはナッジの政策効果はほとんどないという結論に達したのである。

それでは、行動経済学における重要概念である損失回避性と、行動経済学に基づく主要な政策手段であるナッジ、これら2つはもはや完全に否定されてしまったのだろうか? 折しも、その著作を通じて行動経済学の普及に当たり影響力のあったダン・アリエリーの研究についてデータ捏造ねつぞうが暴露され*4、また、損失回避性以外にも、カーネマンの名著『ファスト&スロー』に記載された研究についてその再現性に疑いの目が向けられる*5 など、ここ最近、行動経済学の成果に対して疑問を投げかけるような出来事が続いている。行動経済学の主張はもはや信頼できず、学問として本当に死んでしまったのだろうか?

「再現性危機」とは?

ところで、この「行動経済学の死」にまつわる問題は、近年、心理学をはじめとした科学全般で「再現性危機」あるいは「再現性問題」と呼ばれている問題とも関係する。

再現性危機とは、2015年にOpen Science Collaborationが著名な心理学実験について追試したところ、そのおよそ4 割程度しか再現できなかったことに端を発するものである。経済学においても同様の追試が行われ、その再現率は6割程度であった。心理学よりも経済学のほうが再現性は高いものの、こうした追試をきっかけに、経済学内部でも再現性危機への対策が検討され始めた。

しかし、行動経済学の成果に対して疑問の目が向けられたのは、「行動経済学の死」や再現性危機が議論され始めたここ最近のことではない。人間の利己性・合理性を前提とする伝統的な経済学にとって、利己性や合理性を否定する行動経済学は、その誕生当時から異端として扱われてきた*6


わたし自身の30年近い研究生活を振り返ってみても、2000年以前には、行動経済学の研究に対して、「あれは心理学者がやっている研究だから」と敬遠する経済学者は少なくなかったし、行動経済学の研究者も伝統的な経済学の理論や仮説を否定することにやっきになるなど、行動経済学と伝統的な経済学は互いに対立している状況にあった*7

しかし、2000年前後に、行動経済学と伝統的な経済学、その両方の主張を両極端として含むような一般理論が相次いで誕生し、経済学のトップ・ジャーナルに掲載されるようになると、行動経済学の主張は伝統的な経済学における研究プログラムの1つとして取り入れられるようになり、行動経済学と伝統的な経済学が共存する時代を迎えるようになったのである。 

こうした背景を踏まえて、本書では、フレハの唱えた「行動経済学の死」の内容が実際にどのようなものであったかを詳細に検討し、また、経済学全般において再現性危機がどれくらい深刻なものであるかを整理したうえで、行動経済学がこれまで経済学内部でどのように取り扱われてきたのか、またどのような点で両者が対立してきたのか、そして2000年前後に相次いで登場した一般理論がどのようにして行動経済学と伝統的な経済学の共存に導いたのかを振り返る。そのうえで「行動経済学の死」をどのように受け止めるべきかを考察していきたいと思う。

なお、行動経済学の定義については様々な考え方がある。わたしが現在、会長を務める行動経済学会の学会誌『行動経済学』の投稿規定には、次のように行動経済学が定義されている。
 
「本誌では、行動経済学を広くとらえ、社会科学(経済学、経営学、ファイナンス、マーケティング、会計学、政治学、法律学、行政学など)、人文科学(心理学、行動科学、哲学、歴史学など)、自然科学(神経科学、 医学、生物学、物理学など)の分野において、経済活動の場における人間行動に関する研究一般を対象とする学問分野であると定義する*8

行動経済学は、ここに挙げられたような様々な研究領域に影響を与えるだけでなく、それらからの影響も受けている。

しかしながら、このように行動経済学を「経済活動の場における人間行動に関する研究一般」として広義に定義することに対して、より狭く定義することを好む著者もいる。例えば、室岡健志は、

「現時点で『行動経済学』という学問分野について、経済学者の間で(もっと言うと行動経済学者の間でも)複数の定義があるように見受けられる......そこで、Rabin (1998, 2002a) に基づき、本書で扱う行動経済学は頑健かつ予測可能な形で確認されている心理学的な要素の一部を、伝統的な経済理論を拡張・発展させる形で組み入れた経済学の一分野」(室岡、2023、 p.3)

としており、室岡は別の場所ではこのように定義された行動経済学を「狭義の行動経済学」と呼んでいる*9

本書でも、この室岡の定義に従って、行動経済学をあくまでも経済学の一分野という視点でとらえていくことにしたい。


*1 Geiger, N. (2017) “The rise of behavioral economics.” Social Science History, 41, 555-583.
*2 https://www.thebehavioralscientist.com/ar ticles/the-death-of-behavioral-economics
*3 「損失回避というコンセプトは、心理学から行動経済学への貢献の中でおそらくは最も重要なもの」(カーネマン、2011、邦訳、p.128)
*4 自動車保険の更新に当たって、走行距離を自己申請させる実験をした際、その申請内容について虚偽はないという宣誓を最初に記入させたほうが、後で記入させるよりも真実の申告がなされやすい、というアリエリーらが報告した「宣誓効果」について、データの捏造の疑いが掛けられた。その経緯については、例えば以下の記事に簡潔に要約されている。
「惑わされない、怪しいデータの見分け方」TDB Economic Online, 2021年9 月10 日(https://www.tdb-di.com/posts/2021/09/col2021091001.php)
*5 例えば『ファスト&スロー』(上、pp.102-103)で紹介されている、お金に関わる単語(高い、サラリーなど)を使ってお金に関する文章を作る課題をさせると、そうした課題を与えられない場合よりもその後、別の課題に忍耐強く取り組むとする「社会的プライミング」という効果は、再現性が低いと指摘され、カーネマン自身もそれを認めている(McCook, 2017)。
*6 行動経済学と伝統的な経済学の対立の様子については、リチャード・セイラー(2019、邦訳)に詳しいので、参照してほしい。
*7 川越(2007)の第5 章を参照のこと。
*8 行動経済学会学会誌「行動経済学」投稿規定(http://www.abef.jp/journal/submission-regulations/)
*9 室岡健志「経済学の中での行動経済学の位置づけ」、「行動経済学の死」を考えるシンポジウム、2021年10月23日講演資料

目次

はじめに──「行動経済学の死」と再現性危機
 行動経済学は死んだ?
 「再現性危機」とは?

第1章 行動経済学の核となる「損失回避性」への疑問
 行動経済学は死に瀕している――フレハの主張
 損失回避性を示す証拠はない――イェキアムの指摘
 喜びと不満の効用の大きさは変わらない
  ――ギャランターとプリナーの実験
 損失回避性はただの見せかけ?
  ――フィシュバーンとコーヘンバーガーの研究
 「リスクに対する態度」と効用関数の形状
 損失回避性とリスク回避性の違い
 リスク回避性のパラドックス
 現実に「リスク回避性のパラドックス」は生じるか? ①
  ――コックスらの実験
 現実に「リスク回避性のパラドックス」は生じるか? ②
  ――ハリソンらの実験
 現実に「リスク回避性のパラドックス」は生じるか? ③
  ――ブレイヒロートらの実験
 少額のくじでも損失回避性は見られない?
  ――デビッドソンらの実験
 代表的な「損失回避度の推定値=2.25」は信頼できるか?
 損失回避性についてのメタ分析――ブラウンらの研究 
 損失回避性は実は「現状維持バイアス」にすぎない
  ――ギャルとラッカーの実験
 「利益と損失の分離可能性」は成り立つか? ①
  ――ウーとマークルの実験
 「利益と損失の分離可能性」は成り立つか? ②
  ――バーンバウムとバーラの実験
 「利益と損失の分離可能性」は成り立つか? ③
  ――ポーとブデシュの実験

第2章 実社会で活用が進む「ナッジ」の有効性への疑問
 ナッジに効果はない――フレハの主張
 ナッジの定義の再検討
 ナッジが訴えるのはシステム1か、システム2か?
 ナッジの定義に関する代表的な2つの代案
 目的に応じたナッジの3分類
 いかにしてナッジによる介入は正当化されるのか? 
 ナッジには成功の裏で、失敗例も多い
 ナッジの介入効果は「1.4%増」にすぎない
  ――デラヴィーニャとリノスの研究
 深刻な「出版バイアス」の影響――メルテンスらの研究 

第3章 経済学における「再現性危機」と対策の現状
 仮説検定の手順 
 仮説検定の実例――カイ二乗検定 
 統計検定における2 つの誤り 
 再現性に対する検証の始まり 
 疑わしい研究行為(QRP) 
 再現性ポリシーとQRP 対策 
 「事前登録」「事前分析プラン」に効果はあるか?  
 QRP 対策では追試が効果的 
 学術誌による対応の現状 
 追試制度をどのように設計すべきか?  

第4章 「行動経済学の死」の真相
 「囚人のジレンマ・ゲーム」と合成の誤謬 
 市場実験での合成の誤謬 
 経済学に「心の探究」は不要である
  ――グルとペーゼンドルファーの主張 
 モンティ・ホールの問題 
 偽アノマリーを生み出すためのレシピ 
 行動経済学と伝統的な経済学をつなぐ「一般理論」の相次ぐ登場 
 利他性と不平等回避の理論 
 「最後通牒ゲーム」に見る不平等回避の理論 
 対立の時代から共存の時代へ 
 行動経済学は「反証不可能」ではない 

おわりに──行動経済学を抹消する
 行動経済学は「合理的選択」の理論 
 行動経済学はすでに一度死んでいる 

参考文献 

著者プロフィール

川越敏司(かわごえ・としじ)
公立はこだて未来大学システム情報科学部複雑系知能学科教授。行動経済学会会長。大阪市立大学大学院経済学研究科前期博士課程修了、博士(経済学)。1970年、和歌山県和歌山市生まれ。埼玉大学経済学部社会環境設計学科助手等を経て、2013年より現職。専門分野はゲーム理論・実験経済学。趣味はバロック・フルート演奏、チェス・プロブレムや漢詩の創作。著書に『行動経済学の真実』(集英社新書)、『実験経済学』(東京大学出版会)など多数。


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